| 原水禁運動の歩み |

(最新見直し2007.7.23日)
参照サイト、「核・原子力関連年表」その他(目下、整理推敲中です)
| (れんだいこのショートメッセージ) | |
| 地球規模の大殺戮戦争となった第二次世界大戦は、日本のみならず世界に平和の尊さを教訓とさせた。日本の戦後の反戦平和運動は、大東亜戦争に敗戦し、明治以来の軍国の歩みを反省したところに立脚している。但し、運動的には、そういう反戦平和運動と、1945(昭和20).8.6日の広島、8.9日ノ長崎への原子爆弾被災を起点とする「二度と原爆許すまじ」、「ノーモア広島・長崎」の反核運動の二側面が合体して担われてきた。とりわけ毎年夏に訪れる慰霊祭は、原爆被害の実態と悲惨な光景を蘇らせ、日本国民に非戦・不戦の誓いを新たにさせていくことになった。 「原水禁運動の歩み」は、次のように記している。
ところで、そうした反核運動をよそに米ソ超大国及びイギリス、フランス、中国が核開発を競い合う時代でもあったというのが史実のような気がする。こうした核実験との絡みでの平和運動の歩みを追跡して見たい。この場合、日本の平和運動が如何に生まれ、育まれ、如何に潰され、今日なお低迷を余儀なくされているのか、それは如何に宮顕―不破系日共の変調指導の賜物なのかを明らかにする道でもある。こういう論の立て方なしに原水禁運動を語るものが有るとすれば、あまりにも臭いものに蓋式の穏和なものでしかなかろう。 2003.10.15日再編集 れんだいこ拝 |
| 【加藤教授様、サイト紹介有難うございます】 | ||
「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」の「金正日の核実験は、北朝鮮自滅への一里塚?日中朝露民衆を敵にして、ブッシュと安倍内閣を助ける?」の中で、次のように紹介受けました。これを転載させていただきます。
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| 【1945(昭和20)年】 |
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| 【米国が核実験成功】 |
| 7月、米国が世界初の核実験。 |
| 【核兵器の開発と広島、長崎への投下】 |
| 8月、米国が、広島、長崎に原爆投下。 |
| 【1946(昭和21)年】 |
| 【国連の第1号決議で、「原子力委員会の設置、原子兵器廃絶」を採択】 | |
| 1.24日、国連第一回総会の第1号決議で、「原子力委員会の設置、原子兵器廃絶」を採択。以降、原子力の国債管理に関する検討が為されていくことになる。 |
| 【米国がビキニ環礁で原爆実験シリーズを開始】 | |
| 7.1日(6.30日)米国がビキニ環礁(ミクロネシア)で原爆実験シリーズを開始している。これに対して、7月、ニューヨークのタイムズスクエアで、核実験に反対するデモが行われている。 |
| 【アインシュタインの反核運動】 | |
| 9月、アインシュタインが国連総会に公開状を提出、原子兵器不使用を主張する。 |
| 【ソ連が原子炉1号機を稼働】 | |
| 12.25日、ソビエトの原子炉1号機を稼働。翌6月、ソ連がプルトニウム生産原子炉を完成させる。この年、オッペンハイマーが原子力委員会一般諮問委員会委員長に就任している。 |
| 【1947(昭和22)年】 |
| 【広島・長崎への原爆使用是認論現れる】 | |
| 9.18日、米空軍が米陸軍から正式独立。この年、スチムソン陸軍長官が、「原爆使用が対日地上戦での100万人の死者を救った」と発言。これが原爆使用正当化の定説となった。この年、オッペンハイマーが「自分の手は血で汚れている」と発言している。 |
| 【1948(昭和23)年】 |
| 【米国がエニウェトク環礁で原爆実験シリーズを開始】 | |
| 4.14日、米国がエニウェトク環礁のEngebi島、Aomon島、Runit島で核実験を実施。 |
| 【「平和のために社会科学者はかく訴える」声明】 | |
| ユネスコ(国連教育科学文化機関)が主催して8人の社会科学者によって起草された「平和のために社会科学者はかく訴える」声明。 |
ソ連の科学者サハロフとギンスブルクが新型水爆を考案。
| 【1949(昭和24)年】 |
| 【第1回世界平和擁護大会が開催され、原子兵器禁止を要求】 | |
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4.20日、パリとプラハで、第1回世界平和擁護大会が開催され、原子兵器禁止を要求。 |
| 【ソ連の核実験が開始される】 | |
| 8.29日、ソ連がセミパラチンスクで、最初の核実験 実施。9.25日、ソ連が2年前から原爆を保有と発表。 |
| 【「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」発表される】 | |
| 10.2日、平和擁護広島大会、原子爆弾の廃棄を要求。日本における最初の「反核・軍縮」に関する問題提起が為される。前年の「平和のために社会科学者はかく訴える」声明に呼応したものであった。安部能成、仁科芳雄、大内兵衛の主唱による50余名の科学者がまとめた「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」を発布した。 |
| 【1950(昭和25)年】 |
| 【「ストックホルム・アピール」発表される】 | |
| 3.19日、世界平和擁護大会開催。3.25日、世界平和擁護者大会常任委員会が「ストックホルム・アピール」を発表。「ストックホルム・アピール」は、原子力兵器の製造ならびに使用の無条件禁止を宣言し、署名活動を呼びかけた。5億人の署名を得た。 |
| 【日本で原水爆禁止の署名運動が始まる】 |
| 5月、「ストックホルム・アピール」に呼応して日本で原水爆禁止の署名運動が始まった。これが国民的平和運動を作り出していく契機となった。原子力兵器は戦争の現代的象徴であり、その無条件禁止が平和運動の理念となり得ていた。当時まだ米国の占領、朝鮮戦争という状況のもとで645万もの署名が集められた。この運動は、「原水爆禁止署名運動全国協議会」の組織化に発展し、原水爆禁止世界大会の開催へとつながった。日本の反戦平和運動は、憲法擁護闘争、基地反対闘争、反核平和運動への取り組みで始また。 |
| 【朝鮮戦争勃発】 | |
| 6.25日、朝鮮戦争勃発。 9.15日、米軍主体の国連軍、仁川に上陸。10.25日、中華人民共和国、朝鮮戦争に参戦。鴨緑江を一斉渡河。 11.30日、トルーマン米大統領、朝鮮に原爆投下も考慮中と声明。12.3日、韓国国防長官、国連に対し、原爆使用を要請。 12.4日、英国、朝鮮での原爆使用に反対。 |
