第4部 「日の丸・君が代」問題投稿文

 (最新見直し2007.8.5日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「さざなみ通信」投稿文のうち「日の丸・君が代」問題に関係したものをここで一括整理しておく。
 投稿 題名
今の共産党に対しての不満
君が代の実際的な運用方策について
第二次世界大戦の史的総括について
入一さんへご返信いたします
入一さんにあらためてご返信いたします
風雲急を告げる「君が代・日の丸」問題について
今こそ闘おう!
教育労働者はストライキで応戦せよ!
10 主戦場は公教育をめぐる攻防>れんだいじさんへ  吉野傍
11 この時期に一言


今の共産党に対しての不満(1999.4.19日)
  君が代問題が騒がれていますが、いかにもせせこましい論議のように思え てなりません。国家が認められている以上国に国歌があっも不思議ではない と思います。問題は、これまでなぜ君が代が正式に認められてこなかったのかということです。それは、君が代の文句が天皇制賛美になっていることにあります。天皇制は戦後憲法で認められていますので、理論的には君が代が国歌であっても おかしくはない。ところが、戦前の軍部独裁に至った歴史的経過と先の大戦の反省的総括がなされていない状況下での君が代の国家認定は危険であると いうのがおおかたの気分であろうと思います。とすれば、共産党の任務は、唯 一軍部とその戦争に抵抗した実績からして、君が代の国歌認定に先だち、こ の際先の戦争の史的総括を迫るというところにあるべきだと思われます。

 不破さんのこのたびの犯罪的発言性の本質は、かっての戦争責任、戦争そのものの史的総括の問題と切り離して国歌問題を一般的に批評しているところにあります。まことに信じられない党執行部の堕落です。今日の党支持者の 多くは、戦前の党の戦いぶりの支持を元手にしています。宮本ー不破体制を 支持して党を支持しているのではありません。このあたりに上層部の腐敗をか ぐことが、今回の教訓と思えます。考えてみれば、現執行部は大衆運動の運動的経験の蓄積に対して何もしておりません。社会党が自民党の政策にけちつけする役割を果たしただけで終 焉しようとしていますが、共産党もまた戦後政治体制の 修繕屋の役割のまま 滅び行く運命かも。戻る

君が代の実際的な運用方策について(1999.4.22日)
 君が代問題に対して、相も変わらずの対立の図式が露呈しています。私は、 自らの経験を通じて次のように考えます。公教育の現場において、入学式.卒業式においては、斉唱もよいのではな いかと思います。君が代の文句に込められている天皇制賛美の精神性の問題は別途協議するとして、体験上何ら問題なかったと考えています。君が代を斉唱したから右翼になったという訳でもなく、体制化させられたとも思っていま せん。問題は、学校行事のあらゆる局面において君が代斉唱が先立つほど意味があるかということにあります。私の答えは、必要なしです。特に、文化祭. 体育祭その他の際にまで国家・国民意識を統合させられる必要はないと思い ます。このような解決策では不都合なのでしょうか。例えば、今継続しているのかどうか知りませんが、夏期休みのラジオ体操に誘い合って参加していまし たが、その場で君が代を斉唱させられたことはついぞないと振り返っています。恐らく滑稽でしょうし、似合わないと云うのが実際のところだと思います。では、どこまでが似合うのかと考えますと、入学式.卒業式かなと思います。

 公教育の現場において、君が代斉唱を拒否しようとする気持ちは、文部省行政の象徴としての君が代を拒否しているのであって、国歌そのものを拒否しているのではないと思います。君が代の文句を替えるのか、別の国歌を模索するのか論議があっても良いと思います。日本人の国民性からして、感情レベルでことを左右しすぎの傾向があります。君が代問題の本質は、先の小文で指 摘したように、かっての戦争責任と史的総括が為されないままに今日まで至っており、そのことが君が代の文句に込められた天皇制賛美の心情との齟齬を 引き起こしていると云うことにあります。敵か味方かの峻別により、受容の態度が変わるのではなく、国歌必要ありなしそのものの論議と君が代そのものの歴史的な役割をめぐっての評価が為されない限り拒否するのだが、さしあたり入学式.卒業式には儀式的に必要かなという実務的な対応こそが望まれているのではないかと考えます。考えてみれば、こういう不毛な衝突のままに事態が何ら解決していない局面が多すぎて、結構それはお互いの権益をめぐっての認め合いであり、優雅な生き様確認の方法であったりして。戻る

第二次世界大戦の史的総括について (1999.5.11日)
 「君が代」問題に関連して、私が先の戦争の史的総括を迫るべきと発言したことに関連して、「澄空」さんより史的総括が[君が代」の国歌制定の呼び水になるようでは問題があるとの趣旨の意見を頂きましたので若干補足させて頂 きます。

 私が云いたかったことを少し要領よくまとめたいと思います。なにせ専門のもの書きやではありませんのでうまく趣旨が表現できなかったことを反省しています。不破さんの発言は、「君が代」・「日の丸」を前提としてのことになると思われますが、そろそろ正式な国歌.国旗の制定をしてもいい頃であり、その為の国民的論議を起こそうという発言であったように思います。先進国において正式な国歌・国旗をもたない不都合を背景にしているものと思われます。私は、「君が代」・「日の丸」が先の世界大戦の経過と深く関係しており、未だに国歌・国旗の認定が為されていないのは、先の戦争に対する史的総括が為されていないことが深く関係していることに注意を喚起させ(「君が代」・「日の丸」の拒否化運動に対して広島と沖縄の日教組が特に戦闘的であるのも故無 しとしない理由がここにあります)、この問題と切り離して一般的に国歌・国旗が必要であるとの国民的論議を呼びかける姿勢に対して、党の幹部として腐敗堕落であるということを指摘したかったのですが。  

