グラバー考(「明治維新とグラバー」考)

 (最新見直し2007.1.2日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 トーマス・ブレーク・グラバーは、観光都市長崎の名所「グラバー邸」の主として有名であるが、日本の近代化にも大きな功績を残している。幕末の動乱に深く関わった英国の商人であり、彼の足跡を尋ねると「裏明治維新」が見えてきて興味深い。グラバーは、幕末内戦に倒幕派へ武器弾薬を調達した「死の商人」としての物質面だけではなく、当時の幕末の志士達に与えた思想的、精神的影響力の面からも評価される。中でも維新の最大傑物、坂本竜馬(坂本竜馬論)に与えた影響に大きいものがあった。

 れんだいこが思うに、グラバーも又「日本的なるものを愛した外国人」であり、その本質は、幕末日本の政情に感染され、「幕末回天運動」を支持した「稀有なる外人志士」ではなかったか。グラバーのフリーメーソン的面を見ようとする視点もあるようであるが(「
フリーメーソン日本史」で概述する)、何でもかんでもそこに結びつけ判断するのは如何なものだろう。れんだいこは、「外人志士」の面の方を強く見たい。以下、検証していく。

 2005.4.10日 れんだいこ拝


 参考サイト「メ−ソンの二大ドンが練る日本支配総戦略計画多田 茂治の 幕末の冒険商人−グラバーの生涯

【グラバーの来日までの履歴】
 1838年、トーマス・ブレーク・グラバーがスコットランドのブリッジ・オブ・ド−ンにうまれた。父はイギリス海軍の一等航海士であった。父の転勤で州都アバディーンに移り住んだトーマスは同市ギムナジウムで中等教育を受けた後、商会事務員として働いていた。

 1856年、19歳の時、パスポートを取得し、単身上海に渡った。この頃の中国の政情は既に阿片戦争で1842年に香港が英国領となっており、メーソンの極東ロッジが創立され、アジア進出の拠点となっていた。上海も香港同様に国際都市化しつつあり、グラバーはそういう雰囲気の上海に飛び込んでいき、国際ビジネス感覚を身につけたと思われる。そこで東アジア最大の貿易商社ジャーディン・マセソン関係している。

 1859(安政6).7月、グラバー21歳の時、来日した。ジャーディン・マセソン商会の現地派遣社員として開港後1年目の長崎にやってきた。開港時代の長崎は、巨大な貿易市場に変貌しつつあった。この時期約150名の外国人が在住し、その半数をイギリス人が占めていた。グラバーは貿易商としての経験を積んでいく。

【来日後のグラバーの歩み】
 来日2年後、グラバーは独立する。ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としてトーマス・グラバー商会を設立した。続いて、デント商会、サッスーン商会などの大手商会ともエージェント契約を結び、1862年にはアーノルド商会、ブレイン・テート商会ともパートナー契約を結んだ。この頃、グラバー商会と名称を改め、茶の再生工場を手掛け、茶の輸出を主要な業務としていった。1863年から1865年頃、グラバー商会は長崎からの茶の輸出量の20〜30%を占めるまでになり、発展の基礎を築いた。

 グラバーが来日した時には、既に幾つかのメーソン系商社が存在していた。いずれも幕府と密接な取引をしていた為、グラバー商会の入り込める余地がなく、民間事業としての茶の輸出から商売に取りかかった。幕府と関係なく民間取り引きに手を染めていったことが、その後のグラバーの運命を決定していくことになる。やがて幕末志士と絡み、あるいは反幕府的な雄藩への武器弾薬、艦船の販売へと手を広げていく下地となった。武器商人として活躍していくことになったグラバーは、積極的な貿易で巨万の富を築くかたわら、フリーメーソンの思想である自由・平等・博愛(友愛)を勤王の志士達に培養していく。(そのグラバーと強烈に結び付くのが坂本龍馬であった。これはこの後追跡する)

