第90部 1918 大正7 「ナライト事件」

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.3.4日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


1918(大正7)年

【北大教会初代会長の茨木基敬父子が正式に免職処分される】
 2.15日(1.16日?)、北大教会初代会長の茨木基敬が、長男の基忠と共に正式に免職される。この日をもって絶縁処分となった。この処分を下したのは、当時の最高実力者であった高安大教会初代会長の松村吉太郎。明治30年に発生した飯田岩次郎免職事件(いわゆる水屋敷事件)が尾を引いていた。天理教機関誌「道の友」大正7年2月号の松村吉太郎の「茨木父子免職の顛末」によれば、茨木基敬の天啓を封じ込める為に本部が休職を命じたのが大正6年。その際、北大教会教会長を継いでいた基敬の息子の基忠と同教会役員一同が自発的に「今後、基敬の天啓を信じない」とする詫び状を本部に提出している。但し、基敬の天啓が続き、基忠らがこれに従った為、「詫び状を無視し、引き続き天啓の降下を一層盛んに宣伝するをもって本部としても取締り上捨ておくべからざる場合に立ち至った」としている。大正6.12.5日、松村とその配下の者が北大教会信徒詰所内の茨木基敬宅へ出向き、暫くの談じあいをしている。その後、松村、梅谷、諸井が出向き、茨木父子と面会、談じあいしたが平行線をたどった。その後、茨木父子の免職処分が決定された。北大教会の後任には山中彦七が就任することになった。

 本件につき、次のように解説されている。
 「現体制を乱すとして基敬を追放した松村吉太郎は中山家と姻戚にあり、基敬を2代目本席にすれば中山家が弱体化すると恐れ茨木父子を免職したとある。 既に中山教化しているのが見て取れる。 基敬と絶縁した北大教会配下の教会が本部直轄になったのは組織の妙だ…」。
 天理教本部員・茨木基敬が天啓を取り次ぎ始め、本部は彼を一方的に罷免し放逐した。茨木基敬が本部を去った翌日、ナライトの病気が革っている。

【ナライト押し込め事件】
 1918(大正7).3月、ナライト様が身上お障りで「おさづけ」不能に陥る。「おさづけ」のストップで天理教本部は組織運営上、支障を来しはじめた。度々本部員会議が開かれ、平癒のお願いもされが、お運びに出ていただけない状態が続く。この間、さづけの理を待ち望む者が多数となり、その上、別科(修養科の前身)の生徒の卒業を目前にしていた。

 7.11日、本部員会議を招集し、初代真柱夫人たまえ(中山秀司と松枝の一子で、真柱中山真之亮の妻)がナライトの後を継ぐことが決定された。この時の「おさづけの継承」こそ「おさしづ」時代の終焉を象徴する出来事であった。この変更は、それまでのように「おさしづ」に基づくものではなく、「本部員会議」によった。中山たまヘは、みきによれば人間の創造に関わる深い魂の「いんねん(因縁)」の人とされるが、いわゆる天啓者ではなく、彼女が渡す「さづけ」も儀礼的なものにすぎなかった。ナライトはその死まで二度とさづけを渡すことはなかった。これにより、本部におけるナライトの公的な役割は終わった。中山みき⇒飯降伊蔵⇒上田ナライトと続いてきた天理教の霊統は大正七年の段階で途切れた。これにより天啓制が否定され、本部員会議の決定事項こそ「ぢばの声」となった。ここに中山家制天理教が完成したことになる。以後、ナライトの霊統問題に正面切って触れることは本部では事実上タブー視されるようになった。

【ナライト押し込め事件考】
 「ナライト押し込め事件」につき、芹沢光治良著「死の扉の前で」(新潮社、昭和53年)(P75〜76)は次のように記している。
 「天理時報の『教祖様』の執筆にあたり、その資料収集を紙面で依頼したところ、××大教会長から電話があり、賀川という人物を紹介される。賀川氏は東北大学で阿部次郎先生に私淑した35−36歳の青年である。この賀川氏の話として「上田ナライト」に関する話が以下のようにある」。
 「教祖様が昇天してから、飯降伊蔵先生が本席として、約二十年間、神のおさしずを取次ぎましたね。その間、初代真柱様は行政の柱として、本席は信仰の柱として、天理教を支えたが、信者は言うまでもなく先生方も、神の取次ぎ者であり信仰の柱である本席に、自然に心を寄せがちでした。教祖の孫であり、相続者である初代真柱様夫妻は、そのことがご不満であったが、教祖の定められたことですから、どうにもできなかったのでしょう。

 本席が亡くなると、また神のおさしずに従って、上田ナライトさんが「おさづけおはこび」をなさることに決まっていました。「おさづけおはこび」は、また、信仰上の中心行事であるから、信者はナライト様を本席に代わった信仰の柱と仰いだのです。それはまた、初代真柱様夫妻は喜べなくて、若様こそ行政の柱と信仰の柱とを兼ねた強い真の真柱に育てようとしたのです。

 初代真柱様が大正三年に四十九歳の若さで亡くなられると、十歳の若様が管長になったが、ご母堂様は、後見人の山沢や松村という大先生方の力を借りて、少年真柱を絶対権力をもつ真柱に成長させようと懸命でした。その手始めに、大正七年にはナライト様が狂気だとして、御母堂様が自ら「おさづけおはこび」をなさるようにしました。これで、行政の柱と信仰の柱とを、中山家の掌中におさめて、現真柱様にゆだねたという、歴史があるのです。

 大変孝心の厚い真柱様は、ご両親の口惜しさや願望をじっくり胸におさめていると思います。それ故、天理教の専制君主のような独裁者になったが、敗戦前は天理教自身が政府や軍部から弾圧を受けて、真柱様も絶対権力を振るえないで、自制していたのでしょうが、敗戦後は、信仰の自由が保証されたので、復元という美しい名目で、大っぴらに自己の復権をはかっているのです。行政面では、しきりに教規を創って、教庁機構を変え、中央集権をはかっています。信仰面では明治経典にかえて新教典を創り、正式の教祖伝を編集して、天理教の絶対権を中山家のものにしようと励んでいます。その点、真柱様は偉大な徳川家康です・・・。