 常識的に考えて、自民党が国歌.国旗の制定を持ち出してきた際に、上述の観点から今こそ「君が代」・「日の丸」の果たしてきた歴史的役割を問い、先の大戦の総括と教訓を得ようとする流れに持ち込むのが党の指導者としての力量ではないかと思われます。それをこともあろうにノンポリのような観点から国歌・国旗の必要有無の論議を呼びかけているが故に腐敗堕落の極みといいな しているのです。

 そこで、先の大戦の史的総括をしようという運びになった場合に、この問題がちょっとやそっとで解決できるものではないことは明らかです。最近の「自由主義史観」とも大いに論議すべき難題となりましょう。最低10年はかけて、学識者委員会・国会は言うに及ばず戦争体験者から国際的テーブルまで用意し て、さらに10年・20年かけてでも取り組むべき課題のように思っております。問題は、民衆史観とでも云うべき観点から、二度と大和民族だけが好都合であったり、時の支配階級とその子弟に有利で大衆が馬鹿を見せられるような悲惨な戦争を避ける為の具体的な方策を練る制度と思想を確立することにあり ます。詳細は知りませんが、十分なものかどうかの詮議は別としてドイツではそれなりの教訓化が為されているということです。こうした論議・論争に引き込んでいくのが党指導者の役割ではないでしょうか。そう云う意味で、不破発言はノー天気過ぎる明白な背信であるのに、党内部から追従意見が大勢を占め るとしたら口がアングリしてしまうばかりということが云いたかったのです。

 従いまして、澄空さんのご心配は私の趣旨とは少し離れておりまして、私の主張が、早く史的総括を済まして国歌・国旗を制定しようという趣旨に受け取られたのでしたら筆足らずということをお詫びします。なお、これは個人的感想ですが、日教組さんにお願いするとして、例えば校則の改良とか体罰の是非とか能力別編成の是非とか教頭・校長選出の民主 化とか学校崩壊の様子とその対策について、国民的論議を生み出すよう不破 さんに呼びかけて頂きたいのですが。戻る

入一さんへご返信いたします (1999.5.21日)

 入一さん、はじめまして。5・18付けの入一さんの投稿拝見しました。私の先の投稿末尾での文章がお気に召さなかったようですね。正直まいっておりま す。あの部分全体が軽い冗談で皮肉ったつもりだったのですけれどね。ちょっ と不謹慎というか悪趣味だったかなぁ。ああいう書き方が好きなものでして、これから少し気をつけようかな。でも、日教組と教育委員会との癒着の実態につ いては勉強になりました。またよろしく適宜教えてください。ついでにと言ってはなんですが、以下一言コメントしておきます。

 「日の丸.君が代」問題についての意見をよくよくつめてみると、論者の意見 が次のように分かれているのに気づきました。まず、国民的論議を促そうという今回の不破発言に対しての肯定的な受け止め方と否定的なそれです。肯定派は3通りに分かれるようで、一つは良くも悪くも指導者の意見にしたがうという観点からの同調(A)。一つはどう落ち着くにせよそろそろきちんとしたほうが 良いという立場(B)。一つは「日の丸.君が代」自体には何ら問題なく、それぞれ良いサインであり国歌であるという立場(C)、から構成されるようです。否定派もまた3通りに分かれるようです。一つは論議に参加することは「日の丸・君 が代」法制化に力を貸すことになり、その呼び水になるから論議自体を避けたほうが良いという立場からの反対で、この立場が反対派の一番主流をなして いるようです(D)。一つは論議するにしても過去に「日の丸・君が代」が果たしてきた国家総動員体制促進の役割に対する反省が必要であり、この絡みの解決が優先されねばならないという立場(E)。最後の一つはこの国際化時代に国歌・国旗は必要でないという立場(F)から構成されるようです。もちろんこれらの意見の折衷案もあるし、判断がつかないというのもあるでしょう。

 以上の区分に従えば、私の立場は(E)です。もっとも、かっての戦争に対する責任と防止に対する相当長期かつ本格的な討議を前提にしています。日本の場合ドイツの例とよく比較されますが、戦犯に対する追及もほとんど「GHQ」 まかせで済ましており、特に天皇制との絡みでの追及は今に至るも菊のカー テンが敷かれています。今日まで不問にされてきた経過は今さらどうしようもないので判断を留保するとして、歴史に対する分析と反省がなければ、また同じように戦争を起こしてしまい、同じ過ちを繰り返してしまうのではないかと危惧されます。どちらかというと日本人は情緒的民族だと言われています。その良さもあるのでしょうが、ブレーキを持たない情緒はやはり危険なのです。今現在同じ過ちに誘導されている兆しというか、すでに完了形というべきかそのような動きがあり、これはやはり止めねばなりません。私は、そういう観点から 不破さんが国民的論議を呼びかけるのなら支持します。この視点抜きに「国家には国歌と国旗がやはり必要ではないか」という呼びかけをしてもらいたくないし、そのようにお見受けするからノンポリぼけだと批判しているのです(現場の教師が困っているからという理由での助け舟的な提案であるというのはどうも 眉唾だなぁ)。

