451 天理教教祖中山みきの研究57 (1880年)(明治13年)(教祖83才、秀司60才)

 (最新見直し2005.6.29日)

【「転輪王講社」の設置】

 1880年(明治13年)のこの頃、おふでさき15号をご執筆されている。この頃、お道内には又しても秀司らの応法派の動きが強まりつつあり、これに対して教祖は、道を間違わないようにときつく言い聞かせている。むしろ憂いをも滲ませており、次のように記されている。

 「このたびはどんな試しをするやらな、これでしっかり心定めよ」(15.6)
 「いかほどにせつない事がありてもな、親が踏ん張る承知していよ」(15.8)
 「これからは親の言ふ事しいかりと 承知してくれ案じないぞや」(15.9)
 「あすからは親が働きする程に どんな者でもそむき出来まい」(15.10)
 「今までも四十三年以前から、親が現われ始めかけたで」(15.11)

 秀司とその側近達による応法派は、「応法の理その三」とでも云える動きを為し、金剛山地福寺の傘下に入り、「転輪王講社」を設置することによって、合法的な布教を目指そうと画策し始めていた。この当時布教が公認される為には、神道か仏教かキリスト教に属さねば許可されないという宗教統制が敷かれており、秀司ら応法派は布教の合法化を求めてこれに対応しようと適宜な寺院.神社の配下になろうと画策し始めた。但し、その為には記紀神話の受け入れが要件とされていた。こうした折、金剛山地福寺との関係取り持ちが出来た。

 その経過は次のようであったと伝えられている。秀司は、乙木村の山本吉五郎から、同村の行者山中忠三郎と知り合った。行者曰く、「そういうことなら、金剛山地福寺に願いでたらよろしおま、地福寺は、堺真言教会として認可も受けて皇道仏教でやっているから弾圧はうけませんわ、住職の日暮ゆう貞さんは、教導職の少講義頭やし、仏教についても大変な学僧ですわ。あの方なら万事うまくやりますわ」ということだった。事実、日暮ゆう貞は、千葉県出身の、若い頃からあらゆる仏法理論を学び、その後さらに長谷寺(真言宗豊山派総本山)で真言蜜教を学んだ俊英だった。祈祷を主にした修験寺であった地福寺の住職となってからも、政府の方針に則りながら、近隣に仏法を復活させるほどのやり手だった。


 しかし、
教祖は、この度もこうした「応法の道」をお許しにならず、「そんな事すれば、親神は退く」と仰せられて、厳しくお止めになられた。
しかし、秀司は、「教祖に対する留置投獄というもったいなさに比べると、たといわが身はどうなっても、教祖の身の安全と人々の無事とを図らねば」と思い立ったか、「わしは行く」とて、一命を賭して出掛けた。こうして、秀司は、信者でまだ若い岡田与之助を共に地福寺へ出発した。岡田与之助は、足の悪い方をお一人行かせるには忍びないと、自ら進んでお供した。両名は、芋ケ峠通称蒸し芋峠を越えて吉野へ出、金剛山の麓にある久留野の地福寺へとおもむいた。秀司は、平地は人力車に乗り、山道は歩いた。峠では随分困り、腰の矢立てさえも重く、抜いて岡田に渡した程であった。こうして地福寺へ着くと、話しはとんとん拍子に進み、お屋敷は地福寺の部下の堺真言教会三島出張所、説教所ということになった。帰ってきたのは出発以来3日目であった。

 こうして応法派の動きは止まらず、教祖の身の安全と、道人が不安なくお屋敷に出入りできる道を開く為には止む無しとの判断が勝ったか、9月22日
(陰暦8月18日)、金剛山地福寺住職の日暮ゆう貞を講社社長、秀司を副社長とする「転輪王講社」(天理如来という仏式の講社)の開莚式を行なうこととなった。この度の「応法の理その三」は仏教系の動きで為されたことになる。開莚式の日、修験者の祈祷の続く中大護摩がたかれ、日暮れゆう貞が山伏の法衣で戒刀を抜いて盛んに祈祷を勤めた。大勢の信者が参拝していたと伝えられている。

