| 40−193 | 坂本竜馬論 |

(最新見直し2007.1.2日)
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| 坂本竜馬がなぜ我々の琴線を打つのか、その理由について愚考してみようと思う。れんだいこは相応の理由があると見る。以下記すが、恐らく盲点となってきた面に光を当てると思う。賛同、異論、疑問を廻って議論してみたい、坂本竜馬論はそれに値する教材だと思う。 思えば日本人は不思議な歴史を持つ民族である。史上の英雄、例えばシーザーもナポレオンもレーニンもスターリンもヒットラーも毛沢東も現出させていない。それでいて伝えられる限りの古書において、例えば邪馬台国時代よりこの方今日に至るまで、世界の進展趨勢にピタッと連れ添って歩んできている。この力は何なんだろうと感嘆調で思うのはれんだいこだけだろうか。 恐らく、日本には日本なりの宰相・指導者論が有って、全体としてそれがうまく機能して今日に至って来たのではなかろうか。もとより民草・草莽論を無視するつもりはない。相補関係で捉えてみたいと思う。 2003.5.10日 れんだいこ拝 |
| 【坂本龍馬(さかもと りょうま)の生涯履歴】 |
| 1835(天保6)〜1867、享年歳。 |
| 1835(天保6)年.11.15日、生まれ。土佐藩郷士坂本八平の次男として誕生する。すぐ上の姉・乙女(おとめ)と生涯を通して親交する。 1853(嘉永6)年、江戸京橋桶町千葉定吉道場にて北辰一刀流を学ぶ。 1854(安政元)年、一旦、土佐へ帰国する。 1856(安政3)年、再び剣術修行に江戸へ。 以後、24歳になるまで龍馬の江戸滞在は続き、この間に多くの人々と知り合い、交友を深めてい。 1857(安政4)年、桶町・千葉道場の「塾頭」に任じられている。当時、長州の桂小五郎(1833〜1877、のちの木戸孝允)は、1852(嘉永5)年に江戸へ遊学、上で見た斎藤弥九郎の道場に入門、塾頭となっている。武市半平太(1829〜1865、号は瑞山)も1856(安政6)年に江戸に出で桃井春蔵の門下となり、一年足らずで塾頭になっている。 1861(文久元)年、土佐勤王党に9番目に加盟。 1862(文久2)年、土佐藩脱藩。江戸へ出て勝海舟と出会う。 1863(文久3)年、勝塾の塾頭になり、神戸海軍操練所の開設に奔走する。 1865(慶応元)年、薩摩藩等の出資により長崎亀山に「社中」を創立。 1866(慶応2)年、薩長同盟を中岡慎太郎と成立させる。伏見寺田屋で幕吏に襲われ、おりょうと鹿児島へ。 1867 (慶応3)年、瀬戸内海においていろは丸衝突事故起こる。4月、社中より海援隊と成る。 6.9日、船中八策の立案をする。土佐藩の藩船「夕顔」で長崎から京都に向けて出航。同じ船に乗り合わせていた土佐藩の後藤象二郎(1838〜1897)に、「船中八策」として知られる回天案を示し、維新後の新社会の骨格を示す。 後藤は、この策を土佐藩藩主・山内容堂に説き、容堂は「大政奉還」は土佐藩の政論として取り上げることを許す。後藤たち土佐藩の重臣は10.13日、二条城で将軍に謁見、案の採用を強力に奏上した。その結果、慶喜は翌10.14日、朝廷に対して「大政奉還」を申し出ることになった。この、一連の動きを察知していた薩摩・長州の連合勢力が同じ日に「倒幕の密勅」を入手して鳥羽伏見の戦いへと発展していった。 1867(慶応3).11.15日、京都三条河原町の下宿・近江屋で刺客に襲われ、龍馬と陸援隊の中岡慎太郎の両名が暗殺された。享年33歳。劇的な生涯に幕を降ろした。 |
| 【「船中八策」考】 | |||||||||||||||||||||||||
6.9日、坂本竜馬は京都に向かう途上の長崎から兵庫に向かう夕顔丸の船中で、「船中八策」を構想する。土佐藩の採るべき方針として後藤象二郎に提示したものであるが、これが「五箇条のご誓文」の下敷きになる。
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| 【竜馬の妻、お龍おりょう(1841〜1906)】 |
| 出生には色々と説があるようだが、父の楢崎将作は安政の大獄に関与し病没。その後一家は離散。坂本龍馬と出会う。慶応2年の薩長同盟成立後に起きた伏見寺田屋事件では龍馬を助け、後に鹿児島へ西郷隆盛らの計らいで新婚旅行へ行く。龍馬死後の一時期は土佐の坂本家に世話となるが、義姉乙女と合わず去っている。その後も再婚をするが貧弱な中で終わったと言う。 |
