第10部−212 「転向文学」考

【転向文学について】
 1933年の佐野学と鍋山貞親の共同署名による転向声明が獄中から発表され、同年『改造』7月号に「共同被告同志に告ぐる書」として掲載された。それを皮ぎりにプロレタリア学者たちも次々に転向し、高見順の場合のように、運動から離れる「手記」(1933.2月)を書いて保釈されるケースをはじめとして 1934年にはいわゆる「転向文学」が登場してくる。その多くが私小説の形をとった。

 主なものに村山知義「白夜」(『中央公論』五月号)、「帰郷」(『改造』七月号)、島木健作「癩」(『文学評論』四月号)、藤沢桓夫「世紀病」(『中央公論』二月号)、窪川鶴次郎「風雲」(『中央公論』一一月号)、徳永直「冬枯れ」(『中央公論』一二月号)などである。翌年は中野も一連の転向小説を発表し、「第一章」(『中央公論』三五年一月号)、「鈴木・都山・八十島」(『文藝』三五年四月号)、「村の家」(『経済往来』三五年五月号)、「一つの小さい記録」(『中央公論』三六年一月号)、「小説の書けぬ小説家」(『改造』三六年一月号)らがそうである。

  転向の理由は各個人様々で、家庭愛、拘束からくる反省や、教誨師の影響、健康からの理由などが挙げられる。本多が「転向と狂気とは、もともとどこかに関係があるためなのか、中野も、村山も、島木も、転向の過程に発狂の恐怖を書き入れていた。」と指摘し、長い投獄生活においては、社会と疎外される事、民衆、同志からの連帯感を失うことが狂気につながるのか、いずれにしても内的な、はっきり言えば以前から党の活動に疑問を抱いていたことが上部の崩れによってこの時一気に露出したことも原因の一つではないかと見る。


【弾圧の実態と恐怖】
 まず、当時の弾圧の様子を見ておく。川口 奈央子氏の「『文学者に就いて』について」 村の家からみる転向」」を参照すると、「1934.3月は日本プロレタリア文化連盟(コップ)の大弾圧・検挙があった年で、中野重治をはじめ、窪川鶴次郎、村山知義、壷井繁治、中条百合子、山田清三郎ら多くのプロ文学者が逮捕された。その約二年後、彼等の大半の者は転向し出獄している」、「中野も日本共産党員であったことを認め、今後共産主義活動に加わらないことを誓いーこれが当時の転向の条件であったー出獄している。懲役二年執行猶予五年の判決を受けて出所。 なおこの時上申書と父親の謝罪が必要であった」とある。

 れんだいこから見れば、これは止むを得なかった「応法」対応では無かろうか。もし完黙を貫き、非転向を意思表明すれば、小林多喜二のような虐殺が待ち受けていたであろう。宮顕は、「こいにつには何を云っても無駄だ」と特高があきらめ拷問の手が緩められたことを誇っているが、そういうことは有り得る筈が無い。この論理は、虐殺に倒れた同志に対する侮辱以外の何ものでも無かろう。

 これにつき、当時の転向の様子を本多秋五は、「転向文学論」(1954年、猪野謙二編「岩波講座文学」第五巻)の中で、「佐野、鍋山の転向ゃ、獄中生活の苦痛や日本国家による圧迫なしにも、不可避的に、声明書のような内容をもちえ たかどうか疑問で、耳を覆って鈴をぬすむ背教者の仕業とみるのが、当時もいまも変らぬ健全な常識であろうと思う」、「最大の原因は、いうまでもなく外的強制にあった。外的強制というなかには、検挙・投獄・拷問だけでなく、最悪の場合には死刑をも覚悟せねばならなかった治安維持法改悪の恐怖もあった」と述べている。これが素直な観点となるべきだろう。但し、物足りない面があり「反面の真理」ということにしたい。

 「月刊『正論』」(2002.11月号)の浜本兵吉氏の「日本共産党の戦後秘史」に次のような記述がある。「日本共産党の正史によると、戦前の日本共産党員は、絶対主義的天皇制の圧制の下、特高警察の言語同断の弾圧・拷問に屈せず、不撓不屈のたたかいを展開したとくりかえし強調される。『アカ弁』という言葉がある。日本弁護士会に所属する共産党員または共産党系の弁護士のことである。この『アカ弁』のリーダーの一人に、共産党の衆議院議員で青柳盛雄という人がいた。長野県(信州)の出身で、正直で実直、竹を割ったような性格でずけずけと歯に衣を着せぬものの言い方をするひとだった。

 彼が、確か日本共産党の党史が発表された時だったと思うが、当時国会秘書をしていた私に、『戦前の日本共産党員が、特高警察に反対して不屈にたたかったなどという文章を読むと私なんかは恥ずかしくて顔が赤くなってくるよ』といったことがある。私は意外に思って聞き返すと、『だれそれが逮捕されたという連絡がきて、警察へかけつけていく。せめて私が警察につくまでは頑張って欲しい、そう思って警察につくと、もうなにもかもしゃべったあとだった。いつもそうだったなあ』という」。これが実際だったのではなかろうか。



【転向を生み出した土壌について】
  佐野・鍋山の転向声明をきっかけとして転向が相継いだ。声明は、それまでの党運動の欠陥を鋭くついていた面と「日本の皇室の連綿たる歴史的存続」を賛美する両面から構成されていた。最高指導者である彼等の転向は、党員に衝撃と不信の念をもたらした。思想ではなく権威が崩れたことによって、紐がほどけるように上部から瓦解していくことになった。

 伊藤晃氏は、「転向と天皇制」(1995.10月・頸草社)で、当時の大量転向を 「権威が崩れたときに思想の欠如が人々に意識され(後略)」、「自分は裏切られたという不信感は、昔から上部依存のこの党には当然予想されたことだが、さらに踏み止まろうという人びとへの思想的援助がなかったことも、敗北感をいっそう強めるはずである」と指摘している。

  石堂清倫氏は、「中野重治と社会主義」(1991年、頸草社)で、概要「それらにとって変わる思想が存在せず、自らも作ることができず、日本においてのマルキシズムが一つの運動ではなく『一つの状態』」であったと指摘している。

 
戦前、非合法化された共産党は、プロレタリア作家同盟を、党活動ための合法的な組織、いわば一種の隠れ簑として利用しようとした。そのため、作家同盟は警察の厳しい監視と取り締まりの対象となった。転向はその必然的結果であったが、それは外的理由であろう。

 しかし、それだけに止まらず、何等かの内的な、転向へと導く思想の流れの変換があったはずである。内的理由として、作家同盟のなかの党員文学者と党員でない文学者の間に権力主義的な上下関係が出来てしまった結果、自分が党員であることをほのめかしながら権威主義的に振る舞う文学者に対して、党員でない文学者の間に反感や反発が生まれていた。しかも、党員文学者が指導的な立場から、同盟員に対して、政治目標のテーマ化を要求し、「階級的必要の観点」という創作方法論を掲げて、題材の取り上げ方から人間の描き方に至るまで厳しい注文をつけてきた。そういう制約のために創作活動の行き詰まりを感じた、一般の作家同盟文学者の何人かは、もっと主体的で、自由な創作活動を求め始めた。それに対して、右翼的偏向とか小ブルジョア的怯懦(きょうだ)とかいうレッテルを貼るだけで、あとは公式的な創作理論を押しつけることしかできなかった。そのような軋轢が重なって作家同盟から離れる文学者が相継ぎ、作家同盟は先細り状態となって、1934年2月、解散する。ここにも転向要因があったのではないか。


【転向文学者のその後の軌跡、「応法」の様子
 さて、問題は次のことにある。当時検挙されたプロレタリア文学者は、党中央の転向声明を契機として雪崩を打って転向していった。転向派は、「応法」対応で合理化すれば良いものを多様な生態を見せている。この時、如何なる風に合理化したか。

 反転して当局派へと転身し、日本の侵略戦争を積極的に合理化し、推進しようとし始めた。林房雄や亀井勝一郎は、転向後その方向へ進んでいった文学者であった。

 忸怩たる思いを持った転向派は次のような内面心理を吐露している。

 一つの極論は、「道義的敗北論」であった。「道義的なものを見る。もちろん自分が一度抱いた信念を守りえないことは汚辱・恥には違いない」とか「文学者といえども、政治的節操を守っていいし、守らなければならぬことは言うまでもない」(貴司山治)、「彼等は転向せずに其々の如く死ぬべきである」論があったようである(板垣直子の「文学の新動向」 、一九三四年九月『行動』)。

 しかし、これはやはり暴論であろう。「美学」的には理解されるが、運動論上に益するものは何も無かろう。

 内面世界に沈潜するグループをも生み出していた。
中野重治は、転向後その方向へ進んでいった文学者であった。中野重治は、1934年5月東京控訴院法廷で、日本共産党員であった事を認め、共産主義運動から身を退く事を約束して、執行猶予の判決を受けて即日出所した。その時の心境と転向者としての自分の位置を、「『文学者に就いて』について」の中で次のように述べている。「弱気を出したが最後僕らは、死に別れた小林の生きかえってくることを恐れはじめねばならなくなり、そのことで彼を殺したものを作家として支えねばならなくなるのである。僕が革命の党を裏切りそれに対する人民の信頼を裏切つたという事実は未来にわたって消えないのである。それだから僕は、あるいは僕らは、作家としての新生の道を第一主義的生活と制作とより以外のところにはおけないのである。もし僕らが、みずから呼んだ降伏の恥の社会的個人的要因の錯綜を文学的錯合のなかへ肉づけすることで、文学作品として打ちだした自己批判を通して日本の革命運動の伝統的批判に加われたならば、僕らは、そのときも過去は過去としてあるのではあるが、その消えぬ痣を頬に浮かべたまま人間および作家として第一義の道を進めるのである」。

 更に、「村の家」(中野重治、一九三五年五月『経済往来』)で、その消えぬ痣として中野に残っている転向問答を次のように語っている。共産党員であった主人公の勉次は転向し出獄した後、父と母のいる村の家に帰る。そこは相変わらず古い封建制度の残っている社会である。この村全体が古い封建主義の象徴として構図されており、父と母に一般的な民衆の姿が反映されている。勉次は、他のインテリゲンチャ系共産党員と同様に、実際の農民、民衆の姿を村で暮らすことによって皮肉にもやっと本当の民衆の生活に触れることができる。

 この時、共産主義運動に関わった息子の更正につき、親子で次のような会話をしている。父母はどちらも伝統的価値観の只中にあるが鮮やかな対比を見せている。 母はなぜ共産党員になったか、天皇陛下に弓を引くようなことをするのかとにかく「すべてがよくわからぬらしい」姿で描かれている。(しかし彼等が運動の対象に扱ってきた、といえば聞こえはわるいが、民衆の大部分がこの様であったのではないか)

  父は一応思想的には理解しているが、「お前が捕まったと聞いた時から、お前は死んでくるものだとして、処理してきた。それが転向と聞いて、びっくりした。それでは革命などと書いたことは、全て遊びだったという事になるではないか?」と言われて返す言葉が無い。 「革命だ!と口にしたからには、命を懸けてそれを守れ!」と言われて、それに反論できる正当性がどこにも無かった(この自覚こそが、中野重治が尊敬されるところとなっている。いわば「自己否定のまじめさ」のようなもの)。親父は、「 それがいいか悪いかではなく一度信じたものは貫き通さねばならぬ」、「お前らア人の子を殺いて、殺いたよりかまだ悪いんじゃ」と語り、当時の左派の運動の底の浅さを叱責する。

 いわば“裏切り者”に対する視線を投げつけられた勉次は苦悶する。二様の民衆論理を投げかけられて、勉次の生き方が問われる。 内的には自分の思想を捨てていないが、それが外的にはどういうふうにしろ「転向」という形を取った。何を同言っても嘘、いいわけになるが、それでも筆を捨てたが最後、戦いを放棄してしまう。勉次は出獄して「タノミとツネの前で手をついて頭を下げた。しかし、何を、なぜ謝るのかはいえなかった」。ここは重要な箇所である。この頭を下げるのは自分への屈服、または弱さ、を表している。タミノは同志であり、他人ではなく共産党員であった自分の姿でもある。しかし父には頭を下げない。最後の「それでも書いていきたいと思います」は残された唯一の抵抗だった。

 
 この中野について
石堂清倫氏(1991年)が次ののように「救出」している。「中野は『転向』によって、一つの妥協と後退にふみ切った。彼は正面肉迫戦を断念して、迂回しながら敵の本陣に接近しようとした。逆に言えば、そうするために『転向』した。彼は『転向』によっていくつかのものを棄てたが、目標を見失うことなく、それに到達する文学的手段はけっして捨てなかった。中野の『転向』を責める人はそのところに目をとざしている」

 この事実をどうとらえるか。『近代文学』のグループ、特に平野謙、荒正人はこれを取り上げた。「あのように大量の転向者を生み、積極的な戦争協力者を生んだ理由は、ただ単に国家権力の弾圧というだけでは説明できない。プロレタリア作家同盟の組織のあり方と運動方針、そして創作方法にも原因があったのではないか〉という問題意識によって再検討に取りかかった」。


【戦後の転向文学者の自己批評の欠落】
 戦後文学において「戦争責任文学」とでも云える流れの中で、概要「高見順や武田泰淳の作品には、ごくわずかながらも自己批評の萌芽が見られないでもないが、自分たちが植民地支配した土地や、軍事占領をした土地で何をし、何を残してきたかを、全体的に総括してみようとする動きも見られなかった。これは戦後の文学、あるいは文学研究の大きな欠落部分ではないか」(1970年5月の「他民族体験と文学非力説」)と批判されている。


吉本氏による花田清輝批判
 「この世界には、本質的に経済社会構成のなかに疎外があり、人民と支配者のあいだに矛盾と対立があり、それを止揚する課題は、ソ連圏も米国圏をもとらえてはなしはしない。これをわすれて、リアル・ポテンシャルを気取つている連中は、人民の味方のような顔をして、いつ、敵に転化するかわからない。もっ とも、花田清輝などは、敵としても堕落した敵で、戦争中、諸君、祖国のために死んでくれ、わたしもあとからゆく!などと、われわれの世代の青年を特攻 攻撃にかりたてながら、じぶんは買だめ物資を飛行機につみこんで、逃げかえつた将軍とさして変りばえもしまいが」 (「転向ファシストの詭弁」1959.9「近代文学」に掲載 「異端と正系−芸術的大衆化論の否定」1960.5現代思潮社に収録された)。


本多秋五の「転向論」
 戦後を代表する文芸評論家の一人で雑誌「近代文学」の最後の創刊同人・本多秋五氏は2001.1.13日逝去した(享年92歳)。本多氏の履歴は次の通り。愛知県生まれ。1932年東大国文科卒業後、プロレタリア科学研究所に入り、「文芸史研究の方法に就いて」を発表した。翌年治安維持法で検挙され、逓信省などを経て、戦時中はトルストイ研究に打ち込んだ。戦後、平野謙、埴谷雄高、荒正人、佐々木基一、山室静、小田切秀雄と創刊した「近代文学」で中軸となって活動。1946年1月の創刊号に「芸術 歴史 人間」を書いた。

 1947年「『戦争と平和』論」。『「戦争と平和」論』は、戦争による死を覚悟した遺書として書かれた。この遺書という性格は、竹内好の『魯迅』、武田泰淳の『司馬遷』、丸山真男の『日本政治思想史研究』にまとめられた諸論文、そして花田清輝の『自明の理』や埴谷雄高の『不合理ゆえに吾信ず』まで、戦争末期にいわば日本の近代文学、近代思想の「最後の言葉」として書かれた著作に共通している。これらの戦後の思想・文学の基層を形成することになった著作は、けっして戦後を予見して書かれたものではない。

 1949年「小林秀雄論」、1957年「転向文学論」などを刊行し、ヒューマニズムを基底にした重厚な評論で活躍した。「上部構造論についての手紙」(五六年)、「有効性の上にあるもの」(五九年)、戦後派擁護の論陣を敷いた「物語戦後文学史」(60〜65年)で毎日出版文化賞、「『人類学的等価』について」(六四年)、「『無条件降伏』の意味」(七八年)、「古い記憶の井戸」(82年)で読売文学賞、「志賀直哉」(90年)で毎日芸術賞を受賞。78年には第二次世界大戦の降伏をめぐって、毎日新聞紙上で江藤淳と「無条件」論争を展開。戦後民主主義の代表的な論客の一人として知られた。

 69〜79年、明治大教授。他の主な著書に「『白樺』派の文学」「宮本百合子論」など。99年には「本多秋五全集」(全16巻・別巻1)が完結、息の長い評論活動で文壇に存在感を示した。 文芸評論家、川村湊さんの話 「近代文学」に集まった文学者たちの中では、地味ですが底支えのような存在でした。ヒューマニズムの立場から、戦前の日本の社会体制を批判し、トルストイを丹念に読み、日本の文学史を考えるといった仕事をされました。

 この本多氏の「転向論」は、「自分は敗戦直後にまちがいなく青空を見た」とする観点から、戦後文学を占領政策の申し子だとするような江藤淳の批判に立ち向かっていたことに価値が認められる。、本多さんの戦後の第一声である「芸術・歴史・人間」(『近代文学』創刊号)は、戦争中の経験の再確認であると同時にその戦争中の経験をもって「戦前」の批判的克服を主張しているという意味で、まさに戦争体験派としての戦後派のマニフェストとよばれるにふさわしい(『図書新聞』2001年1月27日号)



吉本隆明の「転向論」
 転向問題については、1958年、吉本隆明が「転向論」(1958.11月「現代批評1号」に掲載 「芸術的抵抗と挫折」1959.2月未来社に収録された)を書いて、新しい展開を与えました。彼は日本のマルクス主義を日本的な近代主義の一つととらえ、転向の発生理由を次のように解析した。「転向とはなにを意味するかは、明瞭である。それは、日本の近代社会の構造 を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考転換をさしている」。

 つまり、マルクス主義をも含む日本的近代主義が「日本の近代社会の構造 を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなった」ことから、大衆から孤立し、土着の思想と有効に対決し得ず、その結果発生した思考変換が転向の要因であると見抜いた。その視点から見れば、戦争中の獄中非転向もまた近代主義の一形態だったことになります。

 彼の視点は転向論だけでなく、日本の近代に関する新しい見方を作り出すほどの大きな影響をもたらしました。また彼の視点に立てば、野間宏の『暗い絵』の学生運動家たちはいずれも大衆から孤立していたこと、主人公の自己完成というテーマもその裏側に大衆嫌悪・大衆蔑視を潜めた、孤立した自我の願望にすぎなかったことは明らかでしょう。


 吉本隆明は、更に云う。「日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが、とびぬけて大きな要因であったとは、かんがえない。むしろ、大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが私の転向論のアクシスである。生きて生虜の耻し めをうけず、という思想が徹底してたたきこまれた軍国主義下では、名もない 庶民もまた、敵虜となるよりも死を択ぶという行動を原則としえたのは、(あ るいは捕虜を耻辱としたのは)、連帯意識があるとき人間がいかに強くなりえ、 孤立感にさらされたとき、いかにつまずきやすいかを証しているのだ」と指摘している。

 この吉本氏の見方は、本多秋五氏の「転向文学論」の当局の弾圧要因説の空漠を撃っている。「わたしは弾圧と転向とは区別しなければならないとおもうし、内発的な意志がなければ、どのような見解もつくりあげることはできない、とかんがえるから、佐野、鍋山の声明書発表の外的条件と、そこにもりこまれた見解とは、区別しうるものだ、という見地をとりたい」としている。

 吉本氏は、1959年(昭和34年)「過去についての自註」(1959.2月「初期ノート」)で、「わたしの思想の方法」として次のように述べているのも注目される。「すべての思想体験の経路は、どんなつまらぬものでも、捨てるものでも秘匿 すべきものでもない。それは包括され、止揚されるべきものとして存在する。 もし、わたしに思想の方法があるとすれば、世のイデオローグたちが、体験的思想を捨てたり、秘匿したりすることで現実的『立場』を得たと信じているのにたいし、わたしが、それを捨てずに包括してきた、ということのなかにある。 それは、必然的に世のイデオローグたちの思想的投機と、わたしの思想的寄与 とを、あるばあいには無限遠点に遠ざけ、あるばあいには至近距離にちかずけ る。かれらは、『立場』によって揺れうごき、わたしは、現実によってのみ揺 れうごく。わたしが、とにかく無二の時代的な思想の根拠をじぶんのなかに感 ずるとき、かれらは死滅した『立場』の名にかわる。かれらがその『立場』を強調するとき、わたしは単独者に視える。しかし、勿論、わたしのほうが無形の組織者であり、無形の多数者であり、確乎たる『現実』そのものである」。





(私論.私見)


*参考文献*
中野重治 「『文学者に就て』について」 一九三五年二月 『行動』
中野重治 「村の家」 一九三五年五月号 『経済往来』
貴司山治 「文学者に就て」 一九三四年一二月一二日〜一二月一五日 『東京朝日新聞』
板垣直子 「文学の新動向」 一九三四年九月 『行動』
中条百合子 「冬を越す蕾」 一九三四年一二月 『文藝』
「新人会座談会」 一九三五年一月 『文芸評論』
「新潮日本文学アルバム六四 中野重治」 一九九六年 新潮社
平野謙 「昭和文学史」 一九六三年 筑摩書房
荒正人 「転向文学論」 一九五六年 青木書店 『日本プロレタリア文学』
抑圧と抵抗の昭和史研究会 「抑圧と抵抗の昭和史・事典編」 一九九一年
                                                                                          イクォリティ
湯地朝雄 「プロレタリア文学運動」 一九九一年 晩聲社  



「戦後文学」の起源について
――“最後の頁”からの出発――

 「あきらめと居直りと遺書としての死地文学」、「死地従軍文学」、「時局迎合文学」、マルクス主義が禁圧された思想的空白のなかでの西田哲学、京都学派の哲学への接近、「主体性」論の誕生。

 「あきらめと居直りの遺書文学」
 戦争末期の状況のなかで、死と直面しながら、自分の存在の痕跡を残そうとした孤独な営み――それが戦後思想・文学が胚胎した誕生の地である。だからそこにうまれた一群の作品は、多かれ少なかれ「遺書」のおもむきをもっている。そのようなものとして、花田清輝『自明の理』、『復興期の精神』、武田泰淳『司馬遷―史記の世界』、竹内好『魯迅』、本多秋五『「戦争と平和」論』、埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』、文学以外では、丸山真男『日本政治思想史研究』、石母田正『中世的世界の形成』、その代表作としての本多秋五の戦後にはじめて刊行された『「戦争と平和」論』(一九四七年九月、鎌倉文庫刊)。

2 転向の影の下で

 藤田省三は「戦後の議論の前提――経験について」(『精神史的考察』所収)のなかで、「戦後の思考の前提は経験であった。どこまでも経験であった。いわゆる「戦争体験」に還元し切ることの出来ない色々のレベルにおける経験であった。経験的基礎からかけ離れて宙に浮いた「議論」や天から降ってきた「虚妄」の思想体系が何の内部的葛藤も経ないで内容空疎な全体像となっていたのが戦後の思考状況なのではない」と言い、その「戦後経験」として、第一に、国家(機構)の没落が不思議にも明るさを含んでいるという事の発見、第二に、すべてのものが両義性のふくらみを持っていることの自覚、第三に、「もう一つの戦前」、「隠された戦前」の発見、「もう一つの世界史的文脈」の発見をあげ、つぎのようにつづけている。

「私たちはとかく戦後の「価値転換」という表面に眼を奪われるあまり、戦後の思考の実質が実は「もう一つの戦前」によって形成されていたことを見失いやすい。しかし戦後の経験を思考によって造形する際に働いていたものは殆ど尽くと言っていいぐらい「もう一つの戦前」なのであった。「もう一つの戦前」が次々と姿を現し、一つ又一つと発見されて行く過程が戦後史なのであった。過去についての発見が現在を形造り未来の在り方を構想させるという、動的な時間感覚の存在と働きが其処にはあった。そこでは過去は既存の所与ではない。更めて発見されるものであり、その意味で現在の営みであり、明日にも又更めて発見されるものであるという点で未来なのでもあった。「もう一つの」という言葉の意味はそこにあり、複合的な時間意識と「未来を含む歴史意識」がそこに躍動していた。この時間の両義性と可逆関係が戦後経験の第四の核心をなしていた。」

 藤田省三がここで指摘した四つの柱は、われわれが「戦後」を考えるときに説得的であるように見えるし、また同感するところも多い。たしかに、マルクス主義の復活と隆盛という方から見れば、戦後の新しさには「もう一つの戦前」の発見、あるいは正当な復権ということがあったのは間違いない。「獄中十八年」や「亡命十六年」が、畏敬や希望の国民的な広がりを持ち得たのがそのことを雄弁に語っている。

 しかしこれは、「もう一つの戦前」の無批判的な復活にはげしく抗うことをつうじて、はじめて「戦後的なもの」が見えてきたという私の経験とひどく違っているようにおもわれる。敗戦直後のいわゆる「主体性論争」にせよ共産党内部の志賀・神山論争にせよ、そこで争われたのは「もう一つの戦前」と「もう一つの戦中」、戦前のオーソドックスなマルクス主義の無批判的な復活にたいする戦中経験に固執する自立的な思想・運動者の対立だったのである。

 吉本隆明はかつて「戦後文学は、わたし流のことば遣いで、ひとくちに云ってしまえば、転向者または戦争傍観者の文学である」(「戦後文学は何処へ行ったか」)と言ったことがある。彼はこれを否定的な規定として言ったのだったが、私は肯定的な意味をこめてこれを承認したい。「戦後的なもの」の出発点は「転向」である。もちろんすべての転向が戦後に往く道であったわけではない。それではなにが転向を生んだのか、転向によってなにが可能になったのか、そしてその可能性のなにが「戦後」につうじていたのか。――

 私は先に「戦後」を準備することになった何冊かの本をあげたが、そのすべてが多かれ少なかれ「転向」の影のもとでの労作であったことに注目しなければならない。当時の厳重な言論統制と検閲制度のもとでは、体制批判的なすべての言論が「奴隷の言葉」を使わざるをえず、「マルクス曰く」というスタイルの戦前型の文章は完全に影をひそめたが、そのことはまた否応なく思想の自立をうながす結果ともなった。しかしそこで決定的な契機となったのは「奴隷の言葉」ではなく「転向」だった。もちろんすべての転向が思想の自立を準備したわけではない。転向したプロレタリア作家の大部分は、プロレタリア文学理論の核心をなした「政治の優位性」論をそのまま温存して、逆のヴェクトルをもった政治に「従属」していったのである。「政治か文学かではない文学だ」と見得を切った林房雄も、数年の後には天皇制と侵略戦争のイデオローグとして「政治の優位性」を実践することになる。

 林房雄と同世代のプロレタリア文学運動の中心的な担い手のなかで、転向をつうじて思想の自立への道を歩むことに成功したのは、わずかに中野重治だけだったといってもいい。(私の「中野重治と転向の問題」「敗北からの再建の道――三〇年代後半の中野重治」、いずれも『歴史の道標から』れんが書房新社刊、を参照いただきたい)。

 ここでは中野重治より一世代後の、「戦後文学」の実質的な担い手となった人たち――彼らもまた、その大部分が多かれ少なかれ末期のプロレタリア文化運動にかかわり、逮捕・転向を体験していた――の「転向」について検討する。

 埴谷雄高は一九三〇年、二十歳の時に出席不良のために日本大学予科を除籍され、プロレタリア科学研究所農業問題研究会をへて農民闘争社に入り、翌年には日本共産党に入党、三二年三月に逮捕され不敬罪と治安維持法によって起訴される。翌三三年一一月、転向を表明して懲役二年執行猶予四年の判決をうけて出所。彼の転向の契機は一つには彼が体験した党のなかになお無自覚に温存されているピラミッド型の階層構造にたいする批判と、彼がアナーキストからボリシェヴィズムに転ずるに当たって決定的な役割をはたした『国家と革命』でレーニンが描いた国家の死滅という未来図が、現実の革命のなかではまったくの絵空事でしかないことの発見であり、もう一つは獄中でのカントとくにその『純粋理性批判』中の先験的弁証論との出会いだった。その出会いについて彼は戦後につぎのように書いている。

「恐らく人生には、ひとつの決定的な出会いという瞬間があるのだろう。他のものにとってはさしたる事柄でないひとつの事象が、その当人にとっては生死の大事となることがあるのだろう。私にとって、先験的弁証論はまさしくそれであった。晨に道を聞けば、夕に死すとも可なり、とはかくのごときものかと魂の奥底深く酷しく思いしった。〔……〕勿論、この領域は吾々を果てなき迷妄へ誘う仮象の論理学としてカント自身から否定的な判決を受け、そこに拡げられる形而上学をこれも駄目、それも駄目、あれも駄目と冷厳に容赦なく論破するカントの論証法は、殆んど絶望的に抗しがたいほど決定的な力強さをもっている。けれども、自我の誤謬推理、宇宙論の二律背反、最高存在の証明不可能の課題は、カントが過酷に論証し得た以上の過酷な重味をもって吾々にのしかかるが故に、まさしくそれ故に、課題的なのである。少くとも私は、殆んど解き得ざる課題に直面したが故にまさしく真の課題に当面したごとき凄まじい戦慄をおぼえた。私の眩暈は、同時に、私の覚醒なのであった。〔……〕そして、嘗てカントの課題であったものがまた私の課題となったとき、私のまずとるべき方法は極端化であった。灰色の壁に囲まれたなかに、ただひとりで眼を閉じて端坐していること、そのこと自体がもはや私に無限の問いかけを呼ぶ課題なのであった。私が眼前に意識するものより私が意識すること自体が端的な課題なのであった。」(「あまりに近代文学的な」)

 これは「戦後文学」のひとつの峰である『死霊』が、すでにこのときに作者のなかに胚胎したことの明確な証言である。そして埴谷雄高の転向は革命思想からの水平な離脱つまりそれから何かへの転化ではなく、垂直な飛翔であり、その垂直軸からみればそれは根底化という様相をしめす。永久革命者というフェーズにおいて彼は非転向である。

 埴谷雄高がこの国のマルクス主義の理論と運動から宇宙の高みにまで一挙に離脱したのにたいし、本多秋五の場合はその思想的自立へのあゆみは慎重であり、まさにその対極に位置した。彼は戦後に書かれた「転向文学論」のなかで「小林多喜二の線」ということを言っている。

「小林多喜二の線は、外的強制にあって挫折した。もちろん、外的強制は非合理なものであった。しかし、それはある歴史の現実性をつかんでいた。その意味で、それは非合理的合理であった。それと合理的なものとの戦いは、この合理的なものが観念性をまぬがれえなかったかぎりで、非合理と合理的非合理との戦いであった。この二つのものの戦いは、われわれの眼前いたるところに見出されるのであるが、歴史の急カーブにおける抵抗最大の点では、この二つのものの戦いが、生きた人間を呑みつくして戦われる。問題は、この非合理なもののもつ現実性、合理的なものの漂わされている観念性にある。詰まり、母なる国民大衆の動きにある。」

