「読売新聞社史考」そのA正力の背後勢力考

 (最新見直し2007.3.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 正力松太郎の生態はもっと研究されて良いように思われる。内務省特高課(戦前日帝の諜報・弾圧機関)の創設者にして終始黒幕で在り続けた後藤新平に見出され、米騒動、関東大震災時の「暗躍」で「血塗られた強固な同盟」が確立する。以下、この関係を追跡する。

 木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」「中曽根、正力、渡辺、児玉…」その他を参照した。

 2004.8.18日 れんだいこ拝


 (情報整理中)

【後藤新平の履歴(1857〜1929)】
 岩手県水沢市の小藩出身。幕末の蘭学者高野長英の親族。須賀川医学校を卒業して医師となりも愛知県立病院長を経て内務省に入る。1892年衛生局長(現在の厚生省事務次官)。その間ドイツに留学し、プロイセン国家の統一ドイツ建国過程をつぶさに見て、ビスマルク政治に憧憬したと伝えられている。1895年日清戦争で台湾を割譲させたが、4代目台湾総督になった児玉源太郎が後藤を見出し民政長官となって赴任。後藤は、「アメと鞭を併用した辣腕政治」で判明するだけで抗日ゲリラ1万1千余名を虐殺している。結果的に「台湾島民の鎮圧と産業開発で名声を高めた」。

 後藤は、台湾総督府初代民政長官を皮切りに、以後、1906年満鉄初代総裁、1908(明治41)年桂太郎内閣の下で逓信大臣兼鉄道院総裁、1916(大正5)年寺内正毅内閣の下で内務大臣、続いて1918(大正7).4.23日外務大臣、山本権兵衛内閣の下で内務大臣再任を歴任し、晩年に伯爵の位を得ている。植民地政策の統合参謀本部・満鉄調査部を設置したのも後藤である。未解明であるが、阿片政策にも手を出しており、その収入が機密費として縦横に駆使された形跡がある。

 その政治的軌跡は、伊藤博文の後継者。後藤は言論統制に著しく関与している。

 1919(大正8)年、後藤は、寺内内閣の総辞職を機会に欧米視察の旅に出た。訪問先はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、オランダ。帰国するやいなや、「大調査機関設立の議」建白書を政府に提出している。これは、アメリカのCIA(中央情報局)のような強力な組織を設立せよという構想であった。

【内務省】

 内務省は、一口で云えば「天皇制警察国家」と呼ばれる当時の大日本帝国の最高官庁であった。要するに内政にかかわる一切の行政権を一手に握っている中央官庁であった。現在の機構に当て嵌めれば、国家公安委員会、警察庁、公安調査庁、消防庁、自治省、厚生省、労働省、建設省、農林省の一部、法務省の一部、文部省の一部的機能を持つ官庁であった。全国の知事と高級官僚は、内務官僚が任命し派遣するというシステムで、地方行政は市町村議会の監督権まで含めて内務省が握っていた。内務官僚は、天皇直属であり、平常時の警察機構、緊急時の法律に対抗する緊急勅令権、警察命令権を握っており、いわば万能であった。

 大逆事件の年の1911(明治44)年に高等課特高係(特高)が新設され、後に特別高等部に昇格し、得意な指揮系統を持つ事になった。新聞の統制など言論動向の調査は特高の中の検閲課の任務であり、更に全国の警察機構の元締め内務省警保局の図書課でも行われた。両者の関係は、図書課が本庁であり、検閲課は出先機関となる。

 内務省本省の図書課は、後藤新平内務大臣時代の1917(大正6).9月、直接の声係りでロシア革命への対応を意識して拡張された。同時に警視庁の人員増強も要請され、当時の6000名が6年後には1万2000名に倍増された。特高も同時期に12名から80名へと約7倍化している。