| 【竜馬暗殺の下手人考】 | ||||
| 「坂本龍馬は薙刀の達人?」、小林久三氏著「龍馬暗殺に隠された恐るべき日本史」(青春出版社、1999.10.25日初版)その他を参照する。次のように伝えられている。 1867(慶応3).11.15日、京都三条河原町の下宿・近江屋で、刺客に襲われ龍馬と陸援隊の中岡慎太郎の両名は暗殺された。享年33歳。劇的な生涯に幕を降ろした。 この時、近江屋には、土佐藩の岡本健三郎、書店菊屋の峰吉、龍馬の従僕の藤吉がいた。龍馬は、二階奥の8畳間で火鉢を囲んで中岡慎太郎と話し込んでいた。風邪気味だった龍馬がシャモ鍋が食べたいと云い出し、峰吉がシャモの仕入れに出かけた。それをきっかけに岡本健三郎も部屋を離れた。 この時、竜馬暗殺の刺客が店先に現われた。取次ぎに出た使用人の藤吉に対し、「十津川の郷士、何々でござる。才谷先生にお取次ぎ願いたい」と名刺を差し出し、藤吉が龍馬に確認を取りに二階に向ったところ、刺客三、四名が後を追い、藤吉を斬りつけながら二階に駆け上がった。その気配に、龍馬は「ほたえな」(土佐弁で騒ぐなという意味)と叱責した声のする部屋に乱入し、背後から中岡に斬りつけ、龍馬にも襲い掛かった。龍馬は太刀を抜く間もなく鞘(さや)ごと受けたが、刺客の剣が鋭く額を真っ向から切り裂いた。これが致命傷の深手となった。中岡は脇差で応戦したが、11箇所傷つけられ動けなくなった。刺客は去り、龍馬は中岡に「俺は脳をやられた。もういかん」と述べた後絶命した。土佐藩の谷干城が駆けつけた時には時既に遅かった。中岡は二日後の17日まで生き続け息を引き取った。 瀕死の中岡は、暗殺者が「こなくそ」と叫んで太刀を振り下ろしたこと、中岡にトドメを刺そうとした時、もう一人の刺客が「もういい、もういい」と制して、部屋を立ち去ったことを証言している。部屋には二つの遺留品が残されていた。一つは、蝋色の鞘、もう一つはひょうたんの焼き印の入った下駄の片方であった。鞘は、新撰組の原田左之助のもので、下駄は新撰組の溜まり場にしていた先斗町(ぽんとちょう)の瓢亭(ひさごてい)のものであることが判明した。 この事件の首謀者を廻って諸説が入り乱れている。「合気揚げの基礎知識6」は次のように述べている。
谷干城は、新撰組の犯行と断定し、原田左之助と紀州藩の三浦休太郎による共同犯行と断定した。11.26日、近藤勇が、坂本・中岡暗殺について事情聴取されている。その朴訥さ・人柄にほれ込んだ龍馬が名刀一振りを贈ったほどの人で正真正銘十津川出身の中井庄五郎(1847〜1867)が、海陸援隊士と共に下手人探索にいち早く乗り出し、龍馬暗殺は新撰組の仕業と考え、、12.7日夜、京都の天満屋に新撰組隊士と紀州藩の要人がいることを突き止めた中井たち十数名が龍馬の仇討ちのため紀州藩士三浦休太郎を襲撃、斬り込みを敢行、その先鞭を務めた庄五郎は戦闘中に刀が折れたにもかかわらず奮闘し、弱冠二十歳の命を散らした。王政復古の大号令の二日前の出来事であった。 しかし、暗殺の状況からして、遺留品はわざわざ捨て置かれており工作された可能性が強い。その後の調査で、原田左之助の鞘は伊藤甲子太郎と一緒に新撰組を脱退した藤堂平助なる者にすり替えられたという事が確認されている。二人とも薩摩藩邸に出入りしている。下駄も、祇園の二軒茶屋(腰掛茶屋)の中村屋とかいかい堂のものであることが判明した。二つの料亭とも土佐藩がひいきにしている。事件から二年後、旧新撰組の大石鍬次郎が、薩摩藩邸で新撰組の犯行であることを自供した。 しかし、兵部省(後の陸軍省)に身柄が引き渡され、この時の取調べでは見廻組の犯行だと前言を翻した。具体的に海野、高橋、今井信郎の名前が挙げられ、兵部省は新撰組の生き残りの横倉甚五郎、相馬主殿も含めて審理した。今井は、暗殺は見廻組のリーダー佐々木唯三郎の指揮で行われ、佐々木、桂隼之助、渡辺吉太郎らの犯行であり、自身は見張り役に過ぎなかったと証言した。横倉は獄死し、審理の結果、今井は禁固刑に処せられ、大石は斬罪、相馬は流罪となった。但し、裁判記録は公表されず、闇に封じ込められた。 太田龍・氏は、「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」の中で次のように記している。
「合気揚げの基礎知識6」、「合気揚げの基礎知識7」は次のように述べている。
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(私論.私見)