 これは、プロレタリア科学研究所芸術部会のもっとも期待された理論家であり、またプロレタリア科学同盟執行委員会の一メンバーとして一九三三年一一月二三日に検挙された本多秋五が、自分の経験にてらして転向を運動論的に語った数少ない文章のひとつである。ではここで言われている「小林多喜二の線」とは何か。本多秋五はそれを「当時の戦闘的なプロレタリア文化活動家に愛用された言葉でいえば、職業的革命家〔6字ルビ→ベルーフス・レヴォルチョネール〕たる道であった。もっと正確には、文学者にして同時に職業革命家たる道であった」と言っている。

 がんらいプロレタリア作家同盟は、一、日本におけるプロレタリア文学の確立、二、ブルジョワジー、ファシストおよび社会ファシストの文学との闘争、三、労働者農民その他の勤労者の文学的欲求の充足、の三項目を目的にかかげ、これを承認する者を同盟員としてきたのだから、「革命的プロレタリアートの陣列にあっては、文芸家もまた基本的にはプロレタリアートの政治家に外ならない」(宮本顕治)とか、「政治の優位性の全面的理解は、単に「主題の積極性」および組織的活動等による補助的任務を行うことにあるばかりでなく、又自己を最も革命的な作家、即ち「党の作家」に発展させることを意味する」(小林多喜二)とか、「ナルプにはより同伴者的、より小ブルジョワ的作家はいるが、同伴者作家や小ブルジョワ作家はいない」(同)とか、「我が同盟は、あらゆる革命的作家を成員として獲得して行くものであるが、その中に、指導のボルシェヴィキ的方向を拒む「同伴者グループ」が別個に存在し得るものではない」(「右翼的偏向との闘争に関する決議」)とか言われると、そんなことを決めた覚えはない、と開きなおる人間が出てきても当然だった。

 まして「主観的要因の強化」が、創作活動よりも組織活動により重点をおくことであったり、多数者獲得とはプロレタリア文学の読者を獲得することではなく、党や組合の拡大のことだと言われ、作家に共産党や全協のオルグの役割まで背負い込ませようとするに至って、ついに作家の反乱は避けられなくなった。さらに加えて、ボリシェヴィーキ的指導は、「三二年テーゼ」の戦略をそのまま文化運動にもち込んで、「戦争とファシズムにたいする闘争」のスローガンを「戦争と絶対主義(天皇制)にたいする闘争」と書きかえ、ことごとに「×××テロル反対」「戦争とブルジョア・地主的××制支配に奉仕する反動文化打倒」等々のスローガンを機関誌に書きつらねることによって、組織全体をますます非合法化していった。日和見主義とは、このようなボリシェヴィーキ化以来の方針について行けずに、それ以前の状態にとどまっている者の総称にほかならなかった。(拙著『プロレタリア文学とその時代』参照)

 文化運動とその組織を非合法の共産党と半非合法の全協の拡大・強化のための「補助組織」と位置づけ、大衆組織でありながら「ボリシェヴィキ的指導」つまり共産党の指導をその成員が無条件に受け入れることを要求する「芸術運動のボリシェヴィキ化」の路線は、その提唱者であった蔵原惟人が逮捕された後も宮本顕治や小林多喜二によって継承され、「議論の余地なきもの」と称して一切の批判や逡巡に日和見主義のレッテルを貼って攻撃したのである。

「小林多喜二の線」とはとりもなおさずこのような「文化運動のボリシェヴィキ化」の路線にほかならなかった。そして「転向」の初発の姿は、この路線にたいする疑問・逡巡・反対であり、その路線からの離脱なのであった。本多秋五も「転向文学論」のなかで、「「右翼的偏向」ないし「調停派」ないし「攪乱者」は、事実においても転向と一本につながったのであるが、それを事前に一本と直感させたのは、そこに暗黙に、しかも歴然と、小林多喜二の線が、ひとびとの頭のなかに描かれていたからである。小林多喜二の線からの離脱――これが、それらを「転向」と一本のもの、と直感させたのである」と言っている。

「小林多喜二の線」からの離脱がただちに「転向」としてしか実現しなかったのは、それにかわる現実的な運動が存在しなかったからである。なぜそれが存在しえなかったかといえば、そのためには「ボリシェヴィキ的指導」つまり共産党に異を立てる以外になかったからである。インテリゲンチャのなかに党の神秘化・絶対化の心情が支配していた当時にあって、それをあえておこなえたのは、全協刷新同盟で分派闘争の修羅場をくぐった神山茂夫ら少数の労働者活動家たちだけだった。(上原清三「「左翼」作家への抗議」、『神山茂夫著作集・第一巻』参照)

 だから「転向」を文字通りの転向に終わらせず、思想的自立への契機に転化するためには、自分がいままで「議論の余地なきもの」としてきたもろもろの理念と理論を相対化し、再検討することが避けてとおれぬ道であった。エルダー・ジェネレーションの中野重治はそれを「日本の革命運動の伝統の革命的批判」と呼びその道を歩んだ。後続の世代である埴谷雄高、本多秋五、平野謙、武田泰淳、そしてやや異なった道を通って花田清輝、竹内好などがそれぞれの経験をはぐくみながら、それぞれの自立の道を歩んだ。そして今日、それらの歩みを見渡すと、当然のことながらそこにはきわめて個性的な多様性が存在すると同時に、おどろくほどの問題関心の類似性を発見するのである。
 
 3 必然と自由

 では、そのような多様性のなかにみられる共通の問題意識とはどういうものだったか、そしてそれが「戦後的なもの」の誕生の地になったのはなぜか、を見ていきたい。そこでまず、本多秋五の『トルストイ論集』「あとがき」の長い引用からはじめる。彼はこのように語っている。

「『戦争と平和』は、一九三七年の暮から翌年の正月にかけて初めて読んだとき、ここに自分の問題が内蔵されていると感じた。トルストイは青年の理想や願望が一つ一つ破れて行くのを描き、一国家、一国民の運命においても同様のことが繰り返されて行くのを描いた。人間の意志願望とは無関係なある力が歴史を動かしているという感銘がここにはある。それが私をひきつけたらしい。

 そこからトルストイは、歴史は人をつくり、人は歴史をつくる、歴史における個人の役割りはどれほどのものか、という問題にぶつかった。それが自由と必然の問題である。それは最初からトルストイが予想していたことではなかったが、そこへ導かれてみると不可避な到達点と思われた。それはまた私にとっても、大変に興味ある問題であった。

 私は大学一年のときエンゲルスの『反デューリング論』を読んで、第三篇社会主義のなかの、今の翻訳では《理論的概説》とあるその第二章の最後にあらわれる「必然の国から自由の国への人類の飛躍」にいたって、びっくり仰天した。今まで考えて見たこともない人類史の未来図がそこに除幕されていたからである。そのときの瞠目的な印象は永く私の頭に残った。

 自由と必然との関係については、おなじ書物の別の個所に書かれている。ヘーゲルは、自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた人である。彼にとっては、自由とは必然性の洞察である。「必然性が盲目なのは、それが理解されないかぎりにおいてのみである。」(傍点はエンゲルス)自由は、夢想のうちで自然法則から独立する点にあるのではなく、これらの法則を認識すること、そしてそれによって、これらの法則を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。……自由とは、自然的必然性の認識にもとづいて、われわれ自身ならびに外的自然を支配することである。したがって、自由は、必然的に歴史的発展の産物である。(国民文庫、村田陽一訳『反デューリング論』1、第一篇哲学)
  
 ここを読んで、そうだ、と思った。初めて聞く意見ではあるが、たしかに思い当る節があるので、そうであるにちがいなかろう、と思った。そして、そこで、安心していた。「満洲事変」から「支那事変」へ、そしてその後の戦争の拡大深化と、「黙って事変に処した」国民の動向とは、マルクス主義の理論体系という骸骨の一部を齧っただけで何かわかったような気になっていた私にとって、まったく理解できないものであった。

 ヘーゲルとエンゲルスの「自由とは必然の洞察」論ではやって行けなくなった。「必然性」もわかりにくいものであった。必然性があるとして、歴史のなかでどこまでが必然か、そんなことは容易にわかるものではない。しかし、「自由」はもっとわからなかった。「自由は必然の洞察である」といっても、「自由は自然的必然性の認識である」といっても、渇いた人間の前に「地面を掘って地下水に達すれば、そこに水がある。」という真理をおかれたようなものである。今日ただ今、金もなければ、いいたいことをいうこともできず、やる瀬ない悶々の情を訴える術も知らない人間にとって、何の間尺にも合いはしない。

 いつか、ヘーゲルとエンゲルスの「自由」の概念は、桶狭間に殴り込みをかけた信長の「自由」を説明しえない、と考えたことがあった。ヘーゲルとエンゲルスに対する八つ当りだが、そこにも幾分の理由があったはずである。」

 ここには「昭和」のはじめに新思潮としてのマルクス主義に出会った若いインテリゲンチャが経験した、わずか十年のあいだの目まぐるしい転変の精神史が要約されている。「理想や願望が一つ一つ破れて行」った青年たちは、『戦争と平和』の主人公たちであると同時に本多秋五の同世代の青年たちである。「一国家、一国民の運命」とはナポレオン戦争下のロシアであると同時に日中戦争下の日本と日本人である。なぜ自分は歴史の流れのなかでいまここにいるのか? ここにいることの必然性のなかで自分の自由とは何か? 戦前の日本マルクス主義の最後の言葉は、「軍事的・半封建的資本主義」が存在するかぎり戦争は不可避であるという認識だった。この不可避=必然性を解体するのは唯一「プロレタリア革命に強行的に転化する傾向をもつブルジョワ民主主義革命」であるとされた。そしてその可能性が潰えたとき、左翼インテリゲンチャたちは赤裸で必然性=戦争に呑みこまれていったのである。そこでは日本資本主義の脆弱性という認識は、もはや自分一個の「自由」とはなり得なかった。そしていうまでもなく、この必然性のなかでの自由の探求は、人はいかに生きるべきか、という問いと直結していた。

 このような問題意識が生まれる場所は「歴史」だった。ミーチン=ラズモフスキーの『史的唯物論』のような「教程」類で学んだ「歴史観」では、とうていこの問いに答えることはできなかった。

 戦中期は歴史哲学の時代だった。唯物史観が権力の弾圧によって退場を余儀なくされた後に、この歴史哲学の時代がやってきた。その時代を担ったのは京都学派だった。先鞭をつけたのはプロレタリア科学研究所哲学部会の責任者を解任された三木清の『歴史哲学』(一九三二年)である。それに高坂正顕『歴史的世界』(一九三七年)がつづき、高山岩男『世界史の哲学』(一九四二年)でひとつの頂点に達する。周辺をも含めてこの人たちは政治的な差異をふくみながら、「近代の超克」派を形成することになる。これとの関連で、西田哲学のなかからその批判を通じて出発した花田清輝が、最後まで「近代の超克」派であったことの戦後的な意味は、あとで検討したい。

 しかしこのようないわば大文字の歴史とは異なった歴史への関心があった。かつての唯物史観が歴史の必然性をかかげて人びとを階級闘争の戦線に動員したのと同じように、「世界史の哲学」もまた歴史の必然性をかかげて人びとを「大東亜戦争」へと駆り立てたのだったが、それとは異なる文学的な歴史への関心が生まれた。それを代表するのが小林秀雄の『歴史と文学』(一九四一年)一巻にほかならない。本多秋五は「当時――単行本『歴史と文学』の発行されたのは昭和一六年九月のことであった――孤独と懐疑のうちに自由を探し求めていた僕は、『歴史と文学』や『文学と自分』のなかにベルグソンや臨済のそれに似た自由を確信的に、しかもたしかに肉声で語っている現代日本人の声をきき、それまで無縁にひとしかった小林秀雄の世界が急に自分に生きて作用しはじめるのを感じたのであった」(「小林秀雄論」)と書いている。

 かつて本多秋五たち若い左翼インテリゲンチャにとっては、人間の中心に「宿命」を見る小林秀雄は理解不能な「変な奴」(同上)でしかなかった。しかし運動の崩壊と転向と戦争といういわば三重苦に突き落とされたとき、彼らはプロレタリアートの歴史的使命という目的論的な人間観から、いやでも自分個人の宿命に直面しなければならなかったのである。その地点で小林秀雄と彼らを分かったのは、前者が宿命を絶対化し現実を絶対化したのにたいし、後者がその宿命を「必然性」として受け入れながらそのなかで「自由」を追いもとめた点にあった。と言ってもその違いはそれほど大きなものではない。小林秀雄も「抵抗が感じられない処に自由も亦ない」(「疑惑・」)と言っている。

「トルストイの宿命論は、絶対追求者の現実肯定の形といえる。宿命論は当然に諦念の哲学である。意欲放棄の哲学である。しかし、意欲もまた宿命の産物と見られるとき、宿命論は意欲の固執を帰結する。宿命論は自我肯定の哲学でもある。/一八一二年役は「行わるべくして行われた」とトルストイはいう。そのトルストイが、それを「人間の理性と人間のあらゆる天性に反する」という。人間によって、行わるべくして行われた事件が、人間の天性に反するとは何の謂か? 必然を必然とのみ眺めたなら、「単純でしかも恐ろしい意義」などなかっただろう。現実の矛盾が肯定され、歴史の「不合理」が腹の底まで承認されていたら、ハーディの『覇王たち〔ルビ→ダイナスツ〕』のような冷やかな観照の歴史文学は書かれたとしても、『戦争と平和』は書かれなかったであろう。「人間の理知にとって、様々な現象に対する原因の綜合は、とうてい不可解なものである。しかし原因探求の要求は元来人間の心に備わったいる。」(第一三編第一節)まさにその不可解不可抗なものに対して、一方それを認めつつ、他方あくまでそれを解明し、それに向って抗争せんとするところ、運命忍従の諦念と歴史解明の意欲との相戦うところ、そこにこそ『戦争と平和』の発展がある。」(本多秋五『「戦争と平和」論』第三章)

 一八一二年役を「大東亜戦争」と読みかえ、「『戦争と平和』の発展」をわれわれの自由と読みかえれば、この一節は戦争下の本多秋五の心象風景を語り尽くしていると言っても過言でない。
 
4 自同律と自明の理 
  
 一九三三年十一月、転向した埴谷雄高は懲役二年、執行猶予四年の判決をうけて豊多摩刑務所を出所する。「ひとの思想によって考えるのを止めてからの私には、虚無の日々をいとおしむものうさ〔4字傍点〕がおぼえられた」(『不合理ゆえに吾信ず』)と彼は書く。

 埴谷雄高はこれから数年間、当時、九段下にあった大橋図書館にかよいデモノロギイ関係の本を読んだりしてすごす。「灰色の壁から出たのちの私は、馬鹿げたことには、ひたすら、論理学と悪魔学に耽溺した。それらは一見奇妙な領域であったが、私にとっては、その二つはシャム兄弟のごとく一端が結びついている双生児であった。ひとつは私の思考を厳密に統御する巨大な壁にも似た形式で、他のひとつはあらゆる制約と形式を破って奔出しようとする生のエネルギイの最も始源的なかたちと私に思われた」(「あまりに近代文学的な」)と彼は回想している。埴谷雄高にとってデモノロギイは、「自同律の不快」をこえて「存在の革命」にいたる思考の通路をきりひらくにあたってひとつの補助的な役割を果たした。とはいえ、彼にとっての「存在の革命」はけっして錬金術のような高等魔術の「アート」ではないのである。彼にとって問題はつねに「考え方」なのであった。「他に異なった思惟形式がある筈だとは誰でも感ずるであろう。何処に? その頭蓋をうちわっている狂人を眺めているかのような表象を私はつねにもつ」(『不合理ゆえに吾信ず』)と彼は言っている。

 埴谷雄高にとっての「論理学」と「悪魔学」は、本多秋五にとっての「必然」と「自由」に相当する。埴谷雄高の言う「自同律の不快」、つまりAはAであることの不快とは、本多秋五の「必然性」とそれほどへだたったものではない。本多秋五がそれを歴史のなかで考えたのにたいし、埴谷雄高は存在論的に考えたのである。そのような問題に関心が向く背後にはいうまでもなく、巨大な必然として彼らを呑みこんだ戦争があったことはいうまでもない。

 埴谷雄高が自同律について独自の考えを展開するのは戦後になってからだが、戦争の末期におなじ問題を執拗に考えつづけていたのが花田清輝である。やがて戦後文学の両極を形成することになるこの二人は、戦争中には相知ることはなかった。花田は埴谷の『不合理ゆえに吾信ず』を知らず、埴谷は花田の『自明の理』も『文化組織』に連載され戦後に『復興期の精神』としてまとめられたルネッサンス的人間の探究も読んでいない。しかしそれにもかかわらず、この両者にはおどろくほどの問題意識の類似があり、同時に戦後の対立を充分に予測させる相違があった。

 花田清輝は一九〇九年の生まれ、本多秋五は一九〇八年、埴谷雄高は一九一〇年の生まれである。つまり彼らが大学を卒業した一九三〇年前後は、マルクス主義と左翼運動のもっとも盛んなときであり、埴谷雄高は非合法の共産党員に、本多秋五は半非合法のプロレタリア科学同盟常任中央委員となった。ところが花田清輝はこの時代にマルクス主義にはほとんど関心を示さず、もっぱら西田哲学と映画、そしてモダニズム系の芸術に関心をもってすごす。彼がマルクス主義に本格的にとりくむのは、すでに運動も崩壊した後の一九三六年からである。

「その後、わたしはマルクスやレーニンの本を読みだしたが、これとて、べつだん、共産主義に興味をもっていたからではない。戦争がすでにはじまっていたので、そういう「危険な本」は古本屋の店頭に一山いくらで並んでおり、しごく、簡単に手に入れることができたからだ。わたしは、それらの本に教えられて、インフレーションや地代や国際収支について書いた。そうして、その種の一夜づけの論文を、おそれげもなく雑誌社に売った。マルクス主義者からの反撃がなかったのは、当時、かれらがむりやりに沈黙させられていたからであろう。そのため、わたしは、いつかわたし自身を、マルクス主義者の一人だとおもうようになった。」(「読書的自叙伝」)

 そのような思想的転換を花田清輝にもたらしたひとつのきっかけは、松島トキとの結婚である。彼女は市バスの車掌として、左翼労働運動の拠点であった東京市交通労働組合に属し、活動家の経歴を持っていた。後に花田はこんな事を書いている。――「戦争中、たえず義民的なものにたいしてわたしのいだき続けていた劣等感について告白して置かなければならない。そのときは、すでにただの女房にすぎなかったが、どうやらわたしの女房は、元義民だったらしいのだ。したがって、二人で街をあるいていると、かの女は、ときどき、特高から、なれなれしく声をかけられたり、ネンネコで赤ん坊を背負って大井警察へ呼ばれて行ったりした。そして、そのつど、特高は完全にわたしを黙殺したので、わたしは、かの女にたいしてハバがきかないような気分を味わわないわけにはいかなかった。」(「恒民無敵」)

 彼女は結婚後、銀座のバーにつとめて生活を支え、また後には、かつて『レーニン重要著作集』などの左翼出版社として有名だった白揚社や戦後いちはやく『戸坂潤選集』や石母田正の名著『中世的世界の形成』を刊行した伊藤書店の有能な編集者となった。ちなみに『戸坂潤選集』は花田の蔵書によって編集されたという。

 花田清輝の最初の評論集『自明の理』は、一九四一年七月に彼の主宰する「文化再出発の会」から刊行された。そのタイトルがしめすように、形式論理の批判と弁証法的論理の称揚がかくれたモチーフになっている。「形式論理の諸法則は、自同律に還元される。そうして、この自同律ほど、自明であるとともに、また神秘的なものはあるまい。〔……〕なるほど、ものはつねに何らかの仕方でAでもあり、非Aでもある。あらゆるものは矛盾にみちており、不断に変化しつつある。心理主義的な芸術家はそれを知らないではない。否、かれらはそれを知りすぎるほど知っているのだ。論理的なものがつねに歴史的なものであり、生産技術の未発達な時代において形式論理が栄え、十九世紀にはいり、資本主義的産業技術が発展するとともに、もはやそれが昨日の王座から追われてしまったものであるという事実に間違いのないかぎり、いやでも現代の知識人は形式論理的思惟の虚妄を痛感させられている。況んや歴史の転形期にのぞみ、風波はげしき階級分化の過程に生き、自己の動揺する心理を持ち扱いかねているかれらである。

 とはいえ、表現するということは別なことだ。心理的変化と、そのすべての動揺にたいして、できるだけ完全な表現をあたえるためには、これをひとまずその相対的安定性と普遍性において認識しなければならぬ。差別性を抽象して、対象をそれ自身と同一のものとして捉えなければならぬ。ここにおいて形式論理が再び登場する。」(「錯乱の論理」、『文化組織』一九四〇年三月号)

 ほぼおなじ頃、埴谷雄高は彼の処女作にあたる「Credo, quia absurdum」(「不合理ゆえに吾信ず」、『構想』一九三九年一〇月号)で、「賓辞の魔力について苦み悩んだあげく、私は、或る不思議へ近づいてゆく自身を仄かに感じた。/〔……〕/すべて主張は偽りである。或るものをその同一のものとしてなにか他のものから表白するものは正しいことではない」と書き、さらに「私が《自同律の不快》と呼んでいたもの、それをいまは語るべきか」と書いていた。
 
6 ルネッサンス的人間の研究

 花田清輝が戦後文学のパイオニアとして登場するのは言うまでもなく『復興期の精神』によってだが、それを構成する諸篇は「ルネッサンス的人間の探究」としてそのほとんどが一九四一年四月号から一九四三年一〇月号までの『文化組織』に掲載された。

 花田清輝は、人びとはルネッサンスを闇のなかから浮かびあがってきた、明るい、生命にみちあふれた世界としてイメージしているが、本当にそうだろうかと問う。死なくしてどうして再生がありえようか。「再生は、死とともにはじまり、結末から発端にむかって帰ることによっておわる。」

「当時における人間は、誰も彼も、多かれ少かれ、かれらがどん詰りの状態に達してしまったことを知っていたのではないのか。果まできたのだ。すべてが地ひびきをたてて崩壊する。明るい未来というものは考えられない。ただ自滅あるのみだ。にも拘らず、かれらはなお存在しつづけているのである。ここにおいて、かれらはクラヴェリナのように再生する。再生せざるを得ない。人間的であると同時に非人間的な、あの厖大なかれらの仕事の堆積は、すでに生きることをやめた人間の、やむにやまれぬ死からの反撃ではなかったか。」(「球面三角―ポー」、『文化組織』一九四一年一二月号)

 クラヴェリナというのは、生息条件が悪くなると自分の器官をどんどん単純化し、ついには胚子的な状態になるが、環境が好転するとふたたび構造が複雑化しもとの生体を回復する小さな海鞘〔ほや〕貝の一種である。ここで花田清輝は「注目すべき点は、死が――小さな、白い、不透明な球状をした死が、自らのうちに、生を展開するに足る組織的な力を、黙々とひそめていたということだ」と、この貝に託して自分の抵抗の意志を語っているのである。

 このようなルネッサンス観がこの時期にどこから花田清輝にやってきたのか。たしかにルネッサンスは一種の流行であった。イタリアは枢軸国の友邦であった。一九四二年にはレオナルド・ダヴィンチ展がひらかれ、中学生の私も見に行った。隠れ左翼の側でもたとえば羽仁五郎の『ミケルアンヂェロ』(岩波新書、一九三九年刊)が「ミケルアンヂェロは、いま、生きている。うたがうひとは、『ダヴィデ』を見よ」というその書き出しで、遅れてきた少年たちの胸をしびれさせていた。しかし花田清輝にとってルネッサンスはけっして明るくも自由でも解放でもなかったのである。そのようなルネッサンス観を彼にもたらしたのは、おそらくフランツ・ボルケナウの『封建的世界像から近代的世界像へ』だっただろうと私はおもっている。

「マニュファクチュア時代の哲学史研究」という副題をもつこの著作は、『近世世界観成立史』(新島繁・横川次郎共訳)という題名で、一九三五年に叢文閣からその上巻が出版されたが、下巻は未刊に終わった(戦後、一九五九年に水田洋らによって完訳版がみすず書房から出版された)。しかしこの本は、戦争中の丸山真男、奈良本辰也、石田雄、武谷三男、原光雄、近藤洋逸、田中吉六らの仕事に大きな影響を与えた。このなかで花田清輝との関係で注目すべきは田中吉六である。彼の代表作『スミスとマルクス』は戦後、花田が編集顧問となった真善美社から一九四八年六月に刊行されたが、そのノートはすでに一九三六年から七年頃に書かれたという。花田清輝は中野正剛の大政翼賛会入りを機に「東大陸社」を退職し、文化再出発の会とその機関誌『文化組織』の刊行に全力を注ぐ一方、生活のために秋山清の紹介で「林業新聞社」に就職する。そこで出会ったのが田中吉六だった。久保覚の周到な年譜(『花田清輝全集』別巻・)には「同社で、マルクス主義研究者の田中吉六を知り、翌年一〇月に田中吉六が退職するまで、毎日欠かさず喫茶店で「再生産論」など日本資本主義論やマルクス主義の理論的問題について討論を重ねる」とある。

 田中吉六が『スミスと}ルクス』を書くうえで、方法的に依拠したのがボルケナウの本だった。そしてその訳書は、水田洋の『封建的世界像から近代的世界像へ』訳者序文によると、花田が古本屋でマルクス文献のゾッキ本をあさっていたころ、やはりゾッキ本として店頭に積まれていたのである。ボルケナウは「著者の序文」でつぎのように言っている。

「わたしの眼に映じたままの十七世紀の一般的性格について述べておきたい。それは人類史上もっとも陰惨な時代の一つである、とわたしはあえて言いたい。まだ宗教が大多数の人心を確実に支配している。しかもこの宗教は、その柔和な宥和的な相貌をかなぐりすてて、ただ恐ろしい相貌のみをとどめていた。〔……〕中世の拘束された生活秩序から、ただその圧迫だけがのこされた。ルネサンスの巨人たちがほめたたえた美の国は、没落してしまった。シェークスピアがなおたたえることのできた、英雄的心情の誇らしげな自尊心は、色あせてしまった。ラシーヌにとって、激情とは、二度と取返しのつかない呪いの深淵へとみちびくものでしかない。死さえもが、資料のしめすところによれば、この恐ろしい世紀にあっては、他のいかなる時代よりも苛酷だったようである。死ぬことは、まだ、人類がむかえるべき明るい日にたいする信仰によってやわらげられていなかったし、またもはや、一つの自己完結した生活圏に当然おこるべき自明の出来事として安心できるものでもなかった。啓蒙の光はなお地獄の恐怖を和らげておらず、かといってまた、素朴な信仰の時代の甘美さはうしなわれて、もはや、そこから楽園の微光がさしこんでくることも期待できない。このおそるべき時代の地上の地獄のなかで、あの鋼鉄のように堅固な個々の思想家がうまれた。かれらはその熱烈さにおいてピュアリタンの「信心家(godlys)」にもおとらず、生きることがもちうる意味をひろく探求したのである。」(みすず書房版、・・二一頁)

 私はボルケナウのこの本が花田の「ルネッサンス的人間の探求」の種本だなどと言おうとしているのではない。彼は、ルネッサンスとくにその後期を中世から近代への転形期としてとらえ、その煉獄のような世界のなかで近代を切り開いた「鋼鉄のような思想家」がどのようにして生まれたかを、たんなる思想史としてでもなく、芸術史としてでもなく、また社会経済史としてでもなく、それらを統合した精神史的な視野において描き出したこの本から、いまをいかに生きるかを考察する手がかりをえているのである。彼は戦争末期の現在を「すべてが地ひびきをたてて崩壊する」どん詰まり、つまり一大転形期ととらえ、おなじく中世のどん詰まりであったルネッサンスの知識人の像を描くことでこの転形期における知識人の生き方、彼に即していえば「たたかいかた」を提示するのである。花田清輝にとって抵抗も芸術も、すべてはこのどん詰まり、つまり終焉からはじまる。

 しかし、現在のどん詰まりは言うまでもなく中世のどん詰まりではない。終焉を迎えているのは近代である。だから花田の目はルネサンス的人間にたいする評価と同時に批判を含むことになる。

「例をあげる必要があるであろうか。『デカメロン』の著者は、晩年、司祭となり、ダンテの地獄篇を講義した。ルターは、農民戦争の勃発とともに大衆に見捨てられ、さびしく笛を吹いていた。ハイネは、放蕩息子のように神に帰った。ストリンドベリは――ストリンドベリ烽ワた敬虔な神秘主義者に転向した。終焉の地コローノスにたどりついたオイディプスのように、いたましい挫折とはげしい悔恨とを経て、かれらはようやく眼がみえるようになる。盲目のオイディプスは誰からも手をひかれず、人びとの先頭に立って、神苑の奥深く、歩いて行く。透明な冬の日ざしを思わせるこのような晩年にたっするためには、我々は相も変わらず、朝、昼、晩の三拍子をとって進まなければならないのであろうか。テーベの王となるために、スフィンクスの謎を解かなければならないのであろうか。父を殺し、母と結婚しなければならないのであろうか。それは、まったく馬鹿気ている。いきなり晩年から出発するのが、ルネッサンス的人間の克服の上にたつ、我々すべての運命であり、一気に物々しく年をとってしまうのは、なにもラディゲのような「天才」ばかりのたどる道ではあるまい。したがってまた我々は、消え去る青春の足音の木魂するのをききながら、『退屈な話』の老人のように、しずかに頭をふることもないのだ。むろん、ルネッサンス的人間の轍を踏まないということは、馬鹿気たことをしまいとつとめ、平穏無事な生涯をおくるということではない。いったい、うまれて、次第に年をとって、もうろくしてしまうほど、馬鹿気たことがあるであろうか。退屈な話があるであろうか。オイディプスの晩年からはじめるということは、むしろ、そういう植物や、動物のような状態からの我々の脱出によって可能であり、人間の生長や、世代の闘争や、歴史的発展などにたいする生物学的解釈への訣別を意味する。一言にしていえば、それはエヴォリューションとレヴォリューションとの区別の上に立つということだ。語呂が似ているせいか、イギリス人は、屡々この二つの言葉の意味を混同する。」(「晩年の思想」、『文化組織』一九四三年六月号)
『復興期の精神』はルネッサンス的人間の探究であると同時にその「超克」の探究でもあったことを見逃してはならない。花田清輝にとって「近代」とは希求されると同時に超克されるべき対象なのである。

7 「どん詰まり」から

 あらゆる意味で「どん詰まりにきた」と時代を見切るとき、とつぜんあらゆるものがその輪郭を鮮明にし、人びとはそれをしっかりと見極める目を獲得するのである。それを川端康成風に「末期の目」と呼ぶか、『死霊』の主人公のひとり黒川建吉のように「死滅した眼」と呼ぶか、あるいは「二十歳にして心すでに朽ちたり」と頽唐期の詩人を気取るかはともかく、明日への安易な楽観を決定的に奪われた人間に残された問いは、ただ、われわれは何処からきたのかという問い以外にない。

