廣池千九郎考

更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.9.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「廣池千九郎考」をしておく。天理教の研究の過程で、モラロジーの創始者・廣池千九郎考氏を知った。れんだいこは今のところ、氏の著作を何一つ読んでいないのだが、氏の生涯履歴に於ける天理教との邂逅と別離に興味が湧く。ネットで検索してみたところ、「千九郎の生涯と実績」で概要が分かる。とはいうものの、れんだいこの関心である「天理教との邂逅と別離の必然過程」の検証にはなっていない。そこで、本サイトで愚考しておくことにする。 気づくことは「廣池史観」はかなり重要で、れんだいこに示唆的であるということか。とりあえずこう確認しておく。「ウィキペディア廣池千九郎」、「廣池千九郎天理教本島支教会 - モラロジー研究所」その他参照。

 2007.12.28日 れんだいこ拝


【廣池千九郎(ひろいけ ちくろう、1866.3.29-1938.6.4)の履歴】
 大分県中津市出身。慶應義塾の関連校である中津藩の中津市学校に学び、歴史学者として数々の論文・書物を著し、その後、法学を学んで早稲田大学講師、伊勢の神宮皇學館教授などを歴任する。また、当時の国家的事業である「古事類苑」(日本の古事に関する大百科事典)の編纂に携わるとともに、「東洋法制史序論」について研究し、独学で、1912(大正元).12.10日、東京帝国大学より法学博士号を取得し、日本で135人目の法学博士となる。 「末は博士か大臣か」と言われていた時代、一世一代の輝かしい栄誉を得た。その後、道徳の科学的研究を深め、1928(昭和3)年、人類普遍の道徳原理を世に問う「道徳科学の論文」を著し、「モラロジー(道徳科学)」を提唱する。この頃から「三法よし」の教えを説く。歴史家、法学者、哲学者、教育者、慈善家にしてモラロジーの提唱者となり、現在のモラロジー研究所の前身となる道徳科学研究所の創設者として知られる。1935(昭和10)年、モラロジーに基づく社会教育と学校教育を行う道徳科学専攻塾(現在の公益財団法人モラロジー研究所、学校法人廣池学園)を千葉県柏市に設置した。 生涯に渡って様々な号を使っている。「鵬南」、「扇城」、「西海」、「蘇哲」、「幹堂」など。なお、幹堂は麗澤大学第3代学長・モラロジー研究所所長を務める四代目の本名となっている。
 1866(慶応2).3.29日、豊前国下毛郡鶴居村(現在の大分県中津市大字永添)で廣池半六・りえ夫妻の長男として生まれた。
 1875(明治8)年、永添小学校に入学。
 1879(明治12)年、今日の中学校課程に当たる慶應義塾の姉妹校・中津市学校に編入学する。
 1880(明治13)年、14歳のとき、卒業。同年7月、永添小学校の助教(補助教員)となる。
 1883(明治16).7月、永添小学校を辞職し、大分県師範学校の入学試験を受けたが不合格となり、麗澤館という私塾に入る。麗澤館では、生涯の師の一人、小川含章と出会う。(千九郎は後年、この出会いが源となって、新科学道徳科学が成立するに至ったと述べている。)麗澤館で勉学に励み、再度、師範学校を受験したが失敗。師範学校に入学することをあきらめて「応請試業」(入学しないで学力認定試験によって卒業資格を得る試験)に臨み合格、教師(訓導)の資格を得る。
 1885(明治18)年、19歳のとき、下毛郡の形田小学校教師となる。千九郎が目指したのは、偉大なる教育者ペスタロッチだった。しかも、歴史学に興味を持ち、自らも学ぶことを続けた。
 1886(明治19)年、下毛郡樋田村の児童の半分程度しか登校してこなかったため夜間学校を設立。「遠郷僻地夜間学校教育法」(稿本)を著す。
 1887(明治20)年、万田小学校に赴任する。下毛郡が養蚕業を主な産業としながら、その蚕種の製法があまりに粗製乱造であるのを見かねて、蚕業に関する内外の文献を研究し「蚕業新説製種要論」を著し、村民の指導にもあたる。
 1888(明治21)年、中津高等小学校に赴任。ここでも、現在の技術家庭科にあたる手工科を設けたり、寄宿舎を設置するなど、さまざまな工夫を凝らし教育の改善を図る。道徳(修身科)の教科書「新編小学修身用書」全3巻を編集刊行。
 1889(明治22)年、23歳のとき、歴史に関する最初の著述「小学歴史歌」を発行する。7.21日、春子と結婚(18歳)。大洪水や大火での災害救援活動に取り組む。
 1891(明治24)年、「大分県共立教育会」の中に日本最初の教員互助会を設立するなど、地域の教育改善に取り組む。
 1892(明治25)年、「中津歴史」を発行。
 1893(明治26)年、名声高まり歴史家へ転身する。京都へ向かい、月刊誌「史学普及雑誌」を発行する。「日本史学新説」など多くの著述をものにする。
 1894(明治27)年、富岡鉄斎と出会う。史実に基づく皇室研究による「皇室野史」を発行。歴史から法制史研究へ向かう。同年2月、長男千英(ちぶさ)が生まれる。この頃、文人画家の富岡鉄斎と出会い、大きな影響を受ける。古本屋の店頭に置いてあった穂積陳重の論文を読み、「東洋法制史」の研究が未開拓であることを知り、和漢の法律の比較研究を開始する。
 1895(明治28)年、京都市参事会の委嘱で「平安通志」の編纂や古文書の整理を依頼され全体の約3分の1の編纂にあたる。その他、「京華要誌」上下全2冊の編纂、醍醐寺三宝院の寺誌編纂や比叡山延暦寺の古文書の整理などにもたずさわる。国学者井上頼国との初面談で「古事類苑」の編纂事業参加の要請があり東京へ上京することとなる。
