福本イズム考

 (最新見直し2005.7.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 第二次共産党再建に当たってこれを指導したのが「福本イズム」であった。云い方を変えれば、第一次共産党解党後の当時の主義者は、「福本イズム」を獲得することにより再建を可能にさせた。「福本イズム」はそういう史的意義を持つ。こういう確認の出来ない評者が多過ぎるので、れんだいこ史観とは合わない。

 もう一つ「福本イズム」が積極評価されねばならないことがある。れんだいこの観るところ、その理論は当時の世界的左派運動の中でもよほど見識の高いマルクス主義を掲げていた。この点はもっと評価されても良いように思われる。こういう確認の出来ない評者が多過ぎるので、れんだいこ史観とは合わない。

 その「福本イズム」がどのように翻弄されたのか。再建を指示したコミンテルンは、党再建を歓迎したものの、表裏一体であった「福本イズム」を警戒し、これと決別するよう強制した。モスクワ詣での一行は、事大主義的に競うようにしてこれを受け入れた。れんだいこ史観に拠れば、この時こそ日本左派運動の能力が問われていた。当時の局面では抵抗することは難しかったのだろうか。取り敢えず未決着にし、この問題を日本で討議すべきであったのではなかろうか。そして、「福本イズム」を喧々諤々議論し、且つ更なる高次のものを生み出すべく弁証法的に対応すべきであったであろう。それは出来ない相談であったのかも知れないが。

 いずれにせよ、日本左派運動は「福本イズム」をあっけなく封印してしまった。以来浮上していない。宮顕ー不破系党史論は、「福本イズム」、田中清玄時代の武装共産党、戦後の徳球ー伊藤律系運動という日本左派運動の三大財産に限って最大限の悪罵で遇している。従って、いくら党史論を学んでも学べば学ぶほど馬鹿になるという仕掛けになっている。そういう馬鹿が旧左翼にも新左翼にも徘徊し過ぎているのでどうにもならない。

 そういう「負のツケ」が自家撞着し、日本左派運動の没理論主義への水路を切り開いた気がしてならない。この「負のツケ」が今日まで日本左派運動に付き纏っており、致命的な欠陥として宿アの如くに続いている。

 気づいた時が何よりである。今からでも「福本イズム」を史上に正しく措定し、総括せねばならない。これが本稿の眼目である。いかほど狙い通りに為し得るか心もとないが、いざ出航する。

 2004.12.18日 れんだいこ拝


目次  

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れんだいこの福本イズム考
福本語録エッセンス抜き書き
戦前日共史(補足)戦前党綱領及びテーゼの変遷考
日本資本主義分析(戦前篇:講座派VS労農派)論争
日本資本主義分析(戦後篇:従属派VS自立派)論争
関連著作本
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(私論.私見)

南喜一著作全集全一巻 永田書房昭和46.10.30日初版



カール・コルシュのカウツキー批判(下)