正力松太郎の履歴(1857〜1929)】

 1885(明治18).4.11日、富山県の土建請負業の旧家に生まれる。青春時代を柔道に打ち込む。

 1911(明治44)年、東京帝国大学法科大学独語科卒業(26歳)。翌年に内閣統計局に入り、高等文官試験に合格し、1913(大正2).6月、警視庁に雇用される。直ちに警部となり、翌年に警視、日本橋堀留署長となる。
 1917年、第一方面監察官。
 1918(大正7)年、米騒動鎮圧に一役買い、勲章を貰う。
 1919(大正8)年、刑事課長。
 1920(大正9)年、普通選挙大会の取締まり、東京市電ストの鎮圧。
 1921(大正10)年、警視庁で警視総監に次ぐbQの位置とされる官房主事となり、高等課長を兼任(36歳)。本人自身が「私ほど進級の早いのはいません」(「週間文春」1965.4.19日)と語っている。

 1923(大正12)年、正力の警視庁官房主事、共産党の猪俣津南雄宅にスパイを送り込み、早稲田大学研究室の捜査、6.5日、第一次共産党検挙を指揮した。

 
米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った」。


(私論.私見) 「関東大震災時の暗躍
 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。その概要は「戦前日共史(三)関東大震災事件(大杉栄事件))」に記す。ここでは、この時の正力の立ち回りを総括的に検証する。

 関東大震災の翌9.2日急遽、後藤新平が内務大臣に就任し、非常事態に備えて軍は戒厳令司令部を、警視庁も臨時警戒本部を設置した。この時、正力は官房主事であったが、特別諜報班長になって不穏な動きの偵察、取締まりに専念した。後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。

 今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。「不逞鮮人暴動」に如何ほどの根拠があったのか不明であるが、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。こうして、内務省が流した「朝鮮人暴動説」が全国各地の新聞で報道され、この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。

 後藤−正力ラインが警戒したのは、社会主義者の動きであった。9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。9.11日、正力官房主事名で、「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令が発せられている。

 後藤−正力ラインはこうした通達のみならず、実際に迅速に先制的官憲テロをお見舞いしていった。@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の多数虐殺、A、川合義虎らが虐殺される亀戸事件、B、中国人留学生・王希天虐殺事件、C、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件)等が記録されている。

【虎ノ門事件で辞表を提出】
 12.27日、後の昭和天皇となる当時の皇太子・裕仁が、摂政の宮として大正天皇の代理で開院式に出席するため、自動車で議会に向かう途上、虎の門を通過中に仕込み銃で狙撃された。裕仁は無事で、犯人の難波大助はその場で逮捕された。これを虎ノ門事件と云う。即日山本権兵衛内閣は総辞職。事件当時、正力は警視庁警務部長の要職にあり警備の直接の責任者であった。

 正力は警視総監・浅倉平らとともに虎ノ門事件の警護責任を負い、即刻辞表を提出。翌大正13.1.7日懲戒免官となった。

【正力、官界から読売新聞社に転身

 1.26日、摂政殿下裕仁のご結婚式があり、正力の懲戒免官は特赦となった。官界復帰の道が開けた。但し、本人は古巣に戻る気をうせていた。これが読売新聞社への転身となる。

 「読売新聞百年史」によると、正力の読売社長就任の背後の動きを次のように伝えている。大正13.2月頃、正力の友人である後藤、河合が、番町会の郷に「正力を読売の社長にする案」を持ち込んだ。郷がこれに同意し、正力を呼び「君もどうせ政界に出るんだろうから、新聞をやったらどうか。丁度読売が売りにでている。資金は三井、三菱から十万円出させる」と話している。こうして、「東京市長・後藤新平の仲介で、当時 経営危機に陥っていた讀賣新聞を買い取り社長に就任する」。

 正力のその後の歩みは、読売新聞社史考」その@通史」、「読売新聞社史考」そのA正力松太郎考、その背後勢力考に記す。


【番町会】
 1923(大正23).2月、財界の大立者・郷誠之助を囲んで集まる毎月一回の親睦会として番町会発足した。メンバーは、中島久万吉(日本工業倶楽部匿名組合)、河合良成(日本工業倶楽部匿名組合)、後藤国彦(日本工業倶楽部匿名組合)、伊藤忠兵衛(伊藤忠商事創業者)らを核としてこれに、永野護(渋沢栄一の秘書から実業界へ打って出て、戦後は岸内閣の運輸大臣となった)、小林中(山梨県出身の根津嘉一郎に認められて実業界入りし、戦後は桜田武、永野重雄、永野成夫とともに「財界四天王」と呼ばれた)らの若手実業家が連なった。

