尾崎紅葉の生涯履歴

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.3日

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 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝


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【生涯履歴】
 「ウィキペディア尾崎紅葉」その他参照。

 1868年1月10日(慶応3年12月16日) - 1903年(明治36年)10月30日)は、日本の小説家。幸田露伴と並称され(紅露時代)、明治期の文壇に重きをなした。

 1868年1月10日(慶応3年12月16日)、江戸(現東京都)の芝中門前町(現在の芝大門)に生れる。「紅葉」はペンネームで、本名は徳太郎。父は幇間で根付師の尾崎谷斎(惣蔵)、母は庸。もともと尾崎家は伊勢屋という商家であると推定されるが、惣蔵の代には既に廃業していたようである。紅葉は父の職業を恥じ、親しい友人にもその職業を隠していた。伊勢屋は呉服屋説と米問屋説があるが不明である。

 1872年(明治5年)、母と死別し、母方の祖父母荒木舜庵、せんの下で育てられる。寺子屋・梅泉堂(梅泉学校、のち港区立桜川小、現在の港区立御成門小)を経て、府第二中学(すぐに府第一中と統合し府中学となる。現在の日比谷高校)に進学。一期生で、同級に幸田露伴、他に沢柳政太郎狩野亨吉らがいたが、中退。

 愛宕の岡千仭(岡鹿門)の綏猷堂(岡鹿門塾)で漢学を、石川鴻斎の崇文館で漢詩文を学んだほか、三田英学校で英語などを学び、大学予備門入学を目指した。

 紅葉の学費を援助したのは、母方荒木家と関係の深い横尾家であった。紅葉が1899年(明治32年)に佐渡に旅した際に新潟で立ち寄ったのが、大蔵官僚で当時は新潟の税務署長をしていた横尾の伯父(母庸の姉婿)であり、紅葉の三女三千代は、荒木家(母庸の弟)に養女に出された後に、横尾の伯父の養子・石夫(海軍軍人)に嫁いでいる。石夫の実父(養父の兄)は内務官僚であったが、安濃郡長(島根県)の時に若くして亡くなった。石夫の弟に東京帝国大学教授の安夫がいる。

 1883年(明治16年)9月、東京大学予備門に入るが、それ以前から緑山と号して詩作にふけり、入学後は文友会、凸々会に参加し文学への関心を深めた。 「縁山」、「半可通人」、「十千万堂」、「花紅治史」などの号も持つ。

 1885(明治18)年2月、山田美妙石橋思案丸岡九華らとともに硯友社を結成、5月、回覧雑誌『我楽多文庫』を発刊した。最初は肉筆筆写の雑誌だったが、好評のために活版化するようになった。

 1886年(明治19年)、大学予備門の学制改革により第一高等中学校英語政治科に編入される。

 1887年(明治20年)4月、東京女子専門学校で漢学の教師のアルバイトをする。

 1888年(明治21年)、帝国大学法科大学政治科に入学、翌年に国文科に転科し、その翌年退学した。この前年の末に、大学在学中ながら読売新聞社に入社し、以後、紅葉の作品の重要な発表舞台は読売新聞となる。「伽羅枕」「三人妻」などを載せ、高い人気を得た。このほか「である」の言文一致を途中から試みた「二人女房」などを発表。幸田露伴とともに明治期の文壇の重鎮となり、この時期は紅露時代と呼ばれた。

 この年、『我楽多文庫』を販売することになり、そこに「風流京人形」を連載、注目を浴びるようになる。しかしその年、美妙は新しく出る雑誌『都の花』の主筆に迎えられることとなり、紅葉と縁を絶つことになった。

 1889年(明治22年)、「我楽多文庫」を刊行していた吉岡書店が、新しく小説の書き下ろし叢書を出すことになった。「新著百種」と名づけられたそのシリーズの第1冊目として、4月、紅葉の「二人比丘尼 色懺悔」(ににんびくにいろざんげ)が刊行された。戦国時代に材をとり、戦で死んだ若武者を弔う二人の女性の邂逅というストーリーと、会話を口語体にしながら、地の文は流麗な文語文という雅俗折衷の文体とが、当時の新しい文学のあらわれとして好評を博し、紅葉は一躍流行作家として世間に迎えられた。この頃、井原西鶴に熱中してその作品に傾倒。写実主義とともに擬古典主義を深めるようになる。『初時雨』昌盛堂 1889。『風流京人形』好吟会 1889。