| 【米国がネヴァダで地上での核実験を開始】 | |
| この年、米国がネヴァダで地上での核実験を開始した。 |
| 【1951(昭和26)年】 |
1.27日より米国がネヴァダで核実験実施する。
3.24日、マーシャル米国防長官が朝鮮へ核兵器を輸送すると言明。
| 【日本が国際的に独立し、日米軍事同盟下に入る】 | |
| 9.8日、サンフランシスコ講和条約、日米安保条約が結ばれた。これにより日本は国家主権として独立が認められ、同時に米ソ冷戦下において米国ブロック側の同盟下に入ることを内外に明らかにした。 |
| 【ソ連が核実験を開始し、米国も続行する】 | |
| 10.10日、米国、MSA(相互安全保障法)成立。10.18日、ソ連がセミパラチンスクの上空で核実験を実施。米国がネヴァダで10.22、10.28、10.30、11.1、11.5、11.19と核実験。12.29日、米国が、実験炉で、原子力発電に成功。 |
| 【1952(昭和27)年】 |
| 【1953(昭和28)年】 |
3.15日、ソ連が核搭載IRBMの発射実験を開始。
| 【1954(昭和29)年】 |
| 【米国がビキニで水爆実験シリーズを開始。「第五福竜丸事件」発生とその影響】 | |
| 3.1日、米国のビキニでの水爆実験で、静岡県焼津港のマグロ漁船第五福竜丸が放射能被災した。20メガトン水爆の実験によって発生した「死の灰」は100キロメートル離れた公海上で操業していた静岡県・焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」にふりかかり、23名の乗組員がこれをあび、火傷・下痢・目まい・はき気などの急性放射線症にかかった。そのうちの一人、久保山愛吉さんは同年9.23日、手当の甲斐なく亡くなることになる。 「死の灰の恐怖」はそればかりではない。「第五福竜丸」の獲ってきたマグロから強い放射能が検出されたため、同海域で獲れた他の漁船の魚類も検査した結果、内蔵に放射能をもつものが発見された。焼津港・三崎港・東京や大阪の漁市場ではマグロの廃棄処分がつづけられ、魚屋や寿司屋は客が減って「マグロ恐慌状態」が生じた。東京の中央卸売市場ではコレラ流行以来はじめてセリを中止するにいたった。また、気流にのった「死の灰」は雨にまじって日本全土に降り注がれ、イチゴ、野菜、茶、ミルクのなかにまで放射能が発見されはじめた。こうしていまやアメリカの水爆実験は遠い彼方の問題ではなく、身近な日常生活に直結していることを明らかにし、日本国民全体に大きなショックを与えるにいたった。 「死の灰」の恐怖は、人々にあらためてて「ヒロシマ」、「ナガサキ」の原爆被爆の惨禍を思いおこさせる契機となった。アメリカの占領下にあって秘められていた国民一人ひとりの「戦争はいやだ」、「ピカドンはゴメンだ」という厭戦・反原爆感情を一挙に爆発させた。こうして、日本の原水爆禁止運動は、1954.3.1日、南太平洋ビキニ環礁で行なわれたアメリカの水爆実験の直接の契機としてまき起こることになった。 米国は続いて3.26日、4.6日、4.25日、5.4日、5.13日にもビキニ環礁で水爆実験を実施。 |
| 【「杉並アピール」とその影響】 |
| 5.9日、東京都杉並区の婦人団体、読書サークル、PTA、労組の代表39名が杉並公民館で「水爆禁止署名運動杉並協議会」(公民館長兼図書館長の安井郁・法政大教授が議長に就任)を結成。「全日本国民の署名運動で水爆禁止を全世界に訴えましょう」の杉並アピール発表、署名活動に入った。 杉並アピールの「実験だけでもこのようなありさまですから、原子戦争が起った場合のおそろしさはあまりあります」という呼びかけは、当時の人々の心を掴んだ。その基本的思想は、私生活擁護のための反戦平和というところにあった。その出発点から見れば、原子力兵器さえ禁止されればよいというような唯武器論的な運動ではなかった。 この動きが全国に広がり、運動は焼原の火のように全国津々浦々の町、村、職場に燃えひろがり、あらゆる市町村議会で「核実験反対」「核兵器禁止」が決議された。各地域や職場で自然発生的にはじめられた署名を全国的に集約するセンターとして「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、12月には署名も2000万名を突破した。この署名は1955.8.15日までに日本で3238万人分、世界で6億7000万人分に達した。 |
| 【ソ連が核実験シリーズを開始】 | |
| ソ連が9.14日、Totsk上空で核実験を実施。9.29日、10.1日、10.3日、10.8日、10.19日、10.23日、10.26日も。10.30セミパラチンスク上空で、核実験を実施。 |
| 【1955(昭和30)年】 |
| 【反核平和運動が世界的に活発化する】 | |
| 新しい核軍拡競争の展開は、心ある人びとを核実験禁止、核兵器禁止へとかりたてずにはおかなかった。1.19日、原子戦争の準備に反対するウィーン・アピールが発表された。 |
7.2日、原水爆禁止広島県民運動連絡本部が発足。
7.9日、世界の11人の学者がロンドンでラッセル・アインシュタイン宣言を発表。核兵器の全面禁止を訴える。
| 【「第一回原水爆禁止世界大会」開催】 | |
| 8.6日、広島市公会堂で初めての原水爆禁止世界大会が開かれた(第1回原水爆禁止世界大会)。3000万署名と、1000万円募金を土台に、全国各地域、職場の代表500名と、海外代表35人を含む約2000人が参加。浜井広島市長があいさつ。鳩山首相祝辞。この大会では、原水爆被害者の救済運動を呼び掛ける大会宣言が発表された。B・ラッセル、シュバイツアー、J・P・サルトルなど著名な人々も全面的にこの大会を支持し、参加した被爆者が「生きていてよかった」と涙を流す光景さえみられた。 |
8.8日、ジュネーブで、国連主催第1回原子力平和利用国際会議。
| 【原水協発足】 | |
| 9.19日、原水爆禁止署名運動全国協議会と原水爆禁止世界大会日本準備会が発展的に合同し、「原水爆禁止日本協議会」(原水協)が発足した。活動方針に被爆者救援国民運動(一人一円カンパ)、国家補償要求の署名運動を開始した。 |
| 【米ソが核実験競演】 | |
| 9.21日、ソ連がノバヤゼムリヤで水中核実験を実施。ノバヤゼムリヤ島では初の実験となる。11.1日、米国が、ネヴァダで核実験実施。11.3日、11.5日にも。11.6日、ソ連がセミパラチンスク上空で、核実験を実施。11.22日も。最初の完全な水爆実験実施。空中より投下。開発主導者はアンドレイ・サハロフ。 |
| 【1956(昭和31)年】 |
2.2日、ソ連がカザフスタンのAralskで核実験を実施。3.16も。3.25日、セミパラチンスクで核実験を実施。