 グラバーは慶応3年、日本人妻ツルを娶った。ツルは、オペラ「蝶々夫人」のモデルと云われている。ツルは終生着物姿を通し、日本女性の妻として夫グラバーを支え続けた。「この良妻があったればこそ、スコットランド出身のグラバーは、日本の近代化に驚くほど多彩な功績を残すことができたのである」と評されている。やがて長女ハナが誕生した。男児に恵まれなかった為、倉場富三郎を庶子として貰い育てる。

 1861(文久元)年夏頃、薩摩藩留学生の英国密航を計画実行した五代才助(友厚)と顔合わせしている。五代は若いころ長崎の海軍伝習所で学んでいて、蒸気船にかなりの知識を持っていたので、藩命で蒸気船購入のためグラバーに交渉に来たことになる。このときの商談は不調に終わったが、これをきっかけにグラバーは、輸出では茶、絹、木蝋、樟脳、海産物など、輸入では綿織物、毛織物、石炭、砂糖などの商品に加え、武器、艦船の取引で、大を成すに至っている(「侍の根性で取引」参照)。

 以来、グラバーと五代の関係は続き、グラバーは五代を介して薩摩藩との接触を深め、それが討幕運動に大きな役割を果たすことにもなった。


 この時期にグラバー邸が建てられている。グラバー邸は、長崎県長崎市南山手8に1863(文久3).1月頃竣工している。グラバー自身が設計し、天草の大工棟梁(とうりょう)小山秀が施工したと云われている。日本最古の木造洋館建築となっており、1961(昭和36)年、国の重要文化財に指定された。1939(昭和14).6月より三菱重工長崎造船所の所有となっていたが、1957(昭和32).10月、同社創業100年祭記念事業の一つとして、長崎市に寄贈された。

【グラバーと幕末】

 長崎の港を見渡すことのできるグラバー邸は、勤王の志士達のアジトとなった。グラバーは、坂本竜馬、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊助(博文)、高杉晋作、小松帯刀、五代才助(友厚)、岩崎彌太郎など維新の志士や後の実業家を庇護し、彼等はその後の日本を動かした重要な人物となり明治政府実現の陰の功労者となった。これらの人物はいずれもグラバー邸深くに出入りしていたことが判明している。

 1987年に、グラバー邸の屋根裏から隠し部屋が発見されたが、中は意外と広く、かなりの人間が長期間潜伏する事が出来る造りとなっている。そこは竜馬をはじめとする幕末の志士達との密談の場所であり、潜伏の場所であった事が判明した。それが1987年迄発見出来なかったというから、如何に巧妙に造られていたかがわかる。

 グラバー商会が軌道にのり始めた時期、日本の国内政局は激動しつつあった。開国派と攘夷派が相対立し、尊王攘夷倒幕派と公武合体派、佐幕派の三つ巴の政争を繰り広げ始めていた。薩摩、長州藩が外国艦隊と一戦交え、その手強さを知らしめられていた。グラバーは、時代に戦乱の臭いを嗅ぎつけ、次第に取引の重心を茶の再生輸出から艦船や武器へと移していくことになった。

 1863(文久3).9月、生麦事件の報復で、イギリス艦隊が鹿児島湾に侵入し、薩英戦争が始まった。この時、五代は松木弘庵(寺島宗則)とともに指揮していた蒸気船三隻を拿捕(だほ)され船を焼却された上、捕虜になっている。その失態を怒った同藩士から命を狙われ、五代はしばらく新築そうそうのグラバー邸の屋根裏に潜んでいた。

 この様な状況の中で、グラバーは、幕末回天運動を推進する志士達を支援し始め、「明日の日本を担う逸材」とコネクションを結び始める。グラバーは、長州藩の若きエリ−トであった伊藤博文(当時23歳)、井上馨(29歳)達5名を海外勉学の旅を斡旋している。陸奥宗光、黒田清隆らとも交流している。五代を中心とする薩摩藩の19名の視察団を密航させ、その資金援助を行っている。「叛逆者の侍の第二団」(「トーマス・グラバー伝」アレキサンダー・マッケイ著、平岡緑訳)によれば、若き薩摩人たちを密かに出国させる段取りをつけるために上海に発ち、五代は薩摩藩家老・小松帯刀をつうじて、藩に上申書を提出する。小松はグラバーとは親しい間柄で、藩は、海外への留学生派遣をただちに決定している。

