第40部−28―2 諸賢の歴史観

【hayashi-ryuji】の「No.4 明治維新論≪日英関係を主軸に≫
【4-1.通説的明治維新論への疑問】

 日本人の性格、民族性と言っても良いが、地政学と縄文時代以来の歴史的堆積の上に成り立っていることは異論がなかろう。それと並んで重要な日本国家の性格形成期は明治時代と考えて差し支えなかろう。織田信長が破壊と殺戮を繰り返し中世社会を葬り去ったように、明治維新期にも伝統ある文化、思想、統治システムにあくなき攻撃と破壊が加えられた。維新政府は明らかに徳川の世界を抹殺し新しい自分達の国家を作りたかったのである。

 明治維新期に日本と最も関係が深かったヨーロッパ国家は英国であることには誰も異論がないだろう。しかし明治維新期の日英関係の実態がいかなるものかあまり明確ではない。最近本学の教授である石原守一氏(東京経済大学教授)から明治維新に関する研究内容を聞く機会を得た。真実のみが有する迫力に正直なところ大変驚愕するとともに大いに啓発されピンピンと閃くものがあった。氏が語る内容は筆者のこれまでの研究成果と論理的によく符合するのである。氏は「所謂明治維新論」で英国は薩摩藩を利用して日本支配を企だてたのではないかと指摘している。

 西欧の秩序が英国を筆頭に確立した後、西欧勢力の世界への全面侵略が始まった。その中で日本だけが手酷い扱いを受けなかったばかりか、逆に英国の手厚いとも思える保護を受けることができた。何故このような例外的措置を英国は日本に採用したのか、ここに明治維新の実像を解く鍵があり、日本国家の性格を解き明かす手掛かりがある。その理由として次の2つの仮説を提示し検証を試みる。

 仮説1.日本は彼等に選ばれて西欧の一員になった。−それなら確かな本当の理由を歴史学者は見つけなければならない。−

 仮説2.別の理由から西欧は日本を搾取の対象にせず、自由で民主的国家へと解き放った。−それならその理由を明らかにしなければならない。−

 いくら”困った時には神風が吹く”と信じるお人好しでも、冷徹な利害が優先するゲゼルシャフト的外交世界で”日本は西欧の温かい援助の下で近代国家に脱皮することができた”と言える程の能天気さは持ち合わせていまい。

 この秘密を解く鍵はあくまでも利益の概念である。どうすれば一番自分達に利益がもたらされるかであって、決して相手国(この場合は日本国)の利益になるかではない。征韓論、征台論、日清戦争、日露戦争の渦中に日本をぶち込むこと、即ちアジアの帝国主義メンバーに加えることが西欧の利益になると考えたからであろう。

 筆者は決して反西欧主義者でも、左翼でも、右翼でも、軍国主義者でもない。純粋の平和愛好的愛国者である。理想主義的現実主義者でありたいと努めてきた人間である。日本と欧州が本格的に遭遇した明治維新を新たな視点から見直す決意をしたのは、歴史の通説が主張してきたこれまでの維新論はあまりにきれいな”ごっこ”の世界(電車ごっこ等非現実な遊びの世界)であり、それに飽きたらなさを感じていたからである。

 明治維新によって現在の日本国家の性格が形成されたと考えて間違いがない。日本国家の人格がどのようなもので、どのような経過を辿って形成されたかを明確にしなければ、現在の経済不況や大企業の経営不振の克服もできなければ、国連、西欧やアジアとの外交方針も定まらない。そればかりか続発する少年凶悪犯罪の減少は期待できないし、勿論憲法の見直し論議の方向性も見いだすことはできない、と筆者は真剣に考えている。

 「日本国家の性格」が意味する重要な点は国家の統治システムや意思決定システムの問題でなく、そのシステムの作り手である支配階級としての人間集団がどういう性格の持ち主であるかという点にある。システムが存続する限り彼等は利益を保持し続けることができる。この民主化された現代世界に支配階級は存在するのかという疑問を提示されそうだが、以下のような考えに立てばその存在を肯定することが可能である。

 日本では政治の頂点にいるのが自民党があり、行政機関の指導的立場にいるのが大蔵省である。企業のまとめ役として経団連がある。彼等は組織の長を順繰りに後継指名していく訳であるが、それぞれの組織文化を最も色濃く身に纏った者が前任者の信頼を受け後継者になっていくのである。この組織文化を共有するグループが支配階級に当たる。組織文化の重要な要素が統治システム(組織支配のメカニズム)の本質、即ちいかに仲間内で組織を支配していくかを理解することにある。

 権力者は利権者でもあるから、時代が変わるということは利益者の交替をも意味する。統治システムと利権とは分かち難く結ばれているので、権力者は統治システムの保持に躍起となる。統治システムの性格をよく知る者が育成され後継者に育っていく。その大部分は明文化されない秘められたものであるから、部外者にはわかりにくい。その不文律をきちんと理解し、尊重し、保全に努める人間が後継者候補に選出されるのである。後継者問題は自らの利権にかかわる重大問題であり、閨閥を組み一族化することも希ではない。

 以上のことは人間の本質に関わる点であるから、国家であれ会社であれ、西洋東洋を問わずあらゆる組織に通じる原則である。だから支配階級の正確が不明の儘で許されて良いということにはならない。我々は民主主義社会に生きている。民主主義を建前に終わらせないためには主体的な判断を可能にする事実の把握が欠かせない。筆者は情報社会の意義をこの「事実の把握と普及、その結果もたらされる一般国民の知性の向上」に置いている。蛇足を恐れずに言えば、知性とは知っていれば得をするかしないかの「intelligence」ではなくて、賢い判断をするための基礎知識としての「intellectual」である。