| 【ソ連共産党大会でフルシチョフがスターリン批判、平和共存路線を打ち出す】 | |
| 2月、ソ連共産党大会でフルシチョフがスターリン批判をおこない、資本主義諸国との平和共存、社会主義への平和移行などの方針を打ち出した。これに対して、中国は「修正主義」だと批判していくことになり、中ソ対立が発生する。中ソ対立は我が国の平和運動に影を落としていくことになる。 |
| 【日本主体の原水爆禁止世界大会が開会され、原水爆実験禁止協定を米英ソ三国に要求する】 | |
| 4.3日、世界平和アピール7人委員会、原水爆実験禁止について米英ソに勧告。5.27日、広島県被団協の結成総会。 8・9日、第2回原水爆禁止世界大会が長崎市で開会。原水爆実験禁止協定を米英ソ三国に要求するなど11項目を決議。8.10日、長崎で、被爆者団体の全国組織である「日本原爆被害者団体協議会」 (日本被団協)が結成される。 |
5.4日、米国、エニウェトク環礁のRunit島で、核実験。5.27、5.30、6.6、6.11、6.13、6.16、6.21、7.2、7.8、7.21日も。
| 【1957(昭和32)年】 |
| 【ソ連の動き】 |
| 1.19日、ロシアAstrakhan地方のミサイル基地上空で核実験を実施。3.8日、セミパラチンスク上空で核実験を実施。4.3、4.6、4.10、4.12、4.16、8.22、8.26、9.13、9.24、10.6、10.9、10.10日、12.28日も。この間9.7日、ノバヤゼムリヤで核実験を実施。同地での地上爆発試験はこれのみ。 |
| 【米国の動き】 |
| 2.16日、ネヴァダで核実験 実施。5.28、6.2、6.5、6.18、6.24、7.1、7.5、7.15、7.19、7.24、7.25、7.26、8.7、8.10、8.18、8.23、8.27.8.30、8.31、9.2、9.6、9.8、9.14、9.19、9 .23、9.28、10.7、12.6、12.9日も。 |
| 【「第1回パグウオッシュ会議」】 |
| 7・6日、東西両陣営の科学者の参加した「第1回パグウオッシュ会議」(正式名称は「科学と世界問題に関する会議」)がカナダで開かれた。なおパグウオッシュ会議は、1955年のラッセル=アインシュタイン宣言(核戦争の危険性を米・ソ・英・仏・中・カナダの各国に警告し、科学者の平和に対する責任を明らかにした宣言)に基づいて開かれ、東西の科学者22名(日本からは湯川秀樹)が核実験・核戦争の危険性などを科学者の立場から討議した。この会議は、以後世界各地で開かれ、科学者の国際平和運動として定着し今日に至るまでつづいている。 この年、A・シュバイツアー博士がオスロー放送を通じて核実験の危険性と核戦争の危機を訴えていた。ライナス・ポーリング博士も核実験による「死の灰」の危険性を訴えすでに行なわれた核実験の「死の灰」で「1万人の新生児に身体的精神的欠陥を生じさせるだろうし10万人の胎児・幼児死をひきおこすだろう」と警告した。ソ連の「水爆の父」といわれるアンドレイ・D・サハロフ博士もこれらの動きを見守っていた。「アルバート・シュバイツアーやライナス・ポーリングなどによる声明の影響もあって、彼(サハロフ)は自分自身にも核爆発による放射能汚染の問題に関する責任があるように感じた。一連の核実験が行なわれるたびごとに、何万もの犠牲者がでることになるからである」(『みすず』74年5月号)。サハロフがフルチショフ首相に核実験停止の勧告や働きかけをはじめるのもこのころである。 ライナス・ポーリングが核実験禁止の署名を呼びかける。 |
7.29日、国連総会で、国際原子力機関(International Atomic Energy Agency=IAEA)草案を採択。
8.6日、第3回原水爆禁止世界大会開催。「戦争そのものの根絶」というスローガンが掲げられた。
9.29日、ソ連、ウラル核惨事。
10.4日、ソ連、最初の人工衛星スプートニク1の打ち上げに成功。アメリカに衝撃を与える。
10.10日、英国、ウィンズケール核工場で原子炉炉心溶融事故。
11.7日、ソ連の核搭載IRBM・SS-3 Shysterが赤の広場軍事パレードで披露される。
この年、岸信介首相「自衛のための核武装は合憲」と発言。
| 【1958(昭和33)年】 |
この年、ソ連の最初の戦略ミサイル潜水艦ホテル級が完成。IRBM・SS-4 Sandalの配備を開始。
米国の動き。2.22日、ネヴァダで核実験実施。3.14日も。4.28日米国、エニウェトク環礁の上空で核実験実施。5.5、5.11、5.12、5.16、5.20、5.26、5.30、6.8、6.14、6.18、6.27、6.28、7.1、7.5、7.14、7.17、7.22、7.26、8.6、8.18日も。これがエニウェトク環礁での最後の大気中爆発実験となった。5.11日、ビキニ環礁で水爆実験実施。5.21、5.31、6.10、6.14、6.27、6.30、7.2、7.12、7.22日も。これがビキニ環礁での最後の大気中爆発実験となった。8.1日、米国、ジョンストン島上空で、水爆実験実施。レッドストーンロケット使用。8.12日も。9.12日よりネヴァダ再開。9.17、9.19、9.21、9.23、9.26、9.28、9.29、10.5、10.8、10.10、10.13、10.14、10.15、10.16、10.1810.20、10.22、10.24日も。
英国の動き。4.8日、クリスマス島で核投下実験実施。8.22、9.2、9.11、9.23日も。
11月、米国、英国、ソビエトの3国、水爆実験を停止する。
11.28日、米国、ICBMアトラスBの飛行に成功。
| 【1959(昭和34)年】 |
この頃、外交政策をめぐる中ソ間の対立が激しくなる。
6.9日、最初の水爆搭載可能なポラリス潜水艦が就航。
6月、ソ連は「中ソ国防新技術に関する協定」(1957.10月に原爆見本、原爆生産の技術を中国に提供することを約束した)を破棄した。この結果、中国も自ら核兵器生産(1964.10月に第1回核実験)にのりだすことになる。そして、フランス、インドがこれに続く。
| 【原水禁運動における政治の持ち込みを廻って混乱発生する】 | |