 私は、かっても述べましたように、私自身の体験としては入学式・卒業式の際に「日の丸・君が代」が為されたとしても違和感はありませんでした。ただ し、「日の丸・君が代」が権力的に何らかのペナルティーをもって押しつけられ るのでしたら断固反対です。かって「日の丸・君が代」が戦争で果たしてきた役割に対しての徹底した反省がなされない限り、二度とそのような役割を担わされないという保障がなされない限り法制化反対が当然であり、戦後最大の大衆闘争として取り組むに値すると考えています。遅きに失したが今からでも先の大戦の総括が必要だからです。あの大戦の経過にはわが大和民族の能力とその欠陥のすべてが凝縮されており、それを見直すことは、これからの舵取りにも大いに役立つに違いありません。国会論議程度で「日の丸・君が代」の法制化がなされるとしたら、再び国家総動員体制化の道具に使われることを防ぐ手立てを持たないままに見切り発車することになるでしょう。そのことを危惧します。

 ここまで書いている途中で、不破さんの今回の呼びかけで気になることが芽生えました。なぜ、この期にいろんな新見解を押し出してみたり、「日の丸・君が代」論議を国民に呼びかけようとしたのかなぁ。このように呼びかけるのでしたら、他にも呼びかけねばならない課題が今までにもいっぱいあったでしょうに。せねばならない党内論議も山積みしていますのに。何か深い考えがあるのか、党の私物化の完了形とみなすべきか、脳軟化のきざしかのどちらかだなぁ。

 最後に。現場の状況を良く知らないものが意見するのは困ったもんだという考え方はいただけないなぁ。そういう論理を押し進めると、お互いに職場の身近なことしか意見できなくなるからねぇ。お互いをそういう風に囲い合って障壁をつくるのは、長い目で見て害がありはしないかなぁ。『さざなみ通信』は始まったばかりだし、いきなりズバリズバリの名答論議にならなくても受け止めて欲しいんだけども。ちょっと何というか、そういう論理を突き詰めると結局現在の官僚の論理に似てくるのではないのかなぁ。戻る


入一さんにあらためてご返信いたします(1999.5.25日)
 5/23付のご投稿読ませていただきました。議論を噛みあわすということは難 しいもんだという思いがしています。どうしても噛みあわないなら仕方ありません。もう一度ご返信させていただきます。

 私の「日教組」に対する認識がアナクロになっているようですので改めようと思います。お願いしたいのは、皮肉った書き方ではありますが、私の文章の内容について論議していただきたいのです。私は、不破さんが「日の丸・君が代」問題での国民的論議を呼びかけたことに対して(論議の呼びかけ自体について私は反対していません。どんな課題に対してももっともっと論議すれば 良いのにと思っていますから)、「日の丸・君が代」問題の論議を国民的にするのなら、学校の中だけでも他にももっともっとしていただきたい事があると考えています。例えば、校則の民主化も大事。能力別編成の是非を問うことも大事。旧勤務評定問題も大事。内申書制度の問題も大事。教師からであれ生徒 からであれ校内暴力問題も大事。教頭・校長職任命の民主化も大事。最近の 学校または学級崩壊と言われている事態にいかに対応すべきかの論議も大 事……等々。歴史教科書問題 もあったかな。

 今社会一般でも緊急に国民的論議をせねばならないものもいっぱいあります。ガイドラインしかり。国連軍派遣問題、財政赤字、規制緩和、入管法問題、外国人雇用問題、長期在日外国人の参政権問題、リストラ、能力給制度の動き、公的資金導入の是非、消費税、国民の政党離れ……等々。書けばキリがない。何ゆえに今までこのような問題はそれとしたままで「日の丸・君が 代」問題だけを突出させるのかがわからない。国民的論議を呼びかけるのが悪いということはないでしょう。同じように大事な問題ばかりなのに、なぜ今まで他のことについての国民的論議を呼びかけようとしなかったのかが釈然としない。しかも、平素より法制化にうずうずしている政権与党の動きがある現在 の政治的局面において、「日の丸・君が代」問題を呼びかけることは法制化に手を貸すようなものという心配が党内外に満ち満ちているこのおりに呼びかける無神経さは尋常ではない。

 また繰り返しになりますが、現場の「全教」組合員がこの問題で消耗しているからという理由でなされたというのであればいよいよおかしい。闘争すれば 消耗するのは当たり前であり、消耗しない方法を見つけるなら何もしないこと、 闘わなければ良いだけのことです。問題は、なぜ今まで戦ってきたのか、その闘いを裏付ける理論なりイデオロギーにおいての根拠が大事であり、その根拠の比重の移り変わりが大事なわけです。したがって、相変わらず強い根拠があるなら消耗しようがしまいが徹底抗戦すべきではないですか。

 不破さんの今回の国民的論議の呼びかけの重大欠陥に、「日の丸・君が 代」問題を一般的な国歌・国旗の必要有無についての論議へのすり替えが為 されているということは度々指摘してまいりました。ここではもう述べません が、先の世界大戦に向けて果たした「日の丸・君が代」を同じような役割に利用させないという観点からの論議に持ちこむのが戦前戦中下に闘いぬいた共産党員同士たちへの思いやりであり、現執行部の責務でもあります。こういう 観点からの呼びかけでないことに私は義憤を覚えるのです。