 教祖傳で、教祖様を生まれながらの神としたのは、本席がお亡くなりになってから現在まで、お道の内外に、時々神がかりになって道を説く者が現れて、本部でも苦労した経験があるので、真柱様は、中山みきの場合は人間に神が降りたのではなくて、はじめから神だったとして、将来の安泰をはかっているのです。新教典も精読してみれば、中山家の天理教だと、判明します。ですから、先生にお願いするのです。真柱様を説いて、まちがったお道にするのを防いでください」。
 「先生、真柱様は教祖様の書き残された『おふでさき』と『みかぐらうた』しか、信じてはならぬと言って、教祖様がお話になったと伝えられるお言葉はすべて抹殺しました。そればかりかでなく、史料を全部掴んでいるので、『おふでさき』でも、真柱の意とする天理教に都合の悪い部分は抹殺する恐れがあります。特に本席様を通じて20年間親神様がさしずしたお言葉は(これを『おさしず』と呼んでいますが)控えていた先生方が速記して、厖大な史料として残っていますが、これを全部通読した者はいないでしょうから、都合のわるい部分を削除するのは、簡単です。

 真柱様は本席の存在をも抹殺したいらしく、本席様の話をしても不機嫌になるので、本部の先生方はたがいに本席様のことは禁句だといっておりますし、本席様の子孫は本部で重要に扱われていません。そんなことはともかく、親神が教祖様を通じて語られたお言葉も、本席を通じての『おさしず』も、中山家のものではなくて、人類のものとして、すべて永久に伝えるべきではありませんか…、それ故、また、先生に真柱様の友達になって、真柱様が史料を廃棄なさるのを、とめて頂くか、それが不可能ならば、廃棄なさった史料について、将来のために記録して頂きたいのです」。
 「ナライト様のことも、一般の教会長や信者には、すでに完全に抹殺して全然知られていません、私など、発狂したと聞かされて信じていたが、最後までナライト様に仕えていたという婦人が、随筆で晩年のことを書いていたけど、立派なお方のようですよ。昭和12年の1月に75歳で亡くなられたが、その朝、正装し、威容を正して机に向かい、立派に松竹梅の絵を描き、それに辞世の詞・・・「松竹梅でおさめまいらせ候」と、たしかこんな詞をみごとな手蹟で書き加えて「おばあさまのところへ参ります」と、その婦人に話して、掌をあわせてそのまま静かに息を引き取ったそうです。私は感動してその婦人を詰所にお訪ねして、お話を聞こうとしたが、お話しすることは他にないからと拒否されました。真柱様からお咎めがあったのでしょうね・・・・先生が真柱様の友達になったら、こうした新しい史実も掘り出されて・・・神様が約束したことはすべて守られたと実証できるのですけれど、お願いします」。(77‐79頁)

 芹沢光治良著「死の扉の前で」(P200〜203)は次のように記している。
 三十年祭の二、三年前に早稲田大学の漢学者の教授で広池千九郎が入信すると、天理教では大袈裟に本部に迎えて、天理中学校長にして、熱心に布教宣伝にあたらせたが、三十年祭が終わると、博士はいつのまにか天理教を去ったが、その理由も期日もとどめていない。

 三十年祭の二年前(大正三年)には、教祖殿も本部神殿も落成して、信者は勇んだと誌しているが、その年の十二月三十一日に、初代真柱が四十九歳の若さで死去したね。翌四年に十一歳の嗣子正善が真柱に襲職したが、その後見人として本部で最重要な大黒柱である松村吉太郎が私文書偽造容疑で奈良監獄に、翌年まで収容された。その私文書偽造容疑が、どういうことか明瞭でないんだ。

 大正五年の一月に教祖の三十年祭が執行されて、八月「播州の井出くにむほん」とあるが、その前年四月一日、当時お地場で最も求道的な知識人だと評された大平良平が「新宗教」という個人雑誌を創刊して、若い天理教人を勇気づけたものの、三十年祭が終わって、井出くにのむほんとある月、八月に、十九号で廃刊した。

 この年本部員の増野正兵衛の息子、道興が弱年二十六歳で、異例にも本部員に抜擢されて、道友社の編集主任になり、天理教の機関紙「みちのとも」に、はじめて青年信徒の魂を奮起させる随想を多く発表して、自らそれを実践するために大教会長となって信仰活動を始めたが、間もなく死亡した。

 上田ナライトさんの事件の後、本部では、真柱中心にすんなりし信仰の灯火を輝くようにはかったのだが、突然のその若い真柱が三十年祭直前に亡くなったし、ナライトさんは狂人だと噂が流れて、福井氏のような青年達は、天理教の危機感におののいていたそうだ。その危機感のなかで、親神の約束どおり、三十年祭に神がおもてに現れるという希望が、若い人々の胸に蘇って、密かに心の準備をしようと、心掛けたそうだ。大平良平の「新宗教」も、増野道興の感動的活動もその準備の一つだそうだ。