 1896(明治29)年、観光案内ガイド「京都案内記」の発行。「史学普及雑誌」を廃刊し、東京へ向かう。上京して、 神宮司庁から国を挙げての「古事類苑」の編修員を嘱託され、編纂に携わり全巻数の4分の1以上を担当する。古事類苑編纂当時の千九郎の読書量について当時の新聞にも紹介され、東京帝国図書館の蔵書をほとんど閲覧したので「図書館博士」と云われたとか、「上野の図書館の書物をほとんど閲覧した人がいる。それは廣池千九郎大人という人だ」(万朝報)と報じられたこともある。
 1899(明治32)年、本郷春木町に大火が発生した際、数千人の罹災者のために、千九郎夫妻は、朝から午後まで約10回もご飯を炊き、おにぎりを作り配った。その援助活動は新聞にも報道され、市からも被災者救助の功で表彰された。
 1900(明治33)年、1902(明治35)年にかけて、「高等女学読本」、「女流文学叢書」、「高等女学読本参考書」を編集。9.9日(陰暦八月十六日)夜九時頃、本席おさしづ刻限話「数無い偉い者出て来る」予言。
 「あの者偉い者、偉い者が捜して来る。尋ねに来る。捜して来る者より、もう一つ偉い者でなくば、捜して来ん。元は捉まえどこ無いような者、なれど、一言説いたら、百巻の書物に出来る。日本に数無い偉い者出て来る、捜して来るとも分からん。これだけ説いたら分かるやろう。子供何言うやら。他所に移した花を見て、あの根貰うて作りたいと言うは、親に子供が無理言うてるも同じ事。とんだ話、難しいと言えば、どれだけ難しいとも分からん中に、どうなりてもという、真実欲しい」。
 1903(明治36)年、早稲田大学講師になり、日本で最初の「東洋法制史」と「支那文典」の講義を担当する。
 1904(明治37)年、この頃から法学者穂積陳重に師事する。
 1905(明治38)年、専任の講師に昇格。画期的な文法書「支那文典」を発行。続いて「東洋法制史序論」を発行し、「東洋法制史」という新しい学問領域の確立する。「倭漢比較律疏」や「大唐六典」の研究にも着手する。その他、大宝令 の独訳や「歴代御伝」と名付けた歴代天皇の伝記や皇室制度の編纂、国史大系、群書類従などの校訂などを行っている。
 1906(明治39)年、文法に関する画期的な研究「日本文法てにをはの研究」を発行する。その内容は、驚くほどの革新性に満ちていた。
 1907(明治40)年、伊勢の神宮皇學館教授となり古代法制、東洋家族制度、東洋法制史、国史、歴史研究法、神道史、宗教史などの講義を担当する。永年のテーマであった国体の研究が実を結び始める。本席出直し。
 「講義ではお説教か漫談が多かった。(中略)ある時など、先生は試験の監督のため教室へ来られたのですが、セッセと青息吐息、答案を書いている学生を前に、先生お独り元気な声で何かしゃべられるので、「先生、少し黙っててください。答案が書けませんよ」と学生から叱られ、ドッと吹き出した記憶さえあります」(神宮皇學館教授時代の教え子回想より)。
 1908(明治41)年、「伊勢神宮」を発行し、日本皇室の万世一系を称える。東洋法制史研究のための学術調査のため、約40日間中国に旅行し、帰国後、恩師の穂積陳重らのすすめにより学位論文の執筆に精根を傾ける。
 同年10月頃、神道史を講義する責任上、「教派神道十三派」について研究する必要を感じた千九郎は、実際の教化の方法や信徒の活動の様子などの調査研究を始める。この頃、長年の苦労が健康を徐々にむしばんでいた。千九郎は併行して天理教研究始める。
 1909(明治42).3月、学術調査のため天理教本部を訪れる。10月、天理教に入信する。宗教の持つ実践性が人間を変革する様子に感動した。同時に、天理教教理に触れ得心した。
 1910(明治43)年、「支那古代親族法の研究」を主論文とし「支那喪服制度の研究」と「韓国親族法親等制度の研究」の二部を副論文として東京帝国大学へ提出する。その後、論文は審査会を満場一致で通過。この年、辞職。
 この年、天理教勢山支教会矢納幸吉を日記の中で「我を育てた勢山会長」と記す。天理教の中山真之亮管長に面会、教理結集の仕事を依頼される。面会時、管長は非常に喜び、「教祖が、今に世界に二人とないえらいものを神が引き寄せると言うておられたことを聞いておるが、貴君がその人であったかもしれない」と語ったという。天理教本部から三教会同に関する講演の依頼を受けて、以後全国各地で講演活動を展開する。
 この講演を契機に当時各地で起きていた労働問題解決にも尽力し始める。三重紡績会社(現東洋紡績津工場)をはじめ富士瓦斯紡績会社、三越呉服店(三越百貨店)、内外通運(現日本通運)等で労働者に対して講演を行う。一方、実業家、政治家、軍人等が中心となって結成された「帰一協会」、「日本海員掖済会」、「日本工業倶楽部」でもたびたび講演する。参加者には山県有朋東郷平八郎松方正義大隈重信渋沢栄一西田幾多郎森鴎外といった著名人の名前もある。
 1912(大正元).9.20日頃、風邪を引き、病状が次第に悪化し、12.6日、最悪の状態に陥る(「大正元年の大患」)。この時、廣池千九郎は「天理教に道具として引き寄せられたと自覚していた」と思われる。物質的な治療は尽きるところ死を待つのみと悟り、「神に二十年の延命祈願」をする。次のように「心定め」している。
 「ここにおいて同夜、私は神様に向かって、改めて祈願をしたのであります。その祈願の主旨は、『今日の大患にては、とうてい生命のあるあるはずなけれど、もし神様が私に生命を貸してくださるならば、人心救済に関する世界諸聖人の真の教訓に基づくところの前人未踏の真理を書き残しておきましょう。もしまた、さらにこれより永き生命をお貸しくだされますならば、当年(明治45年)1月4日にお地場にて誓いしごとくに、私の学問、名誉及び社会の地位全部を神様に献納し、生きたるままに神前の犠牲となって人心救済をさしていただき、全人類の安心、幸福及び人類社会永遠の平和の実現に努力さしていただきましょう」。