| 7.21日、日本原水協が原水爆禁止世界大会について、「原水爆禁止を実現するため核武装、海外派兵の道を開く安保改定に反対するのは当然」と声明した。 7.22日、全国都道府県議長会が、原水禁運動に関して「政治色をぬぐい去るべきである」と決議。保守陣営からの平和運動への政治の持ち込みを拒否する声明が為された。 この頃、運動内部にも意見の対立が起こりはじめた。軍事基地などの平和問題に関連する課題を原水禁運動のテーマとしてとりあげるか、否か、という意見の対立が表面化してきた。いわゆる「筋幅論争」である。それは、「平和運動と軍事基地は関連があるから原水禁も基地反対運動をとりあげよ」というものであり、「筋を通す」ことが重要だという意見と、それよりも「原水禁運動は広範な国民の参加する運動だから、その幅を大切にせよ」という意見の対立である。やや詳しくは、「理論的対立の検証(1)筋幅論争」参照のこと。 第5回原水爆禁止世界大会が開かれ、「平和の敵を明らかにせよ」、「原水禁運動は安保反対そのものをとりあげよ」という主張がでてきた、が、このときは「あらゆる党派と立場をこえた、原水爆禁止の一点で結集する人類の普遍的運動」という原則をつらぬきとおして、これらの提案をとりあげなかった。 |
7.22日、米国、戦場用地対地核ミサイル・ラクロス配備。
9.15日、ソビエト書記長フルチショフが自らアメリカにのり込み、9.25日、アイゼンハワー大統領とキャンプ・デービット会談を行ない、次いで国連総会で「4年間で軍備を全廃する」提案を行なった。ソ連の平和攻勢でにわかに緊張が緩和し、核兵器禁止も間近とまで思われたが、1960年のアメリカのスパイ飛行機U2機事件で局面は暗転してしまう。
| 【1960(昭和35)年】 |
| 【フランスも核実験に入る】 | |
| 2.13日、フランスが最初の原爆実験をアルジェリアのサハラ砂漠で実施。 |
5.5日、米国の偵察機U2、ソビエト上空で撃墜される。
| 【原水禁運動内が非和解的になる】 | |
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8・8日、東京で第6回原水爆禁止世界大会。この時、60年安保で穏健日和見主義戦術を取り批判を浴びた共産党が突如左翼性を気取り始め、宮顕綱領の「二つの敵論」、「反米・反帝論」をあらゆる分科会、分散会で全面展開し、「平和の敵を明らかにするよう」迫った。「このため原水爆問題や被爆者問題は無視され、さながら政党の綱領の宣伝の場となった観すら呈した」とある。原水禁運動の組織的危機は深まってゆくばかりとなった。 原水禁運動の発祥といえる署名運動は「特定の党派ではなく、あらゆる立場の人々を結ぶ全国民の運動」(杉並アピール)だったが、60年初頭のこの頃より次第に政党の主導権争いなどが表面化してくる。 |
| 【1961(昭和36)年】 |
2.24日、米国、ICBMアトラスEの発射に成功。
4月、ソ連がICBM・R-9(SS-8 Sasin)の飛行試験を行う。
5.5日、米国、弾道ロケットレッドストーンで、有人宇宙船「フリーダム」を打ち上げ(アラン・シェパード飛行士)。いわゆる「マーキュリー計画」。
| 【第7回原水爆禁止世界大会が大混乱】 | |
| 8.14日、第7回原水爆禁止世界大会が開かれた。この時共産党系諸団体が、「1・平和の敵・アメ帝打倒、2・中ソ軍事同盟は平和のための防衛条約、3・軍事基地・民族独立闘争を原水禁運動の中心にせよ」と主張し、「核戦争政策を進める勢力と決然と対立するべきときがきた」との宣言を採択、「今後、最初に核実験を行なった国・政府は平和の敵、人類の敵として糾弾する」と決議した。 これに対し、社会党やその他の団体は、「1・原水禁運動の敵は核実験、核政策そのものである。2・党派の政治的主張や、特定のイデオロギーをおしつけるな。3・一致できない活動は、各団体の独自行動で補強せよ」という意見を述べ、共産党方針と真っ向から対立した。 第7回原水爆禁止世界大会は波乱のうちに閉幕した。社会党、総評、日本青年団協議会、地婦連の4団体が執行部に対し不信任を声明した。こうした混乱は、当時の中央・地方を問わず原水禁運動内に広がった。戦後はまだ10年余しかたっていない時期で早くも、原水禁運動内が分裂し始めた。運動の民主的運営についての経験不足が原因であったにしても、左派運動の能力の露呈であったであろう。 |
9.15日、米国がネバダで核実験を再開。9.16、10.1、10.10、10.29、12.3、12.10、12.13、12.17、12.22日も。
10月、ソ連が50メガトン水爆実験を強行した。9.1、9.4、9.5、9.6、9.9、9.10、9.11、9.12、9.13、9.14、9.16、9.17、9.18、9.20、9.21、9.22、9.26、10.1、10.2、10.4、10.6、10.8、10.11、10.12、10.17、10.19、10.20、10.23、10.25、10.27、10.30、10..31、11.1、11.2、11.3、11.4日も。
11.24日、国連総会、核兵器使用禁止決議。
11.25日、米国、攻撃型原子力空母エンタープライズ就役。
| 【1962(昭和37)年】 |
| 【社共の代理抗争が露骨に持ち込まれる】 | |
| こうした運動内部の対立と混乱をなくし、運動を正常化するため、社会党・総評・日青協・地婦連の四団体が、原水協の体質改善を求める「四団体声明」を発表し「基本原則・運動方針・組織方針・機構改革」の四大改革を要求した。この改革案について中央、地方で6ケ月にわたる討議がかさねられて行った。 3月、全国理事会で、120対20という圧倒的多数で、次のような「原水禁運動」の基本原則を決定した。 「原水爆禁止運動は、原水爆の製造・貯蔵・実験・使用・拡散について、また核戦争準備に関する核武装・軍事基地・軍事研究その他各種の軍事行為について、いかなる場合もすべて否定の立場をとる。この立場にたつ原水爆禁止運動が現実にその目的を達成するためには、原水爆政策や核戦争準備について、たんに表面的な現象をとらえるにとどまらず、その根源を客観的に深く究明し、国民大衆とともにその真実を明らかにしなければならない」。 しかし日本共産党は、自らの代表が参加し、最高決議機関で圧倒的多数で決めたこの「基本原則」を「原水禁運動をしばりつけ、しめつけるもの」として否定し、無効を主張しつづけた。そのためこの「基本原則」も運動を正常化する土台にはならなくなってしまった。 こうした情勢のなかで原水禁第8回世界大会を迎えることになる。社会党系は、「1・いかなる国の核実験にも反対する。2・真実を究明し、核戦争の根源をとりのぞく」ことを基本とした「基調報告」を主な内容として開催することを参加団体のすべての合意のもとにとりきめた。 ところが日本共産党は、大会直前にいたり突如「基調報告」に反対し、「1・平和の敵・アメ帝の打倒、2・社会主義国の核実験は平和を守るためであり支持する、3・軍事基地反対、民族独立、安保反対闘争」を原水協の中心課題とせよ」と主張しはじめた。 社会党は「いかなる国の核兵器にも反対」と主張し、日本共産党はいわゆる社会主義国の原爆は「破邪の剣」であり、「米帝国主義こそ核戦争の根源であり、日本やアジアから追い出せ」だと主張した。いわゆる「いかなる問題」で、主導権争いが激化していった。かくて原水爆禁止日本協議会、ソビエトの核実験に肯定的な共産党系と、全面反対の社会党系が対立が決定的となった。 |