 番町会の設営役・古江政彦の証言に拠れば、「あの当時、番町会の勢いは大変なもので、会社を合併するにも、番町会に図らんとできん、郷さんのうちに相談にこなければ大臣にもなれん、と云われていた。事実、その通りだった」とある。この番町会に正力が出入りし人脈を広げた。

 正力と番町会との繋がりはこうであった。警視庁官房主事兼高等課長職に在った時代に、正力は政党と財界の奥の院と通交した。機密費を縦横に使った。「官房主事」とは、総監の幕僚長として、あらゆる機密に参画することが出来、特に政治警察の中心として頗る重要な役割を持っていた。一般政治情報の収集はもとより、政治家の操縦、思想関係、労働関係、朝鮮関係、外事係の元締め的地位にあった。「高等警察」とは、その最高司令塔であり、特高はその一セクションに過ぎず、専ら思想や文化関係を担当する特別高等係りという組織であった。

 「官房主事兼高等課長」ともなると、総監の下で実際に仕事をこなす地位であり、政府の政策遂行を心得て、内閣書記官長、内務大臣、警保局長と直接連絡し、与党の幹事長とも太いパイプを持っていなければ勤まらなかった。当時の官房主事の機密費は毎月三千円で、議員の歳費が二千円、内閣の機密費が十万円の時代であったから、どれほど重視されていたかが分かる。「日本の政治警察」(大野達三、新日本新書)に拠れば、「絶対主義的天皇制が確立して以後になると、政治警察活動はもう一段、総理大臣を飛び越えて枢密院議長あるいは元老と直結し、天皇の組閣下命に重要な役割を果たすようになった」とある。

【「番町会事件」】
 この番町会に噛み付いたのが福沢諭吉が創設した政論紙・時事新報であった。1934(昭和9)年初頭から、実名入りの「番町会を暴く」大キャンペーンを連載した。時事がキャンペーンを開始して3ヵ月後、番町会が深くかかわっていた大疑獄・帝人事件が勃発し、帝人株不正買取関係者として河合、永野、中島らが検挙された。正力も背任幇助嫌疑で地検に召喚され、市ヶ谷刑務所に収監された。木村氏曰く、「事件そのものは、4年もかかって無罪判決となるが、正力が株取引で巨額の利益を得ていた事実に関しては、様々な証言が残されている」。

 この事件は奇怪な殺人事件を生んでいる。時事新報社長・武藤山治氏が、キャンペーン記事を連載していた最中の3.9日拳銃で暗殺された。犯人・福島信吾はその場で自殺したとされている。その後の事情聴取で、事件の三日前に番町会の河合と弁護士の清水が犯人の福島と会った事を認めている。だが、捜査は、なぜか、途中で打ち切られてしまった。

 「時事新報社長・武藤山治殺害事件」との直接的な関りは定かではないが、翌年の1935(昭和10).2.22日、正力が襲われ、読売本社に入るところを背後から日本刀で首筋を切られるという事件が発生している。犯人の長崎勝助は右翼団体「武神会」の会員だったが、背後関係は分からない。右翼団体「武神会」の会長・熱田佐ほか数十人が取調べを受けたが、結局単独犯ということで、長崎は傷害罪で懲役三年を宣告されている。

 奇怪な事件が発生している。東日販売部長・丸中一保が行方不明となり、伊豆山中で白骨死体で発見された。丸中は当時激烈を極めていた新聞販売合戦の最中のことであり、業界には色々噂が飛んだ。

【「番町会のその後」】
 番町会のボスであった郷は男爵の位を得て、戦争中の1942(昭和17)年、死亡した。しかし、番町会の伝統は、戦後の政財界にも引き継がれた。中島久万吉は日本貿易開会長、吉田茂の縁戚で、第一次吉田内閣以来、吉田の経済顧問として活躍。多くの番町会メンバーを吉田の周辺に送り込んだ。長崎英造(産業復興営団会長)、永野護、河合良成、大政翼賛会の前田米蔵、大麻唯男。永野護の弟が重雄であり、経済安定本部次長から富士製鉄の社長におさまり、財界に揺ぎ無い地位を築いて行くことになる。永野護は、岸信介の指南役を務めた。

