別章【お道その後伝】

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.12.19日

 これより先は、「別章【教祖中山みき略伝】」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 教祖亡き後、お道は本席となった飯降伊蔵の手綱采配の下に歩み始める。他方、真柱派が公認化の動きを強め、ある種両派の拮抗状態で事が処理されていくことになる。以下、その顛末を見ておくことにする。

 2007.10.25日 れんだいこ拝


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目次
第九期 (1887〜)

 その後のお道の歩み戦前編

西暦 和暦 主な出来事及び内容
第82部 1887年 明治20年 伊蔵、本席に定まる
第83部 1888年 明治21年 教組1年祭前後の様子、神道天理教会設置の動き
第84部 1889年 明治22年 本席のお指図が本格的に始まる
第85部 明治新政府のその後の動きと教派神道13派考
第86部 1890年〜 明治23年〜 本席の「三年千日お指図」時代
第87部 1896年 明治29年 内務省秘密訓令、本席お指図と応法のせめぎあい
1897年 明治30年 飯田岩治郎氏の水屋敷事件
1898年〜 明治31年〜 教内二元化整風時代
1907年 明治40年 「百日のお指図」始まる。本席出直し
増野鼓雪考
第88部 1908年〜 明治41年〜 天理教一派独立を認可される、その後の歩み
廣池千九郎考
第89部 1915年〜 大正4年〜 2代真柱に中山正善が就任
井出くに考
第90部 1918年〜 大正7年〜 「ナライト事件」
上田ナライト押し込め事情考その1
上田ナライト押し込め事情考その2
第92部 1928年〜 昭和3年〜 ほんみち派の第一次不敬事件、第二次不敬事件
別章【ほんみち派不敬事件
別章【大本教考
出居清太郎/修養団捧誠会考
第93部 1940年〜 昭和15年〜 大東亜戦争時の戦時協力

第十期 (1945〜) その後のお道の歩み戦後編
西暦 和暦 主な出来事及び内容
第94部 1945年〜 昭和20年〜 戦後の復元宣言
第95部 1980年〜 昭和55年〜 その後のお道の歩み
第96部 2000年〜 平成12年〜 21世紀のお道

【補考】
別章【当時の政治社会体制
教祖みきのおもかげ
天理教教祖伝史考
天理教後継者定め考
教祖と大神大社との浅からぬ関係考
三島神社移転、鏡が池埋め立て事変考





(私論.私見)『天理大学おやさと研究所年報』 第 24 号 2018 年 3 月 26 日発行 論文 「道」による諭し ―教会の成立との関連で─ 澤 井 治 郎 要旨 天理教においては、「お道」「この道」「道の子」など、「道」という言葉が広く用 いられている。本稿では、特に「おさしづ」における「道」の用例を取りあげ、そ こで親神の教示される「道」とは一体いかなるものであるのかを探求した。「道」 を用いた「おさしづ」は約半数が明治 20 年から 25 年に集まっており、神道直轄天 理教会の設置認可、および教会の組織的な発展との関連において説かれたものが多 い。日本において、制度的に「宗教教団」が成立するのは明治 10 年代後半のこと であり、天理教の教会はその流れを受けて設立された。東京府において教会本部の 設置が認可され、制度化された天理教会としての歩みが始まる明治 21 年4月頃か ら、「おさしづ」では頻繁に「神の道」と「世界の道」を対比して、一貫して「神の道」 を通るよう諭されるようになる。こうした諭しにおいて、教祖によって始められた この信仰の根本的な心構えが説かれている。 【キーワード】「おさしづ」、「神の道」、「世界の道」、教会、公認 1.はじめに 「求道」という言葉は、宗教的真理や悟りを求めて修行すること、などと説明される。 天理教においては、親神の教えを主体的に学び、その思召をより深く理解しようとす ることを指す。天理教の信仰は、しばしば「道(みち)」という言葉で表される。したがっ て、「道を求める」ことは、信仰する、あるいは、信仰を深めるということとかなり 重なる意味合いを持っている。 本論文のねらいは、「おさしづ」の用例を通して「道」というもののあり方や性質 を少しでも明らかにしたいというものである。