 12.27日、天理教初代管長中山真之亮が、幹事松村吉太郎を勢山支教会に派遣し、広池に天理教本部入りを要請し、広池が受け入れている。病状回復へ向かう。12.10日、東京大学より法学博士の学位を授与され、日本で第135番目の法学博士号を取得する。これにより学者としての地位を不動なものにする。その後、廣池の研究は法制史の枠を超え、究極のテーマである国体つまり日本のアイデンティティの研究へと傾倒してゆく。
 1913(大正2)年1月、古神道と現代神道(教派神道)を比較研究し、天理教教理の体系的研究を進めていた千九郎が、天理教本部から教育顧問ならびに天理中学校の校長として招聘される。千九郎には早稲田大学や慶応義塾などから招聘の話がきていたが、それらのすべてを断り、この要請に応じ天理教教育顧問、天理中学校校長に就任する(1915年まで)。千九郎は、教祖の孫に当る天理教の管長・中山真之亮と同年齢で、面会するたびに、管長の慈愛あふれる人柄に感銘を受け、尊敬の念を抱いてきた。管長も同様に千九郎の卓越した学識、真摯な求道の姿に関心を寄せていた。二人は胸襟を開いて語り合う間柄となり、信頼関係を深めた結果であった。 
 天理中学校の校長となった千九郎は、「教育の要は慈悲寛大の精神にある。人生の目的は徳性の涵養であり、身体の健康と才学はあくまでもその目的を達する手段に過ぎない。但し、徳を修め、健全な身体を持っていても、学力や才知がないと、道徳を活用して天職を十分に全うできない」(「伝記/廣池千九郎」、モラロジー研究所刊)の信念を持って教職員と学生に愛情を注いで行った。
 1914(大正3).12.31日、千九郎の最良の理解者であった管長にして初代真柱の中山新治郎が急逝出直し(享年49歳)。千九郎が教内での後ろ盾を失う。
 1915(大正4).1.12日、千九郎は、管長の追悼講演会で、故管長と共に作り上げようとしてきた天理教会改革プランの一端を次のように明らかにした。
 「私は『明治教典』を不完全だと思っております。大和舞もありがたく思わず、祭式も祝詞も、将来は全面的に改めていかなければならないと思います。また、教導職も今の御道に添うものではなく、お助けには不用のものと思います。(中略)今日までを振り返ると、真の教理の研究が十分でありません。もう少し深く教祖のお心や行いをご研究いただきたいと存じます」。