(私論.私見) 「正力の胡散臭さ総合論評」
 正力松太郎に纏わる「負の過去」を的確に見ておかねばならない。米騒動時の蛮勇、関東大震災時の虐殺指揮官、こういう人物が読売新聞に入り込み、大衆新聞として発展させていくことになり、「読売新聞建て直しの功労者」として賛辞されることになる。その正力は戦前一貫して「聖戦」賛美論調を煽っていった。これが為、戦後、正力はA級戦犯に指名され巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所する。この時の裏取引(仮に、「シオニスト盟約」とする)をも凝視せねばならない。

 出獄後の正力は復権し、読売新聞社主として戦前は軍部に戦後はシオニストに提灯し続けていくことになる。時の最大権力に食い入り、常に御用記事を垂れ流す体質は戦前も戦後も変わらない。その後の正力は、読売新聞社主且つ一時期衆議院議員になり、戦後日本の再軍備化、原子力発電の導入、国家権力中枢へのシオニズム勢力の扶植に精出していくことになる。そういう意味では、「読売には権力癒着の清算されていない暗部がある」はむしろ控えめな表現でしかなかろう。

 この正力に忠誠を誓い、その「負の遺産」を引き継ぐことで,出世したのがナベツネといえる。日本ジャーナリズムの胡散臭さを知る上で、この流れを踏まえることを基本とすべきだろう。

【戦後読売争議とA級戦犯】

【CIAエージェント正力松太郎のその後の活動】
 2006.2.16日号週刊新潮は、早稲田大学の有馬哲夫教授の「CIAに日本を売った読売新聞の正力松太郎」記事を掲載した。同教授は、米国公文書館の公開された外交機密文書からみつけ、「正力松太郎がCIAに操縦されていた歴史的事実」を明らかにした。天木氏は、「2月8日―メディアを創る」の中でこの記事を取り上げ、「これは超弩級のニュースである」と評している。れんだいこの予備知識と記事内容を噛みあわすと概要次のようになる。

 
戦前、正力は、東京帝大を出て警察庁につとめ、主として左派運動取締りの任に当たっていた。関東大震災時の朝鮮人、中国人、無政府主義者、共産主義者に対する虐殺の指揮者であった。ところが好事魔多しでその後、虎の門事件として知られる後の昭和天皇となる皇太子テロ事件の責任をとって辞職した。その後、経営危機にあった読売新聞を買収し、その社主として転身する。正力の経営手腕は高く、奇抜な企画や大衆に親しみやすい紙面つくりに励み、毎日、朝日につぐ大新聞に読売を成長させた。その功により、敗戦まで社主の地位を維持した。

 戦後、社内に読売争議と云われる内紛が第一次、第二次と二度にわたって発生する。その間、正力は、戦犯として収容された。その後釈放される。その後の正力の歩みの特異性を指摘したのが、有馬哲夫教授の「CIAに日本を売った読売新聞の正力松太郎」記事となる。それによれば、CIAは、釈放された正力に対して、1000万ドルの借款を正力に与えて、全国縦断マイクロ波通信網を建設させようとしていた。これが完成した暁には、CIAは日本テレビと契約を結んで、アメリカの宣伝と軍事目的に利用する計画であった。正力はこの時、「ポダルトン」と命名されたスパイ名で暗躍している。

 ところがここに内部告発が登場する。次のように記されている。
 正力とアメリカの国防総省が陰謀をめぐらし、正力がアメリカの軍事目的のために、アメリカの資金で全国的な通信網を建設しようとしている・・・近代国家の中枢神経である通信網を、アメリカに売り渡すのはとんでもない」という怪文書がばらまかれ、国会で取り上げられたためCIAが作戦を見直したからである