「おさしづ」は、神の人間に対する指 図であり、それはすべて、人間の現実の具体的な信仰生活に向けられた言葉である。 (1) したがって、「おさしづ」における「道」の諭しは、現実の生活のなかで思い悩む人 間に対して示された、歩むべき「道」、神の求める生き方の教示である。─ 70 ─ 『おさしづ改修版』の本文には、「道」という言葉が約 2,300 件で用いられている。 (2) このうち約半数が明治 20 年から 25 年の間に集中しており、特に明治 21 年から 24 年 に最も多い。その後、件数が減り、明治 32 年に再び増え、それ以後は急激に減っている。 したがって、件数の推移としては、明治 21 年から 24 年頃にかけて最も大きな山があ り、次に明治 32 年にも大きな山がある形となっている。天理教史をふり返ると、こ の二つの時期はちょうど、天理教教会本部の設置認可(明治 21 年)と一派独立運動 の開始(明治 32 年)という、天理教の教会としての歩みにおける大きな出来事と重なっ ている。そこから、「おさしづ」における「道」と教会の問題には大きな関連がある といえる。 したがって、本論文ではおもに教会との関連で「おさしづ」における「道」の用例 を取りあげることにしたい。ただし、教会本部の設置認可と一派独立運動はそれぞれ に大きな主題であり、ここで両方を扱うのは難しい。また、先述の通り、「道」の用 いられる「おさしづ」は大半が明治 25 年までに集中しており、この時期の「道」の 用例が後の「おさしづ」においても基本になると考えられるから、 (3) ここでは、明治 25 年までの「おさしづ」における「道」の用例を取りあげることにしたい。 まず、天理教の教会が成立する背景を理解するため、日本の宗教教団が成立してく る経緯を概観する。次に、天理教において教会が設立される流れを確認した上で、教 会という制度が新たに整備されることと、それまで「道」という言葉で表されてきた 信仰との関連に注目して考察することにする。 2.日本における近代的な宗教教団の形成 まず、天理教の教会が成立する背景として、日本において教会や宗教教団がどのよ うに制度化されるにいたったのかを確認したい。 2 − 1.教導職制を通した近代的な教団の形成 明治政府が成立する慶応4年、明治新政府の統治機構となる太政官のなかに神祇・ 祭祀をつかさどる神祇官が設置された。翌年の官制再編によって、神祇官は太政官か ら独立し、そのなかに惟神の大道を国民に宣布する職制として宣教使が設けられた。 しかし、明治4年に神祇官は太政官のなかの神祇省へ降格、翌年には廃止され、神祇 官が担った宣教と祭祀が二つに分けられ、宣教事務は教部省(明治5〜 10 年)が、 祭祀事務は太政官式部寮が管轄するようになる。 宣教事務を管轄することになった教部省は、明治5年に教導職制を創設する。それ は、「対キリスト教教化を目的」として創設されたもので、 (4) 教導職は無給の国家官吏 であり、その公務は「三条の教則」、「十一兼題」にそって各地で説教を行い国民教化─ 71 ─ 澤井治郎   「道」による諭し―教会の成立との関連で にあたること、 (5) および、葬儀を執行することであった。おもに従来からの神官や僧侶 がこれにあたったが、その際、教導職の任免権は教部省にあるものの、各宗で教導職 を選定あるいは統轄するために教導職管長制が設けられた。このことと、明治6年「教 会大意」によって「教会」制度ができたことで、近世以来の比較的自由に組織されて いた講の再編成が進み、たとえば明治 8 年の神道事務局設置、明治 9 年、黒住派、修 成派の別派独立など、国家的な神社制度とは区別された神道宗派が分出するように なった。さらに、明治 10 年から教導職を管轄していた内務省は、明治 14 年に神官と 教導職の分離方針を打ち出し、同 15 年には官国幣社以上の神官の教導職兼補を廃止、 それによって神官による葬儀の執行を禁止した。また、神道事務局内の直轄教会が府 県社以下の神官を教導職として傘下に置いたまま分立し、神社神道と教派神道の区別 が鮮明になっていった。また、この頃から、神道○○派ではなく○○教と呼ぶことが 多くなる。こうした教化政策には批判も多く、明治 17 年、教導職制は廃止され、そ れまで各宗派の教導職を統轄していた管長に、宗派内の住職、教師の任免権が委任さ れた。それによって、管長を教団行政上の代表とし、教規・宗制・寺法などの教団法 によって各教団は自らの権力を確立することになる。