原水禁運動の歩み

 (最新見直し2007.7.23日)

 参照サイト、「核・原子力関連年表」その他(目下、整理推敲中です)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 地球規模の大殺戮戦争となった第二次世界大戦は、日本のみならず世界に平和の尊さを教訓とさせた。日本の戦後の反戦平和運動は、大東亜戦争に敗戦し、明治以来の軍国の歩みを反省したところに立脚している。但し、運動的には、そういう反戦平和運動と、1945(昭和20).8.6日の広島、8.9日ノ長崎への原子爆弾被災を起点とする「二度と原爆許すまじ」、「ノーモア広島・長崎」の反核運動の二側面が合体して担われてきた。とりわけ毎年夏に訪れる慰霊祭は、原爆被害の実態と悲惨な光景を蘇らせ、日本国民に非戦・不戦の誓いを新たにさせていくことになった。

 
原水禁運動の歩み」は、次のように記している。
 概要「戦後、「人類はこれまでに体験したことのないまったく新しい時代としての『核の時代』に入った。原爆の破壊力と放射性物質汚染の恐怖が、世界の政治も大きく変えた。核兵器の破壊力は戦闘員と非戦闘員を区別しないし、人類絶滅の危機さえ予兆させることになった。このために逆に核戦争を阻止しようという働きは、体制の違いや各国での反政府運動の枠を越え、科学者や技術者の中からも発生してくることになった。つまり、イデオロギーの相違や政治的信念の違いといったものをこえた超党派的人類的な反原爆の運動が発生する基盤ができたのであった。この点こそ、これまでの平和運動と原水爆禁止運動の根本的違いであり、核兵器反対という一点で人類が結びつけられ、連帯する条件が生まれたことを意味するものであった」。

 ところで、そうした反核運動をよそに米ソ超大国及びイギリス、フランス、中国が核開発を競い合う時代でもあったというのが史実のような気がする。こうした核実験との絡みでの平和運動の歩みを追跡して見たい。この場合、日本の平和運動が如何に生まれ、育まれ、如何に潰され、今日なお低迷を余儀なくされているのか、それは如何に宮顕―不破系日共の変調指導の賜物なのかを明らかにする道でもある。こういう論の立て方なしに原水禁運動を語るものが有るとすれば、あまりにも臭いものに蓋式の穏和なものでしかなかろう。

 2003.10.15日再編集 れんだいこ拝

【加藤教授様、サイト紹介有難うございます】
 「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」の「金正日の核実験は、北朝鮮自滅への一里塚?日中朝露民衆を敵にして、ブッシュと安倍内閣を助ける?」の中で、次のように紹介受けました。これを転載させていただきます。
 2006.10.15  金正日の北朝鮮は、10月9日、ついに核実験に踏み切りました。かつてのカンボジア・ポルポト政権以上に悪しき世襲共産主義独裁の末路であり、国内的にも国際的にも糾弾さるべき最悪の事態です。ちょうど43年前のこの季節、かつて1964年10月16日に中国が初の地下核実験に踏み切ったとき、日本の平和運動の一部には、これを「社会主義の防衛的核」と称して、批判しない動きがありました。

 今日れんだいこさんが克明に記録に残しているように、キューバ危機を生み出した米ソの核軍拡競争のさなかに、部分的核実験禁止条約の評価をめぐって、日本原水協の内部で、社会党・総評系の「いかなる核実験にも反対」と、中ソ論争の中で中国に与し「防衛的立場の社会主義国の核実験を帝国主義国の実験と同列に論じるのは誤り」と主張する共産党系が対立し、1963年に、世界に先駆けた原水爆禁止運動は分裂しました。

 そして、それまで核実験全面禁止と核廃絶を唱えていた中国が、1964年10月16日に自ら核実験に踏み切ると、10月31日の衆議院予算委員会で、共産党の岩間正男参議院議員は「このたびの核実験によって少なくとも次のような大きな変化が起こっております。……世界の四分の一の人口を持つ社会主義中国が核保有国になったことは、世界平和のために大きな力となっている。元来、社会主義国の核保有は帝国主義国のそれとは根本的にその性格を異にし、常に戦争に対する平和の力として大きく作用しているのであります。その結果、帝国主義者の核独占の野望は大きく打ち破られた」と。こういう主張が被爆者運動にまで持ち込まれ、分裂は日本被団協にまで及び、今日まで続く日本の平和運動の取り返しのつかない汚点となりました。『アジア冷戦史』(中公新書)、『モスクワと金日成』(岩波書店)など最近の下斗米伸夫さんの一連の研究によれば、毛沢東の中華人民共和国建国、金日成の朝鮮戦争開戦の時期から、アジアの社会主義国とソ連の間の隠れた一大亀裂点が、ソ連の「社会主義の核」独占への毛沢東の反発だったとのことです

(私論.私見)

 加藤教授による「れんだいこサイト紹介」は光栄です。これを機にますますサイト充実させていこうと思います。今後ともよろしくお願い申し上げます。

 2006.10.23日 れんだいこ拝



【1945(昭和20)年】

(私論.私見) この年、人類最初の核兵器が登場し、日本の広島、長崎に投下され市民が大量殺戮された。


【米国が核実験成功】
 7月、米国が世界初の核実験。

【核兵器の開発と広島、長崎への投下】
 8月、米国が、広島、長崎に原爆投下。

【1946(昭和21)年】
(私論.私見) この年、米国がビキニ環礁(ミクロネシア)で原爆実験シリーズを開始し、ソ連も追いつけとばかりに研究開発に入る。

【国連の第1号決議で、「原子力委員会の設置、原子兵器廃絶」を採択】
 1.24日、国連第一回総会の第1号決議で、「原子力委員会の設置、原子兵器廃絶」を採択。以降、原子力の国債管理に関する検討が為されていくことになる。

米国がビキニ環礁で原爆実験シリーズを開始
 7.1日(6.30日)米国がビキニ環礁(ミクロネシア)で原爆実験シリーズを開始している。これに対して、7月、ニューヨークのタイムズスクエアで、核実験に反対するデモが行われている。

【アインシュタインの反核運動】
 9月、アインシュタインが国連総会に公開状を提出、原子兵器不使用を主張する。

【ソ連が原子炉1号機を稼働】
 12.25日、ソビエトの原子炉1号機を稼働。翌6月、ソ連がプルトニウム生産原子炉を完成させる。この年、オッペンハイマーが原子力委員会一般諮問委員会委員長に就任している。

【1947(昭和22)年】
(私論.私見) この年、トルーマン・ドクトリンが発表され、冷戦時代に突入する。

 3.12日、米国が、トルーマン・ドクトリンを発表される。
【広島・長崎への原爆使用是認論現れる】
 9.18日、米空軍が米陸軍から正式独立。この年、スチムソン陸軍長官が、「原爆使用が対日地上戦での100万人の死者を救った」と発言。これが原爆使用正当化の定説となった。この年、オッペンハイマーが「自分の手は血で汚れている」と発言している。

【1948(昭和23)年】
(私論.私見) この年、米国がエニウェトク環礁で核実験を実施する。

米国がエニウェトク環礁で原爆実験シリーズを開始
 4.14日、米国がエニウェトク環礁のEngebi島、Aomon島、Runit島で核実験を実施。

【「平和のために社会科学者はかく訴える」声明】
 ユネスコ(国連教育科学文化機関)が主催して8人の社会科学者によって起草された「平和のために社会科学者はかく訴える」声明。

 ソ連の科学者サハロフとギンスブルクが新型水爆を考案。


【1949(昭和24)年】
(私論.私見) この年、ソ連が核実験を開始し、米ソが核保有することになった。

 4.4日、NATO発足。
【第1回世界平和擁護大会が開催され、原子兵器禁止を要求】

 4.20日、パリとプラハで、第1回世界平和擁護大会が開催され、原子兵器禁止を要求。


【ソ連の核実験が開始される】
 8.29日、ソ連がセミパラチンスクで、最初の核実験 実施。9.25日、ソ連が2年前から原爆を保有と発表。

 9.25日、広島に原爆資料陳列室設置。
 10.1日、中華人民共和国成立。
【「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」発表される】
 10.2日、平和擁護広島大会、原子爆弾の廃棄を要求。日本における最初の「反核・軍縮」に関する問題提起が為される。前年の「平和のために社会科学者はかく訴える」声明に呼応したものであった。安部能成、仁科芳雄、大内兵衛の主唱による50余名の科学者がまとめた「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」を発布した。

【1950(昭和25)年】
(私論.私見) この年、世界平和擁護者大会常任委員会が「ストックホルム・アピール」を発表し、非核兵器運動が大きく前進した。他方、朝鮮動乱が勃発し、世界はきな臭くなった。米国は、ネヴァダで地上核実験を開始した。

「ストックホルム・アピール」発表される
 3.19日、世界平和擁護大会開催。3.25日、世界平和擁護者大会常任委員会が「ストックホルム・アピール」を発表。「ストックホルム・アピール」は、原子力兵器の製造ならびに使用の無条件禁止を宣言し、署名活動を呼びかけた。5億人の署名を得た。

【日本で原水爆禁止の署名運動が始まる】
 5月、「ストックホルム・アピール」に呼応して日本で原水爆禁止の署名運動が始まった。これが国民的平和運動を作り出していく契機となった。原子力兵器は戦争の現代的象徴であり、その無条件禁止が平和運動の理念となり得ていた。当時まだ米国の占領、朝鮮戦争という状況のもとで645万もの署名が集められた。この運動は、「原水爆禁止署名運動全国協議会」の組織化に発展し、原水爆禁止世界大会の開催へとつながった。日本の反戦平和運動は、憲法擁護闘争、基地反対闘争、反核平和運動への取り組みで始また。

朝鮮戦争勃発
 6.25日、朝鮮戦争勃発。 9.15日、米軍主体の国連軍、仁川に上陸。10.25日、中華人民共和国、朝鮮戦争に参戦。鴨緑江を一斉渡河。

 11.30日、トルーマン米大統領、朝鮮に原爆投下も考慮中と声明。12.3日、韓国国防長官、国連に対し、原爆使用を要請。 12.4日、英国、朝鮮での原爆使用に反対。 

米国がネヴァダで地上での核実験を開始
 この年、米国がネヴァダで地上での核実験を開始した。

【1951(昭和26)年】
(私論.私見) この年、米国が、ネヴァダとエニウェトク環礁で核実験を実施した。日本はサンフランシスコ講和条約で独立を果たすと同時に、日米安保条約を締結し、米国陣営の仲間入りした。米ソの核実験競演が続いた。