 1865(慶応元)年、幕府は、四国連合艦隊の下関砲撃、薩英戦争でアームストロング砲の威力を知り、、グラバーに21門注文してきた。グラバーは早速英国から輸入したが、幕府の支払いが滞り、引き渡さずにいるうちに維新戦争が始まり、幕府注文の大砲が官軍の手に渡るという皮肉な一幕となった。

 グラバーは次第に西南雄藩の薩摩, 長州, 土佐, 佐賀、熊本藩との接触を深めていく。この時期、1865年にアメリカの南北戦争が終了し、不要となった艦船や銃が中国市場に大量に出回っていた。グラバーは、混沌とした政治状況の中で幕府、各藩が競って軍備の拡張に乗り出していることを見抜き、貿易商にとっては格好の市場であるとして「死の商人」へ舵を切る。

 グラバーが最初に艦船の輸入に携わったのは、1864(元治元)年の鉄製蒸気船・カーセージ号を佐賀藩に売却した時からで、以後1868年にグラバー商会が倒産するまでの5年間に24隻(薩摩藩6隻、熊本藩4隻、幕府、佐賀藩、長州藩各3隻、宇和島その他5隻)、合計二十四隻、価額にして168万ドルの艦船を輸入している。これは長崎に輸入された艦船の30%をしめ、2位のウォルス商会の8隻を大きく引き離していた。

 艦船の他にも武器の取引も行っている。1865(慶應元)年、幕府から70ポンド先込砲15門、12ポンド後込砲10門など合計35門の大砲と弾丸700トン(砲弾数10万1200発)、総額18万ドル余の注文を受けアームストロング社へ発注している。小銃の輸入も1865年頃から急激に増加し、1870年迄に長崎で17万2千挺、横浜で32万8600挺、合計約50万挺が輸入された(イギリス領事の報告分のみ)。この期間中のグラバーの取引量の全体は不明であるが、1966〜1967年の2年間の長崎での小銃の取引量は3万3875挺で、このうちグラバーの取引量は1万2825挺(38%)であったという報告がある。

 こうして、グラバー商会は、マセソン商会の強力な資金力を背景に、幕府に対立する薩摩藩や長州藩など西南諸藩に船舶や武器を売って巨額の利益をあげ、長崎最大の武器輸出貿易商として発展していくことになる。このことで、グラバーは、幕末日本の動向に深く関わっていくことになる。グラバーは、いわゆる武器商人として活躍したが、上海で盛んであったアヘン取引には手を染めていない。この事情は解明されていない。

 グラバーの日記には、竜馬が亀山社中の連中と度々グラバーを訪れている事が記録されている。海援隊の前身となった亀山社中からグラバー邸までは、歩いて50分ほどの距離であり、維新の最大の逸材といわれた坂本竜馬は、グラバーの影響を受けていた。長崎で奉行所に追われて逃げ込んできた長州の桂小五郎(木戸孝允)を屋敷にかくまったうえ、夜陰にまぎれて自社の船で脱出させたこともあった。その桂逃亡に使った船はそのまま長州に売りつけている。

 1865(慶應元)年、 大浦海岸に我が国初の蒸気機関車、 英国製のアイアン・デューク号を試走させている。上海博覧会に出品された英国製の蒸気機関車アイアン・デューク号を輸入して、大浦海岸に三百メートルほどの線路を敷き、客車三両をつないで走らせてみせた。「ガラバさんが大浦で陸蒸気(おかじょうき)ば走らさす」の噂は長崎市中に広がって、連日、黒山の人だかりだった。「―汽笛一声新橋を はやわが汽車 は離れたり…」の明治5年の新橋―横浜の鉄道開通よりも実に7年も早い日本デビューだった。