第2章 コルシュのカウツキー批判

第1節 マルクスに向き合う態度

 
 本稿の「はじめに」で述べたように,当時すでに死んだ犬とみなされていたカウツキーの『唯物史観』をコルシュが取り上げて『唯物史観 カール・カウツキーとの対決』(以下,『対決』と略記する)を書いたのは,マルクスのマルクス主義との対決という問題意識を,コルシュがカウツキーと共有しえたからであった.
 しかし,対決の内容は,カウツキーとコルシュでは決定的に異なる.コルシュから見れば,『唯物史観』におけるカウツキーの立場は,マルクス主義を資本主義に軟着陸させることによって,資本主義の民主的発展を社会主義の実現過程に等置する資本主義正統化論にすぎなかった.一言でいえば,これが『対決』におけるコルシュのカウツキー批判である.本稿の「はじめに」(前号)で述べたカウツキーに対する「陰性修正主義」規定は,こうした評価を表したものである.
 しかしコルシュにとって,マルクスのマルクス主義との対決という課題にとって重要なのは,以上のような内容的な論点だけでなく,マルクスに向き合う方法態度そのものであった.
 すでに『マルクス主義と哲学』初版(1923)において,コルシュは,マルクス主義の歴史にマルクス主義の方法を適用するという方法的立場から,マルクス主義を,第1に,資本主義社会が生んだ歴史的な精神的形成物として,資本主義社会内部の個別現象にとどまらざるをえない宿命を背負っており,それゆえに資本主義社会に統合される危険につねに脅かされる思想として,―良質なマルクス主義の場合には,こうした宿命を自覚する思想として―,掴んでいた.それにも関わらず,第2に,マルクス主義を,資本主義社会を総体として,理論的にのみならず実践的にも批判しようとする立場として掴んでいた.彼にとってマルクスのマルクス主義は,資本主義の一部でありながら,その総体を批判するという矛盾を引き受けた思想であった.(私の論文「カール・コルシュにおけるマルクス主義の形成」 宮本他編『市民社会の思想』 御茶の水書房,1984年参照)別の論文で論じたように,コルシュにとってマルクス主義は,こうした矛盾に引き裂かれながらも,それを自覚し,それをばねとして,つねに自己革新する生命力を発揮する限りで,社会変革の思想として意味をもつにすぎない.(私の論文「カール・コルシュのマルクス主義批判」 『名城商学』39巻2号,1989年参照)
 このマルクス主義理解からは,マルクスのマルクス主義に向き合う3つの態度が成立する.第1に,『マルクス主義と哲学』初版で明示的に述べているように,マルクスのマルクス主義を固定した出来合いの思想・理論体系と捉えるのではなくて,「マルクス主義理論の発展全体も,・・・歴史的・社会的過程によって条件づけられてものとして捉えねばならない」(平井・岡崎訳 『マルクス主義と哲学』 未来社,1977年,89ページ)ということである.
 第2に,マルクスのマルクス主義を含めて,マルクス主義を歴史的に変化するものと捉えるならば,その変化の様相は多様である.マルクス主義のある時点での歴史的な矛盾を解決しようとして,複数の立場が成立しうるのである.この意味では,『マルクス主義と哲学』第2版(1930)でコルシュが明確に述べているように,マルクス主義において「本物の指輪はなくなった」(前掲邦訳,13ページ)ということである.
 第3に,マルクス主義の自己革新は,既存のマルクス主義の言説と現実との矛盾,乖離,対立を確認し,マルクス主義を現実に適応させるだけでは不十分である.その時代あるいは社会を最高度に表現する精神的形成物との批判的な対決を通して,その時代や社会の総体に対する批判的な理論と実践を,つねに新たに形成する限りで,その自己革新能力が歴史的に確証されるにすぎない.(『対決』 10ページ参照 )コルシュが『マルクス その思想の歴史的・批判的再構成』(1938年)で明確に述べているように,マルクス主義が,「社会科学の全カテゴリーを,もっとも一般的なカテゴリーを含めて,変わりうる,かつ変えられうるカテゴリーとして把握する」(野村修訳 『マルクス』 未来社,1967年,54ページ)立場であるとすれば,マルクス主義自体も,そのカテゴリーを含めて歴史的な変化にさらされるのである.こうして変化した理論・思想システムがなおマルクス主義と呼ばれうるとすれば,コルシュにとって根本的にはは,それが,このような方法態度を共有する限りにおいてである.(コルシュ夫人の回想や服部英太郎の日記によれば,30年代のコルシュは日本人留学生と一緒に研究会を催していた.その中で,その時代の経済学批判を展開するという問題意識を示していた.この問題意識が,ここで示した方法態度のひとつの帰結である.そして,その遠い反映を,マルクス経済学と近代経済学をともに近代経済学として総括し,それらを歴史的に相対化しようとした杉本栄一の経済学史研究に見ることができる.コルシュの日本への影響は,何も福本イズムには限らないのである.)
