補足(17)2 | 東大国際派内査問事件 |
(最新見直し2007.5.5日)
(れんだいこのショートメッセージ) | |
1952(昭和27).2.14日頃、国際派東大細胞内で査問・リンチ事件が発生している(これを仮に「国際派東大細胞内査問・リンチ事件」、略称「不破査問事件」と云うことにする)。「不破査問事件」とは、次のように定義できる。
「不破査問事件」の運動史的意味、この事件を考察する意味は、1・これが戦後学生運動の初のリンチ事件となったということ。2・この時査問された不破らの容疑がスパイであり、その不破がその後日共の最高指導者として登場するに至ったということ。3・この時事件に介入してきた宮顕の胡散臭さが垣間見え、宮顕と不破の特殊関係を見て取ることが出来る、という三点で興味深い事件となっているところにある。 宮顕の胡散臭さについては「宮本顕治論」で考察しているのでここでは触れない。ここでは不破の胡散臭さについて照準を合わせる。不破にも、宮顕の「戦前党中央委員査問致死事件」同様に「不破査問事件」に纏(まつ)わる疑惑があり、これが不破の胡散臭さの言い逃れの聞かない汚点となっている。この場合、不破は被害者として登場するのであるが、れんだいこはスパイとして疑われるだけの充分過ぎる根拠があったのではないのかと思っている。 ちなみに、不破は今に至るまで事件への釈明が無く、最近出版した「私の戦後60年」でも意図的に言及を避けている。通常、有り得てはならないことである。不破は、自身の不名誉の汚名を積極的にそそぐべきであるのに沈黙していることになるが、沈黙せざるを得ないと看做すべきではなかろうか。 この史実は隠蔽されており、僅かに安東氏の「戦後日本共産党私記」で概要が説明されているばかりである。安東氏の著述は、その内容の出来がどうであれ、事件の存在を明るみにしたという点で功績がある。れんだいこは、宮顕同様に不破の政治的特質を定めるためにこの事件を検証していくことにする。今のところは主として「戦後日本共産党私記」を参照する。こたびは大金氏より貴重な関連証言を頂いたのでこれをも書き付けておく。付言すれば、査問責任者武井氏の沈黙は許されない。れんだいこは、思い出すには苦しいことが多かろうとも、歴史責任として存命中に克明に記録を残されることを願う。 付言すれば、安東氏の「戦後日本共産党私記」を評するのに、「不破がかくも無残な査問テロに遭った」事を確認するばかりのものが多い。れんだいこは、こういう評者は基本的に脳構造がお粗末なのではないかと思う。「不破がかくも無残な査問テロに遭った」事の確認は論の遠景からのスケッチに過ぎない。次に当然に「5W1H」手法で要因を解析せねばならない。これを為さずしてスケッチで事足りる識者の見識が信じられない。こういう手合いが左派系知識人として通用すること事態が左派圏の貧困を証しているとしか言いようがない。実に一事万事こういう調子なのではなかろうか。 宮顕が本来の意味での日共運動の指導者であれば、当時の全学連を指導した武井や安東その他歴々をこそ後継者とするであろうにその連中を退け、逆に、本事件でスパイ容疑という致命的な傷を負った不破の方を引き上げていった。ここにも宮顕の登用の仕方に変調さが認められる。不破はその後、兄上田耕一郎と共に党内階段を一瀉千里に上り詰めていった。それらの結果、日本左派運動はどのように変質せしめられたのか、ここを凝視したい。日共は現在、無惨な姿を晒しており、戦後60年の活動を通じて共産党の名に値する実質は何も造っていないことに気づかされる。これは果たして偶然だろうか。 こう問う時、戦後日共運動の流れを疑惑するときの重要な事件として「不破査問事件」が見えてくる。 れんだいこの「宮顕ー野坂スパイ説」はまだ認識の共有にまで至っていないが、それは日本左派運動の見識が余りにも低いからである。そうとしか考えられない。そういう連中に限って往々にして難しく理論をこね回すが、その見識は格段に低く児戯的である。れんだいこは、「戦前党中央委員小畑査問致死事件」の真相が各種資料の漏洩で、今頃になって宮顕のスパイ的正体が露になったと同様に、この事件で不破の胡散臭さが見て取れると思っている。 してみれば、戦後日共運動は、「50年分裂」で徳球ー伊藤律派が指導権を失って以来、当局肝煎り派によって舵取りされてきたことになる。日本左派運動の低迷の真因はこの辺りにあるのではなかろうか。この観点は、「戦後60年」という歴史の経緯で見えてきたものであり、大いに議論されねばならないだろう。この肝腎な議論を避けるのが、日本左派運動者の習性である。 以上、前置きとし、この事件の経過をれんだいこのコメント付きで追ってみたい。 2005.9.20日再編集、2007.5.5日再編集 れんだいこ拝 |
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発端は、「早稲田の細胞でスパイをつかまえて査問した。オマタというニセ学生で、そいつを査問したところ戸塚と不破がスパイであることを自白した。彼らが一緒に会議を持った日取りと場所を自白したが、それは今年の1月5日、場所は指ケ谷町のパールという喫茶店で、その喫茶店は調べたところチャンとある。オマタはそこで数人と会合し、その中に戸塚と上田(不破)がいたことを喋ったのだ」という容疑から始まった。 査問場所は東大の構内の一角で行われ、十数人のメンバーが車座になって右3名を直立不動に立たせて査問が始まった。全員が腰を降ろしたところで力石が口火を切った。「これから我々は一人一人についてボルシェヴィキ的批判と自己批判を行う」と。