こうして、国家によって一応の 「自治」の認められた近代的な教団が日本において成立することになった。 (6) 2−2.教団の「宗教化」 この近代的な教団が成立してくる明治 10 年代の中頃から後半は、日本において「宗 教」という言葉・考え方が定着してきた時期でもある。この頃、山口輝臣によれば、 日本のキリスト者や仏教者は、「宗教を語ることがそのまま自らの宗教の優越を語る こととなるような語り方」を編み出していった。 (7) まずキリスト者が先行して、たとえ ば、「宗教」とは文明や道徳の源泉であり、世界中で優勢な西洋文明や近代科学の源 泉となったのはキリスト教であるから、新たな日本の「宗教」にはキリスト教こそが ふさわしいといった語りや、世に数多ある他宗教とは異なり、キリスト教は神が啓示 した教えであるといった語り方で、「宗教」としてのキリスト教の優越を語った。仏 教者はキリスト者の語りに対抗する形で、自らを宗教として主張するようになった。 これによって、キリスト教と仏教を対比する「宗教」の語り方が定着するとともに、「両 者の共通項として抽出されるものが宗教としての「資格」とされるようになり、それ を持たないものは宗教にあらずとされる」ようになった。 (8) それは他の教団に対して、 @キリスト教、仏教に劣る宗教に甘んずる、A仏教のように宗教化する、B宗教化し ない、という3つの方向を用意し、儒教や神社はBの方向へ、天理教を含め教派神道 となったものはAの方向へ進むことになったという。 (9) このように、教会規則に基づく組織を備えた近代的な教団が生まれてくるのは明治─ 72 ─ 10 年代後半のことであり、それはまた、「宗教」という言葉・考え方が定着し、キリ スト教、仏教に先導される形で各教団が「宗教」としての装いを得ていく時期でもあっ た。 天理教は、こうした近代的な「宗教」教団が形成される時期に、教会としての歩み を始めるのである。 3.天理教会設置までの道のり 天理教史において、神道直轄天理教会の設置を神道本局に申請・許可されたのは明 治 18 年、地方庁(東京府)の認可を得たのは明治 21 年のことであるが、それ以前に も、萌芽的な動きは幾度かあった。おもなものを列記する。 慶応3年 吉田神祇管領に公認出願、認可(7月)。明治3年に吉田神祇管領廃止。 明治9年 多くの人が寄れるよう風呂屋と宿屋の営業許可を受ける(〜 15 年)。 明治 13 年 金剛山地福寺(奈良県五條市)配下の転輪王講社結成(〜 15 年)。 明治 14 年 大阪明心組の梅谷四郎兵衞が阿弥陀池の和光寺に公認の手続書を提出。 返答なし。 明治 16 年 鴻田忠三郎、公認の手がかりを得ようと大蔵省に建言書提出。却下。 これらはいずれも教会組織をつくることが目的というよりも、恐らくは、信仰、布 教、そして集会の自由を得るということが切実な問題であった。神道や仏教あるいは 宿屋の営業などさまざまな形の願い出をしていることは、なんとか周囲の神社寺院や 官憲の干渉を受けない方策を模索する、教祖の長男中山秀司を中心とする当時の人々 の思いがあらわれている。しかし、こうした動きに、教祖は反対されていた。 (10) 特に、 慶応3年、明治9年、同 13 年の動きについては厳しい言葉で反対されていたことが 伝えられている。 明治 18 年になって具体的に教会を設立することが検討されるようになり、同年、 神道本局より直轄天理教会設立が許可された。これは、前項で確認した同時期の日本 における自治的な教団の出現を背景とするものである。しかし、地方庁である大阪府 からの認可はなかなか得ることができなかった。教会の設置認可について、明治 20 年1月 13 日(陰暦 12 月 20 日)に中山眞之亮初代真柱から教祖に「教会本部をお許 し下された上は、いかようにも神様の仰せ通り致します」と願われている。それに対 して教祖は「何か願う処に任せ置く」と仰せられ、初代真柱は「有難う御座ります」 と応えている。しかし、その後教祖が現身をかくされたこともあってか、しばらくは 地方庁への教会認可に向けた動きは表だっていない。 しかし、明治 21 年の教祖1年祭が官憲によって途中で差し止められたことによっ て再びその気運が高まり、同年 4 月東京府に願い出てようやく認可され、7 月に本部─ 73 ─ 澤井治郎   「道」による諭し―教会の成立との関連で をぢばに移し、11 月に開筵式がつとめられた。