 1.27日より米国がネヴァダで核実験実施する。


 3.24日、マーシャル米国防長官が朝鮮へ核兵器を輸送すると言明。


 4.7日、米国が、エニウェトク環礁Runit島でも核実験の実施に入る。ネバダと並行して行われた。
【日本が国際的に独立し、日米軍事同盟下に入る】
 9.8日、サンフランシスコ講和条約、日米安保条約が結ばれた。これにより日本は国家主権として独立が認められ、同時に米ソ冷戦下において米国ブロック側の同盟下に入ることを内外に明らかにした。

【ソ連が核実験を開始し、米国も続行する】
 10.10日、米国、MSA(相互安全保障法)成立。10.18日、ソ連がセミパラチンスクの上空で核実験を実施。米国がネヴァダで10.22、10.28、10.30、11.1、11.5、11.19と核実験。12.29日、米国が、実験炉で、原子力発電に成功。

【1952(昭和27)年】
(私論.私見) この年、米ソに続いて英国の核実験が開始され、米ソ英の三国が核保有国となった。米国は、水爆実験に成功し、核先進国を見せつけた。

 2.26日、NATOが軍欧州軍を創設。
 2月、オッペンハイマーら、原子力委員会に戦術核の改良、戦略空軍の否定を示したヴィスタ報告を提出。

 米国がネバダで4.1日、4.15、4.22、5.1、5.7、5.25、6.1、6.5と連続して核実験。

 8.6日、広島で原爆犠牲者慰霊碑序幕式。
 10.3日、英国が最初の核爆発実験 をオーストラリアのモンテベロー諸島Trimouille島で実施。

 10.31日、米国、エニウェトク環礁のElugelab島で、最初の水爆実験を実施。高度12万フィートまで巨大なキノコ雲があがった。11.15日も。
【1953(昭和28)年】
(私論.私見) この年、米ソ英の三国が核実験を競う年となった。

 3.15日、ソ連が核搭載IRBMの発射実験を開始。


 3.17日、米国がネヴァダで、核実験実施。3.24、3.31、4.6、4.11、4.18、4.25、5.8、5.19、5.25、6.4も。8.12日、ソ連がセミパラチンスクで、初の水爆実験実施。8.23、9.3、9.8、9.10日も。
 10.14日、英国、南オーストラリアのEmu Fieldで核実験 。10.26日も。
 11月、ソ連がICBMの開発を開始。
 12月、アイゼンハワー米大統領「原子力の平和利用」を演説。
【1954(昭和29)年】
(私論.私見) この年、米国がビキニで水爆実験シリーズを開始した。この時、日本のマグロ漁船第五福竜丸が放射能被災し、久保山愛吉さんの症状が特に重く同年9.23日、手当の甲斐なく死亡する。「死の灰の恐怖」は日本の反戦平和運動の火をつけ、「水爆禁止署名運動杉並協議会」の「杉並アピール」を生み、各地で署名運動が始まった。しかし、この間、防衛庁・自衛隊が発足し、日本の再武装化が始まった。ソ連の核実験も続いた。

米国がビキニで水爆実験シリーズを開始。「第五福竜丸事件」発生とその影響】
 3.1日、米国のビキニでの水爆実験で、静岡県焼津港のマグロ漁船第五福竜丸が放射能被災した。20メガトン水爆の実験によって発生した「死の灰」は100キロメートル離れた公海上で操業していた静岡県・焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」にふりかかり、23名の乗組員がこれをあび、火傷・下痢・目まい・はき気などの急性放射線症にかかった。そのうちの一人、久保山愛吉さんは同年9.23日、手当の甲斐なく亡くなることになる。

 「死の灰の恐怖」はそればかりではない。「第五福竜丸」の獲ってきたマグロから強い放射能が検出されたため、同海域で獲れた他の漁船の魚類も検査した結果、内蔵に放射能をもつものが発見された。焼津港・三崎港・東京や大阪の漁市場ではマグロの廃棄処分がつづけられ、魚屋や寿司屋は客が減って「マグロ恐慌状態」が生じた。東京の中央卸売市場ではコレラ流行以来はじめてセリを中止するにいたった。また、気流にのった「死の灰」は雨にまじって日本全土に降り注がれ、イチゴ、野菜、茶、ミルクのなかにまで放射能が発見されはじめた。こうしていまやアメリカの水爆実験は遠い彼方の問題ではなく、身近な日常生活に直結していることを明らかにし、日本国民全体に大きなショックを与えるにいたった。

 「死の灰」の恐怖は、人々にあらためてて「ヒロシマ」、「ナガサキ」の原爆被爆の惨禍を思いおこさせる契機となった。アメリカの占領下にあって秘められていた国民一人ひとりの「戦争はいやだ」、「ピカドンはゴメンだ」という厭戦・反原爆感情を一挙に爆発させた。こうして、日本の原水爆禁止運動は、1954.3.1日、南太平洋ビキニ環礁で行なわれたアメリカの水爆実験の直接の契機としてまき起こることになった。

 米国は続いて3.26日、4.6日、4.25日、5.4日、5.13日にもビキニ環礁で水爆実験を実施。

 4.12日 オッペンハイマー、水爆機密保持に疑惑を受け査問にかけられ、水爆開発非協力者として公職を解かれる。
 4.23日、日本学術会議、原子力平和利用三原則声明。この年、日本、原子核研究所設立準備委員会発足。
【「杉並アピール」とその影響】
 5.9日、東京都杉並区の婦人団体、読書サークル、PTA、労組の代表39名が杉並公民館で「水爆禁止署名運動杉並協議会」(公民館長兼図書館長の安井郁・法政大教授が議長に就任)を結成。「全日本国民の署名運動で水爆禁止を全世界に訴えましょう」の杉並アピール発表、署名活動に入った。

 杉並アピールの「実験だけでもこのようなありさまですから、原子戦争が起った場合のおそろしさはあまりあります」という呼びかけは、当時の人々の心を掴んだ。その基本的思想は、私生活擁護のための反戦平和というところにあった。その出発点から見れば、原子力兵器さえ禁止されればよいというような唯武器論的な運動ではなかった。

 
この動きが全国に広がり、運動は焼原の火のように全国津々浦々の町、村、職場に燃えひろがり、あらゆる市町村議会で「核実験反対」「核兵器禁止」が決議された。各地域や職場で自然発生的にはじめられた署名を全国的に集約するセンターとして「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、12月には署名も2000万名を突破した。この署名は1955.8.15日までに日本で3238万人分、世界で6億7000万人分に達した。

 7.1日、防衛庁・自衛隊が発足。
 8.8日、東京で原水爆禁止署名運動全国協議会結成大会。代表世話人に湯川秀樹京大教授、片山哲・元首相。寄せられた署名は449万人。
 9.23日、第五福竜丸の無線長久保山愛吉さんが国立東京第一病院で死去。40歳。死因、放射能症。米原子力関係者は死因に疑問と発表。 
ソ連が核実験シリーズを開始
 ソ連が9.14日、Totsk上空で核実験を実施。9.29日、10.1日、10.3日、10.8日、10.19日、10.23日、10.26日も。10.30セミパラチンスク上空で、核実験を実施。

【1955(昭和30)年】
(私論.私見) この年、世界の反戦平和運動が高まり、日本でも被災地広島で、(第1回原水爆禁止世界大会が開催された。続いて原水協が結成され、反核運動の母体となった。しかし、米ソの核実験競演が続いた。日本でも原子力基本法などの原子力三法が成立し、東京大学原子核研究所設立されるなど、平和利用と云う名目での核開発に着手することになった。  

【反核平和運動が世界的に活発化する】
 新しい核軍拡競争の展開は、心ある人びとを核実験禁止、核兵器禁止へとかりたてずにはおかなかった。1.19日、原子戦争の準備に反対するウィーン・アピールが発表された。

 1月、「署名運動全国協議会」の全国大会が開かれ、「8.6日に広島で世界大会を開く」ことを決め、5月にはこのための「日本準備会」が結成された。そして広島大会の目的と性格を、(1)・過去1年間の署名運動を総括し、世界の運動と交流して今後の方向を明らかにする。(2)・あらゆる党派と思想的イデオロギー的立場や社会体制の相違をこえて、原水爆禁止の一点で結集する人類の普遍的集会、と規定した。
 米国が2.18日よりネバダ上空で核実験を開始。2.22日、3.1日、3.7日、3.12日、3.22日、3.29日、4.6日、4.9日、4.15日、5.5日、5.15日と続く。5.14日サンディエゴ沖の太平洋で、水中核実験 WIGWAM 実施。

 7.2日、原水爆禁止広島県民運動連絡本部が発足。


 7.9日、世界の11人の学者がロンドンでラッセル・アインシュタイン宣言を発表。核兵器の全面禁止を訴える。


 7.29日、ソ連がセミパラチンスクで、核実験を実施。8.2日、8.5日にも。
【「第一回原水爆禁止世界大会」開催】
 8.6日、広島市公会堂で初めての原水爆禁止世界大会が開かれた(第1回原水爆禁止世界大会)。3000万署名と、1000万円募金を土台に、全国各地域、職場の代表500名と、海外代表35人を含む約2000人が参加。浜井広島市長があいさつ。鳩山首相祝辞。この大会では、原水爆被害者の救済運動を呼び掛ける大会宣言が発表された。B・ラッセル、シュバイツアー、J・P・サルトルなど著名な人々も全面的にこの大会を支持し、参加した被爆者が「生きていてよかった」と涙を流す光景さえみられた。

 8.8日、ジュネーブで、国連主催第1回原子力平和利用国際会議。


【原水協発足】
 9.19日、原水爆禁止署名運動全国協議会と原水爆禁止世界大会日本準備会が発展的に合同し、「原水爆禁止日本協議会」(原水協)が発足した。活動方針に被爆者救援国民運動(一人一円カンパ)、国家補償要求の署名運動を開始した。

【米ソが核実験競演】
 9.21日、ソ連がノバヤゼムリヤで水中核実験を実施。ノバヤゼムリヤ島では初の実験となる。11.1日、米国が、ネヴァダで核実験実施。11.3日、11.5日にも。11.6日、ソ連がセミパラチンスク上空で、核実験を実施。11.22日も。最初の完全な水爆実験実施。空中より投下。開発主導者はアンドレイ・サハロフ。

 12.19日、日本が原子力基本法などの原子力三法を成立。この年、東京大学原子核研究所設立。
【1956(昭和31)年】
(私論.私見) この年、日本主体の原水爆禁止世界大会が開会され、原水爆実験禁止協定を米英ソ三国に要求する。米ソ英の三カ国が核実験競演する。英国で世界初の商用原子炉が稼働している。

