32562 レーニン時代 325621 カウッキー主義をめぐって

「新共産党宣言」(江口幹・三一新書・1998.3.31日)

カール・カウッキー(1854−1938)
 マルクスやエンゲルスに接していた経歴を持つ理論継承者であり、第二インターナショナル(1889年設立)やドイツ社会民主党の理論的指導者であり、マルクス主義の比類なき解説者的地位に立っていた。

 ロシア革命について、プロレタリアートの独裁(1918年)、「テロリズムと共産主義」(1919年)、「民主主義から国家の奴隷制へ」(1921年)で、相次いで批判し、1930年には「袋小路の中のボルシェヴィズム」の中で、次のように。
概要「1917年の2月革命は、労働者達に、完全な民主主義を、それとともに大労働組合を結成する可能性を、もたらした。同時に、政治的な勢力でもあり、経済的な勢力でもある要素としての、数々の労働者評議会も誕生した。それらがそうでありえたのは、『民主的な』革命のおかげだったし、それらは、ボルシェヴィズムの到来までは、そうしたものとして存在していた。しかし、ひとたびボルシェヴィズムがその新たな地位を十分に確保したと感ずるようになると、ボルシェヴィキが官僚的に指導し得ない国家の中のあらゆる自由な組織は、彼らにとって不快なものとなる。彼らが利用できないか、彼らに抵抗する諸組織は粉砕された。労働組合も労働者評議会も、もはや政府の従順な補助機関でしかない。それらの役割は、工場の運営の在り方を労働者の利益にできるだけ合うようにすることでは、もはやない。それらは反対に、運営を一層悪化させるもの、労働時間の延長、労働の強化、賃金引下げ、等々を労働者達に承知させ、強要するものに、次第になっている。これこそが、政治・経済の面で革命の成果がもたらしたものである」。

 マルクスの言説を踏襲しながらも、マルクス時代のドイツとは事情が違うとして、プロレタリアートがどのようにして政治権力を掌握するかという肝心なことについて曖昧にさせたまま大衆政党組織により政治権力を獲得するという漸自的手法に依拠しようとしていた。

 このカウッキーマルクス主義に対して、見解を異にするベルンシュタインの修正派が生また。イギリスに亡命し、イギリス資本主義の発展を検討したベルンシュタインは、マルクス理論の困窮説、崩壊説に理論的矛盾を認めると共に、革命の主体性の問題についても、「マルクスが、部分的解放(ブルジョア革命)の不可能から全体的解放(プロレタリア革命)の必要を説くのは危険な理論であり、革命的政治権力が無限の創造力を持つという主張はブランキシズムに他ならない」と批判し、「政治社会の改良を現存秩序の枠内で目的意識的に行う」改良運動へ展望を見出そうとしていた。

 マルクス主義は、「カウッキー派(正統派)」と「ベルンシュタイン派(修正派)」に分かれ、さらに「カウッキー派(正統派)」の系譜から、ローザ・ルクセンブルクの「西欧共産主義」が生まれた。ローザ・ルクセンブルク(1871−1919)は、カウッキー理論により埋没されかかった主体的革命性を復権し、革命に徹することによって理論と実践の矛盾が解決されるとした。「社会改革や社会改良ということは、資本主義の修正主義に他ならず、これを積み重ねただけでは社会主義革命は実現されない。民主主義の発展ということは、プロレタリア階級の自覚と社会主義社会実現の為には不可欠の手段であるが、民主主義の発展により、革命を要せず社会主義社会が到来するという見方は誤りである。それは、資本主義の発展の中には民主主義を否定する要因が生成されているからである」とし、さらに革命の不可欠性については、「資本主義社会の生産関係はますます社会主義社会に接近していくが、その政治的法律的関係は、資本主義社会と社会主義社会との間には高い壁がめぐらされており、この壁は社会改革や民主主義の発展によっては決して打開されないのみか、逆にますます強固なものになる。この壁を打倒する方法はプロレタリア階級による政治権力の獲得以外にありえない」と主張し、暴力主義的立場を鮮明に称揚した。