| 【原水禁運動が原水協と原水禁に分裂】 | ||
| 8.4日、第8回原水爆禁止世界大会本会議が東京で開幕。海外11ヵ国86人を含め約1万人が参加。 大会の最中の二日目8.5日にソビエトはまたも核実験を行なう。原水禁世界大会に日を合わせて水爆実験をやるという無神経ぶりであった。「1962年には、技術的な見地からは無用な核爆発の実験がなされることになったので、サハロフはこの計画の犯罪的な性質を悟って、阻止のために数週間にわたり必死の努力をした。実験の前日にはフルシチョフに電話をかけて実験とり止めを要請したがすでに爆弾搭載機は実験予定地に出発した後だった」(『みすず』)とある。だがこの間にもパグウオッシュ会議に結集した科学者たちは、“地上のいかなる地点で行なう核実験も技術的に探知できるから、速やかに核実験停止条約を締結せよ”と結論を下し、各国政府に働きかけを行なっていた。 これをめぐって抗議するか否かで大会は大混乱に陥った。社会党系代表と共産党系代表が再び昨年と同じ衝突を起したが、多数によって「抗議しない」ことになった。社会党・総評・日青協・地婦連など13団体が退場、大会は宣言・勧告を報告するにとどめ、一切決議しないまま流会することとなった。結局大会は混乱のままに終った。日本原水協の機能は完全にマヒするにいたった。 8・6日、社会党、総評など11団体が次のように声明した。
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| 【キューバ危機発生】 | ||
| アメリカとキューバの国交は断絶していたが、10.22日、ソ連がミサイル基地を建設しており、ソ連船がキューバむけミサイルを運んでいるのを発見したアメリカはこれを阻止するために、ケネディー大統領は「対キューバ海上封鎖」を宣言し、10.24日、米国はキューバの海上封鎖に踏み切った。こうしてキューバ危機が発生した。 ソ連はこれに抗議したが、ケネディ大統領はミサイル基地撤去を頑として主張し、それなしには核戦争も辞せずという、いわば「最後通牒」を発したのだった。キューバ危機は第二次大戦後の最大の危機であり、まさに全面核戦争寸前となった。世界各地ではこの行為に激しい抗議の声がまき起こった。バートランド・ラッセルはケネディ、フルチショフ、ウ・タント国連事務総長に電報をうち続け、核戦争勃発の危機性を訴えた。 米大統領ケネディーとソ連首相フルシチョフの数度に亘る協議の結果、10.28日、フルシチョフが「アメリカのキューバ不可侵を信頼して、攻撃用兵器を撤収する」と言明、「アメリカがキューバ侵略を行なわない」ということを条件にしてキューバのミサイルを撤去することになった。これにより封鎖が解かれ危機が回避されることになった。この時もしもフルチショフが強気にでれば直ちに核戦争になったであろう。 後日、ジョン・サマビルはこう書いている。
結局、フルチショフの妥協によって危機はからくも回避された。人類は死の淵に落ちることを逃れた。 |
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この年、水上経済同友会代表幹事「発電コストを下げるためにプルトニウムの軍事利用も辞せず」と発言。米国、原子力貨客船サバンナ号を就航。この年、核実験禁止を訴えたライナス・ポーリング、ノーベル平和賞受賞。
| 【1963(昭和38)年】 |
| 【「2.21声明」】 | |
| 2.21日、日本原水協が常任委員会を開き、社会党系と共産党系の間で運動統一へ向け妥協が成立。この担当常任理事会はそれまでの経過から、あらためて運動の性格と原則を確認することにし、慎重な討論の結果、満場一致で、1・いかなる国の原水爆にも反対し、原水爆の完全禁止をはかる。2・社会体制の異なる国家間の平和共存のもとで達成できる立場にたつ。3・多年の努力の成果をふまえ、国民大衆とともに真実をきわめる。ことを骨子とした「2.21声明」を決定、安井理事長が声明した。これと同時に実務的「協定事項」を確認した。 |
| 【「すべての国の核実験に反対」を廻って社共の対立が続く】 |
| 2.28日、3.1ビキニ集会に先だって日本原水協が静岡市で全国常任理事会を開き、「すべての国の核実験に反対」を3.1日のビキニ・デー宣言に入れるかどうか討議したが、社会党と共産党が再び対立。共産党系団体出身の常任理事が「2.21声明」のなかの「あらゆる国の核実験に反対する」部分に反対してゆずらず、「協定事項」についても異議を唱えたため会議がまとまらず、さらにスローガンについては「あらゆる国の核実験反対」を挿入せよという総評、社会党と共産党の意見が対立、ついに安井郁理事長も収拾不可能と判断、辞意を表明し、担当常任理事も全員辞任するにいたり、日本原水協としては、統一したビキニ集会を開催できなくなった。 この背景には次のような事情があった。日本原水協の担当常任理事には当然日共党員も入っており、最初はこの「2.21声明」に賛成していたが、この決定を日共本部に報告するや、党中央はこれを拒否した。この日共本部の決定により、大衆団体内部で決められたことがいとも簡単にくつがえされてしまった。つまり日本原水協という大衆団体の論理は常に日共の党派の論理に従属しなくてはならないという発想がそこにはみられる。これでは大衆団体の決定は重みをもたないことになる。団体内部の民主主義は否定されざるをえない。 |
| 【「3者申合せ」】 |
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原水禁運動の分裂は必至とみられたが、原水禁運動のもつ特殊な意義を高く評価する多くの人々の願望と、各地方原水協の運動統一の努力によって、第9回大会を前に、再び運動統一への機運が高まってきた。社、共、総評の「3者会談」が数回にわたって行われ、その結果、「2.21声明で原水協の活動を直ちに再開するために努力する」ことを骨子として「3者申合せ」を確認した。 |
4.26日、日本学術会議、原子力潜水艦寄港反対を声明。
6.20日、米国とソビエト、ホットライン設置で同意し調印。キューバ危機は、核保有国の権力者に危機意識を植えつけずにはおかなかった。米ソ両首脳は「核戦争を絶対に起こしてはならない、そのためには米ソが協調しなければならない」ことを認識し、米ソが偶発戦争防止をも保証する直通通信(ホットライン)協定(ホワイトハウスとクレムリンをホットラインで結び、米ソ両首脳が突発的な緊急事態が発生したときには、直ちに協議が行えるようにした)を締結することになり、やがて部分的核実験停止条約の締結を決意するにいたる(1963.8月調印)。以後、「K・K時代」(KennedyとKhrushchovの頭文字)と呼ばれる米ソ間の協調が進み、平和共存路線が定着した。
