【この頃の逸話】 |
井筒梅治郎夫婦、娘たね |
稿本天理教教祖伝逸話篇「71、あの雨の中を」。
「明治13年4.14日(陰暦3.5日)、井筒梅治郎夫婦は娘のたねを伴って、初めておぢばへ帰らせて頂いた。大阪を出発したのは、その前日の朝で、豪雨の中を出発したが、おひる頃カラリと晴れ、途中一泊して、到着したのは、その日の午後4時頃であった。早速、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、『あの雨の中を、よう来なさった』、と仰せられ、たねの頭を撫でて下さった。更に、教祖は、『おまえさん方は、大阪から来なさったか。珍しい神様のお引き寄せで、大阪へ大木の根を下ろして下されるのや。子供の身上は案じることはない』、と仰せになって、たねの身体の少し癒え残っていたところに、お紙を貼って下さった。たねが、間もなく全快の御守護を頂いたのは、言うまでもない。梅治郎の信仰は、この、教祖にお目にかかった感激とふしぎなたすけから、激しく燃え上がり、ただ一条に匂いがけ、お助けへと進んで行った」。 |
|
村上幸三郎 |
稿本天理教教祖伝逸話篇「72、救かる身やもの」。
「明治13年4月頃から、和泉国の村上幸三郎は、男盛りのさ中というのに、座骨神経痛のために手足の自由を失い、激しい痛みにおそわれ、食事も進まない状態となった。医者にもかかり様々な治療の限りをつくしたが、その効果なく、本人はもとより、家族の者も、奈落の底へ落とされた思いで、明け暮れしていた。何とかしてと思う一念から、竜田の近くの神南村にお灸の名医が居ると聞いて、要ったところ、不在のためガッカリしたが、この時、平素、奉公人や出入りの商人から聞いていた庄屋敷の生神様を思い出し、ここまで来たのだからとて、庄屋敷村をめざして帰って来た。そして、教祖に親しくお目にかからせて頂いた。教祖は、『救かるで、救かるで。救かる身やもの』、とお声をおかけ下され、いろいろ珍しい、お話をお聞かせ下された。そして、かえり際には、紙の上に載せた饅頭三つと、お水を下された。幸三郎は、身も心も洗われたような、清々しい気持ちになって帰途についた。家に着くと、遠距離を人力車に乗って来たのに、少しも疲れを感ぜず、むしろ快適な心地であった。そして、教祖から頂いたお水を、なむてんりわうのみこと、なむてんりわうのみこと、と唱えながら、痛む腰につけていると、三日目には痛みは夢の如くとれた。そして半年。おぢば帰りのたびに身上は回復へ向かい、次第に達者にして頂き、明けて明治14年の正月には本復祝を行った。幸三郎42才の春であった。感謝の気持ちは、自然を足をおぢばへ向かわしめた。おぢばへ帰った幸三郎は、教祖に早速御恩返しの方法をお伺いした。教祖は、『金や物やないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように』、と仰せられた。幸三郎は、そのお言葉通り、たすけ一条の道への邁進を堅く誓ったのであった」。 |
|
真明組周旋方の立花善吉 |
稿本天理教教祖伝逸話篇「115、おたすけを一条に」。
「真明組周旋方の立花善吉は、明治13年4,5月頃自分のソコヒを、続いて父のせん気をお助け頂いて入信。以来数年間、熱心に東奔西走してお助に精を出していたが、不思議なことに、お助にさえ出ていれば、自分の身体も至って健康であるが、出ないでいると何となく気分がすぐれない。ある時、このことを教祖に申し上げて、何故でございましょうかと伺うと、教祖は、『あんたは、これからお助を一条に勤めるのやで。世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。道は辛抱と苦労やで』、とお聞かせ下れされた。善吉は、このお言葉を自分の生命として寸時も忘れず、一層助一条に奔走させて頂いたのである」。 |
|
|
稿本天理教教祖伝逸話篇「74、神の理を立てる」。
「明治13年秋の頃、教祖は、つとめをすることを、大層厳しくお急き込み下された。警察の見張り、干渉の激しい時であったから、人々が躊躇していると、教祖は、『人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。さ、神の理を潰して人間の理を立てるか、人間の理を立てず神の理を立てるか。これ、二つ一つの返答をせよ』、と刻限を以て厳しくお急き込み下された。そこで、皆々相談の上、心を定めておつとめをさしてもらおう、ということになった。ところが、おつとめの手は、めいめいに稽古も出来ていたが、かぐらづとめの人衆は、未だ誰彼と言うて定まってはいなかったので、これもお決め頂いて、勤めさせて頂くことになった。また、女鳴物は、三味線は飯降よしえ、胡弓は上田ナライト、琴は辻とめぎくの三人が、教祖からお定め頂いていたが、男鳴物の方は、未だ手合わせも稽古も出来ていないし、俄のことであるから、どうしたら宜しきやと、種々相談もしたが、人間の心で勝手に出来ないという上から、教祖にこの旨をお伺い申し上げた。すると、教祖は、『さあさあ、鳴物々々という。今のところは、一が二になり、二が三になっても、神が許す。皆な勤める者の心の調子を神が受け取るねで。これよう聞き分け』と言う意味のお言葉を下されたので、皆な安心して勇んで勤めた。山沢為造は、一二下りのてをどりに出させて頂いた。場所は、つとめ場所の北の上段の間の、南に続く八畳の間であった」。
|
|
山沢為造、良蔵 |
稿本天理教教祖伝逸話篇「80、あんた方二人で」。
「明治13、4年、山沢為造が24、5才の頃。兄の良蔵と二人で、お屋敷へ帰って来ると、当時、つとめ場所の上段の間にお坐りになっていた教祖は、『わしは下へ落ちてもよいから、あんた方二人で、わしを引っ張り下ろしてごらん』、と仰せになって、両手を差し出された。そこで、二人は、畏れ多く思いながらも、仰せのまにまに、右と左から片方ずつ教祖のお手を引っ張った。しかし、教祖は、キチンとお坐りになったまま、ビクともなさらない。それどころか、強く引っ張れば引っ張る程、二人の手が、教祖の方へ引き寄せられた。二人は、今更のように、人間業ではないなあ。成る程、教祖は神のやしろに坐します、と心に深く感銘した」。 |
|
中川文吉 |
稿本天理教教祖伝逸話篇「75、これが天理や」。「教祖の力比べ説話」の一つである。
「明治12年秋、大阪の本田に住む中川文吉が、突然眼病にかかり、失明せんばかりの重態となった。隣家に住む井筒梅治郎は、早速おたすけにかかり、三日三夜のうちに、鮮やかな御守護を頂いた。翌13年のある日、中川文吉は、お礼詣りにお屋敷へ帰らせて頂いた。 教祖は、中川にお会いになって、『よう親里を尋ねて帰って来なされた。一つ、わしと腕の握り比べをしましょう』、と仰せになった。日頃力自慢で、素人相撲の一つもやっていた中川は、このお言葉に一寸苦笑を禁じ得なかったが、拒む訳にもいかず、逞ましい両腕を差し伸べた。すると、教祖は、静かに中川の左手首をお握りになり、中川の右手で、御自身の左手首を力限り握り締めるように、と仰せられた。そこで、中川は、仰せ通り、力一杯に教祖のお手首を握った。と、不思議な事には、反対に、自分の左手首が折れるかと思うばかりの痛さを感じたので、思わず、堪忍して下さい、と叫んだ。この時、教祖は、『何もビックリすることはないで。子供の方から力を入れて来たら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか』と、仰せられた」。 |
|