3258−6 連合政権考

臨時連合政府とルイ・ブランの役割
◆1848年のフランス2月革命の経験

 共産党は、「民主」勢力との統一戦線=「民主連合政権」は、平和的、漸次的に資本の支配を掘り崩し、労働者の理想である社会主義への道を切り開いていくと持ち上げている。彼らはこのために労働者の小ブルジョア勢力との協調、妥協を訴えてきた。最近では、ブルジョア自由主義勢力との協調政策も打ち出している。しかし、世界の階級闘争の歴史的経験は、「民主連合政権」を美化する共産党の戦術がいかに反動的であるかを明らかにしている。この連載(12回を予定)で世界の「民主連合政権」の歴史を振りかえり、その性格、果たしてきた役割を検討しよう。

◆◆◆二月革命と臨時政府の成立◆◆◆
 階級闘争の歴史で、「民主連合政権」が初めて典型的な形で現われたのは、1848年のフランスの二月革命であった。
 二月革命以前のフランスを支配していたのは、ブルジョアジーの一派である銀行家、取引所王、鉄道王、炭鉱、鉄鉱、森林の所有者、彼らと結ぶ一部の地主ら金融貴族であった。彼らは、ルイ・フィリップ王制下で国家財政に寄生して巨利をむさぼっていた。当時の選挙法は、議会への選挙資格は年200フラン以上の納税者(20数万の有権者)に限定していたが、政府はこれを代表する大臣や議員に対しては行政上のポストや利権を与えることによって、政府支持派を確保し、金融貴族の利益を図る財政政策を行っていた。このため、商業、工業、農業、海運業など、産業ブルジョアジーの利益は絶えず脅かされ、損害をこうむっていた。
 ルイ・フィリップの七月王制のもとでの金融貴族の支配に反対して、「安上がりの政府」を掲げて、産業ブルジョアジーは、47年の頃から「バンケ」(=改革宴会)を開催し、選挙制度の改革運動を全国的に展開していた。選挙法改革を通じて、議会で多数をとり、金融貴族の独占を打ち破ろうというのである。
 一方、45〜46年の農業の凶作と商工業の恐慌は、労働者大衆の生活を破壊した。経済危機のもとで貧窮に苦しむ労働者大衆にとって、金融貴族たちの専制支配はもはや我慢できないものになった。
 政府との衝突が始まると、労働者の闘いは、産業ブルジョアジーの選挙制度改革といった思惑を飛び越して進んだ。こうしてフィリップの七月王制は2月のパリ労働者たちの蜂起によって倒壊し、臨時政府が成立した。
 成立した臨時政府は、この勝利を分かちあったそれぞれの党派を反映していた。共和主義的ブルジョアジー、オルレアン王朝反対派、共和主義的小ブルジョアジー、社会民主主義的労働者。臨時政府閣僚の大多数はブルジョアジーの代表が占めたが、そのほかに共和派的小ブルジョアジーの代表としてルドリュ・ロランとフロコンらが入り、そして労働者階級からはわずかにルイ・ブランとアルベールの二人が入閣した。臨時政府は社会民主主義派をはじめ共同してフィリップ王制を倒した各々利害のことなる党派からなる一種の「民主連合政府」であった。
 臨時政府は労働者の圧力のもとに共和制をしくことを宣言した。