 「あらゆる生産手段の国有化を最終目標とすることは、なるほど革命的社会主義にとっては不可欠であるが、しかし、遠い目標よりも近い目標を優先させる実際政治的社会主義にとってはそうではない」(ベルンシュタイン「社会主義の前提と社会民主党の任務」)



ローザ・ルクセンブルク

 ポーランド生まれのドイツの女性革命家。
概要「1918年の『ロシア革命』の中で、普通選挙も無く出版と集会の無制限の自由も無く、自由な言論闘争もなく、官僚機構のみが活動的な分子である。実際の権力は、傑出した知性を授けられた一ダースほどの党の指導者の手中にあり、労働者のエリートは、指導者たちの演説に拍手をし、提案された決議に満場一致で賛成するため、時たま集会に出席させられている。事実、あるのは一徒党の政府であり、確かに独裁であるが、プロレタリアートの独裁ではなく、一握りの政治屋たちの独裁、つまりブルジョア的な意味での独裁である」と、断言し、「公衆の監視が絶対に不可欠である」と、訴えている。


 レーニン(1870−1924)は、「これら一切の欠点にも関わらず、彼女は鷲であったし、また鷲であり続ける」と評価した。


 マルクス主義は、プレハーノフによりロシアにも導入された。プレハーノフはカウッキー型の正統派マルクス主義の流れを汲み、1898年ロシア社会民主労働党が結成される。しかし、その内部で次第に、社会民主主義(大衆政党組織)を主張するマルトフ派と、暴力革命を主張するレーニン派とが対立し、主導権を争っていくことになる。1903年、ロシア社会民主労働党第2回大会で、両者は、党員資格問題で対立し、少数精鋭の職業的革命家に限定するのか否かを廻って激論が発生した。最終投票の結果、レーニン派が多数を占めてマルトフ派を破り、それ以降、党内の主導権を支配することになった。



オットー・リユーレ
 ドイツの古参政治家。1920年5月ドイツ共産党から分離したドイツ共産主義労働者党から、実情視察のためロシアに数週間にわたって派遣された。その旅で彼は、ボルシェヴィキ党とヨーロッパ左翼の間にはいかなる共通原則もないと確認し、帰国後、ロシア革命の実態についての報告書を党に提出した。概要「ロシアにおいてカリカチュアと見えるものは、歴史的に乗り越えられたがゆえに間違ったシステムから生じている。中央集権主義は、資本主義・ブルジョア時代の組織原則である。この原則によって建設できるのは、ブルジョア国家と資本主義経済である。しかし、プロレタリア国家、社会主義経済ではない。後者は、諸評議会のシステムを要求する。ところが、ロシアにおいては、諸評議会は亡霊でしかないし、党の独裁的官僚制のいちじくの葉である。官僚制に支えられているロシア、それは結局、政治的・経済的な共産主義のカリカチュアであり、野蛮で不毛で耐え難い国家共産主義であり、野蛮で不毛で耐え難い国家的奴隷制度である。ロシアとは反対に、我々にとって問題なのは、大衆の発意を噴出させめこと、大衆を権力から解き放つこと、彼らの自意識を発展させること、彼らの自律的な行動を形成すること、そうすることによって彼らの革命への参加を促進させること、である」。


大杉栄
1922年に、ロシア革命について、なぜ進行中の革命を擁護しないのか、その理由を次のように述べている。
「ボルシェヴィキ政府に対する批評!僕はそれを随分長い間遠慮していた。僕ばかりではない。世界の無政府主義者の大半がそうだった。また、革命の最初には自ら進んで共産主義者らの共同戦線に立ったものも少なくはなかった。ロシアの無政府主義者らは、ほとんど皆そうだと云ってよかろう。ロシア以外の国の無政府主義者は、一つにはロシアの真相がよくわからなかった。そしてもう一つには、実際反革命が嫌だった。そして彼らは十分な同情をもって、ロシア革命の進行を見ていたのだ。が、真相はだんだんに知れてきた。労農政府すなわち労働者と農民との政府それ自身が、革命の進行を妨げるもっとも有力な反革命的要素であることすらが分かった。ロシアの革命は誰でも助ける。が、そんなボルシェヴィキ政府を誰が助けるもんか」。