 不破さんの今回の国民的論議の呼びかけのもう一つの重大欠陥は、事前に党内論議を徹底 して行なうという観点が欠落していることにあります。国民に呼びかけはするけど党内論議は後回しというのはおかしいでしょぉ。最近いろいろ新説をだしたり、それを党内外向けの大衆本で発表したりしているようですが、今までそんなことをして除名された党員はいなかったかなぁ。例えば黙って手記を発表し たとかの理由で……。私は、そういう動きを押さえようとは思いません。中央委員会か政治局あたりのどこが担当するのかは知りませんがもっともっと自由に しても良いと思っています(統一と団結は、論議を得た上での当面の方針につ いてだけで充分と私は考えていますから)。ここでも問題は、他の党員が行なえば規律違反になったり除名されるのに、なぜ不破さんはオールマイティーな のかということを問題にしたいのです。おかしくないですか。

 以上のような欠陥を持つ異常な動きに対して誰も「殿、ご乱心」の意見が出 されないとしたら、誰かが鈴をつける役割を担わねばならない。今回は主に教育界のことでしたから「日教組」さんにお願いしたのです。別に「全教組」さんでも意味は変わりません。その意味するところは、他のことでも国民的論議を呼びかけて欲しい、 党内論議もやって欲しいというところにあります。このセンテ ンスで論議していただければ、私の意見の未熟さの質的向上がもたらされる ことにもなり、弁証法的ならせん的発展へと向かうものと思われます。

 最後に。私は、「君が代・日の丸」が学校内の主要行事で歌わされたり、掲揚されることに反対ではありません。主要行事とは入学式・卒業式というふうに考えています。私の個人的経験において、厳粛にすべきときには厳粛さを 演出するものがあっても良いと思うからです。「君が代・日の丸」に絶対こだわ るという意味ではありませんが、別に天皇信者にさせられたようにも思っていませんから。ただし、法制化するのならきちんと論議をして欲しい、国会論議で 済ますほど軽い問題ではないと考えています。ドイツの戦後処理を参考にしつ つ、遅まきながらかっての戦争の史的総括を10年と言わず20年かけてでも本格的に論議することが肝要と考えています。なぜ、「日の丸・君が代」問題が そのような方向に向かわないのかが不思議でなりません。

 だから、この問題に関して私の実際的な解決は次のようになります。公権力により強制的に歌 わされたり、掲揚されることに対しては断固反対して、その前になさねばならない史的総括があるだろうと迫る拮抗関係を維持し続けて欲しいのです。そう いう局面について教えた上で公正に生徒または生徒会の論議に乗せて、入 学式・卒業式が運営されたらご立派。そして、他にもいっぱいある大事な問題に対して時に国民的論議を交えながら解決を見出していって欲しい。学校がそんなふうに運営され出したらステキ。戻る

風雲急を告げる「君が代・日の丸」問題について (1999.6.12日)

 「君が代・日の丸」の法制化を促す国会審議がいよいよ始まるということで す。今われわれは何をなすべきか早急な対応策が求められています。そこ で、少々意見させていただきます。

 戦後は、現憲法により結社・集会・表現の自由が認められて以来、その規範力の支援を得て労働階級側より数々の大衆闘争を攻勢的に行使してまいりました。これを逆からの視点で見れば次のように言えるかと思われます。戦前の支配階級は、好むと好まざるにかかわらず彼らの意図どおりに政策遂行した結果、無残にも敗戦を迎え、「神州」の国としての根本に関わる天皇制の廃嫡までが現実化するという国家の壊滅的事態まで招き、その責任の重さの前に茫然自失し、蟄居を余儀なくされたという構図があったということでもあります。 「君が代・日の丸」問題を考える前提としてそのような彼我の関係において戦後史を俯瞰しておく必要があります。なお、当時の支配層は何とかして天皇制を維持しようと試みこれに成功しました。「日ユ同祖論」の持ち出しもその一つであり、従順すぎる国民の性癖を告げ天皇制を上手に活用することが進駐軍の利益にもかなうとか、あの手この手でマッカーサー司令長官にすり寄り、象徴天皇制という苦肉の策を生み出したわけです。「GHQ」とのこの一連の交渉経過の知能戦は、制度の廃止さえ避けておればいずれその日がくれば復活させることができるという、時の為政者の深読みの方に軍配が挙げられると思われます。なぜなら、戦後五十年を経て、今念願のその日の日程を議事化する各種法案が浮上しつつあるからです。「君が代・日の丸」問題を考える前提と してそのような歴史の流れにおいて戦後史を俯瞰しておく必要があります。

 現代日本を支配するエスタブリッシュメントたちは、過去の一億一心の味が忘れられない。たまさか戦前戦中は戦略が誤っただけであり、親方日の丸方式そのものは便利な統治術であった。現代「帝王学」はそのようにかっての戦争を総括している節がある。皮肉なことに、エスタブリッシュメントたちは、経済が物事の基本である というマルクス主義的な認識のもとにかどうか、建前はアメリカさんの名分を立て遮二無二に経済復興を目指し、そこに連なる人脈の登用と活用を図ってきたという経過がある。もっとも、用済みになると成り上が り者は使い捨ての目に合わされたけれども。