 1865(慶應元)年末、互いに反目しあう薩摩と長州の間を結びつけるために坂本竜馬等が銃・弾薬を調達し、伊藤博文、井上馨と共に、薩摩から融通を受けた船舶で、長州へ運んだ際に、グラバーが便宜を図っている。これが契機となって薩長は連合し討幕、王制復古へ大きく転換していく。

 薩長同盟の為の第一回の会議が行われると、グラバーは長州に対してミニエール銃とゲベール銃7300丁と、軍艦ユニオン号を調達している。グラバーは、薩長同盟を裏で画策していた。グラバーは後に回想談を発表するが、その中で「薩長の間にあった壁を壊したのが、自分の最大の手柄」であり、「徳川政府の謀反人の中では、自分が最大の反逆人であった」と語っている。


 竜馬の「船中八策」の背後にはグラバーから学んだ西洋事情が反映している。あるいは「自由、平等、博愛」のフリーメーソン発想が反映されている。グラバーは、薩長同盟が成立した後、英国大使のパークスに対して徳川家は天皇家に政権を返上した方がいいと進言している。これが、勝海舟と西郷隆盛会談による江戸城無血開城の伏線となる。同時にグラバーも、徳川慶喜保護斡旋の願文を、外国軍勢総督宇和島侯と朝廷に差し出している。これは、大政奉還後も徳川慶喜を敵軍の将として処罰せず、新政府に参加させようとしていた竜馬の考えと通底している。

 1866(慶応2).9月、薩英戦争を戦った薩摩と英国を和解させるため、英国公使ハリー・パークスの鹿児島訪問をお膳(ぜん)立てして自分も随行、大名なみのもてなしを受けている。このときのパークスと島津久光(藩主の父)との会談は、討幕の流れを左右する重要なものだった。明治になって、長州の毛利家が維新史「防長回天史」を編んだ際、編集人の取材に対しグラバーはこう語っている。当初、パークスは幕府の側に立っていたのだが、鹿児島で島津久光と会談してから態度をがらりと変えたと語り、

 「つまり、このグラバーが、日本のため一番役立ったと思うことは、私がハリー・パークスと薩摩、長州の間にあった壁をブチこわしてやったということだ。これが私の一番の手柄だと思う。私は日本の大名たちと何十万、何百万の取引をしたが、私は日本のサムライの根性でやった。徳川幕府の叛逆人のなかでは、自分が最も大きな叛逆人だと思っている」。

 グラバーは彼らの志と気概に打たれて討幕派に肩入れするようになり、とりわけ薩摩藩との関係を深めたことになる。日本の有為な若者たちの海外密航も相変わらず助けていた。薩摩藩の密航船が出港する直前には、急遽帰国した伊藤俊輔(博文)から西洋熱を吹き込まれた高杉晋作が、伊藤と二人分の資金を用意して密航の世話を頼みに来たが、いまは貴殿らは下関開港に努力すべきときだと、高杉らの密航を押しとどめている。その代わり、高杉が推す若者二名を密航させているし、そのほかにも佐賀藩士などを密航させ、長崎奉行所の詰問を受けたが、グラバーはひるまなかった。(「薩英和解お膳立て」参照)

 こうしてみれば、薩長同盟にも大政奉還にもグラバーが深く関与していることになる。この方面でのグラバー研究はもっと為されても良いように思われる。ちなみに、メーソン系の活動は一様ではない。フランスの全権大使として江戸に赴任したレオン・ロッシュは、「グランド・オリエント」(大東社)を代表し、幕府を援助した。横須賀製鉄所を開かせ、幕府の軍制改革に助力している。その反対に倒幕側についたのが、イギリスのメーソン(スコティシュ)のトーマス・ブレイク・グラバーであった、という構図になる。