「そして彼はいきなり高沢を指名した。訊問は武井がやった。既に武井の口の利き方は同志でもなければ対等でも普通でもなかった。不破の訊問の時に、突如、武井の手が不破の顔面に飛び、なぐり飛ばされた不破の眼鏡がコンクリートの床の上で音を立てて滑った。『貴様!』武井は殴打しながら不破をなじった。『もう証拠は挙がっている。早いところ白状しろ』、武井の勢いはすさまじかった。不破は真っ青になって『知りません』、『分かりません』と否定し続けた。査問は徹夜で続行した。早大細胞のキャップ・松下清雄の姿が部屋の中にいた。戸塚と不破は身に覚えが一切ないとして容疑を否認し続けた」。 興味深いことは、この時査問側は、宮本顕治が戦前のスパイ摘発闘争の総括の中から引き出した点検項目『一・金、二・女、三・無理論、四・官僚主義の4項目』に基づいて調査を進めていっていることにある。当時の国際派の精神的支柱として宮顕が位置していたことと、宮顕の行くところ常に査問リンチが加わることが分かる。 「夜が明けて査問場所を移すことになった。専ら戸塚に対して、そこでの査問はもはやリンチと呼ぶ他はない様相を呈していた。『未だ吐かない』、『しぶとい奴だ』と、いら立てばいら立つほど交替で追及する者のリンチは強くなっていた。戸塚は遂に気を失って倒れた。幸い、意識を取り戻して回復したが、この辺り以降から埒のあかないままうやむやに経過していくことになった」ようである。この三人に関連して、あるいはこの事件をキッカケにして何人かの同志が査問にかけられた。この過程で蒙った個人的、組織的打撃は深刻であった。 やがて、この査問を総括する会議が開かれることになった。この時武井が奇妙な次のような発言をしていることが注目される。「我が東大細胞がこれまでに反帝、反占領軍の激烈な闘争を闘い続けながらも、さしたる弾圧を蒙らずにきたのは戸塚、不破らのスパイが指導部に潜入していたためであるが、これらスパイを摘発した以上は今後に厳しい弾圧を予想しなければならない」。この文中「(国際派の)東大細胞がさしたる弾圧を蒙らずにきた」とあるのは、なかなか貴重な証言である。 「総会は報告を異議無く承認したが、総会が終わった後の細胞の空気は当然にも重苦しかった」。その後暫くして、戸塚が睡眠薬自殺を図った。遺書も残されていた。これをキッカケに力石と安東がスパイ事件の再審査を要求する党内闘争を開始した。「この時点でも武井の方は3名のスパイであることの確信をゆるがせにしておらず、自殺未遂も芝居臭いと一蹴していた。数次の評定会議が開かれ、結局、宮本の『スパイにこうした文章が書けるものではない』との評価が流れを変えた。結論は、戸塚、不破に対するスパイの断罪、そしてそれに関連した高沢らの除名は取り消す。しかしこの過程で彼らには様々な非ボルシェヴィキ的要素が明らかになったので、全ての指導的地位に就かせることはしない」となった。同時に武井が、この間の指導責任として、「この決定を承認する以上、自分は責任を負って指導的地位から退きたいと」申し出たが、誰もこれを受け入れしようとはしなかった。この決定を経て直ちに細胞総会が開かれ、総会は異議無くこの報告を承認した、とある。以上が事件の概要である。 |
【事件前の予備知識その一、宮顕派による東大細胞掌握】 | |||||
この当時、東大細胞は宮顕の影響下にあった。木村勝三氏は、「東大細胞の終わり―『戸塚事件』の記憶」(「1.9会文集」2号)の中で次のように述べている。
安東氏は、「戦後日本共産党私記」で次のように記している。
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【事件前の予備知識その二、戸塚が東大細胞キャップに就任】 |
党中央の「50年分裂」の過程で、東大細胞内で党中央派(徳球系所感派)と反対派(宮顕系国際派)の亀裂が深まり、全学連執行部を形成していた武井派が宮顕派についた為、党中央派寄りで指導していたL・Cキャップの小久保が「獅子身中の虫」として解任されている。同様の立場を執っていた沖浦も失脚している。これらの動きは、「50年分裂の煽りによる東大細胞内政変」とでも呼べるであろう。 L・Cキャップの地位には戸塚が後釜に座った。戸塚は49年に経済学部に入学し、一学期は本富士署の通訳をしていたと云う。夏頃から細胞活動に専念し、精力的に活躍していた。たちまちのうちにL・Cに推されていた。その戸塚は、1950.10.17日の「第1次早大事件」での無謀な突撃指導による学生143名逮捕の有責者であった。これが戸塚査問の背景にあった。 |
![]() 何気なく「戸塚は49年に経済学部に入学し、一学期は本富士署の通訳をしていた」とあるが怪しい。本富士署は本郷所管で、戦前より帝大の取締りを主任務とする他、左翼学生対策、左翼運動のスパイ対策の元締め現場のようなところとしてつとに知られている。「見境なしに掴まえてヤキを入れるので有名であった」ところでもある。 そういうところで「通訳をしていた」というがどういう仕事をしていたのか。戸塚は、「夏頃から細胞活動に専念し、精力的に活躍していた。たちまちのうちにL・Cに推されていた」とあるが、その昇格の背景にはどういう事情があったのか調査を要することであろう。 2005.9.16日 れんだいこ拝 |
【事件の発端】 | |||||
1951.2.13日頃、早大細胞が小俣(以下、オマタと称す)というニセ学生スパイを摘発した。オマタの摘発経緯について、当時の早大国際派系の指導的活動家・大金久展氏(政経学部)が当時の状況を次のように証言している。