| 【原水爆禁止世界大会開催を廻る動き】 |
| 6.21日、「担当常任理事会」」を経て「第60回常任理事会」が開かれ、「3者申合せ」を骨子とした方針が提案され、全会一致でこれを決定、新しい担当常任理事を選出した。 ところが日本共産党は、6.21日のアカハタで「わが党はいかなる核実験にも反対することを認めた事実はない」(内野統一戦線部長談)を発表、さらに7.5日のアカハタには、「3者申合せ」を真っ向から否定する論文を掲載した。 こうした状況のなかで、運動の統一と「いかなる・・・」の原則問題をめぐって何回にもわたって調停の会合が開かれたが、日共はギリギリのところで態度を固執し、日本原水協が責任をもって第9回原水禁世界大会を開くことは困難になってきた。 安井理事長の「1・いかなる国の核兵器の製造、貯蔵、実験、使用、拡散にも反対し、核兵器の完全禁止をはかる。2・各国の核兵器政策や、核実験のもつ固有の意義について、国民大衆とともに明らかにする。3・各段階において、情勢に応じた具体的目標を定めて運動を進める」といういわゆる「安井提案」が出されたが、「いかなる……」に反対する共産党の主張が強硬のためまとまらなかった。 会談は大会直前になって、広島にもちこされたがここでも結論はでなかった。この間、共産党・民青はぞくぞくと代表動員をかけ、大会場で多数の力で「いかなる・・・」原則を否定しようとする戦術をとることが明らかになった。大会の責任ある運営はもはや望むべくもなかった。 原水禁運動の分裂は決定的となる。すなわち、「いかなる・・・」問題、部分核停条約の評価、大会の規模などをめぐる、社共の対立点の話し合いがつかぬまま、大会の準備、執行は広島原水協に白紙委任されたが、総評、社会党とこれと立場を同じくする13名の担当常任理事が辞意を表明し、社会党、総評は突如不参加を通告、別個に「原水禁運動を守る大会」を開くことになった。このため広島原水協も大会運営を日本原水協に返上、9回大会はふたたび日本原水協の手でひらかれることになった。 |
| 【「第9回原水爆禁止世界大会が社共対立の煽りを受け分裂する」】 | |
| 8.2−7日、広島市で第9回原水爆禁止世界大会が開かれたが、大会は「いかなる国の核実験にも反対」かどうかをめぐって紛糾した。党中央は、幹部会員松島治重を現地広島に送り込んで、中国支持の立場から指導を開始した。共産党が「アメリカの核は強盗の武器だが、社会主義国の核はその防衛の武器だ」との観点から「いかなる国の核実験にも反対に反対」している。 8.3日、日共が幹部会声明で、部分核停条約不支持を表明する。「核兵器全面禁止の旗を掲げ統一を守らなければならない」を発表。党として初めて中ソ論争に対する「中国寄り」の見解を表明した。「部分的核停条約の成立を平和への前進とみなす意見は、世界と日本の人民の認識を大きく誤らせるもの」、「我が国においては、『いかなる国の核実験にも反対する』という立場と、部分的核停条約を支持するという立場とは、同じ思想と同じ政治的立場に根ざしている。我々はこのような見解に断固反対する」と宣言していた。 国際会議で部核をめぐり中ソ激論となった。党中央が中共代表団を支持し、社会党.総評系はこれを認めず、途中で退場し脱退となった。かくて原水禁運動は分裂することになった。この分裂の責任を廻って、宮顕−不破系は今日なお詭弁を弄して居直り続けている。日本最大の平和運動を分裂に追いこんだのは明らかに日共の政治主義的な立ち回りであった。その結果、この原水禁運動の分裂は、党中央のその後の中国路線の強化と合わせて、日本母親大会や安保共闘会議にも重大な影響を与えていくことになった。 総評、社会党系代議員は欠席しており(当初からか途中からか不明)、事実上「共産党系」を中心とした分裂大会となり、「原水禁運動の基本原則」、「2.21声明」を内容とした「森滝議長報告」は無視され、この運動の歴史的成果として生まれた「部分的核停条約」も正しい評価をくだされなかった。全学連学生が慰霊碑前を占拠。こうして、日本原水協を中心とした日本の原水禁運動は第9回世界大会の分裂により、まったくその統一機能を失うにいたったのである。 |
| 【米国、英国、ソビエトの3ヶ国、部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印】 | |
| 8.5日(7.15日)、米国、英国、ソ連の3ヶ国、部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印(同年10.10日、発効)。 この条約の意義は、それまでの大気圏での核実験が「人類に悪影響をおよぼす」ことに留意して今後大気圏での実験を禁止するというところにあった。米英ソ3国がこれを結んだが、遅れて核を持とうとしていた中国は「超大国の核独占だ」と反発していくことになる。 ソ連のこの条約締結の評価を廻ってソ連共産党と日本共産党が対立していくことになる。ソ連共産党が条約賛成を各国共産党に要求して回り、党中央はこれに同意しない動きを見せた。このことから双方の激しい非難の応酬が展開されていくことになった。原水爆禁止運動もこれで紛糾していくことになる。 |
| 【社会党・総評系が広島市内で独自集会】 |
| 8・6日、社会党・総評系が広島市内で独自集会。7000人参加。この大会終了後、この大会に参加した団体、個人によって大会決議執行のための「大会実行委員会」がつくられ、これが発展して「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)が結成されていくことになる。
日本原水協内の社会党系と共産党系勢力は、ソ連の核実験をめぐり「いかなる国の核実験にも反対」とする社会党と「防衛的立場の社会主義国の核実験を帝国主義国の実験と同列に論じるのは誤り」とする共産党のあおりを受けて対立。以降、社会党系は独自集会を開くことになり、1965年には社会党・総評系が「原水爆禁止日本国民会議(原水禁)」を結成することになる。 |
| 【「部分的核実験停止条約」を廻る対立発生】 | |||