 三十年祭は一月二十六日に行われて、いつ神が現れるか、若い人々は期待と不安をもって毎日待望したそうだ。
 芹沢光治良「死の扉の前で 二代真柱(正善)と上田ナライト」(74頁16行-79頁2行)。
 「先生、今までのお話でよく判りました。真柱様は先生に一目おいていられるのですな」。
 「どういうことですか一目おいてるとは−」。
 「尊敬しているのでしょう……真柱様は先生に理想の真柱像を見せようと努力しているのです。田園調布の若様のお宅で先生に話された教理、岳東大教会で大教会長に代って先生に謝罪した話、ほんとうに感動的ですね。これは真柱様が先生を尊敬して、懸命にご自分のよさを示して、先生との関係を深めようと努力しているのです……それを知って、うちの会長もそして私も、先生にお願いがあるのです。そのお願いのために、このように参上しているのです」。
 私はその物々しい言葉に戸惑って、彼の顔を見た。全く真剣そのものだった。
 「先生、真柱様の友達になって下さい」。
 「え、友達だって−」
 と、可笑しさがこみあげた。
 「友達にならなければ、真柱様は先生にご自分を示さないし、お考えも伝えません。先生、友達になって、真柱様がお道を復元すると信じて、実はとんでもないお道にしてしまうことを、防いで下さい。活字別の『稿本天理教祖伝』の草案の一部をご覧になっただけでも、とんでもない教祖伝を創ろうとしていることが、おわかりでしょう。真柱様に都合のいい教祖伝にして、それを信者に押しつけようとしています」。
 「真柱に都合のいい教祖伝つて−」。
 「根本的なことは、教祖ははじめから神で、人間ではないとしています。先生の親様は、一人の心優しい農村の主婦が、神がかりがあってから、神の思召(おぼしめ)しに添おうと五十年間超人的なご苦労をして、ようやく神の社(やしろ)となりますね。それが教祖の実像です。決してはじめから神ではなくて、人間であって、ただ神に近づこうと精進なさった。だから、教祖の雛型(ひながた)をふむという教理も成り立ちます。教祖が生れながらに神であるならば、雛型として人間は従えません」。
 「教祖が生れながらに神である方が、どうして真柱に都合がいいの」。
 「教祖様(おやさま)が昇天してから、飯降伊蔵先生が本席として、約二十年間、神のおさしずを取次ぎましたね。その間、初代真柱様は行政の柱として、本席は信仰の柱として、天理教を支えたが、信者は言うまでもなく先生方も、神の取次ぎ者であり信仰の柱である本席に、自然に心を寄せがちでした。教祖の孫であり、相続者である初代真柱様夫妻は、そのことがご不満であったが、教祖の定められたことですから、どうにもできなかったのでしょう。本席が亡くなると、また神のおさしずに従って、上田ナライトさんが『おさづけおはこび』をなさることに決っていました。『おさづけおはこび』は、また、信仰上の中心行事であるから、信者はナライト様を本席に代った信仰の柱と仰いだのです。それはまた、初代真柱様夫妻は喜べなくて、若様こそ行政の柱と信仰の柱とを兼ねた強い真の真柱に育てようとしたのです。初代真柱様が大正三年に四十九歳の若さで亡くなられると、十歳の若様が管長になつたが、ご母堂様は、後見人の山沢や松村という大先生方の力を借りて、少年真柱を絶対権力をもつ真柱に成長させようと懸命でした。その手始めに、大正七年にはナライト様が狂気だとして、御母堂様が自ら『おさづけおはこび』をなさるようにしました。これで、行政の柱と信仰の柱とを、中山家の掌中におさめて、現真柱様にゆだねたという、歴史があるのです。大変孝心の厚い真柱様は、ご両親の口惜しさや願望をじっくり胸におさめていると思います。それ故、天理教の専制君主のような独裁者になったが、敗戦前は、天理教自身が政府や軍部から弾圧を受けて、真柱様も絶対権力を振えないで、自制していたのでしようが、敗戦後は、信仰の自由が保証されたので、復元という美しい名目で、大っ平に自己の復権をはかっているのです。行政面では、しきりに教規を創って、教庁機構を変え、中央集権をはかつています。信仰面では明治教典にかえて新教典を創り、正式の教祖伝を編集して、天理教の絶対権を中山家のものにしようと励んでいます。その点、真柱様は偉大な徳川家康です……教祖伝で、教祖様(おやさま)を生れながらの神としたのは、本席がお亡くなりになってから現在まで、お道の内外に、時時神がかりになって道を説く者が現れて、本部でも苦労した経験があるので、真柱様は、中山みきの場合は人間に神が降りたのではなくて、はじめから神だったとして、将来の安泰をはかっているのです。新教典も精読してみれば、中山家の天理教だと、判明します。ですから、先生にお願いするのです。真柱様を説いて、まちがったお道にするのを防いで下さい」。
 「そのような危惧の念を抱くのは、君や君の大教会長ばかりではないだろう。本部の偉い先生方が、なぜ真柱に説いて、それをしないのですか」。
 「それは不可能です。真柱様は神の代理者です。その言葉は神の言葉として、教会長も信者も絶対に従い守らなければならないことに決っています。まして真柱様を説得するなどとは、理の上(教理上)で絶対にできないのです。ですから、信者でなくて、真柱様が一目おく先生に、お願いに上ったのです」。
 「それなら、彼が尊敬する大学の先生か学者に、適任者が幾人もいるではありませんか」。
 「それが、本部にお出掛けになる学者先生を考えると、半分は真柱様から物質的な援助を受けているので、その資格はありません。他の半分の学者先生は、天理教やお道の信仰が、どうなろうと関心がない方々ですから、頼んでも無駄ですが……先生は『教祖様』を読んでも、お道に対して深く理解と愛情を持っていますし、ご尊父の信仰からしても、お道に認識がおありなので、それに加えて、現に『教祖様』をお書きになっていて、真柱様も愛読しているのですから、説得力があります。先生お願い申します。真柱様の友達になって下さい−」。
 「友達になれ、なれと、言われても、たがいに子供ではなし、簡単に友達にはなれんよ。無理だなあ」。
 「先生、真柱様の場合は容易です。権力をもつ独裁者には、一つの盲点があるものです。あらゆる場合、すべての物を独占したいという慾求が、本能になっています。換言すれば、慾深ですから、それを満足させればいいのです」。
 私は呆然と答えようがなくて黙ってしまった。
 「先生、真柱様は教祖様の書きのこされた『おふでさき』と『みかぐらうた』しか、信じてはならぬと言つて、教祖様がお話しになったと伝えられるお言葉はすべて抹殺しました。そればかりでなく、史料を全部掴んでいるので、『おふでさき』でも、真柱の意とする天理教に都合の悪い部分は抹殺する怖れがあります。特に本席様を通じて二十年間親神がさしずしたお言葉は(これを『おさしづ』と呼んでいますが)控えていた先生方が速記して、厖大(ぼうだい)な史料として残っていますが、これを全部通読した者はないでしようから、都合のわるい部分を削除するのは、簡単です。真柱様は本席の存在をも抹殺したいらしく、本席様の話をしても不機嫌になるので、本部の先生方はたがいに本席様のことは禁句(タブー)だといっておりますし、本席様の子孫は本部で重要に扱われていません。そんなことはともかく、親神が教祖様を通じて語られたお言葉も、本席を通じての『おさしづ』も、中山家のものではなくて、人類のものとして、すべて永久に伝えるべきではありませんか……それ故、また、先生に真柱様の友達になって、真柱様が史料を廃棄なさるのを、とめて頂くか、それが不可能ならば、廃棄なさつた史料について、将来のために記録して頂きたいのです」。
 「そうした史料は保存し、特別の施設をもうけて、図書館や参考館のように、一般に公開すべきでしょうね」。
 「全くそうです。そうしたことも、友達になられれば、真柱様に忠告できますでしょう。ナライト様のことも、一般の教会長や信者には、すでに完全に抹殺して全然知られていません、私など、発狂したと聞かされて信じていたが、最後までナライト様に仕えたという婦人が、随筆で晩年のことを書いていたけれど、立派なお方のようですよ。昭和十二年の一月に七十五歳で亡くなられたが、その朝、正装し、威容を正して机に向い、立派に松竹梅の絵を描き、それに辞世の詞……松竹梅でおさめまいらせ候と、たしかこんな詞をみごとな手蹟で書き加えて、教祖様(おばあさま)のところへ参りますと、その婦人に話して、掌をあわせてそのまま静かに息を引きとったそうです。私は感動してその婦人を詰所(つめしょ)にお訪ねして、お話を聞こうとしたが、お話しすることは他にないからと拒否されました。真柱様からお咎(とが)めがあったのでしょうね……先生が真柱様の友達になったら、こうした新しい史実も掘り出されて……神様が約束したことはすべて守られたと実証できるのですけれど、お願いします」
 と、賀川氏は改めて畳に両掌をついた。
 「天理の霊能者 上田ナライトより一部掲載」。
 身心の異常が激しくなり ついに霊統が途切れる…

