第3部−2 査問事件/不屈の再建史考

 (最新見直し2006.5.23日)

 まず、「査問事件」に至る直前の党史の流れから見ていくことにする。当時体制側特高は、共産党員を徹底的に捕捉殲滅せんと躍起になっていた。なんとなれば、交戦中の大東亜戦争遂行上、共産党員の存在は敵方内通の懼れある不純分子という認識に拠っていたからであると思われる。これは戦争というものが持つ宿命である。正面の敵は判りやすいが、後方あるいは内部の敵にも気配りせねばならず、内通者には判りにくい分一層ナーバスにならざるを得ないということになるからである。大戦中のアメリカにおける日系米人の隔離政策が今日明らかにされているが、同様の観点による強権発動であったものと思われる。

 こうして、特高は、当時の日本共産党の図体そのものは大したものではなかったものの、放置しておけばいつうねりとなって牙を向いてくるか分からない不穏分子的な存在としてみなし、つまり共産主義者をコミンテルンの指示に従う敵方内通のスパイの範疇で捉え警戒を強めた。これが日本共産党徹底弾圧の真因であっただろうと思われる。こうして党内にスパイが送り込まれ、党の動きの逐一把握と有能党員が捕捉されていくこととなった。

 他方、共産主義者は、「聖戦」に向かう日本帝国主義を露骨な反人民的ファ シズム国家とみなしてこれを打倒することを戦略に据えていた。被圧迫人民大衆の利益擁護の旗を敢然と掲げてこれに対抗せんとしたのである。こうして、体制側は体制側なりの愛国心と民族主義イデオロギーで国家をリードしようとし、反体制側は反体制側の人民的利益擁護の論理で運動を組織しようとして衝突せざるをえないことになった。この衝突の根は深く、このどちらの言い分が正しいのかをめぐっては、今日もなお対立が続いているともみなすことが出来る。

 特高の動きを党の側から見れば、送り込まれていたスパイの摘発が急務となっていたことを意味する。「昭和3年のいわゆる3.15事件以来、支配階級はあるいは定期的にあるいは不断に我が党に対して弾圧を加え、為に我が党はその陣営から経験有る優秀分子を奪われ、組織を攪乱されてきたのであります」、「優秀な活動家を奪われ、党組織を攪乱される度にその後に結成される組織あるいは機関に常に不純分子が潜入し、それが又次の弾圧の手引きをするということを繰り返えされていたのであります」(袴田「第7回調書」)という経過となった。

 つまり、党内において、お互いが相手をスパイと考える両極の対スパイ戦争が丁々発止で発生していたということになる。このような状況を俯瞰しつつ、以下「査問事件」直前の党史の流れを宮顕の動きとの関わりの中で見ていくことにする。



 これより前は、戦前日共史(六)第二次日共と大弾圧考参照のこと。


1929(昭和4)年の動き

【活動家が続々上京】
 ここでは三船留吉に言及する。1930年以前、上京後の三船は、「東京東部合同労働組合」(1924(大正13).2月に渡辺政之助が南葛労働会を設立し、その後身)に所属。江東地区で全労組の組合員と成り、各種の労働争議に加わる。亀戸の「全労」の分会組織に関係。「全国革反所属の鉄工」。いわゆる労働農民畑ということになる。1930年頃、三船は、合法的な労働組合運動を経て次第に共産党に接近していく。

【警視庁特高課労働係長・毛利基の登場】
 1929.7.1日、毛利基が、浦川秀吉の後任として警視庁特高課労働係長になる。毛利は、「武装共産党」壊滅、田中清玄の検挙に向かうことになる。

 毛利戦略は、「単にスパイを通じて党の情報を取るだけでなく、意図的に党を操作して、最終的に組織の換骨奪胎を目論む」ことにあった。この特高係長(後に課長となる)・毛利基をトップとする日共手玉戦略が威力を発揮していくことになる。

田中清玄−佐野博指導の「武装」共産党時代】 

 昭和3年の「3.15事件」、昭和4年の「4.16事件」という両弾圧を経て、これから逃げることに成功していた東京の第3地区委員長・田中清玄(当時22才)がモスクワから帰った佐野博と共に、二人を中心とする指導部を構成し、1929(昭和4).7月頃、党を再建した。このときの共産党は通称「武装」共産党と呼ばれる。

 田中清玄は、弘前高校当時から北海道.青森の労.農組織作りを手伝うなどで頭角をあらわし、東京帝大在学中も各地から指導を請われる等精力的に活動をこなしていた。合気道.空手3段の猛者であったことも含め果敢な闘争指導能力が認められ一躍幹部へと登用されていった。
渡辺政之輔に可愛がられオルグの指導を受け、以降党中央へ進出していく。この田中(東京地方第三地区責任者)と佐野博(佐野学ぶの甥で、共青中央委員長)、前納善四郎(東京合同労組フラクション責任者)、クートベ帰りの向仲寅之助、今本文吉らが党中央部を構成した。

 田中は自ら中央委員長となって中央部を組織し、弾圧で休刊となっていた赤旗(「赤旗」第28号を復刊)、マルクス主義の再刊、無産者新聞の発刊により党勢の拡大に取り組んだ。労働運動面では細谷松太と連絡を取り、日本労働組合全国協議会(「全協」)を伸ばしていった。その他、友愛会の鈴木文治との接触、東大新人会の先輩・小宮山新一を通じて東大医学部内の組織化、京都・神戸・岡山等々の連絡網づくりに成功していった。党員も再度200名を越す勢いをつくり、党活動を順調に発展せしめていった。 

3.15事件とこの4.16事件の被告が起訴され、統一公判となる
 1928.3.15事件と1929.4.16事件で逮捕された第二次共産党の指導的幹部は、同年10月25日までに295人が起訴された。

 起訴された者のほとんどが治安維持法違反で有罪となり、同法改定後のため3.15事件被告よりも重い判決を受けることになった。このとき、検挙を逃れた共産党の幹部渡辺政之輔、鍋山貞親、佐野学、三田村四郎らもその後8月までに逮捕され、あるいは死亡した。東京では、3・15事件被告と4.16事件被告の統一公判となった。裁判長・宮城実の指揮で、被告会議が認められた。これが転向誘導にも繋がることになる。

全協再建される
 武装共産党が確立された頃、4.16事件で大打撃を受けた全協も大検挙から逃れていた党員・関東出版労働組合幹部・佐藤秀一らによって再建された。12月、在日本朝鮮労働総同盟(組織人員2万3千名)が全協に組織加盟した。再建された全協は、武装共産党の方針に唱和し、1・武装こう大体の編成。2・武装蜂起の扇動。3・5.1日メーデーの暴動化方針を打ち出して活動し始めた。

統一公判組の転向運動始まる
 田中清玄らにより武装共産党時代が展開されている最中の1929年から30年にかけて、3.15事件で検挙されていた河合悦三、水野成夫を中心とする中堅幹部らによる「転向現象」が発生している。これを仮に「第二次解党派の第一次大量転向」と名づけることにする。「第二次解党派の第一次大量転向」は、理論的にも実践的にも4年後の「佐野・鍋山共同声明による第二次雪崩転向」の先駆けとなっており、注目に値する。まず河合が解党上申書を提出、水野が追随した。他に、村山藤四郎、是枝恭二、浅野晃、門屋博、福本和夫、佐野文夫、稲村隆一らが同調した。詳細は、第二次解党派の転向、水野成夫の転向論理考に記す。  

1930(昭和5)年の動き

武装共産党の精力的活動
 1月、和歌山県の二里カ浜で、日本共産党再建大会を秘密裏に開催することに成功している。ここで拡大中央委員会を開き、党の再建の確認、指導部の選出、その他諸方針を決定した。「日本に於ける革命の速やかなる発展」を目標とする戦略を打ち出し、「合法的な選挙闘争同盟を結成し、選挙闘争を通じて日共の影響力を広めること。行動隊を組織してビラを撒くこと。検挙に対しては、拳銃、短刀などで抵抗すること」など武力的対応路線を指針させ、事実その通り実践していった。

 しかし、拡大中央委員会直後の2.20日、またもや大検挙に見舞われ、幹部が次々と検挙されていった。田中、佐野は辛うじて検挙から免れた。2.22日、アジトを急襲された田中委員長の内妻・小宮山英子が発砲して抵抗。2.26日、和歌山市郊外で「和歌浦事件」が発生している。これは官憲が寝込みを襲い、居合わせた共産党中央部と官憲が激しく撃ちあった事件であった。

 この時代、田中清玄はピストルをいつも二挺用意していた、一つは護身用、一つは自殺用。清玄派を追っかけまわす警視庁は三百人の特別部隊を用意していた、と伝えられている。

 この頃、佐野を通じてコミンテルンとの連絡取りにも成功している。直接ルートは破壊されており、オムスが開いた中国共産党経由のルートを通じて、コミンテルン書記長クーシネン、四年コミンテルン極東部長やンソンとの遣り取りにまで及ぶことになった。

 4.1日、佐野と前納が検挙されている。田中は、当時保釈中の唐沢清八らを集めて再組織に着手。4.20日、当時争議中の東京市電ストライキに対する指導委員会を組織し、田中委員長は、1・指導権を社会民主主義者より奪取せよ、2・右翼、ダラ幹の暗殺まで含めての徹底闘争、3・市電倉庫への放火計画を指令している。概要「ストライキは全国的に進行しつつある。我々はこれらのストライキを武装革命に転化することによって我々の目標に向って次の手を打たなければならぬ」。

武装メーデー
 田中清玄執行部は、党史上初めて武装ストライキや武装メーデーを指針させたことに特徴が認められ、今日「武装共産党」時代と言われている。この時代の党運動は、「行動の場面においては、『行動隊』を編成して武装行動を表面化し、警察取締りに対する抵抗闘争を強化し、またメーデーの暴動化を計画した」。「東京市電争議の際における幹部の暗殺計画や車庫放火事件」、「川崎メーデー蜂起事件」、「中央メーデー暴動化」、「小銃弾薬類の略奪計画」など数多くの武装事件を既遂未遂し、多くの警察官を殺傷した。