アントン・バネクーク
 オランダの評議会共産主義者。彼の思想の集大成である大著「労働者評議会」(1942−47年に執筆)の中で、ロシアで成立したのは国家資本主義であると規定した上で、ロシアの社会体制の本質を的確に表現した。「共産党は、外国向けの宣伝の中で、共産主義と世界革命について語り、資本主義を批判し、労働者達に、彼らの解放の為の闘争に合流するよう、訴え続けている。しかしその一方で、ロシアの労働者達が、奴隷化され搾取されている階級でしかないこと、言論・出版・結社の自由を奪われ、抑圧的で冷酷な独裁下にあり、西欧諸国の労働者階級よりもずっと手厳しく屈従させられているという、惨めな状態の中で大概の時間を過ごしている事実を、押し隠している」。



 史上、社会主義体制下のソ連が長らく語られてきた。社会主義とは何か、自分で問い直すこともせず、ソ連の現実を知ろうともせず、自分の目で確かめることもなく、ソ連は社会主義国であるという歴史上の大詐欺に加担してきた知識人が多い。この事実は、知識人を自認、自称する人々が、いかに体制迎合的であるか、いかに人の尻馬に乗ってしかものをいわないか、いかに権威あるものによって既に公認されている見解に追随しているか、という、彼らの生態を見事に語っている。

 その同じ人々が、ソ連の体制が崩壊すると、今度は社会主義とは何かを考え直すこともなく、共産主義という壮大な歴史的実験は挫折したとか、社会主義思想はもはや意味を失ったとか、理想主義が現実主義に敗北したとか、陳腐な常套句を繰り返し、資本主義以外の別な社会の在り方を求めるのは全く無駄な努力である、資本主義こそ人類が生み出した最良の社会体制である、金儲けのおこぼれにあずかること以外に人間の幸福は無い、等々の、新手の詐欺行為を働いている。
「新共産党宣言」(江口幹・三一新書・1998.3.31日)意訳






定年後の読書ノートより
ローザ・ルクセンブルクの手紙、ルイーゼ・カウッキー編、初版1932年、岩波文庫
Dr.ローザ・ルクセンブルクは1871年ロシア領ポーランドに生まれ、「資本蓄積論」を著作、何度も投獄の苦難を経てドイツ共産党を創立、1919年K・リープクネヒトと共にドイツ社会民主党出の司令長官ノスケの手先によって暗殺された女性革命家。

26歳より48歳までの生涯を通じて、ドイツ社会民主党カウッキー一家とは親しい間柄にあり、本書はローザ暗殺3年後の1922年、「裏切者、社会愛国主義者、シャイデマン派、背教者」の怒号の中で、カウッキー夫人が編集発行したもの。特に最後の数年間の手紙は、カウッキーとローザ・ルクセンブルクの友情が、国際的なありとあらゆる怒号の中にあっても元のまま、いや、ますます友情は深く、細やかになっていったことを読む者をして胸熱くさせる。

当時カウッキーに加えられていた鉄拳のすごさはレーニンのローザ評の中にも見ることができる。「これらの欠陥は、ローザの個人的欠陥ではなくて、カウッキー流の偽善、衒学、日和見主義に対する和平という、忌むべき網により四方八方からがんじがらめにされている、すべてのドイツ左翼の結果である」とし、カウッキー等を「労働運動の後方で糞土にまみれながらさえずえる鶏」になぞらえつつ、ローザを「高く飛ぶ鷲」の姿に例えている。

ローザ自身もカウッキーのロシア革命時期尚早論を評して1917年4月、こんな激しい手紙を書いている。

「ロシアの社会関係はプロレタリアートの独裁にまではまだ成熟していない!なんと独立社会民主党にふさわしい「理論家」でしょう!彼(勿論文中ではカール・カウッキーを指している)は、フランスも1789年と、それから1793年には「統計的」にみれば、ブルジョアジーの支配にまでは、なお一層成熟していなかった、ということを忘れてしまったのです!幸いなことに、歴史はもうとっくにカウッキーの歴史的処方箋通りには進んでいません。ですから私達は最善を期待しましょう。」と。