【4-2.明治維新の真実を探る−英国による世界支配の視点からの考察−】

 人道に叶い人類愛に満ちた過去を振り返るならいざ知らず、加虐被害のいずれ側にしろ人類の残虐行為を直視することは気持ちの良いものではない。できれば話題として避けたい目を背けたい思いがするが、それではいつまで経っても人類の進歩がない。心の傷であるトラウマを克服するにはその原因を自覚するしかないのと同じく、人類が戦争を避ける為には過去の戦争を直視するしかないのである。社会学者としては現実主義者の目で冷徹に歴史や現実社会を見つめなければならないのである。人類愛、性善説の美名の下に逃げ込むことはできない。

 現代人が組織の中で生き抜くだけでもストレスがたまるものである、まして少ない食糧を大勢の人間が奪い合う時代を生き抜くことは大変なことである。アングロサクソン民族やユダヤ民族は特に不利な境遇に置かれていたことは間違いなかろう。しかし滅亡する訳にはいかない、腕力を鍛え智恵を働かせても生き延びなければならなかったのであろう。旧約聖書が語るようにユダヤ人はカインの末裔であっても決してアベルの子孫ではないのである。

 前述した通り、近世の経済史はアングロサクソン族の有力者とユダヤ人の有力金融資本家の協力体制の下で幕が切って落とされた。前者のアントレプルヌール的性格と後者のベンチャーキャピタリスト的性格の合体という最強の組み合わせが実現し、英国が世界の最強国に向かって前進し始めた。

 圧倒的な経済力を背景に英国は先に記述したようにヨーロッパの覇権を握り、世界をパックスブリタニカに作り変えた当時の最強国家である。英国が作った利益配分ルールに乗って、欧米列強の帝国主義競争が進み、世界の利権分割が行われた。英国はアジア各国を植民地化し、ついに極東の日本に到達した。

4-3英国植民地支配に関する歴史的考察】

 英国はリアリストの面目躍如と言うべきかTPOに応じた適切な支配方法を編み出し実践している。敵を知り己を知り最も自己の利益になる方法を選択しているといえる。以下パターンに分けて例示をする。

1)アメリカ、ヨーロッパ諸国

 アメリカ、ヨーロッパ諸国とは対等な取引関係になっていると言えるだろう。しかし、そこに至る迄に戦争が行われ、その勝利者である英国を盟主としてヨーロッパ諸国は受け入れている。アメリカは独立戦争で英国を破り真の独立国になり、英国と文字通り対等な関係を維持している。英国は兄弟国として緊密な経済関係を維持し、実質的利益を得てきた。

2)アフリカ原住民、アメリカ、カナダのインデイアン、オーストラリアのアボリジニ

 国家の体をなさないこれらの部族国家レベルの民衆は散発的な抵抗しかできず、地球上から抹殺されていった。文字を持たない文明国家アフリカ人は文化の伝承ができず、根無し草化され民族としての団結を取り戻すことは非常に困難なっている。

3)ジブラルタル、カイロ、ケープタウン、ボンベイ、カルカッタ、シンガポール、香港

 いずれも軍事、交易上の重要拠点である。これらの海岸に接した都市国家は英国海軍の武力に抗しきれず武力制圧された。島津藩の鹿児島も同様の目にあった。

4)インド、南アフリカ

 インドでは木綿、ダイヤモンド、金の資源や巨大市場の価値に着目し、南アフリカでは金、ダイヤモンド等の資源価値に着目し侵略が遂行された。インドではカースト制や宗教の違いを利用した内部対立で、南アフリカではアフリカーナと黒人の対立を利用されて内部崩壊させられた。

5)アラブ諸国

 第二次大戦前後の中東は権謀術数に満々ている。石油資源の獲得を狙いとしてトルコからの独立を財政的軍事的に支援し親英政権を樹立する。彼等の資源である石油の掘削技術、販売面で協力するとともに、資金運用の世話をする。トルコ領土のアラブ人への返還を約束して対トルコ戦争にアラブ人の協力を取り付けたかと思えば、バルフォア宣言でアラブ人を裏切りイスラエル建国を明らかにする。一方ではサイクスピコ密約で英仏が中東の石油利権を狙って中東分割支配の意思を表明している。

6)スエズ運河

 スエズ運河掘削の難工事で財政破綻に陥ったエジプトを資金援助した。しかしエジプト政府が借金の返済に行き詰まると、債権の担保に取ってあるスエズ運河運営権の引き渡しを要求して同社の株式を支配し経営権を握る。

7)ロシア

 ロシア皇帝の時代から英仏両国はバクーの油田開発と石油の販売、ウクライナの小麦販売で協力関係を築く。石油、天然ガス、小麦はロシアの貴重な外貨収入源であり、その見返りに欧州から技術や資金を導入して国家を運営してきた。このビジネス関係はレーニン、スターリンの共産主義時代にも継続されエリツイン、プーチンの時代にも変わることなく継続している。クレムリンの経済幕僚の主流は欧州人脈で占められている。

8)総括

 以上いくつかのパターンを示してきたが、いかに国際関係は冷酷なものであるか理解していただいたであろう。弱肉強食、権謀術数、利用価値のある国家は徹底的に食い尽くされ、逆に利用価値(食い尽くすだけの価値)のない国家はゴミのように捨てられる、それが現実の外交である。