 これに対して、いわゆる反体制側はどうシフトしてきたか。主に日本共産党のアイデンティティーを見てみると次のように言える。一つは、かの戦争については思い出すのもいや、せいぜい軍部の独走であったという没階級的歴史観にとらわれて今日まで至っていること。一つは、戦後憲法にダイヤのごとき煌きを覚え護憲を最優先にしてきたこと。一つは、闘争理論として稀有な値打ちを持 つマルクス主義の理論的深化のおざなりと換骨奪胎への傾注努力。一つは、 民主集中制という便利な組織論に基づく整風化。つまり、旧社会党のそれも含めて相互の権益不可侵の原則のもとに阿吽の呼吸で経済の復興と成長に 協力し上手に飯を食ってきたという経過が見える。(憲法重視は良かったと私は考えています。これは別のところで投稿したいと考えています)

 しかし、いつまでも仲良しクラブが維持できるほど世界情勢は順風ではな い。アメリカのダントツ世界支配化の動き。ECのカウンター力。ロシアの面子。 中国の中華意識。そしてそれぞれの国家には国家としての意地。そういう世界の思惑の中へ関わり合って踏み込んで行かなければならない経済のグロ ーバル化に伴う国際情勢が待ち受けている。このような事態を前にして日本人または国家はどう対応しようとするのか、「君が代・日の丸」問題の背景にはこ うした時局要請が絡んでいることが踏まえられねばならない。

 経済力的に見て日本がすでに世界に影響力を持つ枢要な地位を占めている ことは事実である。官僚が優秀であったのか人民大衆が優秀であるのか議論の余地があるがここでは問わない。そのような時代を迎えて、先ほど指摘したように日本のエスタブリッシュメントたちは昔取った杵柄(きねづか)を思い出しつつあるように思える。一億一心の国民総動員のあの味が忘れられないのだ。大衆意識のほうでもそれに迎合する習性がある。いくらつくってみても御用化する労働組合なぞはその証といえる。共産党の温和化もその例に漏れないかも。問題は、一億一心には良し悪しがあるということ。順風には強いが逆風になるともろいという欠点がある。このことを深く凝視せねばならない。問題は、人民大衆庶民は、すっかり自信を取り戻した支配層が彼らのほうから攻勢的に社会改革を行なおうとする局面に至っているという厳しい状況を認識せねばならないことにある。

 話が際限無くなるので、このあたりで「君が代・日の丸」問題に対する私の考えを述べておきます。「君が代・日の丸」の法制化は絶対に阻止せねばならな い。「君が代・日の丸」問題は、政党間の党略で押し進められるほどやわな課題ではない!のだ。歴史に対する責任というものがとりわけてついて回る重大 案件であり、これから際限なく続いてくるであろう支配層の側からの攻撃に対 してどう立ち向かうのかというテーマとして位置づけられ認識されねばならな い。これの法制化を目指すというなら審議会を設置し、なおかつ少なくとも向こう10年ぐらいの国民的論議を経る必要があるという観点から応戦し、闘争を組織する必要がある。何でも反対ではなく、「君が代・日の丸」が利用されてきた歴史的な役割に目を向けさせ、二度と国民総動員の道具には使わせないという保証を取りつけ、同時に過去の大戦の史的総括へと踏み込んでいく必要がある。試しにそのように運動を組織してみてごらん。必ず国民的支持が得られる。かの戦争でいかに庶民が馬鹿を見させられたかの怨嗟の声がたちまち沸き起こるから。かっての戦争の傷跡を引きずっている人は今なお多い。難しい、先の戦争の正義不正義論は学者に任せておけばよい。アメリカにやられ るまでもなく、すでに内部に、軍部にせよ政党にせよ、財閥にせよ、いかに腐敗していたかの証言が飛び出すから。上級階層の子弟がうまく立ちまわり、庶民兵士が山野に捨てられ、または終戦が判っていてなおお国のために突撃を余儀なくされたかを改めて知らされるから。このことは「君が代・日の丸」問題に関わらず共産党あたりで然るべくノートにしておかなければならないことだと 考えますが……。何か誤解があるのだろうけど、党は、過去の戦争に反対し た唯一の政党であったという手柄話は強調しても、時の支配層がいかに庶民 大衆を愚弄しつつ肉弾戦争に巻き込んだかという実態を暴露しようとはしていない。そうした一連のことについて小林よしのりさんに劇画化をお願いしよう。

 そのことはともかく、このように運動を組織していった場合に、「自・自・公」の背後にいる反動どもがどのように出てくるか、そこに向かって組織的にも理論的にも運動を構築していくのが闘争というものではないのか!  ガイドライン法、盗聴法も含めて今回の「君が代・日の丸」法制化の狙いは、 国家の危機管理能力整備の一環としての動きであることは容易に見てとれ る。後は破防法であり、憲法の改正が最終コースというわけだ。なんか中曽根 あたりの思惑通りになってきたなぁ。歴代総理の中で一番マスコミ受けしたのが三木で、彼が二番目かなぁ。『赤旗』も角栄の時ほど攻撃しなかったよね ぇ。ところで、中曽根といえば、軍事費のGNP比1%枠突破と、国鉄とNTTの民営化と、赤字国債の加速化と、バブル経済の産みの親というイメージがある のだけれど、これって日本民族百年の計に本当に貢献してるのかなぁ。彼はいったい民族主義者なの、国際委員会派なの。児玉の例もあるしなぁ。戻る


今こそ闘おう! (1999.7.5日)

 本日7/5日付毎日新聞2面3面使っての「国旗・国歌」関連記事は良かっ たですねぇ。外信部・政治部・社会部・司会のそれぞれ現役中堅記者が実名で意見を述べ合っているこの形式は今後とも有益ではないでしょうか。今まで もあったのかも知れませんが、タイムリーな点が特に好感持てます。内容につ いては見るべきものがありませんが、お腹が満腹になると人は誰しも保守化するのでしょうからとがめだてするには及びません。ブル新という立場上の制限もあるでしょうから。