 1890年(明治23年)、帝国大学を退学。「伽羅枕」執筆。『此ぬし』春陽堂 1890。『新桃花扇・巴波川』吉岡書籍店 1890。『紅鹿子』春陽堂 1890。『伽羅枕』(きゃらまくら)(1890年、読売新聞)1891年春陽堂刊行。お仙は、祇園の芸子と京在勤中の旗本水野石見守とのあいだの子だが、母の死後、米相場師西岡屋に養われ、贅沢に育てられる。十二歳で養家が破産し、「玉の輿への踏台」と島原の禿に売られ、十六歳で大阪の隠居に身請けされ、そして死別し、京在勤中の武士の妾になる。父に会いたい願いから、せがんでともに江戸に下るが、まもなく忘れ形見ひとりを残してその武士は死亡する。途方に暮れて石見守邸を訪ねると、父は十七年前に死去していた。大身の奥方になっている異母姉が、自分を懐かしがっていると聞き、上野山下で待ち合わせしていると、供の者に叱られて、駕籠に乗っている姉に近寄れない。二十二で、生きるためと、反発と対抗心から赤子を里子に出し、吉原に身を沈め、花魁佐太夫になる。波乱万丈の年月を遊女の意気と手管で送り、二十八で甲府に落ち、挙げ句の果てに鰍沢で六十七のハンセン病の老人の召使いになり、「作りける罪の無量なるを消滅せしむるため」の心願で、親切に看病し、全快させる。ふたたび男は持たぬと黒髪を切り、六十二のきょうまで団子坂の寮にこもって三十四名の遊客の亡魂を祀る。

 1891年(明治24年)3月10日、樺島喜久と結婚。

 1892年(明治25年)3月、「三人妻」を読売新聞に連載。「二人女房」執筆。『夏小袖』春陽堂 1892。「おぼろ舟」「むき玉子」1892年。『三人妻』(1892年)。『裸美人』1892年。

 1893年(明治26年) 1月10日、長男弓之助が生れる(早逝)。6月、「心の闇」を読売新聞に連載。

 1894年(明治27年) 2月3日、長女藤枝が生れる。同21日、父惣蔵死去。『をとこ心』春陽堂 1894年。『恋の病』春陽堂 1894。『片靨』小栗風葉共著 春陽堂 1894年。『隣の女』1894年。

 1895年(明治28年)、『源氏物語』を読み、その影響を受け心理描写に主を置き『多情多恨』などを書いた。『やまと昭君』1895年。『不言不語』(いわずかたらず)(1895年)岩波文庫、1952。

 1896年(明治29年) 2月、「多情多恨」を読売新聞に連載。3月10日、次女弥生が生れる。『青葡萄』。

 1897(明治30)年1月、「金色夜叉」の連載が読売新聞で始まる。貫一とお宮をめぐっての金と恋の物語は日清戦争後の社会を背景にしていて、これが時流と合い、大人気作となった。以後断続的に書かれることになり長期連載となる。


 1899年(明治32年)から健康を害した。6月、療養のために塩原や修善寺に赴むく。7月から8月にかけて新潟へ赴く。

 1900年(明治33年)3月26日、三女三千代が生れる。

 1901年(明治34年)5月、療養のために修善寺へ赴く。同20日、次男夏彦が生れる。

 1902年(明治35年)、読売新聞社を退社し、二六新報に入社。

 1903(明治36)年、に『金色夜叉』の続編を連載(『続々金色夜叉』として刊行)したが、3月、胃癌と診断されて中断。

 同年10.30日、東京府東京市牛込区横井町(現在の新宿区横寺町)の自宅で胃癌により死去(享年37歳、35歳?)。『金色夜叉』は未完のまま没した。戒名は彩文院紅葉日崇居士。紅葉の墓は青山墓地にあり、その揮毫は、硯友社の同人でもある親友巌谷小波の父で明治の三筆の一人といわれた巌谷一六によるものである。尾崎紅葉の葬式の行列を志賀直哉は、見送っている。随筆で「紅葉山人のものは、よく読んでいたから、敬意を持って行列を見送った」と書いている。