これを受けて各地に続々と天理教の 教会が設置されるようになった(明治 21:2 カ所、明治 22:11 カ所、明治 23:14 カ 所、明治 24:49 カ所、明治 25:126 カ所、累計 176)。 このように、天理教会は、教祖の現身おかくし前や、教祖1年祭後など、このまま では十分に教祖の思召に応えられない、あるいは、教祖のご恩に応えられないという 切実な思いが原動力となって準備され、そうした人々の思いに応えるかのように、教 会本部の設置が認可されることとなった。 4.「おさしづ」における「道」の諭しの展開 明治 20 年から 25 年までの「おさしづ」における「道」の用例を整理すると、その 用いられ方によって、三つの時期に分けることができる。一つ目は、明治 20 年から 明治 21 年3月まで、二つ目は、明治 21 年 3 月から 11 月まで、三つ目は、明治 21 年 11 月から明治 25 年までである。 4−1.「四十九年前よりの道」(明治 20 年から明治 21 年3月) この時期に「道」という言葉が用いられるのは、ほとんどが個人の身上や事情の伺 いの「おさしづ」である。それは、それぞれ個別的な事情から「おさしづ」を伺って いるため、統一的にその脈絡を論じることは非常に難しいが、「道」による諭しの基 本的な形は、『おさしづ改修版』第1巻の最初に収録されている「おさしづ」にある と思われる。そこでは「この道」という言葉を用いて次のように諭されている。 何程言うても分かる者は無い。これが残念。疑うて暮らし居るがよく思案せよ。 さあ神が言う事嘘なら、四十九年前より今までこの道続きはせまい。今までに言 うた事見えてある。これで思やんせよ。(さ 20・1・4) また、その6日後の「おさしづ」においても、「四十九年前よりの道の事、いかな る道も通りたであろう」とある。「四十九年前」とは天保9年を指しており、親神が 天下って以降、教祖が人々を教え導いてきた歩みが「道」という言葉で表現されてい る。そして、「神が言う事嘘なら、四十九年前より今までこの道続きはせまい」との 言葉で、「道」が今まで続いてきたということの真実を思い、何よりもまず神に心を 向けるよう説かれている。こうした「道」の真実についてより端的に諭されているの が、「神一条の道」について説かれた次の「おさしづ」である。 神一条の道一寸難しいようなものや。一寸も難しい事はないで。神一条の道こ ういう処、一寸も聞かしてない。天理王命というは、五十年前より誠の理である。 こゝに一つの処、天理王命という原因は、元無い人間を拵えた神一条である。元 五十年前より始まった。元聞き分けて貰いたい。何処其処で誰それという者でな─ 74 ─ い。ほん何でもない百姓家の者、何にも知らん女一人(にん)。何でもない者や。 それだめ 4 4 の教を説くという処の理を聞き分け。(さ 21・1・8 松村吉太郎おぢば へ参詣おさしづ) つまり、50 年前にこの道が始まり、これまで続いてきたのは、「元無い人間を拵え た神」が導いてきたからこそであると説かれ、そのことによって、この道が「誠」の ものであること、人間がそれにそって生きていくべき確かな真理であることが強調さ れている。 ただしこの時期に「道」が用いられるのは個人の身上や事情の伺いがほとんどであ り、そこでは、こうした意味合いが説かれることは稀である。むしろ、「道」という 言葉が修飾語もなく、「道のために尽す」(さ 20・5・2)や「道の道なら道のため」(さ 20・7・3)などと固有名詞的に用いられたり、 (11) 人生論的な仕方で、伺う者の迷い悩ん でいる姿を「どういう道いかなる道」(さ 20・7・20)や「道が分からん」(さ 20・9・ 17)などと表現されたりすることが多い。 4−2.「世界の道」と「神の道」(明治 21 年3月から 11 月) 明治 21 年3月8日(陰暦正月 26 日)の教祖1年祭が、警官の取り締まりによっ て最後までつとめることができなかったことをきっかけに、教会本部の設置認可を求 める機運が高まる。翌日には「天理教会設立」について伺われ、「五十年前よりある。 無いへという処から付いて来てあるもの。どんな道も連れて通ろう」(さ 21・3・9) と許されている。ただし、「元々の思案、神の道というものは、よう聞いて置かねば ならんへ」(同)とあり、50 年前より続いてきた「神の道」に基づいて思案するよ うに説かれている。 