79部 天理教教祖中山みきの研究第79部 本席の「お指図」時代 1896(明治29)年以降の流れ

 (最新見直し2005.7.19日)

1896(明治29)年

【教組10年祭執行】
 1896(明治29).3.9日(旧1.25日)、教組10年祭執行。大阪鉄道会社の大阪―奈良便は割引切符を発売。人の多さに車両が追いつかず、歩け歩けでぢばを目指す人達が出るほどとなった。参拝者十数万。

 明治29年、「仮に御殿拵える願」に対して、次の「お指図」が為されている。

 「さあさあ仮家に準じたもの。ほんのあれかいなぁと、めどう印さえあれば良い。仮御殿やというような事情は、どうも許さん。皆重々仲良く治まりたら受け取る。皆繋ぎ合い皆繋ぎ合い、心一つの理により、受け取る処は無いで無いで」。

 (仮家普請を許された)


【内務省秘密訓令】

 国家神道路線から外れる宗教.思想の弾圧政策が強化され、天理教に対する官憲の迫害干渉が強められた。

 明治29.4.6日、内務省秘密訓令。天理教の日清戦争に対する非協力ぶりが問題となり、言いがかりをつけてでも潰してしまえというものであった。これにより天理教の弾圧強化が指令された。天理教は淫祀邪教であるから、何かと難癖つけて潰してしまえという内務省訓令が警察の元締めである内務省から各警察に発令された。内務省訓令は次の通り。

 「近来天理教の信徒を一堂に集め、男女混交ややもすればすなわち風俗を乱れるの所為に出で、或いは神水神符を付与して愚昧を狂惑し、遂に医薬を廃せしめ、もしくはみだりに寄付を為さしむる等、その弊害漸次蔓延の傾向有り、これを今日に制圧するは最も必要の事に候条、将来は一層警察の視察を厳密にし、時宜に依っては公然会場に臨み、もしくは陰密の手段を以て非行を抉摘し、その刑法警察令に触れるものは直ちに相当の処分をなし、又そのしからざるものは、必要によりては祈祷説教を差し止め、もしくは制限する等臨機適宜の方法を用いて、その取締りを厳重にして、殊に金銭募集の方法については最も注意を周密にし、且つその状況は時々報告すべし。なお、神仏各宗派にして禁厭祈祷、風紀並びに寄付金に関し天理教会に譲らざる弊害あるものも可有り。これまた同様の取締りを為すべし。明治29.4.6日 内務大臣芳川顕正」。

 この時の「お指図」が次のように為されている。

 「心さえしっかりして居れば、働きをするわするわ。反対する者も可愛い我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも、用いねば反対同様のもの。山が崩れる。水が浸く。雨風や。何処へ駆け付く所も無いというようなもの。泥水すっきり流してしまう。泥水の間はどんな思案してもどうもならん。心一つの理を繋げ、心一つの理を繋げ。いかんと云えば、はいと言え。ならんと云えば、はいと言え。どんな事も見ておるほどに」。


【天理教本部の内務省訓令対応会議が紛糾する】
 5.18日、天理教本部は、内務省訓令につき連日会議し、紛糾の末次のことを決議した。1、朝夕の勤めし、「あしきをはらうて」を止め、「ちょとはなし」と「かんろだい」にする。2、かぐらづとめを自主規制する。3、守札は神鏡に改める。4、天理王命は天理大神と改称する。本部は、日清戦争の時に協力が足りなかったことが原因の発令として、以降戦争協力の姿勢を強めることに合意した。

【前川菊太郎、橋本清両本部理事が相次いで辞表提出】
 9月、秘密訓令の対応を廻って、教会本部の前川菊太郎、橋本清両本部理事が相次いで辞表を提出した。9月、橋本が辞表提出、12月、前川も同調した。

【この頃の天理教の教勢】

 明治29年12月末の教勢一覧。信徒数313万7113人、教師数19061人、分教会17ヶ所、支教会185ヶ所、出張所484ヶ所、布教所392ヶ所。


 (当時の国内社会事情)
 1896(明治29).4.18日、京都・奈良間に鉄道全通(現JR奈良線)。6.15日、三陸地方に大津波(死者2万7122人)。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)
 1896(明治29)年、この年第一回オリンピック開催。

  (宗教界の動き)

1897(明治30)年

【水屋敷事件】
 6月、「前川菊太郎、橋本清両本部理事が相次いで辞表提出」に続いて水屋敷事件が発生する。幼少の頃、教祖に助けられて以来、親子で熱心な道の人となっていた最古参の飯田岩治郎氏(奈良県生駒郡安堵村の教会本部準役員にして平安支教会会長の)が、本部批判を開始し、概要「神様が下がった。こちらは水屋敷、本部は火屋敷、水は火に勝る故に自分の屋敷こそ元であるる」と造反した。古参信者の相次ぐ造反に教内が揺れた。