 このようなコルシュの方法態度は,マルクスのマルクス主義を含めたマルクス主義の歴史的な相対化まであと一歩である.そして実際にコルシュは,1930年代には,マルクス批判に踏み込んでいく.ただし,のちに見るように,『対決』のコルシュは,自分の方法態度の含意を十分には展開しておらず,なおマルクス主義という―当人にとっても―あいまいな観念に,社会変革への期待を抱いている.
 それにも関わらず,当時のコルシュにとって,『唯物史観』におけるカウツキーの方法態度は,マルクスのマルクス主義との対決を通して自前の唯物史観を展開しようとする意図にも関わらず,きわめて不十分かつ問題のあるものであった.
 第1に,カウツキーが,マルクスのマルクス主義を,それを生み出した歴史的現実から切り離して,一つの出来合いの体系として受け入れたうえで,マルクスの言説の部分的な修正や解釈の変更によって,マルクス主義を現実化しようとしてきたことである.この方法によって,カウツキーは,19世紀の70−80年代には,他のマルクス主義者とともに,マルクスの時代には社会的には無力だったマルクス主義を,「異なった客観的・主体的諸条件のもとで成長する近代労働運動の新世代に,はじめて『受け入れ可能な』ものにした.」(『対決』 126ページ)
 この点では,この正統派的な方法は,コルシュにとっても一定の歴史的な意義を持つ.(『対決』 127ページ参照)しかし彼の方法態度からすれば,このような積極面よりも,むしろ否定面の方が,より際だつものであった.というのも,このようなつぎはぎによって得られた理論なり思想なりが,その時代の労働運動の要求をもっとも高度に表現することによって社会変革の物質的な力となるのは困難だからである.マルクス主義を変革の現実的な力として生かそうとすれば,つねにその場でマルクス主義が新たに形成されねばならず,そのためにはマルクスのマルクス主義を含めて,前の時代のマルクス主義と対決しなければならないにもかかわらず,この対決が根本的に回避されているからである.
 「多かれ少なかれ出来上がった体系として,そのまま使えるものとして,過去の時代から引き渡されたマルクス主義理論を,19世紀の最後の四半期に,新しい社会民主主義的労働運動がイデオロギー的に『受容』したことは,この運動の実践的・理論的な発展を促進するように作用しただけでなく,同時に,その発展を阻害し混乱させるようにも作用したのである.」(『対決』 127−128ページ)
 それにもかかわらずカウツキーは,マルクスと対決して自前の唯物史観を展開する場合にも,マルクスとマルクス主義に対する,正統派的な方法を放棄してはいない.「この最新の著作においても,・・・例の『正統派』的方法が,平気で利用されつづけているのが見出される.その方法によって,Kは,マルクスの命題を形式的には言葉通りに保ちながら,同時に,『解釈』や『注釈』によって,その本来の革命的,唯物論的な意義を奪ってきたのである.・・・かつての『正統派マルクス主義者』Kが,以前は形式的には激しく闘ってきた修正主義の立場に対して,今日はっきりと信仰告白をおこなったとしても,そこで問題なのは,以前に適用した『正統派』的方法とKが手を切ることではなくて,こうした形式的な装いのなかに最初から隠されていた修正主義的な内実を最終的に貫徹することなのである.」(『対決』 6ページ)
 マルクスのマルクス主義との根本的な対決が,相変わらず回避されているのである.「マルクスとエンゲルスの歴史観の完全な形態・・・と方法論的に批判的に対決する代わりに,Kは,・・・この『自己』の見解をマルクス−エンゲルスの唯物史観と・・・『比較』した・・・部分では,叙述全体をいくつかの『マルクスからの引用』のうえに築き上げている.」(『対決』 10ページ)
 その結果として,カウツキーは,「一方では,マルクスとエンゲルスの唯物史観の信心深い解釈者として立ち現れながら,他方では同時に,この同じマルクスの見解に対する批判者・修正者として,『自分自身』の唯物史観の代表者として立ち現れる」(『対決』 9ページ)のであり,正統性を維持しながらマルクス主義を修正するという中途半端な立場に立つ他はない.
 第2に,このように正統性を保持しながら,マルクスを修正するにあたって,カウツキーは,その時代の資本主義の最高度の精神的達成との批判的な対決を不十分にしか行わない.カウツキーの問題意識の根本が,唯物史観を自然史に拡張することで,伝統的マルクス主義の狭さを克服することにあったとすれば,この自然史理解に関して,生物学や人類学との対決が不可欠のはずだが,カウツキーは,自然科学的な通俗読み物の議論を借用したり,ダーウィンやラマルクなどの19世紀の自然科学者の作品を手引きにしたりする程度である.(『対決』 116−118ページ参照)固有の人類史や人間社会の歴史に関わる領域においても,ウェーバーやフロイトとの対決は見られるものの,コルシュの判断では,既存の学問的成果の利用が目立つ.(『対決』 66−72ページ参照)マルクスのマルクス主義の対しても,その時代の学問的成果に対しても,カウツキーの態度は,コルシュにとって根本的に,批判性を欠いているのである.
 コルシュにとっては,こうした批判性の欠如が,カウツキーにおけるマルクス主義の資本主義への軟着陸の背景にあったのである.
 