同年の4月 10 日に東京府において教会本部の設置認可が下りる。それ以後、「神の 道」と「世界の道」という言葉が目立つようになる。「世界の道」という言葉は、明 治 21 年4月以前には、わずかに用例が3例あるのみだが、同年 4 月から 11 月までの 間には 32 例もの用例がある。同様に、「神の道」あるいは「神一条の道」という言葉 も、同年 4 月以前には 11 例あるのみだが、4 月から 11 月の間には 37 例の用例がある。 このように、「世界の道」と「神の道」という言葉が教会本部設置認可を境にして 頻繁に用いられるようになっていることが分かる。そして、この二つの「道」は次の ようにしばしば対比して用いられる。 道のため、世界のために事情尋ねる。今の道は一寸付けたる処、細いへ道や。 これは世界の道や。世界ではえらいと言う。神の道は、今までに聞いても居る、 聞かしてもある。(さ 21・4・16 梅谷四郎兵衞歯の痛みに付願) 運ぶ中一つの事情、難しい処、神の道通る処、人間は世界の道を運ぶ。判然と定─ 75 ─ 澤井治郎   「道」による諭し―教会の成立との関連で まりて定まろまい。(さ 21・4・22 清水與之助下腹痛み、大便へ行くようで行 かぬに付、東京より願) さあへ神一条の道は、表と裏とある。裏の道は誠の道、一つさあへ日々に運 ぶ処は、誠というは通り難くいものである。陰の道は難しい道、表の道は通りよ い。世界の道は通り、通り難くい神の道は内、表と裏との道である。内に運ぶ人 が少のうてならん。(さ 21・5・21 増野正兵衞身上播州より帰りての願) 世上の道はある。神一条の一つの道通らねばならん。十分の道がある。何か締ま り方、神一条の道という。……刻限話、前々より出け難ない。一人々々へ聞かす。 (さ 21・6・15 清水與之助下腹痛み、二度づゝ大便に行き、絞り腹のように付願) このように、梅谷、清水、増野の各氏に対して、「世界の道」「世上の道」と「神の道」 「神一条の道」という言葉の対比による諭しがなされている。「世界の道」は、教会本 部が設置認可されたことを受けているように思われるが、それについて、「一寸付け たる処」、「判然と定まりて定まろまい」など、通りやすいようでいて、それでは定ま らないと言われる。一方、「神の道」「神一条の道」は、「通り難くいもの」ではある が「通らねばならん」と諭される。 また、先に引用した明治 21 年6月 15 日の「おさしづ」には、「刻限話、前々より 出け難ない。一人々々へ聞かす」とあるように、この諭しは、単に個人的な問題では なく、「刻限話」の内容を各々がしっかり胸に治めるよう、身上を台として一人ひと りに説かれている。 こうした「世界の道」と「神の道」「神一条の道」を対比した諭しは、特に教会本 部の設置認可の後から明治 21 年7月頃にかけて顕著である。また、6月頃からおも に本席の身上伺いの「おさしづ」を中心に、「ぢば・かんろだい」ということが強調 されるようになる。 先ずへこのぢば 4 4 ・かんろうだい 444444 一つ、何でも彼でも運ばにゃならん。どんな道、 世界の道、ほんの気休めである。発端の道、何か急いで取り掛かれへ。(さ 21・7・ 3 本席の御障りに付おさしづ) 一時ならん処から、経ち越し来る処、一寸世上の理に押され、世上の処には一寸 の道付けてある処、先ずへ今までの道、もうじゃろかへ、待ちて居る者もあ る。早くへ十分運ぶ事、為す事、理に外れてある。一寸細々細々の道が許し てある処、ころりと扱う事が間違うて、間違うてある。一時早くへ急く処治め。 世界より押されんよう、早くへ早く治めて了え。(さ 21・8・5 本席身上願) 本席の身上伺いの「おさしづ」は、刻限の「おさしづ」と同様の意義を有するもの であり、「大切な時節に対する親神の慈愛あふれる警告」という側面をもつ。 (12) そこで、 東京府における教会本部の認可は、「世上の理に押され」るから「ほんの気休め」に─ 76 ─ 「一寸の道付け」たものであり、その現状については「理に外れてある」「ころりと扱 う事が間違うて、間違うてある」と厳しく戒められている。そして、「発端の道」「今 までの道」を急いで早く取り掛かるように急き込まれている。こうしたお言葉を受け て、明治 21 年7月 23 日に教会本部がぢばに移され、同年 11 月 29 日に教会本部開筵 式が執り行われることになる。 4−3.