451 天理教教祖中山みきの研究37 (1866年)(慶応2年)(教祖69才)

【真之亮の誕生】

 斯くして教勢頓に伸びゆくうちに、いちの本の梶本家へ嫁いでいたみきの三女おはるが、後に初代真柱となる真之亮を身籠ることとなった。教理では、先に飯降伊蔵のお引き寄せを見たが、この度の真之亮の身籠りも又深い神意に基づいたものであったとされている。こうして慶応2年(1866年)の春を迎え、この年5.7日、梶本家三男として真之亮が誕生した。

 これより先、おはるが懐妊した時から、既にみきは、「今度おはるには、前川の父上の魂を神が宿し込んでおいたで。これを真之亮と名付けてぢばに連れて帰り、道の真柱とするのやで」と仰せになって、その誕生を待ち兼ねられていた、と云われている。案のごとく玉のような男の子が生まれたので、早速このことをお知らせすると、大層お喜びになり、「先に長男亀蔵として生まれさせたが、長男の為親の思いが掛って、貰い受ける事が出来なかったので、一旦迎えとり、今度は三男として同じ魂を生まれさせた」、「今なる真柱は、木に譬えて言えば細いものや。なれど外から肉を巻けばどんな偉いものになるや知れんで」と仰せになって、真之亮と命名された。これが後の初代真柱中山新治郎誕生のいきさつであるとされている。聞かせて頂くところによると、この年から12年前安政元年おはるが長男亀蔵を生んだ時、既に「この者は道の真柱となるいんねんの者であるから、やしきへ貰い受けたい」という様な意味のお言葉を仰せ下されていたが、おはるは充分にその理を悟れぬままに(我が家の相続人であるから差し上げることは出来ないという思いで)過ごしていた。ところが1860年(安政6年)亀蔵は6歳で出直した。その時、みきはその遺骸をお抱きになって、「これは庄屋敷の真柱真之亮やで」と仰せになったと言われている。斯くて7年の後、真之亮誕生に際して、これこそ先の亀蔵の生まれ替わりである事をお聞かせ頂いて、人々は今更のごとく「奇しきいんねんの理」に粛然としたのであった。みきのこの「お話し」が事実であるとすれば、みきが「輪廻転生」論を説いていた例証になる。私は、後の応法派による脚色説話ではないかと訝っているが、いずれにせよ定かではない。


 秋頃、小泉村(大和郡山市)不動院の山伏らが狼藉。この頃、「あしきはらひ」の「おつとめ御言葉」と御手振りが教えられる。
 



諸藩士のお屋敷来訪

 ここまでの「お道」の歩みを通じて、みきへの信頼と敬慕は益々強く深くなっていくと共に、その範囲も次第に拡大されていった。若井村の松尾市兵衛が、その妻はるの産後の患いをお助け頂いて入信したのもこの年であった。なお、この頃の道の動きの中で特に見逃すことの出来ない顕著な事実はお屋敷に参詣する人々の顔ぶれが、単に百姓ばかりでなく、芝村藩、高取藩、郡山藩、柳本藩、古市代官所(藤堂藩)、和爾代官所等に所属する諸藩士が数多く現れてきた事である。即ち、「お道」の信仰者が、武士階級の中にまで拡がっていったという事実である。既に世は幕末とは言いながら、未だ士農工商という階級制度は、厳として持続されていた時代である。身分、格式、面子という様な外面的、形式的なものが、強く人心を支配していた時代である。こうした時代に、武士が町人百姓の中に唱導されていた教えに、素直に耳を傾けるという事は、洵に希有の事と申さねばならん。

 
これを思えば、如何にみきの評判とその教えに魅力があったかを拝察することが出来る。恐らく、みきの珍しい助けと、その説かれる「心の入れ替えによる世の立て替え、世直し」の教えが、不安と動揺の中にあって、明日への理想を見失っている武士たちの心に強く関心を抱かせたものと思われる。こうして、「お道」の黎明は愈々輝かしく世の暁闇を照らし始めた。



 この頃、岡本重治郎が教祖より黒骨の扇の授けを頂いている。

 飯降伊蔵夫婦の間に長女誕生。「教祖もお喜びになって、『伊蔵さん、何でも良き事はよしよしと云うのやから、よしゑやで』と仰せられたので、『よしゑ』と命名した」と伝えられている。


 (当時の国内社会事情)
1866年 慶応2年  1.21日、薩長連合の密約が成立。この日から、薩摩と長州が幕末の動向の鍵を握ることになった。その立役者は、土佐藩の坂本竜馬と中岡慎太郎であった。「龍馬にすれば、世界から見れば日本は梅干みたいなもの、またその中から長州だの薩摩だのと、小さなことにこだわって大局的に物事を考えない奴の方が大馬鹿者だ。幕府ときたら公の政治どころか、私の徳川家の延命を決め込み、どこを見渡しても人材不足、この期に及んでもまだ己の出世を追い求めている。こんな幕府は一日も早く葬らなければ、日本丸は沈んでしまう。一刻も早く手を打たなければ西洋の餌食にされてしまう。それには薩長同盟を成立させ、幕府に代わる組織を確立させなければならない。」(木村幸比古「日本を今一度せんたくいたし申候」99P)。

 長年の怨恨が尾を引き容易なことでは成立しなかったが、遂に西郷が「薩摩は日本を救うために長州を全面に援助する」と言葉を発し、これが証文となって薩長同盟へと一気に進んだ。密約のため不文であるが、長州による対幕府戦争において予想される事態に対して薩摩の陰に陽にの長州支援策6か条の取り決めが為された。坂本竜馬がこの立会人として「すこしも相違これなく候。後來といえども決して変わりごと之なきは神明の知るところに御座候」と一筆している。これによって長州の反薩摩感情が一掃し、天下の形成が倒幕一色に塗り替えられていくことになった。
 2.23日、龍馬、深夜寺田屋にいるところを幕幕府吏に襲われ負傷。寺田屋事件起きる。坂本竜馬危うく捕縛されんとするも危地脱出する。3月、お竜と結婚し鹿児島にて新婚旅行を楽しむ。
 6.6日、高杉晋作が長州の海軍総督に就任。
 6.17日、幕府と長州の下関海峡での海戦に、ユニオン号の船将として長州軍に加わる。高杉晋作と会談。
 この頃、江戸と大阪に打ちこわしが起こる。全国で百姓一揆も盛んとなる。
 7月、第二次幕府対長州戦争。
 8月、将軍家茂死去のため、幕府長州征伐を中止。
 12.5日、慶喜が将軍職に就く。

 (当時の対外事情)

 (当時の海外事情)
 プロシア・オーストリア戦争起る。

 (宗教界の動き)




(私論.私見)