第59部−1 | この頃の講元の動きと説法 |
「天輪王明誠講社」の動きを見ておく。「天輪王明誠社百年史」(昭和59.1月発行、若林勝美著)を下敷きにした「櫟本分署跡参考館」の「教組伝資料」を参照する。 明誠講は、京都で奥六兵衛を中心として組織化され発展していった。他に松谷喜三郎、中野政次郎、深谷源次郎、宇野善助等が先駆者となっている。奥六兵衛は西陣織物業を営む大家に生まれ、学識も深く育ったが、28歳の時分家に当たる河内古市村の奥野家に預けられた。奥野家は農を営む土地の名望家であった。親戚に山本利三郎が居り、明治6年頃ににおいがけされているようである。当主奥野伊重郎は明治11年に教組みきと引き逢わされており、人道講社の講元となっている。明治14年には赤衣及び御飯茶碗を頂いている。 奥六兵衛は、奥野家に寄寓中、出入りする山本利三郎が奥野家の次女つるの病気を、神の話を取り次いで助けたのを目の当たりにして大いに感じ入り、これを機に道に就く心を定めた。やがて、山本利三郎の手引きで大和の庄屋敷村に参り、教組みきの手づからの仕込を受けた。その後京都に戻り、ここから奥の伝道が始まる。奥六兵衛は教組の導きのままに「施し与える」ことを信条にした実践布教を目指した。明治11年に月次際(つきなみさい)を執行するようになっている。 この頃の布教の様子が次のように伝えられている。「源さん、不思議な信仰がある。歌をうたって踊りをおどって、それぞれ病人が助かり、困っている者も救われるという信仰や、まことに陽気な神様やで。お前も信仰せんか」。かく信者のにおいがけの様子が伝えられている。「その頃、天輪王明誠講社の発足前後で、毎夜のように立ちつとめの稽古が行われて、老若男女大勢の信者が日の丸の扇子を両手に、陽気手踊りをつとめていた。それが済むと講元、奥六兵衛が説教することになっていたが、六兵衛の巧みな話術、さわやかな弁舌と流れるような口調に聴く者誰もが感銘した。落ち着いた態度で、諄々と理の深い『天理王命』の親意を説くので、少しでも信仰心のあるものは吸い込まれるように惹きつけられていった。奥六兵衛の説教で、初めて聞く『元始まりの話』を一語も洩らさじと傾聴した善助は、あたかも朝日に淡雪が溶けるが如く不思議に心の解ける思いがした。日頃から神仏の説教は聞き尽くしているが、この世の始まりのこと、人間の生まれてきた目的のこと、これこそわしが年来求めていた根本の話じゃ。この神様を充分信心して合点の行くまで教えて貰いたい、と翌日には実印を持参して明誠講社に加盟したのである」。 「そして講元奥六兵衛から『奉修天輪王命』のお札と『京都明誠社』の焼印を押した木札の裏に、下京区第5組8百屋町周旋、宇野善助と記入したものを受けて、深谷源治郎方に行き、『源さん、昨晩はお陰で結構な話を聴かせてもろて心が浮々して来た。これで家内も私も助かった、有りがたい事や』」と礼を言った。『そうかい、それは好かった、わしも入って一ヶ月になるが、聴けば聴くほど結構な神様や、かねがねわしは子の無いのが不足でいたが、天輪さんの話を聴くと、沢山の人を助けたらそれが皆、自分の子になる。これを理の子というそうや、この理の子供が授かったら産みの子以上やと聞いて、わしも楽しみになった』。源治郎の顔も生き生きと明るかった。後年の河原町大協会を創始した深谷源次郎と越乃国大教会初代の宇野善助の若き日を伝える語り草である」。 京都明誠社は、明治15年から17年頃にかけて教線を伸ばしていく。しかし、明治17年3月、天輪王信仰に対する官憲の激しい圧迫に対する応法の道が論議されるようになり、一時公認の教派に身を寄せる方便について意見が分かれ、明誠社は分裂を余儀なくされる。深谷、宇野グループは斯道会を発足させる。その後、明治20年を過ぎる頃から明誠社の影がおじばから薄れていくことになる。 その後明誠社は、東京、横浜、川崎、千葉方面へと道が広まり、昭和38.8.26日若林神風を初代管長として「宗教法人明誠教団」の認証を受け一派独立を為している。昭和58.2.6日の本部役員会議で、明誠草創の精神に則り、元に復する意味を以って「明誠教団」の上に「天輪王」の神名を冠して「天輪王明誠教団」と改称することを決定し、文化庁及び神奈川県に申請し、9.26日に認証され今日に至っている。 |
(私論.私見)