 約
1カ月後の11.6日、衆議院の電気通信委員会でも、怪文書が読み上げられるという大騒動へと発展した。 防戦に回った正力は、12.7日、衆議院で参考人招致されて喚問を受け、弁明に終始した。こういう経緯を経て、この計画は頓挫せしめられた。正力を主人公にした「ポダルトン作戦」は失敗に終わった。

 正力とCIAが共に夢見た「マイクロ波通信網」は潰えたが、両者の共生関係はその後も途切れることはなかった。 正力はその後、原子力開発行政に深く関わることになる。これについては、「原子力発電史考」に記す。

 正カの衆議院参考人招致と同じ1953年12月、アイゼンハワー大統領は、「原子力を平和のために」と唱え、キャンペーンを始めていた。が、その矢先の翌年3月、アメリカの水爆実験が行われたビキニ環礁で第五福竜丸が死の灰を浴びる事件が起きてしまった。日本では激しい反核、反米運動が巻き起こり、親米プロパガンダを担当するCIAの頭を悩ませていた。

 一方の正力は、政界出馬に意欲を燃やし、アメリカのキャンペーンに呼応するかのように、原発推進の立場を明らかにしていた。おそらくCIAにとって正力の存在は地獄に仏だったに違いない。この時、正力の尖兵として、原発導入のロビー活動を行っていたのは、1000万ドルの借款計画で活躍した柴田だったが、彼が接触していた人物は、やはりCIAのある局員で、CIAファイルには、この局員が書いた多数の報告書が残されている。CIAは、正力が政治家となる最終日標が、総理の椅子だということも早くから見抜いていた。

 1955年2月に行われた総選挙で、正力は「原子力平和利用」を訴えて、苦戦の末に当選し、同年11月、第3次鳩山内閣で北海道開発庁長官のポストを得た。CIA文書は、この時、鳩山首相が正力に防衛庁長官を打診した際、正力が、「原子力導入を手がけたいので大臣の中でも暇なポストにしてほしい」と希望した内幕まで伝えている。この時期から読売新聞と日本テレビはフル稼働で原子力のイメージアップに努め、CIAは原子力に対する日本の世論を転換させたのは正力の功績だと認めている。

 当然、CIAと気脈通じた活動であったことが推定される。このように、戦犯釈放後、その身をCIAエージェントとして立てた大物として正力、児玉、岸が挙げられる。「今回のCIAの正力ファイル」は、「日本の指導者が米国の手先となって、米国の日本間接統治に手を貸していた」ことを証明したことになる。

 「中曽根、正力、渡辺、児玉…」( http://www1.jca.apc.org/aml/200211/30791.html)は次のように補足している。

 概要「中曽根氏が閨閥をくんだ鹿島(建設)が、日本の原発の3分2を建設してきたという事実もですね。(そもそも、日本は原発に批判的な学者は教授になることもむずかしいというような状況があるようです) 僕は正力氏を初代の原子力委員会委員長に選んだのはアメリカの采配ではないかと考えています」。


 
天木氏は、次のように述べている。
 「読売グループが何故ここまで対米追従のメディアであるのかは、この歴史的事実からつじつまが合う。あれから半世紀、小泉、竹中は言うに及ばず、米国CIAの日本工作は我々国民の知らないところで驚くべき広さと、深さで進んでいることであろう。しかし恐れる必要はない。その事実が国民に知れた時点で、大きなしっぺ返しを食らう事になる。最後の決めては情報公開である。内部告発でも、密告でもなんでもいい。とにかく一つでも多くの隠された事実を白日の下にさらすことだ。これこそがジャーナリズムの使命であり、醍醐味である」。

 
「阿修羅政治版19」の「CIAと読売・正力松太郎の関係の拙文と『週刊新潮』記事」に次のような記載がある。
 投稿者: 有馬哲夫  題名: Re: CIAと読売・正力松太郎の関係の拙文と『週刊新潮』記事

 週刊新潮の記事の著作権は私にあります。全文掲載を許可した覚えはありません。著作権侵害はおやめください。ただちに削除しないばあいは法的手段に訴えざるを得なくなります。

(私論.私見)