| 部分的核実験禁止条約(PTBT)調印前後、米ソ英の三国は核実験を停止していた。1958年にまずソ連が核実験の一方的停止を発表し、次いでアメリカ・イギリスがソ連に追随したことによる。な核実験の停止に至るまでには、アメリカのノーベル物理学賞受賞者のライナス・ポーリング博士を中心とするアメリカ、ヨーロッパの科学者と、米国務省との間の約2年間にわたる激しい論争があった。 ポーリング博士らは、これまでの大気圏核実験によって、多くの人たちがガンや白血病に患る恐れがあり、すぐにも核実験を停止すべきだと訴えていた。この論争は、ヨーロッパの科学者をまきこんで、米国務省との間に大きな論争となり、結局、米国務省は論争に完敗した。核実験による影響が無視できないという、国際的な世論を背景に1958年から停止されていた核実験を、1961.8月、ソ連が突如として再開すると発表した。 ソ連の核実験再開声明は、核実験全面禁止から、核兵器廃絶を実現しようと考えていた世界の人々の希望を打ち砕くものであり、また核実験による白血病などの危険を考えるならば、絶対に認められないことであった。しかもこの年の原水禁世界大会では「最初に核実験を開催する国は、人類の敵として糾弾されるであろう」というアピールが採択されていた。 この時、日本共産党の政治的セクト主義が、最も露骨に運動に持ち込まれた。日共は、ソ連の核実験を支持せよ方針を打ち出した。核実験に反対する運動から出発した「日本原水協」は、ソ連の核実験に反対の態度をとることができないという、まことに奇妙な、しかし深刻な混乱に陥った。日本共産党はアカハタの号外で、「例え死の灰の問題があろうとも、大の虫を生かすために、共産党員はソ連の核実験を支持するように」と主張した。 このような核実験による死の灰を無視する立場は、そもそも日本の原水禁運動とは、およそ無縁の運動なのである。(そしてこの大気中に拡散する、微量の死の灰の影響を無視してきた結果、日本原水協はその後、原発から漏れる放射能物質について語ることができず、反原発運動にも取り組めないことになる) 日共は、ソ連の核実験を支持し大々的なキャンペーンを展開した。アカハタは連日、ソ連の核実験の正しさの論証に努めた。そして、ソ連の核実験に反対する者を必死になって非難した。1961.9.9日アカハタ号外は次のように記している。
9.9日付けアカハタは、次のような野坂議長談を発表している。
ソ連の核実験再開は世界の平和を守るものだから、わが党は「この措置(ソ連の核実験)を断固支持する立場にたっていた。9.16日付けアカハタは、「われわれの態度は共産主義者がとるべき当然の態度である」と力説していた。日本原水協の会議は連日のようにソ連核実験をめぐる議論に明け暮れ、まともな運営もできず、運動機能は事実上マヒしてしまった。 共産党は、「いかなる国の核実験にも反対」という国民的な要求を軽視し、「2つの敵論」を教条的に押しつけることで、日本最大の平和運動を分裂に追いこんだ。その結果もたらされた大混乱のなかで、地婦連、日青協などが原水禁運動から離れ、また私たちも原水禁運動の再生をめざして、「いかなる国の原水爆にも反対する」立場にたった運動組織、原水禁国民会議を結成したのである。日本原水協はこの核実験に対し抗議声明を発したが「人類の敵」としての糾弾はしなかった。 この対立が「部分的核実験停止条約」の評価をめぐって表面化した。これに対して、遅れて核を持とうとしていた中国は「超大国の核独占だ」と反発した。 |
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9.30日、大阪で「日本の非核武装と完全軍縮のための関西平和集会」(扇町プール)が開催され、三万人が集まる。第9回原水禁世界大会の分裂によって、原水禁運動の相入れない路線は明確となったが、このような状況のなかで原水禁運動を再建しようとする動きはまず関西からはじまった。大阪軍縮協をはじめとする関西各県の原水禁の共催で漕ぎ着けたものであった。この集会は国際的な支持もあり、バートランド・ラッセル、バナールなどからもメッセージがよせられた。広島県原水協からも代表が参加し、約3万名を結集する大衆集会となった。
10.26日、日本原子力研究所の動力試験炉JPDR発発電(原子力の日)。
11月、米国国家安全保障会議、「ソ連との戦争における管理と終結」を作成。
11月、ケネディが暗殺された。
| 【1964(昭和39)年】 |
| 【総評、社会党系が独自集会】 |
| 第9回大会に参加しなかった総評・社会党など13団体は、「原水禁運動を守る連絡会議(原水連)」をつくって独自の活動を計画、日本原水協は残存した担当理事だけで運営をはかる結果となり、この年の「3.1ビキニ集会」で分裂を決定的なものとした。 |
3.27日、「原水爆被災三県連絡会議」が発足。広島、長崎、静岡の三県の原水協事務局長会議で決まる。「いかなる国のどんな核実験にも反対する」が基調。これが母体となって1965.2.1日、原水爆禁止日本国民会議が誕生していくことになる。
すなわちその内容は第一に、国民運動としての原水禁運動の基本を堅持し、その当然の前提たる「いかなる国の核兵器にも反対する」ことを出発点とする立場にたって、部分核停条約を正当に評価し、これを第一歩として全面核停条約の締結を要求しつづけ、もって核兵器を含む軍備全廃、平和共存の達成に努力する。第二に、運動の政党系列化の弊害を排除し、国民の願望と感情に密着した運動を展開する。第3に、国民と密着した運動を展開するために地域原水禁組織の強化について格段の努力を払い、広範な国民の誰もが参加できるようなキメ細かな配慮をする。第四に、米原子力潜水艦の寄港反対、F105D配備反対など、当面の諸課題に対しては、それが原水禁運動にとって不可避的な問題であることを明らかにしつつ行動に取り組む、 というものであった。この呼びかけは国内だけでなく、海外からも多くの共鳴をえた。
5.13日、日共は、「部分核停条約」に反対を公表した。
| 【衆議院本会議で「部分核停条約」採決で、社会党賛成、日共反対、日共の志賀派が造反】 |
| 5.15日、衆議院本会議に「部分核停条約」が上程され、採決されることになった。社会党は賛成し、共産党は反対の立場に立った。ところが、こうした党の方針に基づき4議員が反対票を投じたが、志賀が党の決定に背いて賛成票(白票)を投じた。投票総数319のうち反対派共産党の4票だけだったので、志賀の行動が明らかとなり衝撃を走らせた(志賀問題)。この時ソ連のミコヤン第一副首相が傍聴していた。 本会議解散後、志賀は、報道陣を前に「みなさんに訴える」の声明文を配り、記者会見した。部分核停条約に対する態度は、「地下核実験を除外しているなどの点でまだ不十分なものだが、大気圏内外と水中の核実験を禁止しており、従って少なくとも核実験による放射能汚染によるこれ以上の被害をくいとめ、また際限のない核兵器開発競争を抑制する点で日本と世界の全ての人民の利害にかなっている」としていた。 5.15日夜、党本部に中委幹部会員.中央書記局員.中央統制監査委員.国会議員団を含む緊急幹部会が開かれた。志賀の出席を求めて、査問が始まった。袴田がいきりたった。16日再度の緊急幹部会が開かれ、志賀の欠席のまま、党所属国会議員としての権利を停止する処分を発表した。同時に「志賀義雄同志の党に反対する行動について」を決定し、17日あかはた紙面に発表した。 ソ連モスクワ放送.プラウダは志賀を支持。中共 北京放送は反志賀を声明した。中国で療養中の宮顕は、志賀問題の知らせを聞くや、予定 を切り上げ早早に帰国の途についた。この間参議院議員鈴木市蔵も反党の動きを示した。志賀、鈴木市蔵(参議院議員)、中野重治(作家)、佐多稲子(作家)らは「日本のこえ」を結成した。志賀は部落解放運動とのつながりが強く、解放同盟の中からも志賀と行動を共にする人たちがいたことから、日共は攻撃の矛先を解放同盟にも向けるようになる。 |