 後年、田中清玄自身が次のように述べている。「今更申す迄もない事だが、自分には諸君を『極左冒険主義的ハネ上がり』」であるなぞと、世論の尻馬に乗って極めつける丈の資格は全く無い。嘗つて、自分等の突っ走った、昭和5年の共産党の武装、和歌浦の党中央本部と警官隊との乱射事件、並びに川崎市メーデー武装デモ、仮国会議事堂焼き討ち計画等々数々の武装行動と、官憲殺傷48件にも上るテロ行動を顧みれば、とてもおこがましくて諸君等に非難を浴びせる事などは到底出来ない」(「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」『文藝春秋』1960.1月号)。

 武装メーデーとは、約300名の労働者が「土地を農民へ」、「8時間労働制」、「治安維持法反対」、「帝国主義戦争反対」のスローガンを掲げ、竹槍.日本刀.拳銃.匕首.石包み等を手にして武装させ、日本共産党と大書した赤旗を掲げて行進したところ、警官隊の襲撃を受け、双方武器を持っての大乱闘となった事件のことを云う。17名が逮捕され、他は逃げ散ったと云われている。


 「昭和5年(1930年)川崎地区のメーデーに際し、数十名の共産主義者を中心に、竹槍、木刀などで武装した左翼分子が、メーデー・デモの中に割って入り、平穏なデモを戦闘的な示威運動に転化させようとして計画されたものであった。それは本格的な暴動計画とは全く性質の異なるものだが、自衛の域を越えた武装計画や一揆主義的心理状態の産物であったという意味で、日共の歴史の中では、極左的の一事例に数えられている」。

(私論.私見)「武装メーデーの評価」について

 「武装メーデーの評価」を廻って、宮顕系党史あるいはその亜流は、極めて冷淡に概要「このような『武装』共産党の、極左的な武装方針は、共産党や労働者の実際を考慮にいれておらず、いたずらに弾圧を招いたり労働者を失ったりして現実には逆効果であった。革命運動に重大な損害を与えた」と評している。驚くことに、いわゆる新左翼系も又この観点を踏襲した記述が多い。

 しかし、れんだいこは違う観点を持っている。「武装メーデーの功罪」の判定は難しかろう。むしろ、急進主義運動で対権力闘争をひるむことなく展開し、直接対決した珍しい史実を残している訳で、それは誉れな財産となっていると評価することも可能であろう。史実の語るところ「革命運動に重大な損害」を与えたのは、宮顕が主導した「小畑中央委員リンチ致死事件」の方がズバリそのものであろう。その当事者の宮顕が、田中清玄指導に悪態つくとはナンセンス極まりない。


 5月、伊藤律(岐阜県土岐町出身)が旧制中学を4年で終え、一高へ入学している。時期は不明であるが、岩田が保釈になっている。

 5月、田中清玄は、日本共産党の代表として、和歌山県二里ケ浜での日本共産党再建大会の報告書を届けるため、バイオリストに身をなりすまし、コミンテルン極東ビューローのあった上海に渡航している。当時、周恩来がコミンテルン極東部長、アジア局長がフィンランド共産党の創立者クーシネン、極東担当はヤンソンであった。

「全協刷新同盟」結成される
 6.10日、関東金属の南巌、出版の佐藤秀一、関東自由の神山茂夫らが、全協本部のの極左的方針に反対し、「全協刷新同盟」(略称「刷同」)を結成し、対立した。

 6月中旬、小曾根勢四郎が共青中央委員長に就任。


「武装」共産党執行部壊滅させられる
 この執行部時代はスローガンや戦術は先鋭化したが、特高の追撃も一層厳しさを加えることとなり、赴くところ大衆闘争との接点が失われていくことになった。この時以降の傾向として、党活動は、労組等の組織建設の替わりに街頭連絡を主とするようになった。党の活動が地下へ地下へと余儀なくされつつ追い込まれていくことになった。

 6月、佐野学が上海で逮捕されている。この時、「士は恥ずかしむべからず、殺すべし」と漢書して気概を示している。この執行部は、武装メーデーの直後から自己批判にとりかかりながら各地を転々としていた。

 翌1930(昭和5年).7月、田中、岩尾、今本、斉藤武、上荻原らが集まり、再度の中央ビューローを確立し、諸決定の上再出発。

 7.14日、岩尾、今本、上荻原らが検挙される。7.15日、武装共産党時代の委員長・田中清玄氏が検挙される。14日から17日にかけて武装共産党時代のメンバーの大半が検挙されるにおよび壊滅させられた。これを手引きしたのが共青中央委員長・小曾根勢四郎であったとされている。「田中検挙後1ヶ月を毛利の官舎で過ごしていたことが知られている」とあるので間違いないと思われる。


 1956年、田中、佐野が連名で次のように当時を回想している。「この党は今から思えば、直情怪行型の青年が多かった。そしてもう一つの特徴は、マルクス主義のプロレタリア至上主義を地で行き、極端に労働者出身分子の党員達(特に中幹部と一般党員に於いて)をもって固める方針をとり、インテリ出身者でもプロレタリア闘士型のみを選抜する建前をとったことだ。ところが、インテリ中心の共産党を改革すると自負して、4.16後の再建をやった我々は、今度は逆に、正反対の方向に走った。少々頭が悪くとも、ゴツイ闘士型の党員だけを建前に傾いたのだ。それが行動的共産党たることを第一のモットーにして、一直線に活動したのだから、その結果は推して知るべきだ」。

(私論.私見)「武装」共産党時代の先鋭化について

 この流れに付き田中清玄委員長の指導責任を問うのは酷なように思われる。むしろ党的精神を非妥協的に推進すればこのようにしか為し得なかったのであり、時局柄がそれほど厳しく苛酷に推移しつつあったと受け取るべきであろう、むしろ他の委員長時代に比して真紅の精神で良く闘った、と私は評価している。現在の党史では、「田中清玄、佐野博など革命運動の経験の少ない小ブルジョア的な活動家が党指導部の中心を占め」、「マルクス.レーニン主義とは無縁な極左冒険主義の誤りが生まれた」と記しているが、「労働者の中で組織作りをやり、数多くの争議を成功裡に指導した清玄を、そんな体験を皆目持ち合わさぬ宮顕が、小ブル呼ばわりするのは傍ら痛い」と解すべきではなかろうか。

 ちなみに、共産党の武装化は当時の国際共産主義運動の司令塔であったスターリンの指示によっていた事が今日では明らかにされている。この指示が不適切であったかというと一概には言えない。同時期に中国共産党も武装化を企て、紆余曲折を経ながらも中国革命成功の道筋を創り上げている。双方「コミンテルンの操り」であったにせよ、中共のように自国の革命闘争を勝利に導くのか、日共のように破産せしめられていくのかは、やはり当事者の能力に関係しているのではなかろうか。
(私論.私見)「武装」共産党時代の評価考

 田中清玄佐野博による党の再建は、昭和3年の「3.15事件」、昭和4年の4.16事件」という両弾圧で壊滅的危機に陥った直後の戦前の党活動の立て直しに逸早く着手し成功させたという功績を持っている。これが正しい評価である。その後の軌跡として、田中氏は獄中闘争後転向し、戦後になって民族派の国際的政商と転じたことにより、宮顕系党史から口を極めて悪態をつかれているが、この功績は史上に確立されており、隠蔽偽造できるものでは無い。

 これについて、山辺健太郎氏が「社会主義運動半生記」の中で次のような貴重な指摘をしている。「運動が本当に発展したのは4.16以後です。4.16以後の運動のマイナス面だけをあげても仕方が無い。数も非常に増えて、非合法で鍛えられたいい面も非常に出ています。とにかく、赤旗を活字で出すなんて、その前には考えられなかった。獄中で時々葉書をもらって、あんた方、外に居たら考えられないことが運動に起こっていますよ、なんて知らされる。日本労働組合全国評議会は昭和3年(1928)の暮れにでき、4.16事件で大打撃を受けたのですが、夏には既に再建されました。その全協でも、評議会時代には考えられないような大工場や砲兵工廠に勢力を伸ばしています」。

 なお、私論を述べれば、戦前の日本共産党の党運動は、「武装共産党」時代の終焉でもって実質上敗北で終わったと見なしている。以降は、内向きの戦いに終始したことによる。この認識がないと、「査問事件」の特質の解明も理解を誤る。法廷における宮顕の弁明を聞けば、対スパイ掃討戦の意義を歴史的に解き明かし、如何に重要な闘争であったかを強調するが、当時の党運動の構図からすれば奇態な指針であったことが判明する。

 「武装共産党」時代以降の党は、何らの大衆闘争を組織することが出来ない状況に追い詰められており、よしんば対スパイ掃討戦が重要であったにせよ、それは数少なくなった党員の再結集と党運動の再建的見地からなされねばならない限定性のものであるべきであったであろう。

 ところが、まさにこの時党中央にスパイ松村がのしあがり、一仕事をやり遂げた後忽然と姿を消した。その後に入れ替わるかのように宮顕の党中央潜入が為され、狂気の対スパイ掃討戦が展開されていくことになった。しかも、その矛先は、党中央労働者派の小畑と大衆組織のうち最後の戦う砦ともなっていた「全会」、「全協」の戦闘的組織とその精鋭活動家に対して集中していたのである。宮顕の饒舌を聞けば騙されるが、やっていることを調べれば明白となる。この時点で、以上の認識を共に確認しておきたいと思う。

【田中清玄の獄中闘争】
 ここで、宮顕の獄中闘争の様子との絡みで、田中清玄の逮捕時の取調べの様子を記すことにする。田中に対する取調べの様子は次のようであった。

 概要「取調べは峻烈を極め、同僚の敵討ちだと公言して憚らなかった。拷問していると、さあ殺せと清玄が怒鳴り、よし殺してやると刑事達が殺気だった。拷問で失神するまでに4時間かかった。後で聞けば、大抵の党員は30分か1時間で失神し、次の拷問の前に自白し始めるそうだ。清玄は失神から醒めてみると、手錠と足錠をかけられ独房に転がされていた。暗闇だった高い窓の外が白み、夜が明けると、また拷問だった。拷問は、大腿部を分厚い三角型の棒でつくったソロバンで絞り上げ、これをねじあげる。清玄は頑丈だったため、一回の拷問に4時間は耐え、却って官憲の怒りを煽った。ある特高は、『貴様のような悪逆非道な奴は全人類と日本民族の敵だと怒号した』。拷問と失神の日々が十数日間続いた。『大腿骨にひびが入り、手の指は紫色に腫れ上がった。それでも自白しなかった』。拷問最中に、毛利特高課長に(彼も会津出身なので)『貴様みたいな岡引にしゃべってたまるか、武士の名がすたる』とタンかをきり、痛く驚かした。こんなコムミニストは前例が無い、田中という奴はなんという奴だと評判が立った」。

