補足(17)2 東大国際派内査問事件

 (最新見直し2007.5.5日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 1952(昭和27).2.14日頃、国際派東大細胞内で査問・リンチ事件が発生している(これを仮に「国際派東大細胞内査問・リンチ事件」、略称「不破査問事件」と云うことにする)。「不破査問事件」とは、次のように定義できる。
 当時の学生運動の主流派であった国際派の東大細胞内における指導的メンバーの一員であった戸塚秀夫・不破哲三・高沢寅男(都学連委員長)の3名が「スパイ容疑」で監禁され、以降2ヶ月間という長期の査問が続けられ、概要「特に戸塚、不破には酷烈、残忍なるテロが加えられた」と云われている事件である。
 
 「不破査問事件」の運動史的意味、この事件を考察する意味は、1・これが戦後学生運動の初のリンチ事件となったということ。2・この時査問された不破らの容疑がスパイであり、その不破がその後日共の最高指導者として登場するに至ったということ。3・この時事件に介入してきた宮顕の胡散臭さが垣間見え、宮顕と不破の特殊関係を見て取ることが出来る、という三点で興味深い事件となっているところにある。

 宮顕の胡散臭さについては「宮本顕治論」で考察しているのでここでは触れない。ここでは不破の胡散臭さについて照準を合わせる。不破にも、宮顕の「戦前党中央委員査問致死事件」同様に「不破査問事件」に纏(まつ)わる疑惑があり、これが不破の胡散臭さの言い逃れの聞かない汚点となっている。この場合、不破は被害者として登場するのであるが、れんだいこはスパイとして疑われるだけの充分過ぎる根拠があったのではないのかと思っている。

 ちなみに、不破は今に至るまで事件への釈明が無く、最近出版した「私の戦後60年」でも意図的に言及を避けている。通常、有り得てはならないことである。不破は、自身の不名誉の汚名を積極的にそそぐべきであるのに沈黙していることになるが、沈黙せざるを得ないと看做すべきではなかろうか。

 この史実は隠蔽されており、僅かに安東氏の「戦後日本共産党私記」で概要が説明されているばかりである。安東氏の著述は、その内容の出来がどうであれ、事件の存在を明るみにしたという点で功績がある。れんだいこは、宮顕同様に不破の政治的特質を定めるためにこの事件を検証していくことにする。今のところは主として「戦後日本共産党私記」を参照する。こたびは大金氏より貴重な関連証言を頂いたのでこれをも書き付けておく。付言すれば、査問責任者武井氏の沈黙は許されない。れんだいこは、思い出すには苦しいことが多かろうとも、歴史責任として存命中に克明に記録を残されることを願う。

 付言すれば、安東氏の「戦後日本共産党私記」を評するのに、「不破がかくも無残な査問テロに遭った」事を確認するばかりのものが多い。れんだいこは、こういう評者は基本的に脳構造がお粗末なのではないかと思う。「不破がかくも無残な査問テロに遭った」事の確認は論の遠景からのスケッチに過ぎない。次に当然に「5W1H」手法で要因を解析せねばならない。これを為さずしてスケッチで事足りる識者の見識が信じられない。こういう手合いが左派系知識人として通用すること事態が左派圏の貧困を証しているとしか言いようがない。実に一事万事こういう調子なのではなかろうか。

 宮顕が本来の意味での日共運動の指導者であれば、当時の全学連を指導した武井や安東その他歴々をこそ後継者とするであろうにその連中を退け、逆に、本事件でスパイ容疑という致命的な傷を負った不破の方を引き上げていった。ここにも宮顕の登用の仕方に変調さが認められる。不破はその後、兄上田耕一郎と共に党内階段を一瀉千里に上り詰めていった。それらの結果、日本左派運動はどのように変質せしめられたのか、ここを凝視したい。日共は現在、無惨な姿を晒しており、戦後60年の活動を通じて共産党の名に値する実質は何も造っていないことに気づかされる。これは果たして偶然だろうか。