 花田清輝はエドガア・アラン・ポウが彼の代表作である『大鴉』の制作過程を語った「構成の哲学」("The Philosophy of Composition" 創元社版『ポウ全集・3』所収では「構成の原理」となっている。)を引きながら、「究極の言葉は、たちまち発端の言葉に転化する。万事が終ったと思った瞬間、新しく万事が始る」というポウの作詩法に注目し、さらに「人は死の観念に附き纏われることによって、きわめて生産的にもなり、組織的にもなるのではないか」、死の観念こそ「私流に、一言で表現すれば、あらゆる闘争の麺麭種だ、ということになる。したがって、白鳥の歌をうたうためには、人は、かならずこの観念を所有していなければならず、またポーの勇敢に試みたように、まず、結びの一句から、はじめなければなるまい。どん詰まり〔デヌウマン〕からの反撃は、それほど困難ではない。死の記憶が、絶えず我々を驀進させ、死の想像が、つねに我々を組織的に一定の軌道のうちに保つ」(「終末観―ポー」、『蝋人形』一九四二年一一月号)という。

 この時期、なにが終ったとおもわれていたのだろうか。終焉について、あるいは終末について語った人は多い。八紘一宇だの大東亜だの新秩序だのとかけ声は明るかったが、終末感は人びとの胸に深く根付いていたのである。

 戦争中、もっともauthenticな生き方をしたと私が考える中野重治は、日中戦争の勃発後わずか一ヵ月の後に、この「事変」を「過去のすべての事件の決算としての一つの事件」(「条件づき感想」、『改造』一九三七年九月号)と呼んだ。彼にとってもやはりこの戦争が意味するものはひとつの終焉であり決算だったのである。

 日本浪曼派の保田輿重郎にとっても目前の事態は「文明開化の論理の終焉」(「文明開化の論理の終焉について」、『コギト』一九三九年一月号)であった。彼はこの論文のなかで「日本の文明開化の最後の段階はマルクス主義文芸であった。マルクス主義文芸運動が、明治以降の文明開化史の最後段階であったのだ」と言い、また「マルクス主義は、文明開化主義の終末現象にほかならぬ」とも言っている。

 これに小林秀雄の、わが国の自然主義小説はブルジョワ文学というより封建主義的文学で、マルクス主義文芸はこれをブルジョワ文学と誤認して攻撃し、結果的には文学の近代化を実現したにすぎない、という主張(「私小説論」、『経済往来』一九三五年五〜八月号)や、それと伴走した中村光夫の「ブルジョア文学もないうちから、そのブルジョア文学を否定するプロレタリア文学が登場し、勝利(一時的にしろ)するという我国独特の奇観」(「転向作家論」、『文学界』一九三五年二月号)とか、「我国のプロレタリア文学は文学のブルジョア化(近代化)運動の現われであった」(『行動』、一九三五年四月号)というような発言をかさねてみると、この時期に、「近代」あるいは「近代文学」という問題が、どれほどの複雑な様相をあらわしてきたかがわかる。

 林達夫のいうように、まさに時代は「歴史の暮方」を迎えたのであったが、しかし言うまでもなく、ミネルバの梟は歴史の暮れ方に飛び始める。日本の近代の相矛盾する様相が随所に露呈したことは、その近代が「終焉」を迎えていることの、そしてその近代の総体的な認識が可能になったことの証明なのである。

 日本のマルクス主義は、一九三二年以来、『日本資本主義発達史講座』(全7函、岩波書店刊)というかたちで、近代日本の総体的な把握に一応の結論をつけた。もちろんそこには少なからぬ弱点があり、その弱点からさまざまな誤った行動的選択が生まれた。しかし同時に、その誤りの一部はすでに戦争中に地下文書のかたちで批判されていた。(神山茂夫『日本農業における資本主義の発達』、『神山茂夫著作集・2』所収を参照)。
 日本におけるブルジョワ文学の非在を主張する小林・中村と、その対蹠的なところから文明開化の論理の終焉を主張する保田輿重郎とは、しかしその後その違いを明確にしていくことはなかった。一方、「泣いて」『文学界』入りを拒絶した中野重治は、この両者の日本近代にたいする認識をもっともよく批判し得た一人だった。彼は日本がまぎれもなく資本主義社会であり、そこに生まれた自然主義文学はブルジョワ的なものにほかならないと指摘しながら、「中村氏や小林氏の判断はとるにも足らぬものだろうか。私はそうは思わない。日本の自然主義文学が封建主義文学だったとか、日本にはブルジョア文学などというものはなかったのだとかいうことは間違いだが、この間違いとしての「冗談」は、日本のブルジョア文学がそれほど封建的なものを引きずってきたことの、日本ブルジョアジーの封建主義にたいする戦いがそれほど中途半端で、その勝利が不徹底で、敵である封建主義とのずるずるべったりの妥協にすべりこんだことの、そしてこの妥協のためにうっちゃらかしにされたブルジョア的なものをプロレタリアートが拾いあげねばならなかったことの左まえの反映にほかならぬと思う。鏡に映ったものは左まえだったけれども、鏡の質がよければ正しく映っただろうところの実体はあったしあるのである」 (「二つの文学の新しい関係」、『教育・国語教育』一九三六年四月号)と、日本の「独特の近代」をふまえて答えているのである。

 一見矛盾した言い方のようではあるが、日本では超近代の実現は近代の実現をうちに含みながらでなければ不可能であり、また、近代の実現も、それが超近代の思想と運動によって牽引されないかぎり不可能だったのである。この関係を無視したすべての「近代の超克論」や「世界史の哲学」は、「新秩序建設」を呼号する侵略主義にとりこまれ、その補完物になる以外に道をもたなかった。特殊な日本近代の認識の正否がひとつの思想、一つの行動の運命を決めたのである。(その例として生産力理論、昭和研究会の東亜協同体論、あるいは平野義太郎の民族政治学などを想起されたい。)

 これらの変節した旧マルクス主義理論家たちについて、花田清輝は「ロビンソンの幸福」(『文化組織』一九四二年六月号)のなかで、つぎのように書いた。「すべてを社会的・歴史的に規定し――つまるところ、時間にさまざまな名前をつけ、我々の破壊の理論家は、アジア的生産様式や半封建的地代について、若干、スコラ哲学的な論争をしたにとどまり、幸か不幸か、かれらの大部分は、わが身を焼きつくす蛾のよろこびを知らずにおわった。縦にむかって、バベルの塔のように伸びつづけていた時間的世界が、突然、横にむかって、万里の長城のようにひろがりはじめたとき、かれらの時間にたいする挑戦は終止符をうたれた。しかし、いったい、理論家とはなんであろうか。かれらの時間や空間にたいする挑戦とはなんであろうか。ナポレオンの猛烈な言葉をつかうならば、所詮かれらは「絶えず本を書かずにはおれない虫けら」にすぎないのではあるまいか。」

 この痛烈な翼賛知識人批判の文章を正確に読みとるためには、今日では若干の注釈が必要である。――さまざまな名前をつけられた「時間」とは、日本の当面する革命を社会主義革命とするか、あるいはそれより一段階前のブルジョワ民主主義革命とするかという、戦略論争における革命の性格規定を意味する。そしてその論争に参加した理論家たちは若干のスコラ的な論争をやっただけで、実際の革命に参加することはできなかった。ところが日本の半封建制、後進性を暴くのに熱中した彼らは、ひとたび侵略戦争が始ってアジアにたいする日本の「指導的役割」が強調されるや、半封建的日本にたいする挑戦のかわりに、アジアの後進性にたいする日本の先進性という主張をはじめた。いったいこういう「理論家」とはなんであろうか。しょせんかれらは「絶えず本を書かずにはおれない虫けら」なのだ、というわけである。

 まことに日本の近代(=資本主義的社会経済構成)をどのようにとらえるかは、あらゆる理論・思想にとっての試金石であった。「最近の所謂「歴史小説」の問題に寄せて」(署名・高瀬太郎、『クオタリイ日本文学』第一輯、一九三三年一月)という長論文によって蔵原惟人の衣鉢を継ぐ理論家として注目された本多秋五は、すでにこの論文のなかで林房雄の『青年』や島崎藤村の『夜明け前』における維新史の理解とそこから発する作者の日本近代理解の狂いが、作者と作品をどこに導くかを予言的に分析している。これにつづく「森鴎外論」(『文化集団』一九三四年八月号)では前者になお色濃く残っていた文芸社会学的な記述が後景にしりぞき、特殊な「近代」のなかで鴎外の人と作品が内在的に解明されている。それは蔵原惟人的な輸入理論としてのマルクス主義文芸理論が、日本社会の総体的な認識という場に直面することによって、いかに土着化していったかをしめすひとつの里程標であった。

「憲兵が、大東亜、と問えば、私は、アンドロメダ、と答えて、ついにこの星雲のごとき本体を察知せしめるところなく、敗戦時まで過ごしきたった」(「平和投票」)と書く埴谷雄高は、その共産党員としての地下生活時代に党の農業綱領策定に参加した経験をもっている。その彼が、一九二〇年代から三〇年代にかけて日本のマルクス主義者のあいだでかわされた日本資本主義論争に関心をもったことは疑いない。しかしその後の埴谷雄高にとって、「近代」という問題は日本の現実からはるかに「アンドロメダ」的な論理の世界に飛翔している。彼の自同律にたいする挑戦は、合理主義や実証主義に代表される近代的思考様式を超克する試みであり、ポウとランボオとドストエフスキーを先蹤者とするその流れの発見でありそれへの参加であった。とはいえその埴谷雄高もまた、他方では『死霊』において、前近代的な「アジア的思考様式の極点」として津田康造を位置づけ、彼にたいする宣戦布告をする首猛夫を描くのである。(『死霊』第二章)

 中野重治の世代と本多秋五、花田清輝、埴谷雄高たち後の「戦後派」とのあいだには、時代は「どん詰まり」にきたという共通の認識がありながら、しかしそのあとの歩みには微妙な対立が見られる。中野重治の戦争末期の到達点は『斎藤茂吉ノオト』(一九四二年六月、筑摩書房刊)だが、それにいたる連作『歌のわかれ』(「鑿」「手」「歌のわかれ」、一九四〇年八月、新潮社刊)で自分の青春をあとづけた作者は、このノオトでさらにそれを現代日本の"Sturum-und Drangperiode"とかさなった茂吉の青春との対比において、日本の近代と近代文学の宿命的な姿をえがきだすのである。そこにはかつて「「郷土望景詩」に現れた憤怒」で萩原朔太郎の憤怒に共感しながら開発資本主義を一刀両断にして社会主義による救済を説いた中野青年はもはやいない。彼の目は成熟しおだやかになったが、しかしそこにはいささかの郷愁がただよう。そのような中野重治を花田清輝は「たとえば、或るノスタルジアは、いかにも戦闘的な顔つきをして、かつてわが国にも青春の時代があり、当時、世代の対立は熾烈をきわめたものだ、などという。かれが古びた青年であることはいうまでもない。青春は過ぎ去ってしまったが、晩年はまだ訪れて来ない。ツルゲーネフ風にいうならば、かれは希望に似た哀惜と、哀惜に似た希望との間を彷徨しているのだ。なぜ一気に物々しく年をとってしまうことができないのか」(「晩年の思想」)と批判する。花田のいらだちは、中野重治ともあろうものがなぜ斎藤茂吉と自分の青春にこだわって、近代の地平にまで後退してしまうのかといういらだちだったと言えるだろうか。

 しかしそれでは花田清輝の超近代の思想がこの時期にどれだけの可能性をもっていたかといえば、これもまたはなはだ心許ないものでしかなかっただろう。たしかに憲兵隊の一部には近代の超克論を危険思想視する者がいたことは事実だが、総じてこの超克論は時代の流行思潮だったのである。そしてその実現形態は昭和研究会であり「満州帝国」であり大東亜共栄圏だった。もちろん花田清輝はこれらにいささかも同調はしていない。しかしこれら、とくに昭和研究会にたいする批判に典型的にあらわれているように、彼の批判はもっとラディカルになれという挑発に終始した。

「改良主義的な意図をいだいた人びとは、屡々、封建勢力と資本制力の均衡の上に立つ国家を「超階級的」であるかのごとくに錯覚し、この二つの勢力の妥協を企てながら、なにか素晴らしい「ユートピア」でもつくり上げつつあるかのように思いこむ」(「ユートピアの誕生―モーア」、『文化組織』一九四二年一二月号)と、彼は天皇制国家のもとでのユートピアを描き出すもろもろの超克論を嘲笑する。そして彼はコペルニクスに託して彼の「闘争の仕方」をつぎのように書いたのだった。

「進歩派の漫罵も、保守派の讃辞も、コペルニクスにとっては、無意味であった。ほんとうのことがわかれば、かれらのすべてが、たちまち共同戦線をはり、顔いろをかえ、猛然と歯をむきだしてかれに飛びかかってくることはあきらかだ。しかし、そんなことは大して気にする必要はない。何故というのに、かれにはかれ一流の闘争の仕方があるからだ。すなわち、両派の対立を対立のまま釣合わせ、闘争の激化をはかり、自滅をまつこと。その間にかれの理論が正しいものであるかぎり、それは、どんどん各方面にひろがってゆくにちがいない。」

「自分自身、本気になって闘争するつもりのない人間にかぎって、派手な闘争に喝采するのであり、そうして、喝采することによって、わずかに自分を慰め観念的に昂奮するものなのだ。」「ほんとうの素朴さは――そうしてまた、ほんとうの謙虚さは、知識の限界をきわめることによってうまれてくる。それは、ほんとうの闘争が、一見平和にみえるようなものだ。」(「コッペルニクス的転向」、『文化組織』一九四一年七月号、『復興期の精神』収録にあたり「天体図―コペルニクス」と改題)
  
7 最後の頁が最初の頁

 本多秋五は「『「戦争と平和」論』の意味」(『群像』一九六一年二月号)という短文のなかで、「私は『戦争と平和』のなかに自我再生の道を学んだ。私の文章は、現実の壁につき当てた自我の挫折と、その再生を語っているはずである。ボロジノの戦いを私は「自由」と「必然」の戦いだと読んだ、ということの意味がそれである。別の言葉でいえば、あれは客観的には転向の書であった。(主観的には、私は当時自分を転向者と思っていなかった。思っていたらあの書は書けなかっただろう。)公式破却の道を求める書であった」と書いた。

 自由とは必然の認識であり、その必然の実現にむかって自分の行動を律することが倫理的な生き方だという考えは、一九二〇年代のインテリゲンチャを深くとらえた人生論であった。そこには、伊藤整が後に「認識者と求道者」と呼んだ二律背反を生む前の、新思想がなおわかわかしいロマンチシズムを身にまとっていた時代の息吹があった。彼らの自我の解放は、最高の認識とその認識にもとづく「唯一の党」の実践への献身のなかで実現すると信じられていた。しかし急速に時代は暗転し、自我追求の道と弾圧下の政治主義的な「運動」とのギャップは鋭い対立となって、運動をも運動参加者をも挫折へとはこんでいったのである。

 このような自我の挫折は、一九三〇年代の文学的インテリゲンチャが多かれ少なかれ体験したことである。「薔薇、屈辱、自同律――つづめて云えば俺はこれだけ」という埴谷雄高の独白も、そのことの表現以外ではない。

 エンゲルス風に、あるいはさらにさかのぼってヘーゲル風に、「自由とは必然の認識だ」といい、その必然の認識にもとづく実行に身を投じることによって個人の自由もまた実現するのだという理解に、自分の体験から疑問符を付した人たちは、「こころならずもの転向」から「こころからの転向」への関門をくぐったといえなくもない。その意味では本多秋五が自著を「客観的には転向の書であった」というのは正しい。しかしこの「転向」は同時に「公式破却の道」の探究そのものであったのである。もしこの「公式」が当然にも破却されるべきもの以外のなにものでもなかったとしたら、これははたして「転向」であろうか。むしろこれは思想的な「回心」とでも呼ぶべきではないか。なぜならこのとき彼は、思想が真の思想であるための第一条件である「経験」に、その両足でがっしりと立ったからである。

 戦後文学の小説ジャンルにおける第一声となった野間宏の『暗い絵』の主人公・深見進介は日中戦争の前夜に、革命は二年以内にくるという認識のもとにその準備に献身する友人たちの選択を情勢に促迫された「仕方のない正しさ」でしかないと感じ、彼らとはことなる「仕方のない正しさではない、仕方のない正しさをもう一度真直ぐに、しゃんと直す」道を探求する。それは彼にとって「自己完成」の道であり「自我実現」の道だった。『暗い絵』もまた文字通り必然における自由を追い求めた作品だったのである。

 もう一つの戦後文学を代表する作品『自由の彼方に』で椎名麟三が提出したのも、「プロレタリアート」という神話化されたものではない現実の下層労働者にとっての実存的な自由という問題だった。

 こうして戦争中の自由を巡る思索と体験は、戦後文学を戦後文学たらしめた酵母だった。そしてそれらの体験はまた、マルクス主義には「空隙」があると主張し、戦争中の体験とオーソドックスな「弁証法的唯物論」のあいだにあるこの「空隙」を埋める主体的な唯物論の探究をかかげた梅本克己をはじめとする「主体性論」が、戦後思想の出発点となった理由でもあった。

 歴史‐自由‐主体――このトリアーデが戦争下に「戦後的なもの」を準備する誕生の地であった。問題が広くそして深く共有されたのは、その文学的ジェネレーションがわずか十数年前のマルクス主義の思想的・文学的「制覇」を身をもって体験していた世代だったからである。

「最後の頁が最初の頁」というのは花田清輝の初期の文章のタイトルだが、戦争末期にあたかも「遺書」のように、そしてまた近代日本の思想・文学の最後の言葉のように残された一群の作品を戦後からさかのぼって読むとき、これほど適切な言葉はないようにおもわれる。(『文学史を読みかえる』第5集、2002年2月刊)