 この後、いつまでも取り調べに応じないことで検挙された下部党員へ迷惑を及ぼしていることも考慮し、まま取り調べに応じて行くことになる。「武装メーデー事件」の際は田中は肺炎で活動していない時期であったが、「武装は私の指示である」と責任をひっかぶっている。当の責任者であった田代が「実は私がやりました。田中さんには申し訳ないことをしました」と告白した後も、「どっちにせよ、責任は委員長である私にあるんですよ」と罪を引き受け、公判でも一貫して通している。

(私論.私見) 「田中清玄の獄中闘争」証言の重要性

 この田中清玄の記録は貴重である。後に見ていくことになるが、宮顕の拷問情況の記述と比べてリアリティがあるということ(宮顕のそれはウソっぽいという意味であるが)、それと闘争の指導責任の取り方が極めて対極的であるということである。宮顕の場合、自身が手を染めたリンチ事件に対し、相手が持病でポックリ逝ったと言い張り、蘇生させる努力をしたのは私と秋笹だけだと売り込み、死体の埋匿に対しては関知していないと責任逃れしている。党指導者の両極として、田中清玄と宮顕を対比的に考察することは興味深い課題となっている。

【党再建をかけての地下活動】
 武装共産党壊滅後の後半年間、党は、全国的指導部を持つことが出来なかった。またこの時代に共産党内に技術部(通称「テク」。後に家屋資金局へと発展)も新設された。「スパイM」がこの技術部を取り仕切るのようになり奇怪な党活動を見せていくことになる。

 「『技術部』はこのとき初めて設けることにしたもので、佐野博の供述したところによれば、党の非合法活動を助け組織を防衛する専任の機関であって、その主な任務は、従前の事務局が担当していた活動のうちの (1)・技術的な任務、すなわち党中央と組織の通信連絡、(2)・指導部員の防衛のためのその住居、会合場所などの斡旋、(3)・非合法印刷所の設立と非合法文書の輸送保管、(4)・恒常的な定期的資金募集網の構成、(5)・武器を集め保管する、(6)・非合法図書館の設立等を担当するものであった」。

プロフィンテルン第5回大会に日本代表参加する
 1930.8.15日、プロフィンテルン第5回大会に日本代表としてモスクワ在中の山本懸蔵、派遣代表・紺野与次郎、通訳・蔵原惟人、飯塚博(青年代表)、白川芳松、大井昌(金属代表)、児玉静子(化学代表)、飯島喜美、南巌(全協刷新同盟代表)らが入露し出席している。同大会では、「全協刷新同盟」の解散、全協指導部の「極左的・セクト的偏向」の是正が指示されている。

 この時のアジプロ協議会に於いて「プロレタリア文化及び教育組織の役割と任務」に関するテーゼが決定し、同大会の日本代表の通訳を勤めた蔵原によって翌年持ち込まれることになった。以降、蔵原はプロレタリア文学運動の権威の地位を確立することになる。

【党内の様々な動き】
 1930.10月、労働争議を通じて、党青年部の源五郎丸と三船が知り合う。

 この間、全協で活躍していた佐藤秀一、神山茂夫らが「全協刷新同盟」を結成して指導部批判を展開している(ただし刷新同盟はプロフィンテルンの決議によってほどなくして解散する)。

【中堅幹部・水野成夫が転向、日本共産党労働者派を結成する】
 田中清玄らの武装共産党時代の1929年から30年にかけて、3.15事件で検挙されていた水野成夫、河合悦三を中心とする中堅幹部らによる「転向現象」が発生している。4年後の「佐野・鍋山共同声明による雪崩転向」の理論的にも実践的にも先駆けとなっており、注目に値する。彼らは共産党からは除名されるが、1930年保釈出獄後に「日本共産党労働者派」として「非合法」活動を開始、約二年間共産党と対立する共産主義グループとして活動を続けた。「労働者派」とも称される。概要は、「水野成夫の転向論理考」で考察する。

【世界大恐慌が発生】
 1930.10.24日、米国ウォール街の株式大暴落をもって世界大恐慌が発生した。この波はたちまちにして日本資本主義にも襲い掛かってきた。この恐慌の深化過程で、資本の集中・集積が促進され、三井・三菱・住友などの大独占財閥コンツェルン支配が進行していくことになる。

【風間丈吉がモスクワから帰国】
 1930年末、「武装」共産党後壊滅後の状況を見て、モスクワのクー トヴェ(極東勤労者共産大学)に留学していた風間丈吉(在ロシアで山本懸蔵の秘書の経験を積んでいた)が党再々建の使命を帯びて帰国した。早速、クートベ時代の親友同士で唯一「武装共産党」の検挙から免れて残存活動していた中央委員・松村昇(ヒョドロフ)と連絡をつけることに成功し、党再建活動に着手する。この時既に松村は、警視庁特高課長の毛利基が直轄した稀代のスパイであった、ことが今日判明している。

1931(昭和6)年の動き

【風間−スパイM・松村指導の「非常時」共産党
 1931(昭和6).1.8日、第二次共産党も壊滅させられ、その後を再建した田中清玄らの「武装共産党」も解体させられていたが、クートベ帰りの松村昇((スパイM)と風間丈吉らが党中央ビューローを再建させた。この時代は、1931年の「満州事変」等、日本が「非常時」に入った時期の共産党であることから、通称「非常時」共産党と呼ばれる。「非常時」共産党の時期は「満州事変」だけでなく、五・一五事件もあり、世間の風潮も大きく動こうとしている時期であった。「非常時」共産党は、1932年の末頃まで二年近く続くことになる。

 この時の中央部は、風間丈吉、松村昇、岩田義道(病気理由で保釈されていた)、岡部隆司、紺野与次郎(21歳、プロフィンテルン大会から帰国していた)によりビューローが確立されていた。8月末頃次のように構成されていた。
風間丈吉 委員長、他に労働組合部長、民族部長兼務。
松村昇((スパイM) 組織部長、他に軍事部長、家賃資金局、国際部長兼務。
岩田義道 アジプロ部長。
岡部隆司
紺野与次郎
溝上弥久馬 労働組合部長
田井為七
大泉兼蔵 農民部長
宮川虎 共青責任者
松尾茂樹 救援部長、他に大衆団体係り兼務。

 更に、・、・雄、、婦人部長・児玉静子、特別資金局・今泉善一、久喜善一、事業部・今泉善一、調査部・渡辺惣助、印刷部・百瀬幸夫(特別資金調達班兼務)、その他に岡部隆司、飯島喜美、白川芳松、長谷川茂で中央を構成した。文化方面は蔵原惟人が担当し、小林多喜二もこの頃列なっている。やがて、山下平治、大塚有章らが加わることになる。

 風間を委員長とする執行部は 、「武装共産党」方針を政策転換させ、大衆的活動を重視していくことになった。前年6月以来休刊となっていた赤旗も1.25日復刊(赤旗第43号)され、共青中央部も再建され組織拡大に努めた。赤旗は活版刷りとなり、更に機関紙「党生活者」も創刊された。「非常時」共産党は、「武装」共産党に続いて、党の大衆化の方針を打ち出し、事実党員数はこの時期がもっとも多かったようだ。

「スパイM」の党中央潜入

 「非常時」共産党において特筆すべきは、この時今日スパイとして知られている風間同様クートベ帰りの「スパイM」こと通称「松村」が、スパイとして、この時期の中央委員会潜入に成功し、共産党の中央委員をつとめたという事実である。この時、松村は、警視庁特高課長の毛利基が直轄した稀代のスパイであった、ことが今日判明している。

 松村は風間の片腕として、秘密工作の要である技術部の責任者に居座った。松村は風間も含めた他の中央委員には情報を漏らさずに技術部のちには家屋資金局の組織を拡大させた。久喜勝一は、「家屋資金局はぼう大な、なん千人という組織なんです」と証言している。もしこれが本当であれば、共産党本体の何倍もの人員を抱えていたことになる。この家屋資金局は、主にアジトと資金調達を目的とした部局であった。この部局を握ったスパイ松村は、コミンテルンからの資金が得られなくなったこともあり、家屋資金局に指示して、今までのシンパ層からの寄付の他に、ブルジョア出身のシンパに自宅から大金をもって家出させ、党に寄付させるといういわゆる「拐帯事件」を頻発させた。

 また、これは松村の指示かどうかは定かではないが、女性党員に美人局をやらせるようなこともあった、という。牧瀬菊枝の聞き書きによれば、その実態は以下のようであった。「そのころ女の同志たちには、『資金を手に入れるためには、どんな男にでも近づいていけ』という命令が出されて、カフェーの女給にされたり、いわゆる『美人局』のようなことをさせられている人もいました。上部のある男は、自分の奥さんにそのようなことをさせていて、奥さんが耐えられなくなって逃げ帰って来ると、怒って追い返したこともありました。わたしも危うくそんな目にあいそうになり、必死で抵抗して逃げ出したこともあります」(牧瀬1976)。


【「共青」再建の動き
 1931.1月から2月頃、源五郎丸芳晴氏(転向後、戦後に佐野学の労農前衛党参加。その後は右翼として活躍)が、共産党中央の再建と共に共産青年同盟(以下、共青と記す)中央部の再建策も決定され、共青の再建に着手していた。源五郎丸氏は、従来のインテリ中心の活動体制に対して労働運動畑上がりの現場労働者からの中央部への登用を企図していた。新同盟中央は、紺野与次郎、宮川寅雄、源五郎丸芳晴によって構成されることになった。彼らに同盟再建が委託された。三船は、この源五郎丸氏の推薦で共青中央委員に任ぜられている。