 これらの事例は歴史上の出来事である。今日では人類は賢くなって、他人のこと他国のことを思いやる余裕が生まれており、このような非文明的事象とは無縁の世界に我々は生きていると思いたい。しかし注意深く観察すれば国際関係を貫く原理原則は些かも変化していないことに気付くだろう。確かに手段は変わった、あの手この手で新しい手法が編み出されてくる。武力に訴える方法は過去のものになったが、今日では金融支配が主流になっている。

 ロシア、アジアの経済危機によって当該国が直面した状況を見れば一目瞭然である。韓国を例に挙げよう。外資を導入し経済が頂点に達した段階で外国資本は引き上げた。韓国は忽ち外貨不足に陥りウオンと株式は暴落した。韓国政府はIMFから高い金利の借金申し込まねばならないし、企業は安値で外国資本に買収された。外国から支払不能を越える借金をした韓国を誰も責めることはできない、資本自由化とアジアの時代が持てはやされ韓国は投資家の人気を一身に集めていたのだから自制心を欠いたとしても仕方がない。ロシアも同様である。欧米企業はロシア政府の財政的窮状につけ込み、国有企業を安く買いたたいている。

 日本とて例外ではない。バブル経済に深入りし財務を悪化させ株価を下落させた企業が買収の対象になっているし、個人金融資産1300兆円が狙われているのである。金融資産こそ地球上に残された最後の大きな財宝であり、また最も魅力的な財宝でもある。金融資産の本質は物の独占を保障する所有権に対して他人に金銭やサービスを要求できる債権である。金融資産はその債権の中でも最も流動性の高い現金の返還を要求できる権利である。

【4-4.明治維新の実像】

1)英国の支援がもたらした日本経済の発展

 過ぎ去った過去から真実を探り出すのは容易なことではない。しかし当時の出来事を注意深く収集分析し、その結果を国家や人間の本質(容易には変わらないもの)と照合していけば自ずから実態が影として浮かび上がってくるものである。以下、明治維新時代の日英関係がどのパターンに当てはまるのか検討を加えていくことにする。

 日本政府が明治維新の激動期を比較的順調に乗り切り経済を発展させることができたのは何故だろうか。この疑問に答を見つけることから謎解きのスタートを切ることにする。

 欧州先進国の後から、彼等に互して経済を発展させることは並大抵のことではない。”日本人が優秀だったから”これは答になっていない。経済を発展軌道に乗せるためには人、もの、金、情報、技術、市場の要素が巧みに組み合わされなければならない。

 日本は勤勉で従順な勤労者はいた。政治家や経営者など優秀な指導者もいたとしよう。人の要素については発展の条件を一応満たしている。技術についてみれば好奇心旺盛で欧米の近代技術を学んでいた多くの書生がいたし、設計図さえあれば高度な工業品を作れる職人技術も存在していた。しかし設計図を作れる技術はなかった。鉄道、電気通信、鉄鋼、造船、橋梁、銀行、これら近代産業を起こす知識や構想力はなかった。

 資金についても外貨(金)が不足していた。幕末欧米列強との貿易によって日本は多量の金を海外に流失させており、技術を導入しようにも資金がなければ断念せざるを得ない。資源については近代産業の米である鉄の原料である鉄鉱石や石炭のいずれをも欠いていた。

 日本が殖産興業に成功したのは、技術と資金を提供し人材教育まで買って出た英国の存在があったからである。それでは何故英国が日本に親切に対応したのか、この疑問を究明していかねばならない。英国統治下のエジプトはムハンマドアリという優れた宰相を得た。彼は品質に優れたエジプト綿の生産に力を入れて国家財政を豊かにした。エジプト綿は英国に輸出されて英国で木綿に加工されていた。彼は自国で木綿を生産すればもっと豊かになると考えて英国から織機を買い込み生産に着手した。結果は見事に失敗した。英国の協力が得られなかったからである。機械は手に入ったが、機械の職工や保守技術者の育成に失敗した。英国はエジプトの関税自主権を認めず徹底的な競争政策を挑み、エジプトの自国生産体制を潰した。

2)英国の日本支援の意図は何か

 上記エジプトのような例示には事欠かないゲゼルシャフト的世界において、何故英国は日本の産業化に進んで手を差し伸べたのであろうか。考えられる解答としては次の3つの解答が想定される。

 解答1:好意説−代償を期待しない善意の気持ちから英国が日本を援助する

 解答2:積極的利益説−英国の利益を確保するための戦略として援助する

 解答3:消極的利益説−援助しないよりした方が英国の利益が大きい

 解答1が非現実であることは冷酷な外交の世界を知る者には疑問の余地がないだろう。従って正解は解答2か解答3ということになる。幕末から何度も日本を訪れ、フェートン号事件、生麦事件、薩英戦争を引きこしてまで開国を促し、また薩摩の政治及び軍事顧問役を務めた英国の日本に対する執念と執着を考えれば、解答3も排除しなければならない。正解は解答2ということになろう。

 そうであれば、1.英国は日本からどんな利益を引き出そうとしたのか、2.またその利益は経済支援に充分引き合うものであったのか、という2つの新たな疑問が生じてくる。以下この問題について考えてみよう。

 まず考えられるのはアントレプレナーの日本に対するベンチャーキャキピタリストの英国という関係である。英国人は日本人の事業家的才能に着目し、投資すれば多額のキャピタルゲインが得られると考えたのであろうか。しかし日本が自分達のコントロールが及ばない資本主義国家に育てばライバルになることが明白であり、ベンチャーキャピタリストとしての利益だけでは割が合わない。

