| グラバー考(「明治維新とグラバー」考) |

(最新見直し2007.1.2日)
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| トーマス・ブレーク・グラバーは、観光都市長崎の名所「グラバー邸」の主として有名であるが、日本の近代化にも大きな功績を残している。幕末の動乱に深く関わった英国の商人であり、彼の足跡を尋ねると「裏明治維新」が見えてきて興味深い。グラバーは、幕末内戦に倒幕派へ武器弾薬を調達した「死の商人」としての物質面だけではなく、当時の幕末の志士達に与えた思想的、精神的影響力の面からも評価される。中でも維新の最大傑物、坂本竜馬(「坂本竜馬論」)に与えた影響に大きいものがあった。 れんだいこが思うに、グラバーも又「日本的なるものを愛した外国人」であり、その本質は、幕末日本の政情に感染され、「幕末回天運動」を支持した「稀有なる外人志士」ではなかったか。グラバーのフリーメーソン的面を見ようとする視点もあるようであるが(「フリーメーソン日本史」で概述する)、何でもかんでもそこに結びつけ判断するのは如何なものだろう。れんだいこは、「外人志士」の面の方を強く見たい。以下、検証していく。 2005.4.10日 れんだいこ拝 |
参考サイト「メ−ソンの二大ドンが練る日本支配総戦略計画」、「多田 茂治の 幕末の冒険商人−グラバーの生涯」。
| 【来日後のグラバーの歩み】 |
| 来日2年後、グラバーは独立する。ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としてトーマス・グラバー商会を設立した。続いて、デント商会、サッスーン商会などの大手商会ともエージェント契約を結び、1862年にはアーノルド商会、ブレイン・テート商会ともパートナー契約を結んだ。この頃、グラバー商会と名称を改め、茶の再生工場を手掛け、茶の輸出を主要な業務としていった。1863年から1865年頃、グラバー商会は長崎からの茶の輸出量の20〜30%を占めるまでになり、発展の基礎を築いた。 グラバーが来日した時には、既に幾つかのメーソン系商社が存在していた。いずれも幕府と密接な取引をしていた為、グラバー商会の入り込める余地がなく、民間事業としての茶の輸出から商売に取りかかった。幕府と関係なく民間取り引きに手を染めていったことが、その後のグラバーの運命を決定していくことになる。やがて幕末志士と絡み、あるいは反幕府的な雄藩への武器弾薬、艦船の販売へと手を広げていく下地となった。武器商人として活躍していくことになったグラバーは、積極的な貿易で巨万の富を築くかたわら、フリーメーソンの思想である自由・平等・博愛(友愛)を勤王の志士達に培養していく。(そのグラバーと強烈に結び付くのが坂本龍馬であった。これはこの後追跡する) グラバーは慶応3年、日本人妻ツルを娶った。ツルは、オペラ「蝶々夫人」のモデルと云われている。ツルは終生着物姿を通し、日本女性の妻として夫グラバーを支え続けた。「この良妻があったればこそ、スコットランド出身のグラバーは、日本の近代化に驚くほど多彩な功績を残すことができたのである」と評されている。やがて長女ハナが誕生した。男児に恵まれなかった為、倉場富三郎を庶子として貰い育てる。 1861(文久元)年夏頃、薩摩藩留学生の英国密航を計画実行した五代才助(友厚)と顔合わせしている。五代は若いころ長崎の海軍伝習所で学んでいて、蒸気船にかなりの知識を持っていたので、藩命で蒸気船購入のためグラバーに交渉に来たことになる。このときの商談は不調に終わったが、これをきっかけにグラバーは、輸出では茶、絹、木蝋、樟脳、海産物など、輸入では綿織物、毛織物、石炭、砂糖などの商品に加え、武器、艦船の取引で、大を成すに至っている(「侍の根性で取引」参照)。 以来、グラバーと五代の関係は続き、グラバーは五代を介して薩摩藩との接触を深め、それが討幕運動に大きな役割を果たすことにもなった。 この時期にグラバー邸が建てられている。グラバー邸は、長崎県長崎市南山手8に1863(文久3).1月頃竣工している。グラバー自身が設計し、天草の大工棟梁(とうりょう)小山秀が施工したと云われている。日本最古の木造洋館建築となっており、1961(昭和36)年、国の重要文化財に指定された。1939(昭和14).6月より三菱重工長崎造船所の所有となっていたが、1957(昭和32).10月、同社創業100年祭記念事業の一つとして、長崎市に寄贈された。 |
| 【グラバーと幕末】 | |
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長崎の港を見渡すことのできるグラバー邸は、勤王の志士達のアジトとなった。グラバーは、坂本竜馬、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊助(博文)、高杉晋作、小松帯刀、五代才助(友厚)、岩崎彌太郎など維新の志士や後の実業家を庇護し、彼等はその後の日本を動かした重要な人物となり明治政府実現の陰の功労者となった。これらの人物はいずれもグラバー邸深くに出入りしていたことが判明している。
グラバーは彼らの志と気概に打たれて討幕派に肩入れするようになり、とりわけ薩摩藩との関係を深めたことになる。日本の有為な若者たちの海外密航も相変わらず助けていた。薩摩藩の密航船が出港する直前には、急遽帰国した伊藤俊輔(博文)から西洋熱を吹き込まれた高杉晋作が、伊藤と二人分の資金を用意して密航の世話を頼みに来たが、いまは貴殿らは下関開港に努力すべきときだと、高杉らの密航を押しとどめている。その代わり、高杉が推す若者二名を密航させているし、そのほかにも佐賀藩士などを密航させ、長崎奉行所の詰問を受けたが、グラバーはひるまなかった。(「薩英和解お膳立て」参照) |