この査問過程で、オマタは次のような驚くべきことを喋った。「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
凡そ以上のように伝えられている。これが、「東大国際派内査問事件」の発端となる。 査問後の経過について、大金久展氏が次のように証言している。
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【査問の様子】 | ||||
1952.2.14日頃、「不破査問事件」が発生した。当時の学生運動の主流派であった国際派の東大細胞内における指導的メンバーの一員であった戸塚秀夫・不破哲三・高沢寅男(都学連委員長)の3名が「スパイ容疑」で監禁され、以降2ヶ月間という長期の査問が続けられ、概要「特に戸塚、不破には酷烈、残忍なるテロが加えられた」、と云われている事件となった。 査問場所は東大の構内の一角で行われ、事件の発端をつくった早大細胞キャップ松下清雄他1名が立会いした。十数人のメンバーが車座になって右3名を直立不動に立たせて査問が始まった。全員が腰を降ろしたところで力石定一(後の法政大名誉教授)が口火を切った。 「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
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【宮顕直伝の査問要領】 |
この時査問側は、「宮顕式査問」の影響を受け、宮顕が戦前のスパイ摘発闘争の総括の中から引き出したとされる点検項目「1・金、2・女、3・無理論、4・官僚主義」の4項目に基づいて調査を進めている。 |
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【査問の経過】 | |
査問のその後の経過について、「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
この三人に関連して、あるいはこの事件をキッカケにして何人かの同志が査問にかけられた。この過程で蒙った個人的、組織的打撃は深刻であった。 |
【査問の総括】 | |
やがて、この査問を総括する会議が開かれることになった。この時武井が奇妙な次のような発言をしていることが注目される。「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
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【釈放とその後の様子】 | |
査問釈放後の戸塚が睡眠薬自殺未遂と、事件の再審査要求闘争について、「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
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【宮顕の介入】 | ||
数次の評定会議が開かれ、結局、宮顕の「スパイにこうした文章が書けるものではない」との評価が流れを変えた。結論は次のようなものであった。
この頃の宮顕の次のような言いがある。
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【査問終了に当たっての力石・安東対武井の対立】 | |
捜査終了の様子はこうであった。力石と安東が不破救済に乗り出し、武井が最後まで容疑の濃厚さと査問の正義性を確信し、「武井を採るか不破を取るか」迫るところまで進展した。この史実も、以降伏せに伏せられ今日に至っている胡散臭い党史部分である。 結局、宮顕提言に従い何も明らかにならぬまま有耶無耶のうちに査問が終了することになった。武井が、この間の査問指導責任として役職辞任を申し出た。「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
いずれにせよ、この事件で東大国際派の戦力がガタガタにされた。 |
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安東氏の「戦後日本共産党私記」は、不破らに為された査問の様子を明らかにしている。が、肝心のスパイ容疑の確度については何ら考察していない。判明することは、1・早稲田の細胞が情報を掴み、東大細胞に連絡し、査問会議が開かれるに至った。2・査問は、宮顕直伝手法で為された。3・不破らはろくな抗弁を為し得ず「知らぬ存ぜぬ」で通した。4・暗誦に乗りあがるや、宮顕が「不破の助っ人」役で乗り出し、5・宮顕の直々の関与で玉虫色決着を指示し解決した。6・宮顕指示の受け入れを廻って武井と力石・安東が対立した、ということである。 奇妙なことは、好査問性があり最も強硬な責任追及するのを常習としている宮顕がこの時に限って「寛大な措置」を指示していることである。この仕掛けが見破られねば、「東大国際派内査問事件考」とはならず、当時の左派運動の単なるゴシップ騒動顛末記に堕してしまうであろう。 2005.9.16日 れんだいこ拝 |
【高沢寅男氏の事件の回顧について】 | |
高沢氏は後年、「九六・二東大学生細胞の闘い」の中の「カオスとロゴス」(「高沢寅男のあゆみ」、2000.10月)で次のように指摘している。
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【松下清雄氏のその後について】 |
2006.8.21日、松下氏逝去(享年**歳)。「三つ目のアマンジャク」に続いて遺稿集「草青火」が出版された。 |
(私論.私見)