 「国旗・国歌」法案の国会審議が始まりましたが、自・自・公の数の力で押しきられるとしたら嫌な世の中になったもんだという気がします。日本の場合結局のところどうして大政翼賛会化してしまうのかなぁ。共産党が頑張らねばいけないんだけど、「会期末でこの重大法案を出してくることに非常に驚いている。」(不破委員長談話)てな調子で大丈夫なのかなぁ。今回はいいだしっぺ 的な責任もあるのだからよっぽど性根を据えて応戦して欲しいですねぇ。「調査会」設置提案も良いでしょう。問題は、口先ばかりでは駄目ということにあります。何としてでもいったん阻止して、「調査会」審議に持ちこんでもらいたいと思います。そして、過去の戦争の10年がかりの史的総括の場へ発展させて いただきたいと思います。この観点抜きにおしゃべりしても意味がありませんよ。

 念のため。何度も投稿しておりますが、かっての戦争をきちっと見つめ直すことが今後の国家的な舵取りにおいて急務であり、今こそ振り返る絶好の時期なのです。選挙票の獲得という点でも必ず国民的支持が得られること間違いありませんよ。全国のおじいちゃん、おばあちゃんが喉のつかえが降りたと言ってくれますよ。社民党が一打挽回するとしたら、ここで共産党よりより早 く、より強く主張すれば消費税時なみのホームランの可能性がありますよ。自民党と背後の官僚どもが悪乗り調子でやってきた時がチャンスですよ。「ピンチはチャンスだ」とかいう言葉が流行っていますが、政界とても同じ事のように思われます。どなたか共産党、社民党、民主党のリーダーに私のこの発言を伝えてくれませんか。

 不破委員長が70年頃に国会にさっそうと登場してきた時は、「人民的議会主義」を鳴り物に今後は一層院内外の闘争を有機的に結合するんだとか力説 していたように思います。実際の経過はご覧の通りではありますが-----。今 こそ議会と大衆闘争をリンクさせたらどうかなぁ。「審議会」設置の要求だけで 責任果たし顔して法案をすんなり通らせたりしたら市中引き回しの罪一等もん ですよ。ほんとに。考えてみれば、いつのまにか皆さんデモをしなくなりましたねぇ。お焼香デモのようなものは時にお見受けすることがありますがね。デモ には大衆活性化のビタミン効果があるんですけどねぇ。長いことこれこそデモ というものが失われているので皆さんビタミン・ミネラル・ファイバー不足になっ ているんではないでしょうか。あんまり不足すると頭の回りが悪くなったり、無気力になるんですって。

 この法案がどのようないきさつになるかが左翼勢力の相対的地盤の状況を メルクマールするんではないでしょうか。自・自・公の結託は戦後政党政治の必然コースであって遅かれ早かれそのような形になるものでしょう。こうして闘 う相手がはっきりした分だけ闘い易いとも言えます。「旧大戦の史的総括を今こそ」という大義の錦の御旗を立ててせり出せば、何が起こるか判らない。何 かが起こる予感もします。問題は、闘うときに闘わないと、ズルズルと後退局面の防戦一方にされてしまう恐れがあるということにあります。この闘いは勝 てる!。僕もローン漬けの我が身を引きずりながらも久し振りに街頭へ出よう か。なつかしくも恥ずかしくもお国の為だわ。戻る


教育労働者はストライキで応戦せよ!(1999.7.22日)
 「国旗・国歌法案」が衆議院を通過する見通しという事態を迎えましたが、な ぜこのような事態が平穏に経過するのか疑問を覚えるし憤りもまた禁じえない。その理由として、「国旗・国歌」を認めようとする勢力も確かに存在するのであろうか゛、私なりの受け止め方は次のように思う。今人民大衆の意識はそれどころではないのではないか。おまんまを食えるかどうかの瀬戸際に立たさ れており、この緊急さからすると「国旗・国歌」法案に思いをめぐらすゆとりがな いのではないか。その成り行きなどどうでも良いというのではなく、それどころではないという気分にあるのではなかろうか。だとすれば、当面心配のない身分保障を受けている公務員がしっかり頑張ってくれないといけない。特に、教育労働者は直接的に利害が関係しているのであるからストライキも辞さずという運動を組織すべきではないか。今学校で「国旗・国歌」法案をめぐって教員がストライキに取り組んだとして国民的批判が生まれるだろうか。そういう合唱 も予想されるが、むしろ早急な法案化に危惧する叫びを支持する大合唱も生まれるのではなかろうか。そのような行動がなされないと国民的な論議なぞ生まれるべくもないのではなかろうか。国民的な論議というものは自動的に生み 出されるのではなく、生み出すべく戦う主体があって初めて作り出されるのではなかろうか。考えてみれば、労働者がローン漬けにされているという現実が かくも哀しい閉塞を余儀なくされているのかなぁ。