 「投稿者: 有馬哲夫」氏が「CIAに日本を売った読売新聞の正力松太郎」の著者の有馬氏自身かどうかは分からないが、彼は自分の著作の指摘が広まる事を何故禁じているのだろう。互いに著作権の規制かけっこして何かめでたいことでもあるのか。歪曲、改竄、すり替えが為されて居らず出典元と著者が明記されている限り転載されるのは致し方ないというべきではないのか。れんだいこなぞは光栄と受け取るが。

 2006.12.27 れんだいこ拝


【広瀬隆・氏の指摘】

 「日本のジャーナリズム 広瀬隆」( http://www6.plala.or.jp/X-MATRIX/data/kiken.html)は次のように記している。

 ところで、読売新聞社社長だった渡辺恒雄氏は児玉誉士夫の舎弟分でありました。この御仁はテレビ朝日の法王として君臨した三浦甲子二氏と二人で田中角栄の所へ行き、中曽根康弘を総理大臣にしてくれと土下座して頼んでいます。「あとでどんな無理な相談も聞くから」と。

 『闇市に出回っていた商品のほとんどは、軍が持っていた国有財産の横領と横流しで、その金額は今の金にしたら数10兆円になり、それを官僚、政商、闇屋などが山分けしたのです。児玉機関が大陸で集めた貴金属やダイヤモンドも、海軍が買い集めた軍需用の資源だが、朝日新聞の飛行機に乗せて持ち帰ってから、右翼の辻嘉六が売って金に替え、その資金が原資で自民党が誕生した。朝日の河内航空部長は児玉や笹川と親しく、右翼に頼まれて社機を使わせたのだろうが、鳩山や河野がその背後にいたわけです』[朝日と読売の火ダルマ時代/藤原肇著]

 児玉誉士夫はA級戦犯で投獄された翌年、CIC(アメリカの陸軍諜報部。CIAの前身)に対するおよそ一億ドルの支払いと引き換えに、七三一部隊の隠蔽工作にも関っていたアメリカの高級軍人ウィロビーの手配によって刑務所から出、その余った金で自民党を作ったのです。

 上の[朝日と読売の火ダルマ時代/藤原肇著]は出版にこぎつけるのに3年かかったのだそうです。その間、40社あまりの出版社に断られています。 この藤原肇氏というかたは元オイルマンで、70年代の石油ショックを、その4年前に予言した著書を書きながら、どこもそれを出版してくれることがないまま、石油ショックの直前になってやっと出版することができたという経歴をお持ちのかたです。それで、マスコミ界にもファンが多く、新聞社の内情にも詳しいおかたです。以下その本から二つばかり。

 だが、正力に関しては自己宣伝的なものが圧倒的で、佐野真一の[巨怪伝](文芸春秋)や征矢野仁の著作集(汐文社)以外には、参考に使える資料を余り見かけない。それは佐野がいみじくも指摘しているように、[正力は読売新聞を伸ばすため、自分にまつわる過去の出来事を、すべからく自己宣伝や美談に仕立てあげてきた]からであり、それを乗り越えるだけの眼力を持つ者が、正力と読売の過去を洗わなかったからだろう。

 「朝鮮人と中国人を虐殺した事件にまつわる、警察の情報操作と過剰な治安行動の面で、関東大震災の混乱を利用した動きに関しては、正力の役割が非常に重要だった」

 ”最近公開された国務省の機密文書によると、CIAが自民党に対して政治資金を提供し、岸内閣の佐藤幹事長が受け取っていたので、日本の政治は外国のカネで動かされていた。日本政府が米国の諜報機関に操られた事実は、1995年3月20日のLA・タイムス紙上で、マン記者が全項を使って解説しているが、日本とイタリーが売弁政治だったとして、国辱的な政治が歴史に記録されることになった。

 それにしても、オウム真理教のサリン事件のドサクサに紛れて、この重大な売国事件は黙殺されてしまった。だが、世界の先進国が原子力発電を放棄した中で、核エネルギーに依存する道を突き進んだ路線と共に、日本の運命を狂わせた出発点がここにあった。

