第76部2 教組一年祭前後の様子 (1888年)(21年)

 (最新見直し2006.8.16日)

【本席と真柱の問答】

 みきの後継者として本席の地位に立つことになった伊蔵が為さねば成らぬことは、お道における真柱・真之亮との地位の調整であり、道人も又このことを気懸かりしていた。そうした手前いつまでも無視することはできなかった。本席は、真之亮に対し、厳しく宣言した。「大工としったは神一条。裏は鍛冶屋表は大工で神一条」。神意はこうである。「以降、事務的な官吏処理など奥向きのことは真柱の仕事であっても、教えの代表者は私だ。私によって、神の声を聞け」との断固たる宣言を為した。大学にたとえるならば、真柱は、理事長。伊蔵は、学長という立場である。これが、一席に席と教えを取りつぎ、最後に席を定める本籍という立場であった。

 だが、親戚連合の中には、「大工上がりのあんな人をなぜ中心にせねばならぬのか。中山家の者こそがつまり真之亮が全部たばねるべきではないか」という声もあった。


【「応法の理」その四、その後の神道天理教会設置の動き】

 こうした経過を見せつつも、お道内には国家や地方庁の公認を得て、教会本部を設立しようとする動きが活発になった。教理派の教祖の教えを頑なに引き継ごうとする原理主義は本席派として残されたが、国家の方針に反する流れであり、この道も相当に困難が予想されていた。こうした事情から、応法派がいわば国家の力を背景として勢いを増していった。応法派は、拝み祈祷派と教会本部設立派と親戚連合派との合体によって成立していた。

 1888(明治21).1.8日、真之亮の従兄の松村吉太郎がおぢばへねじこんできた。そして、本席に対して個条書きの詰問状をだした。これに対して、伊蔵は、きっばりと宣言した。

 「この道は50年前から始まった。どこそこでだれそれという者ではない。ほんなんでもない百姓家の者、なんもしらん女一人、それが最後の教えを説くところの理を聞き分け」。

 神意はこうである。この道は、ほんなんでもない、百姓の女、中山みきでも神一条の心を定めたから神の社となったのだ。私は大工あがりの住み込みだが、教祖の教えを聞き分けて、神一条の心を定めたから本席ときまったのだ、よく考えろ、というものだった。


【教組の一年祭執行】
 3.8日(陰暦正月26日)、教組の一年祭を迎えた。信者は津々浦々に広がり、各地からおぢばに駆けつけてきた。近隣の村々の宿屋から民家まで信者で一杯になった。午前5時かぐらづとめが勤められ、12下りも終わった。これから年祭祭典に取り掛かろうとしたとき、大神教会から横槍が入り、その後櫟本警察分署長らが踏み込んできた。公許を得ていないので中止せよとの命が為された。為に、祭典執行を断念し、一年祭は執行できなかった。

【「応法の理」その四、その後の神道天理教会設置の動き】

 しかし、お道の公認化を求める流れは既に勢いであった。教祖1年祭を終え、神道教会設置がいよいよ本格的になった。伊蔵にはもう止めることの出来ないなりゆきになっていた。

 3.9日、安堵村の飯田宅で、真之亮を中心に教会設置の話が重ねられることになる。一年祭の中断は公許を得ていないことにあったことが歴然としていた。かって大阪府に再三出願して却下されている。今度は神道本局のある東京府に出願してみようということになった。真之亮は東京で駄目なら二度と西へ向いて帰らんという決意で、3.30日、教会設立の為東京へ出発した。

 この事業を松村吉太郎(中山たまへといとこ関係、のち高安大教会長)が推し進めていくことになる。手続きに手間取ったが、ほぼ一ヵ月後の4.7日、教会設立願書を東京府庁に提出した。

 4.10日、神道直轄天理教会(奉教主神は十柱大神)が、東京府知事(高崎五六)より、当時の下谷区北稲荷町42番地(現・東大教会所在地・台東区)で認可された。
これにより、天皇の先祖を祀ったお社の前に平伏して朝夕のつとめに「天理王命のつとめ」(「悪しきを払うて、たすけ給い、天理王命」)が行われることになった。東京本部は、「奉修天理王命守護」と紙に記しためどう札を出し始めた。

 明治21.4.29(陰暦3.19)日夜、本席に「東京に於いて御供を出す願」、「めどう札を出す事じっとする願」を伺った。本席は次のようにお指図している。

 「さあさあ一時尋ねる尋ねる。さあ尋ねる事情、よう聞き分けてくれ。めどう札暫くのところ出せんという。めどう、神の名がめどうか。何と云うて呼び出すか。さあさあ分からんから尋ねる尋ねる。めどう無くば呼び出すまい」。

  明治21.6.3(陰暦4.24)日十時頃、本席御障りに付き次のようなお指図している。

 「これまで急ぎ立てる理、早くかんろだい。珍し事言い掛け、又始め掛け。かんろだい一条、世界に有る事は云わん。これから神の云うようにする事、段々聞かす。だんだん経ち来たる、判然分かり難ない。これから天理運ばねばならん。世界事情、世界ある道は要らんで。せいでもよいものや。通るに通られん。世上理に迫る。一寸一つの指図、いついつまで一つ事情、事情はかんろだい。早く成る成らんではない。連れて通る。世上の理、世界の理、この事は五十年以来一年理を見て、どういう分かり、古き者を迎い取り、一寸心に掛かる。一つの理治まる神一条」。