 こう問う時、戦後日共運動の流れを疑惑するときの重要な事件として「不破査問事件」が見えてくる。 れんだいこの「宮顕ー野坂スパイ説」はまだ認識の共有にまで至っていないが、それは日本左派運動の見識が余りにも低いからである。そうとしか考えられない。そういう連中に限って往々にして難しく理論をこね回すが、その見識は格段に低く児戯的である。れんだいこは、「戦前党中央委員小畑査問致死事件」の真相が各種資料の漏洩で、今頃になって宮顕のスパイ的正体が露になったと同様に、この事件で不破の胡散臭さが見て取れると思っている。

 してみれば、戦後日共運動は、「50年分裂」で徳球ー伊藤律派が指導権を失って以来、当局肝煎り派によって舵取りされてきたことになる。日本左派運動の低迷の真因はこの辺りにあるのではなかろうか。この観点は、「戦後60年」という歴史の経緯で見えてきたものであり、大いに議論されねばならないだろう。この肝腎な議論を避けるのが、日本左派運動者の習性である。

 以上、前置きとし、この事件の経過をれんだいこのコメント付きで追ってみたい。

 2005.9.20日再編集、2007.5.5日再編集 れんだいこ拝
 発端は、「早稲田の細胞でスパイをつかまえて査問した。オマタというニセ学生で、そいつを査問したところ戸塚と不破がスパイであることを自白した。彼らが一緒に会議を持った日取りと場所を自白したが、それは今年の1月5日、場所は指ケ谷町のパールという喫茶店で、その喫茶店は調べたところチャンとある。オマタはそこで数人と会合し、その中に戸塚と上田(不破)がいたことを喋ったのだ」という容疑から始まった。

 査問場所は東大の構内の一角で行われ、十数人のメンバーが車座になって右3名を直立不動に立たせて査問が始まった。全員が腰を降ろしたところで力石が口火を切った。「これから我々は一人一人についてボルシェヴィキ的批判と自己批判を行う」と。「そして彼はいきなり高沢を指名した。訊問は武井がやった。既に武井の口の利き方は同志でもなければ対等でも普通でもなかった。不破の訊問の時に、突如、武井の手が不破の顔面に飛び、なぐり飛ばされた不破の眼鏡がコンクリートの床の上で音を立てて滑った。『貴様!』武井は殴打しながら不破をなじった。『もう証拠は挙がっている。早いところ白状しろ』、武井の勢いはすさまじかった。不破は真っ青になって『知りません』、『分かりません』と否定し続けた。査問は徹夜で続行した。早大細胞のキャップ・松下清雄の姿が部屋の中にいた。戸塚と不破は身に覚えが一切ないとして容疑を否認し続けた」。

 興味深いことは、この時査問側は、宮本顕治が戦前のスパイ摘発闘争の総括の中から引き出した点検項目『一・金、二・女、三・無理論、四・官僚主義の4項目』に基づいて調査を進めていっていることにある。当時の国際派の精神的支柱として宮顕が位置していたことと、宮顕の行くところ常に査問リンチが加わることが分かる。

 「夜が明けて査問場所を移すことになった。専ら戸塚に対して、そこでの査問はもはやリンチと呼ぶ他はない様相を呈していた。『未だ吐かない』、『しぶとい奴だ』と、いら立てばいら立つほど交替で追及する者のリンチは強くなっていた。戸塚は遂に気を失って倒れた。幸い、意識を取り戻して回復したが、この辺り以降から埒のあかないままうやむやに経過していくことになった」ようである。この三人に関連して、あるいはこの事件をキッカケにして何人かの同志が査問にかけられた。この過程で蒙った個人的、組織的打撃は深刻であった。

 やがて、この査問を総括する会議が開かれることになった。この時武井が奇妙な次のような発言をしていることが注目される。「我が東大細胞がこれまでに反帝、反占領軍の激烈な闘争を闘い続けながらも、さしたる弾圧を蒙らずにきたのは戸塚、不破らのスパイが指導部に潜入していたためであるが、これらスパイを摘発した以上は今後に厳しい弾圧を予想しなければならない」。この文中「(国際派の)東大細胞がさしたる弾圧を蒙らずにきた」とあるのは、なかなか貴重な証言である。

