451 天理教教祖中山みきの研究59 (1881年)(明治14年)(教祖84才)

【「こふき」をつくれ】 

 1881年(明治14年)、教祖は、4月よりお筆先第16号を執筆された。この頃から頻りに高弟達に、「元始まりの話し」をまとめるようおせきこみされた。

 「今までも神学こふきあるけれど、元を知りたるものは無いぞや」(3.69)
 「高山の説教聞いて真実の、神の話を聞いて思案せ」(3.148)
 「日々に神の話しを段々と、聞いて楽しめこふきなるぞや」(3.149)

 これを受けて秀司の死亡前後の時期に、秀司の協力者として働く山沢良次郎が和歌体の「この世始まりのお話控え」(山沢本こうき)をまとめた。しかし、それは日暮れゆう貞の影響があるもので、教祖に見せられるようなものではなかった。明治16年になって、桝井伊三郎も散文体の「桝井本こうき」をまとめたが、山沢の影響を残したもので、教祖は良としなかった。



【秀司の出直し】

 内蔵を建てることになり無事に棟上は済んだが、うち作りの出来ないうちの前年の暮れ辺りから秀司の身上が勝れなくなり、この年4月8日(陰暦3月10日)61才で出直すこととなった。「転輪王講社」開設から半年余を経た頃である。この間秀司は、「応法派」の頭目とでも呼べる存在であり、教祖の厳しい叱責を受けながらも、布教の公認を目指して奔走しつづける日々であった。そういう秀司に対して、教祖は、常々叱責を為されたきたが、その確執の根は深く、「お道」人になりきれない秀司に対するはがゆさにあったものと拝察される。教祖は、

 「なに事もこのところには 人間の心はさらにあるとをもうな」 (6.67)
 「どのよふな事をゆうにも筆先も 月日の心さしすばかりで」 (6.68)

 と、仰せ下されている通り、教祖の心には、我が家もなければ、我が子もなく、否我が身さえもなく、あるのはただ、世界一列の子供をたすけたい一条の親心、月日の心であって、小さな自己の心、一中山家という立場からは完全に離れきっておられた。これに対し、秀司は、常に中山家の立場から物事を見、教祖を産みの母として見、一貫して中山家の戸主としての立場から、「お道」と関わり続けて来た。秀司の評価を廻っては、一概な判断は禁物であるが、この時期、教祖にとって、

 「身のうちにどこに不足のないものに 月日いがめて苦労かけたで 」 (12.118)
 「年限は39年も以前にて 心配苦労悩み掛けたで 」(12.119)
 「このたびのつとめ一条止めるなら、名代なりとすぐに退く」 (15.88)

 とあるように、秀司は「お道」の妨害者の如く映じていたのである。

 「稿本教祖伝」によれば、こかんの出直しとの時と同様に、「可愛いそうに、早く帰っておいで」、と、長年の労苦をねぎらわれたことになっているが、真相は次のようであった。秀司が息をひきとった時教祖は門屋の右側、十畳の部屋に一段高くして居られた。秀司がなくなったとの知らせを聞くと、みきは、「アアそうかい」と云って一段高いところから降り、別部屋に寝かされていた秀司の枕元にやって来て、額をゴロゴロとして、

 「もう強情は張らせんやろ、張れるかい、張れるなら張ってみいや」と云い、伊蔵を振り返って「伊蔵さん、うちのざまを見ておくれ。金をためるとこの不始末やで」

 と涙一滴こぼさず云いなされたことが伝えられている(飯降政甚「新宗教」大正5年1月号における談話)。

(私論.私見)「教祖の秀司の遺骸に接しての御言葉」について

 この時の教祖の言葉をこかんの時のそれと比較することが興味深い。こかんの時の場合には、その額を指がめり込むほど突いて語りかけていたと云う。それに比べて秀司の遺骸に接してのお言葉は「もう強情は張らせんやろ、張れるかい、張れるなら張ってみいや」である。「稿本教祖伝」の「可愛いそうに、早く帰っておいで」は史実偽造であろう。

 この教祖の態度をどう拝察すべきであろうか。人間思案からすれば一見非情とも拝されるようにも思われる。しかし、裏返せば、身内意識よりも教えの実践躬行こそ第一にする教祖の教義への厳格さを見て取れるのでは無かろうか。つまり、みきにとっては、天保9年の立教の時以来、世界一列がすべて可愛いい子供であり、血を分けた肉親であることに特別の意味はなかった。理を聞き分けた道人の手により、人間始めた元のぢばに、「かんろだい」を建てて、「かぐらづとめ」を勤めることによって、世界一列をたすけるのだと仰せになり、ただただ目指す「つとめ」の完成をおせき込みになられるばかりであった。

 この理の前には、肉親との死別も、官憲の迫害も、一切無頓着であられた。かような教祖の様にこそ、まさに世界たすけの親心が如何に切なるか、勿体無いほどはっきりと感得させて頂くことができるのではあるまいか。こうして、教祖こそ月日のやしろにおわし、人類のをやにておわすという尊い理を益々強く心に焼き付けられていくことになった。