 これが、応法派の反発を招き予測しなかった方向へと発展する。このとき千九郎は、問題の原因は、すべて自分の不徳によるものであると深く反省し、教育顧問と校長を辞任することになる。

 この年、学位論文をまとめて「
東洋法制史本論」を発刊する。大阪毎日新聞、東京朝日新聞、読売新聞、大阪朝日新聞、報知新聞、万朝報など多くの新聞、雑誌が書評を出す。続いて「伊勢神宮と我国体」を発刊する。

 この頃の「広池千九郎日記」は次のように記している。
11.28日、「一切の研究、みな人を助くるためにするものなり」。
12.24日、「御道の心をもってやること、研究中にその心を入れること、結果は人類に貢献のこと。世界の人類に法の目的と将来の方針とを示し、天理教の精神を普及す」。
 1916(大正5)年、元旦の「広池千九郎日記」は次のように記している。
 「いかなることあるも部下の人々に相談して、この道を離るることなし。而してその間に、一方には道を聞き、一方には専門学を進めて、必ず必ず大成の域に達するを期す」。

 実業家、政治家などに対する重大な警告として「
日本憲法淵源諭」等を再刊する。4.4日、千九郎が天理中学校長、天理教教育顧問を辞任する。4.12日時事新報の 廣池千九郎談は次の通り。
 「天理教本部とは全く関係を絶ちたるに非ずして全く大正元年中猛烈なる神経衰弱に罹り危篤に陥りし際同教を信じて回復せるより報恩の意を以て同校々長に就職せし者なれば自己の善意的施設がよし容れられずとするも飽く迄信者として志を絶つまじく別に同校本部の人々と意志の扞格せるものあるに非ざれば勿論直接間接の関係は今後も継続せらるべしとなり」。

 この頃より全国へ出かけての講演旅行を本格化する。  

 6.6日の「広池千九郎日記」は次のように記している。
 「懺悔」として、「全く心を立て替えて、御道一筋の研究と、御道一筋のつとめさして頂くこと」、「法制史その他学文的研究は三年中止」。
 1916(大正5)年、 労資の思想善導に取り組み、労資協調の祖と云われる。井出くにむほん。教祖三十年祭。
 1917(大正6)年、2.15日、浅草蔵前東京工業高校講堂で、「工場主の利益の保護と職工の幸福獲得の方法について」と題する講演を行っている。