  20歳代で多くの弟子を抱えた。特に泉鏡花徳田秋声小栗風葉柳川春葉の四人は藻門下(紅葉門下)四天王と呼ばれた。他に田山花袋。江戸っ子気質そのままの性格で、弟子たちにはやさしい半面、短気な面もあり、よく小言を言っていた。だがその叱り方は口の悪さと諧謔さが混ざり合った独自のもので、泉鏡花ら弟子たちは叱られる度に、師の小言のうまさに感心した。大正を待たずに35歳でこの世を去った尾崎紅葉。これほど短い人生でありながら天才弟子の泉鏡花ですら紅葉を越えることはできなかった。一門を率いた尾崎紅葉は偉大なる明治の文豪でした。俳人としても角田竹冷らとともに秋声会を興し、正岡子規と並んで新派と称された。

作家評
 紅葉の作品は、その華麗な文章によって世に迎えられ、欧化主義に批判的な潮流から、井原西鶴を思わせる風俗描写の巧みさによって評価された。しかし一方では、北村透谷のように、「伽羅枕」に見られる古い女性観を批判する批評家もあった。国木田独歩は、その前半期は「洋装せる元禄文学」であったと述べた。山田美妙の言文一致体が「です・ます」調であることに対抗して、「である」の文体を試みたこともあったが、それは彼の作品の中では主流にはならなかった。ただし、後年の傑作『多情多恨』では、言文一致体による内面描写が成功している。

 紅葉は英語力に優れ、イギリスの百科事典『ブリタニカ』を内田魯庵の丸善が売り出した時に、最初に売れた3部のうちの一つは紅葉が買ったものだったという(ブリタニカが品切れだったのでセンチュリー大字典にした、とも。死期が近かった紅葉にとっては入荷待ちの時間が惜しかったようで、センチュリーの購入は紙幣で即決しており、内田魯庵はそれを評して「自分の死期の迫っているのを十分知りながら余り豊かでない財嚢から高価な辞典を買ふを少しも惜しまなかった紅葉の最後の逸事は、死の瞬間まで知識の要求を決して忘れなかった紅葉の器の大なるを証する事が出来る。(中略)著述家としての尊い心持を最後の息を引取るまでも忘れなかった紅葉の逸事として後世に伝うるを値いしておる。」と評している)。その英語力で、英米の大衆小説を大量に読み、それを翻案して自作の骨子として取り入れた作品も多い。晩年の作『金色夜叉』の粉本として、バーサ・クレイの『女より弱きもの』が堀啓子によって指摘された。


【金色夜叉あらすじ】
 本作は連載当時から人気を博し、現代でも多くのファンに読まれています。何度も映画化やテレビドラマ化されたことでも有名。熱海のサンビーチにある、貫一がお宮を蹴るシーンの像は、有名な観光名所の1つです。 『金色夜叉』の舞台の一つである静岡県熱海市は「尾崎紅葉祭」を開いており、2019年には記念碑を建立した
 尾崎紅葉の長編小説。 1897年(明治30)1月1日~1902年5月11日『読売新聞』に断続連載。03年1~3月『新小説』に『読売』連載の終わりの一部を『新続(しんしょく)金色夜叉』として再掲のまま、未完中絶。1898~1903年春陽堂刊、5冊、未完に終る。空前の人気作で,漸次刊行され、早く1898年3月市村座(いちむらざ)初演され、以来たびたび新派劇で上演されて圧倒的な人気を博し、伊井蓉峰(ようほう)、高田実(みのる)らの当り芸としてうたわれた。流行歌を生むなど,未完中絶ながら,作者の名を不朽にした明治文学を代表する未完の大作名作である。