http://www1.odn.ne.jp/swptext/bunron/bunron2.htm

 明治以降の日本の文学史を見ると、実にさまざまな問題をめぐって論争がおこなわれてきた。そのなかで重要な論争は、文学の社会的な存在意義は何か、鑑賞に耐える文学はどのようなものでなければならないかということをめぐって生じてきたものであった。それは、何をいかに描くか、またそれをどのような思想のもとにとらえるのか、という題材と方法と思想の問題を中心にして、表現対象と作者の実生活、作者の思想と題材、個人と社会、政治と文学などの相互関係や文学の役割の問題などを含んでいた。これにどう答えたかということには、それぞれの文学論の階級的立場と当時の時代の反映を見ることができる。これから十二回(毎月一回)にわたって文学の性格と流れの方向を左右したと思われるような重要な論争を取り上げていきたい。最初は自然主義論争である。
ロマン主義で潤色された自然主義
フランスほどの徹底性をもたず
自然主義の指導者島村抱月の文学論
 自然主義は明治時代に入ってからの文学近代化運動の一つの結論であった。その萌芽は明治二〇年代の坪内逍遥らの写実の主張であったが、はっきりと形をとったのは日露戦争後であり、日本全体が資本主義に包摂されたことを背景としている。日露戦争を通じて資本主義体制が発展し国家機構が整備強化されたことを背景に、自由主義・合理主義・現実主義・個人主義などというブルジョアイデオロギーが新しい段階を迎え、文学では西欧文学の紹介などもあって、自然主義が主流を占めることになった。
 自然主義の理論的指導者は島村抱月であった。彼の最初の文学論は『囚はれたる文芸』である。「我れは自然主義を呪阻し去らんとするものにあらず。十九世紀の大なる文芸は、大半此の主義の影響を蒙って生じたり。悪むところはたゞ其の極端のみ、知識に隷してより後の自然主義のみ。されば此の主義が更に一たび其の自然に遷りて、飾らず、矯めざる自然の感情の源を穿つに至らば、是れもまた情海の旅程に帆を並ぶる一同行たらん」「文芸の舟を知識の杭より解き放ち、情趣の海に浮んで宗教の岸に至らしめよ。取るべき針路は、哲理的、可なり、神秘的、可なり、標現的、可なり、はた自然的、可なり、写実的、可なり。要は目ざす所に一塊非凡のもの、人をして、胸躍らしむるものあるに止まる。是れ幻中のダンテが説法なり。我れおもへらく、情趣的よし、宗教的よし、されども尚此の外に、日本の現代といふ特殊の事情に応ずベき文芸観なかるべからず。其は、正しく日本的若しくは東洋的文芸の発揮といふことならんか。時は国興り、国民的自覚生ずるの秋なり」
 かれの自然主義論は『文芸上の自然主義』と『自然主義の価値』で体系的に展開されている。その理論は構成論と価値論に大別され、価値論は「所詮真は美を完成する一材料に外ならぬ。最も美を有価値ならしむる範囲において、真は価値を有する」ということに絞られているが、構成論は「描写の方法態度」と「描写の目的題材」とに分けて論じられている。方法と態度については、純客観的な態度は写実的になり、これは「本来自然主義」とよばれるべきものであり、一方主観を挿入する方法は説明的になり、これは「印象派自然主義」といえる。ともに消極的態度と積極的態度とがあるが両者の目的は真の追求であるとする。また描写の目的、題材については、真の追求のための題材として、社会問題と科学と現実の三つがあり、社会問題としては個人の解放を目的として根本的な道徳問題を扱い、科学的な題材としては心理学、生理学、進化論にかかわる問題があり、また現実を扱うには、赤裸々な描写を通して人間の獣性を見つめ、その醜に目をそむけないこと、肉感的であること、卑近的・自然物的であることであると論じている。
 そして抱月は「本来自然主義」と「印象派自然主義」との欠点を克服するものとして、第三の「純粋なる自然主義」を主張する。「第三は事象に物我の合体を見る、自然は茲に至って其の全円を事象の中に展開するのである。其の事象は冷かなる現実客観の事象に非ずして、霊の眼、開け、生命の機、覚めたる刹那の事象である。動き来った瞬間の自然である。吾人は仮りに之れを名づけて純粋なる自然主義と呼ばう」「然らば作家は何を心の標的として此の際に於ける自己の態度を定めんとするか。其の直接の答は消極的である。曰くたゞ無思念と。(中略)自然主義の三昧境は、この我意私心を削った、弱い、優しい、謙遜な感じの奥に存するのではないか。此の時自然の事象は始めて鏡中の影の如く、朗らかに其の全景を暴露して、我れと相感応するのではないか。我れは此の時始めて自然の真実の前に感応の涙をにじますのであらう」(『今の文壇と新自然主義』)というものである。
 ヨーロッパ、特にフランスの自然主義は知に囚われた文芸として、清新な情感の流露を要求し、「一境非凡のもの、人をして胸躍らしむるもの」があればどんな文学でもよいとし、ゾラに代表される一面的であるとはいえ唯物論的な自然主義から後退して、神秘的、宗教的な文学を期待しているように、抱月の自然主義ははじめからロマン主義、神秘主義と結びついていたのである。国家主義的なことはついでにちょっと言ってみたという程度のことである。この抱月がたちまちにして文壇ばかりか、社会的に反響をまきおこした自然主義の代表的理論家になったのである。それは、日露戦争前後から「自然」「自然主義」という言葉が、抑圧や搾取を強める社会、因習、形式、権威などに反対する真実、自由、反逆などを意味するものとみなされて社会に浸透し、青年たちをひきつけたからであった。
 抱月の理論はこのようなものであったが、実際に作品を評価するときには必ずしもかれの理論とは一致しない評価をしている。社会問題と自己告白とを結びつけた島崎藤村の『破戒』について、「欧羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に伝はった生命は、此の作に依て始めて我が創作界に対等の発現を得た」と評し、田山花袋の『布団』に対しても「赤裸々なる人間の大胆なる懴悔録」「早く二葉亭風葉藤村等の諸家に端緒を見んとしたものを、この作に至って最も明白に且つ意識的に露呈した」と言い、抱月の権威からこの評価が定着し、二つの作品が自然主義文学の範とされるようになったのである。「要するに自然主義の強味は、その理論的根拠にあるのではない。否かくの如きものは殆ど論理的遊戯として排せられて居るくらゐである。その強味は主として今の人の現実感にある。その価値は問はざれ、その美醜は論ぜざれ、その善悪は分たざれ、兎にも角にもこれが人間現在の実状ではないか、現実ではないかといふのが、自然主義の振り回はす鉄棒であった。しかもこの鉄棒の打撃力の強いことは、いかにも認めざるを得ない」(「自己の問題として見たる自然主義思想」)と安倍能成が書いているが、そう言ってもいいだろう。
自然主義に対する観念論からの批判
 抱月に対して論戦を挑んだのは田中王堂であった。かれは、抱月が再び「囚はれたる文芸」にまで引返してしまったかのように見えたために、自然主義を囚われた文芸と見るのか、放たれた文芸と見るのかと問い正している。
 「自分は、今でも猶ほ分明に想起する。氏が早稲田文学の初号に於て、氏が当時懐抱せられた意見のマニフェストとも見らるベき『囚はれたる文芸』と題する論文を公にされたことを。氏は古来の文芸の潮流を分って情を重んずるものと智を尊ぶものとの二つとなし、而して一般に近世の文芸を智に偏したものと見て、氏はこれを囚はれた文芸と名づけたのである。自分は古来の文芸を無雑作に情に偏するものと、智に馳するものとの二つに区別することにも不服であるし、又た近世の文芸を智に偏するものと見るにも不服であるが、兎に角氏が近世の文芸を囚はれたる文芸であるといったのは事実である。氏が彼の論文を発表されてから僅に二年有半である。氏は今頻りに自然主義を弁護し且つ鼓吹して居らるゝが、氏は自然主義を囚はれたる文芸と見るのであるか、或は放たれたる文芸と見るのであるか。それは是非自分が氏に訊ねなければならぬ事柄である」(「我国に於ける自然主義を論ず」)
 抱月は、客観的現実を認識するには主観を排さなければならないということを、「無思念」になることだと認識を直接的な現象の反映に限定してしまっているのであるが、田中はこの論文で、抱月が排斥する主観は真の客観を構成するに必要な要素であり、客観はわれわれの実在の総合であって、各人の実在は各人の特性の発現たる一切の感情、一切の思索、一切の行為から成り立っているからだという。さらに田中によれば、一番奥深いものを赤裸々につかみ出すということがそもそもの矛盾であって、これは客観現実が、われわれの感情や思索や意志やの作用から独立して存在し、固有の内容を有するものとする迷信からきている。客観的現実はことごとくわれわれの鑑賞と、認識と、努力とによって構成され、維持され、開発されるものであるからには、一番奥深いものをつかみ出そうとするならば、それだけわれわれの鑑賞と認識とをはたらかせなければならない。無念無想、一切の主観や理想や技巧を排することによって、虚偽と幻想とに蔽われない現実の深奥に達しようなどと思っているとしたら、これほどの迷妄はないと主観的観念論の立場から批判している。
 抱月とともに自然主義擁護の論陣を張ったのは長谷川天渓であった。かれは「幻滅時代の芸術」と題する論文で、「今は一切の幻像、破壊せられたるなり、青春の血、湧ける若き男女の眼底に映ずるが如き美しく輝ける幻影の悉く消散したる時代なり」といい、人生・社会のあらゆる面での幻想・虚飾がはぎとられ、現実が暴露されたとき、「幻像の勢力を有したる時代に生まれたる芸術の遊芸的分子を排除して、真実其の物に基礎を定めたるもの、これ将来の芸術たらざるべからず。幻滅時代の世人が欲むる物は真実を抜きたる無飾芸術なり」と述べたが、これが日露戦争後の時代の自然主義の基調であった。
 この一文は木下杢太郎の「太陽記者長谷川天渓氏に問ふ」で批判された。木下によれば、長谷川のこの論文で建設的に主張されていると見られるのは、「一切の理想を悉く捨てて、現実を直観して新なる意義を発見すること、是れ即ち我等の任務である」といっているだけにすぎない、だが「理想は動力である。また未来に対する今人の用意である。故に理想は決して夢幻ではない」と木下というのである。二人のいう理想とは夢物語というような意味なのか、望ましいことという意味なのかはっきりしないが、長谷川のほうには両方のニュアンスがありペシミスティックで、木下のほうは望ましいことを指しているようである。しかしそれが歴史的、社会的に規定されているとは見ていない。
啄木の批判、日本の自然主義の特徴
 これは論争のごく一部を紹介したにすぎないが、抱月や長谷川の自然主義論は永井荷風らの理解したそれとも、フランスのそれともかなり異なっている。後に耽美主義的な方向に進むことになる荷風は、この頃は自然主義を信奉し人間の動物性の一面にふれて、「若し其れ完全なる理想の人生を形造らんとせば、余は先づ此の暗黒に向って特別なる研究を為さざる可からずと信ずるなり、そは実に、正義の光を得んとする法廷に於て、必ず犯罪の証跡と其の顛末とを、好んで精査するの必要あるに等しからずや。されば余は専ら、祖先の遺伝と境遇に伴ふ暗黒なる幾多の欲情、腕力、暴行等の事実を憚りなく活写せんと欲す」(『地獄の花』跋)と、ゾラの『実験小説論』を読みそれを自分の文学論としていた。
 フランスの自然主義は、資本主義とともに発展してきた自然科学から合理主義の、また社会科学から実証主義の影響を受けた写実主義の延長として生まれた。ゾラは人間の心理と行動はその体質と社会の条件によって決定されるから、作家は人間の真実を把握するには遺伝と環境を研究しなければならないと、観察と資料研究を重視し、現実を学ぶべきことを説いた。そして『ルーゴン・マッカール叢書』のなかの『ナナ』『居酒屋』『獣人』『ジェルミナール』などで広い社会的視野のもとでとくに下層民に焦点を当て、十九世紀末から二十世紀にかけて激しく動く時代のさまざまな側面を壮大なスケールでとらえ、また十九世紀の個人主義的な文学のなかで個人よりも集団としての人間を描いた。ゾラは現実の理想化を排し、あるがままの人間の生活を描くことを目指したが、人間の動物的な側面や人間が環境によって決定される側面を強調し、したがって人間が環境に働きかけてそれを変革する側面を無視して、一面的な人間把握に陥っている。これは資本主義が独占資本の段階になり、その強大な力に対する無力感の現れでもあるだろう。
 資本主義の発展は「個」の自覚を促し、また社会への眼を開かせるが、日本の文学ではそれが一方では自我の解放を求めるロマン主義と、他方では勧善懲悪の道徳小説ではない写実的な社会小説となって現れた。自然主義はこの二つを受け継ぎ、合わせ持つものとして登場した。そしてそれだからこそ、その社会性は著しく希薄化されてしまうことになった。藤村は詩によって歌い得なかった自我を散文形式で表現するために、花袋は感傷的な精神主義から肉体を持つ人間が「地を這う動物」であるということを見いだして自然主義作家になったのである。
 石川啄木は、「強権、純粋自然主義の最後及び明日の考察」という副題をもつ遺稿「時代閉塞の現状」で、魚住折蘆の「自己主張としての自然主義」に対して批判している。それは、強権と闘うなかから明日を見いだし、明日の文学を創造しようとする決意を示したもので、当時の青年をおおう内訌的、自滅的傾向は時代閉塞の結果であり、その傾向から脱出するには国家の問題は避けて通れないと主張するものである。啄木は言っている。自然主義は、すでに五年間にわたって論争をつづけてきたにもかかわらず、いまなお一般的な定義さえ与えられずにいる。そして、これらの混乱のなかにあって、われわれの多くはその心内において自己分裂に陥っている。自己主張的傾向がそれと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向すなわち純粋自然主義と結合していたことは事実である。しかし、最近の純粋自然主義における、作家は現実に対して観照的であるべきか実行を伴わなければならないかという主張の対立によって、自己主張的傾向と純粋自然主義的傾向との溝は決定的になった。この意味で、魚住の指摘は時機をえたものではあるが、かれの論には重大な誤りがふくまれている。すなわち国家という権威に対抗するという共同の敵のために両者が奇怪な結合をしているという説は、誤謬というよりは虚偽である。なぜなら、日本の青年は、かって強権に反抗したことはないからである。このように述べた後でいっている。
 「斯くて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残ってゐるのみである。自然主義発生当時と同じく、今猶理想を失ひ、方向を失ひ、出口を失った状態に於て、長い間鬱積して来た其自身の力を独りで持余してゐるのである。既に断絶してゐる純粋自然主義との結合を今猶意識しかねてゐる事や、其也すべて今日の我々青年が有ってゐる内訌的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態を極めて明瞭に語ってゐる。――さうしてこれは実に『時代閉塞』の結果なのである」
 自然主義は対立した自然主義とロマン主義とを合わせ持っており、一方でロマン主義的傾向が強まり、他方で現実重視といっても卑近な事実にしか関心が向けられていないと批判し、それは「時代閉塞」のためであり、国家にこそ眼を向けなければならないという啄木の主張は正当なものだろう。
 日本の自然主義は、ゾラの影響によって生まれた社会小説への指向が消滅し、実証主義的な面とロマン主義的な面とをもつ矛盾した性格のもので、自我の確立、人間性の解放を旗印にしながら、人間を動物的側面の強調による決定論で把握しようとした。この人間観は作家を自己をも含めた現実に対する諦観に追い込み、人間性の解放というロマン主義をも行き詰まらせた。こうして自然主義文学は大正時代には、自分とその周辺の醜なる事実のなかに人生に触れる真を発見しようとして、身の回りの事実を精緻に描写し、主人公を作者の分身とする告白を特徴とする私小説に傾斜していった。
個性伸長と人類の調和を説いた白樺派
その評価をめぐって
白樺派の歴史の概略
 雑誌「白樺」は、明治四十三年(一九一〇)に創刊された。朝鮮を併合し、「大逆事件」があった年である。これが文壇の注目を集めるのは、大正三、四年(一九一四、一五)以降のことであった。同人は武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎らである。彼らは明治三十年代後半から四十年代初めにかけて、キリスト教、トルストイズム、社会主義の影響を受けたのち、それから脱却し、四十三年前後に作家として本格的な仕事を始めている。
 自然主義文学の最盛期に文学活動を始めているのだが、当初は意識的に自然主義を否定して自らの文学的立場を押し出したのではなく、自然主義派、「スバル」「三田文学」の耽美派と鼎立するかたちであった。しかし、自然主義文学運動が停滞するなかでそれと交替するかのように文壇の主流になり、自然主義とは際立って異なる文学運動を展開した。
 武者小路は他人の不幸に耐えるエゴイズムを主張し、自己に忠実に成長しようという態度を堅持し、他の作家も同様であった。「和して同ぜず」「十人十色」の個性主義に立ち、有島武郎を除いて、社会と国家に対する意識を欠如させて、個性の伸長がそのまま直接に人類と自然に調和すると彼らは考えていた。ともに美術にも関心が深く、ロダン、ゴッホ、セザンヌ、後期印象派の芸術を積極的に紹介し、また教育界にも大きな影響を与えて、その持続性と影響力は同人雑誌としては群を抜いていた。
 しかし、武者小路が宮崎県に「新しき村」を建設したり、おりから労働運動が高揚し、労働者文学が興ってきたこともあって、社会性を欠いた「白樺」は色あせ、関東大震災を機に、足かけ十六年におよんだ雑誌は大正十二年(一九二三)に終刊した。
 白樺派のなかでも中心にいた武者小路の、率直とも大胆とも、また無邪気とも誇大妄想ともつかないその作品と発言に対しては、はじめから冷笑と反発がある一方、「武者小路氏は文壇に新たな天窓をあけはなった」(芥川龍之介)、「芸術の世界で個性の尊重と主観の跳梁とを、まのあたりに表現してみせて、人々がそれに見倣うようになったのは武者小路氏以外の何人でもない。現代日本文壇にとって武者小路氏の出現は近世思想史の上にルッソオに匹敵すると僕は信じている」(佐藤春夫)という同時代の評価がある。
 武者小路自身も大正五年に書いている。
 「白樺を出したとき、新潮の六号で、アホダラ経まがひにバカラシといってからかわれた。バカラシの反対がシラカバだ。しかし、そんな語呂合せが何にもならないことはわかっている。ともかく軽蔑されてきたことはたしかだ。ほめてくれる人は道楽としてはいゝ道楽だと言ってほめてくれた」(「雑感」)
自然主義者の的外れの批判
 武者小路に対して最も激しい反感を表したのは生田長江であった。彼は「自然主義前派の跳梁」で言っている。
 白樺派の最大の欠点は、『お目出度き人』を書いた武者小路に代表されるように、全くもってオメデタイことである。彼らはオメデタイことをむしろ誇りにしている。彼らは単純で正直で真面目であると言われている。だが、その単純さは、複雑さを包容し、消化したものではなく、浮世の風にあたらない箱入息子の単純さでしかない。彼らは自然主義の洗礼を受けておらず、自然主義前派にほかならない。「私のいはゆる自然主義前派の掃討は、遊蕩文学の撲滅といふやうな仕事よりも百倍も千倍も急務である」
 これに対して、武者小路は「生田長江氏に戦いを宣せられて一寸」で応えている。
 「氏は僕たちを自然主義前派と云っているが、僕たちは日本の自然主義が自己を生長さすことに無頓着だったのに我慢ができずに立ったのだ。自己の主観を生殺しにするのに反対して自己を生かしきらないでは我慢が出来ないので立ったのだ。内の要求に立っているのだ」。自然主義の作家たちは浅薄なくせに深刻ぶり、馬鹿なくせに利口ぶり、経験もないくせにどんづまりの経験をしたかのような顔をしていただけである。自分で自分を「お目出度い」と言ったのは反語であって、「僕こそ、実は本当の道を歩いているのだ」
 『お目出度き人』は明治四十四年に刊行された作品である。主人公の「自分」は、学習院を出た二十六歳の青年で、顔はよく見るが話したことのない鶴という女性に惹かれる。自分は彼女となら個性を曲げずに理想的に愛し合えると信じ、人を介して再三にわたって結婚を申し込むが断られる。だが思いは募るばかりである。偶然乗り合わせた電車のなかでの彼女の態度から愛を確信し、幸福感に浸る。やがて彼女が結婚したことがわかり、心が打ち砕かれる。しかし彼女は自分を恋しながら、やむを得ない事情で結婚したのだと理由もなく確信する。
 これは、話したこともない女性を理想的な女性だと思い込み、五年間も恋しつづけ、片思いに終わっても自分を恋していたはずだと何の理由もなく一方的に思い込むという、アホらしくなるような独りよがりのお話しであるが、独善的な思い込みが強く、挫折ということを知らない武者小路の個性はよく出ているだろう。生田長江は『お目出度き人』を例にとって、このような武者小路に代表される白樺派を、その限りではそうなのだが、箱入息子の単純さであると批判し、的外れの「自然主義前派」と特徴づけて切り捨てているだけである。
 自然主義の理論的指導者であった島村抱月は、「個人主義によって社会と戦っていた自然主義の人々が、その効果のない戦いに疲れて、より寛い、より緩やかな心持になって、社会の道徳的意識と歩調を共にするようになった」(「将に一転機を劃せんとす」)と述べた。
 抱月は、効果があがらないことを認めつつも、個人主義に立つ以外には社会とは闘えず、個人主義によって自然主義は社会と闘ったという。また白樺派が自然主義とは別個に生まれてきたものであるのに、戦いに疲れた自然主義者のなかから出てきたかのようにとらえる。そして、社会に対して非妥協的な自然主義が変質して妥協的になった白樺派は、「個人主義的な思想から非個人主義的思想への推移」であり、期待出来るようなものはないと、自ら指導してきた自然主義に対しても、新たに主流になった白樺派に対しても間違った評価をしている。
 白樺派の登場を最も歓迎し、擁護したのは和辻哲郎である。彼は「すでに転機至れり」で抱月を批判し、自然主義から白樺派への転換は、単なる主義の転換ではなく、自然主義作家とは異なった生活態度をもった作家の登場であり、「決然として真理のために身をささげる態度」をもっていることが彼らの特徴であって、これは偉大な作家の生まれそうな予感を与えているという。また自然主義は個人を重んずることも、人間の尊厳を認めることもしなかったが、白樺派こそがこれらを描いており、これはいかなる場合でも取り上げなければならない問題であるともいう。さらに、自然主義が社会の仮面をはぎとろうとしたのは正当であったが、社会を高いところへ導いていく「理想」や「正義」や「情熱」をもっていなかったと述べて、こう続けている。
 「彼らの目は自然の限りなき深さと神秘さとに絶えず引きつけられ彼らの心臓は愛と正義の情熱とによって高く動悸をうち、彼らの手はやむにやまれぬ衝動によって、その愛と情熱とを実現するために打震うのである。彼らにとって、自然は精神の姿であり、精神的労作は生活の唯一の意義である」
 和辻は、社会における矛盾や対立はすべての人々がもっている自然的なものであるところの人間性が抑圧されているためにもたらされている、だからその人間性を深くみつめ、伸長させれば調和のある社会が実現すると考えるのである。
白樺派の文学と思想の特徴
 「白樺」の同人は多数いるが、最初の同人は全員、後続する同人の多くも華族とブルジョアの子弟で、ひとしく「選ばれた有産者」であり、学習院の出身である。彼らは武者小路もいうように「金のため、食うために文学をやる必要はなかった」のである。
 この支配階級の子弟たちは、とりわけ年長の武者小路、志賀、有島らは、青年時代になって、キリスト教的博愛主義、物質文明への懐疑や宗教による救済や無抵抗者主義や農民にのみ救いがあるといった、レーニンによって「坊主主義」と批判されたトルストイの否定的側面を特別に価値あるものとするトルストイズム、幸徳秋水らの社会主義に出会い、特権的階級に属する自分たちの出自と思想の矛盾に苦しむのである。
 例えば武者小路は、初期の作品『或る男』で、トルストイに出会うことよって自分の生活に疑問をもち、「現代の社会組織はまちがっている」という「危険思想」に近づく男を主人公にしている。
 志賀は内村鑑三の門下にあり、足尾銅山鉱毒問題で現地を見に行こうとし、それに反対した父と対立する。この問題と自分の家の女中と結婚しようとして父と衝突したこととを絡ませて作品にしたものが、文壇での出世作となった『大津順吉』である。
 有島は、キリスト教に入信した後に渡米するが、次第に疑問を抱いて信仰を棄て、ホイットマンやクロポトキンに接近する。その時期の思想を表したものに『かんかん虫』がある。それは、最下層の港湾労働者に革命的な自由人を見て、中流以上の非人間性と彼らと結びついたキリスト教を批判したものである。
 恵まれた環境のゆえに人生に対する疑問をもち、社会の不合理を憤る正義感をもち得たともいえるが、しかし、ブルジョア革命後に登場した彼らは、十八世紀のロシアにみられた「余計者」意識を持つことも、デカブリストやナロードニキのように革命運動に進むこともなかった。有島は生涯にわたって思想的な彷徨をつづけ、その作品には見るべきものがあるが、内村鑑三のもとを去った後、父との対立と和解を主題とした志賀は、社会的背景をもたない『暗夜行路』では、自然の意志に従っていくことが、安心立命、調和の世界を得ることであるという境地に達している。
 思想的指導者であった武者小路は、「白樺」創刊前後には「危険思想」はもちろん、トルストイも棄て、ひたすら自己の成長をめざすようになる。それは、思想の発展の結果としてそうなったというものではなく、一時期の気の迷いから自己の階級的基盤へ回帰し、その基盤とそこから生まれてくる自己の実感を生かすしかないという無意識の選択である。
 「個人とか個性とかを通して人類の意志を生かすなぞと云うことは今の人の見当もつかない点だと思う。しかし其処がわからないでは白樺の運動はわからない」(「白樺の運動」)と武者小路は言ったが、こうして、支配階級の経済的基盤にのっとりながら、その反映である思想と実感を、人間性一般の自然的な思想と感覚であるとし、現実の社会に眼をつぶって、個人と人類を直接に結びつけ、その調和を説くようになったのである。彼の文学は、「自然や人類と一緒に舞踏するような心を持つ」ことを芸術の精髄と信じる、自己陶酔の文学だといっても過言ではないだろう。
 このような白樺派の文学が大きな影響力をもちえたのは、資本主義の相対的な安定と大正デモクラシーという時代背景のもとで、恵まれた環境のなかでひたすら個性を伸長させるために書かれた作品が、ブルジョア的、小ブルジョア的な青年層に「理想」として受けとめられたのだろう。
プチブル作家たちの思想的動揺の始まり
有島武郎の『宣言一つ』をめぐって
有島の同伴者からの撤退の宣言
 大正末期から昭和の始めにかけて、多くの(小)ブルジョア作家の間に深刻な思想的動揺と亀裂が生じた。第一次対戦とロシア革命の影響、米騒動、労働運動の高揚、共産党の結成という社会的、政治的な激動のなかで、そしてまた労働者文学が登場することによって、彼らは労働者階級の闘いと社会主義思想、その文学に対してどのような態度をとるのか、という決断を迫られたのである。有島武郎の「宣言一つ」をめぐる論争と彼の死、それに続く一連の文学論争、芥川龍之介の死は、彼らの思想的動揺の現れであり、それぞれの態度表明であった。
 「宣言一つ」は、大正十一年(一九二一年)一月に発表されたもので、有島は次のように述べている。
 「思想と実生活とが融合」した生活は常にわれわれの最大の課題であるが、特に今日注目すべきことは、労働者階級の闘いが、学者や思想家の手を離れて労働者自身の手に移ろうとしていることである。労働者はもはやクロポトキンやマルクスのような思想家を必要としていない。彼らの功績がどこにあるかといえば、「第四階級以外の階級者に対して、或る観念と覚悟を与えた」点にある。彼らの思想は、労働者階級にとっては、むしろその「独自性と本能力とをより完全に発揮する」妨げになるだろう。
 こう述べた上で、有島は結論する。
 「私は第四階級以外の階級に生まれ、育ち、教育を受けた。だから私は第四階級に対しては無縁の衆生の一人である。私は新興階級者になることが絶対に出来ないから、ならして貰はうとは思はない。第四階級のために弁解し、立論し、運動する、そんな馬鹿げ切った虚偽も出来ない。今後私の生活が如何様に変らうとも、私は結局在来の支配階級者の所産であるに相違ないことは、黒人種がいくら石鹸で洗ひ立てられても、黒人種たるを失はないのと同様であるだらう。従って私の仕事は第四階級者以外の人々に訴へる仕事として終始する外はあるまい。(中略)どんな偉い学者であれ、思想家であれ、運動家であれ、頭領であれ、第四階級的な労働者たることなしに、第四階級に何物をか寄与すると思ったら、それは明らかに潜上沙汰である。第四階級はその人達の無駄な努力によってかき乱されるの外はあるまい」
 有島は、大正時代のなかばから台頭してきた民衆芸術や労働者文学に対して、終始その理解者であり同伴者であった。「種蒔く人」の執筆陣に名を連ね、ロシア児童救済の会計監督を引受けていた。社会主義が必然であり、「階級闘争といふものが現代生活の核心をなすものであって、それがアルファでありオメガである」ことを認めていたからである。だが彼は、自らの生活がブルジョア的であり、思想と実生活とがかけ離れていることに悩み続けてきた。それで、当時の社会主義運動内部におけるインテリ排撃のサンディカリズム的風潮と、「冬の時代」の後の労働者階級の闘いの高揚を迎え、職業作家としての自らの立場と進むべき方向を明らかにしなければならないと考えたのである。
 「宣言一つ」は、誠実で倫理的に潔癖な彼が、単なる同伴者にとどまることをこれ以上自分に許すことができず、かといって、労働者作家であるわけではなく、また自分が所有する農地の解放の準備を進めながらも、全面的に労働者階級の立場に立つことができないということを自己認識し、同伴者の立場からも身を引くことを宣言したものである。彼はその決意を正当化するために、労働者階級の自主性を強調し、そしてそれは正しいのであるが、社会主義革命にはインテリゲンチャの果たすべき役割は何もないと、マルクスも含めて革命的なインテリゲンチャをも否定するかたちで行ったのである。
 また、「宣言一つ」を発表する前に、有島は『惜しみなく愛は奪う』や他のエッセイで、「本能的生活」をもって「習俗的生活」「智的生活」を統一すべきであり、この「本能的生活」こそが芸術を創るのであると書いていた。また本能こそが人間の全的、内的な個性の要求であり、この「個性を外的の圧迫から切り放ち、内部の要求にのみ応じて表現すべき環境を求める」ことが、「根抵的な芸術衝動の相である」ともいっていた。しかし他方では、「芸術家を造るのものはその所謂実生活ではない。その愛の強さ深さ高さだ」ともいい、「個人的欲求と社会的欲求」とは一致しなければならないとも語っていた。思想と実生活とを統一するために、またそれと合わせてこうした矛盾した考えに決着をつけようという決意を表したのが「宣言一つ」であった。
廣津和郎の批判と有島の応酬
 有島の発言に対して多くの批判が集中した。
 廣津和郎は、「相変らず有島武郎氏式な、窮屈な考へ方」であって、文学というものは、世間が慣用的に言っているブルジョア的なものであれプチブルジョア的なものであれ、純粋でさえあれば他の人々にも感動を与えることができるものであると断言する。次いで、有島の主張をこう評している。
 「文学はブルジョアにもプロレタリアにも専属すべきものではないと云ふのが僕の意見なのです。つまり、我々の純粋な気持を出して行くやうに心懸けるのが何よりだと思ふのです。有島氏のあの説は、ブルジョアとプロレタリアと云ふ二つの言葉に、余りに脅かされ過ぎてはゐないかと思ふのです。さういふ言葉の対立が、今のやうにはっきりして来たがために浮んで来た考ヘに過ぎないのではないかと思ふのです」(「有島武郎氏の窮屈な考え方」)
 廣津は、ブルジョアとかプロレタリアとかは現実に存在するものではなく、単なる言葉であって、有島はこの言葉に引きずられているに過ぎないとして、文学が階級的な性格をもつものであることを否定する。そして、重要なことは「純粋な気持ち」を出すことであると、文学が単に「気持ち」の表現であり、それが優れていいるかどうかは気持ちが「純粋」か否かにかかっていると、文学を極度に矮小化する。
 数年前に『怒れるトルストイ』を書いて、生活と調和しない思想をもつことによって生ずる焦燥が、どれほど生の自然を歪めるかを論じた彼にとって、作家はその生活がどのようなものであれ、生活実感をそのまま素直に出せばいいのであって、あれこれ思い悩むことはなく、有島のように思い悩むのは「窮屈」であると断じたのである。
 「廣津氏に答ふ」で有島は反論している。
 先ず芸術家を三種類に分けている。第一は、その人の生活全部が純粋な芸術境に没入している人で、自己の芸術的感興を表現することに全精力を傾倒して他をかえりみないタイプである。第二は、芸術と自分の実生活との間に思いをさまよわせずにはいられない人で、自分の実生活と周囲のそれとの間に合理的な関係をつくらなければ、その芸術を生み出すことのできないタイプである。第三は、自分の芸術を実生活の便宜に用いようとする人で、生活のためにはブルジョアにも取り入ればプロレタリアにも迎合するタイプである。有島は芸術と生活、あるいは社会との関係から芸術家をこのように分類した上で評価する。
 「芸術家と云ふものの立場より云ふならば第一の種類の人は最もうやまふベき純粋な芸術家であり、第二の種類の人は、芸術家としては所謂素人芸術家を以て目さるべき者であり、第三の種類の人は、悪い意味の大道芸人とえらぶ所がない人である」
 そして有島は、自身を第二のタイプに属しているから「宣言一つ」を発表したのだといい、こう続ける。来るべき文化はプロレタリアによって築かれるべきであり、また築かれるだろうことを信じている。出来ればプロレタリア芸術家として、プロレタリアに訴える作品を書きたいが、しかし生まれ育った境遇と素質からいってそうはなれない。
 「私は何んといっても自分がブルジョアジーの生活に浸潤し切った人間である以上、濫りに他の階級の人に訴へるやうな芸術を心がけることの危険を感じ、自分の立場を明かにしておく必要を見るに至ったものだ。さう考ヘるのが窮屈だといふなら、私は自分の態度の窮屈に甘んじようとするものだ」
 有島は「宣言一つ」のモチーフをより鮮明にしつつ、(小)ブルジョアインテリが労働者階級の立場に移ることは容易なことではなく、進歩的といわれている彼らが労働者階級の思想的指導者のような顔をすることに警告し、自分は同伴者であることもやめると再度宣言したのである。
社会主義者たちの見解
 堺利彦は「有島武郎氏の絶望の宣言」で、有島がマルクスやクロポトキンまで否定していることを中心に批判している。彼は、マルクス主義はブルジョア社会の科学的分析にもとづいた思想であり、労働者階級の独自性を主張するのはいいとしても、だからといってマルクス主義が彼らの闘いに無意味であるというのは間違いであると述べている。
 「労働者が自分の判断力に依って、自分達の為に利益と認め、有効だと信じた所の、(思想家知識階級、若しくは諸方面の専門家が提案した)理論や戦術を採用するのに、何の不堅実があろう」
 堺の「宣言一つ」の評価は次のようであるが、これは全く正当なものだろう。
 「種々煩悶の結果、遂に一切の思想家を無理やりに道連れに誘って、(クロポトキン、マルクス、レーニン等さえ、強いて当然の道連れたるべき、或いはべかりし、者として)上流階級の間に活動の範囲を制限し、おとなしく一種の逃避を試みたものと目すべきものである」
 「宣言一つ」を読んで思いついたことを書いたという河上肇の「個人主義者と社会主義者」は独特なものである。彼はレンブラントのエピソードを引いていう。
 「学者とか芸術家とか云ふものは、自分の学問なり芸術なりに最高価値を認め、一切のものを之れが手段となし犠牲となすことによって、持って生まれた天分の全力を尽くし得、之によって始めて自分の学問なり芸術なりを十分仕上げることが出来るのである。それゆえ純粋の学者、純粋の芸術家は極端なエゴイストたるべき筈である。民衆のためにとか、社会のためにとか云う考へは起こらないで、寧ろ民衆を犠牲にし、社会を犠牲にすることによって、自分の学問なり芸術なりを高め且つ深めることにのみ精進する所の、極端な個人主義者でなければならない」
 また、クロポトキンの『自叙伝』を読んで、クロポトキンがすぐれた地理学者になりうる才能と境遇に恵まれながら、その学問で新しい発見のために努力するよりも、既に得られた知識を民衆に普及し、「労働者で貧乏人である多数民衆の教師となり補助者となること」を自分の義務であると考えるに至ったという部分を挙げて、河上は、エゴイストではなかったからクロポトキンは偉い学者になれなかったのだといい、こう書いている。
 「人間として想像し得らるゝ限り、徹底的の非エゴイストだと思はれるクロポトキンが、立派な地理学者となるべき才能と境遇とを有っていたに拘わらず、彼が敢えて『学者』となり得ざりしことを、誰が咎むる権利を有するぞ? (中略)徹底的のエゴイストも偉いが、徹底的の非エゴイストも亦た偉い。私はレンブラントにも頭を下げるが、クロポトキンにも頭を下げる」
 河上は、科学や芸術で成果をあげるには、一般的には才能や努力とともに時間や生活上の条件が必要であるということから、学者や芸術家を才能に恵まれ努力を惜しまない人間であると美化し、労働者階級に寄生するインテリ階級の存在と彼らの個人主義、エゴイズムを正当化する。他方、社会主義者を科学の発展には何ら寄与しない、単にすでに得られた知識を普及する啓蒙主義者に過ぎないかのように徹底的に矮小化する。こうして彼は、有島が同伴者として啓蒙的な作品を書くのもよし、それから退いてエゴイストとして文学に打ち込むのもいいとするのである。
小説の価値≠めぐって
プロレタリア文学と私小説のはざまで
菊池寛の内容的価値論
 前回取り上げた「宣言一つ」で、有島武郎が提起した根本的な問題は、労働者階級の闘いと社会主義思想に対して作家はどのような態度をとるべきか、ということであった。この問題が形を変え、後退して、より一般的に小説のもつ社会的な価値はどういう点にあるのか、小説という芸術の性格とはどのようなものか、という問題として論争が行われた。菊池寛・里見クの「内容的価値論争」と廣津和郎・佐藤春夫・生田長江らの「散文芸術論争」である。
 菊池と里見との間にはすでに大正九年に、論争という程のものではないが意見の対立があった。菊池は「芸術と天分」という感想を書き、「作家凡庸論」を説いた。技巧が偏重された時代には特別な才能が必要だったかも知れないが、今は「素直に端的に物を言ふ時代」であり、また「創作の喜びは、どんな貧しい天分の者にでも、享け入れられる喜び」である。したがって特殊な天分がなくても「人生を正しく観、それを正しく表現する位の技能は、普通の人間には少し努力すればいい」というのが要旨であった。
 里見はこれに反対し、「作家天分論」を主張した。彼は、「平凡人が平凡に観、平凡に生活した記録」が、自然主義全盛の時代にいやになるほどたくさん出たことを菊池は知らないわけではないだろう。しかも、「平凡に観、平凡に生活した記録」が、いつのまにか「正しく観、正しく表現する」となっているが、人生を正しく見、正しく表現することが平凡人にできるはずがないというのであった。このような意見の相違が発展して、文学の表現と内容、芸術的価値と社会的価値などをめぐる論争になったのである。
 菊池の「文芸作品の内容的価値」が発表されたのは、「宣言一つ」が出された半年後の大正十一年(一九二二年)七月であった。