第2節 弁証法と発展

 カウツキーの『唯物史観』に対するコルシュの個別的批判は,マルクスのマルクス主義に対するカウツキーの無理解を批判する部分と,カウツキー自身の主張の意味を吟味する部分とが結びついている.前の部分は当時のコルシュ自身にも,まだマルクス主義に対する正統性信仰が,―コラコフスキーが指摘したように(本稿の「はじめに」参照)―残っていることを示している.(それが最終的に消えるのは,最晩年の1950年代に入ってからである.)
 それがもっとも強く現れているのが,弁証法と発展を論じたところである.コルシュによれば,マルクスにおいて,発展は思惟の水準における弁証法,自然と社会における狭義の発展としての生成,階級闘争としての行為という三つの水準で捉えられている.(『対決』 20ページ参照)
 それに対してカウツキーの場合には,思惟の水準における発展としての弁証法は,思惟の事実への適応,思惟相互の適応へと後退していると,コルシュは断定する.(『対決』 20−23ページ参照)カウツキーは思惟そのものを明確に概念化していない点,思惟が環境変化に適応して進化する人類の武器として強調されている点(本稿第1章第2節参照)を考えれば,コルシュの指摘は全くの的外れとはいえない.しかし,カウツキーが唯物史観の公式を解釈するさいに交互規定論の立場をとっている点(本稿第1章第2節参照)を考えれば,カウツキーが思惟に適応のみを見ていたという批判はゆきすぎである.さらに,それをマッハ主義への後退と規定する点(『対決』 23ページ参照)は,コラコフスキーも述べているように,知的に誠実な態度とはいえず,党派的な用語して「マッハ主義」を用いているとしか評価できない.
 さらに階級闘争としての行為という水準での発展に関しても,コルシュは,カウツキーにとって階級闘争は付随的な意味しかもたないと批判している.(『対決』 81ページ参照)しかし,本稿の第1章第3節で明らかにしたように,カウツキーが強調しているのは,民主主義的資本主義国家における,革命闘争から議会闘争への階級闘争の形態変化であって,この意味での階級闘争は,カウツキーにとっては,資本主義の民主化=社会主義の実現にとって決定的に重要であった.これをもってカウツキーが階級闘争を軽視したと批判するとすれば,それは,階級闘争を革命闘争としてしか考えられない,コルシュの教条主義的な側面を示しているともいえる.
 こうしてコルシュにとっては,カウツキーにおいて発展概念として残るのは,自然と社会の客観的な生成としての発展のみである.第1章で示したように,カウツキーにとっては,この発展の論理が弁証法であった.その特徴は,第1に,人類史を含む生物史全体を対象とし,第2に,ある種の進化論をモデルとした発展の論理をもち,第3に,ヘーゲル・マルクス的な弁証法を,完成をうちに含む端緒から完成に至る神秘的な論理として明示的に拒否するというものであった.
 コルシュも,このような特徴は正確に捉えている.しかし,コルシュの批判は,こうしたカウツキーの発展論が,マルクスのマルクス主義に対する無理解に基づくものであり,マルクスが克服したはずの自然主義的な唯物論の水準に後退している,と批判するのみである.(『対決』 36−37ページ参照)すなわち,マルクスにとって社会の歴史,とりわけ資本主義社会の歴史が発展論の対象であって,自然史はその基礎をなす限りで問題になるにすぎない,あるいは,カウツキーは弁証法という用語を多用するが,そこにはヘーゲル・マルクス的な弁証法の痕跡もない,等など.(『対決』 34−36ページ参照)
 その結果,ヘーゲル・マルクス的な弁証法が完成へと向かう弁証法であり,発展が論理の中で先取りされており,最終的には発展がとまるという,カウツキーの重要な指摘が無視されてしまう.カウツキーの場合には,このようなヘーゲル・マルクス批判が,結果的に素朴な自然主義的唯物論の主張にいきついたとしても,この指摘自体の意義がなくなるわけではない.
 そして,カウツキーのこの指摘こそ,1950年代のコルシュが,マルクスとの長い格闘のすえに,辿り着いた論点のひとつであった.私の論文「カール・コルシュのマルクス主義批判」で明らかにしたように,50年代のコルシュにとって,マルクスの弁証法概念は,基本的にヘーゲル弁証法を克服してはいなかった.存在論的な弁証法を保持することによって,マルクスのマルクス主義も,論理の中で解放を先取りし,解放過程を神話化したのである.実際にコルシュは,1950年のバーゼルでの講演「マルクス主義者の思い上がりについて」で,こう述べている.「『ヘーゲルの手になる弁証法の神秘化』は,マルクスがその一般的な運動形態を,さしあたり包括的・意識的なしかたで記述するのを,けっして妨げない.逆立ちしたままでの転倒.ヘーゲルの弁証法の現実的な意義―それは,革命の道具という意味での革命的方法にあるのではない.反対に,現実の革命がそこに表現されているところにある.しかしこの革命は,a)ブルジョア革命の,つまり11世紀あるいは12世紀から18世紀にいたる発展の,最後の偉大な総括であって,b)ヘーゲルの総合におけるこの発展の終結といわゆる復古とを含む,完全に完成されてしまった革命である.マルクスもこれを保持するのである.・・・マルクスにあっては,理論と実践の,『革命的理論』と階級闘争の神秘的同一化は,ヘーゲルに由来する.」(講演メモ「マルクス主義者の思い上がるについて」 1ページ参照)
 「はじめに」で述べたように,マルクス主義の再建からマルクス主義批判への過渡期にいたコルシュは,自分の論点を先取りすることになるカウツキーの重要な指摘に,気づくことができなかったのである.この点では,コルシュが批判するようにカウツキーがマルクス主義との対決において不十分だっただけでなく,カウツキーをそう批判した当時のコルシュ自身も,対決において不徹底であった.
 