 登場人物は次の通り。
間貫一  主人公。15歳で両親と死に別れて、鴫沢家に引き取られた青年。高等中学に進学し、将来が約束されています。ゆくゆくは鴫沢家の娘であるお宮と結婚するつもりでいた。しかし彼女に裏切られたあとは人間を信じられなくなり、高利貸しの手先として生計を立てます。
鴫沢宮  主人公の元許嫁。鴫沢家の娘で、貫一の元許嫁であったが、大富豪の富山に見初められ、心変わりし嫁ぐ。その後は子どもが死ぬなど、さんざんな目に遭う。彼女が貫一に蹴飛ばされているシーンは、本作でもっとも有名な場面で、銅像にもなっている。
富山唯継  大富豪の息子で、美しい女性を好むことで有名な人物。かるた会で宮を見初めて、嫁にしようとします。彼の名前は「富をただ継ぐだけ(親の財産をゆずりうけるだけで、能力や才能はない人物)」という洒落になっています。
 15歳で両親と死に別れた間(はざま) 貫一を、鴫沢 (しぎさわ) 家の当主の隆三が、貫一の父に世話になった恩返しとして引き取り育てることになった。鴫沢家には絶世の美女の名声が相応しいお宮がおり、二人は10年を一緒に過ごしていた。貫一は学問に優秀で性格も気風も良く鴫沢家に気に入られた。貫一が高等中学へ進学したのを機に、大学を卒業し学士となって生活が立つようになったら鴫沢家の誉れの美人娘である宮と結婚し、鴫沢家を継ぐとの約束が鴫沢家公認で成立した。こうして宮は貫一の許婚(いいなずけ)になった。ここまで、貫一もお宮も鴫沢家も順風満帆だつた。

 ある日、かるた会で、富山銀行の跡取り息子の地位の富山唯継(とみやまただつぐ)が、当時最高級品だったダイヤモンドの当時三百円もする特大級のものを指に嵌め、高級香水臭を放ちながら現れ、絶世の美女の宮を見初め、結婚相手として白羽の矢を立てた。鴫沢の両親と宮が、大富豪御曹司の富山の求婚に目がくらみ、許婚(いいなずけ)であった間 (はざま) 貫一を捨て、富山との結婚に向かい始めた。宮と母が熱海行き思い立ち行った留守に、鴫沢家の主の隆三が、貫一に宮との結婚を諦めるよう説得した。婚約者の富山が宮の熱海行きを聞きつけ向った。偶然かどうか定かではないが貫一も熱海へ向かった。 許婚(いいなずけ)を奪われることになった貫一がやって来た。富山と貫一が鉢合わせしたが、富山が仕事の所要で東京に帰り、貫一とお宮が夕闇の熱海の海岸を歩き始めた。貫一は宮をなじり、翻意を乞うが要領を得ず、宮の意志としても富山と結婚する気であることを知った。貫一は思わず宮を蹴飛ばす。

 「ああみいさん、かうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処どこでこの月を見るのだか! 再来年さらいねんの今月今夜……十年のちの今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」。

 翻意を促す貫一と宮のやりとりが続き、宮の「嗚呼ああ、私はどうしたら可からう! もし私が彼方あつちつたら、貫一さんはどうするの、それを聞かして下さいな」の口上の後、。木を裂く如く貫一は宮を突放して、「それぢや断然いよいよお前は嫁く気だね! これまでに僕が言つても聴いてくれんのだね。ちええ、はらわたの腐つた女! 姦婦かんぷ※(感嘆符二つ、1-8-75)」。その声とともに貫一はあしを挙げて宮の弱腰をはたと※(「足へん+易」、第4水準2-89-38)たり。地響して横様よこさままろびしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣伏したり。

 この後、最後の口上をした貫一は、直後に卒業目前に高等中学を退学し、鴫沢 (しぎさわ) 家を去り、行方をくらました。貫一は金貨で負けた恨みを金貨で見返そうとしてか、人から嫌われる高利貸し業の世界に身を預けた。鰐淵(わにぶち)直行の手代となとなって働き始めた。貫一は、世に対する憤懣を高利貸業で果たさんとしてか、取り立ての鬼と化し仕事に精出した。その様は、高等中学の同級生にも牙をむいていた。親友荒尾の忠告にも耳を傾けない。