「往還道通り難くい」(明治 21 年 11 月から明治 25 年) 明治 21 年に教会本部が設置され、ぢばにおいて開筵式がつとめられて以後の天理 教の歩みを、高野友治は次にように叙述している。 その年の末から、地方にあった講社が、それぞれ願い出て、部属教会を設置し、 明治二十二年、明治二十三年、四年とどんどん教会が出来まして、まったく長い 冬の間、堪え忍んでいた木々が、一ぺんに花を開いたように、景気のよい状況を 示しました。皆の心には、往還道が見えて来たように思われたことでしょう。 (13) 実際、明治 21 年7月に教会本部が東京府からぢばに移されたとき、当時の「詰合 の人々」は、「往還の道の初、今日より運ぶ」と悟っていたことが明治 21 年7月 24 日の「おさしづ」の為書に記されている。この「往還道」あるいは「往還の道」とい う言葉は、「おさしづ」本文においては、明治 22 年4月から同 23 年4月にかけて頻 繁に用いられている。 (14) そこでは、いずれの用例も「往還道」が「世界の道」と関連づ けられている。 所々には一つへの名を下ろしへ。さあさあいつへまでの事情、往還道を待 ち兼ねる。……さあへ皆始め来たる処、あちらに一つの社や、こちらに一つの 講や。皆々難しい処より始めた。心の理によって一つの名を揚げた。一つこう 4 4 のう 4 4 始め掛けたら、よう聞いて置け。何処にどういう道が始まるとも分からん。 さあへ天理教会やと言うてこちらにも始め出した。応法世界の道、これは一寸 の始め出し。神一条の道は、これから始め掛け。(さ 22・4・18 刻限御話) 国々所々に教会名称が許され始めたことを指して、「往還道」と言われる。しかし、 そうして教会が発展し始めたことについて、それは「応法世界の道」、つまり国の法 や世間一般に対応する「道」を「一寸」始め出しただけのものであり、真に大切な「神 一条の道は、これから始め掛け」るのだと説かれている。さらに、ほとんどの用例で は、「往還道」は通りにくいと言われる。 (15) ひながた 4444 の道通れんような事ではどうもならん。長い事を通れと言えば、出けん が一つの理。世界道というは、どんな道あるやら分からん。世界の道は千筋、神 の道は一条。世界の道は千筋、神の道には先の分からんような事をせいとは言わ ん。ひながた 4444 の道が通れんような事ではどうもならん。……これではならんとい─ 77 ─ 澤井治郎   「道」による諭し―教会の成立との関連で う処から、一寸道を開き掛けた。まあへ世界から見れば往還。細道は通りよい、 往還通り難くい。(さ 22・11・7 刻限御話) ここでも「世界の道」と「神の道」を対比して、今の「一寸道を開き掛けた」ところは、 目に見える形で発展し、世界からは「往還」のように見えるかもしれないが、それは 通りにくい「道」であるとされる。「一寸世界往還道を付け掛けたで。そこで皆々心許す。 往還道通すと、どんと油断してどうもならん」(さ 22・11・2)とも戒められている。 それに対して、「ひながた 4444 の道通れんような事ではどうもならん」と繰り返し言われ、 「神の道」のためには教祖の「ひながたの道」を通ることが重要であり、それは「細道」 を通ることにたとえて説かれている。 (16) このように、一寸の「世界の道」を付けかけたと言われているが、陰暦明治 23 年 12 月 28 日(陽暦2月7日)には、「さあへ明ければ五年という。万事一つの事情 を定め掛け。定めるには人間の心は更々要らん。弱い心は更に持たず、気兼ね遠慮は 必ず要らん。さあ思やんしてくれ。これから先は神一条の道。国会では治まらん。神 一条の道で治める。」(さ 24・2・7)と、年が明ければ教祖が現身をかくされてか ら数えで5年になり、教会創立以来はじめての年祭である教祖5年祭を迎える年とな る。そうした年限を示した上で、これからは「神一条の道で治める」と宣言されてい る。同じ頃、「道に二つある」として、「道」を二通りに分けて「神の道」を通るため の心構えを明瞭に説かれている(さ 24・1・27、24・5・8、24・5・16)。そこに出て くる二通りの「道」をまとめると次にようになる。 神の道… 胸の道、胸三寸の道、元々運ぶ道、神が付けた道、ころっと変わった道、 これまで成り来たる道、ぢば一つの道、心の道 世界の道…上(かみ)の道、世上の道、その日その日の道、暫くへと言うたる道、 人間心の道、成らん道、世界先々の道、表の道、一寸の道、世界道 このように二つに分けた上で、「世界先々の道は一つも要らん」(さ 24・5・8)、「世 界の道に心を寄せたらどうもならん。