 有島は廣津の批判に応えた文で芸術家を三種類に分けたが、菊池は、ただ芸術的表現を念とする作家と、それだけでは満足し得ない作家との二種類に分け、自分は後者をとるという。そして、「ある作品を読んで、うまいうまいと思ひながら、心を打たれない。他の作品を読んでまずいまずいと思ひながら心を打たれる」ということがあることからも察しられるように、文芸作品には芸術的価値のほかに、「作家がその芸術的表現の魔杖を触れない裡から、燦として輝く人生の宝石が沢山ある」と、題材自体に人生的価値とでもいうべき内容的価値があるという。菊池は、芸術的価値を表現技術とし、内容的価値を題材にあるかのように述べて、理想的な作品とは内容的価値と芸術的価値とを共有した作品であるが、ある作品が人生に対して重大な価値があるかどうかはもっぱらその内容的価値によって決定されると主張した。彼の主眼は次の一文にあった。
 「当代の読者階級が作品に求めてゐるのは、実に生活的価値である。道徳的価値である。(中略)私は、芸術はもっと、実人生と密接に交渉すべきだと思ふ。絵画彫刻などは、純芸術であるから交渉の仕方も限られてゐる。(それ丈、人生に対する価値が少いと思ふ。)幸にして、文芸は題材として、人生を直接に取り扱ひ得るから、どんなにでも人生と交渉し得ると思ふ。それが、画家などに比して文芸の士の特権である」
里見クの批判と菊池の反論
 里見は、「菊池寛氏の『文芸作品の内容的価値』を駁す」を書いて反論した。菊池の論文が、「私は、芸術を説明して、魂が何うしたの、心がどうしたのなんて云ふ神秘説は嫌ひである」とか、倉田百三や賀川豊彦の作品を邪道として、「芸術至上主義を振りかざして、安閑として居てもいいのかしら」とか、「改造」に連載中の里見の「文芸管見」を念頭に置いたものであることが明らかだったからである。里見はいう。
 「『芸術的』と言ふ言葉を、『うまく描けてゐる』と同義に用ひ、絵画彫刻が『純芸術』であるの故を以って、人生と没交渉なもののやうに考へ、イプセン、トルストイを、『内容的価値』に於てのみ認めようとするなどは、殆んど私には、うちの亡くなった親父さんとでも芸術論を戦はしてゐるやうな気がされるくらゐのものだ」
 芸術を表現と内容とに分けて考えるなどとは、ともに芸術にたずさわるものの「面汚し」であり、芸術の真諦は「一にそれが一元に帰する」ところにあるのであって、「うまいうまい」と「心を打たれる」との間に「だから」や「けれど」が入り込む余地は無いといい、菊池を次のように批判している。
 「氏の説くような内容ならば、速やかに文芸を去って、思想を『哲学』に、事件を『街』に、或は『歴史稗史』に求めるのは捷径に如くはないのだ。早い話が、氏の挙げたトルストイの場合でも、小説戯曲はそっちのけにして置いて、論文集を幡けば、毎行必ず氏の云ふやうな『内容的価値』に出遇ふ筈だ。何を好のんで小説戯曲に、余計な『芸術的価値』を篩ひ分けしながら、十行に一つか、二十頁に一つか、或はまた皆無か、あてもない『内容的価値』を、落物でもしたやうに、一生懸命探し廻る愚を敢えてする必要があるものか。そんな考をもちながら、哲学者にもならず小説や戯曲を書いてゐられるとすれば、菊池氏は、慥に辛抱人だ」
 菊池は「再論『文芸作品の内容的価値』」で、芸術の真諦が一元に帰すること、内容と表現とは切り離せないものだということくらい、里見に教えられなくてもわかっていると述べたうえで、こう語っている。
 「芸術は、表現である。現霊術である。それ以外の何物でもない。それと同時に、私はどんな芸術でも芸術丈けでは、満足しないのである。一寸見れば、パラドックスのやうに見えるだらうが、こうした見方が、芸術に対する最も徹底した見方だらうと些か自負してゐるのである。芸術丈けでは満足しない。それは真に芸術の外道である。里見君が、それと察して(私の芸術観を誤解しながらも)面汚しであるなどと云ってゐるのはまぐれ当りの至言である。私は芸術丈けで満足してゐる人を羨ましく思ふのである。里見のやうな人を羨ましく思ってゐる」
 菊池が主張しようとしたことは、「私が『芸術の』と言わずに『文芸作品の』と言っている注意が、里見君には解らないのか」と言っているように、芸術一般について展開しているのではなく、小説というものは他の芸術以上に社会の現実に目を向けたものであるべきで、人の心を打つような題材を現実の中から選ぶことが要求されているのではないか、という点にあった。それを、里見が誤解するのも無理からぬ書き方で述べたのである。
廣津和郎と佐藤春夫の散文芸術論
 この小説と現実との関係について一歩進めたのが廣津和郎の「散文芸術の位置」である。この評論は、大正十一年に行われた「宣言一つ」をめぐる論争に対する反省の上に立ち、菊池・里見の論争を踏まえて書かれたものである。
 廣津は、菊池・里見の論争が真に論争としてのかたちになりえなかったのは、芸術のなかから特に散文芸術というものをぬき出して、その独自な性格に即して論じなかったためではないかという。
 また、かつて有島は廣津との論争で、芸術家を三種類に分けたが、その第三の芸術家というのは芸術家ではありえないのだから論外として、あと二種類の芸術家の区別には別に異存はない。だが、この二種類の芸術家の評価ということになれば、自己の芸術境に没入する第一の芸術家が一番純粋な、尊敬すべき芸術家で、現実に関心を持ち、現実と芸術の間で思い悩む第二の芸術家はそれよりも低いものであり、有島自身がそれに属しているものとして卑下していることに賛成できない。これも芸術という言葉をあまり漠然と使いすぎているところからきたためではないかともいう。
 菊池寛も芸術家を二種類に分け、自分を有島のいう第二の芸術家に入れ、有島のように卑下するのではなく、むしろこの種類の作家こそが現代の作家たるにふさわしいとしたが、廣津も「近代の散文芸術と云うものは、自己の生活とその周囲とに関心を持たずに生きられないところから生まれたものであり」、第二の種類の作家こそが現代の散文芸術家として当然の態度でなくてはならないとする。彼は、菊池のように小言というものについて曖昧に語るのではなく、その性格をはっきりさせるべきだというのである。
 「結局、一口に言へば、沢山の芸術の種類の中で、散文芸術は、直ぐ人生の隣りにゐるものである。右隣りには、詩、美術、音楽といふやうに、いろいろの芸術が並んでゐるが、左隣りは直ぐ人生である」「そして人生の直ぐ隣りと云ふ事が、認識不足の美学者などに云はせると、それ故散文芸術は芸術として最も不純なものであるやうに解釈するが、併し人生と直ぐ隣り合せだといふところに、散文芸術の一番純粋の特色があるのであって、それは不純でも何でもない、さういふ種類のものであり、それ以外のものでないと云ふ純粋さを持ってゐるものなのである」
 佐藤春夫の「散文精神の発生」は、廣津の説に賛成し、彼が散文芸術と呼んでいたところのものを散文精神の面からとらえ返そうとしたものである。
 散文精神は、詩的精神とは反対に無秩序、無統一、無調和の混沌そのものであって、混沌とした社会的現実をそのままで認めたものであるという。
 「散文精神は言ひ換えれば、あらゆる近代主義の精神とも言い得る。即ち主観に即した統一や調和から解放されて、主観が文芸の天地を支配する代わりに、観察が混沌たる実生活を混沌のままで認めたものが即ち自然主義精神であり、自然主義の勃興はやがて散文精神の全盛になった。浪漫主義のなかにすでに胚胎していた散文精神は、自然主義の洗礼によって完全に誕生した」
 有島が行き詰まったのは、調和を重んずる詩的精神に囚われて、「混沌を混沌のままとし懐疑のままとして投げ出し、しかも安然としてゐるところの散文精神の芸術家」「即ち近代主義の芸術家を十分に認める事が出来なかったのかも知れない」
 廣津、佐藤の散文芸術論あるいは散文精神論を批判した「認識不足の美学者二人」という長い論文を生田長江は書いている。しかしそれは、「散文芸術は人生の隣りだ」という説について、その意味がわからない。人物画は静物画よりも人生に近いというのか、人間の病気を扱う医者は獣医より人生に近いところにいるなどとは、容易に説明できるものではないというような、長いだけで無内容なものもある。
 廣津は、「再び散文芸術の位置について」と題して、現代の散文芸術を生田のように一般的な芸術論で片付けることに満足できない気持を語りたかったのだと言っている。功利の意味を少しもふくまない第一義的な芸術美のほかに、さまざまな人生的要素とまざり合った美、現実的な「卑近美」ともいうべきもの、この点に散文芸術の特色があることを強調せずにはいられなかったのだ、とその主旨を繰り返している。
二つの小説論の意味するもの
 菊池寛の内容的価値説における「我々の人生に密接する」題材に目を向けよという提言も、廣津和郎の散文芸術論における「散文芸術は人生に隣するもの」という論も、芸術一般から区別された小説論である。これは有島の階級闘争と社会主義思想にどのような態度をとるのかという問いに対する、現実の階級社会から階級ということを取り除いた、単に作家は現実の社会に無関心であってはならないという気の抜けた回答であった。だがこの答えはまた、文壇で主流を占めるにいたった私小説に向けられた批判でもあった。彼らは、プロレタリア文学に対抗して文学が階級的、政治的色彩を帯びることを避けつつ、同時に社会への関心を喪失している私小説の狭さを超えようとしたのである。
プロ文、新感覚派の抬頭と既成作家の模索
「心境小説」の評価をめぐって
「本格小説」の提言と「心境小説」の擁護
 大正十三年(一九二四年)から昭和二年(二七年)にかけて、私小説もしくは心境小説をめぐる論争があった。当時の作家、評論家でこの問題について発言しなかったものはなかったといっても過言ではない。
 この論争のきっかけになったのは、中村武羅夫の『本格小説と心境小説』である。ここで彼は、本格小説とか心境小説とかいう言葉を「危なっかしい新用語」と断りつつ、それぞれをこう特徴づける。
 本格小説は「主観的な行き方に対する、厳正に客観的な行き方の小説」、「作者の心持や感情を直接書かないで、或る人間なり生活なりを描くことに依って、そこにおのずから作者の人生観が現れて来るやうな小説」である。例としてトルストイの『アンナ・カレーニナ』をあげているように、本格小説として中村の念頭にあったのは、十九世紀のロシアやヨーロッパのリアリズム小説である。
 他方、心境小説は「或る人間なり、生活なり、社会なりを描こうとするよりも、そんなものは何うでも好い、ひたすら作者の心境を語らうとするやうな小説」、「作者自身の見方、感じ方、即ち作者自身の『心の動き』を書こうとする」ものである。
 このように本格小説と心境小説とを規定し、心境小説を本格小説の下位に位置づけて、「どんなに傑れた心境小説よりも、失敗しても本格小説と取り組んで居る方に、作家としての本当さを認める」という。
 彼は必ずしも心境小説を否定してはいない。しかし、心境を綴った日記のような小説こそ最も小説らしい小説であり、純粋で高尚であるとするような風潮に対し、本格小説を対置して、私小説が陥っている狭さを超えるように訴えたのである。
 久米正雄の『私小説と心境小説』は、中村の主張に対する直接の反論を意図したものではなかったが、その心境小説論は中村の本格小説論と真っ向から対立するものであった。これが出てから論争は一挙に拡大した。
 「私はかの私小説なるものを以て、文学の、――と云って余り広過ぎるならば、散文芸術の、真の意味での根本であり、本道であり、真髄であると思ふ」
 久米はいう。芸術が真の意味で、別な人生の「創造」だとはどうしても信じられない。芸術が別の人生の「創造」だなどとは、一時代前の文学青年の幻想にすぎない。自分にとっては、芸術はたかだかその人が踏んできた、一人生の「再現」としか考えられない。たとえばバルザックが、さまざまの型の人物を生きているように創造しようと、自分には結局作りものとしか思われない。
 「私は此頃或る講演会で、かう云ふ暴言をすら吐いた。トルストイの『戦争と平和』も、ドストエフスキイの『罪と罰』も、フローベルの『ボヴァリ夫人』も、高級は高級だが、結局偉大なる通俗小説に過ぎないと。結局、作り物であり、読み物であると」
 すベての芸術の基礎には「私」があり、芸術として問題になるのはその「私」が、はたして如実に表現されているか否かということだという。そして「私」を如実に表現するためには、「私」を「コンデンスし、――融和し、濾過し、集中し、撹拌し、そして渾然と再生せしめて、しかも誤りなき心境を要する」。したがって、「真の意味の『私小説』は、同時に『心境小説』でなけれはならない」というのである。
 昭和の文学が「三派鼎立」という形をとって出発した、すなわち、明治・大正からの既成の文学と、新興文学としてのプロレタリア文学と、新感覚派に始まるモダニズム文学、この三つの流派が並び立って開始されたとは平野謙の有名な説であるが、これには異論はないだろう。大正十年の『種蒔く人』の後を受けて、「革命の文学」をめざすプロレタリア文学の拠点となった『文芸戦線』が発刊されたのは関東大震災のあった翌年の大正十三年であった。この年には、第一次大戦後のアバンギャルド芸術の流れを汲む、「文学の革命」をめざす新感覚派の雑誌『文芸時代』も誕生している。私小説論争は、プロレタリア文学と新感覚派の文学に挟撃された既成の文学がそれらと対抗しつつ、進むべき方向を模索するなかで行われたものであった。
 菊池寛の内容的価値論、広津和郎の散文芸術論、中村武羅夫の本格小説論は、私小説からもっと社会に目を向けたリアリズム小説に脱皮していこうとする既成作家の側からの発言であった。しかし、『戦争と平和』も『罪と罰』も「偉大な通俗小説」にすぎず、真の小説は心境小説であるとする久米の説は、プロレタリア文学など気にかけることなく、自分こそが真の芸術に携わっているのだと安んじて私小説に打ち込もうとする、狭い特殊な地点にとどまった私小説作家の開き直りの論であった。
 久米正雄はここまで後退したのであるが、その後の彼は通俗作家に転じている。人生にとって価値ある題材を取り上げよと言った菊地は、すでに通俗小説を書いており、階級芸術論争では「芸術本体に階級なし」と主張し、彼が創刊した『文芸春秋』は反プロレタリア文学の一つの拠点となった。他方、有島武郎との論争では芸術の超階級性を唱えた広津は、散文芸術論を経て、昭和四年に「過去を振切って新たな一歩を踏み出そう」とする心情を吐露して同伴者作家になり、戦後には松川事件の真相を明らかにしようと情熱を燃やした。
宇野、佐藤の私小説についての意見
 宇野浩二は、大正十四年に『「私小説」私見』という感想を書いている。そのなかに、一般には私小説の源流が自然主義文学にあると考えられていることに対して、「私小説の元は私は白樺ではないかと考へてゐる」とあり、「武者小路氏の驚くべき文体が、私は私小説の或る意味での元祖だと考へるのである」といっている。これまでの一人称小説では、その一人称の人物と作者との間がかなり離れていたし、作者もそのように心がけていたようであった。ところが、武者小路の小説は、小学生や中学生の作文を思わせるようなもので、文中の「自分」という主人公は、一読して直ちに作者その人と思われるものであった。これも歴史的にたどれば、田山花袋の主張した自然主義文学に源を発していると見られなくもなく、実際「私」という言葉が文中に最も多く用いられるようになったのは、田山以来である。しかし、私小説らしい私小説は武者小路に始まるのではないかというのが宇野の意見である。この意見は、改めて考えてみると実際に即しているようにも思われる。
 宇野は、作家が原稿の書けない焦りや貧乏で困っていることや恋の苦しみなど、自分のことばかりを書いた小説が一般の読者の興味をひかず、まして心境を語ったものは、あらかじめ作者の人となりや境遇を知っていなければ理解もされないだろう、このような小説は「小説道の一種の外道であるかも知れない」と述べている。
 しかし他方では、日本人の書いたどんな優れた本格小説でも葛西善蔵が心境小説で到達した位置にまで行っているものは一つもない。『湖畔手記』や『弱者』は東西の文学において独特無類のものであって、小説もこの高さ、この境地にまで達したなら、他の多くの小説は何らかの意味で通俗的だと言えないこともないといっている。彼の結論はこうである。
 「一心に『私』の生活を掘り下げて行って、『私小説』をより深く深く、『私小説』より外のものは書けない、もしくは書く気にならない、書く余裕を持たないといった風な作風も亦、バルザック派と共に賞賛されていゝだらうと思ふ」
 昭和二年に佐藤春夫は『「心境小説」と「本格小説」』を発表した。それによれば、心境小説は「甚だ変態的なもので、その趣きはまた変則的な美観である。寧ろそれは抒情のかはりに心理描写を以てした詩といふ方が適切のやうに思ふ」といっている。そして、なぜ心境小説が文壇で主流を占めるまでになったかの理由を次のように書いているが、この問題についての見解は注目すべきものである。
 わが国の作家は、ほとんど二十五から三十までの間に一個の作家となっている。しかも、大部分は中流階級の子弟である。せいぜい学校生活と恋愛生活と、それに詩的空想と自己反省的心理解剖とが彼らの生活の大部分である。彼らの文学はこのような基礎の上につくられている。しかも、ジャーナリズムの要求で深く考える余裕もなく次から次に書かなければならない。そこで狭隘な生活経験しかなく、書斎とカフェー以外の世界を知らない彼らは、勢い題材を日常茶飯事とその中での心理に取らざるを得ない。そして歳をとるにつれ、多少は物の見方と考え方にも複雑さが加わって生まれてきたのが心境小説である。ここから次のように結論されている。
 「僕は『心境小説』の隆盛をわれわれ当年の青年作家の止むを得ざる多産と生活的狭隘とまた無意識の偸安から来る早老と、しかしまだ摩滅しつくされずに残ってゐる才能との奇妙な混血児ではないかと考へるのである。僕の観察は余りに己れを以て他を類推するに過ぎるだらうか。ともあれ所謂心境小説は余りに個人的であり、同時に心理にのみ終始し、さうして微妙な陰影をのみ求めるのを見て、僕はこれらの小説作品を早老者の詩だと考へるのである。また芥川龍之介氏が近頃発表したところの所謂筋のない小説の説も、一個の新時代の俳文とも称すべきものでこれもまた余りに早老的な浪漫主義の一面ではなからうかと思ってゐる」
 数ある私小説論のなかで、佐藤のこの説はもっとも納得のできる意見である。
「小説の筋」論争
 佐藤の文のなかに芥川の「筋のない小説」のことが出てくるが、これは谷崎潤一郎との間で昭和二年早々に交わされた論争で、芥川が「『話』らしい話のない小説」を小説の在り方であると言ったことを指している。この年一月から、谷崎は数カ月にわたって雑誌に『饒舌録』と題する文芸随想を連載し、こう語っている。
 「いったい私は近頃悪い癖がついて、自分が創作するにしても他人のものを読むにしても、うそのことでないと面白くない。事実をそのまま材料にしたものや、さうでなくても写実的なものは、書く気にもならないし読む気にもならない」、「近年の私の趣味が、素直なものよりもヒネクレたもの、無邪気なものよりも有邪気なもの、出来るだけ細工のかかった入り組んだものを好くようになった」
 谷崎の「癖」とか「趣味」は初めからあったものであるが、今になってわざわざそれを強調するようになったのは、一方にはプロレタリア文学の台頭があり、他方には新感覚派の進出があって、明治以来主流を占めてきた自然主義とそれに続く白樺派が、私小説をさらに狭めて心境小説となってきたことに対する、自らの小説の擁護であった。
 谷崎の随想について芥川が感想を述べたことがきっかけとなって、数回にわたる両者の論争になった。芥川の言業は、必ずしも谷崎を批判しようとしたものではなく、たまたまそれにふれて、彼の心境を述べたにすぎなかった。当時の芥川は初期から中期にかけての、技巧的作為的な「話」本位の小説に自ら疑問を感じ、心象風景を描いた小品などを好むようになり、作品に大きな変化が現れた時期であった。彼は、谷崎は奇抜な筋というものにとらわれすぎる、小説とはそういうものではない、筋の面白さと芸術的価値とは別ものだと述べたのであった。
 これに対し、谷崎は「筋の面白さは、云ひ換えれば物の組み立て方、構造の面白さ、建築的の美しさである。此れに芸術的価値がないとは云ヘない」、日本の小説に最も欠けているのはこの構成する力である、と反論した。
 芥川は『文芸的な、余りに文芸的な』で谷崎に答えている。「僕が僕自身を鞭うつと共に谷崎潤一郎氏をも鞭うちたいのは(中略)その材料を生かす為の詩的精神の如何である。或は又詩的精神の深浅である(中略)僕が谷崎潤一郎氏に望みたいものは畢竟唯この問題だけである」
 自己に不安を感ずることのなかった谷崎の回答は痛烈であった。「私には芥川君の詩的精神云々の意味がよく分からない」、「私は斯くの如く左顧右眄している君が、果たして己を鞭うっているのかどうかを疑う。少なくとも私が鞭うたれることは御免蒙りたい」
 芥川はこの論争ののち間もなく、遺書に「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」を記して自殺している。
大震災後の社会への期待と不安
新感覚派の文学の評価をめぐって
新感覚派の登場
 大正十二年(一九二三年)九月の関東大震災によって、政治・経済・文化の中心である首都東京は一夜にして廃墟と化した。文芸雑誌も、『新潮』『早稲田文学』『文芸春秋』『明星』などは休刊を余儀なくされ、『白樺』『種蒔く人』などは廃刊に追いこまれた。
 この大震災は、永井荷風が江戸の文化の名残を煙とし、明治の文化を灰としてしまったと書き、菊池寛が結果において一つの社会革命であったと言い、横光利一が日本の国民にとっては世界大戦に匹敵すると述べていることからもわかるように、多くの作家の生活感情や文学意識に巨大な衝撃を与えた。
 二十世紀初頭から第一次世界大戦後にかけて、ヨーロッパでは没落への怨念と不安、戦争に対する危機感、社会主義への恐怖など資本主義の矛盾の深化に対するプチブルジョアの意識を反映した未来派、立体派、表現主義、ダダイズム、シュルレアリズムなどのアバンギャルド芸術思想が生まれた。第一次大戦後に日本に紹介されたこれらの芸術の思想と方法は、階級闘争の発展と大震災の衝撃によって、新感覚派の文学運動に始まるモダニズム文学に大きな影響を与えることになった。
 新感覚派の作家たちに直接の影響を与えたのは、堀口大学が訳したポール・モーランの『夜ひらく』や、ドイツ表現主義の映画『カリガリ博士』、ゲオルグ・カイザーの『カレイの市民』その他、この時期に出た未来派や表現主義の戯曲の訳文であった。『夜ひらく』では、モーランの文体の新しさを示す表現として、「ダリヤの花が一輪私の開いた口へ入って、やうやく咽喉でとまった。花合戦。花園が空中をとんだ」という一文が特に有名である。
 新感覚派の雑誌『文芸時代』が創刊されたのは関東大震災のあった翌年の十月である。創立同人は、横光利一、川端康成、片岡鉄兵、中河与一、今東光など十四名で、大部分は菊池寛の『文芸春秋』の同人でもあった。後に今が脱退して、岸田国士、稲垣足穂らが加入している。
 『文芸時代』のマニフェストというべき「創刊の辞」で川端は、「我々の責務は文壇に於ける文芸を新しくし、更に進んで、人生における文芸を新しくし、或いは芸術意識を本源的に新しくすることであらねばならない」と主張した。また同誌で、「地震が既成文芸の終点であり、新文芸の起点であることは確かであらう。地震前派地震後派と云った風の言葉が生きた意味を持つやうになるかもしれない。そして我々は、これを機会に一層露骨に大胆に既成文芸に対する不満を述べ、新文芸の要求を明らかな形で提唱すべきであると思ふ」(『余燼文芸の作品』)とも書いている。
 新しい文学世代を集めた『文芸時代』の登場を、「新感覚派」と命名したのは千葉亀雄であった。彼は『新感覚派の誕生』と題する論文で、この派が文壇の主流になる可能性については疑問であるとしながらも、その文学に好意的な期待を寄せ、新感覚派は特殊な視点に立って人生をとらえようとしているが、これはリアリズム作家から見れば技巧に走り過ぎると思われるだろうと述べた上でこう続けている。
 「これはまた立派にこれでよいのである。現実を単なる現実として表現する一面に、さゝやかな暗示と象徴によって、内部人生全面の存在と意義をわざと小さな穴からのぞかせるやうな、微妙な態度の芸術が発生するものも自然の約束なのである。さらば、なぜ、彼等が人生を表現するに、わざわざ『小さな穴』を撰ばねばならぬかといふならば、彼らが大きな内部人生を象徴させるために使った、その小さな外形は、有りやうは、彼等が端的に刺激された、刹那の感覚の點出に過ぎないからである」
 「いはゆる『文芸時代』派の人々の持つ感覚が、今日まで現はれたところの、どんなわが感覚芸術よりもずっと新しい、語彙と詩とリズムの感覚に生きて居るものであることはもう議論がない」
 新感覚派の中心的作家は、川端も「横光がその派の爆心、中核であったより、なほ強い源泉であった」と言っているように、横光であることは衆目の一致するところである。新感覚派を論ずるとき、必ずと言ってよいほど取り上げられるのが、『文芸時代』創刊号に載った彼の『頭ならびに腹』の冒頭の、「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で駆けていた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された」という文である。彼の他の作品からその文体の特徴を表している例を挙げてみる。
 「太陽は銃口の先で輝きながらきりきりと廻転した。一個の思惟が光線と等速度をもって太陽に逆行した。一瞬、二〇万年の倒逆の歴史が銃口の先端へ集合した」(『園』)
 「今日は昨日の続きである。エレベーターは吐瀉を続けた。チョコレートの中へ飛び込む女。人波は財布とナイフの中を奥へ奥へと流れて行く。缶詰の谷と靴の崖。リボンとレースが花の中へ上っている」(『七階の運動』)
たわいのない論争
 「私たちは、あの『文芸時代』の創刊号をどんなに眼を輝かして手にしたことか。(中略)私は『文芸時代』を買って本屋を出るとすぐ開いて、歩きながら読んだ。ここに、私たち若い世代のかねて求めていた、渇えていた文学が、初めて現れた」(高見順『昭和文学盛衰史』)とあるように、新感覚派の登場は文学を志す若い読者の熱い支持を得た。しかし、既成の作家や評論家の大多数は冷笑もしくは黙殺した。
 片岡鉄兵の『若き読者に訴ふ』は、横光の『頭ならびに腹』を、宇野浩二がいたずらに奇を衒う表現であって、こういう奇抜な表現をもって新時代の感覚であるということはできないと批判したことに対し、横光の名も作品名もまた宇野の名も伏せて、既成文壇の全体に抗議し、新感覚派を擁護するために書かれたものである。ここで彼は、「沿線の小駅は石のやうに黙殺された」というただ一行だけを取出し、説明している。
 「急行列車と、小駅と、作者自身の感覚との関係を、十数字のうちに、効果強く、溌剌と描写せんと意思したのであった。効果強く、溌剌と! 爾り、汽車といふ物質の状態を表はすに、感覚的表現の他の何物が能く溌剌と効果強き表現と成り得よう。物質のうちに作者の生命が生き、状態のうちに作者の生命が生きるための交渉の、最も直接にして現実的な電源は感覚である。その他の何物でもない」
 「彼自身の感覚を、所謂一般常識的な感覚の外に際立たしめる事こそ、物にぶつかって火花の如く内面に散るポエムを、外面的に光躍せしめる手段であったのだ」
 広津和郎は『新感覚派に就いて』を書いている。これを書いたのは、片岡が広津の名前だけを出していたからであった。彼は、「沿線の小駅は石のやうに黙殺された」という一行をもって感覚的手法の勝利を云々することはできない、この一行と全体との有機的関係を論じなければならず、さらに作品そのもののが新時代にふさわしいものであることを説明しなければ、感覚的手法の勝利など言えることではないと批判し、こう忠告している。
 「『感覚的享楽』の人生観を提げ獅子吼しやうとするためには、人生のもろもろの活動についての、もっと深い観察がなければならない。そこまで行かなければ、『感覚的享楽』の人生観に力は湧いて来ない。唯その主張の下に集まって来るのは、怠惰者と、生活力の弱い、人生に直面出来ない人間共ばかりだらう。イイジイゴオイングなフイリスティンだけだらう。日和見的な、享楽的オッポチュニストのための弁護に、君の雄弁を役立ててはいけない」
 これに対する片岡の反論は、一つのセンテンスには独立性があり、自分は一行の文章の感覚的表現のわからない人のために説明しただけだというものであった。
 生田長江の『文壇の新時代に与ふ』は、『夜ひらく』の批判によって新感覚派を間接的に批判したものである。彼は、モーランの「あの口からは鎖を吐き出し、尻尾は振子になっている習慣といふあの獣を」とか、「水を飲み飽きた歩道に沿うて、不具の並木が吹きさらされていた」とか、「桑の実か万年筆を食べたやうな真蒼な舌をだらりと垂れて」というような直喩や擬人や連想的暗示を用いた技巧の例を引いて、ここには目先が変わっているだけで、特に新しい感覚などはないと言う。
 また作品全体についても、デカダンスの芸術だとして、「近代欧羅巴的な一切の物に対する如何なる嘔吐感も見出されず、全然新しい生活と社会とに対する如何なる憧憬も見出されないのだから」とその理由を述べている。
 『生田長江氏の妄論其他』で伊藤永之介は反駁した。しかしそれは、生田の説は抽象的で、新しい時代の人間の気持ちに触れるところがない、既成の文壇は主観を継子扱いしているが、新しい作家はもっと主観を大胆に出していくべきだというものである。
 末梢神経の遊戯さえも受け入れられないような感覚でどうして新時代を迎えられるのかと息巻いたのは稲垣足穂である。彼は『末梢神経又よし』で書いている。
 「新時代の文学にはそれにともなふいはゆる『健全』がなければならぬと考へるのは迷信である。この楽園おいては『不健全を排す』さういふ言葉がすでに排さるべき一つの不健全にぞくしている。デイレッタンチズム、現実逃避、技巧主義、末梢神経を否定するのも又同じである。そのいはゆる頽廃的とても、みずからが許したこの郷土の絶対的自由を確信する吾々にとっては、十九世紀風の空疎な概念などよりはるかに健全なものだからである」
新感覚派の文学の特徴
 新感覚派の文学の特徴は、客観的現実を感覚的、主観的に把握し、「感覚の論理」で構成して、それを奇矯とも思える比喩を駆使し、センテンスを短く切って場面を転換していく新しい文体で表現しようとしたところにあるといえるだろう。
 このような文学が生まれてきた社会的背景は、階級闘争の高揚とプロレタリア文学の無視できない進出があり、そこに関東大震災の衝撃が加わったことである。大震災直後には、亀戸事件、朝鮮人虐殺、大杉栄殺害、「主義者」の弾圧と白色テロが続き、革命前のような緊張感と切迫感が覆い、またニヒリズムとアナーキズムがはびこった。そして「帝都復興」とともにネオンサインやカフェ、百貨店、ラジオ、映画、自動車、飛行機などが登場して都市の生活と風俗の変革がもたらされ、新時代の到来を予想させた。
 「大正十二年の大震災が私に襲ってきた。そして私の信じた美に対する信仰は、この不幸のために忽ちにして破壊された。新感覚派と人々の私に名づけた時期がこの時から始まった。眼にする大都会が茫々とした信ずべからざる焼野原となって周囲に拡がっている中を、自動車といふ速力の変化物が初めて世の中をうろうろとし始め、直ちにラヂオといふ声音の奇形物が顕れ、飛行機といふ鳥類の模型が実用物として空中を飛び始めた。これらはすべて震災直後わが国に初めて生じた近代科学の具象物である。焼野原にかかる近代科学の先端が陸続と形となって顕れた青年期の感覚は、何らかの意味で変わらざるを得ない」(『解説に代えて』)
 横光利一がこう語っているように、新感覚派の文学は、直接には大震災による破壊と復興を契機として生まれた新しい生活と風俗を、都市に住むプチブルインテリの「青年期の感覚」でとらえ、表現したものである。しかしそこには、非常に楽天的な面と何かに衝き動かされるような切迫感、焦燥感とがあり、そこには大震災による生活の変化への反応ばかりでなく、資本主義の矛盾の深化、階級闘争の発展に対する危機意識も含まれていた。
 新感覚派の文学は、運動としては大正十四、十五年を頂点に、昭和二年(一九二七年)五月『文芸時代』廃刊とともに終わった。同人が有名になって自分たちの雑誌への寄稿が手薄になったこと、後続の新人たちが台頭し新勢力としての意義を失ったこと、プロレタリア文学が影響力を拡大し同人たちに動揺が生じてきたことなどによる。翌年には片岡鉄兵がプロレタリア文学に転じている。
プロレタリア文学に対抗するためのたわ言
「プロ・モダ」間の「形式と内容」をめぐる論争
蔵原、平林の文学の内容と形式論
 昭和初年代の新興文学をいうとき、よく「プロ・モダ」と一括される。いうまでもなくプロレタリア文学と新感覚派に始まるモダニズム文学である。今回は、蔵原惟人たちと横光利一たちとの「プロ・モダ」間で交わされた形式主義文学論争をみてみる。順序からいえば、先にプロレタリア文学運動内部における目的意識論争、芸術大衆化論争、芸術的価値論争を扱うべきところであるが、これらについては以前『プロメテウス』十六号で不十分ながら取り上げているので、ここでも必要な限り触れることになるが、全体的なことはこの論争史では省略したい。
 論争の口火を切ったのは横光であった。彼は昭和三年(一九二八年)の『文芸春秋』十一月号の「文芸時評」で、勝本清一郎の『Y製鉄所の映画』を取り上げ、中産階級の動揺と資本家階級の専横を教科書どおりに書いているが、少しも迫るものがないと批評している。次いで、平林たい子の『殴る』について、その内容は平凡で古風なものにすぎないのに、強い力をもって読者に迫ってくるのは、「作者平林たい子氏の芸術的表現が、フォルマリズムに侵入して来たが故である」という。ここから直ちに、「平林初之輔氏や、蔵原惟人氏の云ふやうに、内容が形式を決定すると云ふ理論は、此の作で見事に転覆されねばならぬ」と結論し、平林と蔵原の批判に移っている。それで、どのように批判しているかをみる前に、二人の見解を紹介しておきたい。
 蔵原の見解は芸術大衆化論争のなかで出された。この論争の発端は、蔵原が芸術運動の直面している課題は「大衆に近づけ」であると提起したことである。これに対して中野重治は『いはゆる芸術の大衆化論の誤りについて』で、芸術の大衆化とは通俗化と面白さへの追随があるだけであると批判し、大衆の「まことの姿」を描くべきだと主張した。また鹿地亘は『小市民性の跳梁に抗して』において、プロレタリア芸術の技術は「過去の社会に於ける感情の組織化に奉仕した技術」を受け継ぐことではなく、大衆の意欲を知ることによって自然発生的に得られると述べた。これに対して、蔵原は『芸術運動当面の緊急問題』で反論した。
 中野に向かっては、大衆の生活を客観的に描くことは必要ではあるが、しかしそれだけでは不十分で、「我々は更に、『大衆に理解され、大衆に愛され、而も大衆の感情と思想と意志とを結合して高め』得る如き、芸術的形式を生み出さなければならない」という。
 鹿地に対しては、「我々は先づ第一に、過去の人類が蓄積した芸術的技術をプロレタリアの見地から批判的に受入れなければならない。我々は敢えていはう――過去の遺産なくして、プロレタリア芸術はあり得ない、と」。さらに続けて述べている。「芸術はイデオロギーであると共に技術である。内容であると共に形式である。そして形式が内容に決定されることが事実であるとするならば、その形式が内容から自然発生的に生まれて来ないことも事実だ。芸術作品の形式は新しい内容に決定されたる過去の形式の発展としてのみ発生する、――それがマルクス主義的見地から見た唯一の正しい芸術発達の法則であるのだ」
 平林の意見は『文芸批評家の任務について』に書かれている。そのなかでまず彼は、ルナチャルスキーの『マルクス主義文芸批評の任務に関するテヱゼ』の「内容は自ら一定の形式へと努力する。凡ゆる与えられたる内容にはたった一つの最後の形式のみが適応するといふことができる。作家は多かれ少なかれ、彼を感動させてゐる思想、現象及び感情を最も明快に示し、その作品が当てにしてゐる所の読者に最も強い印象を与へる如き表現形式を見出すことができる」というところに疑問を出している。
 平林は、ルナチャルスキーの論は当然のようにも思えるが、前半ではある内容は必然的に一定の形式を要求するといいながら、後半では同じ内容を、予想される読者に応じて、ちがった形式で表現することが必要であるようになっており、矛盾しているのではないかというのである。続いてこういっている。
 「形式の独自性についての主張は、内容の独自性が必然に、形式の独自性を要求するのであるからこゝで論ずる必要もない程自明の真理である。従って、形式の硬化並びに、形式を駆使する能力の貧弱等は、作者の重大な欠点であることは勿論である。それと同時に、わざわざ形式の新奇をてらった言はゞ形式が内容に先走ることも警戒しなければならぬ。内容と形式とは決して分離してはならぬ」
あまりにナンセンスな横光の理屈
 さて、横光による「文芸時評」の続きであるが、彼は平林の「形式が内容に先走る」と述べていることに矛先を向けている。横光にとって「形式とは、リズムを持った意味の通じる文字の羅列に他ならない」。また「内容は形式を通じて見たる読者の幻想である」。彼は、文字の羅列である形式なくして内容のあるはずがなく、「形式が内容に先走る」などはまったく意味をなさないと批判し、形式こそが内容を決定するのだという説明として次のような珍妙なことを書いている。
 「ここに平林初之輔と云ふ名前をとれ。もし此の前頭の一字なる『平』を『山』と置き換へよ。直ちに、平林初之輔は、忽然として、山林初之輔となって変形する。さうして、最早、此の山林初之輔は、決して優れたる批評家、平林初之輔ではないのである。即ち一字の文字がかくのごとく内容を変形したと云ふことは、全く形式が内容を決定したと云ふ現実上の事実である」
 次に横光は、先あげた蔵原の主張を引用して批判している。
 「元来唯物論は、客観があって主観が発動すると云ふ原則をもってゐる。しかしながら、マルクス主義の文学理論は、形式が内容によって決定せられると断定する。文学の形式とは文字の羅列である。文字の羅列とは、文字そのものが容積を持った物体であるが故に、客観物の羅列である。客観があって主観が発動するものであるならば、即ち、文学の形式は主観を決定してゐる筈ではないか。主観とは、客観からなる形式が、読者に与へる幻想であることは、前に述べた。そこで、蔵原惟人氏、此の優秀なるマルクス主義者はマルクス主義の原則たる唯物論に、一大革命を与へたのだ。曰く。『主観が客観を決定する』と」
 新感覚派の側では中河与一が精力的に論じている。彼は「形式以前には絶対に内容はあり得ない」と断言しているが、その主張の要点は「(一)素材がある。(二)作者がそれに形式を付与する。(三)内容とは形式を通して第三者に触れてくるものである。――(一)素材の選択は作者の方向と興味とを示し、(二)形式は作者の能力、技術を示し、(三)内容は作者から切り離されて思惟の対象として社会に放散する」(『鼻歌による形式主義理論の発展』)というものである。
 これらに対して蔵原は『形式の問題』で反論している。まず、形式が客観であり、内容は主観だということについては、「芸術そのものゝ全体が、すなわちその内容も形式も、ともに物質的なるもの――社会の物質的生活の反映であって、物質的なるものそのものではない」という。次に、形式主義者が「形式が内容を決定する」という場合、「形式がすべてである」という意味であるが、「内容が形式を決定する」というのは、「内容がすべてである」ということを意味しているのではなく、「芸術においては内容と形式といずれもが重要な要素であって、そのあひだに高低をつけることはできない」と述べている。また、形式主義者の「内容は形式から発生する」という主張に対しては、「内容と形式とは、ヘーゲルの表現をかりていへば『相互に発生し合ふ』のである」と反論している。
文学の内容と形式、それらの関係について