第3節 国家,階級,階級闘争

 すでに本稿第1章で紹介したように,『唯物史観』のカウツキーにとって,人類の歴史は,階級闘争の歴史であるとともに国家の歴史であった.しかも,資本主義国家における民主主義の発展が社会主義の実現過程と重なるのだから,唯物史観の自然史への拡張と並んで,国家論,国家における社会闘争の形態と内容が重要な位置を占める.それゆえ,コルシュも,『唯物史観』に対する内容面の批判の中心をこの点に置いている.
 「この著作全体のなかで,・・・『国家』は,形式的に,全考察の中心をなすばかりでなく,Kの社会観と歴史観の総体の旋回点として,ますます明瞭に姿を現す.自然史から区別される現実の人 類 史は,Kにとっては,カント,フィヒテ,シラー,ヘーゲルとまったく同じく,本質的に国 家 の 歴 史である.・・・マルクスとエンゲルスのように,『ブルジョア社会』,すなはち,その本質規定において,歴史的に変化する物質的生産諸条件によって把握される社会的諸関係ではなくて,Kにあっては『国家』が,歴史時代における人類発展総体の固有の基盤なのである.」(『対決』 60−61ページ)
 コルシュにとって,カウツキーの国家論の非常に大きな特徴は,まず,オッペンハイマーやグンペルツ流の征服国家説を採用していることである.
 すなわちカウツキーは,国家以前の人類史を民主主義の黄金時代と捉える.その黄金時代が,遊牧民による定着民に対する戦争によって破られ,支配者たる遊牧民による被支配者たる定着民に対する搾取機構として国家が発生する.国家以前の共同体においても,分業の発展とともに階級関係が成立する萌芽はあるが,国家の発生に伴う支配者と被支配者の区分が,階級関係を形成する.これが民主主義の第一の否定である.こうした征服国家の暴力的性格は前資本主義的な中世国家まで維持される.それが克服されるのが,第1章で紹介した資本主義国家であり,そこでは第1の否定が否定されて,民主主義が社会主義に向かって成熟するとされる.(『唯物史観』第4書第2編参照)こうしてカウツキーにあっては,事実上,人類の前史と本史の区分線は,資本主義国家の成立で引かれることになる.
 このような議論は,コルシュにとっては,まず,学問的に検証しえない原始的民主主義や国家一般の起源を設定している点で問題のあるものであった.(『対決』 64ページ参照)しかも,そうした空想的な前提を置くことによって,民主主義−国家(否定)−民主主義(否定の否定)といった弁証法の形式的適用を可能にした点で,民主主義的資本主義国家の形式論理的な正統化論であるにすぎない.
 「ダーウィン主義的な自然史ではない世界史総体の本来の内容をなすのは,Kにとっては,国家の成立であり,『野蛮な』諸起源から,中世的封建国家へと,ついには新しいブルジョア民主主義原則の最終的な出現にいたる国家の発展である.このブルジョア民主主義原理において,これまでの単なる暴力国家は本質的に変容する.この新しい形態においては,・・・国家は,もはや,支配階級の手中にある抑圧と搾取の道具という性格を持たず,『原始的な民主主義』に近づいていく.『否定の否定』は,もちろん,封建社会総体の『排除』である・・・.野蛮への没落に脅かされる文明を救済したのが,いまや歴史の舞台に登場してきた『産業資本』であって,それは,唯一無二の社会革命を随伴した.その革命の過程において,『これまでの国家』全体が,その全本質において変革され,これまでは不可能であった『タイプの国家』が『近代民主主義』のもとに発生したのである.」(『対決』 70−72ページ)
 たんなる正統化論であるにしろ,資本主義のもとでの民主主義の発展が,社会主義の実現と重なるのなら,コルシュにとってもカウツキーの議論は,まだ了解可能である.そこで問題は,カウツキーのように,民主主義的資本主義国家の発展に社会主義の実現を重ねることができるか,ということである.
 コルシュにとって社会主義とは,具体的には,利潤志向の生産システムに代わる欲望充足志向の生産システムを実現することであり,生産システム内部においては,資本による労働の支配から労働を解放することであった.こうした考えは,コルシュの場合には,マルクス主義者になる前の1910年代半ばから最晩年まで一貫している.
 このようなシステムを実現する上でコルシュにとって問題なのは,前者についていえば,まず,利潤=剰余価値の自立的形態としての資本の増殖が生産の動因となるシステムを廃棄することであり,ついで,消費者間の利害対立や,生産者と消費者の利害対立を調停することである.後者についていえば,問題は,生産における構想と実行の分離をできる限り克服していくことであった.これらの論点を,コルシュはドイツ革命期の諸論文で精力的に検討している.(木村・山本訳 コルシュ『レーテ運動と過渡期社会』 社会評論社,1971年参照)