胸の道は神の道やで」(さ 24・5・16)と、「世 界の道」ではなく「神の道」に心を寄せて通るように諭される。こうした対比からこ の二つの「道」のイメージはそれぞれ次のように理解することができる。「世界の道」 は、「上」すなわち為政者やその制度にそい、世間一般の表向きのあり方に意を用い、 人間の知恵や力でその日その日を越していこうとするような「道」。それに対して、「神 の道」は、目に見えた表向きの形ではなく胸(胸三寸)あるいは心の使い方に意を用 い、「上」ではなく「神」を心の目標(めど)として歩む、元々、神が付けてきた「道」 というものである。実際、明治 22 年から 25 年にかけて「古き道」が繰り返し用いら れている。 (17) それは教祖の現身おかくし後の教会の「新しい道」と対比して、「五十年以来、 だんへ固めたる道」(さ 22・10・9)、つまり、神が立教以来連れて通ってきた「道」─ 78 ─ に基づいて思案するようにとの諭しである。 このように、「神の道」は、「元々運ぶ道」「古き道」「五十年以来、だんへ固めたる道」 などと言われるが、それは、いずれも先述の明治 22 年 11 月7日の「おさしづ」で繰 り返し説かれる「ひながたの道」、すなわち、教祖が立教以来 50 年にわたって教えら れ、歩まれてきた「道」を指していることが分かる。 以上、「おさしづ」における「道」の用例を三つの時期に分けて確認した。一つ目 の時期には、「この道」は神が付けた真実の「道」であることを説かれているものの、 そうした「道」に関する明確な諭しは多くない。二つ目の時期には教会本部の設置認 可以後、「世界の道」と「神の道」を対比する諭しが頻繁に見られるようになる。特 に、教会本部の移転の問題を通して、「世界の道」と「神の道」の違いを明確にされ、 「神の道」の元であるぢばの理の尊さを明らかにされている。三つ目の時期には、教 会組織も整い、部属教会も各地にできてくるが、教会として許した「世界の道」の発 展に心を寄せるのではなく、いつも神を「目標」に、「神の道」を通るように説かれる。 そして、それは立教以来、教祖が 50 年かけて教えてこられた「ひながたの道」を頼 りに生きることであると諭される。このように、教会の展開にあわせて、「おさしづ」 では人間の歩むべき「道」が次第に明確にされていることが分かる。 5.おわりに 官憲に取り締まられることなく信仰、布教、そして、つとめを行いたいという「お 道」を通る人々の願いと、明治 10 年代後半の日本の宗教状況とがあわさって、神道 直轄天理教会が設立されることになった。それは、教祖のご恩に応える「道」を模索 する当時の人々の願いの結果であるが、また一方では、「宗教」教団としての「天理教」 の始まりでもあった。 東京府での天理教会の認可以後、「おさしづ」では「世界の道」と「神の道」が頻 繁に対比され、「世界の道」に心を寄せることを厳しい言葉で戒められ、「神の道」を 通るように一貫して諭されている。その諭しは、高野が「教会という目に見えたるも のが出来ますと、そこにおのずから、目に見えたるものが信仰の目標になりがちとなっ てきているようであります」と述べるような状況に対する戒めであり、「道を通る」 上で常に自戒すべきものである。 (18) また、「宗教」教団としての「天理教」の始まりは、キリスト教や仏教、教派神道 の各教団などと並ぶ、多くの「宗教」のうちの一つになるということを意味する。「お さしづ」で「世界の道」が頼りない、あるいは、難しいと言われるのは、こういう事 柄をも含んでいる。「世界の道は千筋、神の道は一条。世界の道は千筋、神の道には 先の分からんような事をせいとは言わん。ひながた 4444 の道が通れんような事ではどうも─ 79 ─ 澤井治郎   「道」による諭し―教会の成立との関連で ならん」(さ 22・11・7)と言われるように、神が人々に通るよう望まれる「道」は、 そうした「宗教」とは大きく異なっている。ここでいう「宗教」とは、国の制度に位 置づけられた社会的な存在をもつものである。しかし、教祖がその「ひながた」を通 して教えられた「道」は、この世の根元と、人間の究極的な生きる目的、および、そ のための生き方に関するものである。 (19) 「おさしづ」における「道」の諭しは、表に現 れる教会の形にこだわるのではなく、教祖の教えられた「道」を深く求め、地道に通 るようにという神意が込められている。