325622 ローザ・ルクセンブルク論

Dr.ローザ・ルクセンブルク
 1871年ロシア領ポーランドに生まれ。「資本蓄積論」を著作、何度も投獄の苦難を経てドイツ共産党を創立、1919年K・リープクネヒトと共にドイツ社会民主党出の司令長官ノスケの手先によって暗殺された女性革命家。

 概要「1918年の『ロシア革命』の中で、普通選挙も無く出版と集会の無制限の自由も無く、自由な言論闘争もなく、官僚機構のみが活動的な分子である。実際の権力は、傑出した知性を授けられた一ダースほどの党の指導者の手中にあり、労働者のエリートは、指導者たちの演説に拍手をし、提案された決議に満場一致で賛成するため、時たま集会に出席させられている。事実、あるのは一徒党の政府であり、確かに独裁であるが、プロレタリアートの独裁ではなく、一握りの政治屋たちの独裁、つまりブルジョア的な意味での独裁である」と、断言し、「公衆の監視が絶対に不可欠である」と、訴えている。


 26歳より48歳までの生涯を通じて、ドイツ社会民主党カウッキー一家とは親しい間柄にあり、「ローザ・ルクセンブルクの手紙、ルイーゼ・カウッキー編、初版1932年、岩波文庫」は、ローザ暗殺3年後の1922年、「裏切者、社会愛国主義者、シャイデマン派、背教者」の怒号の中で、カウッキー夫人が編集発行したもの。特に最後の数年間の手紙は、カウッキーとローザ・ルクセンブルクの友情が、国際的なありとあらゆる怒号の中にあっても元のまま、いや、ますます友情は深く、細やかになっていったことを読む者をして胸熱くさせる。 当時カウッキーに加えられていた鉄拳のすごさはレーニンのローザ評の中にも見ることができる。「これらの欠陥は、ローザの個人的欠陥ではなくて、カウッキー流の偽善、衒学、日和見主義に対する和平という、忌むべき網により四方八方からがんじがらめにされている、すべてのドイツ左翼の結果である」とし、カウッキー等を「労働運動の後方で糞土にまみれながらさえずえる鶏」になぞらえつつ、ローザを「高く飛ぶ鷲」の姿に例えている。

 ローザ自身もカウッキーのロシア革命時期尚早論を評して1917年4月、こんな激しい手紙を書いている。「ロシアの社会関係はプロレタリアートの独裁にまではまだ成熟していない!なんと独立社会民主党にふさわしい「理論家」でしょう!彼(勿論文中ではカール・カウッキーを指している)は、フランスも1789年と、それから1793年には「統計的」にみれば、ブルジョアジーの支配にまでは、なお一層成熟していなかった、ということを忘れてしまったのです!幸いなことに、歴史はもうとっくにカウッキーの歴史的処方箋通りには進んでいません。ですから私達は最善を期待しましょう。」と。

 しかし、70年後の今日、崩壊したロシア社会主義の誤りは、自国独裁権力集中を押し進めた過程において民主主義を踏みにじり、しかもロシアモデルを世界各国に押し付けた歴史的大失政にあり、その起因はカウッキーが当初執拗に主張していた歴史発展原則の無視にあったのではないか、今でも自分はそう思っている。民主主義を大切にしたカウッキーは間違っていなかった、自分はそう考えたい。


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 レーニン(1870−1924)は、「これら一切の欠点にも関わらず、彼女は鷲であったし、また鷲であり続ける」と評価した。


 マルクス主義は、プレハーノフによりロシアにも導入された。プレハーノフはカウッキー型の正統派マルクス主義の流れを汲み、1898年ロシア社会民主労働党が結成される。しかし、その内部で次第に、社会民主主義(大衆政党組織)を主張するマルトフ派と、暴力革命を主張するレーニン派とが対立し、主導権を争っていくことになる。1903年、ロシア社会民主労働党第2回大会で、両者は、党員資格問題で対立し、少数精鋭の職業的革命家に限定するのか否かを廻って激論が発生した。最終投票の結果、レーニン派が多数を占めてマルトフ派を破り、それ以降、党内の主導権を支配することになった。