 英国の全体的植民地戦略の中で日本の位置づけを考えれば自ずから解答が見えてくる。大西洋方面の植民地化を完了した英国にとって次の目標はアジアになる。スエズ運河を抑え、インド支配を確立し、東南アジアを支配し、最大の目標である中国攻略にとりかかった時に日本との接触が始まった。

 香港をアヘン戦争で獲得し華南地方に足掛かりを築いた英国は華中、華北への進出を当然考えた。そうなれば台湾、沖縄、九州が地政学的要衝を占める。日本を開港に導いたペルーは5度も沖縄に寄港して綿密な調査の上アメリカ政府に沖縄の軍事支配を提案したように、沖縄は東アジア支配の最重要拠点と言えるだろう。ぺリー家は現在に至るアメリカの有力政治一族であり、クリントンの国防長官となり、北朝鮮の核ミサイル危機に際しては政策調整官として「ペリープロセス」なる米朝和解プログラムを纏め上げて我々の前に登場したし、先述したようにロスチャイルド財閥のアメリカ総代理人ベルモントに繋がる一族として米英の利益代弁者と見る必要がある。不幸にも沖縄は太平洋戦争で米軍の上陸拠点になり、戦後米軍基地として今日に至っている背景にこのような歴史を見逃す訳にはいかない。

 ポールケネディ著「大国の興亡」には、”英国にとってアジアにおける最大の関心事は中国の利権であった、また日本を武力制圧するだけの力はなかった”と記述されているが、これは正しい見方であろう。生麦事件や薩英戦争の接触を通じて薩摩隼人ひいては日本人の闘争心の凄まじさを肌で感じたはずである。人口の多い日本を攻略するには海軍力だけでは到底達成できない、下手に陸軍を投じると泥沼に足を突っ込んだ状態になる。主力戦力を中国に配置しなければならない英国としてはタクテイクス(政治的策謀)で日本を籠絡することが最善であると考えたであろう。

 以下は筆者の推測だが、英国が薩長軍を支援しフランスが幕府を支援して、内戦によって日本を崩壊させようとしたと思われる、この例はカースト制や宗教的対立を利用されて内乱化したインドに見ることができる。またレバノン内戦にも同じ構図が見え隠れする。南部のイスラム教徒を支援した英国と北部のキリスト教徒を支援したフランスによってレバノンは泥沼の内戦に陥るのである。英国とフランスは敵国のように見えて実際はナポレオン戦争後一体化している。従って充分あり得る話である。

 日本が内戦に至らなかった最大の功労者は徳川慶喜将軍であろう。西郷隆盛と勝海舟の間で取り決められた無血開城も物語としては楽しいが、彼の採用した大政奉還とその後の徹底した不戦主義が外国の陰謀から日本を救ったと考えている。

 日本を利用するにあたって英国は徳川幕府を打倒し薩摩主導の国家を形成し、その黒幕として君臨する道を選択した。それを示唆するものとして英国政府から駐日英国大使パークスへ”何事も日本政府自ら考えて実施したように振る舞え、英国の姿が表に出ないように行動せよ”という趣旨の訓令がある。英国にとって薩摩は格好の提携相手であった。生麦事件を起こした薩摩は英国に精神的負い目を持っているし、薩英戦争では海軍の大砲の威力を思う存分見せつけて充分威圧している。主導権を握りながら薩摩を取り込むことは充分可能である。限られた極東の軍事力でもって自国のアジア帝国主義戦略を効果的に遂行するためには日本を中国における憲兵に仕立て上げる、その最善の方法が薩摩の政治軍事顧問(俗な言い方では黒幕)になり薩摩に政権を執らせることであったと考えられる。

 日本を英国のアジア植民地政策に利用するという大きな目的に添って日本への政治的経済的支援が行われたと推測するのが自然ではなかろうか。この視点でもって西郷の唱えた征台論、日清戦争、講和条約で台湾の領有権取得、中国の帝国主義支配と日英仏独露5カ国協議システムを捉えれば理解しやすい。

 薩摩にとってもこの取引は充分見合うものであった。敵に回して戦い打ちのめされた世界最強国の英国が背後について支援してくれる訳である。資金援助、武器の調達、作戦指導どれをとっても経験不足の薩摩藩にとって新政権を樹立するにあたって有益であったはずだ。「薩摩の海軍、長州の陸軍」という何気なく使用している言葉の中に、ナポレオン時代に「鯨」と呼ばれた海の王者英国を敵に回して戦争した薩摩と同じく「象」と呼ばれた陸の王者フランスを敵に回して戦争した長州が戦後も英仏と深い関係を継続させていたことを伺い知ることができる。

3)日英関係の実像

 「英国が薩摩の黒幕的存在」であることについては筆者も異論がない。問題は「薩摩は英国の手先」と断定できるかである。「手先」と言うからには、手厳しく言えば英国に対して薩摩は共同正犯以下の従犯であり、日本の国益よりも英国の利益を最優先させたことを証明しなければならない。

 それを類推させる事例を一つ指摘しておきたい。南満州鉄道利権のハリマン財閥への売却事件である。日露戦争後のポーツマス条約で小村寿太郎がやっとの思いでロシアから穫ち取った南満州鉄道利権を時の総理大臣桂太郎と伊藤博文がいとも簡単にハリマンの申し出でに応じたことである。ロシアから賠償金を取れなかった政府の弱腰を非難して国民は日比谷公会堂を焼き討ちするなど騒乱状態に陥った最中に、国民の流血と引き替えに獲得した唯一の対価をいとも簡単に売却の約束をしたのである。小村寿太郎が閣議で売却決定を覆し、その後の日米関係を決定的に悪化させていった。桂太郎と伊藤博文は維新の功労者である、ハリマンはモルガン財閥や英国の金融資本家と強く結ばれた米国の有力な政治一族である。頼まれれば断りきれない関係にあったと思わざるを得ない。しかしこの事例だけでは疑念を抱かせても断定はできない。