 大正時代に入ると、身心の異常の度合いが激しくなった。これは大正三年の大正普請と呼ばれる膨大な費用をともなった天理教施設の竣工、第一次世界大戦の勃発や真柱中山真之亮の出直(病死)などが関係していたと思われる。同五年には教祖三十年祭が執行され、生前の教祖同様、拙絆などの下着をすべて赤衣(神が着る衣装とされる)に変えてつとめを行っていたナライトであったが、大正六年初夏に胃腸障害となる。この時は二週間の療養で回復。しかし翌年の大正七年三月二十三日にまたもや胃腸障害で病床に臥すようになった。日に日に重体となり、天理教本部では神の重大な警告として受けとめ、全快のためのつとめが行われた。 一か月後に床の上に起き上がれるまでによくなったが、足が不自由となり、立ち上がったり、正座ができないために、「おさづけ」を渡すことができなくなってしまったのである。ナライトは本席のように言葉による神示がほとんどなかった。そのため、その身体上に現れた障りを含む身振りや動作で神意を悟らなければならないのであるが、当時の天理教本部の中にはそれを解読できるような者はいなかった。

 このときの病気の要因は甥の楢太郎が天理教関係者の借金の肩代わりをして、それがもとで破産に追い込まれたことが関係していたといわれる。が、それ以上に茨木基敬の問題(茨木事件)が絡んでいたことは間違いない。ナライトの病気が革ったのは、茨木基敬が本部を去った翌日からなのである。茨木基敬は天理教の本部員で、天啓を取り次いでいたが、本部は彼を一方的に罷免し、放逐したのであった。「おさづけ」のストップで天理教本部は組織運営上、支障を来しはじめた。そこで本部員会議を招集し、同年七月十一日から教祖の孫に当たる中山たまヘ(中山秀司と松枝の一子で、真柱中山真之亮の妻)がナライトの代理として「おさづけ」を渡すことが決定されたのである。中山たまヘは、みきによれば人間の創造に関わる深い魂の「いんねん(因縁)」の人とされるが、いわゆる天啓者ではなく、彼女が渡す「さづけ」も儀礼的なものにすぎなくなった。同時にナライトはその死まで二度とさづけを渡すことはなかった、本部におけるナライトの公的な役割は終わったのである。つまり、中山みき⇒飯降伊蔵⇒上田ナライトとつづいてきた天理教の霊統は、大正七年の段階で途切れてしまったわけである。以後、ナライトの霊統問題に正面切って触れることは本部では事実上タブー視されるようになった。

 大正十三年に教祖四十祭の拡張工事にともない、ナライトは現在の和楽館の建物に移転した。不自由だった両足はすでに治り、太り気味たった体の肉は落ち、細くなった。ほとんど家にいて、神に供える紙を折ったり、針仕事をしたり、畑仕事をしていたが、時には石上神宮や故郷の園原の方ヘ散歩をすることもあったという。昭和二年頃には天理教内の一部にナライトに天啓が降りてくるのではないかと期待する向きもあったようである。というのはその頃、精神的に非常に安定した生活を送り、機嫌がよかったからである。好物は葡萄と抹茶で、茶は側の者に自ら煎てたりもした。また昼夜を問わず入浴した。これは世の中の一切の汚穢が絶え間なく自分の心に移ってきて溜まるので、それを入浴によって祓い清めて浄化していたともいわれる。あまりにも頻繁に入浴するため、ナライトに仕えていた宇野たきゑが「なぜそんなにたびたび入浴されるのですか」と聞くと、「心が濁るからや」と答えている。ナライトにとって入浴は神聖な神事であった。時として啓示のような霊的な閃きをかいま見せてもいる。たとえば、ナライトの家の桜が見事に開花したときのこと。通りかかった親類が、門の近くにいたナライトに向かって「きれいに咲きましたなあ」と挨拶がてらに声を掛けると、「根を見よ」とだけいって、家に入ってしまったという。一見、華やかに見える現象には、すべて目に見えない根があり、その不可視の根の部分のほうが実は肝心要なのだというたとえである。それにしても何とも意味深い言葉ではないか。

 4月、後の二代真柱が天理中学校に入学した。


 7月11日、初代真柱夫人の、たまえ様が「おさづけのお運び」をすることに決まった。この時より天啓ではない「本部員会議」の決定事項が「地場の声」とされることになった。これらの背景で、茨木基敬お機械様が本部員を罷免され地場を追われ「離れ座敷」に移られた。


【天理教青年会創立】
 10.25日、既に明治43年に発足した婦人会の十年後、天理教青年会が創立された。初代会長に山沢為造(60歳)が就任。桝井伊三郎、喜多治郎吉、中山為信氏が青年会理事に任命された。

