第32部 1853年 56才 こかんの大阪匂いがけ
嘉永6年

 更新日/2018(平成30).5.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「こかんの大阪匂いがけ」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【こかんの大坂布教】
 稿本天理教教祖伝では、この頃の出来事として、末女こかんの「大阪布教」が伝えられている。厳格な意味での史実性が乏しいと指摘されている向きもあるが教祖伝に記されていることでもあるので一応これを下敷きにする。

 1853(嘉永6)年、教祖56歳の時、みきは、夫善兵衛の出直し後急転直下母屋の取り壊しに掛かったが、この頃突如、末女こかんに大坂の地に天理王命の神名を流すよう命じられている。この時のこかんの齢まさに17才の花恥ずかしい娘盛りの身であったが、みきの仰せのままに、浪華の街に向かって度立っている。

 この時の供の者について、初代真柱の「教祖様御伝」には「又吉ほか三名」となっている。お伴をした忍坂村の又吉が旅費が欲しいと言った時、教祖は、どこへ行っても「凌ぎだけやで」とおっしゃったという話が残っている」(「凌ぎだけやで」、昭和五十四年十月発行「神の出現とその周辺」、高野友治著作集第六巻、道友社刊98p)。

 供の者について古老の人々の一致する意見は、この供の中に少なくとも一人は忍坂村の西田伝蔵の子供が加わっていた筈であるということである。西田伝蔵は、みきのすぐの妹に当るくわの夫である。くわは、みきと一番年齢が近かったせいか、兄弟衆の中でも特に気が合っていたということである。そんなことで、くわが忍坂村の西田伝蔵へ嫁入りしてからも、両人の間には屡々往来があり、みきが神一条となられてからも、時々西田家を訪れられることがあったと伝えられている。みきは、家族、親戚、近隣と先ず手近なところから親神の教え、神様の理を説き始めたということになる。周囲が気違い扱いしている時代に最も身近な血を分けた妹くわが姉みきの最初の最良の理解者であったということになるようである。みきのこうした伝導は「においがけ」と云われるが、その手始めは妹くわに始まったともいえる。西田家の方々は、相当早くからみきの親神様の教えに深い理解と関心を持っていたものの様で、中山家の家族を除けば、この西田一家が一番最初の信仰者であったと推測できる。

 ところで、西田家には、勇助、藤助、又三郎、幸助、おたねという五人の子供があって、こかんのお供をしたのはこの五人の中の誰であろうかと云うことになるが、これには二説あって、五人兄弟の中の末の妹であるおたねの伝によれば、この人は、こかんの大坂布教当時9才であるが、(その後長じて宇陀の細川家に嫁し、なほと改名した。その後もしばしばおぢばに参拝して、昭和の初年頃まで長生きしている)、供をしたのは一番長兄の勇助(別名改三郎)と三男の又三郎(別名又二郎、或いは又吉)であったと云う。ところが高井直吉はじめ古老の人々の中には、次男の藤助一人であった様にも聞いていると云う人もおり定かでない。「教祖様御伝」には次男の又吉外三名となっており、いずれにせよ外二名が誰であったのかということが問題になるが、この場合は、途中から信者の人が加わったという説や中山家の元の使用人という説もある。かかる言い伝えが残っていることによって、当時既に数こそ僅少であったが、みきの教えを奉ずる人々があったのではなかろうかということや、又、中山家が貧のどん底の一歩手前まで落ちきっていた嘉永6年当時にも、なお昔日の恩顧を忘れないで、主家と運命を共にす覚悟で中山家に仕えていた使用人もあったのではないかと云うことも偲ばれる。とにかく、ここで踏まえておくべきことは、貧のどん底への一歩手前というところに立っていた当時、「落ちきったら吹き上がる」と仰せ下されたお言葉のままに、世界助けの親心を明らかに世間へお示し下される壮挙が行われたという事実である。