 別の論文で論じたように,コルシュにとっては,これらの問題は,国家が民主主義的であれば解決できるというものでも,社会主義国家が実現されれば解決できるというものでもなく,かなり長期にわたる歴史的な過程を経て,解決の展望が見いだされる類の歴史的な課題であった.資本の廃棄についていえば,生産手段の社会的所有がたとえ実現されて,全体としての労働者階級が生産手段の所有者となったところで,剰余価値生産システムが存続するならば,全体としての労働者階級が資本所有者として個々の労働者を支配するという形態で,資本の支配―労働者資本主義あるいは国家資本主義―が存続しうるのである.消費者間あるいは生産者と消費者の利害対立の調停は,根本的には,財の希少性が廃棄されるというマルクス的な共産主義のユートピアが実現されるまでは,解決されえない.構想と実行の分離の克服も,前述の国家志資本主義や労働者資本主義が存続すれば,実現することは困難である.(「カール・コルシュのマルクス主義批判」参照)
 しかもカウツキーの構想は,第1章で示したように,資本主義経済を生産力の発展に適合したシステムと捉えるのだから,そして生産力の発展を価値評価するのだから,経済に関しては資本家あるいは資本の力が強化されることになる.資本の廃棄という展望は,事実上,放棄されることになる.この点では,コルシュ的な社会主義を実現する道は,カウツキーの構想からは出てこない.
 そしてカウツキーは,民主化された国家においては労働者階級をはじめとする勤労諸階級の力が強化され,それが経済領域における資本の力を圧倒するところに,社会主義への接近を,接近を通した社会主義の漸進的な実現を見る.
 コルシュにとって,接近だけならば,カウツキーの議論は了解できるものであった.実際にコルシュ自身も,1921年には『経営協議会のための労働法』を書いて,第二帝制に比べて民主的なワイマール共和国の議会的立法措置を基盤として,社会主義に接近する議論を展開している.しかし,資本主義国家内の民主化でコルシュが期待できるのは接近までであって,社会主義の漸進的実現ではなかった.というのも,経営協議会体制を通して,構想と実行の分離をある程度は克服したり―労働者と経営者による共同決定,あるいはあおれへの民主的国家の介入―,生産者と消費者の利害対立をある程度は調停したり―協議会への消費者代表の参加―することはできても,民主化そのものからは資本の廃棄という展望は出てこないからである.(前掲 『レーテ運動と過渡期社会』参照,青山孝徳 「カール・コルシュの社会化・評議会論」 『経済科学』 第26巻第3号参照)
 こうしてコルシュにとっては,資本主義国家における民主化の進展は,社会主義の実現と重ね合わせることはできない.いずれにしろ,資本の廃棄という展望が出てこないからである.
 それにもかかわらずカウツキーの議論が成立するとすれば,それはコルシュにとっては,資本の廃棄という問題を棚上げできるような社会主義構想を,カウツキーが用意しているからである.そしてそれは,カウツキーに特有な階級観によって可能とされたものであった.
 すでにこの節で見たように,カウツキーは,征服国家の成立が階級を生むと考え,そこでの支配集団と被支配集団との区分線によって,階級が区分されていると考えてきた.この征服国家は,中世国家まで続くのであるから,論理的には,古代国家から中世国家において,政治的,社会的,経済的に支配−被支配の関係にあったあらゆる社会集団が,論理的には階級関係を構成したことになる.第1章では論じなかったが,カウツキーにとっては,体制レベルでの暴力的な支配−被支配関係が階級関係に等しいことになる.
 その様相が変化するのが,資本主義的産業国家である.カウツキーは,資本主義においては,社会的生産に関わる機能ではなくて,生産手段を所有しているか否かで,資本家階級と労働者階級が区分されると考える.そこには,民主化の程度によっては暴力的な支配が存在するし,帝国主義のような不正常な資本主義―当時のカウツキーは,帝国主義的資本主義を,民主的な産業資本主義から逸脱した異常増殖物と見ていた―のもとでは,暴力的支配は強まるかもしれない,ともカウツキーは考えている.このような暴力性は,カウツキーにとっても,国家の全体的な民主化のなかで克服されるべきであった.
 しかし,それはカウツキーにとっては,資本−賃労働関係そのものが階級関係であることを意味しない.カウツキーは,階級と職業を区別するという観点から,暴力的・寄生的資本家と社会的生産を指揮する職業としての機能的資本家を区別し,機能的資本家は,資本主義が生産力の発展に適合している以上,社会主義化においても,生産力発展の担い手として,その存在が不可欠であると考える.それに対して,暴力的・寄生的な資本家の排除を社会主義化の課題と捉える.生産手段の資本家的所有の廃止とは,カウツキーにとっては,資本−賃労働関係そのものの廃止ではなくて,資本家による暴力的支配を廃絶し,機能的資本家の指揮のもとで社会的な生産−労働関係を編成することであった.「寄生的搾取者から所有を剥奪しても、生産過程に少しも障害を与えることないが、生産過程で活動する搾取者は、常にというわけではないが必要である。大経営の生産を継続するためには、狭義の生産過程である工場生産活動を組織し指揮することだけでなく、流通過程つまり市場活動を、生産手段の購入、労働者の募集、完成品の販売を組織し指揮することが不可欠なのである。たしかにこの機能を資本家が果たすことは不可欠ではないしかし、こうした機能自体は不可欠であり、したがって、それに代わることのできる従業員や制度がない限り、機能的資本家は不可欠である。」(『唯物史観』第4書第1編)