 1931.2.29日、源五郎丸が同盟を代表して、キーム(国際共産主義青年同盟)に派遣される。帰国後の共青委員長ポストが約束されていた。

 1931.3.15日、紺野与次郎が、上海・コミンテルン極東部へ向けて出発。

【「31年テーゼ草案」が発表される】
 1931.4.22日、「非常時」共産党時代に風間丈吉、岩田義道、紺野与次郎らが委員として参画していた「31年テーゼ草案」が発表された。小概要は、「31年テーゼ草案」に記す。

 クートベ帰りの風間丈吉は、コミンテルンからテーゼを教え込まれて帰国し、帰国後それを「政治テーゼ草案」(いわゆる「31年テーゼ草案」)としてまとめ発表した。後にも先にも党が直接プロレタリア革命を戦略志向させたのはこの時限りとなる、党史上初めての一段階(直接)革命論によるプロレタリア社会主義革命を指針させていた。

 この「31年テーゼ草案」の作成過程は今日においても考察されること少ないが、「市川正一の血涙の公判弁明録」が貴重な証言をしているのでこれを紹介しておく。
 (以下、略)

 「31年テーゼ草案」は次のように述べていた。概要「日本資本主義はすでに高度に発達し、帝国主義の段階にあり、その支配権力は、金融資本の覇権の下におけるブルジョア地主の手中にあるが、この政権は迫りつつある深刻な経済的危機、植民地の反抗、ソ連邦の成功、太平洋における諸問題等によって不安と動揺に晒されており、同時に、農村における土地問題の解決に迫られているが、この解決はブルジョアには不可能である」、「したがって、当面する革命の性質は、ブルジョア民主主義的任務を広範囲で包容するプロレタリア革命でなければならぬ」。実践的には、「資本主義没落説」の生硬なまでの強調とこの観点から来る社会ファシズム論による社民との闘いを重視させ、その限りで相対的に天皇制打倒のスローガンが穏和化されていた。

 ところで、「27年テーゼ」と「31年年テーゼ草案」の違いはどこに認められるか。つまり、なぜ「31年テーゼ草案」が生み出される必要があったのかの解析については、「戦前日共史(補足)戦前党綱領及びテーゼの変遷考」で考察する。

 獄中の市川、徳球、鍋山、志賀、高橋らが同調し、福本は賛辞せず、と伝えられている。

宮顕入党
 1931(昭和6)5月頃、宮顕が入党している。宮顕の入党は、後述するが「スパイM」が党中央で暗躍し始めたこの頃の、1931(昭和6).4月、東大経済学部卒業後直ぐの5月のことである。入党推薦者は同郷の文芸作家手塚英孝と生江健次であった。宮顕の入党時の党は、既に28(昭和3)年の「3.15事件」と翌29(昭和4)年の「4.16事件」で党中央が壊滅させられた後であり、党活動自体が極めて困難な非合法下にあった。この間入党の機会はあったが「『理性の声』の熟するのを待った」と述べている。

 宮顕は、入党と同時にプロレタリア作家同盟に加盟している。間もなく党中央アジ.プロ部員となった。この頃1931(昭和6)年の夏、宮顕はプロレタリア作家同盟の事務所で中条百合子と初めて出会っている。宮顕の「20年前の頃」によれば、「その晩秋から初冬にかけて(昭和6年)私は党のアジ.プロ関係の仕事のことで、彼女に一週間に一度ぐらいの割で定期的に遭うになった。それから個人的にも急速に親しくなった。仕事の話が終わった後でも長く話し続けることが多くなった。私達は二人が同志として以上に互いを特別の愛をもって感じ始めていることを知った。私も彼女に会うのが愉快で楽しかった」とある。

 この関係は、「私は党員でしたから、私が指導する立場だった訳ですね。そういう関係です」(1966.12.23日号「週刊朝日」)とのことのようである。そして昭和7年2月、百合子が宮本宅に転がり込む形で同棲が始まった。時に宮顕24才、百合子34才のときであった。その後を記せば、2ヵ月後に百合子が検挙され、宮顕も昭和8年末に検挙されることになる。「結婚して一緒に住んだのは、せいぜい2ヶ月ぐらいのもんです」と宮顕が語っている。昭和9.12、正式に入籍し、当時「獄中結婚」として話題を蒔いた。

 百合子について概略見ると、17才で処女作「貧しき人々の群れ」で文壇にデビュー。日本女子大を中退し作家生活に入る。1918年、19才の時著名な建築技師であった父とともに渡米、そこで知り合った古代東洋語研究者と結婚。足掛け6年の結婚生活の後、離婚。この時の体験を「伸子」に記す。湯浅芳子と実懇となり、共同生活に入る。1927.12月、湯浅と共にソ連旅行に旅立つ。約3年間ソ連、西欧旅行をした後1930.11月、帰国。同年12月、プロレタリア作家同盟に加盟している。

風間委員長がコミンテルン極東部との連絡のため上海へ出発

 1931.5.4日、風間丈吉委員長がコミンテルン極東部との連絡のため、上海へ出発している。


野坂をコミンテルンへ派遣
 この頃、「スパイM」指導部により野坂のモスクワ派遣が決定されている。加藤哲郎教授がモスクワで見つけたこの頃のコミンテルン宛て「日本共産党報告書」には、野坂のモスクワ派遣決定と暗号を用いた上海との連絡が出てくるとのことである。後の「ゾルゲ事件」の主役となるゾルゲは、この頃上海で尾崎秀実と知り合っている。残念ながら、この辺りの地下史実は今日も全くヴェールに包まれている。

【「ヌーラン事件」発生】
 1931.6.14日、三船は、スパイMらの指示で、コミンテルン上海駐在員(極東ビュロー)イレール・ヌーランとの連絡を付けるためにその代表として上海へ派遣された。

 1931.6.15日、ところがヌーランが逮捕される(「ヌーラン事件」)。ヌーラン逮捕によって、コミンテルン極東部、在上海の左翼組織は大混乱に陥った。この時、三船は次のように報告している。概要「指定された船に乗り遅れて、ヌーランとは連絡が取れなかった。新聞でヌーラン検挙の記事を見つけ、危険と思って6.20日頃帰ってきた」。この時の三船氏の行動が疑惑されているが、その真偽は不明と思われる。

3.15事件、4.16事件の統一公判組の法廷闘争
 6.25日、3.15事件、中間選挙、4.16事件で検挙された被告の審理が東京地方裁判所の裁判が始まった(第1回公判)。翌1932.10.29日まで数十回に亘って審理が続くことになる。裁判長・宮城、検事・平田、弁護士・布施辰治らが担当した。10月下旬頃、統一公判組280余名は一斉に公判を要求し、これが受け入れられた。これにより獄中共産党員は相互に協議することが可能となった。被告達は、法廷委員会を組織し、常任委員として佐野学、鍋山、国領、常任委員候補・市正、杉浦、三田村、志賀、徳球、高橋、西村らで構成した。これが「獄内中央委員会」と云われるようになる。

 「獄内中央委員会」は、裁判闘争に関わる次のような3か条の内規を作り意思統一した。1・裁判は一般に公開せらるべきこと。法廷内の秩序に対しては被告が責任を持つこと。2・被告は一団として裁判を受けられることを望む。党の綱領、政策、組織、活動に関する党の立場は党の指定する代表者から説明し、判事が個別的に質問する必要が無いようにすること。3・獄内中央委員会は「全ての被告を代表するものとして」判事から認められること。

 被告達は概ね指針されたばかりの31年新テーゼ草案に基づいて陳述していくことになった。佐野が綱領、鍋山が組織、市川正一が公判廷において、日本共産党の歴史及びその性格、使命等について膨大な陳述を行い、果敢な法廷闘争を展開している。

【松村=スパイMが組織部長・軍事部長・家屋資金局長を兼職】

 1931.8月、「8月会議」が開かれ、新中央委員会委員が決定され、風間(徳川)、松村(ヒョドロフ)、紺野(浜田)、溝上弥久馬(西野)、田井為七(杉山)、白川芳松(三笠)、宮川寅雄(牧)が任命された。松村=スパイMは組織部長・軍事部長・家屋資金局長(非合法活動のテク・資金工作の統括)として、組織の要職を一手に引き受けている。 

 9.20日、満州事変勃発二日後に日本の中国侵略に反対する日本共産党と中国共産党の共同宣言が為されている(現在盧溝橋近くの抗日戦争記念館で展示されている)。当時の日本共産党の侵略戦争反対の立場とアジア諸国との非戦国際連帯主義が見事に結合している。


【共青が再建以来、正式に中央委員会を確立】
 1931.9.30日、共青が再建以来、正式に中央委員会を確立。委員長に岸勝。三船は、上海より帰国3ヶ月後のこの時点で、組織部、農民部を担当する共青中央委員に任ぜられている。10月、共青の書記局員、政治局員、組織局員となり、同盟の中枢部分を引き受ける。組織部長となる。

 1931.11.30日、「全国アド紛失事件」が発生し、一斉弾圧される。12月中に同盟地方組織の指導的活動家31名が一斉検挙される。これに関連して、1932.3月、三船は、共青幹部の大量検挙の責任が問われ、共青神奈川県地方組織へ飛ばされる。この時、岸勝委員長も辞任させられている。蛆常次郎が委員長に就くが3.12日検挙される。

「ナップ」が解散し、「コップ」創立される
 11.12日、蔵原の指導の下に「ナップ解体声明書」を発表し、新団体への発展的解消を宣言した。11.27日、ナップの加盟各団体は、科学団体も加えて、「日本プロレタリア文化連盟(略称「コップ」)」を創立した。

1932(昭和7)年の動き

社民党分裂、右へ右へとたなびく
 1932.1月、社民党第6回大会で、同党は分裂。赤松書記長は、党内右翼の平野力三らを率いて脱党。5月に日本国家社会党を結党する。綱領で、1、一君万民の国民精神に基づき、搾取なき新日本の建設を期す。

 社民党の残留者は全国労農大衆党と合同して社会大衆党を結成。党首・安部磯雄、書記長・麻生久。

血盟団事件
 3.5日、血盟団事件が発生している。井上日召らが率いる「血盟団」が「一人一殺」のスローガンを掲げ、前大蔵大臣井上準之助、三井合名会社理事長団琢磨を暗殺した事件であるが、東大(法学部の四元義隆、田中邦雄、文学部の池袋正*郎、久木田祐弘)、京大(田倉利之、森憲二、星子毅)、国学院(須田太郎)らが加わっており、左派運動への学生の大量傾斜とは別の意味で世を震撼させた。