そうすれば、いかなるところも「連れて通る」 と教えられる。 このように、教会との関連で「おさしづ」の「道」をみてくると、「道」という言葉は「宗 教」教団としての天理教の比喩といった意味とは全く射程の異なる、人間の最も根元 的で本来的な生きる道を指し示している。 【註】 (1) 当然、「おふでさき」や「みかぐらうた」、さらには「こふき話」も、当時の地理的、歴史的、 文化的な条件のなかで教えられたものであり、人間の信仰の状況に応じて教えられたもの であるが、特に「おさしづ」は、人間の個別具体的な現実の生活との関わりのなかで教え られたという性格が強い(中山正善「天理教教義における言語的展開の諸形態」『みちの とも』1960 年 11 月号参照)。 (2) 日付ごとのまとまりを1件として数え、割書のみに「道」が出てくるもの、「道理」、「道中」 など「どう」と読むものは除く。また、「道」の用例は 5812 例見られるという(辻井正和「お さしづにおける「道」と述語」『天理大学おやさと研究所年報』第 19 号、2013 年、2頁)。 (3) 諸井慶徳「たんのうの教理」(『諸井慶徳著作集』第 3 巻、天理教道友社、1965 年)では、「た んのう」の意味を「おさしづ」によって解明するにあたり、明治 20 〜 25 年頃の「おさしづ」 を「原本的に参考になる」ものとして取りあげている。 (4) 羽賀祥二『明治維新と宗教』筑摩書房、1994 年、195 頁。なお、教導職制の変遷から近代 的な教団の出現の流れの議論は、おもに同書による。 (5) 「三条の教則」は「敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事」「天理人道ヲ明ニスヘキ事」「皇上ヲ奉戴 シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事」という3条からなり、天皇崇拝を基軸に国家に尽くすべきこ とを謳っており、「十一兼題」では、それを敷衍するものとして「神徳皇恩」「愛国」のほ か「父子」「夫婦」など、教化啓蒙のための 11 項目を挙げている。 (6) 羽賀『明治維新と宗教』182 頁。 (7) 山口輝臣『明治国家と宗教』東京大学出版会、1999 年、47 頁。 (8) 前掲書、47 頁。 (9) 前掲書、48 頁。 (10) 明治 14 年の和光寺への願い出について、教祖は「にをいがけ」として許されている(道 友社編『ひながた紀行―天理教教祖伝細見』天理教道友社、1993 年、294 頁)。─ 80 ─ (11) 「道の道」という表現は、固有名詞としての「道」と比喩としての「道」が組み合わされて、 神の教えを実行するための方途、経路などといった意味で用いられている。この用例は個 人の伺いの「おさしづ」に多く見られる(さ 20・7・4、20・8・23、20・9・6、20・10・ 6 など)。 (12) 山本久二夫・中島秀夫『おさしづ研究 上』改訂版、天理教道友社、1977 年、42 頁。本 席の身上を伺った「おさしづ」の意義については、同書 52 頁参照。 (13) 高野友治『おさしづ物語』(「高野友治著作集」別巻)天理教道友社、1981 年、84 頁。 (14) 明治 22 年4月から同 23 年4月までの間に、「往還道」あるいは「往還の道」という言葉は、 11 件の「おさしづ」に 20 の用例がある。さらに、同様の意味を表す「往還」という言葉 も合わせると、33 の用例がこの時期に集中的に用いられている。 (15) 前の注で示した 11 件のうち9件の「おさしづ」で「往還道」は通りにくいと諭される。 (16) 教祖「ひながたの道」の教理はこの「おさしづ」に基づいて確立したものである(山本・ 中島『おさしづ研究 上』15 頁)。また、この「おさしづ」は教祖5年祭を迎える心構え を説いたものとされ、教祖の年祭活動を「三年千日」と仕切ることなども、この「おさしづ」 の言葉に基づいている。 (17) 「古き道」は、明治 20 年から 21 年の 2 年間で2例あるのみであるが、明治 22 年から 25 年の間には 27 例が見られる。 (18) 高野友治『おさしづ物語』88 頁。 (19) 拙著「「おふでさき」における「このみち」に関する一考察」『天理大学おやさと研究所年報』 第 21 号、2015 年参照。