 「天理教会と言うて、国々所々印を下ろしたる。年限経つばかりで愉しみないから、一時道を始め付けたる。神一条の道からは、万分の一の道を付けたのやで」(明治30.7.14日 おさしづ)。

【飯田氏が免職される】

 「飯田岩治郎段々相つのりしにつき、処分方に付き願い」が出され、この時のお指図は次の通り。

 「ものというは、放って置いて大事無いものと、害になるものとある。放っておいて為になるものなら、放っておいても良い。ニ所も三所も出来るものなら、元の屋敷は要らんもの。元分からんから、そういう事するのや。皆んなこれ教えという理がある。教えに従うて通らんから、綺麗な道がむさくろしいなる。皆行き難い道を尋ねて捜すからどんならん今日の日は一寸片付けて、すつきりしてしまうが良いで」(11.13日)。

 11.18日、本部は飯田を免職し、同支教会を生駒郡竜田に移転させた。これまでの信仰は、教祖ー伊蔵の授けた御幣が教会の目標とされていたが、この頃、山澤派が執拗に各信者の家に祀られていた神実(モミ三粒)に代えて八タ鏡を持ち込み始めた。

【橋本清本部理事が理事辞職】
 12.4日、秘密訓令後、教会本部の前川菊太郎、橋本清両本部理事が相次いで辞表を提出したが、飯田氏の水屋敷事件の発生と処分を経てこの日、橋本氏は理事辞職した。橋本氏は、明治32年「天理教会の内幕」を出版する。

 「皆んな勇ましてこそ、真の陽気と云う。めんめん楽しんで、後々の者苦しますようではほんとの陽気とは言えん」(明治30.12.11日)
 
 (当時の国内社会事情)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

  (宗教界の動き)

1898(明治31)年

 3.25日、婦人会結成に付きお指図。
 「婦人会始めかけ。婦人会というは何の為にするのや。義理でするやない。又人間の体裁でするやない。又世上に対してするやなし」。

 3.30日、「増野いと身上願い」に対するお指図。
 「男女の隔てが無いと云う理は、重々の理に諭したる。この道、男だけで、女は世界へ出さんのか。婦人会という、一日の日を以て研究さしてみよ。出けるか出けんかさしてみよ」。

 8.3日、「天理教別派独立運び方の願い」に対するお指図。
 「心さえ綺麗な心持って居れば、綺麗な道がつく。あちらこちらから、十分旨いこと云うて来る。旨いこと云うて来ても直に取らりゃらん。綺麗な道は急いてはいかん。急いては綺麗とは云えん。成って来るが綺麗なもの」。

 「十年この方、つとめせにゃならん。つとめで開かにゃ開けん〜。ならん〜で暮れてしもうた。・・・年限十年少し前どうでもならん、こうでもならん〜から暮れてしもうた。世上あちらこちら、一寸〜にをい掛け、年限相応のもの、可哀想なから、この学び道を付けた、・・・これから先長い〜年限である」(明治31年9月30日 おさしづ)。

 (当時の国内社会事情)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

  (宗教界の動き)

1899(明治32)年

 5.21日、神道本局管長・稲葉正善氏が、真柱に天理教一派独立を勧める。


 5.30日、一派独立運動始まる。
6.14日、松村吉太郎、清水与之助を天理教別派独立交渉委員に任命する。
 8.9日、 第1回請願書提出。
 (当時の国内社会事情)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

  (宗教界の動き)

1900(明治33)年

 2.27日、増野正兵衛、松村吉太郎を誓願委員に任命。
 3.6日、当局より、教義、組織改善要求を受ける。
 4.1日、天理教校開校する。
 8.1日、当局よりの教義、組織改善要求を受け、教典、教規、礼典、教祖伝、御神楽歌釈義、教務本末などを編纂(逐次請願書に追加提出)。
 10.22日、請願書、訂正の為取り下げる。
 (当時の国内社会事情)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

  (宗教界の動き)

1901(明治34)年

 明治34.1.19日。
 「道と言うたら末代と云う。又所に名称というは末代の理」。

 この意とするところは、末代かけて陽気暮らしの世界実現を期するこの道の、たすけ一条の拠点として、いついつまでも変わらぬ心でつとめ励むようにと心積もりで、それを誓うことにより各地の分教会を許すということにあった。教会の「元一日」の言葉となっている。これについて、教組の次のような御言葉が為されている。「一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで」(「稿本天理教教組伝逸話篇90」)。

 6.27日、第2回請願書提出。
 (当時の国内社会事情)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

  (宗教界の動き)

1902(明治35)年

 6.25日、本部が、内務省宗教局の勧告により、教会内の共同生活解散の「達」を出す。
 7.13日、全国を10教区にするお指図。
 「大きな心もてばどんな働きもあるある。まさかの時には月日の代理とも言うたる」(明治35.7.23)