 (お道の教勢、動勢)
 6.22日、諸井国三郎が出直し(亨年79歳)。1840(天保11)年、7.20日、遠江国山名郡広岡村下貫名(現・静岡県袋井市広岡)生まれ。1882(明治15)、諸井家に寄留していた吉本八十次が、織物教師・井上マンの歯痛をお助けしたのがきっかけで匂いがかかる。1883(明治15)年、子供の病から夫婦で信心の心を定め、この年初参拝。1888(明治20)年、7.14日、本席よりおさづけ。山名分教会(現大教会)初代会長。葬儀で、先妻の娘婿で二代会長の清麿と、後妻の娘婿の戸主の慶五郎が、互いに譲らず喪主が二人並び立つと言う、異例な継母継子騒動が勃発し「教統問題」が起きている。
 6.27日、松田音次郎が出直し(亨年75歳)。弘化1年(1844)2月1日、河内国若江郡刑部村‐(現・大阪府八尾市刑部)生まれ。明治10年(1877)、長患いをご守護頂いた同村・山田長造(稿本天理教教祖伝逸話篇58「今日は河内から」)のみかぐらうたに感銘したのが入信のきっかけとなる。『稿本天理教教祖伝』では明治13年(1880)入信。


 (当時の国内社会事情)
 第三期国定教科書( 公民道徳・国際協調) 。大学令。ロシア革命でトルコ系ロシア人渡来。

  (宗教界の動き)
 満州社寺規則制定。
 日本ハリスト正教会独立。東女大( 新教6派)。
 官幣大社男山八幡宮を石清水八幡宮と改称。吉野宮吉野神宮に改称。
 この年、大本教で、 なおの死去によりすみが二代教主となる。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1919(大正8)年

 (お道の教勢、動勢)
 5.29日、梅谷四郎兵衛が出直し(亨年73歳)。弘化4年(1847)7月7日、河内国古市郡東坂田村(現・大阪府羽曳野市東阪田)生まれ。浦田家の養子 勝蔵から四郎兵衛に改名。浦田家から離籍、梅谷に戻る。明治14年(1881)、佐官業の弟子の父親から話を聞き初参拝。教祖より赤衣(明治16年)・本席より息のさづけ(明治20年)。船場分教会(現大教会)初代会長。妻たね、三男・梅次郎(2代会長)。(稿本天理教教祖伝逸話篇106「蔭膳」)

 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)
 朝鮮に朝鮮神宮(官幣大社)を創建した。祭神を天照大神と明治天皇にした。官国幣社9、以下60余社が造られた。
 松下松蔵祖神道( 人の道) 開教。
 妹尾義郎新興仏教青年同盟結成。関東学院( 新教)。
 ローマ教皇使節館設置。イムマヌエル綜合伝導団設立。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1920(大正9)年

【若き本部員増野道興氏が山澤摂行者に代わって天理教校長に任ぜられる】
 1月、若き本部員増野道興氏が山澤摂行者に代わって天理教校長に任ぜられた。その頃の別科生は一期二、三百人にすぎなかったが増野氏の時代になって激増し、おぢばが別科生の波に埋まるという盛況になって行く。増野氏が校長に任ぜられた六年間に、合計三万三百七十八人という別科生が、氏の息吹のもとに育った。また増野氏の別科生に対する講話がまとめられ、『講壇より』とか『教館の日』という本となって道友社から出版され、それが記録破りに売れていった。その影響のもとに、多くの人が四十年祭の奉仕に従事し、布教に挺身(ていしん)した。大正九年には教師の数は約二万七千ぐらいであったのが、大正十五年には倍の五万四千になっている。男の教師のほうがはるかに多く、二万七千の中で女の教師はわずか千三百くらいにすぎなかったが、大正十五年には女の教師が一万一千以上になり、男五人に女一人の割合になっている。

 2月、天理教本部が、教学部を新設した。増野道與を校長に任命し、教校の拡充強化に取り組んでいくことになった。


 6月、大西の「甘露台古記」に感銘した天理教琵琶支教会の役員・堤寅吉が磐城小学校の宿直室に大西を訪ね、ほんみち最初の信者となった。


 この年、天理教の一番教会である郡山大教会の初代教会長・平野楢蔵(1843年-1907年、「恩地楢」と河内・大和の国中一帯で一目置かれていた元やくざの大親分にして、教祖の警護的常詰めしていた)が、伝記を含む「道すがら」を出版している。「それが事の善悪に拘わらず苟も事実の真相は出来る丈け赤裸々に書くように書く事に努め、大抵の出来事は之を漏らさぬように注意しました」(天理教郡山大教会1920、p3)とある。教団草創期の雰囲気が迫力をもって描かれている。

 おじばに通い始めた平野は、教団に暴力を用いた迫害が及んだ場合には対抗暴力に訴え、処理した。教祖は、「このものゝ度胸を見せたのやで」、「明日からは屋敷の常詰とする」(「道すがら」p59)と、これを評価している。平野はこうして、教祖の晩年、「屋敷の常詰」となった。

 諸井政一(1876年―1903年)の「正文遺韻抄」には、次のような伝承が記録されている。

 教祖様がきかせられましたが、『世界には、ごろつきものといふて、親 方々々といはれているものがあるやろ。一寸きいたら、わるもの々やうや。けれどもな、あれほど人を助けてゐるものはないで。有る處のものをとりて、なんぎなものや、こまるものには、どんゝやってしまう。それでなんじゅうが助かるやろ。そやつて、身上もようこえて、しっかりしたかりものやろがな』と仰有りました(諸井1970、p259)

 「道すがら」や「正文遺韻抄」は、「谷底せりあげ」(=社会的弱者の救済)を目指した初期の天理教が、民衆の対抗暴力(「謀反」)と紙一重の際どいところにあった宗教運動であったことをよく示している。(熊田一雄「天理教教祖と<暴力>の問題系」)


 この年末、天理教教会数が4066(4925)ケ所。


 (お道の教勢、動勢)

 (当時の国内社会事情)
 東京帝大文学部神道・法学部憲法第二講座設置。

  (宗教界の動き)
 明治神宮創建 明治帝 ( 勅祭社 )。神社規則・寺院規則・布教規則( 樺太庁)。「カトリック」誌創刊。聖心愛子会秋田。所得税法社寺等民法34条法人免税。賀川豊彦『死線をこえて』。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1921(大正10)年