 1.18日、米国がネヴァダで核実験。

 2.2日、ソ連がカザフスタンのAralskで核実験を実施。3.16も。3.25日、セミパラチンスクで核実験を実施。


【ソ連共産党大会でフルシチョフがスターリン批判、平和共存路線を打ち出す】
 2月、ソ連共産党大会でフルシチョフがスターリン批判をおこない、資本主義諸国との平和共存、社会主義への平和移行などの方針を打ち出した。これに対して、中国は「修正主義」だと批判していくことになり、中ソ対立が発生する。中ソ対立は我が国の平和運動に影を落としていくことになる

【日本主体の原水爆禁止世界大会が開会され、原水爆実験禁止協定を米英ソ三国に要求する】
 4.3日、世界平和アピール7人委員会、原水爆実験禁止について米英ソに勧告。5.27日、広島県被団協の結成総会。

 8・9日、第2回原水爆禁止世界大会が長崎市で開会。原水爆実験禁止協定を米英ソ三国に要求するなど11項目を決議。8.10日、長崎で、被爆者団体の全国組織である「日本原爆被害者団体協議会」 (日本被団協)が結成される。

 5.4日、米国、エニウェトク環礁のRunit島で、核実験。5.27、5.30、6.6、6.11、6.13、6.16、6.21、7.2、7.8、7.21日も。


 5.16日、英国、モンテベロー諸島のTrimouille島で核実験実施。6.19日、モンテベロー諸島のアルファ島で、核実験実施。
 5.20日、米国、ビキニ環礁Namu島上空で、水爆実験実施。ビキニ環礁Eninman島で5.27、6.11、7.10、7.21日も。
 5.23日、英国で、世界初の商用原子炉稼働。
 8.24日、ソ連がセミパラチンスクで、核実験を実施。8.30、9.2、9.10、11.17、12.14日も。
 9.27日、英国、南オーストラリアのマラリンガで、核実験実施。10.4、10.11、10.22日も。
【1957(昭和32)年】
(私論.私見) この年も米ソ英の三カ国の核実験競演が続き、軍拡競争はさらに新しい段階に入る。イギリスが太平洋上のクスマス島で核実験を行ない、新しい核軍拡を開始した。この年の10月にはソ連がスプートニク(ICBMの完成を示す)を打ちあげ、核兵器の運搬手段の開発競争による新しい軍拡競争の時代が訪れる。いまや軍拡競争は「核・ミサイル」競争の段階に入った。ICBMは約30分で地球の裏側に達するから、人類の大半が死滅し地球全域が破壊されるような戦争がわずか30分間で終了する状態となった。このことは戦争の性格・概念を根本的に変えたことを意味する。他方で、世界的反核運動の動きも強まった。

【ソ連の動き】
 1.19日、ロシアAstrakhan地方のミサイル基地上空で核実験を実施。3.8日、セミパラチンスク上空で核実験を実施。4.3、4.6、4.10、4.12、4.16、8.22、8.26、9.13、9.24、10.6、10.9、10.10日、12.28日も。この間9.7日、ノバヤゼムリヤで核実験を実施。同地での地上爆発試験はこれのみ。

【米国の動き】
 2.16日、ネヴァダで核実験 実施。5.28、6.2、6.5、6.18、6.24、7.1、7.5、7.15、7.19、7.24、7.25、7.26、8.7、8.10、8.18、8.23、8.27.8.30、8.31、9.2、9.6、9.8、9.14、9.19、9 .23、9.28、10.7、12.6、12.9日も。

 4.1日、原子爆弾被害者の医療などに関する法律(「原爆医療法」)施行。
 4.12日、ゲッチンゲン宣言。西ドイツ(当時)の著名科学者18名が西ドイツの核武装計画に反対し、「核実験反対・核兵器の開発反対・核兵器研究への参加拒絶」という「ゲッチンゲン宣言」(「西独核武装に反対するゲッチンゲン宣言」)が発表された。

 英国の動き。5.15日、クリスマス諸島Malden島で初の水爆実験を実施。11.8日も。9.14日、南オーストラリアのマラリンガで核実験実施。9.25日も。
 6.10日、日本、原子炉規制法・放射線障害防止法制定。
【「第1回パグウオッシュ会議」】
 7・6日、東西両陣営の科学者の参加した「第1回パグウオッシュ会議」(正式名称は「科学と世界問題に関する会議」)がカナダで開かれた。なおパグウオッシュ会議は、1955年のラッセル=アインシュタイン宣言(核戦争の危険性を米・ソ・英・仏・中・カナダの各国に警告し、科学者の平和に対する責任を明らかにした宣言)に基づいて開かれ、東西の科学者22名(日本からは湯川秀樹)が核実験・核戦争の危険性などを科学者の立場から討議した。この会議は、以後世界各地で開かれ、科学者の国際平和運動として定着し今日に至るまでつづいている。

 この年、A・シュバイツアー博士がオスロー放送を通じて核実験の危険性と核戦争の危機を訴えていた。ライナス・ポーリング博士も核実験による「死の灰」の危険性を訴えすでに行なわれた核実験の「死の灰」で「1万人の新生児に身体的精神的欠陥を生じさせるだろうし10万人の胎児・幼児死をひきおこすだろう」と警告した。ソ連の「水爆の父」といわれるアンドレイ・D・サハロフ博士もこれらの動きを見守っていた。「アルバート・シュバイツアーやライナス・ポーリングなどによる声明の影響もあって、彼(サハロフ)は自分自身にも核爆発による放射能汚染の問題に関する責任があるように感じた。一連の核実験が行なわれるたびごとに、何万もの犠牲者がでることになるからである」(『みすず』74年5月号)。サハロフがフルチショフ首相に核実験停止の勧告や働きかけをはじめるのもこのころである。


 ライナス・ポーリングが核実験禁止の署名を呼びかける。

 7.29日、国連総会で、国際原子力機関(International Atomic Energy Agency=IAEA)草案を採択。


 8.6日、第3回原水爆禁止世界大会開催。「戦争そのものの根絶」というスローガンが掲げられた。


 9.29日、ソ連、ウラル核惨事。


 10.4日、ソ連、最初の人工衛星スプートニク1の打ち上げに成功。アメリカに衝撃を与える。


 10.10日、英国、ウィンズケール核工場で原子炉炉心溶融事故。


 11.7日、ソ連の核搭載IRBM・SS-3 Shysterが赤の広場軍事パレードで披露される。


 この年、岸信介首相「自衛のための核武装は合憲」と発言。


【1958(昭和33)年】
(私論.私見) この年も米ソ英の三カ国の核実験競演が続いた。ソ連は全面的な平和攻勢に転じた。この年の3月には核実験の一方的停止を宣言し、米英への同調を求めた。

 ソ連の動き。1.4日、セミパラチンスク上空で、核実験を実施。1.17、2.23、2.27、3.13、3.14、3.15、3.18、3.20、3.22日も。3.14日ノバヤゼムリヤ上空で、核実験を実施。3.21日も。9.30日よりノバヤゼムリヤ上空で核実験を実施。10.2、10.4、10.5、10.6、10.10、10.12、10.15、10.18、10.19、10.20、10.21、10.22、10.24、10.25、10.26、10.27、10.30日も。11.1日ソビエト、ロシアAstrakhan地方のミサイル基地上空で、核実験を実施。11.3日も。

 この年、ソ連の最初の戦略ミサイル潜水艦ホテル級が完成。IRBM・SS-4 Sandalの配備を開始。


 米国の動き。2.22日、ネヴァダで核実験実施。3.14日も。4.28日米国、エニウェトク環礁の上空で核実験実施。5.5、5.11、5.12、5.16、5.20、5.26、5.30、6.8、6.14、6.18、6.27、6.28、7.1、7.5、7.14、7.17、7.22、7.26、8.6、8.18日も。これがエニウェトク環礁での最後の大気中爆発実験となった。5.11日、ビキニ環礁で水爆実験実施。5.21、5.31、6.10、6.14、6.27、6.30、7.2、7.12、7.22日も。これがビキニ環礁での最後の大気中爆発実験となった。8.1日、米国、ジョンストン島上空で、水爆実験実施。レッドストーンロケット使用。8.12日も。9.12日よりネヴァダ再開。9.17、9.19、9.21、9.23、9.26、9.28、9.29、10.5、10.8、10.10、10.13、10.14、10.15、10.16、10.1810.20、10.22、10.24日も。


 英国の動き。4.8日、クリスマス島で核投下実験実施。8.22、9.2、9.11、9.23日も。


 8.23日、中台間で金門・馬祖事件。
 8月、原水爆禁止沖縄県協議会結成。第4回大会が開かれ、学生たちの間から原水禁運動は「勤評問題をとりあげよ」という主張がでてきた。

 11月、米国、英国、ソビエトの3国、水爆実験を停止する。


 11.28日、米国、ICBMアトラスBの飛行に成功。


【1959(昭和34)年】
(私論.私見) この年、中ソ対立が発生し、中国も核実験に乗り出すことになった。この動きにフランス、インドが続くことになる。原水禁運動に政治的対立が発生し、この対立はより激しくなっていくこことになる。

 1.1日、キューバにカストロ政権樹立。

 この頃、外交政策をめぐる中ソ間の対立が激しくなる。


 5月、ソ連がICBM・R-9(SS-8 Sasin)の開発を決定。

 6.9日、最初の水爆搭載可能なポラリス潜水艦が就航。


 6月、ソ連は「中ソ国防新技術に関する協定」(1957.10月に原爆見本、原爆生産の技術を中国に提供することを約束した)を破棄した。この結果、中国も自ら核兵器生産(1964.10月に第1回核実験)にのりだすことになる。そして、フランス、インドがこれに続く。


【原水禁運動における政治の持ち込みを廻って混乱発生する】 
 7.21日、日本原水協が原水爆禁止世界大会について、「原水爆禁止を実現するため核武装、海外派兵の道を開く安保改定に反対するのは当然」と声明した。

 7.22日、全国都道府県議長会が、原水禁運動に関して「政治色をぬぐい去るべきである」と決議。保守陣営からの平和運動への政治の持ち込みを拒否する声明が為された。

 この頃、運動内部にも意見の対立が起こりはじめた。軍事基地などの平和問題に関連する課題を原水禁運動のテーマとしてとりあげるか、否か、という意見の対立が表面化してきた。いわゆる「筋幅論争」である。それは、「平和運動と軍事基地は関連があるから原水禁も基地反対運動をとりあげよ」というものであり、「筋を通す」ことが重要だという意見と、それよりも「原水禁運動は広範な国民の参加する運動だから、その幅を大切にせよ」という意見の対立である。やや詳しくは、「理論的対立の検証(1)筋幅論争」参照のこと。

