第65部 1880年 83才 応法の理の動きその3、転輪王講社の設置
明治13年

 更新日/2018(平成30).5.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「応法の理の動きその3、転輪王講社の設置」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【お筆先の執筆】
 1880(明治13)年、1月、教祖がお筆先15号をご執筆されている。

【「転輪王講社」の設置】

 この頃、お道内には又しても秀司らの応法派の動きが強まりつつあり、これに対して教祖は、道を間違わないようにときつく言い聞かせている。むしろ憂いをも滲ませており、次のように記されている。

 「このたびは どんな試しを するやらな
 これでしっかり 心定めよ」
(15.6)
 「いかほどに せつない事が ありてもな
 親が踏ん張る 承知していよ」
(15.8)
 「これからは 親の言ふ事 しいかりと
 承知してくれ 案じないぞや」
(15.9)
 「あすからは 親が働き する程に
 どんな者でも そむきできまい」
(15.10)
 「今までも 四十三年 以前から
 親が現われ 始めかけたで」
(15.11)

 秀司とその側近達による応法派は、「応法の理その3」とでも云える動きを為し、金剛山地福寺の傘下に入り、「転輪王講社」を設置することによって、合法的な布教を目指そうと画策し始めていた。この当時布教が公認される為には神道か仏教かキリスト教に属さねば許可されないという宗教統制が敷かれており、秀司ら応法派は布教の合法化を求めてこれに対応しようと適宜な寺院.神社の配下になろうと画策し始めた。但し、その為には記紀神話の受け入れが要件とされていた。こうした折、金剛山地福寺との関係取り持ちができた。

 その経過は次のようであったと伝えられている。秀司は、乙木村の山本吉五郎から、同村の行者山中忠三郎と知り合った。行者曰く、「そういうことなら、金剛山地福寺に願いでたらよろしおます。地福寺は、堺真言教会として認可も受けて皇道仏教でやっているから弾圧はうけませんわ。住職の日暮ゆう貞さんは、教導職の少講義頭やし、仏教についても大変な学僧ですわ。あの方なら万事うまくやりますわ」ということだった。事実、日暮ゆう貞は、千葉県出身の、若い頃からあらゆる仏法理論を学び、その後さらに長谷寺(真言宗豊山派総本山)で真言蜜教を学んだ俊英だった。祈祷を主にした修験寺であった地福寺の住職となってからも、政府の方針に則りながら、近隣に仏法を復活させるほどのやり手だった。


 
しかし、教祖は、この度もこうした「応法の道」をお許しにならず、「そんな事すれば、親神は退く」と仰せられて、厳しくお止めになられた。
しかし、秀司は、「教祖に対する留置投獄というもったいなさに比べると、たといわが身はどうなっても、教祖の身の安全と道人が不安なくお屋敷に出入りできる道を開く為には止む無しとの判断が勝ったか、「わしは行く」とて一命を賭して出掛けた。こうして、秀司は、信者でまだ若い岡田与之助と共に地福寺へ出発した。岡田与之助は、足の悪い方をお一人行かせるには忍びないと、自ら進んでお供した。両名は、芋ケ峠通称蒸し芋峠を越えて吉野へ出、金剛山の麓にある久留野の地福寺へとおもむいた。秀司は、平地は人力車に乗り、山道は歩いた。峠では随分困り、腰の矢立てさえも重く、抜いて岡田に渡した程であった。こうして地福寺へ着くと、話しはとんとん拍子に進み、お屋敷は地福寺の部下の堺真言教会三島出張所、説教所ということになった。帰ってきたのは出発以来3日目であった。

 
9.22(陰暦8.18)、金剛山地福寺住職の日暮ゆう貞を講社社長、秀司を副社長とする「転輪王講社」(天理如来という仏式の講社)の開莚式を行なうこととなった。こうして、この度の「応法の理その3」は仏教系の動きで為された。開莚式の日、修験者の祈祷の続く中大護摩がたかれ、日暮れゆう貞が山伏の法衣で戒刀を抜いて盛んに祈祷を勤めた。この時、応法派は、表で日暮を祭主として、五分角ほどの青杉葉を積んで護摩を焚き祭事を執り行っていたようである。大勢の信者が参拝していたと伝えられている。つまり、お屋敷内は、内では教祖が外では日暮の「おつとめ」が行われていたということになる。


【「転輪王講社」の動き】

 こうして、つとめ場所には、仏像だけでなく、星(転輪王)曼陀羅が飾られることになり、真言宗の象徴である輪宝が染め抜かれた紫の幕が張り廻らされ、転輪王講社と書かれた提灯が釣り下げられた。全くお寺風の雰囲気になり、お屋敷内では、社長としての日暮れゆう貞によって、星曼陀羅に祈祷して良い運命に帰るという理論に基づく説教が始まることとなった。