◆◆◆ルイ・ブランの協調主義◆◆◆
 労働者はブルジョアジーとともに二月革命を遂行した。革命の当初、労働者の影響力は大きく、ブルジョアジーはそれを無視することはできなかった。労働者は臨時政府からさまざまな譲歩を獲得した――「労働の権利」の布告、労働時間の削減、労働問題調査委員会の設置等々。
 臨時政府は、労働者大衆の圧力の前に、いやいや労働問題調査委員会、いわゆるリュクサンブール委員会の設立を認めた。それは労働者の改善のための手段を見つけるという任務をもった常設の機関で、その議長にルイ・ブランとアルベール・トマが任命された。だが、それは、実際には、「予算も執行権もない」たんなる調査・研究の機関でしかなかった。ブルジョアジーは、無力な機関でしかない委員会への幻想をふりまき、臨時政府が労働の味方であるかに宣伝した。しかも、委員会の会場として政府の所在地から離れたリュクサンブールにおいたことは、労働者の代表であるルイ・ブランとアルベール・トマを政府から隔離し、ブルジョアジーが国家権力、行政の手綱を独占することを意味した。
 しかし、リュクサンブール委員会の議長となったルイ・ブランにとっては、この委員会は、社会改革のための推進機関になるはずであった。
 ルイ・ブランのリュクサンブール委員会は、「社会革命を準備し、徐々に、平和的に、プロレタリア階級をなくすための特別の任務をもった」労働省の設置を予定していた。彼によれば資本主義の悪の根源は競争にあり、それこそが中小経営を没落させ、労働者の賃金の低下、貧困をもたらす原因であった。そしてこの競争をなくしていくためには、国家の援助による「社会作業場」(国営企業)をつくり、これを私的企業と競争させていく。私的企業もやがて協同化するだろう。資本家は資本を提供して、国家予算から利子を受け取り、また自分の労働に対しては組合員に配分される収入部分から支払を受ける。こうして徐々に競争のない社会、搾取のない社会が実現されるはずであった。
 ルイ・ブランの社会改造計画は、資本主義の現実から目をそむけた小ブルジョアジーの空想でしかなかった。実際、リュクサンブール委員会の提案で、仕立工、紡績工などのいくつかの協同組合が設立され、一時的に何千人かの労働者に職を与えはしたが、資本主義的な競争によって没落、消滅してしまったのである。
 マルクスは、ルイ・ブランの労働の組織、そのための労働省という要求の無力さと反動性についてこう述べている。
 「労働者は、ブルジョアジーと共同して、二月革命をおこなった。彼らは、ブルジョアジーとならんで、自分の利益を貫徹しようとした。ちょうど、臨時政府そのもののうちにブルジョア的多数派と肩をならべて、一人の労働者(アルベール)を入閣させたと同じように。労働を組織せよ! と。けれども、賃労働、これこそ現にあるブルジョア的労働組織なのだ。これがなければ、資本も、ブルジョアジーも、ブルジョア社会もない。独自の労働省! と。財政、商業、公共事業の諸省こそブルジョア的な労働省ではないか? そこでそれらとならんで存在するプロレタリア的労働省というならば、それは無力な省、かなわぬ願いの省、つまりリュクサンブール委員会となるほかはなかったのだ」(「フランスにおける階級闘争」)。
 ルイ・ブランの改良主義的本質は、労働運動に対する彼の態度の中にも現われている。彼は労働者の運動を資本の体制の秩序のなかに閉じ込めようとした。彼は、労働者とブルジョアジーとの対立は誤解の結果であって、原則的には労働者とブルジョアジーは共同の道を進むことができると考えていた。
 臨時政府のブルジョア政治家は、自由、平等、友愛について、人民の統一について繰り返し発言した。「当時、すべての王党主義者は共和主義者にかわり、パリのすべての百万長者は労働者にかわった。この空想上の階級関係の廃止に相応じていた常套文句が友愛、つまり、全般的な親睦と同胞愛であった。階級対立のこのようにいい加減な抽象法、矛盾する階級利害のこうしたセンチメンタルな調停和解、階級闘争からのこうした無想的な超越、すなわち友愛、これが二月革命の本来の合言葉であった。階級は、たんなる誤解によって分裂したにすぎない。ラマルテーヌも、2月4日、臨時政府を『異なった諸階級間に存在する、恐ろしい誤解をなくす政府』と名付けた」(同上)。
 ブルジョアジーは、労働者を協調主義の幻想でまるめ込み、自らの支配をかため、労働者への反撃を準備していた。しかし、ルイ・ブランもブルジョアジーとともに「普遍的友愛」についておしゃべりしていたのだ。
 彼は、労働者とブルジョアジーの間の調停者として振るまい、ブルジョアジーの反撃の準備を助けたのだ。
 ブルジョアジーは労働者への反撃の準備を整えた。その戦略の基礎は、労働者階級を分裂させ、労働者の一部を残りの部分に対立させることであった。その一つは軍隊の増強であった。臨時政府は、パリにいる国民軍だけでは労働者にかなわないとして、新たに2万4千人の遊撃警備隊を組織した。彼らの大部分はルンペン・プロレタリアートであった。
 もう一つは、国民作業所の設立であった。これは、ルイ・ブランの「社会作業場」とはことなり、公共事業省の統制のもとに十万の失業者を収容し、単調で不生産的な土木工事に使用することであった。臨時政府は、彼らを労働者の大衆的運動に敵対的なものに組織しようとした。