 第5回原水爆禁止世界大会が開かれ、「平和の敵を明らかにせよ」、「原水禁運動は安保反対そのものをとりあげよ」という主張がでてきた、が、このときは「あらゆる党派と立場をこえた、原水爆禁止の一点で結集する人類の普遍的運動」という原則をつらぬきとおして、これらの提案をとりあげなかった。


 7.22日、米国、戦場用地対地核ミサイル・ラクロス配備。


 7.29日、米国、量産型ICBMアトラスDの開発開始。
 9.9日、米国がICBMアトラスDの試験に成功。

 9.15日、ソビエト書記長フルチショフが自らアメリカにのり込み、9.25日、アイゼンハワー大統領とキャンプ・デービット会談を行ない、次いで国連総会で「4年間で軍備を全廃する」提案を行なった。ソ連の平和攻勢でにわかに緊張が緩和し、核兵器禁止も間近とまで思われたが、1960年のアメリカのスパイ飛行機U2機事件で局面は暗転してしまう。


 9.17日、フランス、ミサイル開発管理機関SEREBを創設。
 9.30日、ソビエトと中国対立激化。
 この年、科学技術庁が、日本原子力産業会議に原子力発電所事故の理論的可能性と公衆被害試算を要請。国家予算の2倍に達する被害額が算定されたために、極秘扱いとなる。
【1960(昭和35)年】
(私論.私見) この年、フランスが核実験に成功し、米ソ英仏が核保有国となった。宮顕系日共による「原水禁運動への政治の持込み」が強まり、対立が激化した。

 1.16日、第六回原水爆禁止世界大会広島開催について原水禁広島協議会、広島市などが検討にはいる。政府、自民党の原水協批判、地域団体の消極化などから慎重論が台頭。
 1.19日、日米新安全保障条約調印。
【フランスも核実験に入る】
 2.13日、フランスが最初の原爆実験をアルジェリアのサハラ砂漠で実施。

 2月、アイゼンハワー米大統領、部分的核実験禁止条約を提案。

 5.5日、米国の偵察機U2、ソビエト上空で撃墜される。


 8.1日、民社党の原水爆禁止運動全国代表者会議で「第二原水協」の組織化を決める。
【原水禁運動内が非和解的になる】

 8・8日、東京で第6回原水爆禁止世界大会。この時、60年安保で穏健日和見主義戦術を取り批判を浴びた共産党が突如左翼性を気取り始め、宮顕綱領の「二つの敵論」、「反米・反帝論」をあらゆる分科会、分散会で全面展開し、「平和の敵を明らかにするよう」迫った。「このため原水爆問題や被爆者問題は無視され、さながら政党の綱領の宣伝の場となった観すら呈した」とある。原水禁運動の組織的危機は深まってゆくばかりとなった。

 原水禁運動の発祥といえる署名運動は「特定の党派ではなく、あらゆる立場の人々を結ぶ全国民の運動」(杉並アピール)だったが、60年初頭のこの頃より次第に政党の主導権争いなどが表面化してくる。

【1961(昭和36)年】
(私論.私見) この年、米ソの核開発と実験が進んだ。ソ連の核実験への抗議を廻って、日共が「アメリカは悪核、ソ連は善核」論を打ち出したため社共の対立が非和解的に進行し始め、第7回原水爆禁止世界大会が混乱した。

 1.3日、米国とキューバ国交断絶。
 2.1日、米国、ICBMミニットマンTミサイル実験。

 2.24日、米国、ICBMアトラスEの発射に成功。


 4.12日、ソビエト、ヴォストークロケットで有人宇宙飛行(ガガーリン少佐)に成功。

 4月、ソ連がICBM・R-9(SS-8 Sasin)の飛行試験を行う。


 5.5日、米国、弾道ロケットレッドストーンで、有人宇宙船「フリーダム」を打ち上げ(アラン・シェパード飛行士)。いわゆる「マーキュリー計画」。


 6月、日本共産党は、アカハタでソ連の「ベルリン危機」を理由にするソ連の核実験に対しこれを擁護し、「綺麗な核実験だ」と主張し始めた。これに対し、社会党を始めとする諸団体は「核実験は国によって汚い、綺麗はない」と反発し、内部論争が深化し、この対立が1965(昭和40)年の原水協、原水禁、その他分裂に向かうことになる。これが日本の原水爆禁止運動混乱の発端となった。
 6.10日、日本原水協の有力メンバー全国地域婦人連絡協議会(700万人)と日本青年団協議会(430万人)が「原水協は独善的な方をとっている」と声明。
 8.13日、ベルリンの壁建設開始。
第7回原水爆禁止世界大会が大混乱
 8.14日、第7回原水爆禁止世界大会が開かれた。この時共産党系諸団体が、「1・平和の敵・アメ帝打倒、2・中ソ軍事同盟は平和のための防衛条約、3・軍事基地・民族独立闘争を原水禁運動の中心にせよ」と主張し、「核戦争政策を進める勢力と決然と対立するべきときがきた」との宣言を採択、「今後、最初に核実験を行なった国・政府は平和の敵、人類の敵として糾弾する」と決議した。

 これに対し、社会党やその他の団体は、「1・原水禁運動の敵は核実験、核政策そのものである。2・党派の政治的主張や、特定のイデオロギーをおしつけるな。3・一致できない活動は、各団体の独自行動で補強せよ」という意見を述べ、共産党方針と真っ向から対立した。

 第7回原水爆禁止世界大会は波乱のうちに閉幕した。社会党、総評、日本青年団協議会、地婦連の4団体が執行部に対し不信任を声明した。こうした混乱は、当時の中央・地方を問わず原水禁運動内に広がった。戦後はまだ10年余しかたっていない時期で早くも、原水禁運動内が分裂し始めた。運動の民主的運営についての経験不足が原因であったにしても、左派運動の能力の露呈であったであろう。

 8.15日、民社党・同盟系労組などが「核兵器禁止平和建設国民大会」を東京で開催。
 1961年以後、アメリカの戦略思想はマクナマラ、テイラーの柔軟反応戦略に転換する。ドミニカ民主主義革命の弾圧、ベトナム民族解放闘争の弾圧戦争はこのあらわれであるが、それは、ゲリラの強化には報復のレベルアップをもって対処するという危険なエスカレーションの論理を内包するものであり、事実ベトナム侵略戦争も小型熱核兵器使用の一歩手前までエスカレートしている。
 8.30日、ソ連が「ベルリン危機」を理由にした一連の大型水爆実験を開始し(セミパラチンスクとノバヤゼムリヤ上空で核実験を再開)、これが原水爆禁止運動混乱の発端となった。

 9.15日、米国がネバダで核実験を再開。9.16、10.1、10.10、10.29、12.3、12.10、12.13、12.17、12.22日も。


 10月、ソ連が50メガトン水爆実験を強行した。9.1、9.4、9.5、9.6、9.9、9.10、9.11、9.12、9.13、9.14、9.16、9.17、9.18、9.20、9.21、9.22、9.26、10.1、10.2、10.4、10.6、10.8、10.11、10.12、10.17、10.19、10.20、10.23、10.25、10.27、10.30、10..31、11.1、11.2、11.3、11.4日も。


 ソ連の核実験に対する対応をめぐって原水協はソビエト政府に抗議せよとする社会党、総評系と、抗議に反対する共産党とが対立した。米国原子力委員会、ケネディ大統領に核兵器と核実験について報告。  
 11.15日、「核兵器禁止・平和建設国民会議(核禁会議、松下正寿議長)」が発足することになる。歴史的意味は、「原水禁運動の左傾化を嫌う趣旨の反核運動の登場」ということになる。

 11.24日、国連総会、核兵器使用禁止決議。


 11.25日、米国、攻撃型原子力空母エンタープライズ就役。


【1962(昭和37)年】
(私論.私見) この年、米ソの核実験が続いた。この間、社共の代理抗争が露骨に持ち込まれ、日本原水協が分裂した。キューバ危機が発生し、米ソ戦争勃発の瀬戸際に立った。米国のケネディー大統領は「対キューバ海上封鎖」に踏み切り、ソ連のフルシチョフ首相が「アメリカがキューバ侵略を行なわない」ことを条件にしてキューバのミサイルを撤去することで封鎖が解かれ危機が回避された。

 米国の動き。1.9日、ネヴァダ地下で核実験実施。1.18、1.30、2.8、2.9、2.15、2.19、2.23、2.24、 3.1、3.5、3.6、3.8、3.15、3.28、3.31、4.5、4.6、4.12、4.14、4.21、4.27、5.7、5.10、 5.12、5.19、5.25、5.31、6.1、6.6、6.9、6.13、6.21、6.27、6.28、6.30、7.6、7.7、 7.11、7.13、7.14、7.17、7.27、8.24も。4.25日、クリスマス諸島でB-52から投下する核実験実施。4.27、5.2、5.8、5.9、5.11、5.12、5.14、5.19、 5.25、5.27、6.8、6.9、6.10、6.12、6.15、6.17、6.19、6.22、6.27、6.30、7.10、7.11日も。
 ソ連の動き。2.2日、セミパラチンスクの地下トンネルで、核実験を実施。8.1日、セミパラチンスク、ノバヤゼムリヤ上空で、核実験を実施。8.3、8.4、8.5、8.7、8.10.8.18、8.20、 8.21、8.22、8.23、8.25、8.27、8.31も。
【社共の代理抗争が露骨に持ち込まれる】
 こうした運動内部の対立と混乱をなくし、運動を正常化するため、社会党・総評・日青協・地婦連の四団体が、原水協の体質改善を求める「四団体声明」を発表し「基本原則・運動方針・組織方針・機構改革」の四大改革を要求した。この改革案について中央、地方で6ケ月にわたる討議がかさねられて行った。

 3月、全国理事会で、120対20という圧倒的多数で、次のような「原水禁運動」の基本原則を決定した。 「原水爆禁止運動は、原水爆の製造・貯蔵・実験・使用・拡散について、また核戦争準備に関する核武装・軍事基地・軍事研究その他各種の軍事行為について、いかなる場合もすべて否定の立場をとる。この立場にたつ原水爆禁止運動が現実にその目的を達成するためには、原水爆政策や核戦争準備について、たんに表面的な現象をとらえるにとどまらず、その根源を客観的に深く究明し、国民大衆とともにその真実を明らかにしなければならない」。

 しかし日本共産党は、自らの代表が参加し、最高決議機関で圧倒的多数で決めたこの「基本原則」を「原水禁運動をしばりつけ、しめつけるもの」として否定し、無効を主張しつづけた。そのためこの「基本原則」も運動を正常化する土台にはならなくなってしまった。