 明治以来の教育界の流れは、しだいしだいに現場の創意工夫ができないように仕組まれてきた歴史のように思う。明治から終戦に向かう流れがそうであるし、敗戦によりその桎梏が取り外されたものの、再びそのような統制化が完結されようとしているのではないかと危惧する。私の個人的な知識では、幕末の寺小屋教育にあふれていた創意自由性こそ羨ましい。寺小屋はもともと大衆が生み出したものであり、そこには権力の統制の及ばざる良さがあった。寺小屋の師匠さんは思い思いのやり方で基礎教育をなし、結構成果をあげていたように思う。例えば、大塩平八郎の「激文」が早速テキストに使われていたとかを知らされると素晴らしいの一言につきる。明治教育はそうした現場の自由 性を天皇制イデオロギーと国家主義の統制的な一元化に完結させていく歴史であり、善し悪しはあるもののやるせない。このたびの「国旗.国歌」法案とは、その外形的な完結編であり、これから先が思いやられる。現代は義務教育であり強制を伴っているのであるから、国民的合意のないままの一方的な 価値観の押しつけは問題とされるべきではなかろうか。かっての敗戦に伴う戦争責任追及の一環としての公職追放から教育界と司法界は免れた経過がある。当時の責任者の流れを汲む者たちが再び無反省にも同じ道へと誘おうとし ていることに怒りを覚える。本来ならドイツにおけるナチス党員の歴史責任負荷と同じく生涯を隠居させられるべき郎党の蠢動がなぜ我が国ではいとも 易々とのさばるのであろうか。

 参考になる考え方として、タックスペイヤーとしての自立意識またはインフォームド・コンセントの確立を教育界にも押し寄せるべきではなかろうか。学校が文部省のロボット教師で充満されるとしたら、われわれの子女は義務教育から解放されるべしだし、国外のより自由な学校で学ばさねばならないことにも なるし、より自立的な通信教育で間に合わせた方が賢明かもしれないし、解決すべきは、そのような経過を経ても大学受験資格を取得できるという仕組み を作り上げることであろう。この道も閉ざされたままの教育界の統制化は犯罪であり、万一「国旗・国歌」法案が由々しき事態への道先案内になったとした場合に、その責任を追及できる仕組みにしておかないとおかしいのではないか。われわれ日本人は従順さには定評のある民族ではあるが、得たものさえ容易に失う従順さとはあまりに馬鹿げている気がしてならない。取り急ぎ投稿 させていただきました。戻る

主戦場は公教育をめぐる攻防>れんだいじさんへ (1999.7.24日、吉野傍)
 「教育労働者はストライキで応戦せよ! 」は非常に興味深く読みました。本当に教育労働者が1日ストでもいいから、組織労働者としての抗議の意思を 示すことができたら、きわめて画期的なことでしょうね。そして、日教組が文部省に屈服する前だったら、本当に可能だったかもしれません。今回の「日の 丸・君が代」法案の強行は、共産党が国旗・国歌の法制化を肯定するという大失策だけでなく、それ以前に日教組が「日の丸・君が代」を認める立場に転換 し、文部省との和解路線に走ったことも背景にあると思います。

 23日の『朝日新聞』朝刊の1面に早野透という編集委員が、日教組と文部省との間で関係改善が進んでいるというのに、今回のような唐突な形での法制化の強行は疑問だ、などというとんちんかんなことを書いていましたが、まさに「関係改善」(つまり屈服)が行なわれたからこそ、「日の丸・君が代」の法制 化も強行することができたのです。ブルジョア新聞の良心派の見識などこんな もんです。

 さて、れんだいじさんは、後半部分で、義務教育によらない自由な教育を推奨し、「学校が文部省のロボット教師で充満されるとしたら、われわれの子女は義務教育から解放されるべし」と述べておられます。こう言いたい気持ちは大いにわかりますが、しかし、危険な一面も持っていると思います。というのは、現在の支配層が狙っているのは、まさにこういう形での公教育の解体と自 由化だからです。  「寺子屋」的教育が可能なのは、教育を受ける人間が武士階級の子弟だけ だったからです。一部の特権階層のための「自由教育」は、その面だけを見れ ばたしかに、管理主義的な公教育よりも自由で個性尊重に見えますが、しか し実際には、そのような贅沢な教育を受けられるのは、社会のごく一部の豊か な層だけです。  また、多くの私学も、実際には私学助成金なしには経営は成り立たず、その ような公的手段を通して文部省は圧力をかけてくるでしょう。いっさいの助成金なしに運営しようとすれば、莫大な学費をとらなければならず、それこそ超リッ チな家庭の子弟だけがそのような教育を受けることができるでしょう(アメリカ の私学のように)。  圧倒的多数の国民、とりわけ貧しい階層の国民は、結局、公教育に頼らなければならないとしたら、めざすべきは公教育の解体ではなく、公教育を真にその名に値するものへと改革することです。それは、管理主義、「日の丸・君が 代」の押しつけ等々に対する闘いのみならず、競争主義的で出世主義的な教 育像を変革する闘いでもあります。そしてそれは、現場教師だけの仕事ではな く、子供の親と地域社会の共同の闘いでもあります。もちろん、言うは易し、行 ないは難しですが。

 とはいえ、私はもちろん、通信教育なり、自主学校のような形態を否定するわけではありません。深刻ないじめや、親による虐待ゆえの精神的不安定な どのさまざまな問題があって、通常の学校に通うことが苦痛でしかないような 子供たちは大勢おり、彼ら・彼女らの教育権を守るためには、緊急避難として 多様で自主的な教育施設が設けられ、公的な支援を受け、必要な資格取得 が可能にならなければなりません。したがって、公教育のあり方という本丸をめぐる主要な攻防をやりつつ、すべ ての子供たちの教育権を守るために、多様で自主的な教育形態を擁護し発展 させていくという2段構えが必要になると思います。  以上、まったくの素人による理想論でした。失礼。戻る