 これにつき立花隆氏は次のように述べている。「日本では、左の側から共産党が革命を起そうとしていたが、右の側からも国家改造を唱える国家革新運動が盛り上がり、左右両翼の革命運動が競い合う形になっていた。共産主義革命が、下からの大衆的蜂起による革命を目指していたのに対し、右からの革命は、クーデターによって上から一挙に国家改造をはかることを企図していた。その中心理論として北一輝の『日本改造法案大綱』があった」(「血盟団と安岡正篤」)。

上田茂樹が検挙される
 4月、党中央委員・上田茂樹が検挙されている。同氏のその後の消息は不明で、どこでいつ殺されたかも今日まで不明のままとなっている。〔上田氏のプロフィールは次の通り。上田茂樹(1900〜1932)党中央委員。1922年7月、党の創立とともに入党。『赤旗』(せっき)や『無産者新聞』の編集・発行にたずさわる。32年4月に逮捕され、以後消息不明。特高警察に虐殺されたと推定される〕

小林多喜二や宮顕らが本格的な地下活動に入る
 4月頃、小林多喜二や宮顕らが本格的な地下活動に入る。4.3日、小林多喜二が中条百合子宅を訪ねている。「これが二人が会った最後になる」。多喜二は、城南の藤倉電線の工場細胞として働きながら、文化関係や組織部の仕事に関わっていたことが判明している。

「32年テーゼ」が発表される)】
 この頃、「祖国」ソビエトにおいてスターリンの粛清が吹き荒れ、コミンテルン議長ブハーリンも失脚した。更に、「31年テーゼ草案」の提案者であったサハロフがトロツキストであるとして追放された。こうした煽りを受けてコミンテルンの方針もジグザグすることになり、「31年テーゼ草案」ほどなくして新テーゼの作成が模索されることになった。

 コミンテルン執行委員会常任委員会議で東洋部を主宰せるクーシネンが責任者となり、日本代表として片山潜、野坂参三、山本懸蔵、岡崎定洞、山本正美らの参加の元に討議が進められた。

 1932(昭和7).5月、こうして「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(いわゆる「32年テーゼ」)が発表された。この「32年テーゼ」が、昭和26年の「51年綱領」までの日本共産党の指導テーゼとなる。

 しかし、「共産党は獄内・獄外を問わずこの31年テーゼ草案を一致して支持していた。3.15と4.16の合同公判における市川正一の代表陳述もこの思想につらぬかれている」(石堂清倫)とあるように「31年テーゼ草案」が新指針として受け入れられていったことも事実である。ところが、そうした状況の上に今又「31年テーゼ草案」が否定されて「27年テーゼ」の主張と同じ「32年テーゼ」になったのであるから、獄中闘士たちの内心の動揺は大きかった。これが転向への伏線となっていく。

 「32年テーゼ」の問題性は、内容以前の問題として、この当時の日共指導部の意識がコミンテルンの指導と権威によって自己の正しさを裏付けようとする「国際的権威主義」に対する拝跪主義にあった。しかもコミンテルン自体が変質し、革命の祖国防衛という美名の下に大ロシア主義に転化してもなお「国際的権威主義」に基づこうとしたことにあった。この権威主義は日共の悪しき特質として別途論ぜられねばならない。

 「32年テーゼ」は理論的にも大きな問題性を抱えていた。革命戦略論において先の「31年テーゼ草案」を批判し、再び「27年テーゼ」の線に戻していたが、「31年テーゼ草案」が戦前日共党史上評価に耐え得る内容を秘めていたことを思えば惜しくも流産させたことになる。その一方で、天皇制打倒の強調においては生硬な理論付けをしているところに特質があった。帝国主義戦争の性格を分析し、日本の支配体制を「地主」及び「独占ブルジョアジー」そのブロックの上に相対的独自性を持つ「軍部およびこれと密接に関連し、部分的には金融資本から独立した天皇制」の役割を見据え、日本の国家権力を絶対主義の一種としての「絶対主義的天皇制」と規定した。この規定から、「日本においては独占資本の侵略性が絶対主義的な軍事的・封建的帝国主義の軍事的冒険主義によって倍加されている」云々と分析し、「君主制の打倒と地主的土地所有の廃止のための闘争」が優先的課題となると指針し、当面する日本革命の性質を「ブルジョワ民主主義革命」と規定した。但し、「社会主義革命に強行的に転化する傾向を持つブルジョワ民主主義革命」へと関連付けていた。これを「二段階革命論」と云う。

 明らかに、前年の「31年テーゼ草案」と比較してかなり穏和化した戦略・戦術を指針させていたことになる。ただし、この新テーゼは、 他方で「天皇制打倒」を第一の任務として課すという強硬方針を掲げていたことから、運動としては急進主義的な部分をも取り込んでいた。また、「日本における『革命的決戦』が切迫しているという主観主義的な情勢評価」や「『社会ファシズム』論をいっそうはっきり定式化」していた。

 このように性格の違うテーゼが相次いで出された結果、この間日本共産党執行部の方針も一向に定まらず獄中党員もまた大きく困惑せしめられることになった。先に、「31年テーゼ草案」が、それまでの「27年テーゼ」を「日本資本主義の現状に対する評価の誤謬」と明言したとき、獄中の佐野・鍋山・市川は、「かかる国際的最高機関に於て承認された決議を後になって誤謬であるとか変更を必要とすると云ふことはあり得ないから『1927年テーゼ』の誤謬と云ふ事は絶対に許すベからざることと思ふ」と意見を述べていた(「政治テーゼ草案に対する佐野・鍋山・市川等の意見」。

 しかし、「共産党は獄内・獄外を問わずこの31年テーゼ草案を一致して支持していた。3.15と4.16の合同公判における市川正一の代表陳述もこの思想につらぬかれている」(石堂清倫)とあるように「31年テーゼ草案」が新指針として受け入れられていったことも事実である。ところが、そうした状況の上に今又「31年テーゼ草案」が否定されて「27年テーゼ」の主張と同じ「32年テーゼ」になったのであるから、獄中闘士たちの内心の動揺は大きかった。これが転向への伏線となっていく。

 31年テーゼ草案と32年テーゼの相違に就いては、戦前党綱領及びテーゼの変遷考(「27年T」、「31年T」、「32年T」考)で概述する。

【「日本資本主義発達史講座」が発刊される
 5月、神田の岩波書店から「日本資本主義発達史講座」が発刊された。1933.9月の第7回配本を以って完結される。この講座に執筆参画したのは、野呂榮太郎、山田盛太郎、平野義太郎、小林良正を中心として他に服部之総、山田勝次郎ら当時の日共系マルクス主義経済学者、歴史家、思想家らで、講座の初期は「31年テーゼ草案」、次いで「32年テーゼ」に添って論述されていた。これを講座派と云う。講座派は、労農派の理論に対し全面的批判を試み、労農派がこれに反論、これを相互に繰り返すことで世に資本主義論争と云われる論争が為されることになった。

統一公判が始められる
 1932(昭和7).6.25日、この日から3.15と4.16事件の被告の統一公判が始められた。裁判長は宮城実判事、立会い検事は平田勲、戸沢重雄、主任弁護人・布施辰治であった。

 この時裁判長は、それぞれの罪状が関連しあっていたことから、被告達が法廷委員会を設け互いの陳述を練り合わせすることを許可している。こうして市川、佐野、鍋山、杉浦、国領、徳田、志賀、高橋貞樹、中尾勝男の9名が委員に選ばれ、協議することになった。裁判史上前例が無く被告を甘やかすという批判もあったが、宮城裁判長はそのように指揮した。こうして法廷委員に選出された被告が代わる代わる代表陳述していった。新聞はこの裁判の進行状況を報道し、法廷にも多数の傍聴人が詰め掛け耳を澄ました。希望者が多すぎて傍聴件が発行され前夜から列ができるほどであった。トップは佐野が務め、徳田の陳述は型破りで人気があったと伝えられている。


 しかし、31年テーゼ草案から32年テーゼへの転換が、獄中党員を大きく動揺させた。獄中党員は、まず、27年テーゼの時にはそれを是とし、明らかに異質な31年テーゼ草案が出されるとそれを是とし、それを否定する32年テーゼが出されると又それを是とするという曲芸を強いられることになったからである。

(私論.私見) 「獄中党員の動揺」考  

 興味深いことは次のことである。31年テーゼ草案が出された時に、「27年テーゼの誤謬と云ふ事は絶対に許すベからざることと思ふ」と意見(「政治テーゼ草案に対する佐野・鍋山・市川等の意見」)も為されていたようであるが、実際には31年テーゼ草案は大いに歓迎されていた節がある。石堂清倫氏によれば、「共産党は獄内・獄外を問わずこの31年テーゼ草案を一致して支持していた。三・一五と四・一六の合同公判における市川正一の代表陳述もこの思想につらぬかれている」と指摘している。。そうした状況の上に、さらに31年テーゼ草案が否定されて27年テーゼの主張に近い32年テーゼになったのであるから、これを理論的に判断し得る有能幹部達の内心の動揺を大きく誘ったことはむべなるかな。後の転向雪崩現象の伏線として押さえておかねばならないであろう。

【源五郎丸がキームから帰国、共青委員長に就任】
 1932.5月、源五郎丸がキームから帰国。共青委員長に就任。中央委員に石井照夫が加わり、事務局長に小松雄一郎が抜擢されている。この時、伊藤律が技術部員として登用されている。伊藤律の紹介者は、三船と今井藤一郎。

【「超スパイ松原除名」広告が赤旗特別号で出される】
 1932.6.1日、「超スパイ松原除名」広告が赤旗特別号で出される。この文章は明らかに宮顕の手になるものであろう。今日、松原氏がスパイでなかったこと、非党員であったことが判明している。ならば、この時点でのかような除名広告の政治的背景が詮索されねばならないことになるが、誰も考察していない。

【伊藤律の動き】
 1932.6月頃、「『超秀才』ぶりと指導能力が秀でていたことにより『一高に咲いた左翼の華』と称せられていた」伊藤律が共青に加入している。当時の活動仲間にあっても群を抜いて別格扱い受けるほどの優秀さぷりが語られている。「一高に伊藤律あり、八高に都留重人あり」といわれるくらいずば抜けた秀才でありリーダーといわれていた、と同時期の清水慎三(六高)が私に語ったことがあった」(増山太助「戦後期左翼人士群像」)とある。3年になっての9月放校処分に処された。