 1.27日、教会本部が、直轄教会長を集めて、来る大正15年1月に教祖40年祭を執行すると発表した。


【第1次大本事件】

 ここまで、大本教が教勢を拡大させていた。1919年には亀山城を買収し、従前の綾部に並ぶ本拠地とする準備に入った。また1920年には大阪の有力新聞だった大正日日新聞を買収して言論活動にも進出し始めていた。有力信者・浅野和三郎を中心とする大日本修斎会の一派が独走し、「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱え、社会体制の変革を主張し始めていた。

 2.12日、大本教が弾圧され、京都府綾部の本宮山神殿が破壊された。出口王仁三郎以下の幹部が不敬罪と新聞紙法違反の疑いで、大正日日新聞社の社長室にいるところを検挙された。王仁三郎は126日間の未決生活の後で6.17日、保釈された。8.5日、京都地方裁判所は「不敬罪」で懲役5年の判決、直ちに控訴。裁判は大審院まで争われ、「前審に重大な欠陥あり」として大審院が前判決を破棄し、控訴院へ差し戻した。再審理中の1926年(大正15).12.25日、大正天皇が崩御し、免訴となる。

 なお王仁三郎は保釈の後、秋頃の10.18(陰暦9.18)日から「霊界物語」の口述を始めている。また、この事件を契機に多くの教団幹部・信者が大本を去って行き、その後浅野和三郎は心霊科学研究会を、谷口雅春は生長の家を興している。

 出口王仁三郎は責付出獄中に植芝盛平をはじめ日本人6人とともに大日本帝国を脱出して、モンゴル地方へ行き盧占魁(ろせんかい・馬賊の頭領)とともに活動する。同年6月パインタラにて張作霖による危機もあったが、7月に帰国している。裁判は大審院まで争われたものの、「前審に重大な欠陥あり」として大審院が前判決を破棄し、控訴院へ差し戻した。再審理中の1926(大正15).12.25日、大正天皇が崩御し、免訴となる。


 10.10日、教祖40年祭提唱の諭達第13号公布。


 11.14日、本部員解任後もおぢばに留まっていた北大教会初代会長の茨木基敬がおぢばを去り、奈良県生駒郡富雄村(現在の奈良市二名平野)に移転した。茨木基敬は、本部の「離れ屋敷」としていた。


 (お道の教勢、動勢)
 3.22日、中川よしが出直し(亨年54歳)。3.25日、葬儀は、松村吉太郎の斎主のもと盛大に行われ、遺骨は染井墓地に葬られた。


 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)
 鈴木大拙『Eastern Budist』→1931。第一次大戦戦没者靖国神社合祀。大本教出口「立替説」不敬罪で有罪→24控訴審有罪→27大赦。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1922(大正11)年

 (お道の教勢、動勢)


 (当時の国内社会事情)

 1922年、治安警察法第5条(女子の政治集会参加禁止)を削除する。全国水平社結成。


  (宗教界の動き)
 坂本健一「コーラン」日訳。カトリック名古屋司教区設置。谷口雅春大本教脱退。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1923(大正12)年

 8.1日、本部教義批判を開始していた大西愛治郎が、甥の小浦芳雄ら4名を天理教本部へ派遣し、教理問答を仕掛ける。これが口伝で教内に広まり始め、大西の下へ来訪者が相次ぎ始めた。この年の12月、名古屋の天理教信者・鈴木代蔵が全財産を整理して入信した。


 9.1日、関東大震災が発生する。


 9.3日、関東大震災の救済事業に関する諭達第14号公布。


 【教祖30年祭執行】
 教祖30年祭執行。

 30年祭の時、井出国子が世界助けを始める。概要「生前のみきの予言にもかかわらず、天理教本部は慾と高慢から、神意をたしかめることなく、存命のみきを井出国子とともに腕力で教祖殿から引きずりだして怪我をさせた」云々と批判し、邪道であると教団に通告した。


 12月、非信徒で天理教研究者の田辺要蔵が、天理教同志会を出版元として飯降家に保存されていた「百日指図」を刊行した。2年後に開催される教祖40年祭に向けて、大教会長クラスの幹部信徒用に私的に出版されたものと思われる。


 この年末、天理教教会数が5258ケ所。


 (お道の教勢、動勢)
 5.1日、松尾はる(ハル)が出直し(亨年89歳)。天保6年(1835)9月15日、(大和国平群郡若井村(現・奈良県生駒郡平群町若井)生まれ。慶応2年(1866)、入信。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』
 18「理の歌」 25「七十五日の断食」 26「麻と絹と木綿の話」 27「目出度い日」)
 10.17日、深谷源治郎が出直し(亨年81歳)。天保14年(1843)2月17日、京都市東山区古川町三条下る進之町)生まれ。明治14年(1881)、富川久吉の手引きで入信。おさづけ(明治20年9月9日)。河原町分教会(現大教会)初代・3代会長。妻・ハナ。
 11.25日、仲野秀信が出直し(亨年72歳)。嘉永5年(1852)、大和国添下郡小泉村(現・奈良県大和郡山市小泉町)生まれ。明治18年(1885)、梶本松治郎に頼まれ眞之亮の柔剣術の指導に当たる。明治19年(1886)、教祖と力比べで神の存在を見せられ心を定め信仰する。天理中学校開校時に柔道・剣術・体操の教師となる。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』174「そっちで力をゆるめたら」)
 この年、関根豊松が麹町分教会理事、及び大森町支教会の二代会長に就任している。


 (当時の国内社会事情)

  1923年、[各府県に特別高等課設置]される。国民精神作興の詔勅。


  (宗教界の動き)
 この年、国民精神作興に関する詔が出されたが、教化団の活動などを通じて、「国民精神」、「皇国精神」作興運動が展開される。満州事変以後は国体明徴運動となり、国家神道の教説にも一層の増幅がはかられた。各地でも昇格県社が増加し、供進金も飛躍的に拡大された。協賛金方式による神社の巨大工事が相次いで敢行された。八絋一宇」、「祭政一致」などのスローガンが唱えられ、歴史や修身の授業は国家神道の教義に近似して行った。
 本願寺僧有志宗門改革運動。神仏道教会所規則。
 山室軍平日本救世軍。
 カトリック広島司教区設置。本聖公会東京・神戸教区設置。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1924(大正13)年