 これは、概略「教祖が身を隠されてからのたったの一年足らずで、『天理王命だ、神道天理教会だ』というのはけしからん。かんろだいに関係のないおつとめを作るような本部は認められない。大和へ帰ってくるように」との含意が込められている。

 明治21.6.3(陰暦4.24)日午後四時、山本利三郎伺いにつき、本席は次のようなお指図している。

 「今又話。かんろだい珍しい事云うで。段々はじめ掛け。段々道分からんから遅れてある。世上の道皆世界に有る。世界にあるものなら要らんものや。なれども長い道やで。一寸許してあるのや」。
 「これから神一条やで。実なるところかんろだい。早々取り決め取り締まれ。難しいようにあるけれど、神が皆働く。何でもない、なれどもなかの道である。一寸許したもの、これまでのところ迎い取りたる者も有るで。一人ではない。古きの理を失えば、皆自然と理を失うで。かんろうだい一条の道通れ。かんろうだい一条の話」。

 世界にあわせることはないのだけれども、応法的に世上に合わせて神道天理教会本部というものを許した。しかし、今やかんろうだい一条の道に戻すために東京本部を廃止して大和へ移転xさせる。案ずることは無い、神が働く、、との指図であった。

 明治21.7月、平野樽蔵伺いにつき、本席は次のようなお指図している。この時、平野は初代真柱と共に東海道をおぢばに向って歩いて帰って来て、山澤為造や初代真柱の代わりになって、概要「本席は、かんろだいに関係の無いおつとめなどけしからんと云われるが、東京本部にはかんろだいがありませんので致し方有りません」と反論していた。これに対する返答である。

 「さあさあ身の障り身の障り。第一、一つ一つ、皆んな一つ聞き分け。尋ね出る理がある。今一時は世界中という。どちらやろどちらやろ、一時始める始める、いつの事やと思うて居る。あちらの国に一つ、あちらの所に一つと、どうもこれまで聞かしてあるある。遅れ来てあるところところ、年が明けたら、ろくぢと云うてある。なれども、皆案じてどうもならん。扉を開いて、世界をろくぢに踏み均すと云うてある。扉を開いて、世界をろくぢに踏み均らしに廻りて居る。なれども皆んな、案じてどんならん」。

 かくて、本席の叱正により「天理王命のつとめ」は廃止され、天理教会本部も大和へ移転するよう命ぜられた。奈良県の対処もスムーズで、7.23日、天理教会本部はお屋敷に移転された。8.5日、東京の神道直轄天理教会本部は出張所となり、後に東分教会→東大教会へといたる。

 7.24日、天理教会本部がおぢばに帰ってきたことによりとつとめ場所が増築された。 つとめ場所を南に増築、ぢばを取り込んで神殿を建てるべく着手した。10月落成する。増築した部分に、神床が作られ、そこに社が祀られ、かんろ台を据えている場所が床の下に埋没した。それに対して、本席は、「そんなことは許さん。床を抜け。天上も抜け」と指図した。

 この時、「二つめどう」とも指図している。真意は、天理王命の神道式お社がどうしても避けられ為いのならそれは止むを得ないにしても、かんろだいも見えるようにしてめどうとせよというところにあった。この頃より、教会本部だけでなく、各地方の講社でも、社が祀られることとなった。

 明治21年以来天皇家の先祖を象徴するお社が祀られていた。これに関して、本席は、次のようにお指図している。

 「祭り型どうもならん、神の社の教祖に、なぜきでつくった社が必要なのか」。

 この祭り型によって、神社や神道と同じように思って、ご存命の教祖さまという話しをする者も出てきていた。さらに10年、20年、30年と年を経るとともに、上への忠義孝行を説く天皇神道因果応報を説く日本仏教、分をわきまえさせる神学道話など、あちこちの教えが入り混じって、教祖伝もそれにあったように作られ、語られていくようになる。

 11.1日、みかぐらうた本が、本部より公刊された。

 
11.29日(陰暦10.26日)、神道直轄天理教会本部開筵式を盛大に祝った。開筵式を期に「みかぐらうた」が初めて本部から公刊された。前川菊太郎の名で出されたが、天理王命の神名が初めて登場した。11.30日、神道天理教会規約が制定された。

 ここにひとまず大っぴらに布教活動が可能になり、この年、郡山、山名を嚆矢に翌年から次々、講社が教会の名乗りをあげていった。



 (当時の国内社会事情)
 1888(明治21).4.25日、市制・町村制が敷かれる。4.30日、枢密院設置(議長・伊藤博文)。第一次伊藤内閣から黒田清隆内閣へ。6.18日、雑誌日本人が、高島炭鉱の惨状を告発開始、世論沸騰する。7.15日、磐梯山大噴火、444名死亡。10.27日、皇居の造営落成、宮城と改称。

 (当時の対外事情)
 1888(明治21).11.30日、メキシコと修好通商条約調印。最初の対等条約となる。

 (当時の海外事情)
 1888(明治21).5.13日、ブラジルで奴隷制廃止。6.15日、ドイツ皇帝にウィルヘルム2世即位する。

(宗教界の動き)




(私論.私見)