 こうした情勢のなかで原水禁第8回世界大会を迎えることになる。社会党系は、「1・いかなる国の核実験にも反対する。2・真実を究明し、核戦争の根源をとりのぞく」ことを基本とした「基調報告」を主な内容として開催することを参加団体のすべての合意のもとにとりきめた。

 ところが日本共産党は、大会直前にいたり突如「基調報告」に反対し、「1・平和の敵・アメ帝の打倒、2・社会主義国の核実験は平和を守るためであり支持する、3・軍事基地反対、民族独立、安保反対闘争」を原水協の中心課題とせよ」と主張しはじめた。

 
社会党は「いかなる国の核兵器にも反対」と主張し、日本共産党はいわゆる社会主義国の原爆は「破邪の剣」であり、「米帝国主義こそ核戦争の根源であり、日本やアジアから追い出せ」だと主張した。いわゆる「いかなる問題」で、主導権争いが激化していった。かくて原水爆禁止日本協議会、ソビエトの核実験に肯定的な共産党系と、全面反対の社会党系が対立が決定的となった。

【原水禁運動が原水協と原水禁に分裂】
 8.4日、第8回原水爆禁止世界大会本会議が東京で開幕。海外11ヵ国86人を含め約1万人が参加。

 大会の最中の二日目8.5日にソビエトはまたも核実験を行なう。原水禁世界大会に日を合わせて水爆実験をやるという無神経ぶりであった。
「1962年には、技術的な見地からは無用な核爆発の実験がなされることになったので、サハロフはこの計画の犯罪的な性質を悟って、阻止のために数週間にわたり必死の努力をした。実験の前日にはフルシチョフに電話をかけて実験とり止めを要請したがすでに爆弾搭載機は実験予定地に出発した後だった」(『みすず』)とある。だがこの間にもパグウオッシュ会議に結集した科学者たちは、“地上のいかなる地点で行なう核実験も技術的に探知できるから、速やかに核実験停止条約を締結せよ”と結論を下し、各国政府に働きかけを行なっていた。

 これをめぐって抗議するか否かで大会は大混乱に陥った。社会党系代表と共産党系代表が再び昨年と同じ衝突を起したが、多数によって「抗議しない」ことになった。社会党・総評・日青協・地婦連など13団体が退場、大会は宣言・勧告を報告するにとどめ、一切決議しないまま流会することとなった。結局大会は混乱のままに終った。日本原水協の機能は完全にマヒするにいたった。

 8・6日、社会党、総評など11団体が次のように声明した。
「今度の大会はソ連の核実験に何の意思表示もできない状態で終わった。大会の基調報告は『いかなる国のいかなる理由を問わず核実験に反対である』ことを述べている。大会の実態を極めて遺憾だと考える。原水爆禁止の幅広い国民運動を再建するために新たな決意をもって対処する」。

 9.2日、ソ連がノバヤゼムリヤで核実験を実施。9.8、9.15、9.16、9.18、9.19、9.21、9.22、9.24、9.25、9.27、9.28、10.7、10.9、10.10、10.13、10.14、10.20、10.22、10.27、10.28、10.29、10.30、10.31、11.3、11.4、11.5、11.11、11.13、11.14、11.17、11.24、11.26、12.1、12.18、12.20、12.22、12.23、12.24、12.25日も。
 9.6日、米国がネヴァダの地下で核実験実施。9.14、9.20、9.29、10.5、10.12、10.18、10.19、10.27、11.9、11.15、11.27、12.4、12.7、12.12、12.14日も。10.18日ジョンストン島でB-52から投下する核実験実施。10.20、10.26、10.27、10.30、11.1、11.3、11.4日も。
 9月、国産1号炉JRR-3臨界。
 10.16日、キューバがミサイル基地を建設していることが発覚し、キューバ危機が発生した。キューバ危機は第二次大戦後の最大の危機であり、まさに全面核戦争寸前のところまでいった。1959年にカストロによる革命が成功して以来、キューバは反米・社会主義政策を採り、ソ連・中国に接近していた。
 10.17日、英国、ドーンレイ高速増殖原型炉発電開始。
キューバ危機発生
 アメリカとキューバの国交は断絶していたが、10.22日、ソ連がミサイル基地を建設しており、ソ連船がキューバむけミサイルを運んでいるのを発見したアメリカはこれを阻止するために、ケネディー大統領は「対キューバ海上封鎖」を宣言し、10.24日、米国はキューバの海上封鎖に踏み切った。こうしてキューバ危機が発生した。

 ソ連はこれに抗議したが、ケネディ大統領はミサイル基地撤去を頑として主張し、それなしには核戦争も辞せずという、いわば「最後通牒」を発したのだった。キューバ危機は第二次大戦後の最大の危機であり、まさに全面核戦争寸前となった。世界各地ではこの行為に激しい抗議の声がまき起こった。バートランド・ラッセルはケネディ、フルチショフ、ウ・タント国連事務総長に電報をうち続け、核戦争勃発の危機性を訴えた。

 米大統領ケネディーとソ連首相フルシチョフの数度に亘る協議の結果、10.28日、フルシチョフが「アメリカのキューバ不可侵を信頼して、攻撃用兵器を撤収する」と言明、「アメリカがキューバ侵略を行なわない」ということを条件にしてキューバのミサイルを撤去することになった。これにより封鎖が解かれ危機が回避されることになった。この時もしもフルチショフが強気にでれば直ちに核戦争になったであろう。

 後日、ジョン・サマビルはこう書いている。
「ケネディ大統領の国家安全保障会議執行委員会(EXCOMM)は、『もしソ連がキューバのミサイル基地を撤去するか、破壊してしまうかするのでなければ、直ちにソ連に対して開戦する』ことを決めたのだった。……その決定を行なった人たちは、この最後通牒にソ連が同意するなどとは毛頭期待せず、また、戦争がもたらす結果についても、はっきりと知っていたにもかかわらず、なおそれをやったということである。言葉を変えていえば、決定を行なった人々の明らかに予見していたことは、恐らくソ連は抗戦するであろうし、またその戦争が、必ずや世界規模での核戦争となり、人類は事実上抹殺し去られるだろうとの見通しであった」と。(ジョン・サマビル『人類危機の13日間』岩波新書)。

 結局、フルチショフの妥協によって危機はからくも回避された。人類は死の淵に落ちることを逃れた。

 12.3日、社会党・総評など10団体が中心の「原水爆禁止と平和のための国民大会」が広島市で開幕。基調報告で共産党の原水禁運動を非難し、社会党の積極中立論を強調。

 この年、水上経済同友会代表幹事「発電コストを下げるためにプルトニウムの軍事利用も辞せず」と発言。米国、原子力貨客船サバンナ号を就航。この年、核実験禁止を訴えたライナス・ポーリング、ノーベル平和賞受賞。


【1963(昭和38)年】
(私論.私見) この年、日本原水協の分裂事態を収拾する為、「2.21声明」が出された。ところが、日共党中央はこれを拒否し、再び分裂事態に陥った。「すべての国の核実験に反対」を廻って、推進する社会党と反対する共産党の対立が増幅し、原水爆禁止世界大会開催が社会党ー総評系を排除したまま開催された。米英ソ連3ケ国が部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印した。これを廻って、日本原水禁運動は又も対立した。

「2.21声明」
 2.21日日本原水協が常任委員会を開き、社会党系と共産党系の間で運動統一へ向け妥協が成立。この担当常任理事会はそれまでの経過から、あらためて運動の性格と原則を確認することにし、慎重な討論の結果、満場一致で、1・いかなる国の原水爆にも反対し、原水爆の完全禁止をはかる。2・社会体制の異なる国家間の平和共存のもとで達成できる立場にたつ。3・多年の努力の成果をふまえ、国民大衆とともに真実をきわめる。ことを骨子とした「2.21声明」を決定、安井理事長が声明した。これと同時に実務的「協定事項」を確認した。 

 2.8日、米国のネヴァダエリアの地下で核実験実施。2.15、2.213.1、3.15、3.29、4.5、4.10、4.11、4.2 4、5.9、5.17、5.22、5.29、6.5、6.14、6.25日も続行。
【「すべての国の核実験に反対」を廻って社共の対立が続く】
 2.28日、3.1ビキニ集会に先だって日本原水協が静岡市で全国常任理事会を開き、「すべての国の核実験に反対」を3.1日のビキニ・デー宣言に入れるかどうか討議したが、社会党と共産党が再び対立。共産党系団体出身の常任理事が「2.21声明」のなかの「あらゆる国の核実験に反対する」部分に反対してゆずらず、「協定事項」についても異議を唱えたため会議がまとまらず、さらにスローガンについては「あらゆる国の核実験反対」を挿入せよという総評、社会党と共産党の意見が対立、ついに安井郁理事長も収拾不可能と判断、辞意を表明し、担当常任理事も全員辞任するにいたり、日本原水協としては、統一したビキニ集会を開催できなくなった。

 この背景には次のような事情があった。日本原水協の担当常任理事には当然日共党員も入っており、最初はこの「2.21声明」に賛成していたが、この決定を日共本部に報告するや、党中央はこれを拒否した。この日共本部の決定により、大衆団体内部で決められたことがいとも簡単にくつがえされてしまった。つまり日本原水協という大衆団体の論理は常に日共の党派の論理に従属しなくてはならないという発想がそこにはみられる。これでは大衆団体の決定は重みをもたないことになる。団体内部の民主主義は否定されざるをえない。

 3.1日、安井郁理事長が担当常任理事総辞職を宣言。
 3.1日、ビキニ集会が日本原水協として開催できず、二つに分かれて開かれた。
【「3者申合せ」】

 原水禁運動の分裂は必至とみられたが、原水禁運動のもつ特殊な意義を高く評価する多くの人々の願望と、各地方原水協の運動統一の努力によって、第9回大会を前に、再び運動統一への機運が高まってきた。社、共、総評の「3者会談」が数回にわたって行われ、その結果、「2.21声明で原水協の活動を直ちに再開するために努力する」ことを骨子として「3者申合せ」を確認した。


 4.26日、日本学術会議、原子力潜水艦寄港反対を声明。


 6.20日、米国とソビエト、ホットライン設置で同意し調印。キューバ危機は、核保有国の権力者に危機意識を植えつけずにはおかなかった。米ソ両首脳は「核戦争を絶対に起こしてはならない、そのためには米ソが協調しなければならない」ことを認識し、米ソが偶発戦争防止をも保証する直通通信(ホットライン)協定(ホワイトハウスとクレムリンをホットラインで結び、米ソ両首脳が突発的な緊急事態が発生したときには、直ちに協議が行えるようにした)を締結することになり、やがて部分的核実験停止条約の締結を決意するにいたる(1963.8月調印)。以後、「K・K時代」(KennedyとKhrushchovの頭文字)と呼ばれる米ソ間の協調が進み、平和共存路線が定着した。