 星曼陀羅とは、真中に大日如来や釈迦如来で表した転輪王を置いて、七曜星、九曜星、十二宮(十二支)、二十八宿(吉凶日判断)、などを配置して、自分の運命をしり、その中尊の転輪王を拝んで、又は祈祷して良い運勢に変えて頂くというものだった。それは、みきの教えの言葉を使って、上手に言葉の意味を変質させたものだった。この配列に月日親神のぬくみ、すい気などの十の働きを中尊の転輪王を守る十人の守護神として説き分けられて、転輪王と十柱の神々というような多神教としてしまった。又、破軍星や源助星などの星の話しが入り込み、方位の話しも入りまじった。その説法は立板に水の如く、そして変化に富み、みきの高弟や新たに寄り来る信者たちにもよく理解できた、それは、みきの話しと違って、華やかで感動的で多分に演出されて面白く、十分に人の耳や眼をひきつけるものだった。こうして、みきの教理が日暮教理へと変質しつつ、「星曼陀羅の祈祷話し」に変わって行くこととなった。

 ところで、矢島教本では、転輪王曼荼羅には二系統あると云う。一つは、一字金輪像で、壺坂寺の転輪王曼荼羅は大日如来の姿で転輪王が描かれているのがこれに相当する。王の持っている宝は世界助けする為に民から借りているものである、という借物の理を説く。東寺、和歌山の高野山などに伝わる。もう一方の系統は、星曼荼羅で、その中尊には釈迦如来の姿で転輪王が描かれている。住みよい世界を作った理想的な王の姿を釈迦如来で表し、転輪王に助けて貰おうという祈祷系で、月様、日様、星様に願いを掛けるという拝み祈祷系の教説に拠っている。法隆寺や長岳寺などの丸い星曼荼羅と四角図の星曼荼羅が有り、このたび日暮れが説いていたのは四角図の星曼荼羅教説であった。

 ゆう貞は日を定めて説教にやって来始めた。ゆう貞は、秀司や高弟たちからそれなりのみきの話しを聞き、それなりに理解し、それをゆう貞の仏教理論と折衷させ、独特の教義を生み出していた。その話しは例えば次のようであった。

 「死んでも霊魂は不滅だから、生前の行いに見合った身体や境遇に生まれ変わる」。
 「人は皆な前生因縁を通り返ししている輪廻転生の中を生きている」。
 「教祖は、天皇家のご先祖イザナミノミコトの生まれ変わりの尊い魂だから、天皇家の御先祖、オモタリノミコト様は、天にては云々、 神道にては云々 、仏教にては云々 」。

 その他「元始まりの話し」も「かんろ台づとめの理」も大きく変質された。56億7千万年後に再びこの世に生まれでて人々を救いたいという弥勒菩薩思想に合わせて、「9億9万9千9百9十9年立ったから教祖は神の社に定まった」、じばに神名をと、神を中山家の屋敷内に取り込んだ。天皇政府の方針に合わせて、「教祖には天皇家の先祖たちが次々に天降ったから百姓の中山みきでも神懸かって立教できた」という話しになった。

 こうして、この後暫くの間お屋敷では、日暮ゆう貞の説教が始められることとなった。日暮の説教は、真言蜜教と「お道」教義を折衷させた出色のものであったが、「おつとめを通じて世の立替え、世直しに向かう」と云う「お道」教義の眼目が去勢されていた。拝み祈祷的なものに回帰させられていたが、俗耳に入りやすかった。それは、生まれ変わりの因果応報論や星占いの話しが、それまでの仏説によって説き続けられており、既に下地ができていたことによると思れる。この後、「お道」教義は「日暮教理」とでも云える方向へ変質させられて行くこととなった。私には、この教理が根強く教内に今日も続いているやに見受けられる。


【講社名簿が整頓される】

 この講社結成を一つの契機として講社名簿が整頓されることとなった。名簿は、第1号から第17号迄あって、うち、第1号から第5号迄は大和国の道人を誌し、その人数は584名、第6号から第17号迄は河内国、大阪の道人を誌し、その人数は858名、しめて、大和、河内、大阪に跨って1442名の名が連ねられている。今となっては、これが当時の教勢を偲ぶ、この上もない資料となっている。思いも寄らぬ副産物ではあった。


【教組の立腹の様子】
 開莚式の日、教祖は中南の門屋から出られて、暫くその様子をご覧ぜられていたかと思ううちに引き下がられた。その後、十畳の部屋に三尺もの高い段をつくり、そこに赤い座布団を乗せて、その上に座して、「あんなもの嘘やで、つとめ場所は嘘やで、これのみが真実なのや」とお話された、と伝えられている。