 1866(慶応2)年、日本の近代化に力を貸そうとしていたグラバーは、親密な五代友厚の依頼で薩摩藩と共同して、長崎湾口に近い小菅(こすげ)にスリップ・ドックの建設に着手した。5400坪の敷地は薩摩藩が負担し、工事費四万ドルはグラバーが出資、機材はアバディーンの工場に発注した。このドックは長さ百十フィート、幅二十四フィートのソロバン型で、修理船をレールに乗せて海面から引き上げる構造で、通称「ソロバン・ドック」と呼ばれた。この小菅修船所は長崎を造船の町とした発祥の地として、現在、その跡が史跡として保存されている。ドック建設中の慶応3年春には、土佐藩から長崎に派遣されてきた下級武士、岩崎弥太郎と親しくなった。これがグラバーと三菱財閥との縁の始まりで、彼の後半生を彩ることになる。 

 操業開始は維新が成った1869(明示2).1月。すでに経営難に陥っていたグラバーは、その直前、明治新政府に12万ドルで売り払っているが、薩摩藩への地代支払いその他で、グラバーが手にしたのは4万ドル弱であった。結局、実利はなかったが、長崎の地に近代的造船の種を蒔いたグラバーの功績は、小菅のソロバン・ドック跡に偲ぶことができる。(「討幕援助が倒産招く」参照)

 1868(慶応4)年初夏、官軍が勝利し、最後の将軍、徳川慶喜が江戸城を明け渡して水戸へ去ったこの年(9.8日、明治に改元)、グラバーはさらに新しい事業に手を伸ばした。彼は以前から長崎湾口の高島炭鉱に注目していたが、ようやく肥前藩の代表、松林源蔵を相手に、グラバー商会が高島炭鉱の開発に当たる協定書を取り交わすことに漕ぎつけた。

 日本で初めて電話線を敷いたのも彼であり、其の功績をあげたらキリがないほどである。


 しかしながら、グラバーは、最後の最後で一敗地にまみれる。ロンドンのグラバ−の友人から大量に兵器を買ったものの、幕末の政情は大政奉還以降急速に「明治維新御親政」で纏まり始め、内戦が回避されたことにより兵器の需要が伸びなかった。加えて、、薩摩藩を筆頭に有力諸藩への掛け売りが多かったが、諸藩は内戦で軒並み財政難に追い込まれ、グラバー商会への返済が滞るようになってしまった。諸藩からの資金回収が滞り、これにより結局大負債を抱える身と為った。更には、戦争が短期間で終わったため、武器、艦船が大量に売れ残り、長崎の大浦倉庫に山積みされる羽目となった。これが伏線となってグラバー商会が没落していくことになる。


【フリーメーソンの動き】
 1866(慶応2)年、日本にメーソンのロッジが初めて設立されている。英国陸軍第20連隊が香港から横浜の居留地警備の為に派遣され、この連隊に軍人結社「スフィンクス」があり、これがアイルランド系の移動式ロッジで、メーソンの儀式を行っている。アメリカ、カナダの植民地時代も、こうした軍隊の移動式結社が各地で展開され、その地にメーソンが浸透していった。「スフィンクス」のメンバーは、やがてメーソンの英外交官や貿易商と共に移動式ではなく、本格的なロッジを望む様になり、1865年、本国に新ロッジの設立を申請している。翌年の1866年にそれが認可され、横浜に初ロッジが創立された。第1回集会には、スコティシュ系メーソンの西インド地区の前副棟梁カートライトが出席し、初代ロッジ長にはウィリアム・モタ、二代目ロッジ長には英国近衛連隊将校G・M・スマイスが任命されている。こうして正式のロッジが横浜に設立されてからというもの、日本各地にい次々とロッジが開設された。

 この事実は、1966年、横浜のプリンスホテルで、「日本フリーメーソン・ロッジ百周年記念」式典が開かれたことで判明した。出席者は約200人で、その内の2/3が在日外人だった。この時、径5センチ程の銀の記念メダルが会員に贈呈されたが、そのメダルにはメーソンのマークと1866年〜1966年という年代が刻まれていた。

 メーソン系の動きは次の史実でも裏付けられている。その他、フランス人でベルギーのメーソンだったシャルル・ド・モンブランは、薩摩藩の五代才助(友厚)に近づき、1865年、ブリュッセルで五代と共に商社を設立している。又、薩摩藩からパリ万国博覧会の事務総長に任命されたりしている。