 7.29日、天理教会所取締り条規を制定発布。
 この頃、各教会の御神体を御幣から八タ鏡にかえ、お守りも小さな八タ鏡に変えた。これに対して、安堵村の飯田岩次郎平安支教会長が、「そこまで変えたら教祖に申し訳ないではないか」と反対した。これが謀反だとされ、飯田は罷免された。

 11.22日、中山忠七出直し(76才)。
 (当時の国内社会事情)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

  (宗教界の動き)

1903(明治36)年

 1903(明治36).1月、明治33.8.1日より作成にかかる「天理教教典」(明治教典)が作成された。本部員松村吉太郎が中心となり、国学者井上頼国、逸見仲三郎が執筆、神道学者宮地巌夫が校閲した。「元始まりこふき」は無く、天皇の先祖を神とするなど国家神道に沿っていた。以降、神道本局からの独立請願運動に総力を傾注する。

 明治教典の「第一、敬神章」は次の通り。

 「天地の悠久にして万物の生成化育息まざる所以のものは神明調摂の天理に依る宇宙の森羅万象皆其の霊徳の妙用に基づかずと云うことなし。而して主宰の神あり、分掌の神あり、各々其の霊徳の妙用によって神名を表彰す。概して是を天神地祇八百万神と云う。蓋(けだ)し造化の大原にして万有の根本なり。誰か尊仰敬事せざらむや。然れども八百万神悉く其の名を称えて崇拝せむことは人の能くせざる所なり。故に霊徳の最も顕著なる十柱の神を挙げて奉祀す。即ち、国常立尊、国狭槌尊、豊**尊、大苦辺尊、面足尊、*根尊、いざなぎ尊、いざなみ尊、大日*尊、月夜見尊、是なり。之を総称して天理大命と云う」。

 第二章は、神様の子孫が天皇であるという尊皇章、第三章は、天皇の国土、天皇の民ならば、私たち民はこの国土を愛しますという愛国章。


 この時、天皇とその先祖を神として祀り、「教祖を神として教え、天皇を神と教えない教師は不良教師として粛清する。「辞任してお詫びしろ」と迫り、約1400名の教師が辞任させられている。泉田藤吉、万田万吉ら大教会を設立していた教祖直系の高弟まで累に及んでいる。

 1.11日、願書取り下げ。


 明治36.3.31日の「お指図」。

 「元々の理は心次第と言う。応法というも、筆に取りた限りには、これより堅きものは無い。これに反対に取りては応法の理にゃならん。皆々これまで真実の心に曇りあるか無いか。折角の道何処にあるか−−−」。

 5.27日、衆議院へ、天理教解散請願書が提出される。


 8.19日、第一回教師講習会。


 12.13日、神道天理教会長大教正・中山新治郎名で、最初の論達が出された。


 (当時の国内社会事情)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

  (宗教界の動き)

1904(明治37)年

 2.13日、日露戦争に関する論達2号発布。

 「我が教会のつとに以て神祇を敬崇し群集を化導るところのものは、神明の付与し給えるところの霊魂と神明より借り受けたるところの肢体とをあげてこれを国家に殉すの誠意に他ならず」。

【不良教師事件】
 1904(明治37)年、日露戦争。この時、教祖派の泉田藤吉(中津支教会長。おたすけ人の鑑と云われていた)、万田万吉(島ヶ原会長、中和大教会の植田平一郎の兄弟)らが異端者、本部の方針に謀反する不良教師であるとして会長を辞任させられ、1400名が放逐された。平野樽蔵らが「天理教会本部は天皇と天皇の先祖を神様と言っている。教祖を神様と言う者は不良教師である。辞任してお詫びせい」。

 これにより、戦争協力体制へ進んでいくことになり、「借金をしてでも戦時国債を買え」という本部方針の下で250万円以上の戦時国債を買い協力した。日露戦争後、真柱の真之亮に勲六等の勲章が出される。

 4.10日、御供(ごく)が、金平糖から洗米に代わる。


 8.1日、第3回請願書提出。松村吉太郎を全権委員に任命。8.13日、請願書取り下げ。


 12.16日、第4回請願書提出。


 (当時の国内社会事情)
 1904(明治37)2.10日、日露戦争布告。重税による財政難、破産続出。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

  (宗教界の動き)

1905(明治38)年

 4.23日、中山正善(2代真柱)が誕生する。


 明治38.5.18日、次のようにお指図している。

 「あちらこちら、取りまぜたことをゆうたる、これを横道というのやい」。

 本席のこの指図にも拘わらず、なかなかに修整されることはなかった。


 明治**.**.**日の「お指図」。

 「さあさあもうどうしてこうしてと、ずつない道は通り難くい。しんどい道は通り難いと。楽な道は通りよい。情に流れるは通りよい。言葉下すは容易やない。この道は、席の言葉下すと思うな。天より」。