 この年、「
日本憲法淵源論」を刊行。新思想の提言を行い、 「知」を超えた平和論を打ち出す。「助け一條乃御話」 起稿。
 1918(大正7)年、2.5日、大阪府南区教育会で、「国体論」と題した講演を行い次のように述べている。
 「(八)道徳に令するものは、何故に科学的なるか、今日まではこのことを説明するの機会なかりしなり。然るに近時、人類学、社会学、並びに法制史、政治学等の発達に伴い、人類の文化は道徳にあることを発見せり。(九)ここに於いてか、倫理学のほか新たに道徳科学の現出を促すこととなるに至り、前期諸科学の暗示基礎として、予は数年前より之が研究に従事せり」。

 「富豪、資本家、会社・商店の経営者、重役、高級職員各位並に官憲に稟告」を発行する等、労働問題の重要性を指摘し、道徳的解決に取り組む。同時に国際紛争の解決に向けても尽力する。全国へ出かけての講演旅行を本格化する。「帰一協会」を結成し、日本の思想界を統一する。「斯道会」を結成し、国民道徳を推進する。これらの研究、運動が基礎となり、後年「道徳科学の論文」の発表へとつながっていくことになる。

 12.17日、神戸商工会議所で行った講演で次のように述べている。
 「最近科学を綜合してこの新科学を樹立せんとして居るのであります。私は学者として敢えて出来上がったとは申しませぬが、とにかく私の立場としてはモーラルサイエンスの曙光を認め得たと言い得るのであります」。
 1919(大正8)年、1924(大正13)年までの5年数ヶ月の間、瀬戸内海にある天理教本島支教会会長/片山好造氏の招請により、原則的に年2回同地を定期的に訪れ、滞在し、「モラルサイエンス」の研究に取り組んでいる。高野友治氏の「伝道者」は次のように記している。
 「広池博士が病気のため天理中学校を辞めて、今、高松に来ている聞き、早速人を遣わして教師教育の講師の件を願ったのだった。最初、広池博士は頑として聞き入れなかったが、再三の依頼により本島に来たのだった」。
 1920(大正9)年、華族会館で講演し、上層階級を教化する。政・官界要人へ働きかける。モラル・サイエンスの研究を本格化し、資金援助を募る。
 1922(大正11)年、「モラロジー研究所及びモラロジー・アカデミーの性質ならびに組織」を著す。11.10日、天理教の「助け一條の御話」頒布。 
 1924(大正12)年、全国の温泉地を巡り治療をしながらの執筆。経営指導で「三方よしの経営」を唱える。この年、 モラロジー研究所の設立を構想する。