【原水爆禁止世界大会開催を廻る動き】
 6.21日、「担当常任理事会」」を経て「第60回常任理事会」が開かれ、「3者申合せ」を骨子とした方針が提案され、全会一致でこれを決定、新しい担当常任理事を選出した。

 ところが日本共産党は、6.21日のアカハタで「わが党はいかなる核実験にも反対することを認めた事実はない」(内野統一戦線部長談)を発表、さらに7.5日のアカハタには、「3者申合せ」を真っ向から否定する論文を掲載した。

 こうした状況のなかで、運動の統一と「いかなる・・・」の原則問題をめぐって何回にもわたって調停の会合が開かれたが、日共はギリギリのところで態度を固執し、日本原水協が責任をもって第9回原水禁世界大会を開くことは困難になってきた。

 安井理事長の「1・いかなる国の核兵器の製造、貯蔵、実験、使用、拡散にも反対し、核兵器の完全禁止をはかる。2・各国の核兵器政策や、核実験のもつ固有の意義について、国民大衆とともに明らかにする。3・各段階において、情勢に応じた具体的目標を定めて運動を進める」といういわゆる「安井提案」が出されたが、「いかなる……」に反対する共産党の主張が強硬のためまとまらなかった。

 会談は大会直前になって、広島にもちこされたがここでも結論はでなかった。この間、共産党・民青はぞくぞくと代表動員をかけ、大会場で多数の力で「いかなる・・・」原則を否定しようとする戦術をとることが明らかになった。大会の責任ある運営はもはや望むべくもなかった。

 原水禁運動の分裂は決定的となる。すなわち、「いかなる・・・」問題、部分核停条約の評価、大会の規模などをめぐる、社共の対立点の話し合いがつかぬまま、大会の準備、執行は広島原水協に白紙委任されたが、総評、社会党とこれと立場を同じくする13名の担当常任理事が辞意を表明し、社会党、総評は突如不参加を通告、別個に「原水禁運動を守る大会」を開くことになった。このため広島原水協も大会運営を日本原水協に返上、9回大会はふたたび日本原水協の手でひらかれることになった。

 7.29日、アカハタ主張、「部分的核兵器実験停止条約について」を発表。
【「第9回原水爆禁止世界大会が社共対立の煽りを受け分裂する」】
 8.2−7日、広島市で第9回原水爆禁止世界大会が開かれたが、大会は「いかなる国の核実験にも反対」かどうかをめぐって紛糾した。党中央は、幹部会員松島治重を現地広島に送り込んで、中国支持の立場から指導を開始した。共産党が「アメリカの核は強盗の武器だが、社会主義国の核はその防衛の武器だ」との観点から「いかなる国の核実験にも反対に反対」している。

 8.3日、日共が幹部会声明で、部分核停条約不支持を表明する。「核兵器全面禁止の旗を掲げ統一を守らなければならない」を発表。党として初めて中ソ論争に対する「中国寄り」の見解を表明した。「部分的核停条約の成立を平和への前進とみなす意見は、世界と日本の人民の認識を大きく誤らせるもの」、「我が国においては、『いかなる国の核実験にも反対する』という立場と、部分的核停条約を支持するという立場とは、同じ思想と同じ政治的立場に根ざしている。我々はこのような見解に断固反対する」と宣言していた。

 国際会議で部核をめぐり中ソ激論となった。党中央が中共代表団を支持し、社会党.総評系はこれを認めず、途中で退場し脱退となった。かくて原水禁運動は分裂することになった。この分裂の責任を廻って、宮顕−不破系は今日なお詭弁を弄して居直り続けている。日本最大の平和運動を分裂に追いこんだのは明らかに日共の政治主義的な立ち回りであった。その結果、この原水禁運動の分裂は、党中央のその後の中国路線の強化と合わせて、日本母親大会や安保共闘会議にも重大な影響を与えていくことになった。

 総評、社会党系代議員は欠席しており(当初からか途中からか不明)、事実上「共産党系」を中心とした分裂大会となり、「原水禁運動の基本原則」、「2.21声明」を内容とした「森滝議長報告」は無視され、この運動の歴史的成果として生まれた「部分的核停条約」も正しい評価をくだされなかった。全学連学生が慰霊碑前を占拠。こうして、日本原水協を中心とした日本の原水禁運動は第9回世界大会の分裂により、まったくその統一機能を失うにいたったのである。

米国、英国、ソビエトの3ヶ国、部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印
 8.5日(7.15日)、米国、英国、ソ連の3ヶ国、部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印(同年10.10日、発効)。

 この条約の意義は、それまでの大気圏での核実験が「人類に悪影響をおよぼす」ことに留意して今後大気圏での実験を禁止するというところにあった。米英ソ3国がこれを結んだが、遅れて核を持とうとしていた中国は「超大国の核独占だ」と反発していくことになる。

 ソ連のこの条約締結の評価を廻ってソ連共産党と日本共産党が対立していくことになる。ソ連共産党が条約賛成を各国共産党に要求して回り、党中央はこれに同意しない動きを見せた。このことから双方の激しい非難の応酬が展開されていくことになった。原水爆禁止運動もこれで紛糾していくことになる。

【社会党・総評系が広島市内で独自集会】
 8・6日、社会党・総評系が広島市内で独自集会。7000人参加。この大会終了後、この大会に参加した団体、個人によって大会決議執行のための「大会実行委員会」がつくられ、これが発展して「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)が結成されていくことになる。

 日本原水協内の社会党系と共産党系勢力は、ソ連の核実験をめぐり「いかなる国の核実験にも反対」とする社会党と「防衛的立場の社会主義国の核実験を帝国主義国の実験と同列に論じるのは誤り」とする共産党のあおりを受けて対立。以降、社会党系は独自集会を開くことになり、1965年には社会党・総評系が「原水爆禁止日本国民会議(原水禁)」を結成することになる。

「部分的核実験停止条約」を廻る対立発生
 部分的核実験禁止条約(PTBT)調印前後、米ソ英の三国は核実験を停止していた。1958年にまずソ連が核実験の一方的停止を発表し、次いでアメリカ・イギリスがソ連に追随したことによる。な核実験の停止に至るまでには、アメリカのノーベル物理学賞受賞者のライナス・ポーリング博士を中心とするアメリカ、ヨーロッパの科学者と、米国務省との間の約2年間にわたる激しい論争があった。

 ポーリング博士らは、これまでの大気圏核実験によって、多くの人たちがガンや白血病に患る恐れがあり、すぐにも核実験を停止すべきだと訴えていた。この論争は、ヨーロッパの科学者をまきこんで、米国務省との間に大きな論争となり、結局、米国務省は論争に完敗した。核実験による影響が無視できないという、国際的な世論を背景に1958年から停止されていた核実験を、1961.8月、ソ連が突如として再開すると発表した。

 ソ連の核実験再開声明は、核実験全面禁止から、核兵器廃絶を実現しようと考えていた世界の人々の希望を打ち砕くものであり、また核実験による白血病などの危険を考えるならば、絶対に認められないことであった。しかもこの年の原水禁世界大会では「最初に核実験を開催する国は、人類の敵として糾弾されるであろう」というアピールが採択されていた。

 この時、日本共産党の政治的セクト主義が、最も露骨に運動に持ち込まれた。日共は、ソ連の核実験を支持せよ方針を打ち出した。核実験に反対する運動から出発した「日本原水協」は、ソ連の核実験に反対の態度をとることができないという、まことに奇妙な、しかし深刻な混乱に陥った。日本共産党はアカハタの号外で、「例え死の灰の問題があろうとも、大の虫を生かすために、共産党員はソ連の核実験を支持するように」と主張した。

 このような核実験による死の灰を無視する立場は、そもそも日本の原水禁運動とは、およそ無縁の運動なのである。(そしてこの大気中に拡散する、微量の死の灰の影響を無視してきた結果、日本原水協はその後、原発から漏れる放射能物質について語ることができず、反原発運動にも取り組めないことになる)

 日共は、ソ連の核実験を支持し大々的なキャンペーンを展開した。アカハタは連日、ソ連の核実験の正しさの論証に努めた。そして、ソ連の核実験に反対する者を必死になって非難した。1961.9.9日アカハタ号外は次のように記している。
 概要「総評幹事会でもソ連の労働組合・全ソ労組評議会に実験しないよう打電し、原水協さえもソ連声明に反対するという誤った声明を発表し、湯川博士なども動揺して、反ソ反共宣伝をこととする米日反動に利用される結果となっている」。

 9.9日付けアカハタは、次のような野坂議長談を発表している。
 「たとえ『死の灰』の危険があっても、核実験の再開という非常手段に訴えることはやむをえないことです。『小の虫を殺して大の虫を生かす』というのはこのことです」。

 ソ連の核実験再開は世界の平和を守るものだから、わが党は「この措置(ソ連の核実験)を断固支持する立場にたっていた。9.16日付けアカハタは、「われわれの態度は共産主義者がとるべき当然の態度である」と力説していた。日本原水協の会議は連日のようにソ連核実験をめぐる議論に明け暮れ、まともな運営もできず、運動機能は事実上マヒしてしまった。

 共産党は、「いかなる国の核実験にも反対」という国民的な要求を軽視し、「2つの敵論」を教条的に押しつけることで、日本最大の平和運動を分裂に追いこんだ。その結果もたらされた大混乱のなかで、地婦連、日青協などが原水禁運動から離れ、また私たちも原水禁運動の再生をめざして、「いかなる国の原水爆にも反対する」立場にたった運動組織、原水禁国民会議を結成したのである。日本原水協はこの核実験に対し抗議声明を発したが「人類の敵」としての糾弾はしなかった。

 この対立が「部分的核実験停止条約」の評価をめぐって表面化した。これに対して、遅れて核を持とうとしていた中国は「超大国の核独占だ」と反発した。

 9.1日、全国から10万の参加者を集めて横須賀・佐世保で第12次全国統一運動が挙行された。但し、これが事実上最後の社共共闘となり、破産した。

  9.30日、大阪で「日本の非核武装と完全軍縮のための関西平和集会」(扇町プール)が開催され、三万人が集まる。第9回原水禁世界大会の分裂によって、原水禁運動の相入れない路線は明確となったが、このような状況のなかで原水禁運動を再建しようとする動きはまず関西からはじまった。大阪軍縮協をはじめとする関西各県の原水禁の共催で漕ぎ着けたものであった。この集会は国際的な支持もあり、バートランド・ラッセル、バナールなどからもメッセージがよせられた。広島県原水協からも代表が参加し、約3万名を結集する大衆集会となった。