オットー・リユーレ
 ドイツの古参政治家。1920年5月ドイツ共産党から分離したドイツ共産主義労働者党から、実情視察のためロシアに数週間にわたって派遣された。その旅で彼は、ボルシェヴィキ党とヨーロッパ左翼の間にはいかなる共通原則もないと確認し、帰国後、ロシア革命の実態についての報告書を党に提出した。概要「ロシアにおいてカリカチュアと見えるものは、歴史的に乗り越えられたがゆえに間違ったシステムから生じている。中央集権主義は、資本主義・ブルジョア時代の組織原則である。この原則によって建設できるのは、ブルジョア国家と資本主義経済である。しかし、プロレタリア国家、社会主義経済ではない。後者は、諸評議会のシステムを要求する。ところが、ロシアにおいては、諸評議会は亡霊でしかないし、党の独裁的官僚制のいちじくの葉である。官僚制に支えられているロシア、それは結局、政治的・経済的な共産主義のカリカチュアであり、野蛮で不毛で耐え難い国家共産主義であり、野蛮で不毛で耐え難い国家的奴隷制度である。ロシアとは反対に、我々にとって問題なのは、大衆の発意を噴出させめこと、大衆を権力から解き放つこと、彼らの自意識を発展させること、彼らの自律的な行動を形成すること、そうすることによって彼らの革命への参加を促進させること、である」。


大杉栄
1922年に、ロシア革命について、なぜ進行中の革命を擁護しないのか、その理由を次のように述べている。
「ボルシェヴィキ政府に対する批評!僕はそれを随分長い間遠慮していた。僕ばかりではない。世界の無政府主義者の大半がそうだった。また、革命の最初には自ら進んで共産主義者らの共同戦線に立ったものも少なくはなかった。ロシアの無政府主義者らは、ほとんど皆そうだと云ってよかろう。ロシア以外の国の無政府主義者は、一つにはロシアの真相がよくわからなかった。そしてもう一つには、実際反革命が嫌だった。そして彼らは十分な同情をもって、ロシア革命の進行を見ていたのだ。が、真相はだんだんに知れてきた。労農政府すなわち労働者と農民との政府それ自身が、革命の進行を妨げるもっとも有力な反革命的要素であることすらが分かった。ロシアの革命は誰でも助ける。が、そんなボルシェヴィキ政府を誰が助けるもんか」。


アントン・バネクーク
 オランダの評議会共産主義者。彼の思想の集大成である大著「労働者評議会」(1942−47年に執筆)の中で、ロシアで成立したのは国家資本主義であると規定した上で、ロシアの社会体制の本質を的確に表現した。「共産党は、外国向けの宣伝の中で、共産主義と世界革命について語り、資本主義を批判し、労働者達に、彼らの解放の為の闘争に合流するよう、訴え続けている。しかしその一方で、ロシアの労働者達が、奴隷化され搾取されている階級でしかないこと、言論・出版・結社の自由を奪われ、抑圧的で冷酷な独裁下にあり、西欧諸国の労働者階級よりもずっと手厳しく屈従させられているという、惨めな状態の中で大概の時間を過ごしている事実を、押し隠している」。



 史上、社会主義体制下のソ連が長らく語られてきた。社会主義とは何か、自分で問い直すこともせず、ソ連の現実を知ろうともせず、自分の目で確かめることもなく、ソ連は社会主義国であるという歴史上の大詐欺に加担してきた知識人が多い。この事実は、知識人を自認、自称する人々が、いかに体制迎合的であるか、いかに人の尻馬に乗ってしかものをいわないか、いかに権威あるものによって既に公認されている見解に追随しているか、という、彼らの生態を見事に語っている。

 その同じ人々が、ソ連の体制が崩壊すると、今度は社会主義とは何かを考え直すこともなく、共産主義という壮大な歴史的実験は挫折したとか、社会主義思想はもはや意味を失ったとか、理想主義が現実主義に敗北したとか、陳腐な常套句を繰り返し、資本主義以外の別な社会の在り方を求めるのは全く無駄な努力である、資本主義こそ人類が生み出した最良の社会体制である、金儲けのおこぼれにあずかること以外に人間の幸福は無い、等々の、新手の詐欺行為を働いている。
「新共産党宣言」(江口幹・三一新書・1998.3.31日)意訳