しかし、70年後の今日、崩壊したロシア社会主義の誤りは、自国独裁権力集中を押し進めた過程において民主主義を踏みにじり、しかもロシアモデルを世界各国に押し付けた歴史的大失政にあり、その起因はカウッキーが当初執拗に主張していた歴史発展原則の無視にあったのではないか、今でも自分はそう思っている。民主主義を大切にしたカウッキーは間違っていなかった、自分はそう考えたい。

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定年後の読書ノートより

コミンテルン史

ケビィン・マクダーマット& ジュレミ・アグニュー 著(英国シェフィールド大学教授) 萩原 直 訳全6章、全335p 1998年初版大月書店発行 5600円

1917年10月ロシア革命が導火線となって、世界革命はドイツを先頭にヨーロッパ各国で連続して成功するものと期待されていた。勿論、資本主義の危機が世界的規模で広がっている危機的情勢だけでは、同時革命は成功しない。そこには組織された強力なる前衛党の指導が必要である。1919年3月レーニンは世界党組織コミンテルンを発足。

レーニンは、マルクス主義は革命的教義であって、改良主義的教義ではない。前衛党は民主的中央集権制の下、厳格な規律を維持しなければならない。帝国主義戦争は社会主義革命の突破口になると主張した。第2インターナショナルの理論家カウッキーは社会主義と民主主義は不可分であり、労働者階級が少数で未熟なロシアの革命は時期尚早、ボルシェビキー独裁に頼らざるを得ないロシア社会主義は社会主義の大義に有害と主張した。カウッキーは社会主義への平和的移行の可能性を説き、歴史の飛び越しは不可能であると力説した。レーニンはカウッキーと理論的に鋭く対立した。対立は以後社会民主主義者こそ、ブルジョアジーの回し者、すなわち最も憎むべき敵であり、社会民主主義者=「社会ファッシズム」をやっつけろとの激しいスローガンが全世界共産党に発せられ、この対立は以後国際共産主義活動に大きな影を落とす。

社会民主主義者と共産主義者の不和の底には、世界革命の展望に対する相違があった。経済が疲弊し、社会が流動しているとき、飢餓とテロルが横行する革命的変革を社会民主主義者は受入れられなかった。組織労働者の多くも社会民主主義者の考えを支持した。ヨーロッパではボルシェビキの呼びかけは労働者を動かさなかった。

1921年3月中部ドイツの革命挫折で世界同時革命の夢は破れ、今や社会主義の砦ソ連を守ることが、世界各国共産党の重要スローガンとなった。強い前衛、厳格な党組織を前面にするロシアモデルの優越性が主張され、このモデルの延長線上には独裁の危惧があることを多くの人が恐れながらも、ヨーロッパでの革命不発、ロシアでの一国社会主義革命の成功はロシアモデルの優越性にあるという論理で、次第に一枚岩の前衛イメージが定着、一方スターリンはそんなコミンテルンを外交の道具に使い始めていた。

「絶対的な中央集権化とプロレタリアートの厳格な規律」を本質的条件とするロシア モデルの前衛党は、社会民主主義者を憎み、蔑み「社会ファッシスト」と激しく罵りあった。台頭しつつある現実のナチスファッシズム勢力に対してすらある時は社会民主主義者 に対抗出来る友好勢力と位置づける過ちを犯した。

ドイツで現実ファッシストナチスが台頭してきたが、これを民主社会主義者と統一戦線を組んでいち早く阻止することは出来なかった。しかし下部からの統一戦線の声は益々高まり、コミンテルンはデミトロフをして統一戦線確立に邁進させた。当時スターリンは上からの指示によって前衛党は動かせると信じ、事実その通りだった。