 文学だけでなく芸術作品一般についてもっとも古くから議論され、またもっとも大きな問題の一つとなってきたのは形式と内容との関係であろう。芸術作品の本質が形式にあるのか内容にあるのかを対立点として、それぞれ一方を重視することによって形式主義美学と内容主義美学が成立している。もちろん、形式主義も内容主義も、形式か内容か、と二者択一の問題として、一方を取り他方を捨てるというのではなく、芸術作品を形式と内容が何らかの仕方で結びついた統一体とみたうえで、どちらを本質とするかということで対立してきたのである。
 この問題を考えるとき、内容は表現手段としての素材、アリストテレスのいう質料と表現対象としての素材、すなわち題材とを区別すること、また形式は表現対象そのものの形態とその対象の認識の仕方と表現技術とを区別することが重要であろう。
 表現手段としての素材とは、たとえば彫刻における木や大理石やブロンズなどである。アリストテレスはこの意味での素材と形式との関係を質料と形相としてとらえ、質料を形相に変えるものが技術であるとしている。彼は建築を例に取り、家を建てるときの質料は煉瓦で、形相は出来上がった家、煉瓦を家にするのは職人の技術であるといっている。
 建築の場合には質料と形式の関係はわかりやすいが、建築について「内容」を問うことには違和感があるだろう。「内容」はストーリーや思想、感情を含んだ文学の場合が形式の対概念にもっとも妥当するように思われる。建築にもバロックとかロココとかの様式には時代精神が反映しているだろうが。
 ヘーゲルは『美学』で、芸術作品における「内容は思想であり、形式は感性面、具象的形態である」といい、芸術は内容も具体的、形式も具体的でなければならず、内容である思想もしくは理念が具体的であるとは「十全に規定されていること」であり、「形態は具体的な理念であり、理念が真実に規定されたものにほかならない」と述べている。そして「芸術の高さと優秀さは、理念と形態とがどの程度まで緊密に、統一的に相交融して現れるかにかかっている」という。
 ヘーゲルは、内容と形式の結びつき方の多様性から芸術のジャンルと芸術史を説明しているが、そのまま妥当なものとみることはできないにしても、示唆に富むものであるので、ごく簡単に紹介しておこう。理念が十分に規定されていないために形式も十分に規定されないのが、エジプトやメソポタミヤを含む古代東洋の「象徴的芸術形式」で、ジャンルとしては建築である。理念と形式が十全な規定性に達して、完全な調和を得たのが古代ギリシアの「古典的芸術形式」で、ジャンルとしては人体を表現する彫刻である。理念がより高度の精神性を獲得すると、感覚的に表現することが困難になって「ロマン的芸術形式」となり、絵画、音楽、詩がこれに相当するジャンルである。
 ここで思想もしくは理念を表現対象とそれの認識の仕方に置き換えれば、内容と形式の関係が一層明らかになるのではないだろうか。文学の内容は、表現対象としての人物や事件その他の客観的な所与である素材と、それをどのように感じ、認識しているのかという作者の思想や感情であろう。そして文学の形式は、一方で人物の思想や行動などと事件の展開などの対象そのものの形態によって規定され、他方では表現の目標として措定された思想であるテーマによって規定されるところの、統一的に全体を結びつける筋あるいは構成であろう。言葉の選択やその配置である構文や比喩の使い方などは認識にかかわるとともに技術にもかかわることであり、バランスやリズムなどは形式にかかわるとともに技術にかかわることであろう。
 横光が文学の形式を「文字の羅列」であるといっているのは、文学の表現手段が文字であることから、外面的に規定しているのであり、また、文字が記号であることと意味を表示するものであることを区別しないためである。それから、形式を物質であるといっているのは、文字が一定の普遍性をもち客観的なものであることから、客観的なものはすべて物質的なものであると考えるからである。物質的なものの反映である観念的なものも、それが表現されれば、物質そのものではないが客観的なものになるのである。もっとも、表現するためにはペンや紙などの物質的なものが必要であるが。内容を「形式を通じて見たる読者の幻想」であるというのは、客観的な文学作品の内容と、それを解釈する読者の主観との混同である。
 内容は素材に作者が主観的な形式を付与したものであるという中河の主張にもっともよく表れているように、新感覚派は形式主義であり、形式主義は対象の認識をアプリオリの思考形式によるものとする主観的観念論である。
 蔵原は「芸術はイデオロギーであると共に技術である。内容と共に形式である」と、内容をイデオロギーに、形式を技術に一面化している。また、「形式が内容に決定されることが事実であるとするならば、その形式が内容から自然発生的に生まれて来ないことも事実だ。芸術作品の形式は新しい内容に決定されたる過去の形式の発展としてのみ発生する」といっているが、わかりにくいところである。これはおそらく、エンゲルスが『空想から科学へ』の冒頭で、社会主義は内容からいえば階級闘争の反映であるが、理論上の形式からいえば啓蒙思想の発展であると述べていることを念頭に置いているのではないかと思われるが、しかし、芸術作品の形式にここでいわれている理論の発展過程における形式をそのまま適用することはできないだろう。
非政治主義と歪んだ政治主義≠フ対立
社会主義リアリズム論≠フ導入をめぐって
蔵原理論への公然たる批判の出現
 「社会主義リアリズム」がソ連で公式に提唱されたのは昭和七年(一九三二年)十月であり、十一月の『マルクス・レーニン主義芸術学研究』第二号にグロンスキーの演説の一節が掲載されたのが日本での最初の紹介であった。そこでグロンスキーは、われわれが作家に要求するのは、ただ真実を描け、それ自身弁証法的であるソ連の現実を正しく写し出せ、ということだと述べている。
 ただ真実を描け、現実を正しく写し出せという社会主義リアリズムは、蔵原理論に呪縛され、行き詰まりを感じていた作家たちにはひどく自由なものに受け止められた。他方、ナルプ(日本プロレタリア作家同盟)指導部は警戒的であり、八年二月に機関誌『プロレタリア文学』で紹介したものの、「その是非については今後なお多くの議論が必要とされるだろう」と前書きをつけていた。
 ナルプを中心とするナップ(全日本無産者芸術連盟)が結成されたのは昭和三年三月であり、それがコップ(日本プロレタリア文化連盟)に再編成されたのは六年十一月であった。この三年から六年にかけてがプロレタリア文学の最盛期で、当時の文壇を圧するほどであった。この間の理論的指導者は蔵原惟人であった。リアリズムに「前衛の観点」を結びつけた論文で登場した彼は、間もなく「多数者の獲得」、「芸術運動のボルシェヴィーキ化」、「共産主義芸術の確立」、「わが国のプロレタリアートとその党とが現在に於いて当面している課題を、自らの芸術的活動の課題とすること」、「主題の積極性」などを主張するに至った。このような主張は、階級社会における芸術が階級的性格をもち、階級闘争の一手段になりうるということから、始めは共産党にシンパシーを寄せ、党に入ってアジ・プロ部に所属してからは意識的に、非合法下の共産党の合法面での宣伝啓蒙の役割を芸術運動によって果たそうとして出てきたものである。
 ナルプからコップへの再編成は蔵原が提唱し、中野重治たちの反対を押し切って宮本顕治、小林多喜二たちによって推進された。コップの方針は、「工場農村に基礎をおく文化運動への転換」であり、作家たちに文化サークルの指導とそのなかでの政治的活動を義務づけ、また「創作方法における唯物弁証法のための闘争」を要求するものであった。これは、共産党が三・一五、四・一六、満州事変下の弾圧でいちじるしく弱体化したために、単に合法的な宣伝啓蒙だけでなく、党の政治活動をも担ってその代行機関の役を果たすとともに、党員を補充するためという側面がきわめて強かった。
 七年三月に蔵原、中野を含めコップ関係者約四百名が検挙された。そのうちの約百名はナルプのメンバーであった。これ以後、指導部の中心にあったのは逮捕をまぬがれた宮本や小林たちであった。彼らは、指導部の方針に疑問をもち、弾圧に動揺する作家たちにたいして、ただ「政治の優位性」をわめき、「右翼的偏向」「非政治主義」「日和見主義」「政治的立遅れ」と恫喝し、棍棒批評に終始したのであった。
 このような状況のなかで、ナルプの現状に不満をもつ伊藤貞助、黒島伝治たちは半商業雑誌『文化集団』を八年六月に創刊し、キルポーチン、ルナチャルスキーなどの社会主義リアリズム論を熱心に翻訳紹介した。それらの紹介のうえに、徳永直は『創作方法の新転換』で、蔵原がコップ結成直前に書いた『芸術的方法についての感想』を全面的に否定したのである。彼は作家にとっての実践とは創作以外にはあり得ないと、これまでの創作活動と組織活動の弁証法的統一という方針に反対し、唯物弁証法的創作方法を観念的であるとして拒否し、大衆の生活に学べと主張した。
 「芸術は客観的現実の中から、作家の豊富な生活経験によって創りだされる。弁証法的世界観がいかに作家をたすけるとはいえ、基本的なのは前者だ。かかる事実を無視した批評は『芸術的方法についての感想』の白州において被告席にたたされた幾多の作品を、弁証法の機械的適用で、一束五厘の眼刺し鰯の如く、片っぱしから貫いてしまった。至極く夏向きで、いい気持ちになられたであろう。『愛情の問題』で一束、『偶然と必然の問題』で一束、『政治的立遅れ』で十把総からげだ。『赤い恋以上』も、『処女地』も、『蟹工船』も、『太陽のない街』も、あえない最後を遂げてしまったのだ。そして彼は涼しく口を拭う――実をいうと日本のプロレタリア芸術は遺憾ながらかつてその百花繚乱を誇ったことはないのであるから」
 そして彼は、社会主義リアリズムをそのまま日本に持ち込むことにも反対し、ふたたび大地に足を踏みしめるために「プロレタリア・リアリズム」から出発しなおさなければならないといい、「文学批評の官僚的支配を蹴って、のびのびと、自由に、大いに創作しよう」と呼びかけたのである。
 これに対して指導部は、コップの基本的方針の正しさは議論の余地のないものとし、「徳永直の撹乱者的態度」、「反同盟的デタラメ」、「プロヴァカートル鍋山貞親の見地を補うもの」と応じたのだった。
 この徳永の論文が書かれた昭和八年という年は、二月にはナルプを代表する作家と見られていた小林が虐殺され、六月には党の最高幹部の佐野学と鍋山貞親が転向し、この衝撃は巨大で、十月末までに獄中にいた党員の九割が転向したほどであり、十一月には入党してわずか二年で中央委員の中心になった宮本が検挙された年であった。いわゆるリンチ事件以後共産党は、組織としては実質的に崩壊していたのである。そして、昭和五年前後の、プロレタリア文学が文壇の寵児のように扱われた頃に参加した作家たちは相次いでナルプを脱退し、この年の末には生粋のプロレタリア作家と自他ともに認める徳永も脱退した。
 このようななかで、林房雄の一連の論文が決定的な影響を与え、九年三月にナルプは解散し、直後にコップも消滅した。解散そのものに反対する者、解散の仕方を批判する者などさまざまな意見が出されたが、かたちとしては林の、半分作家、半分政治家の団体を解散し、発表雑誌ごとの単位に分散化して競い合え、という主張が勝利したのである。
 社会主義リアリズム論が活発な論争の的になったのは、同盟の解散と同時に創刊された徳永たち『文学評論』などのプロレタリア文学雑誌においてである。
ソ連における社会主義リアリズムの提唱
 一九三二年四月、ソ連で共産党中央委員会によってプロレトクリト、ラップその他の文化団体は解散を命じられ、同時に「社会主義建設に参加しようとする意向をもつすべての作家を単一なソヴェート作家同盟に統一する」ことが要求された。これを受けて、十月に開かれたゴーリキーを議長とする作家同盟組織委員会第一回拡大会議において、社会主義リアリズムが提唱された。
 そこでは、ソ連の作家のもっとも重要な任務は社会主義的な人間の育成であるとされ、作品における行動的な性格、それにふさわしい生活改造のパトスが強調されて、その方法として社会主義リアリズムが主張されたのである。ゴーリキーによれば、社会主義リアリズム芸術の本質的な内容は積極的なヒューマニズムであり、あらゆる搾取から人類を解放するための、共産主義社会建設のための闘争であって、このような芸術は社会主義的経験の事実の上にのみ創造しうるものである。
 ある文献によれば、三二年の後半からの二年間で四百以上の社会主義リアリズムに関する論文が発表されたという。その総決算として、三四年八・九月に第一回作家大会が開かれ、社会主義リアリズムの規定が採択された。
 「社会主義リアリズムはソヴートの芸術的文学および文芸批評の基本的方法であって、現実を革命的発展において、正確に、歴史的具体性において描きだすことを芸術家に要求する。その際、芸術的描写の真実さと歴史的具体性とは、勤労者を社会主義的精神において思想的に改造し教育するという課題と結合しなければならない」
 社会主義リアリズムは、「唯物弁証法的創作方法」という作家の世界観がすなわち創作方法であるとし、作品が形骸化していたラップに対する批判として、「創作上の創意を発揮する可能性、および形式・スタイル・ジャンルの多様な選択の可能性を完全に保証する」芸術の方法として提起されたという一面もあった。一応は表現の多様性を保証するものとして出発したのであるが、それが教条となって固定化し、スターリン体制を社会主義と美化しつつ体制に順応し、民族主義、英雄礼賛の文学しか生み出さなかったのは周知のとおりである。もともと、作家たちを一つの団体に組織したということが、国家的統制をしやすくし、文学をこの体制に奉仕させるためであったのであり、そうであるなら、作家同盟が御用機関化し、社会主義リアリズムが教条化するのは避けられないことであった。
プロレタリア文学運動再建を模索して
 社会主義リアリズム論争は、文学の創作方法と蔵原理論に対する評価とが結びつき、ナルプ解体の一年ほど前に始まった。しかしそれが本格化したのは、ナルプが解体した後、転向者が続出するという事態のなかで、革命闘争の一翼としてのプロレタリア文学運動の再建の道を探ることと絡んで一三年まで続いた。
 宮本百合子は、日本で唯物弁証法的創作方法が主張されたのはプロレタリア文学運動の発展過程からみて必然的であり、世界の現実を見る眼を作家に与えた点に意義があったのであって、それを単に否定するのは清算主義的であるといい、「日本において、直ちに社会主義的リアリズムといふスローガンをそのまゝ適用し得るかどうかといふことは、活発な大衆的討論によって決定されるべき点でせう」(『社会主義リアリズムの問題について』)と、これについて自分の見解は示さず、受け入れることに慎重であった。
  社会主義的リアリズムは「旧来のイデオロギー万能説、もしくはイデオロギー偏重説
の終局的な清算である」と評価したうえで、ソ連では現実そのものが社会主義であるが日本はそうではないのであるから、社会主義リアリズムをそのまま日本に導入することはできず、プロレタリア文学運動の再建は「否定的リアリズム」にもとづいてなされなければならないと『否定的リアリズムについて』で主張したのは川口浩である。
 このソ連は社会主義であるが日本はいまだ民主主義革命を課題としているということを理由に、社会主義リアリズムから学びつつもそのままでは適用できないとする論者は多かった。伊藤貞助は『社会主義的リアリズムか! 日和見主義的リアリズムか!』で、ナルプは解散ではなく再組織すべきであったと述べたうえで「革命的リアリズム」をいい、神山茂夫は「プロレタリア文学の指導下における全人民的革命文学、革命的ロマンチシズムを内に含むところの『革命的リアリズム』」(『社会主義的リアリズムの批判』)を提唱し、久保栄も『社会主義的リアリズムと革命的(反資本主義的)リアリズム』において、広範な統一戦線として文学運動を建設しなければならず、その立場は「革命的(反資本主義的)リアリズム」であると主張した。
 こうした意見に対して、森山啓は『社会主義的リアリズムの「批判」』で、また中野重治は『三つの問題についての感想』で反論し、社会主義的リアリズムをそのまま受け入れるべきであるという。森山は、これはソ連の社会主義の現実を反映しただけの理論なのではなく、社会主義的なプロレタリアートの存在するところではどこでも正しいものであると述べている。中野のほうは、「創作方法論の誤謬と偏向(例へば「唯物弁証法的創作方法」)とから清められたその発展」であり、これを拒否することは「われわれの理論を世界的現代的水準から引き下げ」ることになるという。そして、神山・久保の主張は文学運動におけるプロレタリアートの独自性とヘゲモニーを消し去っていると批判している。
 この論争において、頭に「社会主義」をつけるか、あるいは「プロレタリア」や「否定的」や「革命的」をつけるかの違いはあるが、プロレタリア文学の方法がリアリズムであるとしている点では共通している。
 英語のリアリズムまたは仏語のレアリスムは、ラテン語のレス(「物」)から来た言葉であるといわれている。それが客観的世界の模写を第一義とする芸術上の立場を意味するようになったのはヨーロッパにおいては近代のことであり、それが写実主義と訳されて日本に入ってきたのは明治である。リアリズムは古代の文学作品にもみられるが、抒情や英雄の事跡を物語る詩に代わり、社会と人々の生活を描く小説が文学の中心を占めるようになって、文学の方法としてリアリズムが自覚されたのである。
 プロレタリア文学の創作方法が、客観的世界の真実を描く方法としてのリアリズムであるというのは正当であろう。またブルジョアジーのそれと区別して、社会主義的、プロレタリア的、革命的と規定することもそれ自体は間違いではないだろう。だが、プロレタリア作家にとってマルクス主義が一つの条件であるとしても、彼らとその創作活動を機械的に政治に従属させることは正しくないであろう(従属一般は間違いでないにしても)。
 プロレタリア文学運動の再建の道として、革命的リアリズムにもとづくのか社会主義リアリズムにもとづくのか、またプロレタリア作家によってなのか同伴者作家なども含めた統一戦線によってなのかという違いもある。しかしそうした違いは措くとして、第一に再建の現実的な条件があったのかということが問題である。それも今は問わないとして、作家が革命家になり、革命家が小説を書くことはあっても、それは組織的に決定することではないのであって、彼らには、職業的作家を職業的作家として組織し、同時に職業的革命家の役割を果すことを組織として決定すること自体が矛盾した、間違ったものであるという根本的なことに対する反省がまったくないのである。
道徳的な「転向文学」への道徳的批判
転向作家の意識とその軌跡
転向文学の出現とその特徴
 昭和九年(一九三四年)のナルプ解散前後から十一年にかけて、転向して出獄した作家たちは、転向を主題とする作品を相次いで発表し、「転向文学」の時代が出現した。
 村山知義『白夜』、島木健作『癩』『盲目』、藤沢桓夫『世紀病』、金親清『裸の町』、立野信之『友情』、藤森成吉『雨のあした』、窪川鶴次郎『風雲』、徳永直『冬枯れ』、中野重治『第一章』『村の家』などが文学史では主な転向文学としてあげられている。なかでも村山の『白夜』と島木の『癩』は最もはやく発表され、その後の転向文学を導いたものとして、また中野の『村の家』は転向の社会的責任の自覚と再起の決意を示したものとして特に有名である。
 村山の『白夜』は、妻が入獄中の自分から離れて不屈の指導者に接近していることを知って悩み、しかし、その指導者と妻をともに尊敬せざるをえない夫の内心を書いた短編である。闘争体験を親子、夫婦など肉親の愛情や生活の面から描き、転向者が非転向者に対しておよびがたいものを感じ、自己のエゴイズムや弱さ、良心の苦悩を綴るという主題のこの作品は、その後の転向文学の多くに共通する特徴をもっていた。
 他方、島木は獄中生活によって過去の運動の観念性を自覚し、自己の無力さを思い知ることから出発し、過去の誤りを明らかにすることによって、新しい真実の生き方を求めようとした。彼の処女作『癩』は、主人公の若い思想犯太田が、挫折によって動揺と不安にさいなまれ、そのうえ結核にかかって死の影におびやかされるが、癩を病んで廃人となる絶望的な運命にも屈せず、非転向を貫いて生きる岡田に会い深い感銘を受けることを描いたものである。しかし島木がこの作品で言おうとしたことは、非転向そのものの賛美ではない。太田の岡田に対する羨望と敬意は、岡田の動揺を知らない「きわめて自然」な確信の姿に対してであった。島木は、過去の運動と自分の思想が観念的であったために無力であったとして転向し、そこから、どのような苛酷な状況のもとでも動揺することのない確信を得ようとして、岡田のような人物を登場させ、一種の宗教的な悟りのようなものを求めている。
 中野の『村の家』では、村の生活にしっかりと根づいて揺るぎのない父に対比して、転向した息子のみじめさ、たよりなさを描いている。転向、出所して郷里の村の家に帰った主人公の勉次に対して、父親の孫蔵は、お前がつかまったと聞いたときには小塚原で骨になって帰ると覚悟してきた、ものを書くことより人間の修養が第一だ、今まで書いたものを生かしたければ筆を捨ててしまえ、と説く。黙って聞いていた勉次は、最後に「よく分かりますが、やはり書いて行きたいと思ひます」と答える。「勉次は自分の答へは正しいと思った。しかしそれはそれ切りの正しさで、正しくなるかならぬかはそれから先のことだと感じた」と終わり近くにあり、自分の弱さを見据えながら、新たに出発しようとする決意が語られている。
転向文学をめぐる論争
 多くの場合、心ならずも、政治活動を放棄し、組織から離脱せざるを得なかった自己の弱さに対する苦悩を描いた転向小説が相次いで発表されると、転向作家と転向文学をめぐる議論が盛んになった。
 中村武羅夫は転向作家など「舌でもかんで死んだほうがいい」と放言し、岡田三郎は『転向作家は黙殺したい』を、小堀甚二は『転向派文学の政治的虚偽』を書いて露骨に敵意を示した。これらの発言は波紋をおこさなかったが、板垣直子の『文学の新動向』は大きな議論を呼んだ。彼女は、ナチスに捕らえられた新進作家のルードウィヒ・レンがファシスト司法官の前で、「自分はコムニスムスを承認する。コムニスムスの理論は正しいが故に自分はコムニストである。それは真理であるが故に全能だ」と明言し、死刑を宣告されたことを引合いに出して、転向作家の節操を問題にしていっている。
 「プロレタリア作家は、思想的に生きる限り転向することはありえない筈だ。部分的修正は可能であろうが、生活の態度を根本的に変化することは不可能である。しかるに、もし転向が行われたとすれば、彼は本能に執着し、それに道を譲ったまでゝある。かゝる第二義的種類の生活者から第一義的な文学が――何れの意味からも――生まれるであろうとは想像できない」
 板垣の「第二義的種類の生活者から第一義的な文学は生まれない」という主張は原則論として間違いではないといい、しかし、居丈高に第一義的生活を要求している彼女自身が第一義的な生活をしているのかと問うたのは杉山平助である。そして、「彼らはとにかく、或る時代の感情を真実に生きた一人だ。社会はその報告を冷静に聞くだけの雅量はあっていゝわけだ。たゞ今のところ、真に我らを説伏するだけの力を具へた報告に乏しいと、云ふだけのことである」(『転向作家論』)と彼は述べている。
 大宅壮一は『転向讃美者とその罵倒者』おいて、転向作家批判の続出は、これまでプロレタリア文学の側から社会民主主義とよばれていた作家たちや、また、ブルジョア文学として批判され、その存在をおびやかされていた芸術派の作家たちが、ここぞとばかりに復讐的な揶揄と非難と罵倒の声をあげたのだと評し、そしてまた、転向作家のなかには二、三年前とは正反対のことを言ってジャーナリズムにちやほやされ、いい気になっている者がおり、こういう連中が反感を買うのも当然であるといっている。
 ジャーナリズムにのり、いい気になっている者として大宅が念頭に置いているのは林房雄などであろう。林は『真の節操について』で、「さうだ、僕は、人のいふ如く、最初に、そして自信をもって転向した。以来、旧作家同盟の仲間に対して、転向勧誘係の役目をつとめてきた。さうだ、自信をもってつとめてきた」と、転向したことが真の節操であるとして転向を誇示し正当化していたのである。
 大宅は、「『転向作家』に向かって投げられる各種の非難の中で、一番急所をついてゐると見るべきものは、『転向』後の新しい思想的立場が甚だ曖昧な点である」と指摘し、その理由として、転向といっても明瞭な思想放棄や反対イデオロギーへの移行である場合は少ないからであると述べている。次いで、「『転向作家』の思想を云々する芸術派に、これまでどんな思想があったか、また現在あるか、と反問したい。自分の方には、主観的な気分以外に、何等明確な思想を示さないで、『転向』後の思想を吟味しようといふのは、×××の立場ではあっても、作家批評家の立場とはいひがたい」と批判している。
 このような議論を受けて、宮本百合子は『冬を越す蕾』を書いた。転向の問題はたえず国家権力におしつぶされてきた日本の思想と文化の歴史、封建制の残存する近代日本の知識人のあり方にかかわるものであり、何が彼らをプロレタリア文学に駆りたて、何が彼らを屈服させたのかが問われなければならないといい、こう続ける。
 「もし、おのおのの主人公をして事そこに至らざるを得ないやうにした錯綜、また×××配置された紛糾混迷などを描き出して、せめて悲劇的なものにまで作品を緊張させ得たら、人は何かの形で、今日の現実に暴威をふるふ権力の害悪についてまじめな沈思に誘われたであらうと思ふ。けれども、これらの作家たちは、いひ合わせたやうに現実のその面はえぐりださず、自身の側だけを、あゝ、かうと取り上げ、その関係において、中心を自分一個の弱さ暗さにうつし、結局、傷心風な鎮魂歌をうたってしまってゐる。
 動揺のモメントが共産主義や進歩的な文化運動への批判、個性の再吟味にあるといふ近代知識人的な自覚は、その実もう一重奥のところでは、土下座をしてゐるあはれなものの姿と計らずも合致してゐると思ふのである」
 『文学者に就いて』で貴司山治は、これらの批判をほぼ全面的に認めたうえで、敗北した自分たちは第一義的に生きることはできないが、プロレタリア文学としては二義的であっても、ブルジョア作家よりもすぐれた作品を書いていくことができると主張した。
 これに対して中野重治は猛然と反論した。自分たちは第一義を失うことによって、第二義も第三義もすべてを失ったのであり、再起への道は第一義的生活を取り戻すこと以外ではないといって、次のように述べた。
 「僕が共産党を裏切りそれに対する人民の信頼を裏切ったといふ事実は未来にわたって消えないのである。それだから僕は、あるひは僕らは、作家としての新生の道を第一義的生活と制作より以外のところには置けないのである。もし僕らが、自分で呼んだ降伏の恥の社会的個人的要因の錯綜を文学的綜合の中へ肉づけすることで、文学作品として打ち出した自己批判を通して日本の革命運動の伝統の革命的批判に加われたならば、僕らは、その時も過去は過去としてあるのではあるが、その消えぬ痣を頬に浮かべたまゝ人間および作家としての第一義の道を進めるのである」(『「文学者に就いて」について』)
 転向文学論争について先ずいわなければならないことは、「芸術派」の作家、評論家たちが転向作家に対して、自分たちは社会について批判めいたことをつぶやきながらもその革命的変革ということなど夢にも思わず、安全なところに身を置いて、それ見たことか、恥を知れ、人間としておしまいだなどと非難を浴びせたが、彼らにそんなことをいう資格はまったくないということである。
 転向文学の大部分は、共産党とプロレタリア文学運動にかかわっていたころを振り返りつつ、非転向者を仰ぎ見て、彼らと比べて自分たちがいかに弱く、卑小であるかを、そして脱落してしまったことに対する良心の呵責を描いている。このように道徳的にしか描き出し得なかったということは、宮本百合子のように共産党が絶対的に正しく、転向作家は単に権力に負けて土下座した者たちであるとまではいわなくても、彼らがその誤りはせいぜい文学運動に対する「政治主義」にあり、基本的には正しいとみているからである。
 転向が道徳の問題となるのは、党の戦略的戦術的な政治方針が正しく、その正しい政治方針のもとで組織も基本的に正しく運営されていると確信しながらもそこから離脱した場合であろう。この場合には、多くの転向作家がそうであったように、なしくずし的に後退を重ねて戦時体制に組み込まれて行くか、中野重治のように屈折していく他なかった。そして中野のような場合は戦後に共産党に復帰することになった。
 他方、共産党の立場を批判して転向した者たちは、やり通せたかどうかは別に、マルクス主義に立って共産党の路線を検討しようと試みた者は一人としておらず、ことごとくがファシズム体制と戦争を肯定し、賛美する方向に走っていったのである。
転向作家のその後の足どり
 林房雄は十一年にプロレタリア作家の廃業を宣言し、十六年には左翼転向者保護監察団体「横浜湘風会」の機関誌「湘風」に『転向に就いて』を書いた。彼はそこで、「転向は単なる方向転換ではない。人間の更生である。素っ裸になることだけでは足りない。冷水で皮膚を洗うことだけでは足りない。骨の中身まで洗って出なおすことだ。外形ではない。内心の問題だ」、転向は「無比の国体への自覚である」というに至った。
 島木健作は十二年に『再建』を発表している。それは、壊滅させられた農民運動の再建を主題としながら、同時に作者自身の生活と文学の再建をめざしたものであるが、一切の観念的な指導を排し、ただひたすら農民の現実に密着することによって運動を展開すべきだという思想に貫かれている。彼は、農民の具体的な生活の改善を強調して、社会の全体的変革をめざす革命思想を非現実的な観念論として否定し、生活のためとして時代に限りなく妥協している。その後『生活の探求』を書いた彼は、題名の示す通り、真実の生活を求め、誠実であり続けようとしながら、生活とか現実的とかの名のもとにファシズム体制にのみこまれ、おし流されていったのである。当時この作品に対して青野季吉、中村光夫、唐木順三ほか何人もの評論家は高い評価を与えていた。
 三年のはじめに新感覚派からプロレタリア文学へ移行した片岡鉄兵は、八年に転向して出獄し、『敢えて宣言する』を発表した。彼は、「私は頭でばかり転向から再転向への軌道を辿ったのではない。私はこの肉体を以て苦しみ、喘ぎ闘った。即ち生活したのだ。そして破れたのだ」といい、「私は昂然として云ふ、私の転向は、私といふインテリゲンチヤにとっては何の虚偽でもない必然だった」と述べた。「本来の自己」に帰った彼は、時代におし流されて生きる人々の風俗を表面的に描く通俗作家になり、武田麟太郎や藤沢桓夫も同様の道をたどっていったのである。
10 「不安の時代」のインテリの模索
『悲劇の哲学』と行動主義の評価をめぐって
シェストフの哲学をめぐる論争
 共産党とプロレタリア文学運動の潰滅は、それを支持していなかった多くの作家や知識人にも大きな衝撃を与えた。彼らにとって「マルクス主義」は、理論的にも道徳的にも重圧であったが、また自己の立場を確認する基準とでもいうべきものでもあったのであり、それに対してどのような態度をとるべきかを考えないではすまされなかった。その「マルクス主義」にもとづく運動の崩壊は、満州事変以来「非常時」が強調され、国家主義が台頭してくるという政治的社会的な情勢の緊迫化と重なって、思想的圧迫からの解放感を彼らに与えるとともに不安や思想的な混乱をもたらした。
 このような時代的背景のもとで、昭和八年(一九三三年)後半から、「文芸復興」が叫ばれる一方で、「シェストフ的不安」、行動主義の議論がおこった。この年の初めから、プロレタリア文学華やかなりしころには沈黙しがちだった明治・大正以来の既成作家が、申合わせたように一斉に作品を発表するようになり、また、川端康成、小林秀雄、林房雄らを同人とする『文学界』以下新しい文芸雑誌が次々に創刊された。「時あたかも、文芸復興の萌あり、文学雑誌叢出の観あり」と『文学界』創刊号の「編集後記」に川端は書いている。
 三木清は『不安の思想とその超克』で「不安」を最初に問題にしていたが、この問題がクローズアップされることになったのは、翌九年、ロシアの哲学者で革命後フランスに亡命したシェストフの『悲劇の哲学』が河上徹太郎・阿部六郎共訳で刊行され、論争の的になってからである。この書でシェストフはニーチェとドストエフスキーに依りつつ、科学、進歩、正義、幸福、美徳、理性、希望、理想といったもの一切を憎悪し、否定する徹底した非合理主義とニヒリズムの立場から、人間とは本質的に非合理的な存在であり孤独で醜悪なものであって、これこそが人間的真実ではないかと主張した。これがブルジョア社会の現実に対する憤怒であるとともにその変革に対する絶望の表明であり、マルクス主義にも敵対するものであることはいうまでもない。
 この「有毒の書」(訳者)に対して正宗白鳥と小林秀雄が共感を示した。正宗のほうは理想や調和の破れた現実の社会に目を向け、シェストフとともに「最醜の人物」の叫びに耳を傾けるがよいと述べた。現代日本で最大の文芸評論家といわれるようになった小林については後に触れるとして、先に論争の経過をみておこう。
 河上はさらにシェストフのチェホフ論『虚無よりの創造』を翻訳し、その「抜」で、「シェストフが私に与へてくれたものはドストエフスキーの『地下室の人物』といふ観念である。彼はここにあらゆる実証主義によって禿鷹のやうに啄まれた人間性の残骸を提出し、此の存在が尚且如何なる人間的事実を営むのだらうか? と提案してゐるのである」と述べ、実証主義を信奉する「常規の人間」にこれを否定する「変則の人間」、「地下室の人間」を対置し、後者のなかに人間性を回復する契機があるという。
 彼のいう実証主義とは、科学一般および技術一般のことであり、これらの否定が人間性の回復であると、反動的な主張をした。阿部六郎も『シェストフの思想』で河上とほぼ同様のことを書いて、シェストフは絶望の思想家ではなく人間性の回復を志向した創造の思想家であると強調して弁護した。
 「シェストフ的不安」の流行語が生まれた『シェストフ的不安について』で三木は、河上や阿部とは異なった観点からシェストフを評価している。「この不安は社会情勢から説明されねばならぬ。然しまたこの不安には単に客観的社会的条件からのみ説明し得ぬものがある。もしも人間に本来不安なところがないならば、彼が一定の条件におかれたからといって、不安に陥ることはないであらう」。では、人間の本来的な不安とは何か、それは死である、すべての人間は死を理性では自然必然であることを認めるが、しかし死を前にすれば不安に陥らざるを得ないという。
 そして、シェストフの「地下室の人間」とは死者の眼を与えられた者であり、死あるいは無の立場から必然性や理性を否定することによって、人間の自由や可能性を希求したのであって、「無からの創造」とはそうした意味であると解説する。次いで「無からの創造の出発点は何よりも新しい倫理の確立でなければならぬ」、「問題は新しい倫理を確立すること、世界へ出て行くことの意味が確立され、それによって『行為する人間』の新しいタイプが創造されることである」と主張した。
 人間は死を免れないということを理由に、三木はニヒリズムと非合理主義を肯定し、また人間の自由や可能性を必然性とは対立したものであると、それらを観念的な世界に追いやり、ここから人間の行為を倫理的に基礎づけようとしたのである。
 他方、青野季吉はシェストフのドストエフスキーやニーチェに対する理解の深さに驚嘆しながらも、彼の立場に同調できないという。彼は社会や階級を無視したシェストフの方法では人間を十分には理解できない、「悲劇の哲学」もまた時代と階級の所産である、科学や理想を否定しては人は生きて行けないと、シェストフを批判した(『「悲劇の哲学」に関するノート』)。
 また、『シェストフ否定論』で板垣直子は、シェストフは方法も体系も持たないえせ哲学者である、彼はシェークスピア、チェホフ、ドストエフスキーを自分にとって都合のよい面からだけ見ているにすぎないと否定している。
小林秀雄のシェストフ論
 「彼(シェストフ)はかう言ってゐる様にみえる、この地球にたった一度の生を享けてゐる癖に僕は不満だとか満足だとかなんといふ暇な男だ、それよりも俺の言ってゐる事は正しいと思ふか間違ってゐると思ふかはっきり答えろ、世の所謂希望も幸福もみな嘘だ、世の所謂真理、正義、思想、そんなものはない、又あってはならぬと俺ははっきり書いてゐるのだ、と。僕には彼の毒をうすめる力がない。はっきり答えなくてはならぬ、何も彼も君のいふ通りだと」(『レオ・シェストフの「悲劇の哲学」』)
 小林秀雄はシェストフの言うことに全面的に賛意を表したうえで、シェストフの主張の中心はすべての「哲学」、とりわけ史的唯物論の破壊をめざしたものだととらえる。「公平無私な真理探究の為に、認識機能の十全を期する為に、敢て、世の格外者ども呪われたものどもを一紮(から)げにして見殺しにする進歩なる仮面を被った人間の残虐に、シェストフは憎悪の念を燃やしたのである」
 史的唯物論がこのように進歩の仮面をかぶった残虐なものである以上、作家はそれとは正反対のもの、史的唯物論が見殺しにする「世の格外者ども呪われたものども」をこそ見つめるべきであるという。
 「何故に作家のリアリズムは社会の進歩なるものを冷笑してはいけないのか。作家のリアリズムとは社会の進歩に対する作家の復讐なのではないのか。復讐の自覚ではないのか。人間文化の持つ、強烈な一種のアイロニイではないのか。現存するあらゆる愚劣、不幸、苦痛を未来の故に是認することを肯ぜぬリアリズム精神の上に、果たして社会の進歩が築かれ得るか」
 小林はボードレールの『悪の華』から「お前は呪われた人達を愛するか? 言ってくれ、赦されない人を知っているか?」という一文を引き、この問いに肯定的に答えることによってはじめて芸術はリアリティーをもつのではないかという。直接には芸術におけるリアリズムを問題にしているのであるが、実際の内容はこの社会を構成するさまざまな階級的に規定された人間のうち、どの人間に人間的真実を見るかということを問うているのである。
 昭和四年に『改造』の懸賞論文第二席になった『様々なる意匠』(第一席は宮本顕治の『「敗北」の文学』)で小林は書いていた。「子供は母親から海は青いものだと教へられる。この子供が品川の海を写生しようとして、眼前の海の色を見た時、それが青くもなく赤くもない事を感じて、愕然として色鉛筆を投げだしたとしたら彼は天才だ、然し嘗って世にかかる怪物は生まれなかっただけだ。それなら子供は『海は青い』といふ概念を持ってゐるのであるか? だが、品川湾の傍に住む子供は、品川湾なくして海を考へ得まい」
 小林がこの論文で主張したことは、概念や思想は抽象的一般的なものであって、個別的具体的なものとは対立したものである、個々の人間にとって重要なのは個別的具体的なものや直接的体験である、思想というものは「意匠」であってマルクス主義もまた「意匠」の一つにすぎないということであった。
 その彼が、シェストフ論では一般的であるというところの思想と個別的なものとの関係を史的唯物論と「呪われたもの」との関係に置き換え、「呪われたもの」の声を聞け、彼らにこそ人間的な真実がある、それこそがリアリズムというものだというのである。何よりも個別的具体的なものを重んずるのであるが、しかし、それでは史的唯物論によって「呪われたもの」とは具体的にはどのような人間を指すのか、ブルジョアジーやファシストなのか、そして彼らに人間的な真実があるというのか、ということについては賢くて文学的な#゙のことであるから、そこは曖昧に「呪われたもの」と濁しておくのである。
 シェストフの哲学は、科学や技術の発展とともに発展してきたブルジョア社会が行き詰まり、ファッショ体制が強化され、また共産党が壊滅してしまったという状況のなかで、恃むに足る思想的よりどころを失ったプチブルインテリの精神的混乱に一つのよりどころを与え、その空白を埋めるものであった。
中途半端な行動主義論争
 このようなシェストフの流行と表裏の関係をなすものが「行動主義」、「能動精神」をめぐる論争であった。昭和八年に船橋聖一、阿部知二、伊藤整らを同人とする『行動』が創刊された。この雑誌が「行動主義」という一つの方向をもった雑誌になっていったことには、小松清の果たした役割が大きい。彼は、九年にフェルナンデスの『ジイドへの公開状』を翻訳した。