 その後国民道徳運動の活動に没頭し、道徳科学(モラル・サイエンス)を研究。その研究成果や各地で公演した内容をまとめて、1926(昭和元)年、日本および世界の普遍的な道徳原理の必要性を世に問う「道徳科学の論文」を上梓。自らの道徳科学をモラロジーと名づけ、道徳科学研究所を拠点に著述・講演活動を行った。当時の英字新聞ジャパン・タイムズにも掲載された。
 1926(大正15).8.17日、「道徳科学の論文」の原稿が完成する。
 1927(昭和2)年、プロ・デューティ・ソサイティの設立。 学術用語「モラロジー」の誕生。
 1928(昭和3)年、「道徳科学の論文」を出版。序文を新渡戸稲造白鳥倉吉阪谷芳郎が提供している。最高道徳という価値観を生む。刊行後の研究課題として限りなく広く多様な構想を持つ。
 1929(昭和4)年、1月、二代真柱にお願いして、天理教籍を離れ、廣池個人として道徳科学を世界に普及することになった。社会教育のためのテキストとして「孝道の科学的研究」と「新科学モラロジー及び最高道徳の特質」を出版する。
 1930(昭和5)年、財界、産業界、軍部などで平和のための講演を行う。昭和初期から始まる軍部の中国大陸進出に際しては、政府、軍部の要人に対して積極的に働きかけ、軍事的な行動を諌め、提言を行っている。
 1931(昭和6)年、道徳科学研究所(モラロジー研究所) を設立。大阪毎日新聞社主催の講演会開催。この時、新渡戸稲造が、廣池の紹介講演を行い、「廣池先生の研究の世界的意義」と題して、概要「廣池先生こそ西洋の思想界が待ち望んでいる東方の光の一つである」と紹介した。この頃より首相や軍の指導者など要人への働きかけを強める。
 1932(昭和7)年、若槻礼次郎前首相や鈴木貫太郎侍従長、大迫尚道大将、斎藤実首相らに書簡や面談などを通して戦争回避を提言する書簡を提出。国際紛争の道徳的解決のため積極的に働きかけた。第一回モラロジー講習会を開催する。
 1933(昭和8)年、 斎藤実首相への進言。1934(昭和9)年、支援の輪が広がり、東葛飾に約十万坪の土地を取得する。
 1935(昭和10)年、モラロジーに基づく教育機関として道徳科学専攻塾を千葉県東葛飾郡小金町(現在の千葉県柏市)に開校、これは今日の学校法人廣池学園に至っている。男女共学・全寮制・生涯学習、つめ込みなし、試験なしを教育の特色とした。5.3日、孔子と顔回の子孫が来塾。11月、前首相斎藤実が来塾する。その他ハーバード大学教授など国家要人が来塾。モラロジー経済学のレコード吹き込み。
 1936(昭和11).7月、元首相若槻礼次郎が来塾する。
 1937(昭和12).4月、賀陽宮恒憲王が台臨。8月、ハーバード大学教授デ・ハース博士が来塾する。温泉付き社会教育施設として群馬県利根郡水上村(現・みなかみ町)の谷川温泉を購入した。次のように述べている。
 「人間には、精神の病と経済の病と肉体の病の3つがあり、人間はたいていそのどれかで困っているので、この3つの病を治す方法がわかったら安心がある。精神の病と経済の病はモラロジーができたので助けてあげることができるが、人類を真の安心と幸福に導くためには、肉体の病も救われなければならない」。
 
 昭和12年の開設後、次第に宿泊施設や講堂を整備し、廣池の考案した独特な浴場で身体を癒しながら、社会に必要とされる人材育成のための研修を行っている。敷地内には、廣池千九郎谷川記念館と谷川麗澤館(廣池が晩年に住居した建物)が建てられている。
 1938(昭和13).6.4日、群馬県水上町の大穴温泉(群馬県利根郡水上村)で逝去(享年72歳)。 辞世の句「とこしべのたましいひ」。この地に大穴記念館があり、廣池の業績と事跡を紹介している。畑毛温泉・富岳荘。賀陽宮殿下の台臨と御前講義。

【廣池千九郎の天理教入信考】

Re:れんだいこのカンテラ時評358 れんだいこ 2007/12/28
 【廣池千九郎考】

 れんだいこは、木下尚江に続いて廣池千九郎に興味を覚えたので記しておく(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/omithisonogoden/senkuroco.htm)

 興味深いことは次のことである。後にモラロジーの創始者として知られる千九郎は、いわば在野系の博学者であったが、数々の論考が認められて1903(明治35)年、早稲田大学講師。1906(明治39)年、伊勢の神宮皇學館教授を歴任。「神道史」、「宗教史」、「東洋法制史」などの講義を担当する。いわば功なり名を遂げたその身で、1909(明治42)年、学術調査のため天理教本部を訪れ、翌年入信している。

 天理教教育顧問・天理中学校校長を務めるかたわら、天理教本部から三教会同に関する講演の依頼を受けて、以後全国各地で講演活動を展開する。1912(大正元)年、東京大学より法学博士の学位を授与される。これにより学者としての地位を不動なものにする。その後、廣池の研究は法制史の枠を超え、究極のテーマである国体つまり日本のアイデンティティの研究へと傾倒してゆく。

 千九郎は天理教の初代真柱の知遇を得、いわばスポークスマンのような活躍をしていたが、真柱没後、本部との折り合いが悪くなり天理教と決別している。その後、1915(大正3)年、「東洋法制史本論」、「伊勢神宮と我国体」を発刊。1916(大正4)年、「日本憲法淵源諭」等を出版する。これらの研究が基礎となり、後年「道徳科学の論文」の発表へとつながっていくことになる。