 こうした議論を,コルシュは次のように批判する.「マルクスとエンゲルスにとって,労働手段の独占的な所有に参加する二つの階級を区別することは,個別的な資本家的搾取者に対する賃金労働者の一面的な対立を,支配する搾取者階級に対する賃金労働者の全面的な対立へと拡大する意味ののみを持つのに対して,『マルクス主義者』Kは,・・・最初からまったく反対に,『寄生的搾取者と機能的搾取者』の『区別』,たとえば,一方での『土地所有者』や『金利生活者』と,他方でのKが賞賛する『産業資本家』との『区別』を,理論的にも実践的にも,資本と労働の対立と同様の基本的かつ重要な対立へと,はっきりと高めようとしている.彼はこうして,たとえば,『寄生的』な搾取者とは反対に,『機能的』な搾取者はこれ以上所有を剥奪されてはならないといった周知の実践的な要求や,マルクスの剰余価値論の意味では,農業の『小作人』も搾取される『労働者』に含まれるべきだ・・・といった『理論的』な主張を根拠づけている.」(『対決』 84ページ)
 コルシュから見れば,カウツキーは,資本主義の生産力発展能力の肯定と機能的資本家概念とによって,産業資本の支配を,社会主義化の経済的な原動力として承認していることになる.いいかえれば,資本そのものの廃止ではなくて,民主化された資本支配の貫徹が,社会主義化と等置されることになる.こうした前提のもとで,資本主義国家における民主化の進展が,暴力的・寄生的な資本家を排除し,資本の民主化を促進すれば,それがカウツキーにとっての社会主義ということになる.そして,こうした方向を志向する運動が,新しい階級闘争ということになる.階級闘争の標的は,資本そのものではなくて,暴力的・寄生的資本家とその同盟者である.それは,コルシュにとっては,はるか以前にベルンシュタインが,マルクス主義の公然たる修正の呼びかけという,より合理的な形態で展開した議論への後戻りにすぎなかった.この意味で,カウツキーの議論は修正主義への屈服であった.「カウツキー主義の歴史的展開のさまざまな局面を,・・・マルクスとエンゲルスのもともとの「教説」とのその時々の関連において規定するとすれば,Kの今回の著作は, Kとその仲間が最近おこなっているような,隠れた修正主義から公然たる修正主義への移行を,総括的に表現するものと特色づけることができる.」(『対決』 4−5ページ)
 こうして,コルシュにとってカウツキーの国家論,階級論は,経済的にも政治的にも,資本主義的産業国家の正統化論,民主化論に帰着することになる.それは,当時の時代でいえば,帝国主義的資本主義や暴力主義的な人種主義の台頭に対しては,たしかに闘う姿勢を示しはする.しかし,民主的とされる産業資本や民主的な資本主義国家そのものは,社会主義の契機なのであり,民主的な勢力と手を携えて反民主的な勢力と闘うに留まるのである.
 「Kは,近代資本主義国家の発生に関しては,奴隷国家や中世国家をむきだしの武力の結果として描くことによって,産業資本とその国家の・・・擁護に帰着する理論を代表していたが,今日の国家の発展傾向の本質を把握する場合にも,競争的闘争をイデオロギー的,実践的に支持することで終わっている.そして,この競争的闘争は,いかなる資本主義国家においても,また国際的にも,経済的に弱い側の資本が,小ブルジョア層や一部のプロレタリア層を従えて,政治の領域で急進自由主義的,民主的党派として,経済的により強力な側の資本家階級に対して遂行しようとしているものである.・・・初期資本主義的なブルジョア民主主義の理想を高く掲げ,その理想を基盤として,独占・金融資本・帝国主義・軍国主義などに対して戦うことは,・・・『プロレタリアートに対してはつねに同盟している資本』のあいだの異なった分派どうしの競争的闘争をたんにイデオロギー的に隠蔽するものにすぎない.」(『対決』 79ページ)
 カウツキーの立場は,この引用にもあるように,コルシュにとって,歴史的に見れば,,暴力的な封建的支配階級に対して同盟しえた初期産業資本や独立生産者,労働者の関係を政治的にも経済的にも理想化し,それを歴史の未来像に投影したものに他ならない.いいかえれば,ドイツ自由主義の一部がかつて掲げてきた階級なき資本主義の理想を,未来に展望する立場である.この意味で,カウツキーにとって,人類の本史は民主主義的資本主義国家から始まる.
 「Kがここで与えた全歴史発展の叙述によれば,これまでの人類史の過程全体とこれまでの国家の本質とを根本的に変化させた『根底的な転換』は,まさに,近代資本主義的生産様式の『登場』,それに基づくブルジョア社会と,ブルジョア社会に含まれるブルジョア国家の『登場』に関連している.我が唯物論者は,・・・人間社会の『前史』と本史の決定的な切れ目を・・・中世社会が終末を迎え,産業資本に基づく近代のブルジョア的生産様式が始まる時期に,数世紀引き戻したのである.」(『対決』 74−75ページ)「いまやここから人類史の新たな時代が始まる.この近代民主主義によってはじめて正しく解放された『技術と経済の飛躍的発展』と手を携えて,・・・人類の全歴史的発展は,『つねに成熟しつつある自由』というこれまでの歴史経過とは対立する方向に動くのである.」(『対決』 72ページ)
 