 教祖は中南の門屋から出られて、暫くその様子をご覧ぜられていたかと思ううちに引き下がられた。その後、十畳の部屋に三尺もの高い段をつくり、そこに赤い座布団を乗せて、その上に座して、「あんなもの嘘やで、つとめ場所は嘘やで、これのみが真実なのや」とお話された、と伝えられている。


 ゆう貞は、日を定めて説教にやって来始めた。秀司や高弟たちからそれなりのみきの話しを聞き、それなりに理解し、それをゆう貞の仏教理論と折衷させ、独特の教義を生み出していった。こうして、つとめ場所には、仏像だけでなく、星(転輪王)曼陀羅が飾られることになり、真言宗の象徴である輪宝が染め抜かれた紫の幕が張り廻らされ、転輪王講社と書かれた提灯が釣り下げられた。全くお寺風の雰囲気になった。お屋敷内では、社長としての日暮れゆう貞によって、星曼陀羅に祈祷して、良い運命に帰るという理論に基づくお説教が始まることとなった。

 星曼陀羅とは、真中に大日如来や釈迦如来で表した転輪王を置いて、七曜星、九曜星、十二宮(十二支)、二十八宿(吉凶日判断)、などを配置して、自分の運命をしり、その中尊の転輪王を拝んで、又は祈祷して良い運勢に変えて頂くというものだった。それは、みきの教えの言葉を使って、上手に言葉の意味を変質させたものだった。この配列に月日親神のぬくみ、すい気などの十の働きを中尊の転輪王を守る十人の守護神として説き分けられて、転輪王と十柱の神々というような多神教としてしまった。又、破軍星や源助星などの星の話しが入り込み、方位の話しも入りまじった。その説法は立板に水の如く、そして変化に富み、みきの高弟や新たに寄り来る信者たちにもよく理解できた、それは、みきの話しと違って、華やかで感動的で多分に演出されて面白く、十分に人の耳や眼をひきつけるものだった。こうして、みきの教理が日暮教理へと変質しつつ、「星曼陀羅の祈祷話し」に変わって行くこととなった。

 その話しは例えば次のようであった。「死んでも霊魂は不滅だから、生前の行いに見合った身体や境遇に生まれ変わる」、「人は皆、前生因縁を通り返ししている輪廻転生の中を生きている」、「教祖は、天皇家のご先祖イザナミノミコトの生まれ変わりの尊い魂だから、天皇家の御先祖、オモタリノミコト様は、天にては云々、 神道にては云々 、仏教にては云々 」、その他「元始まりの話し」も「かんろ台づとめの理」も大きく変質された。56億7千万年後に再びこの世に生まれでて人々を救いたいという弥勒菩薩思想に合わせて、「9億9万9千9百9十9年立ったから教祖は神の社に定まった」、じばに神名をと、神を中山家の屋敷内に取り込んだ。天皇政府の方針に合わせて、「教祖には天皇家の先祖たちが次々に天降ったから百姓の中山みきでも神懸かって立教できた」という話しになった。この変質した教理の方が当時の人々には有り難く、又わかりやすいものだった。生まれ変わりの因果応報論や星占いの話しは、お坊さんや、修験者たちによって、既に下地ができていたからだった。

 ところで、矢島教本では、転輪王曼荼羅には二系統あると云う。一つは、一字金輪像で、壺坂寺の転輪王曼荼羅は大日如来の姿で転輪王が描かれているのがこれに相当する。王の持っている宝は世界助けする為に民から借りているものである、という借物の理を説く。東寺、和歌山の高野山などに伝わる。もう一方の系統は、星曼荼羅で、その中尊には釈迦如来の姿で転輪王が描かれている。住みよい世界を作った理想的な王の姿を釈迦如来で表し、転輪王に助けて貰おうという祈祷系で、月様、日様、星様に願いを掛けるという拝み祈祷系の教説に拠っている。法隆寺や長岳寺などの丸い星曼荼羅と四角図の星曼荼羅が有り、このたび日暮れが説いていたのは四角図の星曼荼羅教説であった。


 こうして、この後暫くの間お屋敷では、日暮ゆう貞によって、説教が始められることとなった。日暮の説教は、氏の学んだ真言蜜教と「お道」教義を折衷させた、俗耳に入りやすい出色のものであったが、「お道」教義の眼目とでも云える「おつとめ」を通じての「世の立替え、世直し」に向かうことのない従来的な拝み祈祷的なものでしかなかった。しかしながら、このことに気づいた道人は少なく、この後「お道」教義は、「日暮教理」とでも云える方向へ変質させられて行くこととなった。 