 7.12日、辻忠作出直し(69才)。


 11月、金平糖事件で独立請願に支障。


 12.18日、独立請願一時見合わせ。


 (当時の国内社会事情)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

  (宗教界の動き)

1906(明治39)年

【教祖20年祭執行】

 1906(明治39)2.18日(旧1.25日)、教祖20年祭執行。2間四方の仮斎場で盛大に挙行した。この時、次のような祝詞が登場し、以降読み継がれていくことになる。

 かけまくもかしこき天理大神の御前にかしこみかしこみももうさく、大神の広き厚き大御恩をよろこび奉りかしこみ奉りて朝な夕なに拝み仕え奉らくを諾い給ういて現御神と大八洲国しらしめす天皇の大朝廷を天壌の共無窮に守り幸い給い、皇国安穏に又吾が教師信徒を始めて天下の人民の家をも身をも平らけく安けく守り給い吾が教えを弥広に弥遠に布き弘ごらし給へとかしこみかしこみも請祈奉らくともうす。

 12.20日、請願書取り下げ。


 (当時の国内社会事情)

 (当時の対外事情)
 

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  (宗教界の動き)

1907(明治40)年

 3.13ー6.9日、「百日のお指図」始まる。


 5.31日、お指図。

 「かんろだいの場という、今は学びしている。地から上へ抜けてあるもの。建物の中へ学びさしたる」。

【本席、身上に陥る】
 1907(明治40)年、春頃から本席は身上になられた。6.5日からお障りが激しく、「お指図」によって真柱・中山教長を呼ばれ、色々と今後の事情に対して問答為された。

【本席、身上に陥る】

 6.6日(旧4.26日)、上田ナライトにお授けを渡す運びをつけられ、「これで肩の荷が降りた。安心や、満足や」とお喜びになった。


【本席、最後のお指図】

 6.9日(旧4.29日)午前9時、各分支教会長の「本席様の身上もご普請の上からのお障りであり、教会長一同草鞋の紐を解かず、一身を粉にしても働かさせて頂きます」との心定めをお聞きなられて、

 「もう十分の満足をして居る。席は満足をして居る居る。又今一時席の身上の処差し迫り、どうであろうこうであろうと、困難の中で皆心を合わせ、もう一度十年何でもというはなかなかの精神。その精神というは、神の自由受け取りたる精神。何も皆、身上は成っても成らいでも案じてくれる事要らん。篤と心を鎮め。皆々心勇んでくれくれ」。

 平野楢蔵とお話有りし時、俄かに刻限の話。

 「さあさあ今日はどういう話仕掛けるかも分からん。さあ皆用いるか用いるか。もち用いらねば世界へどうして託するか託するか。これ知りて居るか。年限数えて見よ数えて見よ。いつまでこんな事で通るか。道は、皆継ぎ目あるであるで。継ぎ目知りて居るか居るか。知らずに何と呆けて居るか居るか。皆取り損ないして居る居る。教祖という道内から潰して居る。世界の道で立ってあるかあるか。学問で立つと思うか。さあさあ世界の機械は何時なりとある。何時なりと買えるで。神の機械あるか。あらしょまい。神の機械は、年限の理続くが神の機械である。これ一時に聞き分けて今日に返事して来い云々

【本席、出直し】

 1907(明治40).6.9日(旧4.29日)、「百日のおさしづ」を最後に75歳で出直す。6.15日、葬儀。会葬者2万人。


 6.21日、真柱と松村が上京、独立請願に付き折衝。


【応法派イデオローグの流れ】
 山沢良治郎→山沢為造→中山為信→中山正信→山沢秀信。

【増野鼓雪の意見】

 明治40.6月以降、「完全主体的教会」となった天理教団には天啓は不要であると唱え、この見解が支持されて行く事になる。「啓示の一回性と完結性」という概念により新たなる啓示は否定されることとなった。この教会論は教祖三十年祭をピークとした天啓待望論の挫折が影響していると考えられる。

 「半主体的教会」から「完全主体的教会」へと変化した節目こそ教祖三十年祭であり、この三十年祭前後の教団の姿を思案してみる事はたいへん興味のあること。

 大西愛治郎「甘露台人の理御踏め定め」。
 北礼拝場落成。
 初代真柱・中山眞之亮の出直し。
 松村吉太郎 私文書偽造容疑

 
教祖三十年祭。
 井出クニ むほん。
 ナライトの「おさづけおはこび」中止。
 茨木基敬 罷免。


 (当時の国内社会事情)

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

  (宗教界の動き)
 明治29年、禊教独立。

 明治33年、金光教独立。




(私論.私見)