スターリンは1939年独ソ不可侵条約を結び、ポーランドを圧殺。コミンテルンはこれを追認する外なかった。 独ソ不可侵条約によって、ヨーロッパ各国共産党は多大な混乱をまねき、多くの人々が共産党を去った。フランス共産党は非合法化された。

コミンテルンは当初より先進国労働者と後進国労働者の違いは、これを重視してはならないとのロシア・モデルの教義から革命での多様性を認めようとはしなかった。その結果、民族解放闘争に対しても適切なる指導が出来なかった。あくまでも資本と労働の対決論理が優先した。その最も大きな過ちは中国革命におけるコミンテルンの失敗である。

中国革命の主勢力は農民にあった。しかしコミンテルン指導者はあくまで都市労働者を重視し、幾度の都市武装蜂起を指示し失敗を重ねた。コミンテルンは革命勢力主体はあくまで国民党にあるとして、最後まで中国共産党の力を軽視していた。これらはモスクワの意向のみを重視するコミンテルンの体質に起因する。

モスクワにて指導をうけたロシア仕込みの共産党幹部がスターリンの命を受けて中国共産党を動かし、大きな損失を被り、ここに始めて毛沢東の指導力が浮かび上がってくる。

中国でのコミンテルンの失敗。世界革命の多様性を認めようとしなかったこと。あくまでロシアモデルを世界各国に一律に適応させようとしたこと。コミンテルンは次第にロシアの道具に成り下がり、ソ連外交上の利害だけが最優先させられた。

1943年5月赤軍はスターリングランドで勝利、次の世界情勢を読んだスターリンはコミンテルンの解散を決意。動機はソ連邦が反ヒトラー連合で連合諸国との関係を強化する為であり、要するにソ連の利害を最優先にした決断であった。

1990年ソ連邦は崩壊し、ロシア政局はいまだ安定していない。しかし不思議なことに、大半の国民はあの70年間の歴史を悪夢と述懐するのみで何等そこから学ぼうとはしていない。主人公であるべき国民にそれほどまでに嫌悪されていたソ連邦共産党とは一体何であったのか。

今回英国学者によるコミンテルン史を読んで強く印象に残るのは、果たして1918年のレーニン・カウッキーの世界革命論争は、本当に最終結論としてレーニンの革命展望が正解だったのだろうか。カウッキーの主張にもっと耳を傾けるべきではなかったか。

1918年レーニンは「プロレタリア革命と背教者カウッキー」を書いて激しくカウッキーを非難している。これに対しカウッキーはどう反論したのか、機会をみて勉強してみたい。

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柾木恭介の「びっくり通信」
     第110号 カールよ なぜ君は最後まで書かなかったのか 1996.04.15発行  