 4年後、新橋のステーションから、貫一の親友で卒業して法学士となった荒雄は愛知県参事官として赴任しようとしている。友人4人が見送りに来て話が盛り上がる。赤樫という60過ぎの高利貸しのところに借金のかたに奉公しているうちに手をつけられ妻にされ、いまはやり手となった「美人クリーム」(「高利貸し」(氷菓子)をもじったシャレ)とあだ名される美人高利貸し(満江)の話で盛り上がる。途中、荒雄は貫一を見かけたように思うのだが、すぐに姿はみえなくなる。貫一は親友の旅立ちを見送りに来ていたが、気づかれまいと身を隠した。赤樫満江はそんな貫一に独立を援助すると言う。わけは貫一にぞっこんだからというのである。宮に裏切られた貫一は女には興味がないと答える。
 貫一を裏切って富山家に嫁いだ宮は金銭的な豊かさを手に入れたが、夫に愛情を感じることができなかった。妊娠し長男を生んだが肺炎で死に、以来子宝に恵まれなかった。この頃、貫一を捨てたことに対して鬱々とし始め、徐々に精神的に苦しむことになっていった。そんな折のある日、夫に連れられて田鶴見子爵邸を訪れる。子爵の双眼鏡というものをのぞかせてもらった宮は、離れに貫一を見つける。じつは子爵は裏で高利貸しに資金援助をしており、そのため貫一が来ていた。二人は4年ぶりのすれ違いざまの再会をする。直後、写真撮影の途中で宮は気を失い倒れる。
 後編

 他方、深夜、片側町の坂町の暗い道で、貫一は恨みをもつ2人組に襲われ、重症を負う。貫一の遭難は新聞に報道される。入院中の貫一を満江が頻繁に訪れている。そこへ貫一の育ての親ともいえる鴫沢隆三がやってくるが、貫一は顔を合わそうとはしない。

 貫一の留守の間に、鰐淵の家に、鰐淵によって息子雅之が連帯保証人の公文書偽造の罪に落とし込められて刑務所にいれられた老女が、毎日のようにやって来て鰐淵の首を寄こせと言う。ある風の強い日、今日はあの気違いが来なかったと、安心して夫婦が寝込んだ夜に、老女の放火によって鰐淵の家は焼失し、夫婦は焼死する。

 放火で死んだ鰐淵の息子直道と荒尾譲介の助言により、間貫一は高利貸しを辞める決意をする。
 続金色夜叉

 あいかわらず高利貸しをしている貫一は、義理ある人のために職を失い借金を背負った荒雄に会う。その後、荒雄が来たと言うので、迎えると、それは、久しぶりに会うお宮だった。お宮は自分の罪をわび、貫一にすがりつき、貫一に許しを請うが貫一は許さなかった。その後、お宮は手紙を何度も寄越すが、それも聞かれなかった。

 ある日、宮がやって来る。そこに満江がやって来て、騒動となる。

 その夜、貫一は、お宮が自害して自分も死ぬ、夢をみて目が覚める。

 続続金色夜叉

 気分転換に那須に行った貫一はそこで借金のための心中しようとする男女を助ける。じつは、二人は、富山唯継に身請けされそうになった、お静と、それを救おうと大変な借金をせおってしまった狭山であった。貫一は二人の借財を代わりに払い、二人を引き取る。
 新続金色夜叉

 物語は、いきなり、お宮が貫一に宛てた候文の長い手紙の文章で始まる。お宮は後悔し許しを乞う。助けた男女を使用人にしている貫一は、ようやく宮からの手紙を開封する気分になった。お宮の手紙を読みながら思案に暮れる。さらにお宮の家人から手紙が来て、お宮は自責の念から自分は死につつあるという。ここで作者尾崎紅葉の死により絶筆となった。
 この間、日清戦争後の社会を背景に間(はざま)貫一とお宮をめぐる金銭と恋愛の問題が巧みに描かれている。その後、熱海の海岸で3人は出会う。作者の死で未完に終った。

 日本の資本主義社会発展途上期において、資本主義社会の不滅の主題たる金銭の人間破壊を正面からとらえ、恋愛感情を凌ぐ金銭欲、物質欲の魔性ぶりが見事に描かれている。「愛と黄金」のテーマが時代に迎えられ,演劇 (1898年市村座初演,新派の当り狂言) ,映画,流行歌などでもてはやされた。明治期の小説中最も広く読まれたものの一つである。

 金色夜叉の唄__演歌師が歌う__オジンのカラオケ番外編
 金色夜叉 ♪東海林太郎・松島詩子




(私論.私見)