 プロシア(独逸)のメーソンであったエドワルド・スネルは、長岡藩の河井継之助に接近して、長岡城の戦い(1868年、官軍との戦い)を援助している。戊辰戦争の最後の戦いとなった五稜郭の戦いでは、フランスのメーソンのブリュネが、榎本武揚ら徳川家臣幹部と共に五稜郭に立て籠もり、最後まで官軍に抵抗し敗れる。

 これらの動きを見れば、明治維新は、フランスを中心とするヨーロッパ系メーソンと、大英帝国系メーソンが触手を伸ばしていた中での代理戦争だった観がある。「メーソン特有の”両面作戦”がとられた。そして結果的にはイギリス系のメーソンが勝利を収めたのである」と評されている。


 (関連サイト「フリーメーソン日本史」)


【グラバーと明治】

 グラバーは、明治維新以降の政情に新たな関わりを見せている。明治新政府が樹立され、このような歴史の転換点に立って、グラバーは1867年頃から自身のビジネスを商業資本的な形態から産業資本への転換を図ろうとする。グラバーは、明治初期の経済産業の発展に大きく貢献しており、日本の近代化に大きな功績を残している。

 1868(明治元).6月、 佐賀肥前藩との共同出資により長崎の高島炭鉱開発に着手している。豊富な石炭は近代産業に不可欠のものであり、良質炭を多く埋蔵する高島炭鉱は巨大な富の源泉になると見抜いていた。高島は長崎の南西海上約14.5qの所にあり、当時は佐賀藩の支藩である深堀藩の所領で、18世紀の始めごろから石炭の採掘が行われていた。炭鉱開発契約は、販売をグラバー商会が担当し、売上高から鉱山採掘料が佐賀藩に支払われ、その他経費を差し引いた利益は折半するというものであった。

 肥前藩との契約で経営権を握ったグラバーは、早速イギリス人技師モーリスを雇い入れ、イギリスの採炭機械を導入して、百五十尺の竪坑開さくに着手した。これが日本の炭坑史上、画期的な北渓井(ほっけいせい)坑で、明治二年四月、厚さ八尺の炭層に達し、本格的な採炭が始まった。

 資金のない佐賀藩は出資金はほとんど払わず、おまけに別に契約していた蒸気船ユージン丸と武器支払い残額も将来の佐賀藩の取り分から支払うというもので、グラバー商会の資金的負担は巨額なものであった。それでも、石炭需要の増大と炭鉱の将来性を見込んだグラバーは、近代的な採炭掘用機械設備をイギリスに発注し、イギリス人技師を雇い入れて立坑の開鑿に着手し、1869(明治2).12月、1年半に及ぶ難工事の末ようやく操業に成功した。

 グラバーは横浜のジャーディン・マセソン商会に多額の資金援助を受けていたが、返済できなければ、抵当として押さえていた高島炭鉱を流質処分にすると迫られた。窮したグラバーは明治3年8月、英国領事裁判所に破産を申告、ここに幕末動乱の風に乗って輝かしい歴史を綴ったグラバー商会は幕を閉じた。負債総額は50万ドルに達していた。

 だが「グラバーは死せず」だった。グラバー商会は消えても、彼が開発した高島炭鉱との縁は切れず、実質的な経営者として残り、明治14年(1881年)、岩崎弥太郎の三菱商会が経営権を握ると、弥太郎から高島砿業所所長に任命され、グラバーは後半生を三菱とともに歩むことになる。西欧の先進技術を導入して開発した高島炭鉱はやがて三菱商会のドル箱となり、その功績でグラバーは、高島炭鉱から去ったあとも、生涯、三菱の顧問として厚遇されることになる。

 グラバー商会の倒産後、高島炭鉱は最大の債権者であったオランダ貿易会社と佐賀藩の経営となった。炭鉱の操業は比較的順調で、明治3年には年産1,800トン以上の良質炭を生産し、アメリカ、フランス、ロシア海軍や太平洋郵船などの海運会社に対して販売するようになった。