【教組の立腹の様子】

 教祖は、こうした「お道」の変質化に対し、激しく「残念、立腹」のお言葉を発し、かってなかっったほどお怒りになられた。

 「さあ今日は月日の腹がはぢけたで 控えていたる事であれども」(15.13)

 神意は、もはや辛抱も限界に達した、もう鼻緒の尾が切れたということである。余程にご立腹されたということになる。

 次のようにも宣べられている。

 「こらほどに残念積もりてあめけれど、心次第に皆たすけるで」(15.16)
 「如何ほどに残念積もりてあるとても、踏ん張りきりて働きする」(15.17)
 「この元は四十三年以前から、えらいためしがかけてあるぞや」(15.41)
 「この話四十三年以前から、えらいためしがこれが一条」(15.50)

 更に、次のようにも宣べられている。

 「この先は谷底にては段々と、多く陽気が見えてあるぞや」(15.59)
 「段々と用木にてはこの世を、始めた親が皆入り込むで」(15.60)

 更に、秀司を念頭において、次のように厳しく叱責している。
 「この話四十三年以前から、胸の残念今はらすでな」(15.81)
 「それ知らず内なる者は何もかも、世界なみなる様に思ふて」(15.82)
 「この道は四十三年以前から、まこと難渋なな道を通りた」(15.83)
 「このたびのつとめ一条止めるなら 名代なりとすぐに退く」(15.88)

 教祖は、秀司らに対しては、早くより「九ツ ここでつとめをしていれど、胸の分かりた者は無い」(み神楽歌三下り目)ともどかしさを述べられていたが、この度の叱責は秀司の進退に関わる重大な予言を為された。例え中山家の戸主であろうと、教祖の世界助けのおつとめをねじ曲げたり邪魔するようであったら命が危ないぞ、と厳しいお仕込みをしていた。そこには、拝み祈祷の金儲けに向かう道を峻拒する強い姿勢が見られた。

 教祖は、こうした中途半端な「応法の道」を一日も早く一掃して、お屋敷内のそうした動きと対抗するかの如くに、例え官憲の圧迫があろうともそうした外部からの圧力に心を奪われず、ただ一条に「世界たすけの道」に向け「おつとめ」に精励することを促された。


 しかし、これが一時的にせよ警察の目を塞ぐ防壁となったのか、この月の命日の9月30日(陰暦8月26日)には、三曲をも含む鳴物、おつとめの手も揃えて、初めて「神楽の本づとめ」が行なわれた。これが「お道」初めての本格的「神楽の本づとめ」となった。伊蔵が「かしこねのみこと」の役を勤めている。

 
この時応法派は、表で日暮を祭主として、五分角ほどの青杉葉を積んで護摩を焚き祭事を執り行っていたようである。つまり、お屋敷内は、内では教祖が外では日暮の「おつとめ」が行われていたということになる。



講社名簿が整頓される

 秀司はこの頃からしんたいに異変を起こし苦悶するようになったようである。なお、この講社結成を一つの契機として講社名簿が整頓されることとなった。名簿は、第1号から第17号迄あって、うち、第1号から第5号迄は大和国の道人を誌し、その人数は584名、第6号から第17号迄は河内国、大阪の道人を誌し、その人数は858名、しめて、大和、河内、大阪に跨って1 442名の名が連ねられている。今となっては、これが当時の教勢を偲ぶ、この上もない資料となっている。思いも寄らぬ副産物ではあった。

 夏頃、大和伊豆七条村(大和郡山市)に誠心組できる。これより大和に講社tが続々出来る。



(当時の国内社会事情)

 1880(明治13).4.5日、集会条例制定。
 1880年国会期成同盟ができる。

 集会条例制定される。許可を受けずに3人以上の者が寄って話し合ってはいけないという厳しい法律となった。背景には、盛んな自由民権運動があった。憲法を制定する替わりに民権運動をやめろという政策が為された。
 12月神道事務局の祭神論起こり、神道大会議を開くことを決議する。

(当時の対外事情)
 

(当時の海外事情)
 
(宗教界の動き)






(私論.私見)