この時期に一言 (1999.7.29日)
 どうもこのまま行くと「国旗・国歌」法案は参議院でも通過しそうだから結局 法案成立ということになるのでしょうか。この間プロ野球のオールスター戦のニ ュースを見ていたら、選手一同を前にして若手の女性歌手が「君が代」を歌っていました。今までも行事化されていたのか今回が初めてなのかよく分かりませんが、こうして社会の隅々に一般化されていくことになるのかと思うとやり切 れない気持ちになりました。大相撲の千秋楽の賜杯授与の前後のどちらかに 「君が代」が歌われることは承知していますが、大相撲の場合には国技だから ふさわしいのかなという受け止め方をしてまいりました。もっともちょっと考えれ ば、「君が代」の歴史は明治以降と新しく大相撲の歴史は古来よりのことです から、「君が代」なしに大相撲が興行されてきた時代の方がずっと長いことが 判ります。しかし、いつも聞かされていると、何だか大相撲には「君が代」が似合いだなという気分になるから不思議です。恐らく、プロ野球でもサッカーでも 競輪でもボートでもこれからは何でもかんでも初めと終わりには「日の丸」と「君が代」が掲揚され歌われる時代がやってくるのでしょうね。

 今までは慣習でしかなかったから、右翼は自分たちだけのアイデンティティと して納めてきた。これからは一人のお調子者が出てきて法制化されているものを無視するとはけしからんと主張すれば、それも道理ということになるのでし ょうね。歌わない自由があるからと言うけれど、聞かされたくない自由はどうな るのでしょう。自分は歌わなくても周りが歌えば否応なく耳に入ってくる。これを聞きたくないと言っても防ぐ手だてはない。私は、日本人の情緒性からして お調子者が突出してくると、和気あいあいのうちになし崩しで同調していくことになる危険を感じています。戦前の軍部の歩みはそういう勇ましい者にどんどん引きずられていった歴史ではないかと思っています。そしてそのお調子者を 上手に利用する国際的勢力がいたと認識しています。そういう思いからすれば、慣習で良いものをこの時期わざわざ法制化を急ぐ必要が判りません。お調 子者に対するブレーキを持たないままにこの法案を通しても良いのか心配して います。

 党がかってない議席増だとかいっている一方でどんどん社会のナショナリズ ム化が整備されつつあります。ナショナリズム自体が悪いかどうかは議論が百出しますので置いといたとして、戦前のような二の舞つまり国民総動員の道 具に使われないような保障についての論議をしておかないといけないのでは ないかと心配しています。国際化の波が否応なく押し寄せてきていますので 国家主義者の台頭は無理とも思いますが、何かにつけマスコミの袋叩きの様相とか新聞各紙の同じ論調ぶりとかを思うとき我々日本人の勤勉一途の情緒 性は役に立たないのではないかと心配しています。天照らすなむなむアーメン の心境です。戻る

投稿文の一部訂正(1999.7.30日)
 昨日の投稿文でオールスターの開会に当たっての「君が代」の斉唱につき 訝る気持ちを表明させて頂きましたが、既に当たり前になっているとのことの ようです。プロ野球の開始に当たってもまず「君が代」を斉唱してから始まる し、甲子園での高校野球もそうだし、ボクシングもそうだとか教えられました。 半信半疑ですが、こういう世情の実際に疎いままに投稿したことを後悔してい ます。各種の発表会でも既にそうなっているのでしょうか。状況をきちんと知っ ておく必要があるなと反省しています。とり急ぎ訂正致します。

 (以下、漣通信投稿文とは別文)

【在地主義と国際主義の相関考】
 各国各地の在地主義的民族主義、愛国主義に基づかない国際主義は有り得ないことを示唆しているのではなかろうか。丁度、言語に於けるエスペラント運動の例が示してるように、空中から新言語を作り出してみても役に立たない。むしろ迷惑な話ではなかったか。望まれているのは、各国各地の優れた言語はそのままに活かされ、なお且つ世界共通言語が普及されるという構造ではなかろうか。民族主義、愛国主義と国際主義は相反するものではなく、民族主義、愛国主義の基盤の上に国際主義が花開くと了解すべきではなかろうか。

 我々が戒めるべきは、国際主義を受容しないような偏狭な愛国主義、民族主義であり、特に戦争を煽られて狩りだされるための愛国主義、民族主義である。戦争や衝突を生み出さない為の愛国主義、民族主義というのは有り得る筈であり、これが有り得ないのは歴史的に見てネオ・シオニズムにより人為的にそうさせられているからである。れんだいこはそのように理解している。

 こう考えると、日本左派運動のこれまでの、愛国主義、民族主義そのものに何が何でも反対するという肩肘張ったスタイルは単に気分的なものでしかないということになる。れんだいこによれば、国旗としての日の丸、国歌としての君が代がそれぞれ国旗国歌に値するものであるとするなら、例えば学校行事で掲揚されたり唱歌されることは何ら問題ない。問題は、入学式、卒業式に限定すればよいだけの話である。実際には、認める認めないの不毛の抗争が続き、認めたとなると学校行事の全てに日の丸、国歌が付いて回るという状況がある。つまりケジメが無い。故に端から反対するという闘争が組まれているように思われる。れんだいこは、あまり生産的ではないと思う。




(私論.私見)