 これに関連して興味深いのは征矢野仁の記述で、[読売新聞日本テレビ・グループ研究]に引用されたニューヨーク・タイムズの記事は、「、、、、、元CIA工作員(複数)の言によると、この他に、戦後の早い時期にCIAの恩恵を受けた人物として挙げられるは、強力な読売新聞の社主であり、一時期は日本テレビ放送網社長、第2次岸内閣の原子力委員会議長、科学技術庁長官となったマツテロ・ショーリキである」とあって、その後に訂正記事のエピソードを含むとはいえ、元CIA工作員の発言は否定されていない。

 正力と中曽根が田中清玄や児玉誉士夫などの利権右翼と結び、CIAコネクションの中で日本の政治に対して、エージェントとして動いていた姿が見え、正力の人脈が占領軍のG2(参謀第2部)に密着し、ウィロビー部長との結びついた意味が納得できる。

 原子力施設の工事で最右翼といわれ、中曽根と姻戚関係を持つ鹿島建設の繋がりが、闇の中から浮かび上がってくるのである。”

 最後に「東京電力」にまつわる話を。

 次の引用は[襲撃 伊丹十三監督傷害事件/安田雅企著]からです。この本は、伊丹十三氏を襲った後藤組傘下の富士連合の犯人の3人を擁護するために書かれたものです。

”後藤組。組長、後藤忠政。静岡県富士宮市。1970年山口組傘下。1991年、東京都八王子市ニ率会が系列入。福島、北海道、埼玉、熊本など十都道府県に三十近い団体。組員五百名、準構成員を入れると千名近い。都内に金融、不動産、物品販売業などの企業事務所を進出。祖父後藤幸正は実業家。富士川発電、身延鉄道、伊豆箱根鉄道を創設、社長を務めた。富士川発電が東京電灯(現、東京電力)と合併すると取締役に就任。成田鉄道の役員。浅野セメントの浅野総一郎、安田財閥の安田善次郎、運輸大臣・東京市長を歴任した後藤新平らの知遇を得、戦前・戦中に政界、軍部に顔を効かせ活躍。頭山満、古島一雄と親交を結び、蒋介石、孫文らと交わり、敗戦により全財産を失うまでは中国、台湾、朝鮮、カラフトに事業所、会社を持つ。”

 このなかの後藤新平氏というのは、1985年に領有した台湾において、当時の内務省衛生局長としてアヘン収益政策を行っていた人物で、正力氏が読売新聞を買い取る時にその資金を調達した人物とももくされています。

 「日本のジャーナリズム」(http://www6.plala.or.jp/X-MATRIX/data/kiken.html)の「危険な話━チェルノブイリと日本の運命」広瀬隆著(八月書館1987年刊)から

 民放は最大のスポンサーが電力会社。NHKは大丈夫かと言えば、経営問題委員が平岩外四、これは東京電力の会長ですよ。解説委員の緒方彰、このいかめしい顔をしながら、原子力産業会議の理事です。放送番組向上委員の十返千鶴子、NHK理事で放送総局長の田中武志が、いずれも原子力文化振興財団の理事です。この財団は、東京の新橋にオフィスを訪ねてみましたら、原子力産業会議と同じビルの同じフロアにあり、『原子力文化』というPR雑誌を発行している原子力の宣伝部隊です。これを開くと、チェルノブイリ事故直後の七月号に、放射線医学総合研究所の館野之男という人物が、「退避の必要なかったワルシャワ市民」というとんでもないことを書いています。彼こそ、日本の新聞紙上で「すべて安全」と言い続けてきた人物です。

 朝日の一例を引きますと、原子力関係の記事は科学部がチェックすることになっている。検閲ですね。そして科学などまったく知らない人間が、当局の言葉通りに記事を修正する。悪名高い論説主幹の岸田純之助が、彼は原子力委員会の参与でしたが、「原発に反対する記事を書いてはならない」という通達さえ出している。彼に育てられた大熊由起子が、いまや論説委員に昇格して健筆をふるっているわけですから、いかに誠意ある記者がいても駄目です。
 