 10.26日、日本原子力研究所の動力試験炉JPDR発発電(原子力の日)。


 11月、米国国家安全保障会議、「ソ連との戦争における管理と終結」を作成。


 11月、ケネディが暗殺された。


 この年、東海村の日本原子力研究所に最初の発電実験原子炉JPDRが完成。
【1964(昭和39)年】
(私論.私見) この年、日本原水禁運動の分裂が続き、衆議院本会議での「部分核停条約」採決で、社会党賛成、日共反対、志賀派が造反した。中国が核実験に成功し、米ソ英仏に続いて核保有国となった。

【総評、社会党系が独自集会】
 第9回大会に参加しなかった総評・社会党など13団体は、「原水禁運動を守る連絡会議(原水連)」をつくって独自の活動を計画、日本原水協は残存した担当理事だけで運営をはかる結果となり、この年の「3.1ビキニ集会」で分裂を決定的なものとした。

 1964年の3.1ビキニ集会は、日本宗平協、日本平和委員会、日本原水協の3者によって当初から一方的に計画された結果、総評、社会党系も独自集会を開くこととなり、しかもそれは全国規模的における代表の争奪戦が展開するなかで行なわれた。共産党系機関誌『アカハタ』の連日にわたる総評・社会党・静岡県評に対する中傷、誹謗は、目をおおうものがあり、3.2日開かれた「総評・社会党全国合同代表者会議」は、「原水禁運動を正常化するため、独自の組織で活動を展開する」ことを確認しあった。

 3.27日、「原水爆被災三県連絡会議」が発足。広島、長崎、静岡の三県の原水協事務局長会議で決まる。「いかなる国のどんな核実験にも反対する」が基調。これが母体となって1965.2.1日、原水爆禁止日本国民会議が誕生していくことになる。  

 すなわちその内容は第一に、国民運動としての原水禁運動の基本を堅持し、その当然の前提たる「いかなる国の核兵器にも反対する」ことを出発点とする立場にたって、部分核停条約を正当に評価し、これを第一歩として全面核停条約の締結を要求しつづけ、もって核兵器を含む軍備全廃、平和共存の達成に努力する。第二に、運動の政党系列化の弊害を排除し、国民の願望と感情に密着した運動を展開する。第3に、国民と密着した運動を展開するために地域原水禁組織の強化について格段の努力を払い、広範な国民の誰もが参加できるようなキメ細かな配慮をする。第四に、米原子力潜水艦の寄港反対、F105D配備反対など、当面の諸課題に対しては、それが原水禁運動にとって不可避的な問題であることを明らかにしつつ行動に取り組む、 というものであった。この呼びかけは国内だけでなく、海外からも多くの共鳴をえた。


 4.7日、このような状況を憂えた広島、長崎、静岡の3被爆地原水協から「原水禁運動の正常化のための被爆地からの呼びかけ」が発表された。これは「最近3ケ年ほど運動の混迷と停滞、さらに昨年の第9回大会を契機とする運動の亀裂は、被爆地としてたえがたいものである」という立場から出された切実なものであった。

 またこの呼びかけは「ここ2、3年来の原水禁運動が、日本共産党の支配介入によって混乱と対立状態におかれ、当然なすべき日常活動も行なえず、春になれば3.1、夏になれば8.6と、たんに人集めの行事をどう行なうかだけに関心がもたれ、それすらも満足に行なえない状態」に対する基本的な「運動の転換」を提起したものであった。

 すなわちその内容は第一に、国民運動としての原水禁運動の基本を堅持し、その当然の前提たる「いかなる国の核兵器にも反対する」ことを出発点とする立場にたって、部分核停条約を正当に評価し、これを第一歩として全面核停条約の締結を要求しつづけ、もって核兵器を含む軍備全廃、平和共存の達成に努力する。第二に、運動の政党系列化の弊害を排除し、国民の願望と感情に密着した運動を展開する。第3に、国民と密着した運動を展開するために地域原水禁組織の強化について格段の努力を払い、広範な国民の誰もが参加できるようなキメ細かな配慮をする。第四に、米原子力潜水艦の寄港反対、F105D配備反対など、当面の諸課題に対しては、それが原水禁運動にとって不可避的な問題であることを明らかにしつつ行動に取り組む、 というものであった。この呼びかけは国内だけでなく、海外からも多くの共鳴をえた。
 4.9日、全国地域婦人団体連絡協議会、日本青年団協議会が日本原水協に脱退届。

 5.13日、日共は、「部分核停条約」に反対を公表した。


【衆議院本会議で「部分核停条約」採決で、社会党賛成、日共反対、日共の志賀派が造反】
 5.15日、衆議院本会議に「部分核停条約」が上程され、採決されることになった。社会党は賛成し、共産党は反対の立場に立った。ところが、こうした党の方針に基づき4議員が反対票を投じたが、志賀が党の決定に背いて賛成票(白票)を投じた。投票総数319のうち反対派共産党の4票だけだったので、志賀の行動が明らかとなり衝撃を走らせた(志賀問題)。この時ソ連のミコヤン第一副首相が傍聴していた。

 本会議解散後、志賀は、報道陣を前に「みなさんに訴える」の声明文を配り、記者会見した。部分核停条約に対する態度は、「地下核実験を除外しているなどの点でまだ不十分なものだが、大気圏内外と水中の核実験を禁止しており、従って少なくとも核実験による放射能汚染によるこれ以上の被害をくいとめ、また際限のない核兵器開発競争を抑制する点で日本と世界の全ての人民の利害にかなっている」としていた。

 5.15日夜、党本部に中委幹部会員.中央書記局員.中央統制監査委員.国会議員団を含む緊急幹部会が開かれた。志賀の出席を求めて、査問が始まった。袴田がいきりたった。16日再度の緊急幹部会が開かれ、志賀の欠席のまま、党所属国会議員としての権利を停止する処分を発表した。同時に「志賀義雄同志の党に反対する行動について」を決定し、17日あかはた紙面に発表した。

 ソ連モスクワ放送.プラウダは志賀を支持。中共 北京放送は反志賀を声明した。中国で療養中の宮顕は、志賀問題の知らせを聞くや、予定 を切り上げ早早に帰国の途についた。この間参議院議員鈴木市蔵も反党の動きを示した。志賀、鈴木市蔵(参議院議員)、中野重治(作家)、佐多稲子(作家)らは「日本のこえ」を結成した。志賀は部落解放運動とのつながりが強く、解放同盟の中からも志賀と行動を共にする人たちがいたことから、日共は攻撃の矛先を解放同盟にも向けるようになる。

 6.20日、日本原水協が浜井広島市長、森滝市郎日本被団協理事長ら10人を除名。

 7.14日、共産党系の広島県被団協が大会。県被団協が分裂。


 7.17日、英国、米国のネヴァダで地下核実験実施。9.25日も。


 8月、3県連の提唱によって開催された「原水爆禁止、被爆者救援、核武装阻止、軍備全廃を世界に訴える広島・長崎大会」が開かれ、原水禁運動の正常化を願う国内外の諸努力の支持のもと、広島に2万、長崎に1万2000の代表を結集して開かれた。そこには各地域、職場の代表、65ケ国、12国際団体の海外代表が参加して盛大に開催され、原水禁運動の正常な基盤をつくりあげることができた。
 8.4日、ジョンソン大統領、トンキン湾事件を口実に北ベトナムを報復爆撃(「ベトナム・トンキン湾事件」)。
 8.28日、日本、米原子力潜水艦の日本寄港を承認。
【中国が核実験行う】
 10.16日、中華人民共和国(中国)が核兵器生産に乗り出し、IRBM東風2の発射実験を行う。これにより、米ソ英仏+中国が核保有国となった。フランス、インドがこれに続く。

 10.26日、日本国産の動力試験炉が臨界に達する。
【日共の岩間参議院の参議院予算委員会での発言】
 10.30日、日共参議院議員・岩間正男が参議院予算委員会で次のような発言している。
 「このたびの核実験によって少なくとも次のような大きな変化が起こっております。これは私の一つの把握をもってしてもこれだけのことは言える。まず第一に、世界の核保有国が五カ国となった。ことに世界の四分の一の人口を持つ社会主義中国が核保有国になったことは、世界平和のために大きな力となっている。元来、社会主義国の核保有は帝国主義国のそれとは根本的にその性格を異にし、常に戦争に対する平和の力として大きく作用しているのであります。その結果、帝国主義者の核独占の野望は大きく打ち破られた。これが第一」([JCP−Watch!]掲示板2002.9.16日 火河渡氏の「原水禁運動に関する歴史の偽造

 11月、ソビエト、赤の広場の軍事パレードで、IRBM・SS-5 Skeanが公開される。
 12.18日、米国、ネヴァダの地下で核実験実施。
1965(昭和40)年
(私論.私見) この年、米ソの核実験が続く中、社会党・総評系の「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)が結成された。これにより、日本の原水禁運動は、原水協と原水禁の二本立てで推進されることになった。ベトナム戦争が始まった。

 1.15日、ソ連がセミパラチンスクBalapan実験場の地下で核実験実施。
 1月、井伏鱒二、「新潮」に「黒い雨」の連載を開始。翌年9月まで。
【原水爆禁止日本国民会議が結成される】

 2.1日、社会党・総評などが東京・電通会館で「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)の結成大会が開かれた。総評、中立労連、社青同、日本婦人会議など13団体と地方代表4000人が参加。代表委員には太田薫・総評議長、森滝市郎氏、浜井広島市長ら6氏。事務局長に伊藤満広島大教授が選出された。

 原水禁は、1965.2.1日の結成にあたり、過去の運動の苦しい経験にかんがみ、運動の正常化とゆるぎない基礎をつくるため、「原水禁運動の基本原則」を確立したのである。この基本原則は、1962.3月につくられた「基本原則」ならびに、1963.2月の「2.21声明」の精神を生かし、「広島・長崎大会」の基調をもとに、運動の諸教訓を生かしてつくられたものである。

 「原水爆禁止運動の基本原則(要旨)」は次の通りである。
 この運動は広島、長崎、ビキニの被爆原体験に基礎をおく。
 いかなる国の核兵器の製造、貯蔵、実験、使用、拡散にも反対する。
 この運動は平和憲法の理念を基礎とし、原水爆の禁止と完全軍縮が、社会体制の異なる国家間の平和共存のもとに達成できるという立場にたつ。
 この運動は思想、宗教、政党政派をこえ、あらゆる階層の団体や個人を結集する広範な国民運動であり、誰もが参加できる民主的運動であるから、社会体制の変革を目的とする運動とは性格を異にし、特定政党に従属するものではない。
 この運動は参加団体の性格を尊重し、各団体の合意によって統一行動を組み団結しこれを行うとともに、それぞれの団体の特徴を生かした独自行動を認めあう。そしてこの運動が関連する諸問題をとりあげ、取り組む場合は、すべての国の原水爆禁止、完全軍縮の立場にたち、参加団体の意見を尊重して行なう。