柾木恭介の「びっくり通信」
     第110号 カールよ なぜ君は最後まで書かなかったのか 1996.04.15発行  

カールよ なぜ君は最後まで
           書かなかったのか


 一昨年のことになるが、新聞『思想運動』501号(94/6/15)の『変身す
る資本』で、現代の資本主義の性格はその価値増殖の源泉を物的生産から非物的生産
へ重点を移しつつ新しい段階に到達しているのであり、その解明には三巻の『資本論』
と『剰余価値学説史』に続く『資本論』の第五巻が書かれる必要がある、という趣旨
の小論を書いた。そのような考えは、労働者階級はますます窮乏化し、階級闘争は激
化し、破壊的な恐慌は社会主義への序曲になるというような「資本主義」論への疑問
と否定であり、まさしくベルンシュタイン的な修正主義ではないか、というような批
判が当然あるものと予想していた。だが、見当外れの意見が掲載されただけで拍子抜
けした。
 ところが最近、バリー・メイトランドの『マルクスの末裔』(早川書房)を読んで
愕然とした。『資本論』第三巻は第七編第五十二章「諸階級」が邦訳ではわずか一頁
半で中断したまま終わっている。だが、このミステリーでは、マルクスの「遺稿」の
なかには「諸階級」に続く原稿、私流にいうと『資本論』第五巻の原稿が存在し、そ
の原稿をめぐって殺人事件が起きるのである。場所はロンドン旧市街で再開発のため
に、不動産屋の「地上げ」が進んでいる一画、エルサレム横丁である。そこにあくま
で地上げに抵抗している三人の老姉妹が住んでいた。
 ながらくマルクス家を切り盛りしてきた家政婦ヘレーナ・デームートはマルクスの
死後エンゲルス家に移り、1890年11月に死去した。翌日エンゲルスはF・A・
ゾルゲへ手紙を書いた。「きょうは悲しい知らせをお伝えしなければならない・・・
僕たちは1848年前からの古い親衛隊の生き残りのふたりだった。今また僕はこう
してひとりになった。かっては長年にわたってマルクスが、そしてこの7年間は僕が
安心して仕事にはげむことができたのは、おもに彼女のおかげだった」と胸をうつ賛
辞を述べた。ヘレーナ・デームートはロンドン、ハイゲートのマルクス夫妻と同じ墓
に葬られた。
 ヘレーナには息子フレデリックがいた。その父親はエンゲルスであるとまわりの者
は信じていた。ところがエンゲルスは、死の数日前に本当の父親はマルクスであると
弁護士サム・ムアに証言した。フレデリックにはハリという息子が一人いたのは事実
である。だがこの『マルクスの末裔』では、もうひとりメアリという娘がいて、彼女
が結婚して生んだのがメレディス、ペグ、エリナであり、この三人姉妹がエルサレム
横丁に住んることになっている。つまりマルクスの曾孫(ひまご)たちである。この
末娘エレナがマルクスの「遺稿」の一部を相続し、そのなかに問題の「原稿」がある
らしい。
 そのような「原稿」があることは『マルクス遺稿物語』(佐藤金三郎 岩波新書)
にもその他どの資料にも書かれていないが、ここでマルクスが自分の仕事の「最終目
標」と呼んでいたものは『資本論』三巻に続く第四巻としての『剰余価値学説史』を
指しているのではなく、遥か未来の「資本主義」を視野に入れた研究であり、その
「原稿」が既に完成していることになっている。『ゴータ綱領批判』の描く「社会主
義」「共産主義」は、マルクスの想像し得た限りの「機械制大工業」が発展し尽くし
て「葬送の鐘」とともに現われるはずであったが、出現したのは、コンピュータを内
蔵し、価値増殖を非物的領域にまで拡大している「情報産業」であり、それは「機械
制大工業」をコントロールし、それなしでは生産が不可能になった。エレナが守ろう
としたのは、現代から未来にかけて現われてくるにちがいない極限にまで発展した
「資本主義」についての「原稿」である。この「資本主義」の矛盾こそが現代世界の
基本矛盾であり「冷戦」を終結させ「20世紀社会主義」の内部を貫徹し、解体させ
たのである。
 「遺稿」になんらかの係わりを持った多くの人たちにふりかかった悲運については
『マルクス遺稿物語』に詳しい。マルクスの三人姉妹のうち、最も父を尊敬し、理解
者であった末娘エレナは、犬を安楽死させる薬品で自殺、次女ローラはその夫であり
社会主義者であったポール・ラファルグとともに自殺し、カウッキーはエンゲルスに
疎まれ、レーニンには「背教者」の烙印を押され、ナチスに追われ極貧のうちに娘ひ
とりに看とられ死んだ。ベルンシュタインは悪名高い「修正主義者」として弾劾され、
マルクス=エンゲルス研究所の初代所長リャザーノフは大粛清に獄死。エリナ、ロー
ラからカウッキー、メーリングを経て「遺稿」を受け取ったドイツ社会民主党が、
1933年6月にナチスによって非合法化されると「遺稿」はアムステルダムの社会
史国際研究所に移された。36年春、ソビエト政府は「遺稿」を買い取る交渉団を送っ
た。その一員であったブハーリンは『資本論』の最後の一章の原稿を読みながらつぶ
やいた。「カールよなぜ君は最後まで書かなかったのか」と。交渉は成立しなかった。
帰国した「最大の理論家」ブハーリンは翌37年に逮捕38年3月粛清裁判で死刑宣
告、銃殺された。
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