 「総会は報告を異議無く承認したが、総会が終わった後の細胞の空気は当然にも重苦しかった」。その後暫くして、戸塚が睡眠薬自殺を図った。遺書も残されていた。これをキッカケに力石と安東がスパイ事件の再審査を要求する党内闘争を開始した。「この時点でも武井の方は3名のスパイであることの確信をゆるがせにしておらず、自殺未遂も芝居臭いと一蹴していた。数次の評定会議が開かれ、結局、宮本の『スパイにこうした文章が書けるものではない』との評価が流れを変えた。結論は、戸塚、不破に対するスパイの断罪、そしてそれに関連した高沢らの除名は取り消す。しかしこの過程で彼らには様々な非ボルシェヴィキ的要素が明らかになったので、全ての指導的地位に就かせることはしない」となった。同時に武井が、この間の指導責任として、「この決定を承認する以上、自分は責任を負って指導的地位から退きたいと」申し出たが、誰もこれを受け入れしようとはしなかった。この決定を経て直ちに細胞総会が開かれ、総会は異議無くこの報告を承認した、とある。以上が事件の概要である。


【事件前の予備知識その一、宮顕派による東大細胞掌握】
 この当時、東大細胞は宮顕の影響下にあった。木村勝三氏は、「東大細胞の終わり―『戸塚事件』の記憶」(「1.9会文集」2号)の中で次のように述べている。
 概要「50年当時の東大細胞には国際派中の正統派宮本顕治に直結した秘密の中核組織、『ゲハイムニス・パルタイ』(通称ガー・ペー)、つまり、秘密の、とくに権威ある党エリート組織が恒常的に存在し、これが全細胞の指導権を握っていた」。
(私論.私見) 宮顕の秘密警察的組織づくりの常習性について 

 木村勝三氏の指摘の重要性は、宮顕の出向くところいつでもどこでもこうした「ガー・ペー」のような警察的秘密組織が作られることを史実的に例証していることにある。宮顕=スパイ論は目下れんだいこの専売的見解であるが、この観点から史実を読み直すことが要請されていると自負している。

 
安東氏は、「戦後日本共産党私記」で次のように記している。
 「私たち東大細胞内部での批判活動は急速に結晶して、分派的形態をとるに至った。その名称は、『G・P(Geheimnis Parteiの略称)』を名乗るもので、最初のメンバーは戸塚・高沢・銀林・不破哲三・佐藤経明・大下勝造、そして私といった顔ぶれで、逐次に竹中一雄・福田洋一郎・長谷川らを加えていった。その上部組織として『E・C(エグゼキューティブ・コミッティーの略称)』を名乗って力石と武井がいた。この他にも富塚文太郎らの全学連書記局グループが加わっていたはずであるが、書記長の高橋は宮本について九州に赴いた」
 概要「この『G・P』がいつ頃結成されたのか記憶に定かではないが、かなり早い時期−1月の末頃ではなかったかと思う。メンバーは厳選され、完全な秘密が求められた。ある夜、私(と戸塚もか?)は力石と武井に連れられて一夜、そのメンバーに引き合わされることになった。いかなる人物が姿を現わすか、緊張して待ち受けていた私の前に、小野義彦がにこやかな笑顔で現れた。(その後、小野と同じくアカハタの編集部にいた内野壮児、全金属の西川彦義、そして平沢栄一がそのメンバーであることが判った)」。
 「従来の関係から私たちが最も期待していたのは宮本であるが、百合子夫人も止めたと伝えられた九州への『都落ち』に応じた彼の態度を、武井や力石は『デブ顕』の公式主義、日和見主義と批判していた」。