 暫く、秀司の一生について見ておこうと思う。秀司は、 年在村の有力農民の家柄であった中山家の跡取りとしてこの世にうまれた。してみれば、何不自由なく過ごし得ることが約束されていたであろう。思えば、秀司の足痛は、天保8年に始まり、それが前兆ともなり媒介ともなって、教祖が「月日のやしろ」とおなり下されたのである。以来、父善兵衛の苦衷を見、善兵衛亡き後は戸主として中山家の生計を切り盛りせねばならぬ立場となった。とはいえ、神一条に向かう教祖の前にあっては、為す術も無く、ひたすら貧のどん底へ向かう行程を共にするばかりとなった。この間、一家の生計を扶け、妹達を労り、共々になめて来た苦労の数々は、到底筆舌に尽くしがたいものがあったであろう。

 秀司の果たした役割は、「お道」という信仰の上からは教祖の厳しい叱責を見ることとなったが、秀司は、世の常識の眼からみれば、決して悪いという人間ではなかった。むしろ人にも好かれ、人望もあった。問題は、教祖の説く「お道」が、たすけ一条の世界、陽気づくめの世界という、史上に例を見ない、根底的な世直し、世の立替えを教理としていただけに、秀司は、最後まで理解が及ばず、時には戸主として教祖の前に立ち塞がり、時には世情に流されて行ってしまう人であった。

 教祖は、秀司をはじめ肉親の別無く、お道の理は決して歪めてはならず、どんなに厳しくても、この理を崩すことが出来なかった。慶応*年以来、お屋敷に祈祷所を作ったとしても、そういうご利益営業は世情でどこでもやっている。信者が増えれば、財政を豊かにすることも容易ではあったであろう。世間からみると別に悪いことをしたというものでもない。だが、そうした世情と教祖の思し召す世界とには、大きな落差があった。この落差に対し、秀司の理解が覚束無いことが、教祖には残念であった。−−−。


【秀司の妻まつえが「転輪王講社」を引き継ぐ】
 教祖は、先にこかんと別れて6年目の今またしても、秀司を失うことになった。後には、その妻まつえと、ようやく五歳になる孫のたまへとの三人暮らしの身となった。こうして、まつえが戸主となった。まつえは、里の小東家の助力も得て、「転輪王講社」を引き継いだ。これには養子に行っていた音次郎が、信者総代として加担した。この頃から、まつえの義兄の小東政太郎やみきの甥にあたる前川半七などの親戚達が、営業を目的につながり始めた。こうして見ると、この頃既にお道の内部では、増え続けていく道人を廻っての利権が発生しつつあったことが知れる。この利権派は親族身内派と幹部信徒派とから構成されて行くことになるが、その次第は追って見ていくこととする。

 さて、秀司が亡くなった後、まつえが戸主となった。そして、まつえは、里の小東家の助力も得て、「転輪王講社」を引き継ぐことになった。まつえの義兄小東政太郎を事務長格に据え、養子に行っていた音次郎を信者総代として迎え、更にみきの甥にあたる前川半七などの親戚達が、営業を目的につながり始めた。こうして見ると、この頃既に「お道」の内部では、増え続けていく道人を廻っての利権が発生しつつあったことが知れる。お賽銭、御供などが無視できない金銭になっていたということと思われる。この利権派は、親族身内派と幹部信徒派とから構成されて行くことになる。「お筆先」第12号には、次のように記されている。


【教祖、伊蔵の伏せ込みを強く促す】

 秀司の出直し後、お屋敷では男手が無いところから、山沢良治郎が世話取りしていたが、教祖は、頻りに伊藤蔵の住み込みをおせき込みになられた。「神様が日本一の大工にしてやろうと仰るのに、一文銭拾うて歩いている」と仰せになられたこともあった。この頃、伊蔵は仕事中に事故にあい腰が抜けて動けなくなった。戸板に乗せられてお屋敷に参ると、教祖は突如として「神が落としたとおっしゃるで」と仰せられ、

 「案じることいらんで。伊蔵さん、わしがいつも言うように、早くこの屋敷に住み込んだら、このようなことが無いのに、神の言うようにせんからやで。わし一人に任せておくから、このような困ることが出来るのやで。今度は是非とも皆を連れて帰っておくれ」

 と仰せられた。「それではさようさせていただきます」と返事はしたもののぐずぐずしていると、一人息子の政甚が俄かに口が利けなくなり7日もそのままの姿になった。次女のまさえは眼病になり一夜のうちに目がタニシの茹でたようになった。おさとは大いに驚き、教祖にお願いに参ったところ、教祖は住み込みをせき込まれた。この時、次のような会話が為されてたと伝えられている。

 おさとは二人の子供を連れてお屋敷へ参った。教祖・「お里さん、政次郎の事を知っているか」。おさと・「承知しております」。教祖・「政次郎の事を知っておればよいけど、この後もしっかりしいや」。おさと・「一日も早く、お屋敷へ帰らせていただきたいのは山々でございますが、何分櫟本の人たちは余り惜しがってくれますから、その親切を振り放す袖もございませず、人情やむなく、お道のことを思いつつも、日を過ごしているような次第でございます。どうぞ悪しからずお許しください」。