 筆者は徳川幕府を擁護するものではない、どう考えても1800年代の幕府は統治能力を欠いていた。システムが金属疲労を起こしており、例え徳川慶喜のような優れた指導者を以ってしても政権の崩壊は免れず、欧米列強の植民地と化していただろう。そう考えれば野蛮で粗野だが活力に溢れた薩長連合政権の誕生が日本を救ったと言えるのではないか。

 薩長の下級武士達は政権掌握の野望に燃えていただろう、戦国時代以来300年振りに巡ってきた大きな利権交替のチャンスである。自分達が天下を獲り大きな利権を吾が物にできるのである。野望が国益への配慮を遙かに上回っていたと考えるのが自然であろう。百戦錬磨の英仏の狙いをどこまで知覚していただろうか、当時の知識経験では英仏の本性や狙いを理解することは到底不可能であったと推察する。何故なら情報の大半は彼等の師匠である英仏からもたらされたものであり、英仏にとって都合の悪い情報はカットされただろうからである。

 筆者は薩長が英仏の手下的存在に封じ込められるほど弱かったとは思えないのである。確かに薩英戦争、下関戦争に敗れた。しかしひ弱ではないことも見せつけたはずである。英国にも征服できるほどの絶対的な力の差はなかった。英国は自らの意図を秘めながら薩長新政権の政治軍事顧問の役割を演じていったものと推察する。表面はあくまで紳士的に、裏では自らの対中国政策の道具に日本を仕立て上げるようにである。明治新政府はうすうす感づいたかも知れないが、欲に駆られて帝国主義の仲間入りをし、中国に利権を求めて深入りしていった。

 明治維新期における日本のアジア侵略と英国との関係を見ることにする。

@・日清戦争は英国から資金を借り、その資金で武器を調達して勝利した。日本が獲得した償金は英国の銀行に預けられ、日本政府はポンド兌換通貨体制に移行した。英国から日本に移った資金はまた英国に環流している。

A・日露戦争も英国の全面的協力があったから勝つことができた。ロシア皇帝のバルチック艦隊は英国の妨害で途中寄港できず疲労困憊の状態で日本海に辿り着いた。ロシア艦隊の動静は日英同盟の好(よしみ)で逐一日本に伝えられた。日本海軍は圧倒的有利な状況の下でただ一目散にウラジオストックを目指すだけの同艦隊を撃破した。日本国債の引き受け幹事行はロスチャイルド一族の大物銀行家シフが経営するクーンレーブ商会であり、その資金で最新鋭の艦船を購入した。勿論購入先は英国である。ロシアの中国侵略の野望を日本の兵力を使って砕くと同時に金融取引でちゃっかり儲ける英国の智恵には舌を巻く。ロシアから見ると英国は日本支援という利敵行為を行ったにも拘わらずバクー油田開発の利権を失うこともなかった。老獪の一語である。

B・日英仏独露間で中国の利権配分に関する協議体制をつくった。辛亥革命による清朝滅亡後において袁世凱のような自分達に都合の良い政治体制をつくり保持していくための協議機関である。日本は概ねこの政治的協議の線に沿って行動した。第一次世界大戦への参戦やシベリア出兵を日本に要請したのも英国である。だから日本の行動は正しい、やむをえないなどと正当化しているのではないことを念押しする。日本の行為は他国の犠牲の上に自国の利益拡大をはかる帝国主義行為そのものである。あくまで当時の日英関係の実態を明らかにすることが目的である。

4)日英対立に至る経緯

 それでは何故日本が英米に刃向かい破滅の道を辿ることになったのか解明を試みたい。子供の頃から絶対勝てない相手に戦いを挑んで多くの国民を不幸にした政治家や軍人を軽蔑したり、呪ったりしたものである。しかし歴史を子細に観察すると少数の指導者の判断ではどうすることもできない歴史の必然を感じる。

 民族破滅の要因として明治憲法の不完全さを指摘する意見がある。統帥権の内閣からの独立条項が軍部の独走を許したというのである。この憲法が抱える欠陥は維新の元老達が健在なうちは彼等の自制で欠陥として意識されずに済んだが、彼等の衰えとともに軍部への抑制が効かなくなり致命傷になったとする。しかしこの説は以下の2点で納得できない。

1、維新の元老達は自分達の権力をいつまでも守るためにこの条項を設けたのであるから欠陥というのはおかしい。

2、憲法制度の欠陥よりもそういう統制上の欠陥を抱えた軍部を利用する勢力が存在したという事実の方が重大である。

 「1.」について言えば、維新の推進者達は天皇を「玉」と呼び政権獲得の道具と考えていたのであり、天皇を尊敬していたのではない。国民が選ぶ議会、その議会が選ぶ内閣から超越した存在に天皇を置いて権力を永久に保持していこうと考えたのである。即ち例え国民が自分達の利益に反する内閣を選ぼうが、「玉」さえ握り占めていれば権力基盤は揺るぐことはないという考えの下に考案された憲法を欠陥と呼ぶべきではない。所詮憲法は時の権力者が自己の権益を守るために制定するものである。民主主義下にない時代に制定された憲法に対して内容が民主主義にそぐわないと非難するのは的外れである。