(私論.私見) 「宮顕派による東大細胞掌握」について

 「戦後日本共産党私記」は、この時期、東大細胞が宮顕派により掌握されていたことを証言している。全学連運動を大衆運動の一翼として位置づけ、向自的取り組みで名指導ぶりを発揮していた武井系全学連執行部は、その出身母体である東大学生運動は、宮顕に篭絡されたことで輝きを失う。武井派は宮顕に翻弄された挙句結局のところ穏和化され、その後の全学連は、島・生田らのブント運動が創出されるまで低迷を余儀なくされていくことになる。

 この点、もう一つの学生運動の雄・早大においては宮顕派の影響はそれほどでもなく、むしろ党中央分裂状況に合わせて各派が入り乱れ、それが却って闘争の熱と質を高めていくことになった。これが、50年代学生運動の二大指導部の相関図であるように思われる。

 2005.9.16日 れんだいこ拝


【事件前の予備知識その二、戸塚が東大細胞キャップに就任】
 党中央の「50年分裂」の過程で、東大細胞内で党中央派(徳球系所感派)と反対派(宮顕系国際派)の亀裂が深まり、全学連執行部を形成していた武井派が宮顕派についた為、党中央派寄りで指導していたL・Cキャップの小久保が「獅子身中の虫」として解任されている。同様の立場を執っていた沖浦も失脚している。これらの動きは、「50年分裂の煽りによる東大細胞内政変」とでも呼べるであろう。

 L・Cキャップの地位には戸塚が後釜に座った。戸塚は49年に経済学部に入学し、一学期は本富士署の通訳をしていたと云う。夏頃から細胞活動に専念し、精力的に活躍していた。たちまちのうちにL・Cに推されていた。その戸塚は、1950.10.17日の「第1次早大事件」での無謀な突撃指導による学生143名逮捕の有責者であった。これが戸塚査問の背景にあった。
(私論.私見) 戸塚と本富士署の関係について

 何気なく「戸塚は49年に経済学部に入学し、一学期は本富士署の通訳をしていた」とあるが怪しい。本富士署は本郷所管で、戦前より帝大の取締りを主任務とする他、左翼学生対策、左翼運動のスパイ対策の元締め現場のようなところとしてつとに知られている。「見境なしに掴まえてヤキを入れるので有名であった」ところでもある。

 そういうところで「通訳をしていた」というがどういう仕事をしていたのか。戸塚は、「夏頃から細胞活動に専念し、精力的に活躍していた。たちまちのうちにL・Cに推されていた」とあるが、その昇格の背景にはどういう事情があったのか調査を要することであろう。

 2005.9.16日 れんだいこ拝

【事件の発端】
 1951.2.13日頃、早大細胞が小俣(以下、オマタと称す)というニセ学生スパイを摘発した。オマタの摘発経緯について、当時の早大国際派系の指導的活動家・大金久展氏(政経学部)が当時の状況を次のように証言している。
 この時期、早大第一細胞は解散させられており、50.10月のレッド・パージ反対闘争の首謀者として除籍処分を受けた津金佑金(政経学部、後の党中央委員、統一戦線部長)、そして私を含め数名の国際派系早大細胞が、50.12月、自活の拠点として又大量逮捕された学友への差し入れ、保釈金の調達を目的として新宿駅南口の和田組マーケット内に居酒屋「自由学校」を開店させた。そこへ、東大哲学科の学生と称してオマタが現われ、常連化し始めた。出入りする活動家の動静を探るような挙動不審が見られた為、東大細胞に照会したところニセ学生であることが判明した。
 
 政経学部の志村豊寿(後の「日本のこえ」派東京都委員長)が早大社研の部室に誘い出し、所感派の新宿地区委員長・飯沼某(後の国民救援会事務局長)が査問委員長、早大再建細胞の小林央などが立会い査問した。