 
教祖は、こうした「お道」の変質化に対し、激しく「残念、立腹」のお言葉を発し、かってなかったほどお怒りになられた。
 「さあ今日は 月日の腹が はぢけたで
 控えていたる 事であれども」
(15.13)

 神意は、もはや辛抱も限界に達した、もう鼻緒の尾が切れたということである。余程にご立腹されたということになる。次のようにも宣べられている。

 「こらほどに 残念積もりて あるけれど
 心次第に 皆なたすけるで」
(15.16)
 「如何ほどに 残念積もりて あるとても
 踏ん張りきりて 働きする」
(15.17)
 「この元は 四十三年 以前から
 えらいためしが かけてあるぞや」
(15.41)
 「この話 四十三年 以前から
 えらいためしが これが一条」
(15.50)

 更に、次のようにも宣べられている。

 「この先は 谷底にては 段々と
 多く陽気が 見えてあるぞや」
(15.59)
 「段々と 用木にては この世を
 始めた親が 皆な入り込むで」
(15.60)

 更に、秀司を念頭において、次のように厳しく叱責している。
 「この話 四十三年 以前から
 胸の残念 今はらすでな」
(15.81)
 「それ知らず 内なる者は 何もかも
 世界なみなる 様に思ふて」
(15.82)
 「この道は 四十三年 以前から
 まこと難渋な 道を通りた」
(15.83)
 「このたびの つとめ一条 止めるなら
 名代なりと すぐに退く」
(15.88)

 教祖は、秀司らに対しては、早くより「九ツ ここでつとめをしていれど、胸の分かりた者はない」(み神楽歌三下り目)ともどかしさを述べられていたが、この度の叱責は秀司の進退に関わる重大な予言を為された。例え中山家の戸主であろうと、教祖の世界助けのおつとめをねじ曲げたり邪魔するようであったら命が危ないぞ、と厳しいお仕込みをしていた。そこには、拝み祈祷の金儲けに向かう道を峻拒する強い姿勢が見られた。

 教祖は、こうした中途半端な「応法の道」を一日も早く一掃して、お屋敷内のそうした動きと対抗するかの如くに、例え官憲の圧迫があろうともそうした外部からの圧力に心を奪われず、ただ一条に「世界たすけの道」に向け「おつとめ」に精励することを促された。


 
しかし、これが一時的にせよ警察の目を塞ぐ防壁となったのか、この月の命日の9.30日(陰暦8.26日)には、初めて三曲をも含む鳴物、おつとめの手も揃えて「神楽の本づとめ」が行なわれた。これが「お道」初めての本格的「神楽の本づとめ」となった。伊蔵が「かしこねのみこと」の役を勤めている。道々は、官憲の取締りも地福寺の出張所も全く眼中になく、たゞ一条につとめを急込まれる親神の思召のまに/\、心から勇んで賑やかに勤めた。


 「道がつぶれる」(昭和八年十一月五日号みちのとも「何も知らぬ子供のすること」佐津川準より)。
 「明治十三年になってから、もう如何しても教会の組織をせん事には仕様がない。公けの許可がないばかりに益々迫害を受けるのだから、何とかして便法はないものかと思案した結果、金剛山地福寺の配下に所属して、転輪教会と云う仏式の教会を設ける事にしたのであるが、これは教祖のお心に添わぬところか、『お道は外から何ぼ潰そうとしても潰れるものではないが、潰されまいとして人間心を使えば神は退く。神が退いたらお道は潰れてしまう』と迄、キツイお叱りでありました云々」。

【教祖が「こふき話」を語り続ける】
 この頃より、教祖が、「こふき話」(「元初まりのお話」を中心とする教理)を集中的に話し始める。

 この頃、村田幸右衛門の長男長平の妻かじがお屋敷に勤めだしている。11月の終わり頃、お屋敷の北側を借りて豆腐屋を始めた。


【教祖の力比べの逸話】
 「稿本天理教祖伝逸話篇」p131-132の天理教教祖の力比べの逸話/逸話75、これが天理や」。

 明治12年秋、大阪の本田に住む中川文吉が眼病にかかり、失明せんばかりの重体となった。隣家に住む井筒梅次郎は、早速おたすけにかかり、三日三夜のうちに、鮮やかなご守護を頂いた。翌13年のある日、中川文吉はお礼参りにお屋敷へ帰らせていただいた。教祖(おやさま)は、中川にお会いになって、「よう親里を尋ねて帰ってきなされた。一つ、私と力比べしましょう」と、仰せになった。日頃力自慢で、素人相撲のひとつもやっていた中川は、このお言葉に苦笑を禁じ得なかったが、拒むわけにもいかず、逞しい両腕を差し伸べた。すると、教祖は、静かに中川の左手首をお握りになり、中川の右手で、ご自身の左手首を力限り握りしめるように、と仰せられた。そこで、中川は、仰せの通り、力一杯に教祖のお手首を握った。と、不思議なことには、反対に、自分の左手首が折れるかと思うばかりの痛さを感じたので、思わず、「堪忍してください。」と、叫んだ。このとき、教祖は、「何もビックリすることはないで。子供の方から力を入れてきたら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか」と、仰せられた。