◆◆◆労働者の敗北◆◆◆
 革命の初期には労働者はルイ・ブランらの掲げる社会改造計画を熱狂的支持した。だがまもなく彼らは自分たちが空想の世界にいることを思い知らされることになった。
 四月には、普通選挙による憲法制定議会の選挙が行われた。880人の議員が選出された。その党派の内訳は、およそ「ナシオナル」に集まるブルジョア共和派500、ブルボン王朝正統派100、オルレアン派200で、社会主義派は100であった。マルクスは選挙結果について、「ブルジョア秩序の政治的再建であり、ブルジョア社会での政治再確立」であったと述べている(同上)。
 ブルジョアジーにとって、もはや労働者の代表を政府に参加させる必要はなくなった。労働者からの代表としてルイ・ブランら二人を臨時政府の閣僚に入れたのは、まだ自分たちの政治支配の基礎が固まらず不安定であったからである。しかし、いまや労働者に気がねする必要がなくなった。国民議会は労働者の影響の排除にとりかかった。
 国民議会はただちに、自分たちの任命した閣僚からルイ・ブランとアルベールを締め出した。もはやルイ・ブランはブルジョアジーにとって御用済みとなったのだ。そして労働省をつくれという提案を拒否した。
 ブルジョアジーはきたるべき労働者との対決を準備していた。6月、国民議会は国民作業所の解散を決定した。
 国民作業所の創設には社会主義的改革と共通のものは何ひとつなかった。むしろそれは、労働者の一部をブルジョアジーの味方につける目的でつくられたのだった。しかし、それでも労働者にとってはそれは社会改革のシンボルであった。
 国民作業所の解散は、国家による労働者への挑戦であった。国民作業所を解散した国家は、労働者にとっては憎むべき国家となった。
 労働者は立上り、バリケードを築いて政府に反旗をひるがえした。しかし、労働者の蜂起は政府の軍隊によって打ち砕かれた。
 労働者は敗北の中で、普通選挙による共和制が人民の国家である云々が偽りであること、自分たちのわずかな改良もブルジョア共和国の内部では不可能であること、自分たち期待が幻想であったこと、労働者が解放を勝ち取るためにはブルジョアジーの支配を打ち倒し、自らの革命的権力を樹立し、資本の体制の根本的変革に進まなくてはならないことを理解していったのである。
 二月革命と労働者の敗北の経験は、民主連合政権の美化が日和見主義的であり、反動であるかということ、労働者の階級的団結と闘いを解体し、ブルジョアジーの支配を助けるものであること、労働者は資本の支配の打倒に向けて団結し、闘い抜かねばないことを教えている。


フランクフルト国民議会のみじめな敗北
◆1848年のドイツ3月革命の教訓

◆◆◆ウィーン、ベルリン三月革命◆◆◆

 1848年のフランス二月革命は、ヨーロッパ各地に大きな衝撃を与えた。都市と農村を含めてヨーロッパ各地が、政治闘争や農民の反乱に湧きたった。
 パリの革命の影響が最初に及んだのは、西南ドイツの諸領邦であった。2月には、マンハイムで開かれた大衆集会では「士官の選挙をともなう人民の武装、出版の自由、イギリス風の陪審制、ドイツ国会」の四つの要求を決議した。当時、ドイツは四つの自由都市を含む三九の領邦が割拠する緩やかな連合体であったが、西南ドイツの自由主義者や共和主義派が掲げた目標は、領主たちのドイツ連邦を市民たちのドイツ連邦に移行させることであった。
 3月5日、ハイデルベルクに集まった自由主義者ら51名は、ドイツ諸国の政府にたいして国民議会の結成を呼び掛け、7人の代表を選出した。七人委員会は、ドイツ全土を代表する国民議会をつくるための「準備会」を3月末に、フランクフルト・アム・マインで開催することを決議した。しかし、この間ウィーン(13日)とベルリン(18日)に革命が起こった。
 ウィーン革命の発端となったのは、フランス二月革命に刺激された学生を中心とするデモ隊と軍隊の衝突であった。州議会議事堂を包囲したデモ隊に対して軍隊が発砲したことをきっかけとして、ウィーンは騒乱状態となった。市内にはバリケードが築かれ、郊外では民衆が警察や工場を襲撃した。民衆蜂起の中で、オーストリアの宰相メッテルニヒは逃亡した。皇帝や政府はメッテルニヒに一切の責任を負わせることでハプスブルク王制およびオーストリアの政治体制を救おうとしたのである。
 続いてプロイセンのベルリンでは、議会の開設や出版の自由を求める市民集会を軍隊が弾圧したことをきっかけとして、民衆と軍隊の衝突が繰り返された。激しい市街戦の後、結局国王はベルリンから軍隊を引き上げることに同意した。民衆の怒りをおそれて弾圧の責任者・王弟ヴィルヘルムはイギリスに逃れた。国王は市民の武装を認め、民衆の憎悪のまととなっていた内閣を退陣させた。
 ウィーンとベルリンの革命で、自由主義者や共和主義派の運動はいっそう活発となった。この時期の特徴は、ハイデルベルク集会にみられるように自由主義者と共和主義派とは意見は対立しつつも、国民会議の招集という点では一致し、絶対主義的君主やそれを取り巻く保守勢力に反対して協力していた。そして、これらの政治闘争は封建的制度に反対する大衆の運動と結び付いていたことである。