 この査問過程で、オマタは次のような驚くべきことを喋った。「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「早稲田の細胞でスパイをつかまえて査問した。オマタというニセ学生で、そいつを査問したところ戸塚と不破がスパイであることを自白した。彼らが一緒に会議を持った日取りと場所を自白したが、それは今年の1月5日、場所は指ケ谷町のパールという喫茶店で、その喫茶店は調べたところチャンとある。オマタはそこで数人と会合し、その中に戸塚と上田(不破)がいたことを喋った」。
(私論.私見) スパイ容疑の根拠について

 「戦後日本共産党私記」は単にこのようにしか記していないが、「オマタ証言」の内容が判明する。それによると、「戸塚と不破がスパイであることを自白した」ということである。

 2005.9.16日 れんだいこ拝

 凡そ以上のように伝えられている。これが、「東大国際派内査問事件」の発端となる。

 査問後の経過について、大金久展氏が次のように証言している。
 解散されなかった早大第二細胞にいた隠れ国際派の畠中稔美(後に澤地久枝と結婚。小林勝の「断層地帯」に北原という名前で登場している)が、「オマタ証言」のあらましを早大国際派細胞キャップの松下清雄(すがお、文学部)に報告し、松下は、早大学生自治会委員長・吉田嘉清(後の原水協代表理事)と協議し(この時の吉田嘉清あて松下書簡が残されている)、全学連中執に連絡した。当時の東大細胞の実質的責任者は武井、力石であり、調査に乗り出した。
(私論.私見) スパイ容疑の根拠について

 「大金証言」は重要である。「オマタ証言」が、畠中稔美→松下清雄→吉田嘉清→東大細胞の実質的責任者・武井、力石へと伝達されたことを証言している。こうして、早稲田に対する東大国際派細胞の面子に関わる事件となったことが分かる。事の重大性に鑑み、慎重な裏付け調査が着手され、容疑間違い無しとの裏づけが取れた事が上申され、それに基づき査問が決定された筈である。あるいは調査よりも怒り心頭に上っての「不破査問事件」に至ったものか、この辺りは判然としない。いずれにせよ、事件にはそういう経緯と質があり、ここが踏まえられないと事件の史実的重みが見えてこないことになる。

 2005.9.16日 れんだいこ拝

【査問の様子】
 1952.2.14日頃、「不破査問事件」が発生した。当時の学生運動の主流派であった国際派の東大細胞内における指導的メンバーの一員であった戸塚秀夫・不破哲三・高沢寅男(都学連委員長)の3名が「スパイ容疑」で監禁され、以降2ヶ月間という長期の査問が続けられ、概要「特に戸塚、不破には酷烈、残忍なるテロが加えられた」、と云われている事件となった。

 査問場所は東大の構内の一角で行われ、事件の発端をつくった早大細胞キャップ松下清雄他1名が立会いした。十数人のメンバーが車座になって右3名を直立不動に立たせて査問が始まった。全員が腰を降ろしたところで力石定一(後の法政大名誉教授)が口火を切った。

 「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「これから我々は一人一人についてボルシェヴィキ的批判と自己批判を行う」。
 「そして彼はいきなり高沢を指名した。訊問は武井がやった」。
 「既に武井の口の利き方は同志でもなければ対等でも普通でもなかった」。
 「不破の訊問の時に、突如、武井の手が不破の顔面に飛び、なぐり飛ばされた不破の眼鏡がコンクリートの床の上で音を立てて滑った。『貴様!』 武井は殴打しながら不破をなじった。『もう証拠は挙がっている。早いところ白状しろ』、武井の勢いはすさまじかった。不破は真っ青になって『知りません』、『分かりません』と否定し続けた。査問は徹夜で続行した。早大細胞のキャップ・松下清雄の姿が部屋の中にいた。戸塚と不破は身に覚えが一切ないとして容疑を否認し続けた」。

(私論.私見) 不破の対応の不自然さについて

 れんだいこの個人的な感想を云えば、この時不破の「知りません」、「分かりません」的否認対応は変調ではなかろうか。戦前の小畑中央委員査問致死事件のように査問側がスパイで、スパイで無い者がスパイ容疑で査問されるという場合には、極力口数少ない対応の方が良いように思われる。それでも最低限的確な応酬をすれば良し。実際、小畑はそのように対応している。