 (道人の教勢、動勢)
 1880(明治13)年、河内国若江郡刑部村(現・大阪府八尾市刑部)の農業/松田音次郎(37歳)が同村・山田長造が1877(明治10)年に長患いをご守護頂いた霊救、みかぐら歌に感じて入信。1918(大正7).6.27日、出直し(享年75歳)。 (稿本天理教教祖伝逸話篇58今日は河内から)
 この年、備中国小田郡笠岡村(現・岡山県笠岡市)出身で当時大阪在住の畳表商/上原佐助(幼名・政太郎、のち儀七)が(30歳)が伯父上原佐吉に匂いをかけられ、教理に感じて入信。入信。伯父上原佐吉を頼り大阪へ行き、生家笠原家より上原家の養子となり佐助を名乗る。明治7年、川合とよ(のちにさとと改名。笠岡大教会設立・初代会長)と結婚。1912(明治45).3.11日、出直し。翌年、初参拝。明治16年、教祖より赤衣を貰う。明治18年、店をたたみ、家族と別れ東京布教に出る。さとらは笠岡へ。明治24年、本席より「清水のさづけ」。東分教会(現大教会)初代会長。(稿本天理教教祖伝逸話篇127「東京々々、長崎」)
 夏頃、大和伊豆七条村(大和郡山市)に喜多治郎吉を講元とする誠心講(後の治道大教会)ができる。これより大和に講社が続々できる。積善講(平安)、心実講(城法)、心勇講(敷島)、永神講(梅谷)、天明講(八木)、日の本講(旭日)、天龍講(郡山)、治心講(中和)、大和講(櫻井)、明元講(田原)がつくられた。


 (当時の国内社会事情)
 1880(明治13).4.5日、集会条例制定される。許可を受けずに3人以上の者が寄って話し合ってはいけないという厳しい法律となった。背景には、盛んな自由民権運動があった。憲法を制定する替わりに民権運動をやめろという政策が為された。

 1880年、国会期成同盟ができる。

 この年前後、米値高騰する。六合雑誌創刊。
 (田中正造履歴)
 1880(明治13)年、40歳の時、栃木県会議員に当選、以後4回連続当選。有志とともに国会開設運動に尽くす。

 (宗教界の動き)
 1880(明治13)年、7.17日、太政官布告第36号(これが旧刑法第427条第12号に繋がる)で「妄りに吉凶禍福を説き、又は祈祷、符呪等を為し、人を惑わして利を図る者を拘留または科料に処す」。
 12月、芝東照宮から東京の日比谷に設けられた神道事務局神殿へ祭神を遷す際、祭神をめぐり神道界に激しい教理論争が起こった。神道事務局は事務局の神殿における祭神として造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)と天照大神の四柱を祀ることとしたが、その中心を担っていたのは伊勢神宮大宮司の田中頼庸ら「伊勢派」の神官であった。これに対して千家尊福を中心とする「出雲派」は「幽顕一如」を掲げ、祭神を大国主大神を加えた五柱にすべきとした。こうして神道事務局に祭神論が起こり、神道大会議を開くことを決議する。伊勢派のなかにも出雲派支持者が多く出たが、伊勢派の幹部はこれを危惧し、明治天皇の勅裁により収拾した。神道事務局神殿は宮中三殿の遙拝殿と決定し、事実上の出雲派の敗北となった。政府は、神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したと云われている。
 
 この経緯は「神道大教の教史」に次のように記されている。
 「神道事務局は、神道教導職分離以後、大教院を移して、神道大教院の神殿に遷座祭が行われんとする明治13年、この事務局の神殿に大国主命を合祀するか否かで出雲派と伊勢派とに別れ祭神論争に発展、政府は神道大会議を開催し御祭神については、勅裁を仰ぐ事となり、明治14年2月勅裁によって宮中の三殿を遥拝すべき旨が仰付けられ、又、管長に代えて神道総裁に一品有栖川宮幟仁親王が御就任なされた。この時、『天神地祇・賢所・皇霊殿』の二幅対軸の御神霊軸を御親筆され祭神論は収拾された」。

 奥美州等、天輪王明誠教団を創立。

 (当時の対外事情)

 (当時の海外事情)





(私論.私見)