 千九郎は、労資の思想善導に取り組み、労資協調の祖と云われる。経営指導で「三方よしの経営」を唱える。これが後にモラロジー研究所設立構想へと至ることになる。

 その後の評価は別として、れんだいこは、千九郎氏の履歴に興味を持つ。彼ほどに日本学を造詣せしめた者が何ゆえに天理教に入信したのだろうか。その時の動機は、初代真柱との親交のみではなく、天理教教義の奥深さに傾倒したゆえにであったのではなかろうか。ズバリで云えば、教祖中山みきが開陳した「元始まりの理話し」(「泥海こふき」とも呼ばれる)に被れたのではなかろうか。

 れんだいこは今、この「元始まりの理話し」にぞっこん惚れ直そうとしている。現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義がイデオロギーとしているユダヤ-キリスト教聖書の天地創造譚、戦前の皇国史観に基く記紀神話譚に抗すべきもう一つの神話がここにあり、その完成度、思想の良質性は群を抜いているのではなかろうか。そう思い始めたからである。

 今日、何も分かっていない手合いが宗教の意義と価値を貶め、くだらない政治しかしていないのに政治優位論を掲げ、科学的という冠詞を付けただけで科学的になったと勝手に了解する程度の貧困な頭脳で、独特の教義を掲げているのに、それを思想と呼ぶ。この手合いに対して、中山みき思想とその重層的弁証法的理論構造を学ぶよう説いてみたい。

 千九郎の「三方よしの経営理論」の中身がわからないが、恐らく、階級闘争史観のアンチテーゼとして打ち出したものではないかと思われる。れんだいこは、千九郎の恐らく穏和主義的な「三方よしの経営理論」ではなく、中山みき的な「谷底せりあげ救済、高山後回し的世直し、世の立て替え」理論に基く急進主義的な「三方よしの経営理論」を唱えてみたい衝動がある。

 そういうなんやかやで、先駆者千九郎の意義と価値をも見直したい。思えば、幕末維新以来の日本のインテリゲンチュアは、学べば学ぶほどネオ・シオニズム学で染められ、却って馬鹿になるだけの官学界からは出てこず、いわば異端の在野の中からのみ生まれてくるのは不思議でもなんでもないのかも知れない。そういう気づきを与えてくれる点でも千九郎の意義は高い。

 2007.12.28日 れんだいこ拝

 2017.9.29日、「廣池千九郎(モラロジー) と 天理教の関係1」。
 「助け一條の御話」の緒言
 一、本書は一読だけではわかりませんどんな偉いお方でも三度以上御覧願います。五度、十度御覧下さって始めて味が出てきます。御病人の御方は毎日毎日御覧ください、この記事が分かって心に体得ができたらば助かります。
 二、本書は私のお助けをして頂いた真の御道の御話であり、又私の年来各地の教会や私宅でいろいろな病人に向かって御話をさせて頂いて、沢山の大病や難病を助けさせて頂いた生きたる天理教の所謂(いわゆる生命のある御話です。そこで今回多数の教師信徒の御方々より、特に御希望になりましたから之(これ)を印刷に附してその有志の御方々の間に分けて取って下さる様に承諾致しました。云々《中略》

  追記
 本書は世界人心救済の教理になるが故に慎重に慎重を重ね昨年脱稿以来更に再三再四訂正を加えて摂行者山沢先生の御校閲を請い奉り且つ松村幹事諸井御本部員等の御校閲をも受け其の外御道の御経験のある御方々のの御批評をも仰ぎ遂に今回上梓する事となったのであります。
 大正七年七月 千九郎 記

 一、右の如くなりしも出版せず尚訂正を待つ事とせり
 一、然るに大正十一年十月稲葉松江分教会長殿の請いにより其部下に謄写版にて頒つ事を承諾せり。此の他にいろいろ本書を謄写版にせるものあれど誤謬甚だ多く世を誤る事少なからず今回のものを正本とす。但しこれも多少の誤脱は免れざるべし。
 大正十一年十月大祭後 千九郎 記
画像