第4節 カウツキー主義の歴史的意義

 これまで述べてきたように,『唯物史観』のカウツキーは,コルシュにとって,マルクスのマルクス主義との対決という問題意識にも関わらず,なおマルクス主義に対する正統性信仰を捨てていない中途半端な態度を,示すものであった.正統性信仰を維持しながら時代に合わせてマルクス主義を修正しようとして,方法的には自然主義的唯物論の立場に後退するものであった.それは,歴史的に見れば,こう位置づけられるものであった.
 「Kの『唯物史観』の全体は,『弁証法』のような表現を折に触れて理由なく用いてはいるが,弁証法的唯物論ではなくて,自 然 主 義 的 唯 物 論のように思われる.それは,17−18世紀のブルジョア的な啓蒙と革命の時代に生まれ,カントからヘーゲルに至るドイツ観念論哲学によって一時的に『混乱』させられたあと,19世紀にまずフォイエルバッハによって哲学的に再建され,その後,とりわけ『ダーウィン主義』や他の自然諸科学において勝利を祝っていたものである.―それは,若きマルクスが『フォイエルバッハに関するテーゼ』において『ブルジョア社会の立場である』と述べたのと同じ唯物論であるだけでなく,新しい唯物弁証法的歴史観の創始者であるマルクスとエンゲルスが,後に,唯物弁証法的理論と新しい革命的階級の歴史的行為によって理論的・実践的に克服される立場と,絶えず特徴づけてきた唯物論と同じなのである.」(『対決』 36−37ページ)
 そして社会理論の面では,国家を結節点として歴史が旋回するという立場を示して,国家の歴史形成作力,とりわけ資本主義的民主主義国家の歴史形成力を最大限に強調した.「あらゆる社会現象と人類の歴史的発展の総体を究極的には『国家の作用』として把握することで満足する・・・という見方は,王政復古期のフランスブルジョアジーの歴史記述やヘーゲル哲学より後退しているだけでなく,18世紀の自然法的国家・社会理論よりも後退している.」(『対決』 64ページ)
 このように,カウツキーの議論は,コルシュにとって,マルクスのマルクス主義と対決して独自の唯物史観を構築しようとして,結果的には,マルクス以前の立場まで後退してしまうものであった.こうした後退の根本的な原因は,一面では,「マルクス主義者」コルシュにとっては,マルクスのマルクス主義に対するカウツキーの無理解にある.しかし「マルクス主義と対決しようとする」コルシュにとっては,根本的な原因は,カウツキーに代表される第2インター期正統派マルクス主義によるマルクス受容の構えそのものという,歴史的にもはや変更することのできない事態にあった.
 コルシュにとって,『マルクス主義と哲学』第2版で述べているように,「後期マルクス・エンゲルス理論の展開は,けっしてたんなる『純理論的』研究の産物ではなくて,つねに同時にさまざまな形で新しく目覚めた階級闘争の新しい実践的経験の理論的結晶なのであるが,他方で,ますます理論的に完成されていくマルクス・エンゲルスの理論は,いまやその時代の労働運動の実践とはもはや直接に結びつかなくなり,新しい歴史的諸条件のもとで過去の歴史的時代に成立した古い理論を補足することと労働運動の新しい実践という両方の過程が,相対的に独立して並行していた.」(『マルクス主義と哲学』 24
ページ)マルクス主義は,マルクスとエンゲルスの頭のなかで独自に理論的に発展し続け,「19世紀の最後の3分の1期以来新たに始まった労働者階級の実践運動が,この高度に展開されたマルクス主義理論をただ形式的にではなく真に受けいれることができなかった」のである.(前掲邦訳 25ページ)
 カウツキーに代表されるマルクス主義受容者たちは,すでに高度に発展していたためにその時代の実践とは内的な関連をもちえない体系としての,自立した体系としてのマルクス主義を,第2章第1節で述べたように,とにかく,その時代の労働運動に受容可能なものにすることができた.「彼らは,階級闘争の新たな実践的諸要求のために,この形態ではこの世代が自力で到達することのできない理論的な表現を,手に入れてやったのである.・・・この意味で,マルクス正統派とりわけカウツキー主義が仲立ちをして実現した・・・19世紀の70,80,90年代のドイツおよび国際的な労働運動による『マルクス主義受容』は,当時与えられていた客観的,主体的な諸条件のもとでは,近代労働運動の階級意識と階級闘争の発展にとって,実際に巨大な進歩を意味していたといえる.」(『対決』 126−127ページ)
 しかしコルシュにとって,彼のいう正統派的方法―出来合いの体系として受容したうえで,字句の修正や解釈の変更によってマルクス主義を現実に繋ぎ止めるという方法―では,形式的には革命的なマルクス主義理論と,「この革命的理論よりはるかに遅れ,直接ある面でこれと矛盾する」(『マルクス主義と哲学』 23ページ)改良主義的な労働運動の具体的な実践との不均衡は克服しえなかった.理論の革命的な要求と実践の改良的な要求をまえにしたとき,革命的理論を維持しようとすれば現実の実践への回路をもちえないし,逆に,改良的実践への回路を維持しようとすれば,理論の革命的な性格を放棄しなければならない.
 こうした動揺のなかで,カウツキーら正統派の試みは,コルシュによれば,「マルクス主義の初期の歴史的形態である社会革命理論[マルクスとエンゲルスのマルクス主義のこと=引用者]を,まったく抽象的な・現実に責任をとらない純粋理論の形で今後も維持しようとする,とともに,運動の新しい現実的性格が表現されている新しい改良主義理論を,マルクス主義的だはないといって拒否しようとする」(『マルクス主義と哲学』 98ページ)ものであった.しかし現実に責任をとらない純粋な革命理論というあり方は,形容矛盾である.現実に責任を取らない以上,いかなる意味であれ革命的実践と規定されるような実践を指示することはできないのだから,事実上は,改良的実践の存在を容認せざるをえないことになる.その結果として,彼らの理論は,「階級意識と階級闘争の発展を・・・一方では推進し促進するとともに,他方では同時に,それを押しとどめ拘束するという分裂した性格」(『対決』 128ページ)をもたざるをえなかった.
 コルシュによれば,カウツキー主義の歴史はこうした矛盾が展開される歴史であり,その展開のなかで,単線的にではないにしても,「進歩的,積極的な側面が後退し,反動的,否定的な側面が前景に現れてくる.そして最終的には,『正統派マルクス主義』のイデオロギー的形態の全体が,革命的階級意識と階級闘争の現実的な発展に対する純粋な桎梏に転化したのである.」(『対決』 129ページ)
 このようなコルシュの評価は,正統派マルクス主義あいはカウツキー主義が陥らざるをえなかった歴史的な矛盾が,『唯物史観』のような理論的形態をとるにいたったのかを示していない点では,きわめて不十分である.ただ,『唯物史観』が改良主義的な理論内容をもつにいたったのかをある程度は示しえた点で,評価できるにすぎない.
 しかしカウツキー理解ではなくて,本稿の「はじめに」で述べた問題意識―コルシュの思想遍歴におけるカウツキー批判の位置づけ―から見て重要なのは,革命理論を保持しようとすれば現実への回路をもちえず,現実への回路をえようとすれば革命的理論を放棄せざるをえないという矛盾を,コルシュが指摘していることである.当時のコルシュは,20世紀に入って再び革命の時代が訪れたという期待から,この矛盾は理論的にも実践的にも回避できると考えていた.その限りで,カウツキーとは反対の方向で,すなわち,革命的理論の再興というかたちで新しい理論なり思想なりを形成できると考えていた.コルシュは,こうした方向で既存のマルクス主義を批判すると同時に,それを生み出した契機をマルクスのなかにも認めて,マルクスのマルクス主義とも対決していくのである.(前掲「カール・コルシュのマルクス主義批判」参照)
 そしてその果ての1950年代には,遺稿となった「廃棄論草稿」において,マルクスのマルクス主義を含めたマルクス主義が,結局は,革命を求めて現実との回路をもちえない「抽象的アナキズム」の立場か,現実への回路を求めて資本主義の改良に終わる「社会主義の資本主義的展開」に終わる,という見地を示している.そこでは,マルクス主義を含めた諸社会主義思想を等価なものと捉えたうえで,資本主義変革の新たな道筋や思想が形成されるべきことが主張されている.
 この意味では,『唯物史観』のカウツキーに対して下したコルシュの歴史的評価は,コルシュ自身にとっても無縁ではないのである.
 

総括

 これまで見てきたように,コルシュのカウツキー批判は,「マルクス主義者コルシュ」と「マルクス主義と対決しようとするコルシュ」とがないまぜになっているものであった.その意味で,「はじめに」で述べたように,『対決』は,コルシュの思想遍歴における過渡的な性格を示している.しかも,過渡的な性格は,それだけにとどまらない.あとでコルシュ自身がマルクス主義批判の論点として取り上げるもの―マルクス主義の社会変革能力―を,マルクス主義そのものには関わらないカウツキー批判として提起している点でも,『対決』は過渡的な性格を示しているのである.