 実は、『億万長者はハリウッドを殺す』の内容を最も高く評価してくれたのが、皮肉にも私と真っ向から対立するはずの財界人や商社マンでした。彼らは少なくとも子どもでなく、第一線でロックフェラーやモルガンの代理人とわたり合い、金融の世界でしのぎを削ってきたので、容易に内容を理解できるのでしょう。ところが物書きや文化人は、叙情に溺れ、正義などという世界に遊んでいるため、何も知らない。私自身、調べるまでは何も知らない子どもでした。ジャーナリズムの遅れが、今ではよく分ります。彼らは、自分の子どもが殺されようという時にも、まだ物書き、作家、評論家、記者として机に坐り、落ち着いているのでしょう。 次へ  前へ


【正力とテレビ】

 (2004.7.13日付け「マスメディア論2004第24回 メディアの歴史(5)テレビの登場と発展 京都学園大学 メディア文化学科」その他参照)

 読売新聞社主正力松太郎は、逸早く「テレビ構想」を持った。戦前、ラジオの開設に際して、免許を出願し新時代のメディアに興味を示していたが、政府が民間によるラジオ設立を認めない方針を採り、準国営のNHK( 日本放送協会)にラジオ免許を交付したため、ラジオを断念したといういきさつがある。

戦後、正力は公職追放で読売新聞を追われていたが、アメリカが日本にテレビ網(ネットワーク)を建設する計画を持っていることを知った。アメリカは折からの冷戦の開始で軍事的緊張の高まる朝鮮、韓国、ソビエトへ向けてのテレビ放送を行うという宣伝戦を計画していた。アメリカの構想は実現しなかったが、1950年頃、正力は、アメリカと連携して日本全土のマイクロウエーブのテレビネットワークによる全国放送を行う計画を立て、同時に自らの公職追放を占領軍司令部に働きかけた。

 これに対し、NHKの巻き返しが始まった。NHKはそれまで、高柳健次郎らの手によって戦前からテレビ放送の研究を行ってきたいたが、戦後はNHKラジオの強化に力を入れていた。正力のアメリカ管理下でのテレビ構想が打ち出されるに及び、NHKは、国産テレビを創出しようとした。当時、日本の電機メーカーはまだ十分な技術を持っていなかった為、独自に研究に取り組み始めた。

 1952年、年電波監理委員会は、テレビを民間放送とすること、技術方式はアメリカのNTSC方式とすること、免許を正力の「テレビ放送網」に与えること、通信回線を持つ全国放送ではなく地域放送を主体とすることなどを決めた。

 その直後サンフランシスコ条約によって日本は独立し、電波行政は電波監理委員会から郵政省に移行した。これにより、NHKもテレビ免許を獲得した。こうして、戦後日本では公共テレビのNHKと民放テレビが並存することとなった。

 1953.2月、NHKがテレビ放送を開始した。同8月、日本テレビが開始した。日本テレビが先に免許を取得しながら開局が遅れたのは、アメリカに発注していた送信設備など放送機材の到着が予定より大幅に遅れたからである。それに反し、戦前からの技術の積み重ねを持つ高柳健次郎の率いるNHK技術陣は短い時間で開局準備を進めることが出来た。

 正力の日本テレビはスポンサーを獲得するため、「街頭テレビ」方式を採用した。東京都内55ヶ所に220台の大型街頭テレビを設置した。折からのプロレス力道山ブームも手伝って、街頭テレビには数千人が群がり、熱心にテレビを見入った。その群集の写真を手にした日本テレビの営業マンが、広告スポンサーを口説いて回るという日が続いた。

 1955年、第二の民放テレビTBSが加わり、翌1956年、中部日本放送CBC(名古屋)と大阪テレビが開局し全国に広がった。テレビは瞬く間に大衆娯楽の王者としての地位を獲得、1959.44月の「皇太子ご成婚」の儀式とパレードの中継放送によって、テレビ受像機は大きく伸びた。1954.12月の受信契約台数は346万件となり、急速にテレビ時代が始まった。

 いずれにせよ、正力の果たした役割は大きい。同時に、NHKとの確執も見ものであった。


 2007.3.20日 れんだいこ拝







(私論.私見)