 1924(大正13).2.2日、天理教本部が、大西愛治郎の教師資格を剥奪した。3月末、大西は岩城小学校教員を退職し、信仰活動に専念することになった。子の頃、大西の下へ投ずる天理教信者が続出し始めた。

 2月、大本教の出口王仁三郎が、責付出獄中に植芝盛平をはじめ日本人6名とともに密かに大日本帝国を脱出して、モンゴル地方へ行き盧占魁(ろせんかい・馬賊の頭領)とともに活動する。同年6.21日、パインタラにて銃殺の瀬戸際に立たされるが窮地を脱する。7月、帰国。責付を取り消され、再び大阪刑務所北区支所に収容される。11.1日、保釈許可となり帰綾。12.15日、再び「霊界物語」の口述を始める。


 8月末、木下直進堂から「御筆先」が刊行されている。


 10.26日、秋季大祭。管長職務摂行者・山沢為蔵が制服着用の教会長ら約3000名を従え、神殿に向う。

 
この年、教祖四十祭の拡張工事にともない、ナライトは現在の和楽館の建物に移転した。不自由だった両足はすでに治り、太り気味たった体の肉は落ち、細くなった。ほとんど家にいて、神に供える紙を折ったり、針仕事をしたり、畑仕事をしていたが、時には石上神宮や故郷の園原の方ヘ散歩をすることもあったという。


 この年、関西の神道系新宗教の徳光教を受けついで、禅僧出身の御木徳一とその子徳近がひとのみちを開教した。ひとのみちは,天照大神信仰に立ち、「教育勅語」を教典として、実利的な生活訓を説いたが、不敬罪で弾圧され禁止されることになる。


 (お道の教勢、動勢)


 (当時の国内社会事情)

  1924年、逓信省放送用私設無線電話監督事務処理細則制定される。


  (宗教界の動き)
 御木徳近新派神道ひとのみち教団開く→信者100万 関東大震災。田中逸平メッカ訪問。

 (当時の対外事情)
 1924年、いわゆる「排日移民法案」が可決される。新規の移民は一切禁止となる。ハワイにおいては、この頃はまた、プランテーションで働く日系人が減り、彼らがホノルルなど都市部に集中してくる時期でもある。

 (当時の海外事情)

1925(大正14)年

 1月、ほんみち派が、磐城村竹之内に600坪の土地を手当し、「天理研究所」を設立、「天理研究会」を発足させた。これに対し、天理教本部は、信徒を足止めし、「天理研究会」と天理教の関係の否定を喧伝した。


 2.17日、天理外国語学校設立許可。四十年祭の前年に当り、天理外国語学校の設置が青年会事業として立案され、認可された。

 3月、治安維持法成立。国体を変革せんとする者は有期刑に処せられることになった。昭和3年、死刑になる。


 3.26日、中山正善管長が月次祭に初めて祭主を務める。


 4.23日、二代真柱・中山正善が成人に達し、管長就職奉告祭。諭達1号公布。「世界六踏論」を宣べる。


 この頃、本部員本部在籍者から神様、祖霊を引き上げる。(「天理教罪悪史」)。


 5.17日、六踏園調布農場開設(東本)。


 11月、奈良県丹波市町(現在の天理市)の天祐社から「非売品」、「門外漢に禁ず」として「泥海古記」が刊行された。同書の序には次のように述べられている。
 御本席より河原町初代会長深谷大先生が頂き、その高弟たちに分かちた、原本をそのまま印刷したもので金の力で容易くも求めることのできない、実に大切な我が御道の生命とする極めて尊い宝典であります故よく研究して待つ大の家宝として保存せられんことを

 天理教本部は、後に信徒達から回収し、焼却処分した。


 大正14年時点で、満州、朝鮮に百数ヶ所の教会が設置され、数百名の教師が活躍していた。


 この年、大本教がパリに進出、中国大陸では紅卍会と共同戦線を張り、機関紙として人類愛善新聞を発行、北京に世界宗教連合会を設立、海外での活動が盛んな一方、国内でも千数百の支部、6千名の布教師を抱えていた。王仁三郎は自らを天皇のような至高の存在になぞらえ、白馬にまたがって教団の土地を巡視してまわり、周囲には近侍として多くの女性を置くなどしていた。


 (お道の教勢、動勢)


 (当時の国内社会事情)
 1925年、治安維持法(国体および私有財産制度への批判禁止、最高懲役一〇年)公布される。活動フィルム検閲規則制定される。

  (宗教界の動き)
 1925(大正14)年、6.10日、井出クニが渡仏する芹沢光治良夫婦を神戸に見送る。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1926(大正15、昭和元)年

【教祖40年祭執行】

 1926(大正15)年1.15日、20日、25日、教祖40年祭が三日間に分けて執行された。かぐら面新調。参拝帰参者65万人を超す。四十年祭は、大正14年までは松村吉太郎氏と増野道興氏によって進められ、教会も教師も信者もすべて倍増させようという「倍加運動」がその栄誉を飾った。提唱前年の大正9年の教会数は4925ヶ所であったのが、昭和元年末には1万278ヵ所に増大した。新設教会数は、大正10年−219ケ所、同11年−602ヶ所、同12年−761ヶ所、同13年−1095ヶ所、同14年−2187ヶ所、同15年−489ヶ所。

 この前後から海外布教に力を入れる方針を打ち出す。

 甲賀は、それまでの教会数が三百五十くらいのところ四十年祭の当日までに六百五十余りまで増大している。

 2.8日、年祭終了に当り諭達第2号公布。


【松村吉太郎の警告】

 松村吉太郎が、「道の八十年」334P−336Pで次のように述べている。「第八回青年会総会でのスピーチ」の一節。

 「本席様がお出での間は天啓の中継者として、お指図を下さっていたので、親神様−神霊を中心とする思想と、おじばを中心とする思想とが混流しておった。(本部の人々は何かにつけて、この間に立って苦労したものだった。私も、独立請願中この為に、どれほどの心労をしたか知れない) 