カールよ なぜ君は最後まで
           書かなかったのか


 一昨年のことになるが、新聞『思想運動』501号(94/6/15)の『変身す
る資本』で、現代の資本主義の性格はその価値増殖の源泉を物的生産から非物的生産
へ重点を移しつつ新しい段階に到達しているのであり、その解明には三巻の『資本論』
と『剰余価値学説史』に続く『資本論』の第五巻が書かれる必要がある、という趣旨
の小論を書いた。そのような考えは、労働者階級はますます窮乏化し、階級闘争は激
化し、破壊的な恐慌は社会主義への序曲になるというような「資本主義」論への疑問
と否定であり、まさしくベルンシュタイン的な修正主義ではないか、というような批
判が当然あるものと予想していた。だが、見当外れの意見が掲載されただけで拍子抜
けした。
 ところが最近、バリー・メイトランドの『マルクスの末裔』(早川書房)を読んで
愕然とした。『資本論』第三巻は第七編第五十二章「諸階級」が邦訳ではわずか一頁
半で中断したまま終わっている。だが、このミステリーでは、マルクスの「遺稿」の
なかには「諸階級」に続く原稿、私流にいうと『資本論』第五巻の原稿が存在し、そ
の原稿をめぐって殺人事件が起きるのである。場所はロンドン旧市街で再開発のため
に、不動産屋の「地上げ」が進んでいる一画、エルサレム横丁である。そこにあくま
で地上げに抵抗している三人の老姉妹が住んでいた。
 ながらくマルクス家を切り盛りしてきた家政婦ヘレーナ・デームートはマルクスの
死後エンゲルス家に移り、1890年11月に死去した。翌日エンゲルスはF・A・
ゾルゲへ手紙を書いた。「きょうは悲しい知らせをお伝えしなければならない・・・
僕たちは1848年前からの古い親衛隊の生き残りのふたりだった。今また僕はこう
してひとりになった。かっては長年にわたってマルクスが、そしてこの7年間は僕が
安心して仕事にはげむことができたのは、おもに彼女のおかげだった」と胸をうつ賛
辞を述べた。ヘレーナ・デームートはロンドン、ハイゲートのマルクス夫妻と同じ墓
に葬られた。
 ヘレーナには息子フレデリックがいた。その父親はエンゲルスであるとまわりの者
は信じていた。ところがエンゲルスは、死の数日前に本当の父親はマルクスであると
弁護士サム・ムアに証言した。フレデリックにはハリという息子が一人いたのは事実
である。だがこの『マルクスの末裔』では、もうひとりメアリという娘がいて、彼女
が結婚して生んだのがメレディス、ペグ、エリナであり、この三人姉妹がエルサレム
横丁に住んることになっている。つまりマルクスの曾孫(ひまご)たちである。この
末娘エレナがマルクスの「遺稿」の一部を相続し、そのなかに問題の「原稿」がある
らしい。
 そのような「原稿」があることは『マルクス遺稿物語』(佐藤金三郎 岩波新書)
にもその他どの資料にも書かれていないが、ここでマルクスが自分の仕事の「最終目
標」と呼んでいたものは『資本論』三巻に続く第四巻としての『剰余価値学説史』を
指しているのではなく、遥か未来の「資本主義」を視野に入れた研究であり、その
「原稿」が既に完成していることになっている。『ゴータ綱領批判』の描く「社会主
義」「共産主義」は、マルクスの想像し得た限りの「機械制大工業」が発展し尽くし
て「葬送の鐘」とともに現われるはずであったが、出現したのは、コンピュータを内
蔵し、価値増殖を非物的領域にまで拡大している「情報産業」であり、それは「機械
制大工業」をコントロールし、それなしでは生産が不可能になった。エレナが守ろう
としたのは、現代から未来にかけて現われてくるにちがいない極限にまで発展した
「資本主義」についての「原稿」である。この「資本主義」の矛盾こそが現代世界の
基本矛盾であり「冷戦」を終結させ「20世紀社会主義」の内部を貫徹し、解体させ
たのである。
 「遺稿」になんらかの係わりを持った多くの人たちにふりかかった悲運については
『マルクス遺稿物語』に詳しい。マルクスの三人姉妹のうち、最も父を尊敬し、理解
者であった末娘エレナは、犬を安楽死させる薬品で自殺、次女ローラはその夫であり
社会主義者であったポール・ラファルグとともに自殺し、カウッキーはエンゲルスに
疎まれ、レーニンには「背教者」の烙印を押され、ナチスに追われ極貧のうちに娘ひ
とりに看とられ死んだ。ベルンシュタインは悪名高い「修正主義者」として弾劾され、
マルクス=エンゲルス研究所の初代所長リャザーノフは大粛清に獄死。エリナ、ロー
ラからカウッキー、メーリングを経て「遺稿」を受け取ったドイツ社会民主党が、
1933年6月にナチスによって非合法化されると「遺稿」はアムステルダムの社会
史国際研究所に移された。36年春、ソビエト政府は「遺稿」を買い取る交渉団を送っ
た。その一員であったブハーリンは『資本論』の最後の一章の原稿を読みながらつぶ
やいた。「カールよなぜ君は最後まで書かなかったのか」と。交渉は成立しなかった。
帰国した「最大の理論家」ブハーリンは翌37年に逮捕38年3月粛清裁判で死刑宣
告、銃殺された。
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