 「2.」について言えば、力を持った軍部内の若手将校クラスが時の政治の方向に不満を表明し始めたことが重大である。この憲法条項がなければ彼等は不満のはけ口を求めて他の口実を捜し見つけだすだけだろう。軍部に力を与えたのはマスコミであり、マスコミが軍部の提灯持ちになっていったのは明らかに国民支持が軍部に集まっていたからである。この点に筆者はどうしようのない歴史の流れを感じたのである。

 国際社会に登場して日が浅い当時の日本国民は国際社会の冷酷さを知る由もない。冷静な対応を彼等に期待する方が無理というものである。筆者が懸念しているのは国際社会のメンバーになって100年が経過したにも拘わらず、依然日本人は知識的にも経験的にも当時のレベルに留まっていることである。

 日本は維新以来親英政権を維持してきた。その主力は元老達と財閥である。元老達は英国の恐ろしさを充分に知っていたし、また恩義も感じていた。財閥グループは英国との取引で財産を形成していた。日露戦争以降元老達は年をとり力を失っていったし、財閥達は腐敗し国民の支持を失い始めた。そこに登場してきたのが軍部である。農村部の疲弊を顧みない政治家や財界人に対して農民出身の下級軍人は憤りを感じた。彼等の不満をエネルギーに若手将校グループが5.15事件や2.26事件を起こし既存の支配体制を完全に弱体化した。これ以降若手将校の反乱は鎮圧されたものの政党の力は衰え軍部支配の世の中になってしまった。

 国民が選んだのは軍部である、相次ぐ大戦の勝利に自分達の力を過信した国民が短兵急な解決策を軍部に託したと言えるだろう。国民の支持というエネルギーを吸収して軍部の歯止めのない破滅への暴走が始まる、老獪な英米の仕掛ける罠に飛び込んでいったのである。ヒトラーを選んだドイツ民族がヒトラーとともに滅んだように、日本人も軍部を選びその軍部の弾圧と暴走によってアジア諸国民同様自らも悲惨な目にあったのである。

 日英の協調から対立への分岐点は第一次世界大戦であると筆者は推定している。英国は維新以来日本政府を技術、資金、資源、市場、人間関係で縛ってきた。しかし彼等の親派である元老や財界の力は年々衰えていくとともに日本は経済力を着実に増していったので英国の影響が及ばない存在になりつつあった。大戦期のドイツが英国と袂を分かち独自の利益追求に走ったように、日本は中国大陸に利権を求めて独自路線を歩み始めたのであり、その担い手は軍部であった。親英的な元老や財界が軍部との主導権争いに敗れていったのである。それを決定したのは間違いなく当時の日本国民であった。

 技術がない、資金がない、資源がない状態では日本は英米から離脱することはできない。日本人は持ち前の頑張りで欧米の技術をいち早く吸収し自主技術を開発する段階に比較的早く到達した。日本人はこの経済的資質については自信を持って良いのではないか。この資質を失わない限り将来に亘って世界に貢献できる。資金については第一次世界大戦の軍需景気で巨額の貿易黒字を得て目処がついた。日本は中国に円通貨圏の形成を意図して英国のポンド本位制から離脱し、両国の対立は決定的になった。資源については第一次世界大戦時の貿易黒字で得た外貨を投じて中国の鉄鋼、石炭開発に着手した。有望と思われた鉱山(実はそうではなかった)の採掘権も入手し製鉄工場も建設した。こうして欧米の束縛から離れて軍部主導の独立路線を日本は歩みだしたのである。これは英国にとって許し難いことであった。第一次大戦後日英は同盟を解消し、中国の利権を巡って対立し争い、第二次世界大戦を戦うことになる。

 日本は軍部主導で傀儡の満州国を建国し、次いで華北に侵入し、華南への進出を企てた。一方英米は華南を拠点に蒋介石政権を擁立して日本と対決した。両陣営の戦いは一面通貨戦争でもあった。日本は侵略地帯を逐次円通貨圏に変えていくことで中国の経済支配を狙ったが、在来のポンド通貨圏を切り崩すことはできなかった。勝敗は最初から明白であった。世界の金鉱山の大半を支配している英国ポンドが充分な金の裏付けを持っていたのに対して、円は金の裏付け不足を武力で補う状態であったから、中国の商人が支持したのは勿論ポンドであった。日本軍隊のわずかな支配地区だけは軍刀の威力で円による物資の調達ができたが、日本は現地で充分な軍事生活物資の調達ができず中国占領政策は行き詰まってしまった。

 日本は中国大陸で通貨政策で失敗し、資源開発にも失敗し、万策尽きて英国の資源庫である東南アジアに侵入し英米アングロサクソン族と直接的戦火を交えることになった。1900年の世界経済シェアは英国18.5%、米国23.6%、日本2.4%である。無謀としか言いようのない戦争を未熟な軍部が指導したが、問題はその軍部に力を与えたのが未熟な日本国民であったということである。統帥権問題がなければ大東亜戦争を引き起こさずに済んだのでないかと主張する一部有識者の幼稚さと憲法9条さえあれば戦争を引き起こさずに済むという現代人の幼稚さには相通じるものがある。無知から来る未熟さこそ戦争を引き起こす最大の要因である。

5)軍部独走の背景

 この幼稚さはグローバル社会の冷酷さを認識していないことに由来する。現代多くの日本人はグローバルという言葉にむしろロマンテイックな甘い響きさえ感じている。これこそ戦前軍部独走を許し日本を戦争に引きずり込み民族を悲劇のどん底に追い込んだ真の原因ではなかろうか。自業自得と言えばそれまでだが、未熟な国民性こそ戦争を引き起こす真の元凶であることを銘記しなければならない。自己都合のドメステイック発想を脱皮できるか、感情的発想から計算的発想に切り替えることができるか、ここに甘さを脱してグローバル社会で生き抜けるかどうかの分岐点がある。