 「人が好くから神も好くのや。人に惜しがられる間は神も惜しがるのやで。人からあれは年寄りや、余計な者やといわれるようになったら、神も望みは無い。人の好く間は神も楽しみや」

 と仰せになられた。おさと・「何分子供がありますから、子供の成長するまでお待ちください」。

 「子供があるのが楽しみやで。親ばかりでは楽しみが無い。早く引き上げて帰りておくれ」

 その他種々やり取りがなされたが、家へ帰ると二人の子供の病気が回復していた。それでも逡巡していた。

 お筆先に次のように記されている。

 「今までも神の口説きは段々と、色々と説いて来たるなれども」(16.48)
 「如何ほどに口説いたとても誰にても、聞き分けが無い親の残念」(16.49)


 5.5日(陰暦4.8日)滝本村の山で、かんろだいの石見が行われ、続いて石出し、お屋敷に運ばれ、かんろだいの石普請が始まった。秋までに二段までできる。


【大阪新報に教祖の噂話載る】

 7.17日大阪新報第1076号に教祖の噂話が載る。これが新聞の出始めとなる。

 「近頃奇怪なる一老婆こそ現れたり。処は大和国丹波市辺(あたり)に齢九十有余の老婆あり。自から転輪王帝と号し、昼間は何処(いずこ)へ潜伏なすものか更に影だに見せざるも、毎夜十二時を過ぐる頃忽然と現れ出で、頭(かしら)には蓬々たる霜髪(しらが)を振り乱し、身には皎々たる白衣を纏い、諸所を俳諧しながら『万代の世界一れつ見はらせば棟の分かれた物がないぞや』と妙音を発して口吟し、且つ我が宗門の徒に帰するものは一百五十年の長命を授くべしと、あられもなき妄言を吐くにぞ。

 近郷の愚民等は、これぞ天より降り玉いし神女ならねば山より出で玉いし仙人なるべしと神仏は棚に上げ、一心不乱に此の老婆を信仰する者、現に該(その)地方には三百名余名もあり。その影響は遠く我が本田及び九条辺へも波及し、この邪説に惑わされ妄信者となりしものまた二百余名に至りたる。のみならず、その内五十余名は丹波市地方に出張し、親しく老婆の体を拝み、日夜これを守護するよし。また近々妄信者一同申し合わせ甘露台と名づくる高さ三丈余の物を石にて造り老婆に奉納せんと協議中なるが、世には愚民も多きものなりとの投書を得たり。信憑はもとより保証せざるも記して該地方の人に問う」。

(私論.私見)大阪新報記事について

 



 9月、止宿届けを忘れたため中山まつえは手続書をとられる。

 10.7日、多数の人々を集めて迷わすとの理由で、教祖、まつえ他4名が丹波市分署に拘引され、それぞれ手続書が取られ、科料に処せられている。

 この年、山沢良治郎は、教祖のお話を書き記し、「この世の始まりの御話控え」を作る。
 この年、倉橋村の山田伊八郎、京都の深谷源次郎らが信仰始める。

 この頃、村田幸右衛門の長男長平は、前栽村の居所を引き払って、お屋敷の南側に居を構え、豆腐屋と宿屋を営み始めた。
 この頃、山中忠七の娘こいそが教祖の側に仕えていたが、倉橋村出屋敷(現桜井市倉橋出屋敷)の山田伊八郎からの再三の要請に再婚した。この時、教祖は、「嫁入りさすのやない。南はとんと道がついてないで、南半国道弘めに出す。なれども、本人の心次第や」のお言葉を与えている。山田伊八郎は敷島大教会初代となる。
 12月、大阪の梅谷四郎兵衛は、和光寺へ教会公認の手続書を提出する。



【講元が続々結成され始める】

 この頃、心実講結成される。講元は前川喜三郎。宮森與三郎、鴻田忠三郎らはこの講から出ている。心実講が明治25年城法支教会(後大教会)になり、喜三郎は初代会長。

 明治14年頃には、堺や京都を加えて21の講名が記録されている。



【伊蔵一家、お屋敷へ伏せ込む】

 11月(陰暦12.17日)、おさとは意を決してまさえ、政甚を連れ、風呂敷包みを抱えてお屋敷へ引き移った。櫟本の家には伊蔵とよしえと弟子たちが残されたが、当時よしえは17歳になっていたので、家事の手伝いをして暮らした。伊蔵は昼はお屋敷の二階建てや内蔵の内造りを行っていた。



 この頃、かんろだいの建設に当たっていた石工が、おじばから姿を消した。度重なる警察の干渉に恐怖を覚えたのが原因であった。こうして、かんろだいの石普請は、二段目まで積まれたところで頓挫し、野ざらしの状態になった。



(当時の国内社会事情)

 1881(明治14)年.2.3日東京で、神道大会議開かれる。神道事務局規定を定め、有栖川宮を総裁に仰ぐ。
 10.12日、明治23年に国会開設の勅諭が出る。
 10.18日、自由党が結成される。初代総理は板垣退助。(明治17年解党する)

(当時の対外事情)
 

(当時の海外事情)

(宗教界の動き)





(私論.私見)