 8月に初検挙投獄され、それが元で9月放校処分にあっている。つまり、転向の波と新たに運動に投じてくる波とがそれなりに出くわしていた時代でもあったと云うことになる。

【松村=スパイMの暗躍】
 注意すべきは、このような理論戦線での動きとは別に、皮肉なことに「スパイM」の働きがますます活発化していたということである。スパイMは既に、組織・資金関係を担当し、委員長さえ判らない二重の秘密組織を張り巡らすことを成功させ実質上の指導者となっていた。資金と重要な隠れ家、会合場所、国際連絡線を全て掌握していたのがスパイMのみであったという奇態なことになった。

 問題は、スパイMの存在はそれまでのスパイの党潜入と意味合いが違っていたことに認められる。それまでのスパイは党の情報を取ることに重きがあったのに対して、スパイM の場合には意図的に党を操作しはじめたのである。概要「党活動や党人事に関与し、党の内部に組織的にスパイをはめこんでいき、それらのスパイ達を手駒として動かしながら、党を文字通り換骨奪胎していったといえるのではなかろうか」(日本共産党の研究二.99P)という立花氏の指摘がある。つまり、スパイが党中央にまで辿り着いたということと、スパイM一人ではたいした事は出来ないわけだから、この時点で党内におけるスパイ系列の確立がなされたと読みとることが出来るということになる。この頃の4月党中央委員上田茂樹が逮捕され、その後消息不明となっている。

 この間党勢が伸張し、赤旗の発行部数も1000部の大台に達し、4.8日の活版印刷による第69号発行以来は、5日刊行→3日刊行で定期発行されるようになり、部数は一挙に7000部に達している。この頃「ゲルの線」によるシンパからの党カンパ資金は、月平均2万円(現在の換算で約1億円)の盛況を見せている。が、いかんせん党組織・印刷・テク・資金活動の全てがスパイMの掌握の元で進行しており、見かけの羽振りも特高−スパイ権力の掌の上に乗せられて活況を呈していたということになる。

 1932(昭和7)年、佐野学・渡辺政之輔らが編集に参画した1925(大正14)年創刊の日本共産党の合法機関紙「無産者新聞」が、権力による相次ぐ弾圧で「赤旗(せつき)」に統合された


【毛利基が警視に昇進、特高警察部特高課長(第一係長兼務)に就任】
 1932.6.29日、警視庁特高課が組織の拡大、独立により、特高警察部に昇格するとの特高警察官制が公布され、即日施行された。

 1932.7.1日、毛利基が警視庁警視に昇進、特高警察部特高課長(第一係長兼務)に就任。

統一公判組に求刑
 1932.7.5日、3.15事件獄中被告28名、獄外被告68名が求刑された。三田村死刑、佐野学.鍋山.市川の3名は無期懲役、間庭10年。3年10月検挙組の国領15年、高橋貞樹15年、相馬一郎.砂間一良12年。福本和夫.河田賢治.杉浦啓一.中尾勝男.志賀義雄.徳田球一.松尾直義.唐沢清八.片山峰登らは10年。赤旗は「求刑年数1023年、外に死刑1名、無期3名」と伝えている。

【「ユン基協赤色テロ事件発生」】
 1932.8.15日、ユン基協(全協朝鮮人活動家、江東地区で活動)暗殺事件が発生している(仮に、「ユン基協赤色テロ事件」とする)。東京市委員長・村上多喜雄により上野公園で暗殺された。この事件も謎が多く、誰が指示したのか紺野までは判明しているが、その先が分からない。

源五郎丸共青委員長が三船、伊藤律らを登用
 1932.8月〜10月、源五郎丸共青委員長による共青中央部の組織再編で、三船は再び共青中央委員に返り咲き。。源五郎丸の引き上げ人事による。三船は、組織部長に就き、古巣の神奈川組織の責任者も兼任。この時、伊藤律も組織部に関係し構成メンバーとなっている。

野坂の怪しげな指導
 9月、コミンテルン第12回執行委員会で、日本代表の岡野こと野坂の音頭で、「帝国主義戦争の危機と共産主義者の任務に就いて」の決議がなされる。これにより、日本共産党に反帝国主義戦争の重要なる任務が課せられた。
(私論.私見) 「野坂の怪しげな指導」考

 この「野坂の怪しげな指導」の実践的帰結が、重要なる任務遂行の為の資金調達という名目で、「大森銀行ギャング事件」その他を誘発していった可能性がある。しかし、「帝国主義戦争の危機と共産主義者の任務に就いて」の内容とその後の動きは解明されていないのでこれ以上の推測を控えることとする。

 2005.4.29日 れんだいこ拝

【「平安名常孝殺害未遂事件」発生】
 1932.9.14日、平安名常孝殺害未遂事件。

大森銀行ギャング事件
 1932.10.6日、大森川崎第百銀行ギャング事件発生。このスパイMの指令の下で32年(昭和7年)10.6日に大森銀行ギャング事件が引き起こされた。これは、党の資金を得るために、党員が家屋資金局に指揮されてギャングそのままに銀行強盗を行った事件であり、事実が判明するに及び共産党の悪評をひろめる結果となった。また、アジトも全て家屋資金局の管轄下に置かれていたたため、後に大きな被害を受けることになった。

 この事件は新聞でも報道され、党中央では首謀者がスパイMであったことが判明していたにも拘わらず、事件発覚後もスパイMのこの指導をめぐって中央委員会の中で問題にされた形跡はない。「も しここで党活動、党生活のスタイルが徹底的に再検討され、スパイMの責任が追及されていたならば、30日の弾圧(熱海事件)による被害ははるかに少なかったろうし、また後の再建もはるかに容易であったに違いない」(栗原幸夫「戦前日本共産党史の一帰結」)と思われるが後の祭りでしかない。

「統一公判組への判決が下される」
 1932.10.30日、3.15、4.16事件統一公判組への判決が下された。判決は、佐野学、三田村四郎、鍋山貞親、市川正一の4名が無期懲役、高橋貞樹、国領伍一郎の2名が懲役15年、砂間一郎、徳田球一、志賀義雄、中尾勝男、相馬一郎、福本和夫、唐沢清八以下150名が懲役12年から6年までの実刑となった。被告はこれを控訴し、再審へと向う。

 付言すれば、渡辺政之輔はキールンで死亡、野坂と山本懸蔵はモスクワのコミンテルンに、岩田義道は保釈出獄中に逃亡していた。

「熱海事件」
 31年テーゼ草案が否定されて、新たに32年テーゼがもたらされたことにより、党は意思統一する必要に迫られた。その為の会議を準備したが、その準備中、スパイ松村の謀略で一網打尽にされる。

 「統一公判組への判決が下された」10.30日の未明、「熱海共産党検挙事件」が引き起こされた。紺野、風間、岩田ら幹部が検挙される。見てきたように、「31年テーゼ草案」ほどなく「32テーゼ」が出される事態となり、この時期党内の意思一致が必要であった。これを基礎に、党を再組織しようと会議が準備され、秘密裏に指令が為され、熱海がその会場地に指定された。

 「熱海事件」とは、スパイMが特高との緊密な連絡の上で全国代表者会議を熱海に召集し、集結してきた地方の主要党員が一網打尽的に一斉検挙を受けた事件である。難を逃れた形になっていた風間委員長もスパイMの手引きで都内で逮捕され、こうして風間指導部もまた壊滅させられた。この時の検挙は芋蔓式的に全国に及び被検挙者1500余名、そのうち起訴142名となった。引き続き全国的規模で一斉検挙。

 ちなみに、同時に逮捕されたはずのスパイMはその後行方がわからず特高資料においても痕跡さえ消されている。スパイMの退場は、特高がスパイMの替わりになる手駒の配置を終えたということになるのではなかろうか。つまりお役目御免であった、と私は解している。スパイMの後釜がどのような面貌で党内に君臨していくことになるのか、これを追跡していくの裏党史となっている。

 「(この熱海事件による)全国的大検挙は我が党に対して大打撃を与え、中央を初め全党の諸機関は根本的な立て直しを余儀なくされ」ることになった(袴田第7回調書)。この熱海事件の余波として、「熱海事件はスパイMの策謀によって仕組まれた」という風評が党内に伝わるに連れ、党員の多くが疑心暗鬼のとりこになった。中央委員が警察のスパイであったという衝撃が走ったのである。とはいえ、潰されても潰されても党を再建させることこそが当時の党員のエネルギーであった。

【「岩田義道中央委員虐殺事件」】
 「熱海事件」の時に捕捉されたのかどうかは不明であるが、党中央委員・岩田義道が逮捕され、狂気のテロルによって生死の境に追いやられている。逮捕の4日後の11.3日に死亡(享年34歳)。

 警察は、死因を興奮の結果による心臓衰弱と発表。弁護団は、官憲の拷問による虐殺として告訴した。

 岩田氏のプロフィールは次の通り。岩田義道(1898〜1932) 中央委員。1928年のはじめに入党。党の宣伝部長として『赤旗』(せっき)再刊の中心になり、党の大衆化に努力。32年10月30日に逮捕され、その4日後、警視庁で拷問によって殺される。〕

【「臨時中央委員会」 再建、1ヵ月後壊滅させられる】
 熱海事件の直後の同年11.11日、逮捕を免れた中央委員の宮川虎雄、児玉静子、田井為七、源五郎丸芳清らによって「臨時中央委員会」 が再建された(「臨時指導部」)。この「臨時中央委員会」に大泉兼蔵がこの時初めて委員候補として顔を出している。

 この「臨時中央委員会」もまた、わずか一月足らずの12.1日主要メンバー全員が牛込のアジト会議を急襲され検挙された。同日渡辺惣助・中央委員候補も逮捕され壊滅させられた。スパイ百瀬幸夫の通牒によるとされている。

【その後の党中央再建の動き】
 その後は、臨時中央指導部直系の飯島善美、労働者グループ(党アジプロ部員で中央委員候補、関東地方委員の山下平次、元関東地方委員・内海秋夫(党名・藤原)ら)、野呂栄太郎、逸見重雄らの産労インテリ派、生き残りの谷口直平、大泉兼蔵、松尾茂樹らの四グループが別個に党再建運動に乗り出していくことになる。この四派には内紛らしきものもあったようである。