 『助け一條乃御話』の中で次のように語っている。 
画像
 赤枠
 天理教の天啓によれば前生の因縁次第では神様が特に身体に障りをつけて之をお道の道具に使ふのであります・・・私の如きも矢張りそれで・・・大正元年の大病・・・御授けを頂き茲に再生復活・・・。

【廣池家系図】
 廣池千九郎の長男・廣池千英(ひろいけ ちぶさ)

 明治26年2月25日、廣池千九郎の長男として京都に生まれる。大正6年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。富士瓦斯紡績株式会社、財団法人協調会参事を経て、財団法人道徳科学研究所所長、学校法人廣池学園理事長、麗澤大学学長、麗澤高等学校校長、麗澤瑞浪高等学校校長等を歴任。昭和40年11月から翌年10月まで社会教育審議会委員を務める。藍綬褒章(昭和36年5月)、勲二等瑞宝章(昭和41年4月)を受章。昭和43年8月18日逝去。著書に『道を悟る』『悠久なる人生』『父の人間像』『廣池千英選集(全5巻)』などがある。

 廣池千英の長男・廣池千太郎(ひろいけ せんたろう)

 https://www.reitaku-u.ac.jp/about/president.html
 大正11年8月14日、廣池千英の長男として東京に生まれる。道徳科学専攻塾本科(第6期)、東亜専門学校南洋科等に学んだ後、昭和19年に九州帝国大学法文学部文科哲学科に入学、23年に同大学同学部同学科(教育学専攻)卒業。28年、東京大学大学院文学部教育学科修了。麗澤短期大学助教授、道徳科学研究所次長、同研究部長、麗澤大学助教授、廣池学園理事等を経て、昭和43年9月より財団法人道徳科学研究所(昭和47年11月、財団法人モラロジー研究所に改称)所長、学校法人廣池学園理事長、麗澤大学学長、麗澤高等学校校長、麗澤瑞浪高等学校校長、財団法人麗澤海外開発協会会長等を歴任。昭和26年から35年まで日本教育社会学会幹事。昭和62年、教育功労者として藍綬褒章受章。平成元年1月21日逝去。同日付けで勲二等瑞宝章を授与、従四位に叙せられる。著書に『いまでも日本は鎖国である』『1970年代への提言―人づくり、国づくりのために―』『日本の再建と教育改革(共著)』『廣池千太郎選集(全5巻)』などがある。

 廣池千太郎の長男・廣池幹堂(ひろいけ もとたか)

 https://www.reitaku-u.ac.jp/about/president.html
 昭和25年4月5日、廣池千太郎の長男として東京に生まれる。麗澤高等学校卒業後、東北大学に入学、昭和49年、同大学教育学部教育学科卒業。その後、財団法人モラロジー研究所研究部研究員、麗澤大学ワシントン事務所代表等を歴任し、平成元年に財団法人モラロジー研究所所長(平成3年1月、文部大臣認可により理事長に呼称変更)、学校法人廣池学園理事長、麗澤大学学長、麗澤高等学校校長、麗澤瑞浪中学・高等学校校長、財団法人麗澤海外開発協会会長に就任。現在、公益財団法人モラロジー研究所理事長、学校法人廣池学園理事長、一般財団法人麗澤海外開発協会会長。平成6年9月、ブラジル・サンパウロ州知事よりバンデイランテス勲章を、平成26年、藍綬褒章を授与される。著書に『21世紀をどう生きるか』『世界に誇る日本人―21世紀に伝えたい日本の心』(いずれも対談集:モラロジー研究所刊)『玲瓏のこころ』(モラロジー研究所刊)『人生の名言・歴史の金言ー現代人の心に効く55の言葉』(育鵬社)『「三方よし」の人間学 廣池千九郎の教え105選』(編著、PHP研究所)『「三方よし」の経営学 廣池千九郎の教え99選』(編著、PHP研究所)等がある。





(私論.私見)

 
桜井良樹の論文「大正時代末期の天理教団と広池千九郎」は教祖40年祭前後の天理教団(本部)の様子を理解する上で貴重な資料だと思います。

参考資料   ①「大正時代中期の天理教団と広池千九郎」

        「明治末期の社会・天理教・広池千九郎」

        ③「天理教の大正デモクラシー」(金子 明)