 
こかん一行が大坂へ向かわれた日は正確には不明であるが、秋頃というのが定説である。この日、こかんは未明に起き出て、支度を整え、その身形はつむぎを染めた裾模様のある振袖を裾短に着て脚絆をつけた旅姿で、みきに見送られて、ぢばの朝霧をついて一路西へ歩みを進めた。丹波市、二階堂、平端、安堵、竜田、福貴、福貴畑を経て十三峠を越えた。これより北高安に下り一路大坂の街へと急いだ。めざす宿舎について旅姿を解いた頃は夕刻であったと思われる。この日泊まった宿は日本橋北詰にあった岸沢屋であったとの説も伝えられている。この宿は、恐らく中山家が綿屋と称されるほど耕作に勤しんでいた頃、綿の取引に大坂へ出張する際の常宿として利用していたのではないかと思われる。

 
こかんは、神命のまにまに日本橋、堺筋、天満と、当時往来の頻繁であった街の辻辻に立ち、拍子木をたたきつつ南無天理王命、南無天理王命と声たからかに神名を流して歩いた。物見高いは今も昔も変わらぬ世の常である。突如現れたうら若い乙女が裾模様の振袖姿で、真剣な面持ちに拍子木を叩きながら、神名を連呼している姿が人目を曳かぬ訳はない。道行く人は足を留め好奇な目を注いだに違いない。あれは一体何者であろう、神名らしいもの唱えているようであるが、一向に聞いたこともない、真剣な面持ちではあるが気でも狂っているのだろうか、見ればうら若い年頃の身であるが、田舎娘に似合わず何処やら気品があるではないか、口さがない町人たちは口々に好き勝手な囁きを為したことであろう。しかし、何れにしても、「においがけ」がかくして為されたのである。そして翌日も又場所を変えて同じく神名を流して歩いた。こうしたことを幾日繰り返したか定かではないが凡そ3日位であっただろうと推測される。かくて無事大任を果たした一行が何れの帰途を取ったのか、これも確と判明しないが、みきはこの一行をいとも満足気に迎えられ、ご苦労やったなあと厚く、その労をねぎらわれた。こうしてはじめて、みきの教えが親神様の御名をもって世間の耳底に伝えられたることになり、世界に向けて初めての「においがけ」の道が開かれることとなった。


【「においがけ」考】
 お道」では、教理の取次ぎの第一次を「においがけ」と云う。その次に具体的な「お助け」となり、功をいただいた者は道人(信者)となり「ひのきしん」と「おつくし」(喜捨)へと向かうことになる。この間、道人は「おつとめ」に勤しみ、「たんのう」と「談じ合い」、「練りあい」を楽しみつつ生かされている喜びで「お助け」に向かう。その道中は「成人」の過程であり、成人度に応じて「世直し、世界の立て替え」へと進んでいくことになる。この間味わうべきは「生活への勇み」であり、「陽気暮らし」を最良の生活の仕方と心得る。「においがけ」とは、この端緒の行為である。教祖の教えたこの道筋には普遍性があり、道人ならずとも通じる金言ではなかろうか。

【「においがけ」の宗教史的意味考】
 この「においがけ」が、ペリー率いる黒船艦隊の来航時に為されたことは意味深であると考える。その後の歴史で明らかになることは、黒船艦隊は単に日本を西欧化する端緒となったばかりではなく、西欧思想特に近現代史を操る国際金融資本帝国主義(略して「国際ユダ屋」と命名する)の宗教思想的イデオロギ―をも運んで来た。教祖は、この時、この動きに対抗的に立て合わせるかの如き「においがけ」を敢行していることになる。それはあたかもお道教理が濃厚に育む日本の縄文的イデオロギ―で立ち向かった感がある。政治史的には何の関連も認められまいが、精神界史的にはこのような深い意味を持つように思われる。

 2011.2.14日 れんだいこ拝

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(私論.私見)