 この事件の場合には、査問側は革命的熱情のみある青年達である。何を臆してダンマリ戦術を取る必要があろうか。身に覚えが無ければ、断固として冤罪を晴らすべく反駁するが良かろう。それが当たり前ではなかろうか。「パールという喫茶店でスパイ・オマタとの謀議を凝らしていた」とする事前調査との齟齬を判明させれば良かろうに。それを為しえず、「知りません、分かりません」問答を通していることに不自然さを感ずるのはれんだいこだけであろうか。

 この時、査問側は、早大細胞キャップ松下清雄を立会いさせている。不破の「知りません」、「分かりません」はつまりは、松下の存在を前にしては身の潔白を抗弁できなかったのではないのか。要するに、「パールという喫茶店でスパイ・オマタとの謀議を凝らしていた」という容疑を否定できなかったのではないのか。

 不破は、当時レポ係として学生運動内の情報を収集する任務についていたとも聞く。その不破が、「スパイ・オマタとの謀議」を図っていた。戸塚は左派弾圧で悪名高い本富士署に出入りしていたという経歴がある。これを関連させれば、ことは由々しきことである。これが事実とすれば、不破のこの時点でのスパイ性が確認されることになる。日本左派運動は、このことを踏まえる必要があるということになる。この辺りは松下氏の事件に対する見解を聞きたいところである。れんだいこは、思い出すには苦しいことが多かろうとも存命中に克明に記録を残されることを願う。(その松下氏は先年逝去された)

 2005.9.16日 れんだいこ拝


宮顕直伝の査問要領
 この時査問側は、「宮顕式査問」の影響を受け、宮顕が戦前のスパイ摘発闘争の総括の中から引き出したとされる点検項目「1・金、2・女、3・無理論、4・官僚主義」の4項目に基づいて調査を進めている。

(私論.私見) 宮顕直伝の査問要領について

  査問側が宮顕直伝の要領で査問を進めていることが明かされているが、これは実に興味深いことである。当時の国際派の精神的支柱として宮顕が位置していたことと、宮顕の行くところ常に査問リンチが加わることが分かる。

 なお且つ、点検項目とされている「1・金、2・女、3・無理論、4・官僚主義」の4項目のくだらなさよ。このガイドに基づけば、人は誰しも何らかの容疑を被せられるであろう。当然、査問側とて同様であるが自らは問われない。その構図の上で相手を追い詰めるとは何と得手勝手な点検項目を編み出したことよ。戦前の小畑中央委員も同様の項目で尋問されていたことが判明している。ちなみに、戦前の特高が転向を強いた時の手口と酷似している。

 2005.9.16日 れんだいこ拝


【査問の経過】
 査問のその後の経過について、「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「夜が明けて査問場所を移すことになった。専ら戸塚に対して、そこでの査問はもはやリンチと呼ぶ他はない様相を呈していた。『未だ吐かない』、『しぶとい奴だ』と、いら立てばいら立つほど交替で追及する者のリンチは強くなっていた。戸塚は遂に気を失って倒れた。幸い、意識を取り戻して回復したが、この辺り以降から埒のあかないままうやむやに経過していくことになった」。

 この三人に関連して、あるいはこの事件をキッカケにして何人かの同志が査問にかけられた。この過程で蒙った個人的、組織的打撃は深刻であった。

【査問の総括】
 やがて、この査問を総括する会議が開かれることになった。この時武井が奇妙な次のような発言をしていることが注目される。「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「我が東大細胞がこれまでに反帝、反占領軍の激烈な闘争を闘い続けながらも、さしたる弾圧を蒙らずにきたのは戸塚、不破らのスパイが指導部に潜入していたためであるが、これらスパイを摘発した以上は今後に厳しい弾圧を予想しなければならない」。

(私論.私見) 「国際派にはさしたる弾圧が無かった」について

 武井のこの時の弁「(国際派の)東大細胞がさしたる弾圧を蒙らずにきた」とあるのは、なかなか貴重な証言である。これを理解するにはよほど事情に精通していないと覚束ない。