| 【フリーメーソンの動き】 |
| 1866(慶応2)年、日本にメーソンのロッジが初めて設立されている。英国陸軍第20連隊が香港から横浜の居留地警備の為に派遣され、この連隊に軍人結社「スフィンクス」があり、これがアイルランド系の移動式ロッジで、メーソンの儀式を行っている。アメリカ、カナダの植民地時代も、こうした軍隊の移動式結社が各地で展開され、その地にメーソンが浸透していった。「スフィンクス」のメンバーは、やがてメーソンの英外交官や貿易商と共に移動式ではなく、本格的なロッジを望む様になり、1865年、本国に新ロッジの設立を申請している。翌年の1866年にそれが認可され、横浜に初ロッジが創立された。第1回集会には、スコティシュ系メーソンの西インド地区の前副棟梁カートライトが出席し、初代ロッジ長にはウィリアム・モタ、二代目ロッジ長には英国近衛連隊将校G・M・スマイスが任命されている。こうして正式のロッジが横浜に設立されてからというもの、日本各地にい次々とロッジが開設された。 この事実は、1966年、横浜のプリンスホテルで、「日本フリーメーソン・ロッジ百周年記念」式典が開かれたことで判明した。出席者は約200人で、その内の2/3が在日外人だった。この時、径5センチ程の銀の記念メダルが会員に贈呈されたが、そのメダルにはメーソンのマークと1866年〜1966年という年代が刻まれていた。 メーソン系の動きは次の史実でも裏付けられている。その他、フランス人でベルギーのメーソンだったシャルル・ド・モンブランは、薩摩藩の五代才助(友厚)に近づき、1865年、ブリュッセルで五代と共に商社を設立している。又、薩摩藩からパリ万国博覧会の事務総長に任命されたりしている。 プロシア(独逸)のメーソンであったエドワルド・スネルは、長岡藩の河井継之助に接近して、長岡城の戦い(1868年、官軍との戦い)を援助している。戊辰戦争の最後の戦いとなった五稜郭の戦いでは、フランスのメーソンのブリュネが、榎本武揚ら徳川家臣幹部と共に五稜郭に立て籠もり、最後まで官軍に抵抗し敗れる。 これらの動きを見れば、明治維新は、フランスを中心とするヨーロッパ系メーソンと、大英帝国系メーソンが触手を伸ばしていた中での代理戦争だった観がある。「メーソン特有の”両面作戦”がとられた。そして結果的にはイギリス系のメーソンが勝利を収めたのである」と評されている。 (関連サイト「フリーメーソン日本史」) |
| 【グラバーと明治】 |
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グラバーは、明治維新以降の政情に新たな関わりを見せている。明治新政府が樹立され、このような歴史の転換点に立って、グラバーは1867年頃から自身のビジネスを商業資本的な形態から産業資本への転換を図ろうとする。グラバーは、明治初期の経済産業の発展に大きく貢献しており、日本の近代化に大きな功績を残している。 |
| 【晩年のグラバー】 |
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グラバーは明治9年から東京飯倉の狸穴町に転居したが、同13年に長崎に戻り、後藤象次郎の高島炭鉱の支配人に就任した。しかしながら、後藤が経営する高島炭鉱は必ずしも順調ではなく、翌1881(明治14)年、官営事業払い下げ後、三菱商事の創立者・岩崎弥太郎によって買収されている。グラバーは買収されてからも所長として経営に当たった。 明治19年、再び上京し、芝公園53番地に居を定め、明治16年に開館した鹿鳴館の書記などを勤めた。明治26年、三菱合資会社の特別役員(終身顧問)となっている。この時の待遇も破格のもので、最高役員の2割増の給与を得ている。 この頃、横浜居留地内で売りに出されていたわが国最初のビール工場を数名の外国人と共に買収し、ジャパン・ブリュワリー・カンパニーを設立し取締役に就任している。 「キリンビ−ル」を発売し、これが後の麒麟麦酒株式会社(明治40年設立)となる。 グラバーは、事業意欲が衰えたのち、 東京麻布で菱の顧問をしながら華族待遇として余生をおくる身の上となった。日本政府から、 外国人としては最初に、 1908(明治41).7.10日、在日外人にしては破格の栄誉である勲二等旭日重光章が贈られた。伊藤博文は晩年のグラバーに対して芝公園の邸宅を寄贈している。 大正15年には、天皇皇后両陛下が赤坂離宮御苑で開いた親菊会にも招待されている。 1911(明治44).12月、慢性腎臓炎となり73歳で死去。日本在住50余年。墓は、長崎市坂本町の国際墓地にある。 |
| 【グラバー家のその後】 |
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グラバーは慶応3年ツルと結婚し長女ハナを設けたが、男児がなかったため庶子・富三郎を跡継ぎとした。富三郎(1870〜1945)は、倉場富三郎と名乗り、学習院を卒業しペンシルヴァニア大学で生物学を学んだ後帰国して、長崎汽船漁業会社を設立、トロール漁法を導入し、わが国の漁業の近代化に貢献すると共に『日本西部及び南部魚類図譜』作成の基礎を作った。 1945(昭和20).8.26。グラバーとツルの息子にして・グラバー邸二代目当主の倉場富三郎が、グラバー邸近くで自殺した(74歳)。 |
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(私論.私見)