 グラバーが高島炭鉱開発に着手した1868(明治元)同年、薩摩藩及び薩摩の五代友厚との共同出資で長崎・小菅に修船場建設に着手している。小菅修船場は船舶修理のためのソロバン・ドッグ(我が国最初の様式ドッグで、入江を利用したスリップ式造船施設)を持った工場で、これが日本の造船技術の始まりとなった。明治元年の完成とともに明治新政府に売却されている。

 グラバー商会による高島炭鉱計画は成功するかにみえたが、同商会を構成していたグラバー、グルーム、ハリソン、ホームの4名によるパートナーシップの期限が1869(明治2).12月末日に到来し、直ちに解散することとなった。グラバーが一人でその債務を引き継ぐこととなり、資金繰りが一挙に苦しくなり、1870(明治3).8月、長崎のイギリス領事法廷で破産宣告され、倒産した。負債総額は87.400ドルであった。日本で初めて電話線を敷いたのもグラバであり、その功績をあげたらキリがないほどであると云われている。

 グラバーは、商会倒産後もしばらくの間高島炭鉱の操業に従事したが、貿易商の仕事からは身を引き、長崎クラブの書記やポルトガル領事を勤めるなど引続き長崎居留地自治会の指導的立場にあった。

 明治政府は、1873(明治6)年に日本坑法を公布して外国人の日本国内における鉱山所有権を禁止し、オランダ貿易会社より洋銀40万ドルで高島炭鉱を買収した。その後後藤象二郎に払下げられた後、1881(明治14)年に三菱の岩崎弥太郎が引き取り、わが国の最大の炭鉱へと発展していった。高島炭鉱は石炭から石油へのエネルギー転換により1886(昭和61).11月に閉山されるまで貢献した。


【晩年のグラバー】
 グラバーは明治9年から東京飯倉の狸穴町に転居したが、同13年に長崎に戻り、後藤象次郎の高島炭鉱の支配人に就任した。しかしながら、後藤が経営する高島炭鉱は必ずしも順調ではなく、翌1881(明治14)年、官営事業払い下げ後、三菱商事の創立者・岩崎弥太郎によって買収されている。グラバーは買収されてからも所長として経営に当たった。

 明治19年、再び上京し、芝公園53番地に居を定め、明治16年に開館した鹿鳴館の書記などを勤めた。明治26年、三菱合資会社の特別役員(終身顧問)となっている。この時の待遇も破格のもので、最高役員の2割増の給与を得ている。

 この頃、横浜居留地内で売りに出されていたわが国最初のビール工場を数名の外国人と共に買収し、ジャパン・ブリュワリー・カンパニーを設立し取締役に就任している。 「キリンビ−ル」を発売し、これが後の麒麟麦酒株式会社(明治40年設立)となる。

 グラバーは、事業意欲が衰えたのち、 東京麻布で菱の顧問をしながら華族待遇として余生をおくる身の上となった。日本政府から、 外国人としては最初に、 1908(明治41).7.10日、在日外人にしては破格の栄誉である勲二等旭日重光章が贈られた。伊藤博文は晩年のグラバーに対して芝公園の邸宅を寄贈している。

 大正15年には、天皇皇后両陛下が赤坂離宮御苑で開いた親菊会にも招待されている。


 1911(明治44).12月、慢性腎臓炎となり73歳で死去。日本在住50余年。墓は、長崎市坂本町の国際墓地にある。 

【グラバー家のその後】
 グラバーは慶応3年ツルと結婚し長女ハナを設けたが、男児がなかったため庶子・富三郎を跡継ぎとした。富三郎(1870〜1945)は、倉場富三郎と名乗り、学習院を卒業しペンシルヴァニア大学で生物学を学んだ後帰国して、長崎汽船漁業会社を設立、トロール漁法を導入し、わが国の漁業の近代化に貢献すると共に『日本西部及び南部魚類図譜』作成の基礎を作った。

 1945(昭和20).8.26。グラバーとツルの息子にして・グラバー邸二代目当主の倉場富三郎が、グラバー邸近くで自殺した(74歳)。





(私論.私見)