 武井を委員長とする全学連主流派は急進主義的立場で徳球系党中央に対立してきた。そこに「50年分裂」が発生する。武井らは宮顕系と行動を共にする。ところが、「50年分裂」時代に徳球系所感派の方が急進主義化し、宮顕系国際派の方が穏和化するという妙な局面が発生し、立場が逆転する。政治的に最も沸点化していたこの時期に武井系全学連主流派は宮顕系に組して恭順運動を展開していたことになる。この時点で武井系の急進主義運動は「ネジレ」、以降この「ネジレ」が武井らの運命を弄ぶことになる。

 それはそれとして、武井が、「(国際派の)東大細胞がさしたる弾圧を蒙らずにきたのは戸塚、不破らのスパイが指導部に潜入していたためである」と述べていることは、国際派運動が当局の肝煎り運動であったことを自認していることになる。その上で、「戸塚、不破らのスパイの摘発」をした以上「今後の厳しい弾圧」を招くことを予見しようとしている。図らずも当時の国際派運動の変調さが吐露されていることになる。

 2005.9.16日 れんだいこ拝


【釈放とその後の様子】
 査問釈放後の戸塚が睡眠薬自殺未遂と、事件の再審査要求闘争について、「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 概要「総会は報告を異議無く承認したが、総会が終わった後の細胞の空気は当然にも重苦しかった。その後暫くして、戸塚が睡眠薬自殺を図った。遺書も残されていた。これをキッカケに力石と安東がスパイ事件の再審査を要求する党内闘争を開始した。この時点でも武井の方は3名のスパイであることの確信をゆるがせにしておらず、自殺未遂も芝居臭いと一蹴していた」。 

宮顕の介入
 数次の評定会議が開かれ、結局、宮顕の「スパイにこうした文章が書けるものではない」との評価が流れを変えた。結論は次のようなものであった。
 「戸塚、不破に対するスパイの断罪、そしてそれに関連した高沢らの除名は取り消す。しかしこの過程で彼らには様々な非ボルシェヴィキ的要素が明らかになったので、全ての指導的地位に就かせることはしない」。

 この頃の宮顕の次のような言いがある。
 「19中総以後政治局は学生問題の処理を同志志賀と私にまかせるようにきめた.私は九州に出発する前数日間をそれにあて、東大細胞指導部を党本部によんで、他の統制委員列席の下に調査(高沢、安東のスパイ容疑)したが、スパイとみなすことはできなかった」。

(私論・私観) 宮顕介入の変調さについて

 遂に、黒幕の宮顕が出張ってくることになり、それにより決着がつけられたことが判明する。その裁定は、「右派に優しく左派に手厳しい」常套手法であり、こたびも右派系の不破らに対しては真相解明放棄の徒な温情措置となった。

 それにしても、この時の最低限の申し合わせ事項となった「(今後は)全ての指導的地位に就かせることはしない」を反故にし、その後不破を登用していったのが宮顕その人であることを確認せねばならないだろう。つまり、宮顕は、この事件に於いて不破らに対する「助っ人」的役割で介入していることが真相であることを知らねばならない。

 ならば、宮顕が何ゆえに不破らの救出に向かったのかこそ詮索されねばならない。「当局奥の院の指示」を見て取るのがれんだいこの観点である。他に理解の仕方があるだろうか。

 2005.9.16日 れんだいこ拝


査問終了に当たっての力石・安東対武井の対立
 捜査終了の様子はこうであった。力石と安東が不破救済に乗り出し、武井が最後まで容疑の濃厚さと査問の正義性を確信し、「武井を採るか不破を取るか」迫るところまで進展した。この史実も、以降伏せに伏せられ今日に至っている胡散臭い党史部分である。