 一九三三年のヒットラー政権成立前後から、ヨーロッパの作家や知識人の間に反ファシズムの運動が盛んになり、それまで自我主義者とみられていたアンドレ・ジイドが共産主義への転向を表明して話題になったが、当初はジイドに反対したフェルナンデスも「ジイドへの公開状」を発表して反ファシズムの態度を明らかにしたのである。
 その後小松は、『仏文学の一転機』を書いて、「大きな欧州の不安を前にして混沌と動揺に苦しみ悩んでゐる今日のフランスに何物かある異常な能動的な精神が誕生しつゝあるやうに私には思へる」と述べ、フランス知識階級の「行動的ユマニスム」を紹介した。
 これに刺激された船橋は『新潮』の「文芸時評」で、「徒に末梢への方向を辿ってゐた近代主義文学が、没落と停頓の苦難を経て、新たに意志の力を加へられる時が来たのである。又、長く放埒と不検束の河を漂流してゐた自由主義が、とにかく明るいものへ、建設的なものへの、思想的方向を与へられる時が来たのである」と述べて、「意志的リベラリズム」に立った「行動主義文学」を主張した。
 しかし船橋の主張は、これまで芸術派はプロレタリア文学の側から反動呼ばわりされて萎縮してきたが、今やその進歩的な意志を自覚して、何物にも囚われない文学をめざすことができるといっているように、プロレタリア文学からの解放感に浸りながら、芸術派も社会性と思想性をもった文学を書くべきだということであり、政治的な行動に進んで行こうとするものではなかった。
 また青野季吉は、日本の知識階級の能動精神は共産党とプロレタリア文学の運動に結集したが敗退してしまった、しかし今、わずかながら彼らのあいだに再び能動精神が芽生えてきた、彼らはその階級的特性を自覚したうえで、社会の進歩的な運動に参加していくことが望まれる、という意味のことを『能動精神の台頭について』に書いて、労働者階級と知識階級とによる反ファシズム統一戦線が生まれることに期待を表明した。
 これに対して大森義太郎は、「いはゆる行動主義は日本では、まったくインチキである」と非難し、フランスにおける行動主義は反ファシズム、マルクス主義への方向をはっきりさせており、労働者階級との協同ということがいわれている、ところが日本の行動主義は知識階級の独自性を強調した「夜店商人的売込み」であって、ファシズムに行き着くほかはないと攻撃した(『いはゆる行動主義の迷妄』)。大森は、フランスの反ファシズム統一戦線は美化しながら日本のそれを批判し、自由主義とファシズムの区別と一定の対立を消し去ったのである。
 昭和十年に『行動』は廃刊され、船橋、阿部知二が『文学界』に参加することによって行動主義文学論も立ち消えになった。
11 文学界にも台頭する民族主義、国家主義
「日本浪漫派」をめぐって
文学に現われ始めた民族主義・国家主義
 昭和九年(一九三四年)のナルプ解散から間もなく、転向作家の作品にも芸術派作家の作品にも民族主義・国家主義の傾向が現われ始めた。
 村山知義の『白夜』には、獄中転向の一つの契機となった民族主義を自覚する心理描写がある。「かうして二年近くを暮らし、まったく風の通らない二度目の夏を越したころから彼の心は何か底の知れぬ敵対しがたいものに蝕まれはじめた。はかり知れぬ遠い昔からの、顔も名も生涯も滅び失せた父の母のその父の母の、血が肉が、何とも名づけがたいものが、その末の小さな所産である彼をくらひつくすかに思はれた」
 また島木健作の『苦悶』にも同じような獄中での転向心理が描かれている。「『血』が、――その先の先はついに模索すべくもない父祖の父祖以来の血が、個人的性格が、ここにいたって石田のうちに暴威をふるひ人間を形づくり人間のあらゆる行動を支配する決定的なモメントはこれ以外にないと思ひつめ、そしてそれはまた今さらどうすることもできぬものであると、石田が信じはじめたのは自然である」
 これら転向作家たちの、連綿として続く血縁の自覚というかたちでの民族意識は、自己に訪れた精神的危機の救済策という面があったのであり、そこには大量転向のきっかけとなった前年の佐野学・鍋山貞親の『共同被告同士に告ぐる書』の影響も一つにはあったものと思われる。
 ここで彼らは、「コミンターンは各国に台頭せる国民主義的傾向に対してはたゞ之を排外主義とけなしつけるだけで、其中に動く生きた力を科学的に解剖するのを敬遠して居る」と、民族意識と遊離した運動に対して批判する。さらに「日本民族の強固な統一性が日本における社会主義を優秀づける最大条件の一つであるのを把握できないものは革命家ではない。民族とは多数者即ち勤労者に外ならない。我々は我が労働階級及び勤労人民大衆の創造能力に強い自信をもつ」と述べ、「我々は大衆が本能的に示す民族意識に忠実であるを要す」と主張している。また「日本の皇室の連綿たる歴史的存続は、日本民族の過去における独立不羈の順当的発展――世界に類例少なきそれを事物的に表現するものであって、皇室を民族的統一の中心と感ずる社会的感情が勤労大衆の胸底にある」ともいっている。
 大衆から遊離した運動への反省であるかのように装って、民族とは労働者勤労大衆であると独断し、その上に立って民族意識とは階級意識であり、民族的統一の強さは階級的統一の強さであるかに言いくるめ、そのうえ天皇制までも賛美し、こともあろうに社会主義のためであるとして民族主義を際限もなく美化したのである。
 横光利一の天皇制と結びついた国家主義への傾斜は、とくに満州事変以来めだって台頭してきた国家主義の影響があった。九年に発表された『紋章』には次のように書かれたところがある。
 「雁金には常々から家系が代々勤皇をもって鳴ってゐたために、彼の行為には、国家という観念が大海のやうに押し迫ってゐたことを私は見受けたが、しかし、彼の国家に対する観念は、まだ民衆から独立した巨大な別個の存在のもののごとく映ってゐたと思はれるふしがあった。けれども、彼の頭に国家がそのやうに印象されてゐたといふことは、彼の行為の上では、およそ何事によらず、ただ自身が正しいと直感したことのみに驀進するといふ勇壮果敢な表現をとって少しも怪しまなかったところに影響した」
 行動的な発明狂の雁金八郎と自意識過剰のインテリ山下久内を対比させ、雁金のたびたびの失敗から起き上がる強さを、代々勤皇の名家の出という家系、「紋章」によるものとしたのである。
『日本浪漫派』と『人民文庫』との論争
 昭和九年から十年にかけて、『日本浪漫派』の同人となった保田与重郎、亀井勝一郎らと、後に『人民文庫』を創刊した高見順、森山啓らとの間で浪漫主義についての論争があった。
 保田の『「日本浪漫派」広告』はこう書き出されている。「平俗低徊の文学が流行してゐる。日常微温の饒舌は不易の信条を昏迷せんとした。僕ら茲に日本浪漫派を創めるもの、一つに流行への挑戦である」。この文の中心は次の点にあった。「僕ら亦希求し憧憬する、最も高貴に激烈なものを。それは日本浪漫派の目標であり、現代である。憧憬の形式は奪取の表現である。最も美しいものの擁護のため、最も崇高なものの顕彰のため、この必至の伝統芸術人復興の使命も、茲に特に高邁急迫に表現する一方法である」
 彼は革新への決意を呼号しながら、詩精神の復活、文学における倫理性の回復、進歩主義批判を展開し、近代的解釈で歪曲された伝統を純化して日本の古典美を再発見しようとしたのである。
 浪漫派の主張と動きに対して高見は、「暗澹たる現実に対して、それを飛び越え高所にあってその軽蔑と否定の歌を明朗に然り浪漫的に奏でる」ものであり、日本浪漫派は「一九世紀浪漫主義の妖怪である。しかも浪漫的精神の本質たる反抗的精神を抜きとった、片輪の妖怪である」(『浪漫派的精神と浪漫派的動向』)と批判した。しかし、現実の醜悪な面を回避しようとする精神の安易さを指摘したが、何故この時期にこのような運動が登場して来たのかということについては何も触れていない。
 『現代の浪漫的思惟』で亀井は、彼のいうところの浪漫主義を説明している。「元来浪漫主義とは壁に向かって真直ぐに立ち上がったものゝ歌だ。だが、その情熱が飽和点に達してくると我々の心の翼に肉の翼を並み揃ひたい欲望を起こす。その浪漫主義に疲労しきって、身をかはさうとしたところに僕はいまひとつの浪漫主義を考へたい。満ちあふれた空想と希望とをもって、再び現実の中に立ち帰ることだ。ファウストはマルガレエテとの激しい恋愛の後、幸ひにして『草花咲ける野に横たはって』自然の露を吸ふことが出来た。自分の心の中に育成した夢をもって、『人々の中へ』行くべきだらう。そこで自己の傷を洗ふがいゝ。理性をとり戻すがいゝ」
 彼にとって浪漫主義とは、転向してしまった自己をくまなく点検し、苦悶する自我の所在を明らかにして「信念再生」を図り、再び現実に立ち返るためのものであった。
 これに対して森山は批判したが、これは基本的に正当なものであった。亀井らは知識の上では社会主義の必然性と労働者階級の使命ということは知っている、だが実践的にその闘いについて行けない、そこで社会主義とそのための闘いに対して単に憧憬することになる、しかし、憧憬するだけの自分にも満足出来ない、そこで自己救済の方法として「自我の再検討」をして夢想の中で跳躍を試みることになるのだ、と森山はいい、結論として続けている。
 「我々は『自我』の本質を、『内省』のみによって決してつかみ得ない。『自我』における『反逆的』な心理も『敗北的』な心理も、我々の生活過程に深く根ざしたものであり、現在の社会状態に対する反応なのだから、社会状態と生活の変更によって、『自我』もまた変更される」(『「転形期の自我」について』)
 森山の批判に対して亀井は『浪漫的自我の問題』で反論している。「重大なことは、マルクス主義といふ現代の理想主義精神に挫折した人、乃至は挫折を感じた人々がいかなる方法によってその理想主義を再度救ふかに在る、その場合に台頭してくる自我の問題である。そしてこれこそ現代知識人の中心的な問題とならねばならぬものと思ふ」。それでは再びマルクス主義に立ち返るための内省なのか、というとそうではなく、彼のいう理想主義はマルクス主義とは別のものである。
 彼によれば、知識階級はもともと「階級闘争の臆病なポチ犬」に過ぎないのであり、「今日、自我といふものを、あらゆる側面から固執せざるをえない根底には、そのやうな痛々しい喜劇的役割に対する激しい怒りがあるのだ。何故野次馬であり、見物人であり、ポチ犬であったのか。人は『政治主義』が悪い、『公式主義』が悪いと言ふ。それもさうであらう。然し一番悪いのは、それを真に道破しえず、それに尾を振って追従した『犠牲心』であったのだ」 つまり、マルクス主義には「政治主義」はつきものであって、それを見抜けず、おのれの分を越えてへたに労働者階級のために「犠牲心」を発揮したことが一番の間違いであったのであり、インテリは政治主義的理想を拒否して浪漫的理想をもたなければならず、その理想に立って「孤高の反抗」をすべきであるというのである。
日本浪漫派の基本的な性格
 『人民文庫』は昭和十一年三月に、『文学界』の一部や『日本浪漫派』の超国家主義的傾向と国家による文化統制に対抗して創刊された。その立場は広津和郎のいう「散文精神」による批判的リアリズムであった。「散文精神」とは「どんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く精神」である。当時「人民」は「臣民」や「国民」という言葉とはちがって、反権力的な意味あいをもっていた。しかし日中戦争の開始、人民戦線派の検挙という状況のなかで十三年一月に廃刊を余儀なくされた。
 『日本浪漫派』は、『コギト』(昭和七年三月創刊、十九年九月終刊)の同人のうちの六人によって十年三月に創刊された。『コギト』(この名前の由来はデカルトの「コギト エルゴ スム」「我思う、故に我あり」)は、ドイツ・ロマン派の古典憧憬の影響のもとに、日本の古典の再発見をめざしたものである。創刊号の「編集後記」で保田は、「私らは最も深く古典を愛する。私らはこの国の省みられぬ古典を愛する。私らは古典を殻として愛する。それから私らは殻を破る意志を愛する」と書いている。『日本浪漫派』も日本の古典文学、古美術への関心と結びつき、日本精神回帰の方向をたどり、十年以後ファシズムの拡大とともに起こった国学の復興、日本主義文学の勃興をリードした。十三年八月に財政的な理由で廃刊の後、保田、浅野晃らは林房雄とともに「新日本文化の会」や影山正治の主宰する「大東塾」に加わっている。
 「一見対蹠的な性格をもつ『人民文庫』と『日本浪漫派』とは、ナルプ解散、転向文学の氾濫という文学的地盤から芽ばえた異母兄弟とも言えよう」(平野謙)、「転向という一本の木から出た二つの枝」(高見順)といわれている。たしかに両派の同人の大多数は転向した者たちであった。『日本浪漫派』の中心である保田は旧制高校時代に赤色救援会で活動し、その後三木清らの反ファシズムの組織であった「学芸自由同盟」の書記局員の一人であったし、亀井は共産青年同盟に入って三・一五事件で逮捕され、保釈された後ナルプに属していたし、太宰治も共産党の資金局に関係していた。『人民文庫』のほうでも、武田麟太郎、本庄陸男、高見などはナルプのメンバーであった。しかし、『日本浪漫派』の登場には転向ということが大きくかかわっているであろうが、単に転向とだけ結びつけることはできないだろう。
 保田は『蒙彊』で、戦争は「精神史の変革を理念する行為」であり、「破壊が同時に新しい文化の倫理の建設に進んでゐる」と書いている。戦争によって、日本の独自性を見失い西欧模倣に走った「文明開化の論理」に支配された近代日本文化が生まれ変わるだろうと期待したのである。「近代の超克」論の先取りであった。また書いている。
 「この三十一年(昭和六年)を中心とする時代に、我国の青年の間に一つのロマンチックな思想と文学が芽ばえた。一切の表現が旧い秩序破壊の感情によって表現されねばならぬ状態からデスペレートになった中で、さういうものを土台として、この民族的な気運は動いてゐた」(『佐藤春夫』)
 「昭和初年にはヂャーナリズムを風靡し、天下の青少年を傘下にした(共産主義)運動も昭和七八年ごろ青年の生活が最悪の失業状態を経験したとき、この青年のヒュマニズムにたった運動はじつに極端に頽廃化し、デスパレートなものを、真向に権力に向かって叩きつけるすべを見失ってゐたのである……日本浪漫派の運動は……時代に対する絶望を生きぬくために、文芸の我国に於けるあり方を発見したといふことが、最大の身上であると私は考へる」(『我国に於ける浪漫主義の概観』)
 昭和六年といえば満州事変の起こった年であり、十五年戦争の始まった年であった。第一次大戦前後からの独占資本の発展が行き詰まり、海外進出によって行き詰まりからの脱出が図られたのであった。労働者階級の闘いが根本的に準備され、開始されなければならなかった。しかしまさにこのようなときに共産党は壊滅してしまったのである。
 保田に代表される日本浪漫派の思想は、直接には転向、挫折、不安、頽廃のなかの青年のデスペレートな気分を反映しているが、しかしそこにはまた度重なる恐慌の過程で解体し、失業と貧困と飢餓に襲われた小ブルジョアジーの独占資本とその国家に対する失望と怨嗟、反帝国主義の意識があった。日本浪漫派は、この社会の矛盾が文明開化以来の近代化によってもたらされたものであることを知りその革命的変革を希求したが、共産党が壊滅しまた彼ら自身が転向することで、観念的で情緒的な「革命」として原始的共同体への憧憬と結びつけて古典の復興をめざしたのである。彼らは「深い夢を宿した強い政治」を願望し、戦争によって「革命」が実現するだろうと考えたが、それはファシズム体制と帝国主義戦争の賛美にほかならなかった。
12 猫も杓子も国策文学
目クソ鼻クソの「国民文学」論争
言論統制のなかでの国策文学
 昭和十二年(一九三七年)の日中戦争勃発に伴い、満州事変以来しだいに強められてきた国家による思想の弾圧と教化は、一段と激しさを加えてきた。文学のほうでは宮本百合子、中野重治らの執筆禁止、『人民文庫』の廃刊などが続き、島木健作の『再建』や石川達三の『生きてゐる兵隊』などの発禁が相次いだ。
 『再建』は農民運動の反省をとおして革命闘争を観念的であると批判し、現実的な運動として再建されなければならないということを主題としたものであるが、すでにこのような作品も発表は許されなかった。『生きてゐる兵隊』は石川が『中央公論』の特派員としで陥落直後の南京を訪れ、「あるがままの戦争の姿を知らせることによって、勝利に傲った銃後の人々に大きな反省を求め」るために、見聞に従って中国人女性に対する日本兵の残虐な行為まで書いてしまったために当局に睨まれ、発禁になるとともに有罪となったのである。
 十二年末に石川が南京に派遣される前から、文学者は新聞社や出版社から続々と大陸に派遣され、彼らの現地報告がそれらの新聞や雑誌に掲載された。『生きてゐる兵隊』は現地での取材をもとにして小説にした最初のものであった。しかしそれが発禁となることで、戦争を描く際の限界を知らしめた。火野葦平は戦後になって、日本軍が負けているところ、戦争の暗黒面、女のことなどは書いてはならない、また小隊長以上の軍人はすべて人格高潔、勇敢沈着に、敵はどこまでも憎たらしく、いやらしく書かねばならないという指示を受けたと語っている。
 翌十三年には内閣情報部は菊池寛、久米正雄、横光利一、吉川英治ら十二人と漢口攻略戦への従軍を協議し、人選については文芸家協会会長の菊池が中心になって二十七名が選ばれて出発した。世にペン部隊と称されたものである。この計画が発表され、また、戦地から帰って来て各地で報告会を開くと、従軍作家は新聞に大きく取り上げられ、マスコミのスターになった。作家たちは選ばれて従軍することは文壇で重じられている証しであり、国民としても名誉なことだと考えるようになっていたのである。選にもれた作家たちの嫉妬や羨望をなだめるために苦労したことを菊池は嬉しげに当時の『文芸春秋』に書いている。特にこれ以後、国策文学、戦争文学が氾濫していくことになった。ブルジョア的あるいはファシズム的な「政治と文学」の結合である。
 戦争文学の代表的な作者は火野葦平であった。『麦と兵隊』は大ベストセラーになり、戦争の実状を知りたいと思っていた人々の圧倒的な支持を得て、彼は一躍国民的英雄のように遇された。彼は昭和の始めころにはマルクス主義に接近し、石炭沖仲仕を率いて労働組合を結成し、書記長となってゼネストを指導するが、逮捕されて転向し、その後『糞尿譚』を書いて芥川賞を受賞していた。『麦と兵隊』は、日中戦争開始以来はじめて日本軍が苦戦をなめたといわれる徐州作戦を描いたもので、広大な中国戦野の果てしない麦畑を、炎熱に焼かれ、汗と埃にまみれながら進軍し戦う将兵の活躍ぶりや、兵士たちが歩き眠り食い飲み排泄しといったことを日記体で記録したものである。それまでにも尾崎士郎の『悲風千里』や林房雄の『上海戦線』などがあったが、それらは作者が戦争を外側から描いた従軍小説や従軍ルポルタージュであったのに対し、火野の作品は「陣中小説」として受け取られ支持されたのである。この作品の成功によって兵隊作家による「陣中小説」の流行をもたらした。火野はその後『土と兵隊』『花と兵隊』なども書いている。
 戦争文学とともに農民文学が盛んになった。十三年に農林大臣有島頼寧を会長とし、島木健作、和田伝ほか約五十名を擁した農民文学懇話会が結成され、農業の奨励という国策にそった文学が流行した。これを皮切りに、十四年には大陸開拓文学懇話会、少年文学懇話会、女性芸術家による「輝ク部隊」、海洋文学協会、経国文芸の会、農山漁村文化協会、南洋文学懇話会、朝鮮文人協会、日満文芸協会が結成された。これら半官半民の文化文芸団体は、それぞれが文学賞を設定したり、大陸や農村・工場に人を派遣したりして、国策に沿った文学の発展を促進したのである。
 それらは生産文学、大陸文学、海洋文学などと呼ばれ、今までになかった幅広い素材の上に立った文学を生み出し、素材派ともいわれたが、当然のことながら批判的視点は全くなく、目先は変わっても素材によりかかった底の浅いものでしかなかった。また、これら国策文学を支えた作家の多くは転向作家であった。もと左翼であったために、積極的に国策に協力しなければ生きていかれないという事情もあったであろうが、「政治の優位性」論が国策と抵抗なく結びついたという面もあったのではないかと思われる。
 昭和十五年、大政翼賛会が結成され、その文化部部長に岸田国士が就任し、文化部を支援するかたちで日本文学者会が結成され皇道翼賛の国民運動の一環としての思想文化戦線がめざされた。翌年には、文芸家協会は大政翼賛会と情報局の支援のもとに文芸銃後運動を開始し、全国で講演会を催したりするようになった。また、徴用令によって多数の作家、評論家が南方作戦に従軍していった。
論争の体をなさない「国民文学」論争
 「国民文学」論争は、昭和十二年の日中戦争勃発前後と十六年の太平洋戦争突入前後の二度にわたって議論が高まっている。これは戦争遂行という国家目的のために「日本的なもの」「民族的なもの」によって国民意識を統合しようとする国策に、意識的にか無意識的にか、文学者の側もその一端を担っていこうとして提起されたものである。発言者は少なくなかったが、かたちとしては論争と呼ぶにふさわしい展開を辿っているとはいえない。原則的な批判が出来る者はいなかったし、また状況からいっても真っ向から公然と批判をすることは不可能であったからである。
 十一年に浅野晃は「何よりも先づ民族的なるものが文化の破壊の張本人であるといふ錯覚を捨てよ」と叫んだが、小林秀雄はこれに対して『東京朝日新聞』の文芸時評で、「これもまた近頃僕の眼中を往来してゐた思想である」と共感を示し、それでは「伝統は何処にあるか」と問い、「僕の血の中にある、若し無ければ、僕は生きてゐない筈だ」と自答している。また横光利一は『厨房日記』で、義理人情を日本的知性として礼賛した。
 こうした民族主義的な傾向に対して、翌年、窪川鶴次郎は「横光利一氏や小林秀雄氏や林房雄氏が、最近になって打ち揃って、日本に感謝し、日本人たる信念をしばしば告白してゐることは、インテリゲンチャのこの上ない現代的カリカチュアとして、時代の急激な変化を物語ってゐるのであろうか。祖国を愛しないとでも言うのだらうか、彼等以外のものは。彼等のかゝる告白の本質が、批判的精神の喪失、現実の無条件的肯定、要するにインテリゲンチャの驚くべき知性の衰頽を示してゐることは明らかだ」(『新たなる文芸思想の要望』)と、祖国を愛するということでは同じであるとしたうえで、インテリの知性の衰頽を批判しただけである。
 また谷川徹三は『文学と民衆並びに国民文学の問題』で、「今日の知性を納得させない神話の形而上学化としての日本精神論や日本主義を憎む」という。しかし「日本的なもの」「伝統や民族性の問題」は重要であるとし、日本に「偉大な国民文学が生まれぬうちにすでに疑似国民文学たる通俗大衆文学の氾濫を見てゐる」現状を憂い、浅野晃のインテリの知性が民族や民衆を代表する知性になっていないという意見に賛成して、民族や民衆を代表する国民文学が生まれることに期待を寄せている。
 国民文学について最も精力的に論じたのは浅野晃であるが、彼は「明治以後の日本の文学が不朽のタイプを作り残すことが出来なかったといふこと」が国民文学論の中心問題であるという。その理由は近代日本の「模倣的な寄生的インテリゲンチャ」の「寄生的知性」「寄生的文化」のためであり、輸入された思想や文化を排して、伝統と民衆とのなかにある「民族的カオス」に立ち返ることによってこの寄生的なものを克服することが国民文学創出の第一歩であると主張する(『国民文学の根本問題』)。
 三年後の昭和十五年に、浅野は『国民文学への道』を書いている。「低調で退屈きわまる散文的平和時代は過ぎ去ろうとしてゐる。詩と戦ひの時代が来りつつある。新しい感覚が時代を劃しようとしてゐる。この新しい感覚は、伝統的感覚の復活であり、それによってのみわれわれの日本がこの危機を乗り切るために絶対に必要となったところの感覚である。このやうな感覚は、われわれの祖先が伝承してくれた古典的詩歌のなかに保存されてゐたものである」。彼の結論はこうである。詩は志であり、「それは国をになふの志である。これが臣民の道である。わが国にあっては、国民文学は臣民文学であると言ってよい」
 これに対しては板垣直子が反論ともいえない反論をしている。「氏のいうやうに臣民の道といふことは勿論根本でなければならぬ。しかし、現代の複雑な散文精神の発達してゐる時に、それだけをもってきて議論するのは簡単すぎる」(『国民文学論』)。彼女はこうした批判をするために、先ず「日本が今日の赫々たる国威を発揮する事情にまで恵まれていった歴史的現実について考へるならば、実際に非国策的、非建設的な一切の文学論は、すべて黙殺して差支へないといってよい」と断言している。これが本音だとしても、この程度の批判をするのにも勇気と覚悟が必要であり、身を守るためにあらかじめ予防線を張らなければならない時代になっていたともいえるのである。
文学報国会の結成と超国家主義者の跳梁
 昭和十六年十二月八日、太平洋戦争に突入し、戦争は新しい局面に入った。開戦に対して文学者はただちに新聞や雑誌にあふれるような感激を語っている。
 例えば河上徹太郎は言っている。「遂に光栄ある秋が来た。しかも開戦に至るまでの、わが帝国の堂々たる態度、今になって何かと肯首出来る、これまでの政府の抜かりない方策と手順、殊に開戦劈頭聞かされる輝かしき戦果。すべて国民一同にとって胸のすくのを思はしめるもの許りである。今や一億国民の生まれ更る日である。しかもさうなるのを他から強制されるのではなくて、今述べた眼前の事態がすべて我々をして欣然そこに到る気持ちを湧き起こさせてくれてゐるのである」(『光栄ある日』)。言論統制が厳しかったにしても、やはりこうした感想は本心からのものであったことは疑い得ない。
 翌年、情報局の指導のもとに文学者の一元的組織として日本文学報国会が創設された。文芸家協会は解散し、名実ともに文学者の唯一の統合組織が成立したのである。会長は徳富蘇峰、理事には久米正雄、中村武羅夫が就いた。小説・劇文学・評論随筆・詩・短歌・俳句・国文学・外国文学の八部会から成り、約四千名の文学者、学者を会員とした。宮本百合子、中野重治も会員になった。
 「本会ハ全日本文学者ノ努力ヲ結集シテ、皇国ノ伝統ト理想トヲ顕現スル日本文学ヲ確立シ、皇道文化ノ宣揚ニ翼賛スルヲ以テ目的トス」という組織である。会の行った主な事業は、三回にわたる大東亜文学者大会の開催、建艦運動の一助としての小説集の刊行、『国民座右銘』『愛国百人一首』の選定、『大東亜戦争詩集・歌集』の編纂、辻小説・辻詩の制作、文芸報国運動講演会、古典作家の顕彰祭などであった。
 戦時下にあって我が世の春を謳歌した者たちがいた。保田与重郎、蓮田善明、浅野晃、林房雄、中河与一らの超国家主義者たちである。
 保田は昭和十六年の終わりに、影山彰治らの文化新同盟の機関誌『文化維新』に書いている。「時勢の威力を示して人心を一新するためならば、大ざっぱに思想強化の元凶を認定して、断伐すればよいのである。改新においてはそれ位のささやかな犠牲は止むを得ないし、又至誠に発する誤謬ならば、世人一様に了解し、彼此を追悼する筈である。わが国の強さはかかるところにあったと私は信じている」
 彼らは、国家と民族の危機を救うものは天皇を中心とする日本民族の伝統の独自性にたった日本主義であると主張し、右翼団体と結びついて、「尊皇攘夷」「内敵勦滅」を唱えつつ、かつての左翼文学者や自由主義的文学者の転向が本物であるかどうかを嗅ぎ回り、少しでも左翼的、自由主義的な臭いを嗅ぎ付けると摘発し、筆誅を加えたのである。
13 文学の対象と方法、その社会的役割は何か
論争史を総括する
 これまで「自然主義論争」から戦前の「国民論争」まで十二回にわたって一応社会的、政治的背景を踏まえ、文学史の流れに沿って重要と思われる文学論争をみてきた。争点は多岐にわたるが、その中でも基本的な争点として、文学は何を描くものなのかという文学の表現対象と方法および作者の思想についてがあり、もう一つは小説の特徴とその価値=Aあるいは文学の社会的意義と役割についての二つがあげられるだろう。もう少し細かく分けたほうがすっきりするのだが、そうすると論者の見解をあちこちで繰り返し触れなければならないので、以下では論争史をこの二点の問題に整理して総括したい。
文学の対象、思想、方法
 自然主義論争の前の重要な論争に、坪内逍遥と森鴎外の間で交わされた「没理想論争」があった。逍遥はそこで「小説は芸術である。しかし芸術であるためには、小説は写実的でなければならない」と述べている。これは日本における最初の近代的な文学論である『小説神髄』で展開されたことの簡潔な要約である。
 『小説神髄』で逍遥は「小説の主脳は人情なり。世態風俗これに次ぐ。……人情とは人間の情欲にて、所謂百八の煩悩是なり」と主張し、「八犬伝中の八士の如きは、仁義八行の化物にて、決して人間とはいひ難かり」と述べて、儒教思想にもとづいた勧善懲悪や忠孝仁義などを説くことを内容とする小説に反対して、人間とその心理を写実的に描くべきであると画期的な主張をし、小説を戯作から脱皮させて芸術に高めようとしたのである。しかし、儒教思想を排して写実を強調したことの意義は大きいが、写実を強調するあまり、「没理想」という言い方で、小説に、それがどんなものであれ思想を持ち込むこと、ある意図や目的を持たせることに反対する結果となった。
 逍遥の写実主義は自然主義に受け継がれた。自然主義をめぐる論争の発端となった論文で、長谷川天渓は芸術のための芸術に反対し、「文芸家が人生との交渉を開かむと思へば、亦此の現実世界に触れなければならぬ。而して其の現実界に対する態度、即ち現実を見る方法は、一切の理想や道徳を放棄したもの、余の所謂破理顕実の態度であらねばならぬ。今日の所謂自然主義的なものは、正に此の立脚地に在るものである」(「論理的遊戯を排す」)と書いている。
 自然主義が作家は現実の社会に眼を向けなければならず、その態度と方法は現実を理想化したり道徳的に見るのではなく、善悪美醜をこえて、現実そのものを明らかにすることであるといい、主観を離れ客観的でなければならないとリアリズムを強調したことであり、また人間を環境や遺伝や本能に支配されるものとしてみるだけで、現実そのものの不合理、矛盾を明らかにし、さらに現実のなかにそれらを克服する方向を見いだそうとはしていないところに決定的な限界があった。
 文学と作者の思想との関係についてはとくには語られてはいない。思想は主観的なものとして退けられているように思われる。
 こうした現実と思想のとらえかたから、自然主義は傍観的となり、諦念に陥って、その文学は作者の日常生活の描写と告白という社会性も思想性も欠くきわめて狭い私小説、心境小説になっていったのである。
 現実を重視せよという自然主義に対して、白樺派の武者小路実篤は、主観を重視すべきである、自己の主観をあくまで信じ、内面の要求に従って個性を伸ばさなければならないと主張した。現実の社会に目をつぶり、主観にもとづいて人格完成を自己目的として、自分のことばかりを書いた白樺派の文学もまた諦念や枯淡の境地に安住したりして自己満足にふける私小説、心境小説に傾斜した。
 ブルジョア的、プチブル的な文学論ではふつうには作者の思想はほとんど問題にされず、せいぜい動機や意図が云々されるくらいである。だが、「国民文学論争」にみられるように、社会の矛盾が深まり階級対立や国家間の対立が激しくなると民族主義、国家主義でなければならないとわめきはじめるのである。
 他方、中野秀人は「階級芸術論争」の発端となった「第四階級の文学」で、第四階級の文学が開拓される時代が来た、その文学は社会組織の究明を特質とすると画期的な主張をし、青野季吉は「『調べた』芸術」で「プロレタリア文学は、益々深く、細かく、直接に生活と闘争の世界を掘り下げて行く可きである」と述べ、「目的意識論争」のきっかけになった「自然成長と目的意識」ではプロレタリア作家が社会主義思想をもつことの必要性を強調した。
 意識性、思想の重要さを強調したことは全く正当なことであった。というのは一般的にいって作家の思想的、理論的深化は作品を一層優れたものにするだろうからである。しかしこの後、主に蔵原惟人によって、作家のもつべき思想は共産党の思想、スターリン主義であるとされ、しかも相対的に区別されるべき思想と方法が切り離し得ないもののように結びつけられて「前衛の観点」つまり共産党の観点をもったリアリズム論が主張されたのである。
 この蔵原理論に対する批判は、当時提供されたソ連の社会主義リアリズム論に依拠して徳永直らによって行われたが、このころ新たに発見されて紹介されたエンゲルスのハークネス宛の手紙に一層力を得て、「世界観はどうであれ、方法さえリアリズムであれば結果として革命的な文学ができる」と、世界観や思想をどうでもいいかにいうものさえ出てきた。
 ところで、エンゲルスの手紙は「リアリズムというものは、私の考えでは、細部の真実さの他に、典型的な状況における典型的な人物の忠実な再現を含んでいます」と述べた後、バルザックの政治的立場は正統王朝派であるのに、作品ではその立場を否定して共和派に味方しているのは方法が正しかったからで、「リアリズムの最大の勝利」といっているものである。これは思想と方法とは相対的に別であるということを前提にして、リアリズムが方法として正しいといっているのであって、思想はどうでもいいといっているわけではない。
 戦後になってプロレタリア文学運動を批判した小田切秀雄は、「文学的創造に当たっては、直接には世界観の理論など何ものでもないということをはっきり覚悟して置かねばならぬ」「文学的創造は生身の自分の胸奥からの実感」だけが核心であると力説した。世界観と切り離された実感とはどのような実感だろうか。彼は革命的な批判をしたつもりであるが、プロレタリア作家にとってマルクス主義が重要な一条件であることを否定したのである。
文学の社会的役割と意義
 私小説、心境小説が文壇の主流になり、プロレタリア文学と新感覚派の文学が台頭してくるなかで、既成作家の間でその狭さを脱すべきだという意見と、これこそが文学らしい文学だという意見に分かれ、小説の特徴とその価値≠ノついての議論が高まった。
 久米正雄は「私」を「他の仮託なしに、素直に表現した」心境小説こそが小説の本道であり真髄であって、本格小説といわれるものは造り物であり通俗小説に過ぎないと主張したのに対し、中村武羅夫は心境小説は傍流であるべきで、「主観的な行き方に対する、厳正に客観的な行き方の小説」、本格小説が主流とならなければならないと文壇の現状を批判した。
 また広津和郎は「散文芸術の位置」で、散文芸術は自己の生活とその周囲とに関心を持たずにはいられないところから生まれたものであり、「人生のすぐ隣にあるもの」であって、小説は現実とのかかわりをもつところに特徴があると素朴な小説論を述べ、その特徴を生かして心境小説ももっと現実を描かなけなければならないといっている。
 菊池寛は、芸術が人生にとって価値があるとすれば芸術的価値のほかに内容的価値、題材自体のもつ人生的価値とでもいうべきものがあるからで、小説はそのような題材を取り上げるべきだと「文芸作品の内容的価値」で主張した。
 この菊池の説について、芸術作品は内容的価値と芸術的価値とが一体となったのものであって、それを分けて論ずるのは誤りであるという批判がなされた。芸術作品が題材と表現との、あるいは内容と形式との統一体であるというのはその通りである。しかし統一体だからといってそれらを分けてはならないということにはならない。表現や形式が題材や内容とはまったく別のものであって、題材や内容に外から与えられるというのではないが、相対的には区別されるし、分けて論ずることは誤りではないだろう。
 内容的価値と芸術的価値の問題は、プロレタリア文学の内部でも「政治的価値と芸術的価値」をめぐる論争として展開された。平林初之輔は政治的価値に芸術的価値を従属させる蔵原の理論は政策論、政治論にならざるを得ないといい、だからむしろ政治的価値と芸術的価値とを明確に区別したほうがよいと主張した。これに対して蔵原は芸術作品の評価に絶対的な基準はない、それは時代と階級により異なり、プロレタリアの基準は「階級的必要」とプロレタリアートの勝利の観点、つまり社会的価値であると批判した。この「階級的必要」というのは、蔵原の場合は実際には共産党の戦略とその時々の戦術に見合ったものであり、政治主義的なものであった。
 広津や菊池の論文は芸術一般から区別された小説論であり、作家はもっと現実に目を向けよ、そうすれば社会にとって意義のある文学が生まれるだろうというものである。しかし彼らは芸術の階級性は否定するのである。
 有島武郎は「宣言一つ」で、労働者階級の解放は労働者自身によってなされるもので、インテリゲンチャがそれに対して果たす役割は何もないといい、芸術の階級性を認めてプロレタリア文学に反対はしなかったが、インテリゲンチャがそれを書くことは出来ないとのべ、他方、広津和郎は芸術は超階級的な普遍性をもつものであるといい、久米正雄も芸術には国境がないのと同様に階級もないといった。また菊池寛は芸術の扱う題材、人物、思想、感情などはプロレタリアが天下をとれば、プロレタリア的色彩を帯びるかもしれないが、「芸術の本体」、芸術を芸術たらしめている部分には階級ということと関係はない、と芸術の階級性を否定した。
 「芸術の本体」が何を意味するのか不明である、芸術が経済社会関係の反映であるとするなら、階級社会における芸術が階級的性格をもつのはいうまでもないことであろう。
 ついでにいえば、武者小路実篤は主義によって動くものは「お弟子根性」であって弱いものだ、「宣伝文学は人間の心を乾燥にする」と非難をあびせ、志賀直哉も「主人持ち」の文学として拒否している。
 芸術の階級性と階級闘争の一つの手段であることを明瞭に意識的に語ったのは「民衆芸術論争」での大杉栄と、先にも触れた中野秀人である。大杉は、民衆とは「平民労働者」であり、民衆芸術とは「民衆によって民衆の為に造られ而して民衆の所有する芸術」であると主張し、中野も「第四階級の文学は同情や哀願の文学ではなく、反抗闘争の文学である」と書いている。また平林初之輔も第四階級の文学は今日の社会の階級対立の必然の結果として生まれたもので、「被支配階級、反抗階級の思想的武器」であるとのべている。確かに、文芸運動が階級闘争の一構成部分であり、その意味で文学運動は革命闘争に従属する。しかし文学運動と政治闘争とは異なった内容と形態の運動である。
 だが、蔵原は文学運動の政治闘争、それも共産党の政治闘争に機械的に従属させたばかりでなく、「わが国のプロレタリアートとその党が現在に於いて当面している課題を、自らの芸術的課題とすること」と、その時々の戦術に従属させたのである。こうした「政治の優位性」論は、宮本顕治、小林多喜二に受け継がれ、より徹底化されて、文学運動として組織しながら文学運動としての活動を否定して直接政治闘争を担うことを要求するものになったのである。
 戦後に平野謙は、プロレタリア文学運動の諸悪の根源を「政治の優位性」に見いだし、『党生活者』のなかの笠原という女性の扱い方は、「目的のために手段をえらばぬ人間蔑視が『伊藤』とのみよがしの対比のもとに、運動の名において平然と肯定されている」のは「政治の優位性」から必然的に出て来たものだと批判した。彼は、革命闘争というものはすべて「政治の優位性」論に立ち、「目的のために手段をえらばぬ人間蔑視」は避けられないとして プチブル的立場から共産党の政治だけではなく、革命闘争一般を否定したのである。
 平野、小田切らは戦後において文学が民衆とともに発展するためには過去のプロレタリア文学を全面的に清算しなければならないと主張した。これに対し蔵原は民主主義文学は「戦前のプロレタリア文学の継承発展である」と規定した。しかし八〇年代の初めに宮本顕治は、小林多喜二、宮本百合子をプロレタリア文学の古典としてもちあげながら、平野らプチブルに屈服してプロレタリア文学を清算する論文を発表した。こうした共産党の影響もあって、今では本当のプロレタリア文学は、増田勇氏の『変節』などわずかな例外を除いて見る影もない。真の階級闘争と結びついた新たなプロレタリア文学が生まれることを切に望まずにはいられない。
(完)
淡中剛郎