ベトナム戦争で米軍機による北爆が開始
 2・7日、 ベトナム戦争で米軍機によるべトナム北爆開始。アメリカのベトナム北爆が開始された1965年以降、世界の反戦平和運動の焦点はここに集中され、アメリカのベトナム侵略を阻止することが緊急な課題となった。しかしこの間も世界各国の核開発競争は継続しており、フランスも「独自の核抑止戦略」をつくるというドゴーリズムによって核ミサイルの開発を急いできた。核兵器とともに核エネルギーの「平和利用」が無視できない環境破壊の要素として登場してきた。「核の時代」はいよいよ人類全体を飲み尽くそうとしていたのであった。

 次のように記されている。
 「ベトナム戦争は、究極的には熱核戦争に至る可能性を含むものであるが、戦争の段階的拡大に馴化された大衆にとっては、熱核戦争ではなくドロ沼的局地戦争ととらえられるがゆえに、単に“原水禁”を空語するような運動は、もはや無意味なものとしてしかうつらないし、事実、原水禁の特殊性を強調するあまり“原水禁”に一義的に比重をおく思考は、核戦争にいたらないベトナム戦争なら認めてしまうことにもなりかねない。そうした傾向は運動を形骸化させるものであり、原水爆に反対するわれわれはなによりもまず、戦争そのものに反対するという基本的観点から運動を再生させていく必要がある」。

 2.14日、米国がネヴァダで核実験実施。


 9.10日、米英国がネヴァダで地下核実験実施。

 11月、ソ連が赤の広場の軍事パレードで、道路移動型ICBM・SS-X-15 Scroogeを披露する。ただし配備されず。


 12.5日、米海軍空母タイコンデロガのA−4E艦載機、水爆を搭載したまま沖永良部島近海で墜落。
 この年、米国、対弾道ミサイルミサイルXLIM-49Aナイキジュースの配備を開始。この年、マクナマラ米国防長官、確証破壊戦略を発表。
1966(昭和41)年
(私論.私見) この年、第12回原水禁世界大会が東京で開催され、中ソ対立が持ち込まれた。

 1.17日、米軍の4発の水爆を搭載したB-52戦略爆撃機が、スペインのPalomares近郊で墜落。通常火薬に点火。

 4.25日、米国、ミニットマンU中隊発足。1基1.2Mt。


 6.18日、国労原爆被爆者対策協議会が発足。


 7.2日、フランス、はじめてムルロア環礁で核実験を実施。
 7.11日、広島市議会が原爆ドームの保存を決議。工事費については、共産党・保守党の一部の反対で予算を否決。
【第12回原水禁世界大会】
 7月末、第12回原水禁世界大会が東京で開催された。この時、中国代表団が日本政府から入国を拒否され、周恩来首相のメッセージのみとなった。ところが大会途中でソ連代表が大会参加を申し込み、これを原水協が承認したことにより、中共の意向を汲んだ外国代表が激しく反発し、この参加問題で二日間激論が交わされ、マレーシア・オーストラリアなど15カ国代表が「分裂主義者の参加を認めない」として退場した。

 中国は、この退場グループを北京に召集する一方、日本原水協を「ソ連修正主義と結託し、誤まった路線を押し付けた」と強く非難した。当然のように、赤旗紙上で中国側非難が為された。大衆団体を舞台にした日中共産党間の代理戦争であり、やがて本格的な両党間の対立・抗争に発展していくことになった。

 7.25日、日本原子力発電東海発電所営業運転を開始。
 8.6日、米国、大型ジェット試作爆撃機XB-70バルキリーの2号機が宣伝撮影中に空中衝突で墜落。乗員1名死亡。
 10.5日、米国の高速増殖炉で燃料損傷事故。

 10月、フルシチョフが解任された。K・K時代は長くは続かなかった。


 10月、中華人民共和国、IRBM東風2に核弾頭を搭載し、ロプノール実験場に打ち込む核実験を実施。
 11.17日、米国、SLBMポラリスA−3改良型の試験を開始。
【1967(昭和42)年】
(私論.私見) この年、中国の水爆実験が成功した。佐藤首相が、「核は保有しない、製造しない、持ち込まない」の「非核三原則政策」を表明した。

 .27日、大気圏外核実験制限条約調印。
 3月、中華人民共和国、固体燃料ロケットの開発を開始。

 6.17日、中国が初の水爆実験。


 11.7日、ソ連が赤の広場の軍事パレードでICBM・SS-9 Scarpが披露される。

 12月、佐藤栄作首相、衆議院予算委員会で非核三原則を初めて表明。「核は保有しない、核は製造しない、核は持ち込まない」の三原則。


 この年、原子燃料公社から動力炉・核燃料開発事業団が設立。
【1968(昭和43)年】
(私論.私見) この年、

 1.1日、米国がネヴァダの地下で、核実験実施。3.12日も。

 5.6日、米原子力潜水艦ソードフィッシュ、佐世保港で異常放射能事件発生。


 5.24日、ソ連の原子力潜水艦が炉心溶融事故を起こす。
 6.11日、宮本顕治共産党書記長が山本幸一社会党書記長に「原水爆禁止運動の統一問題で協議したい」と申し入れ。
 7.1日、核拡散防止条約(NPT)追加調印(1970.3.5日発効)。
 8.16日、米国、ICBMミニットマンVの発射実験に成功。8.16日、米国、SLBMポセイドンC−3の地上発射実験を行う。 12.8日、米国、ネヴァダの地下で、核実験 実施。
 この年、ソビエト、対弾頭ミサイルミサイル(ABM)モスクワ防衛網の運用を開始。ソ連が対潜水艦核魚雷搭載巡航ミサイルSS-N-14 Silexを艦艇に配備。敵潜上空で核魚雷を投下するミサイル。グリーンランドで米軍の水爆搭載機が墜落。水爆が破損。
【1969(昭和44)年】
(私論.私見) この年、

 4.11日、米国、ICBMミニットマンVのサイロ内発射試験に成功。
 6.12日、原子力船むつ進水。
 6.24日、フランス、サイロ発射型ミサイルSSBSのプロトタイプS-02の発射実験を大西洋に向けて実施。
 7.20日、米国のアポロ11号、月面に軟着陸。

 11月〜12月にかけてヘルシンキでSALT予備会談が行われる。


 11月、佐藤栄作首相とニクソン大統領が、沖縄返還に関する核密約に極秘に合意。 
【1970(昭和45)年】
(私論.私見) この年、

 3.5日、NPT(核拡散防止条約)実施。1980年までに100ヶ国が批准。
 4.8日、日本、新型動力炉の名称を、FBR実験炉「常陽」、FBR原型炉「もんじゅ」、ATR原型炉「ふげん」と決定。
 4.24日、中華人民共和国、初の人工衛星東方紅1号を打ち上げる。
  7.17日、米国大西洋艦隊、SLBMの各種ポラリスをポラリスA−3Tに置換開始。

 8.3日、米原潜ジェームズ・マディソンからSLBMポセイドンC−3の発射実験を行う。


 9月、中曽根防衛庁長官、訪米中、有事の際の核持ち込み容認を発言。
 11.30日 日本、「ふげん」建設許可。
 12.18日、米国、ネヴァダの地下で核実験実施。

 12.29日、米国、ミニットマンV中隊発足。 


【1971(昭和46)年】
(私論.私見) この年、

 2.11日、海底非核化条約調印。
 3.30日、米国、SLBMポセイドンC−3の配備を開始。

 4.24日、米国で大規模な反戦デモが行われる。参加20万人。


 ミクロネシアから原水禁世界大会に参加したアタジ・バロス議員(1971年の被爆26周年大会)は、「ビキニの核実験の被害者を是非調査してほしい」と要請してきた。原水禁はこれに応えることを決め、71年末調査団をミクロネシアに派遣した。アメリカの妨害で被爆地であるロンゲラップやウトリック島には行けなかったが、マジェロ島で多くの被爆者に会うことができた。

 約243名が「死の灰」をあび被爆したが、41名はすでに死んでいた。ロンゲラップやウトリック島が放射線被ばくの最もひどかったところであるが、これらの人々は米原子力委(AEC)のモルモットとして利用され、まともな治療はうけていなかった。被爆者たちはビキニ事件の「死の灰」をあび、その直後ほとんど全員が急性の放射線障害症状を呈したという。広島、長崎と同じように、下痢・頭痛・脱毛そして白血球の減少を体験した。

 この原水禁の調査は英文となって各国の平和運動に送られて、各地の核実験反対運動の資料となっている。これら一連の活動を通して、「原水禁」はアジア太平洋一帯の連帯を追求することになった。環太平洋の国際連帯を指向し、1975年4月には、フィージーで「太平洋非核化会議」が開かれた。原水禁もこの会議の成功に大きく貢献したのである。

 原水禁運動は感情的に「核兵器反対」というだけではない。核の恐ろしさ放射線障害のひどさを理論的にも明らかにし実証的にもはっきりさせて、人々を説得してゆかなくてはならない。それがどんなに困難でもやり遂げなくてはいけないだろう。科学者や専門家と協力し、自らも学習して「核」に関する知識と理論を蓄積してゆかなくてはならないのである。


 10.15日、米国、沖縄の日本復帰に備え、辺野古弾薬庫の核弾頭撤去を密かに検討。
 11.6日、米国、アムチトカ島の地下で核実験実施。
 この年、米国、ビッグバード偵察衛星を打ち上げる。ソビエト、道路移動型ICBM・RS-14(SS-16 Sinner)の飛行試験を行う。中華人民共和国、IRBM東風3の配備を開始。フランス、独自のSLBM・MSBS(Mer Sol Balistique Strategique)シリーズの配備を開始。IRBM・SSBSの配備を開始。日本、高エネルギー物理学研究所設立。
【1972(昭和47)年】
(私論.私見) この年、

 5.27日、米ソが第1次戦略核兵器制限条約(SALTT)に調印。
 5月、ベトナム戦争でスマート爆弾を使用。
 6.2日、広島県教組、国労広島地本など単産、被爆者団体七組織が「被爆二世問題連絡会」を結成。
 11月、SALTUの交渉が始まる。

 この続きは、「原水禁運動の歩み(2)」に記す。





(私論.私見)