 軍部支持に走った国民の未熟さ(未熟な国民性)について少し考えてみよう。国民が夜郎自大になっていたことは間違いないし、政治家や財界の腐敗に憤激していたことも間違いない。そういう国民の気持ちに軍部の主張が入り込んでいったのではないか。軍部には未熟だが純真性があったであろう、そうでなければ何故国民が2.26事件に同情を寄せたのか理解できない。軍部の若手参謀達が描く日本帝国の虚像を情報に乏しく判断力に欠ける国民は実現可能と誤認したとしても不思議はない。その国民の野郎自大化の先鞭をつけたのは薩長藩閥政府であることは言うまでもない。

 ハリマン財閥に簡単に日露戦争で獲得した南満州鉄道の運営権(当時の国民は血の代償であると考えた)を譲りわたすことを約束した政治家達を信用するだろうか。フォード、GMの合弁事業の要請を断って日本の自動車産業、日産とトヨタを育てたのは軍部である。旧財閥はアメリカとの軋轢を恐れて軍部の要請を断ったので仕方なくベンチャー企業の両社が選ばれた結果である。

 軍部は彼等なりの考えで日本の国益と国力の増進を考えていたことは事実である。軍部独走の一端の責任が彼等以上に国民を納得させる考えを出せなかった当時の政治家と財界人あると言えるだろう。日本の軍国主義時代をもう一度このような視点で見直す必要がある。それによって始めて我々は真実の自分を知ることができるからである。真実を自覚しなければいつかまた同じ過ちを繰り返すことになる。

 軍部に戦争責任を被せて自らの責任追及を放棄する態度こそ戦争再発の温床となる。明治維新体制は英米と第二次世界大戦を戦い崩壊したが、GHQによって罰せられたのは軍部だけである。政治家、官僚、財界人の殆どは僅かな囚人の期間を過ごしただけで復帰した。甚だ遺憾なことだが、右翼やヤクザと並んで731部隊の人間まで釈放された。ある者はCIAのエージェントなることを条件に、ある者は人体実験データを米軍に提供することを条件に釈放された。

 戦後になっても明治維新の人脈は継続され、明治維新の根っこは厳然と残っているのである。官僚制はこの根っこの温床ではないかと筆者は考えている。その根っこに外国勢力が張り付いて栄養を吸い続ける構造が続く限り、日本の独立はない。真の独立がない国家に真の自立人が育たないのは自明である。外国支配の影を背負った人間に裸の人間が持つ潔さを期待しても無理である。自分が抵抗できない権力に支配された人間は卑屈さと威丈高さと傲慢さと虚飾を身に纏とわざるを得ない。

 ”鯛は頭から腐る”という諺があるように、あらゆる生命体や組織は脳から腐っていく。明治100年を経過して今や腐敗が尾鰭にまで及んできた。最近多発する警察の不祥事件や官僚の傲慢さは実力を伴わない人間の弱さを如実に表していると言えないだろうか。

6)GHQ政策と英国の維新政策の類似性を検証する

 第二次大戦後英国に変わって日本の主人になったのはGHQの米国である。筆者の考察するところ、明治維新の英国が採った政策とGHQの政策が酷似しているのである。英国の日本支配のたがの緩みを同じアングロサクソン族の米国が引き継ぎ締め直したと考えられる。以下類似点を列挙する。

1.英国が日本をアジア植民地政策の手先にしようとしたのに対して、米国は日本を対ソ冷戦の前線基地にするとともに、アジア中東を作戦地域とする第七艦隊の根拠地にする。その見返りに経済的ベネフィットを与える。

2.天皇の位置づけが”玉”の発想の明治維新に対して、大戦後は”象徴”になった。いずれも天皇を国民統治の道具として活用していく考えが根底にある。

3.英国は戦争で痛めつけた薩長の黒幕として日本支配を狙ったが、米国は巣鴨プリズンの戦犯を釈放して日本の統治者とした。

 「1.」については説明の必要がないだろう。日本の地政学的重要性は100年前も現在も些かも変わっていないし、中国を含むアジアの経済的重要性は100年前より遙かに増している。ペリーが5度寄港して領有を狙った沖縄の価値は不変である。

 「2.」については少し説明する必要がある。天皇制存続については日本がポツダム宣言受諾の唯一の条件にしたほどこだわった。しかし決定権を有するGHQが天皇に利用価値を認めたから天皇の存続が許された。あくまで天皇の存続(即ち国民統合の象徴)であって、天皇制(主権者としての天皇)の存続ではなかった。GHQが自らの権力と権威を上回る存在を許されなかったのは当然である。連合軍は日本に戦争を止めさせるために軍部と国民の離反を図った。そのベストな方法として採択されたのが”天皇は戦争を望んでいない、やむをえず戦争に巻き込まれた、終結を望んでいる”という趣旨のキャンペーン活動であった。”悪いのは軍部だけであって、天皇も国民も犠牲者だ”と言う訳である。この連合軍の考えが敗戦後も軍事裁判で軍人を狙い打ちにした処罰と「War-guilt-information-program」として継続された教育プロパガンダが戦後の日本人の思想に大きな影響を与えてきた。