 川口奈央子氏の「『文学者に就いて』について」 村の家からみる転向」」を参照すると、「一九三四年三月は日本プロレタリア文化連盟(コップ)の大弾圧・検挙があった年で、中野重治をはじめ、窪川鶴次郎、村山知義、壷井繁治、中条百合子、山田清三郎ら多くのプロ文学者が逮捕された。その約二年後、彼等の大半の者は転向し出獄している」、「中野も日本共産党員であったことを認め、今後共産主義活動に加わらないことを誓いーこれが当時の転向の条件であったー出獄している。懲役二年執行猶予五年の判決を受けて出所。 なおこの時上申書と父親の謝罪が必要であった」とある。

 れんだいこから見れば、これは止むを得なかった「応法」対応では無かろうか。もし完黙を貫き、非転向を意思表明すれば、小林多喜二のような虐殺が待ち受けていたであろう。宮顕は、「こいにつには何を云っても無駄だ」と特高があきらめ拷問の手が緩められたことを誇っているが、そういうことは有り得る筈が無い。この論理は、虐殺に倒れた同志に対する侮辱以外の何ものでも無かろう。

 これにつき、当時の転向の様子を本多秋五は、1954年の「転向文学論」の中で、「佐野、鍋山の転向ゃ、獄中生活の苦痛や日本国家による圧迫なしにも、不可避的に、声明書のような内容をもちえたかどうか疑問で、耳を覆って鈴をぬすむ背教者の仕業とみるのが、当時もいまも変らぬ健全な常識であろうと思う」、「最大の原因は、いうまでもなく外的強制にあった。外的強制というなかには、検挙・投獄・拷問だけでなく、最悪の場合には死刑をも覚悟せねばならなかった治安維持法改悪の恐怖もあった」と述べている。これが素直な観点となるべきだろう。

 さて、問題は次のことにある。当時検挙されたプロレタリア文学者は、党中央の転向声明を契機として雪崩を打って転向していった。転向派は、「応法」対応で合理化すれば良いものを如何なる風に合理化したか。反転して当局派へと転身した一群の者については別途考察するとして、忸怩たる思いを持った転向派は次のような内面心理を吐露している。

 一つの極論は、「道義的なものを見る。もちろん自分が一度抱いた信念を守りえないことは汚辱・恥には違いない」とか「文学者といえども、政治的節操を守っていいし、守らなければならぬことは言うまでもない」(貴司山治)、「彼等は転向せずに其々の如く死ぬべきである」論があったようである(板垣直子の「文学の新動向」 、一九三四年九月『行動』)。しかし、これはやはり暴論であろう。「美学」的には理解されるが、運動論上に益するものは何も無かろう。

 中野重治は、1934.5月、東京控訴院法廷で、日本共産党員であった事を認め、共産主義運動から身を退く事を約束して、執行猶予の判決を受けて即日出所した。その時の心境と転向者としての自分の位置を、「『文学者に就いて』について」の中で次のように述べている。「弱気を出したが最後僕らは、死に別れた小林の生きかえってくることを恐れはじめねばならなくなり、そのことで彼を殺したものを作家として支えねばならなくなるのである。僕が革命の党を裏切りそれに対する人民の信頼を裏切つたという事実は未来にわたって消えないのである。それだから僕は、あるいは僕らは、作家としての新生の道を第一主義的生活と制作とより以外のところにはおけないのである。もし僕らが、みずから呼んだ降伏の恥の社会的個人的要因の錯綜を文学的錯合のなかへ肉づけすることで、文学作品として打ちだした自己批判を通して日本の革命運動の伝統的批判に加われたならば、僕らは、そのときも過去は過去としてあるのではあるが、その消えぬ痣を頬に浮かべたまま人間および作家として第一義の道を進めるのである」。

 更に、「村の家」(中野重治、一九三五年五月『経済往来』)で、その消えぬ痣として中野に残っている転向問答を次のように語っている。共産党員であった主人公の勉次は転向し出獄した後、父と母のいる村の家に帰る。そこは相変わらず古い封建制度の残っている社会である。この村全体が古い封建主義の象徴として構図されており、父と母に一般的な民衆の姿が反映されている。勉次は、他のインテリゲンチャ系共産党員と同様に、実際の農民、民衆の姿を村で暮らすことによって皮肉にもやっと本当の民衆の生活に触れることができる。

 この時、共産主義運動に関わった息子の更正につき、親子で次のような会話をしている。父母はどちらも伝統的価値観の只中にあるが鮮やかな対比を見せている。 母はなぜ共産党員になったか、天皇陛下に弓を引くようなことをするのかとにかく「すべてがよくわからぬらしい」姿で描かれている。(しかし彼等が運動の対象に扱ってきた、といえば聞こえはわるいが、民衆の大部分がこの様であったのではないか)

  父は一応思想的には理解しているが、「お前が捕まったと聞いた時から、お前は死んでくるものだとして、処理してきた。それが転向と聞いて、びっくりした。それでは革命などと書いたことは、全て遊びだったという事になるではないか?」と言われて返す言葉が無い。 「革命だ!と口にしたからには、命を懸けてそれを守れ!」と言われて、それに反論できる正当性がどこにも無かった(この自覚こそが、中野重治が尊敬されるところとなっている。いわば「自己否定のまじめさ」のようなもの)。親父は、「 それがいいか悪いかではなく一度信じたものは貫き通さねばならぬ」、「お前らア人の子を殺いて、殺いたよりかまだ悪いんじゃ」と語り、当時の左派の運動の底の浅さを叱責する。

 いわば“裏切り者”に対する視線を投げつけられた勉次は苦悶する。二様の民衆論理を投げかけられて、勉次の生き方が問われる。 内的には自分の思想を捨てていないが、それが外的にはどういうふうにしろ「転向」という形を取った。何を同言っても嘘、いいわけになるが、それでも筆を捨てたが最後、戦いを放棄してしまう。勉次は出獄して「タノミとツネの前で手をついて頭を下げた。しかし、何を、なぜ謝るのかはいえなかった」。ここは重要な箇所である。この頭を下げるのは自分への屈服、または弱さ、を表している。タミノは同志であり、他人ではなく共産党員であった自分の姿でもある。しかし父には頭を下げない。最後の「それでも書いていきたいと思います」は残された唯一の抵抗だった。

 
  「村の家」には直接に転向の理由が書かれていない。外的要因も大きかったに違いないがそれだけに止まらず、何等かの内的な、転向へと導く思想の流れの変換があったはずである。勉次の転向の理由に中断された治療中の梅毒があげられており、これも興味深い。梅毒の為発狂するのではないかという恐怖がある。本多が「転向と狂気とは、もともとどこかに関係があるためなのか、中野も、村山も、島木も、転向の過程に発狂の恐怖を書き入れていた」と指摘し、長い投獄生活においては、社会と疎外される事、民衆、同志からの連帯感を失うことが狂気につながるのか、いずれにしても内的な、はっきり言えば以前から党の活動に疑問を抱いていたことが上部の崩れによってこの時一気に露出したことも原因の一つではないかと見る。

  転向の理由は各個人様々で、家庭愛、拘束からくる反省や、教誨師の影響、健康からの理由などがあり、しかしそれらを動機とする転向の機会は以前にもあったに違いなく、なぜ三三年以降集中的に出てくるのだろうか。もちろん佐野・鍋山の転向声明をきっかけとしているが、その内容に影響されてではあるまい。佐野学・鍋山貞親「共同被告同志に告ぐる書」声明は、コミンテルンからの離脱、「日本の皇室の連綿たる歴史的存続の支持」を表明していた。これに続いて大量転向が発生した。これに対し、 「権威が崩れたときに思想の欠如が人々に意識され(後略)」、「自分は裏切られたという不信感は、昔から上部依存のこの党には当然予想されたことだが、さらに踏み止まろうという人びとへの思想的援助がなかったことも、敗北感をいっそう強めるはずである」と指摘している。

  佐野・鍋山の転向がなぜ起こったのかどのようなものであったかは追及せぬことにして、ただ最高指導者である彼等の転向が、党員に深い不信の念をもたらしたことを指摘しておく。それらにとって変わる思想が存在せず、自らも作ることができず、日本においてのマルキシズムが一つの運動ではなく「一つの状態」と石堂清倫(「中野重治と社会主義」一九九一年、頸草社)がいうような共産党では、思想ではなく権威が崩れたことによって、紐がほどけるように上部から瓦解したのである。

 結局そのような者が指導者と目される共産党では、あのように大量の党員が転向したにもかかわらず、個々の問題にしか、個人の領域においてしか采配される問題でしかなりえなかった。よって、その後転向した文学者による「転向文学」は私小説の形を取るのである。先にも述べたが中野と思われる主人公・勉次(作中の人物が似ているから、とか作者から連想されるからということで読むのは危険な読みであるが)に、転向の心境を告白させ、「それでも書いていきたいと思います。」(前掲「村の家」)と宣言させているのだ。板垣直子がいう「第二義的種類の生活者から一義的な文学が何れの意味からも生れるであろうとは想像できない」(「文学の新動向」一九三四年九月『行動』)。封建的な社会に対して、やはり「書く」という行為しかなく、頬に消えない痣を浮かべたまま「書きつづけていく」宣言。個人の問題として発した転向がここへ来てもう一度社会的な問題へとつながっている点で、「村の家」は単なる私小説の型にとどまらず「転向文学」の座にある。