 内紛の一つの形は次のようなものであった。非常時共産党の婦人部長・児玉静子と共に飯島きみ子(1933年のモスクワでのプロフィンテルン第5回世界大会に日本代表として出席した元東洋紡績の女工)、労働者出身党員の藤原某らは、概要「日本の党はこれまでインテリの党であったが、これからは労働者が下から組織すべきである」と主張し始めていた。

 ここまでの権力側よりする共産党弾圧も苛烈なものであったが、1932(昭和7)年から翌33(昭和8)年に至る2年間は、党創立以来もっとも激しい弾圧の嵐が吹き上げる時代となった。党中央部に対して集中的検挙が加えられ、数千人にのぼる活動家が検挙、投獄され、上田茂樹、岩田義道、小林多喜二らが即日虐殺もしくは闇に葬られる等、残酷野蛮性が頂点化したのがこの時であった。当時の政治的局面ないし特高警察と党の位相をこのセンテンスで押さえておく必要がある。

 ここでこのことを強調しておく意味は、この後本稿主題の「党最高幹部小畑リンチ致死事件」が引き起こされ、その実行責任者・宮顕が逮捕されるが、何と!「こいつには何をやっても無駄だ」と特高に拷問を諦めさせたのみならず、調書一切を取らせずのまま公判で堂々とその所信を述べるという「宮顕英傑神話」に出くわすからである。そういうことが有り得たのかどうか共に考察してみたい。

【山本正美がモスクワから帰国】
 1932.12月中旬、クートべを優良に卒業し、「32年テーゼ」の作成にも加わっていた山本正美(アレキセーエフ)がクートベを卒業しモスクワから帰国。12月末頃、病床の秘密党員であった野呂栄太郎と連絡がつき、野呂、大泉らと党中央再建に動きはじめる。この間、中央委員の正統を争う混乱がみられたが、クートベ帰りの山本正美が事態を収拾する。

【「全協」の動き】
 この頃の「全協」の動きを見ておく。「32年テーゼ」が天皇制との闘争を強調したため、「全協」内部では天皇制打倒をスローガンとして掲げるべきかどうか是非論が戦わされている。結局、党中央の指導に従うのが正しいという見解を生み、こうして「全協」も又完全に非合法状況に陥り、激しい弾圧を受けることになった。

 当時、共産党は、自らがコミンテルンに拝跪している関係をそのまま今度は逆に大衆団体に強いていた。つまり、機能分離が為されておらず、理論的にベルト化されていたための事態であった。故に、党は、全協その他の団体に対し絶対的な権威で臨み、教条的なやり方で引き回した。「たとえば、党員の実勢を何ら考慮せず、記念日に合わせて頻繁にデモを呼びかけ、その結果デモは何の成果もあげられないが、せっかく組織した労働者がいたずらに検束されたるなどという愚行を繰り返していた。渡部徹・氏は、こうした事例を多数紹介し、「紋切型の街頭デモの扇動に驚くほかない」と述べている。

 こうした結果、全協と共産党の間に対立が生じていた。また、こうした引き回しは他の外郭団体にも及び、同様に激しい弾圧を生んだ。こうした外郭団体の弱体化は、党自体への弾圧以上に共産党運動の崩壊を促進した。
(私論.私見) 「全協引き回し」考

 戦後左派運動が有能であれば、こうした「戦前型党運動の負の歴史」を根本的に総括しておくべきであったであろう。しかし、戦後直後も60年安保も70年安保もその後も今に至るまで、れんだいこは真に総括したという話を聞かない。

 2004.12.23日 れんだいこ拝

「日本資本主義論争」について
 「32年テーゼ」が持ち込まれた後、概要「党はその普及のため大衆の中での党活動を精力的に発展させる仕事に取り組み、『日本資本主義発達史講座』の刊行を始めている。この『講座』は、『32年テーゼ』を学問的に支持する内容を持ち、知識人や、青年、学生に大きな影響を与えた」。

 1932(昭和7)年から33年にかけて、日本資本主義の運動法則や構造分析を解明しようという目的で、野呂営太郎を主筆として「日本資本主義発達史講座」(全7巻)が刊行されている。これに拠った執筆者は、野呂栄太郎、平野義太郎、服部之総、羽仁五郎、山田盛太郎、小林良正らであり、俗に「講座派」と呼ばれている。

 他方、これが刊行されるや、雑誌「労農」の理論家、大内兵衛、向坂逸郎、土屋喬雄、岡田宗司らが批判的見解を発表し、大論争となった。この連中を「労農派」と云う。講座派と労農派の論争は、時の日本左翼のトップクラスの頭脳を結集して行われたことに特徴があり、この論争経過は「日本資本主義論争」と呼ばれている。

 この論争の論点を大別すると、@・日本資本主義の構造的本質の解明、A・農業問題、B・明治維新の性格づけを廻って大きく対立していた。@については、講座派は、日本資本主義の土台を「半封建的農業生産関係」であるとし、Aについては日本農業の本質的生産関係を「封建的」とし、Bについては「極めて不完全なブルジョア民主主義革命であり、君主制の確立へ道を開いた」としていた。これに対し、労農派は、一様ではないものの概ね日本資本主義の構造的土台は資本主義的賃労働にあるとしていた。Aについても「前資本的」とし、Bについては「不完全ながらブルジョア民主主義革命」であるとしていた。

 講座派の見解は、コミンテルンの日本の情勢規定に合致しており、当然日本共産党の立場を擁護していた。労農派の見解は、非あるいは反日本共産党的立場に依拠しており、戦後は社会党に繋がって行く系譜であった。してみれば、日本左翼運動は、生みの頃から「アナ・ボル」論争、「講座派・労農派」論争を巻き起こし、今日にも至る対立となっていることが判明する。


1933(昭和8)年の動き

【山本−野呂執行部共産党時代】
 1933年(昭和8年)1月上旬、党の再建が着手され、1月下旬に党再建中央委員会が確立される。この党中央時代は何とか形だけの党再建であり、その質を規定するような命名を持たない。従って、「山本−野呂執行部共産党」と云うことにする。

 山本委員長を中心に、野呂栄太郎が副委員長格で、全農全会派のフラクキャップ・谷口直平、大泉兼蔵、佐原保治を中央委員、同候補者を山下平治、宮本顕治とする正規の(コミンテルンに承認された)中央委員会が再建された。ビューロー内に組織局と政治局を設け、組織局は山本と山下、政治局は谷口と山本が責任者となり、再建活動に入った。

 谷口、大泉兼蔵の農民組合出を登用した人事は野呂の采配に拠った。谷口直平は、大泉の下で農民部員として活動していた経歴があり、33.1月には共青の党青年部責任者となって関与していた。 佐原保治は三船の別名で、谷口、大泉の推挙で党中央に加わっていた。この間、大泉の推挙で東京市委員会責任者となっていた。東京市委員会責任者は、当初山本や野呂の推挙で袴田を予定していたが、大泉が強く反対し三船が就任した。党再建に乗り出していた内海(藤原)、飯島、松尾らは様々な口実で外された。

 但し、「しかし、この頃には、共産党は、外郭団体も含めて、続く弾圧の中で、その組織能力を著しく弱体化させていた。従って党の活動として特に見るべきものはみられない」。

 現下宮顕−不破系党中央の欺瞞的党史は、称賛すべきところを批判し、逆を是認するという変調記述に溢れている。「日本共産党の70年」は、山本正美委員長時代を次のように評している。「32年テーゼにもとづく党活動の拡大」の項で、「32.10月の弾圧ののち、中央委員野呂栄太郎を中心に、検挙をまねかれた指導的活動家たちは、ただちに党の強化にとりくみ、『赤旗』の発行を継続した。その間、モスクワから帰った山本正美が一時期、党の指導部の責任者となったが、かれは33.5月に検挙されると敵に屈服してしまった。このとき、中央委員・赤旗編集長・谷口直平も検挙された。中央委員会は、政治局員野呂栄太郎、宮本顕治らを先頭に、三二年テーゼにもとづく党活動の拡大のために不屈の努力を続けた」。

 それはそれとして、今日疑問視されることは、ここでも、スパイMの党内総括が為されなかったことである。誤りは全て「スパイ・挑発者」と未熟な下部党員の責任で、中央委員会は常に無謬という権威を守ろうとしていたものと思われる。既にこの時期の党内に「党中央権威主義」が支配していたということでもあろう。

【宮顕が中央委員候補に列なる】
 この時、後に査問事件の主役となる宮顕が中央委員候補となって登場してきていることが注目される。もう一人の主役袴田は、野呂より「君は出所してまもないので、すぐ中央で働くのは無理だ、暫く東京市委員会で働いてくれ」と云われ、東京市委員会のメンバーとして委員長三船留吉の直接の部に廻されている。この三船はスパイであった。党中央委員に昇格した佐原保治はこの三船であったとも云われている。ちなみに三船を東京市委員長に据えたのが大泉であった。そしてこの大泉もスパイであった。してみれば、東京市委員会は最高幹部たる委員長職から始めてかなり深くスパイに潜入されていたことになるであろう。このポストに宮顕も治まっていくことになることは後述する。

 この間の宮顕の履歴は次のようなものである。32年(昭和7年)の春より地下活動に入った。以降宮顕は新人有力党員として嘱望されつつトントン拍子で党内の地歩をかためていった。主に文芸部門に関わり、蔵原惟人のプロレタリア文学理論を踏襲し、蔵原の検挙された後は小林多喜二・中条百合子らと共に専ら党の文化運動の指導者として影響を与えていくことになった。 宮顕は、蔵原が奪われた後の最も忠実な蔵原理論路線の継承者となり、「政治の優位性理論」や、文学運動の「ボルシェシェヴィキ理論」を主張した。付言すれば、今日における文芸における蔵原理論の評価は悪名高く、一言でいえば無茶苦茶な理論である。この当時宮顕は、この蔵原理論でもって、野沢徹又は山崎利一のペンネームで、錯綜する党方針・文芸理論の中で生じようとしていた指導部に対する批判や疑問に対して、そうした動きを一切認めぬ強権方針を発信し続け、それらの動きを日和見主義、右翼的偏向として切り捨てて行った。これを垣間見れば、次のような主張をしている。