7.14日、共産党系の広島県被団協が大会。県被団協が分裂。
7.17日、英国、米国のネヴァダで地下核実験実施。9.25日も。
| 【中国が核実験行う】 |
| 10.16日、中華人民共和国(中国)が核兵器生産に乗り出し、IRBM東風2の発射実験を行う。これにより、米ソ英仏+中国が核保有国となった。フランス、インドがこれに続く。 |
| 【日共の岩間参議院の参議院予算委員会での発言】 | |
10.30日、日共参議院議員・岩間正男が参議院予算委員会で次のような発言している。
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| 1965(昭和40)年 |
| 【原水爆禁止日本国民会議が結成される】 | |||||||||||
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2.1日、社会党・総評などが東京・電通会館で「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)の結成大会が開かれた。総評、中立労連、社青同、日本婦人会議など13団体と地方代表4000人が参加。代表委員には太田薫・総評議長、森滝市郎氏、浜井広島市長ら6氏。事務局長に伊藤満広島大教授が選出された。
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| 【ベトナム戦争で米軍機による北爆が開始】 | ||
| 2・7日、 ベトナム戦争で米軍機によるべトナム北爆開始。アメリカのベトナム北爆が開始された1965年以降、世界の反戦平和運動の焦点はここに集中され、アメリカのベトナム侵略を阻止することが緊急な課題となった。しかしこの間も世界各国の核開発競争は継続しており、フランスも「独自の核抑止戦略」をつくるというドゴーリズムによって核ミサイルの開発を急いできた。核兵器とともに核エネルギーの「平和利用」が無視できない環境破壊の要素として登場してきた。「核の時代」はいよいよ人類全体を飲み尽くそうとしていたのであった。 次のように記されている。
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2.14日、米国がネヴァダで核実験実施。
11月、ソ連が赤の広場の軍事パレードで、道路移動型ICBM・SS-X-15 Scroogeを披露する。ただし配備されず。
| 1966(昭和41)年 |
4.25日、米国、ミニットマンU中隊発足。1基1.2Mt。
6.18日、国労原爆被爆者対策協議会が発足。
| 【第12回原水禁世界大会】 |
| 7月末、第12回原水禁世界大会が東京で開催された。この時、中国代表団が日本政府から入国を拒否され、周恩来首相のメッセージのみとなった。ところが大会途中でソ連代表が大会参加を申し込み、これを原水協が承認したことにより、中共の意向を汲んだ外国代表が激しく反発し、この参加問題で二日間激論が交わされ、マレーシア・オーストラリアなど15カ国代表が「分裂主義者の参加を認めない」として退場した。 中国は、この退場グループを北京に召集する一方、日本原水協を「ソ連修正主義と結託し、誤まった路線を押し付けた」と強く非難した。当然のように、赤旗紙上で中国側非難が為された。大衆団体を舞台にした日中共産党間の代理戦争であり、やがて本格的な両党間の対立・抗争に発展していくことになった。 |
10月、フルシチョフが解任された。K・K時代は長くは続かなかった。
| 【1967(昭和42)年】 |
6.17日、中国が初の水爆実験。
12月、佐藤栄作首相、衆議院予算委員会で非核三原則を初めて表明。「核は保有しない、核は製造しない、核は持ち込まない」の三原則。
| 【1968(昭和43)年】 |
5.6日、米原子力潜水艦ソードフィッシュ、佐世保港で異常放射能事件発生。
| 【1969(昭和44)年】 |
11月〜12月にかけてヘルシンキでSALT予備会談が行われる。
| 【1970(昭和45)年】 |
8.3日、米原潜ジェームズ・マディソンからSLBMポセイドンC−3の発射実験を行う。
12.29日、米国、ミニットマンV中隊発足。
| 【1971(昭和46)年】 |
4.24日、米国で大規模な反戦デモが行われる。参加20万人。
ミクロネシアから原水禁世界大会に参加したアタジ・バロス議員(1971年の被爆26周年大会)は、「ビキニの核実験の被害者を是非調査してほしい」と要請してきた。原水禁はこれに応えることを決め、71年末調査団をミクロネシアに派遣した。アメリカの妨害で被爆地であるロンゲラップやウトリック島には行けなかったが、マジェロ島で多くの被爆者に会うことができた。
約243名が「死の灰」をあび被爆したが、41名はすでに死んでいた。ロンゲラップやウトリック島が放射線被ばくの最もひどかったところであるが、これらの人々は米原子力委(AEC)のモルモットとして利用され、まともな治療はうけていなかった。被爆者たちはビキニ事件の「死の灰」をあび、その直後ほとんど全員が急性の放射線障害症状を呈したという。広島、長崎と同じように、下痢・頭痛・脱毛そして白血球の減少を体験した。
この原水禁の調査は英文となって各国の平和運動に送られて、各地の核実験反対運動の資料となっている。これら一連の活動を通して、「原水禁」はアジア太平洋一帯の連帯を追求することになった。環太平洋の国際連帯を指向し、1975年4月には、フィージーで「太平洋非核化会議」が開かれた。原水禁もこの会議の成功に大きく貢献したのである。
原水禁運動は感情的に「核兵器反対」というだけではない。核の恐ろしさ放射線障害のひどさを理論的にも明らかにし実証的にもはっきりさせて、人々を説得してゆかなくてはならない。それがどんなに困難でもやり遂げなくてはいけないだろう。科学者や専門家と協力し、自らも学習して「核」に関する知識と理論を蓄積してゆかなくてはならないのである。
| 【1972(昭和47)年】 |
この続きは、「原水禁運動の歩み(2)」に記す。
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(私論.私見)