 結局、宮顕提言に従い何も明らかにならぬまま有耶無耶のうちに査問が終了することになった。武井が、この間の査問指導責任として役職辞任を申し出た。「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「この決定を承認する以上、自分は責任を負って指導的地位から退きたいと申し出たが、誰もこれを受け入れしようとはしなかった。この決定を経て直ちに細胞総会が開かれ、総会は異議無くこの報告を承認した。

 いずれにせよ、この事件で東大国際派の戦力がガタガタにされた。

(私論.私見) 武井対力石・安東の対立について
 
 当然のことながら、武井の「不破らのスパイ容疑の濃厚さと査問の正義性の確信」は、その情報をもたらした早大細胞のキャップ・松下清雄との同志的信頼関係を前提にしている。早大と東大という当時の二大細胞の責任者が着手した査問事件である故に、組織の責任と面子及びキャップの政治能力のかかった「引くに引けない」事情にあったことが分かる。これを思えば、余程の確信をもって着手されたことこそ推し知るべきであろう。

 これを知れば、武井は、宮顕の胡散臭さを見抜けなかったとはいえ指導者責任能力を踏まえた原則派として終始しており、力石・安東の方こそ本質的に非政治的な日和見派であることが分かる。その後の軌跡は、当人達をそのように歩ませていくことになり、その様を見て取ることができよう。

 2005.9.16日 れんだいこ拝


(私論.私見) 「れんだいこの東大国際派内査問事件考」

 安東氏の「戦後日本共産党私記」は、不破らに為された査問の様子を明らかにしている。が、肝心のスパイ容疑の確度については何ら考察していない。判明することは、1・早稲田の細胞が情報を掴み、東大細胞に連絡し、査問会議が開かれるに至った。2・査問は、宮顕直伝手法で為された。3・不破らはろくな抗弁を為し得ず「知らぬ存ぜぬ」で通した。4・暗誦に乗りあがるや、宮顕が「不破の助っ人」役で乗り出し、5・宮顕の直々の関与で玉虫色決着を指示し解決した。6・宮顕指示の受け入れを廻って武井と力石・安東が対立した、ということである。

 奇妙なことは、好査問性があり最も強硬な責任追及するのを常習としている宮顕がこの時に限って「寛大な措置」を指示していることである。この仕掛けが見破られねば、「東大国際派内査問事件考」とはならず、当時の左派運動の単なるゴシップ騒動顛末記に堕してしまうであろう。


 2005.9.16日 れんだいこ拝

高沢寅男氏の事件の回顧について】

 高沢氏は後年、「九六・二東大学生細胞の闘い」の中の「カオスとロゴス」(「高沢寅男のあゆみ」、2000.10月)で次のように指摘している。

 「日本革命の前衛となるのは我々しかあり得ないという、自己暗示的使命感に燃えたぎっていた。それは世俗の常識と断絶された特殊な閉鎖集団と化していた。こういう集団の内部で、いったんスパイとみなされば、『スパイは殺してもいいんだ』というところへまでエスカレートすることは簡単な成りゆきである。私は両君に加えられた異常な暴力の中に、こうした論理と感情が込められていたと思う。恐ろしいことである。日本の革命運動の中に、その後続出してきた内ゲバ、リンチ事件の源流は武井君の引き起こした東大細胞スパイ査問事件であったと私は思う」。

(私論.私見) 「高沢氏の事件回顧」について

 高沢氏のこの回顧は、「スパイ誤認」を引き起こす組織の倫理と感情をよくいいあてていると思われる。但し、高沢氏自身がスパイ容疑で査問された側としては云えるべくもなかろうが、「東大国際派内査問事件」は「スパイ誤認事件」であったのかどうか、肝心のことに触れていないのはどうしたことだろう。高沢氏自身が、己はともかくも戸塚、不破へのスパイ容疑についてどう思っていたのか一言も語らないのはオカシナ態度であろう。

 2005.9.16日 れんだいこ拝


【松下清雄氏のその後について】
 2006.8.21日、松下氏逝去(享年**歳)。「三つ目のアマンジャク」に続いて遺稿集「草青火」が出版された。




(私論.私見)