 「いわゆる最近流行の転向と、ごっちゃにされるような日和見的潮流 が文化運動の一部を根強く流れていることは事実であろう。そうした流れとは、文化芸術運動の原則的方向−いわば議論の余地なき方向そのものを歪めんとする傾向である」
 「しかし、どんな新しい意見にしても、それが、文化芸術運動の原則的任務・方向の歪曲を意味するならば、それは積極的展開と全く反対の方向に堕ちてしまうものである」
 「原則的問題については中間の道はないのだ」
 「今日のわが党の最大の弱点は、正しき政治方針の決定にも関わらず、その実践的遂行が極めて不十分にしか行われていない点にある。而して実に、これは党規律を弛緩させる挑発者の系統的サボタージュによるものである」(12.24日「赤旗」での中央委員会の主張であるが、宮本の手になる文章と思われる)

 これらの論文はいずれも宮顕の思考様式を実によく表しており、「方針は議論の余地のないもの」であり、党中央を金科玉条視させる傾向と建前主義と異端へのレッテル貼りと、実践が足りないと云う下部党員に対する恫喝が見られる。早くもこの時点で、戦後の「第八回党大会」以降満展開することになる宮本式党路線を主張していることが注目される。問題は、党中央が路線的にジグザグしており、かつ深くスパイの潜入に汚染されていたこのような時における宮顕の「党中央絶対帰依」を主張する感性と背景が分析されねばならないということになろう。


【伊藤律入党】
 1933.2月、伊藤律は共青中央事務局長となり、日本共産党に入党。この頃、岡部隆司、長谷川浩、伊藤律、小野義彦らによる党再建委員会が活動している。

【小林多喜二即日虐殺される】
 再建直後の2月に再々度全国一斉規模での党員の検挙弾圧が襲ったが、 この頃の拷問は一層苛烈さを増していた。その数詳細は判らないが多数の党員が虐殺されている。

 1933.2.20日、小林多喜二が今村恒夫(本名今村久雄)と共に築地警察署の特高により検挙され、凄絶な拷問の為に即日絶命。「特高の張っている所へ現れた多喜二は、20分も逃走し格闘して逮捕された」、「多喜二と知って捉えた特高は、所轄の警察でなく、文化関係弾圧で知られる築地署へ連れて行った。さこには計画的な暴行が待っていた」(梅本竹馬太「壊滅」)。小林多喜二の取調べに当たったのは、中川成夫警部、その配下の特高巡査須田雅六、山口源司らであった。

 〔小林氏のプロフィールは次の通り。小林多喜二(1903〜1933) 作家。労働者や農民の生活とたたかいを命がけで描いた、日本の代表的な革命作家。1931年入党。33年2月20日、スパイの手びきで逮捕され、7時間後に特高警察に虐殺される。〕

(私論.私見) 「小林多喜二を売ったのは三船留吉か」考

 公認党史では、小林の逮捕は、今日スパイとして明らかにされている東京市委員長・三船留吉の手引きによるとされているが疑問としたい。小林はプロレタリア文芸作家であり、連絡線を保っていたのは同じ文芸グループ「日本プロレタリア文化連盟(コップ)」仲間の宮顕ないしその系列の方であると考えるのが自然であろう。三船とはラインが違う。

 ちなみに、三船の考察は案外と重要であることが判明しつつある。2004.5.15日、「小林多喜二を売った男」(くらせみきお、白順社)が発刊されたが、れんだいこは同書を仔細に検証してみたい。

 作家同盟の手塚英孝氏は著書「小林多喜二」(新日本新書、1971.1月)の中で、概要「その日、二人は、共産青年同盟の指導部にいた三船留吉と連絡を取って、ゆっくり時間をかけて会合を持つ予定であった。その日の会合は三船の提案だった。三船は今村を通じて、暫く前から多喜二との三人の会合をたびたび申し入れていた」と記している。立花隆の「日本共産党の研究」はこの説を踏襲している。
 
 川西政明氏の「昭和文学史」(講談社、2001.7月)には、「警視庁スパイ今村恒夫」の手引きによると記されている。「小林多喜二を売った男」は、「極めて初歩的な歴史的誤り」としている。山本勝之助、有田満穂の「日本共産主義運動史」では、「演劇同盟の党フラク鷲塚延三郎(本名・本田延三郎)の自白」によると記されている。ちなみに、有田は、渡部「偽りの烙印」で別名「芦田辰次郎」であることが指摘されている。その芦田は、築地警察署の特高巡査であり、小林多喜二の取調べにも当たっていたことが確認されている。

 2004.6.27日 れんだいこ拝

【全協大弾圧される】
 「査問事件」との絡みで見ておくと、2月末全協に対する大弾圧が見舞われており、小畑が全協の中央部組織部員であるところから嫌疑がかけられることになる。しかし、「昭和8年2月全協の大検挙の手引きの有無については全然関係が無いことを言い張りました」(袴田自供書)とある。戦後になって袴田は1949(昭和24)年5月末の「スパイ挑発との闘争」講演で「1933年2月の全協中央部の一斉検挙は、小畑の手引きによるものでありましたし、その他幾多の組織破壊活動を行った」といい為している。

 これについて、亀山は、「代々木は歴史を偽造する」の中で、「実は私もこの全協中央部の一斉検挙を非常に重要と考えて調べてみた。ところがどうも原因は小畑とは別のところにあったようである」として、「全協中央の青年部長戎谷春松と秘書局長増渕穣の二人が検挙された。この二人の検挙によって、全協中央常任委員会が毎週木曜日に定例会議をやっていることが判明し、それから次回の場所は大塚仲町の某食堂で時間も午前10時と判って一斉検挙になったのが真相のようである」と解明している。亀山のこの指摘は殊のほか重要であると思われる。なぜなら、戦後党運動において戎谷こそは常に宮顕の影に寄り添い、党中央簒奪後は宮顕擁護の重用人士の一人として暗躍した人物であるからである。宮顕−戎谷ラインの胡散臭さのルーツとして、これも見過ごす訳にはいかない。

【「弾圧の嵐吹きすさぶ」】
 1933.2月、党青年部責任者・宮川寅雄、共青委員長源五郎丸らが逮捕されたことにより、共青新中央委員会メンバーとして、石井照夫、前沢雅男、三船。三船は、組織部長兼務。その指導下にスパイ今井藤一郎が参入。共青中央部の機関紙部への集中検挙が始まる。

 1933.3月、再建党中央委員会に、三船は、大泉、谷口、全協フラク代表、らとともに出席。議長山本正美。

 1933.3.5日、百瀬幸夫が除名される。

 1933.3.23日、三船と袴田の事務引継ぎが為されている(袴田里美「尋問調書」)。これ以降、袴田は、東京市委員として北部地区責任者に転じて活動することになる。
 
 この当時の東京市委員会の構成メンバー。責任者・三船留吉、萩野増治(通称、亀)、袴田里美、重松鶴之助(井上)、曹喜俊(野村)、清水幸雄、ほか1名。三船は、共青中央部幹部のまま3月には党及び東京市委員会等に関係していた。

 1933.4月、三船は、大泉兼蔵、谷口直平らの引き上げで、党中央へ転出。今井が共青組織部長に就任。

 1933.3月〜4月、農民部、5月〜6月、学生対策部、技術部、組織部、事務局、6月〜7月、機関紙部残党、学生対策部、財政部等々と組織的系統的に破壊が進む。7.2〜16日、一斉検挙で中央部長級幹部数名が検挙。8.12日、共青中央委員長・石井照夫検挙。

【山本委員長ら党中央員が検挙される

 5.2日、中央委員・赤旗編集長の谷口直平・、山下が検挙される。

 1933.5.3日、山本委員長検挙される。この執行部も再建後わずか4ヶ月あまりで壊滅させられたことになる。

 山本委員長は、概要「山本は三船に売られたことを察知して、そのレポを釈放される朝鮮人活動家に託し党中央に届ける」とある。が、この情報は宮顕系から流されておることを考慮すると検証が必要と思われる。


【三船査問される
 山本委員長逮捕の結果、「東京並びに地方の党員等は非常に驚愕して、又スパイに潜入されて党が売られた結果ではないかと云う疑心を生じ、党員各自が警戒して自己の身辺に対し不審の眼をもって眺めるようになりました」 (袴田第7回調書)。こうして、山本の逮捕は党中央委員会のメンバーであり当時東京市委員会の責任者であった三船留吉に嫌疑がかけられた。

 「査問事件」の関係で述べると、この時党中央部は、大泉を責任者として袴田他同志数名で三船を査問するよう指令した。「袴田が三幹部検挙後、強硬に三船の査問を要求。その結果、大泉を責任者とする査問が為される」ことになるが、袴田の背後には黒幕として宮顕が位置しており、宮顕の指示と推定される。

 これにより三船は査問されるに至る。「小林多喜二を売った男」に、「宮本顕治が予め設置していたアジトにおいて行った」とある。これは貴重情報である。この時、大泉は、「この査問に当たり、大泉のとった態度が言語道断で、むしろ三船を曲庇し、彼を遁さんとするような八百長的態度に出て、それが為、同志達の憤慨を買ったような事実があり云々」(袴田「尋問調書」)とある。約30分位の形式的な査問で打ち切り、三船は放免された。

 この時の大泉の態度が同志達の憤激を買ったという事実があり、伏流として内向していくこととなった。ちなみに、三船逃亡の後空席になった東京市委員長に座ったのが宮顕であり、中央委員でもあった三船の替わりに中央委員に補充されたのが小畑である。

【共青の動き】
 1933.5月、大泉兼蔵が党青年部責任者に就任、共青同盟中央部に参加。この頃を境に大泉と今井が共青同盟中央部を掌握。

【伊藤律再検挙される】
 1933.5月、伊藤律は再検挙され、特高の宮下弘(のちゾルゲ事件の捜査担当)に取り調べられ、共青中央の組織を自白した、とされている。34年12月に予審を終えて保釈出所、4月懲役2年、執行猶予3年の判決。

 これより後は戦前日共史(八)宮顕の党中央潜入と「スパイ摘発闘争」の実態考





(私論.私見)