 本質的には当然、一つであらねばならぬこの二つのものが、二つに流れていたのである。本席様がお出直しになると、自ずから、ぢば中心の思想と信仰とが残り、これが唯一絶対の信仰のようになった。初信者の如きは、ぢばを知っていても、お指図、お筆先による神意など、まるで知っていないではないか。

 ことに四十年祭を転機として、天理教は物質方面には驚くほどの進歩を遂げたが、精神面は必ずしもそれに伴うていない。今日の行き詰まりが、それを明らかに語っている。教祖様の頃は、霊的躍動に終始した。そこに自ずから奇蹟があり、信仰が生き生きと生きておった。だが今日では、この霊的活躍が鈍っているのである。眼前の仕事にばかり捉われて、本質的なものの探究を忘れ、霊界の開拓を忘れてしまったのだ。今日の行き詰まりの原因はここにあるのだ」。
 「組織せられた教会や眼前のおたすけなどをもって最高の仕事であるが如く考え、もっと根本的な、もっと本質的なこの神霊に対する考えを忘れているが如く観ぜらるるのは、何としても遺憾にたえないところであります」。
 「教祖様のお隠れ後、ようやく四十年あまりにしかならぬ。それが早くも教祖立教の精神を忘れて、ただ教派の宗政面にばかりとらわれたり、安易なその日その日を過ごして、その安易さを親神様のお恵みだと考えていた日ごろが恥じられてならなかった」。

 4月、真柱・中山正善が東京帝国大学文学部に入学。直後、朝鮮、中国、満州に巡教に出かけている。真柱としては、初めての海外巡教であった。その後も、頻繁に海外を訪れることになった。


 この頃、天理研究所が落成し、。天理研究所の存在は、天理教内に全国的な規模で知れ渡り、教教が日増しに進展していき、約4千の信徒数を数えるに至った。


 11.10日、天理図書館を開設。


 11月、本部より「おさしづ」公刊(昭和5.10月完了)。


 12.25日、大正天皇崩御。年号が昭和に改元された。


【廣池千九郎が造反する】 
 この年、 法学博士(東京帝国大学)として著名であった廣池千九郎(1866〜1938)は、神道史研究の過程で現代神道の一教派である天理教に関心を抱き、1909年、学術調査のため天理教本部を訪れ、翌年に入信。天理教教育顧問・天理中学校校長を務める。初代真柱と親交を深めていたが、真柱没後本部と対立し造反した。

 後に、「総合人間学」(財団法人Moralogy、モラロジー)を創立した。以来、倫理道徳の研究と、それに基づく「心の生涯学習」を提唱・推進する文部科学省所管の社会教育関係団体として、一貫して道徳性・人間性を育てる研究活動・生涯学習活動・出版活動を展開した。モラロジーの語源は、道徳を表すモラル(moral)と学を表すロジー(logy)による。人間、社会、自然のあらゆる領域を研究対象とし、人間がよりよく生きるための指針を探求し提示することを目的とした。(「廣池千九郎と諸岡長蔵」)(「廣池千九郎考」)

 (お道の教勢、動勢)
 1月、関根豊松が愛町分教会の前身となる愛町宣教所を設置する。2月、教会を名古屋市中区宮前町に移転する。


 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)
 天台宗大・豊山大(真言宗) ・宗教大(浄土宗) →大正大 3宗連合。明石順三エホバの証人灯台社創設。赤松智城宗教研究会「宗教研究」創刊。宗教制度調査会官制公布( 宗教界反発)。
 1926(大正15)年、4.17日、井出くにが「みのこころゑのはなし」を発刊する。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1927(昭和2)年

 4.26日、おふでさき公刊。


 10月頃、大西が、「研究資料」の執筆に入る。幹部の中井銀次郎と中川喜六が分担執筆し、年末に一応の完成を見ることになる。


【アメリカに初の教会設立】
 11.3日、アメリカ初の教会をサンフランシスコに設立(サンフランシスコ教会)。続いて同年、香川県の本島教会(初代教会長・片山好造)の系統がハワイのホノルルに教会を設立している。ハワイの布教に関しては、「天理教ハワイ伝道史」の中に詳しい。各教会が単独布教者をハワイに送り、教会設置に熱意を示した賜物であった。片山は、1927年から5年間に、福岡出身の上野作次郎ら23名の布教師をアメリカ本土、ハワイへと送り出し、13の教会を設置した。(天理教事典の「本島大教会」の項)。1931年には、ハワイの四つの大きな島(ハワイ島、カワイ島、マウイ島、オアフ島)それぞれに本島系統の教会が設立される。こうして、ハワイ布教の先頭を切ったのは本島系統であるが、周東系統(山口県)、防府系統(同)、天元系統(奈良県)、尾道系統(広島県)などが続いた。このうち、周東系統の太平洋教会(ホノルル)を開いた三国又五郎は、「ハワイ伝道の先駆者」とも呼ばれ、実質的には、最も最初期に布教活動を始めた一人である。各教会の布教競争は次第に激しくなり、1929年から38年までの約10年間に、21の教会がハワイにできている。

 11.27日、海外伝道に関する諭達第3号公布。教庁内に海外伝道部が設置され、海外伝道規定、伝道庁規定が公布された。


 昭和2年頃、天理教内の一部にナライトに天啓が降りてくるのではないかと期待する向きもあった。というのはその頃、精神的に非常に安定した生活を送り、機嫌がよかったからである。好物は葡萄と抹茶で、茶は側の者に自ら煎てたりもした。また昼夜を問わず入浴した。これは世の中の一切の汚穢が絶え間なく自分の心に移ってきて溜まるので、それを入浴によって祓い清めて浄化していたともいわれる。あまりにも頻繁に入浴するため、ナライトに仕えていた宇野たきゑが「なぜそんなにたびたび入浴されるのですか」と聞くと、「心が濁るからや」と答えている。ナライトにとって入浴は神聖な神事であった。


【本部がお指図全36冊を刊行】
 本部がお指図全36冊を刊行。

 (お道の教勢、動勢)


 (当時の国内社会事情)
 紀元節以下祭日を休日・明治帝誕生日→明治節 11.3。7/24 芥川龍之介自殺。

  (宗教界の動き)
 1927(昭和2)年、仏教界、宗教法案に反対。宗教法案審議未了。カトリック福岡・鹿児島司教区設置。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)





(私論.私見)