 「3.」について、GHQによって一旦は戦争犯罪人になり釈放された人間が戦後日本の政治と経済の指導者になったことは間違いない。彼等がGHQの傀儡であったとは断定できないが、厳しい言論統制の下でGHQと彼等は秘密を共有して政治を行ってきた。その関係は明確な謝罪や釈明もなく今日に至っている。そのような境遇から誕生した指導層の人格が屈折したものになったとしても何ら不思議ではない。知られたくない秘密を共有すればお互いの関係はより緊密になる。上の者には卑屈にならざるを得ない、その代償として下の者には高圧的になる。GHQは許しても被侵略国のアジア諸国の民衆は許してくれた訳ではない。日本とアジア各国の政府間で和平条約が締結され和解ができたとしても、アジアの国民は許してはくれていないのである。これが日本のアジア関係を複雑且つ困難にしている真相である。

 ここで筆者はGHQ及びアメリカを非難しているのではないことを明言しておきたい。何故なら非難をすることには何の意味もないからである。国際政治の現実はこのようなものであり、批判によって変わる性格のものでは決してない。日本人が現実に気付かず、あるいは気付いても無視しようする姿勢を問題にしているのである。このような現実を避けようとする姿勢が自分達の立場を着実に悪くしていくからである。自分の立場を良くするのも悪くするのもすべて我々日本人自身の問題である。我々がどう受け止めどう対処するかに未来がかかっているのである。



追悼 奈良本辰也先生
 京都に戻られた先生は、明治維新をテーマに、精力的に研究をすすめられ、1947年には論文「郷士=中農層の積極的意義」を発表され、颯爽と学会にデヴューされたのでした。戦後初期のご研究には、『資本論』やF・ボルケナウのつよい影響がうかがえますが、いずれも学生時代、長谷部文雄さんや梯明秀さんのもとでひそかに研究された成果を基礎とされたものでありました。

 1951年、岩波新書の1冊として刊行された『吉田松陰』は、多くの版を重ねました。米ソの対立のもと占領下にあって、民族の独立をもとめる運動に呼応するものとして歓迎されたのでした。戦争の傷痕からどう立ち直るかが緊急の課題でした。両陣営の一方に片寄らない全面講和をもとめ、末川博立命館大学学長ら知識人は平和問題談話会を結成しましたが、気鋭の学者として先生も参加され、オピニオン・リーダーのひとりとして活躍なさいました。

 先生の歴史家としての真骨頂は『吉田松陰』をはじめとする評伝にありました。このほか、高杉晋作、前原一誠、西郷隆盛、二宮尊徳など、枚挙にいとまのないほど、歴史上の人物の評伝をのこされています。

 ここに先生の歴史観の核心がみられます。歴史とはなによりも人間がつくり出してきた。邪悪なものも少なくないが、同時に数々の見事なものを創り出してきた。後者に着目して、人間の可能性を追究し、それを現在に生かしていきたい。先生には『楽天主義』という著作もありますが、まことに向日性ともいうべきご性格で幾多の困難を乗り越えられて来たのでした。

 ある講義のなかで、先生は「鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分哉」という蕪村の句を示され、どう思うかと感想をもとめられました。保元か、平治の合戦か。いずれにせよ、その緊迫した情景をよく伝える、この一句に匹敵する叙述が大事なのだ。「考証のプロセスは、全部書かずともよい。結論を端的にまず述べよ。その結論が、他者によってたしかめ直されていく過程で、考証の手固さが明るみに出てゆく」。中世史の横井清さんが書きとめられたところですが、ここに奈良本史学の真髄が込められています。

 先生の主宰する部落問題研究所
。朝田善之助氏や三木一平氏、木村京太郎氏らによってつくられた研究所の所長に迎えられた先生は研究所の研究機関としての充実につとめられました。

 1960年代のはじめ先生は、独占資本は部落差別を助長することはなく、部落の改善をはかるという論文を発表し、井上清氏らとの間にはげしい論争を生みました。いま、あらためてかえりみると、65年の同対審答申、69年の同和対策事業特別措置法にはじまる十数兆円におよぶ部落への国、地方自治体の巨額の資金投下を、先生は予言せられていたといえます。このことにわたしたちが気付き、この動向をきちんと捉えきっていたならば、部落解放運動が、あるいはそれによる部落の変貌に心を奪われ、あるいは法と予算に目をくらまされてしまうことはなかったかも知れません。

奈良本先生の主張にたいして、返ってきた答えは総スカンに等しいものでした。先生の見方に反発するものが多く、部落問題研究所に内部亀裂が生じました。研究所は部落問題研究の業績によって、朝日賞を受賞しましたが、その直後に先生は、部落解放運動の内紛にかかわって所長を辞職されたのでありました。

その後、1977年、京都部落史研究所の発足にあたっては、絶えず力強い激励と支持を与えられたばかりでなく、代表委員のひとりとして内部にあって支えていただきました。また、朝田教育財団の理事長にも就任なさっていますが、朝田善之助氏との友情からであり、ともに任侠の精神の発露ともいうべきものでありました。

これよりさき、1969年、先生は立命館大学教授を辞められました。数に頼って少数意見を受け入れない独善的な運営に堪えられなかったのです。全共闘学生による「わだつみ像」破壊にも支持を表明されました。平和と民主主義が、内容を伴わず、形式に流れていることにたいする抗議でありました。

 位階なく、勲章なく、名誉教授の称号もなく、博士号さえない。野にあってひとりの歴史家として屹立されていた先生。奈良本辰也先生は、俗に似て、俗に非ず、まさしく反俗の人でありました。合掌。
 師 岡 佑 行