◆◆◆フランクフルト国民議会◆◆◆
 3月末には、ハイデルベルク集会での選出による七人委員会の計画による準備会議が開かれた。準備会議は、来たるべき「ドイツ国民議会」のための議員の選出方法、憲法の基本構想をめぐって議論した。議員の選出については、「自立的」市民による普通平等選挙が定められたものの、選挙日や投票所の設定など具体的な実施方法は各領邦政府に委ねるという妥協的な方針がとられた。このため変革を阻止しようとする領邦政府の画策を許すことになった。すでにブルジョア自由主義者らの妥協的姿勢があらわれ始めている。
 国民議会は、5月にフランクフルトで開かれた。出席した500人弱の議員のうちで自由主義的な判事や検事その他の高級官僚が最も多く、大学教授や弁護士などがこれに続いた。
 各領邦議会においても、3月末には、ライン州の大商人のカンプハウゼンを首相に、ハンゼマンを蔵相とするプロイセンで最初の市民内閣が組織されたほか、バイエルン、バーデン、ヴュンテンベルクなどでも君主の譲歩によって「三月内閣」が組織された。
 この時期、革命の進行とドイツ統一の期待が広がっていったが、はやくも労働者の闘いを恐れるブルジョアジーの妥協的態度が革命の進行に影をおとしている。
 フランクフルト国民議会は革命の目的にたいして無自覚であった。それは「おしゃべりの場」、「教授議会」といわれたように、空論的な議論に明け暮れ、いたずらに時間を浪費し、それによって反動が体制を整え巻き返しに出るのを助けたのである。マルクス、エンゲルスは国民議会の日和見主義について次のように述べている。
 「このドイツ国民議会は、あらゆる紛争事件を解決し、ドイツ連邦全体のため最高立法機関として行動するものと、民衆から期待されていた。……国民議会は、もしそれがごくわずかの精力でももっていたとすれば、ただちに連邦議会(領邦議会の連合―引用者)――これ以上に不人気な団体はドイツにはなかった――を解散して〔その議員を〕本国におくりかえし、それ自身の議員のなかから選出した連邦政府をもってこれにかえたはずである。それは、われこそドイツ人民の最高意志の唯一の合法的表現であると宣言し、そうすることによってその一々の議決に法律的効力を付与したはずである。なかんずく、それは、諸邦政府の側における反対をも圧服するだけの、組織されかつ武装された勢力を、国内において確保しえたはずである。しかもこれらすべてのことは、あの革命の初期においては容易も容易きわめて容易なことであった。……(しかし、国民議会は)連邦議会の監視のもとに評議した、いな、それは、その議決に対する連邦議会の裁可をほとんど懇請しさえした、けだし、そこで最初に議決されたことは、このいとうべき団体によって公布されねばならなかったからである。それは自己自身の主権を主張するかわりに、つとめてそういう危険のあるいっさいの問題の討議を回避した」(『革命と反革命』)
 国民議会は人民の「革命的行動をとるだろう」という期待に背き、万事を従来のままにしておいた。ブルジョア自由主義者らは、「反動的な政治的陰謀よりも、些細な民衆運動を恐れていた」(同上)のである。彼らは、封建的勢力に依存しながら、民衆の闘いを抑圧しようとしていた。
 6月のパリ労働者の敗北によって、ドイツでは反動派の巻き返し策動が開始された。プロイセンでは、イギリスに亡命していた王弟ヴィルヘルム四世が帰国した。反革命を恐れた労働者は反撃に移るべくベルリンの武器庫を襲撃したが弾圧された。国王側はこの事件を口実に軍隊をベルリンに導入することを決定した。彼らにとってもはやカンプハウゼン内閣を必要としなかった。内閣は辞職し、代わってハンゼマンが実権を握るアウエルスバルト内閣が誕生し、軍隊は再びベルリンに呼び戻された。アウエルスバルト・ハンゼマン内閣は革命を推し進めるのではなく、労働者の革命的闘いを恐れて封建的勢力にますます依存するようになっていった。
 フランクフルト国民議会が動揺を重ねている間に、11月オーストリアのウィーンは、国王による軍隊によって鎮圧された。これに鼓舞されて、プロイセンでは、憲法によって成立していたブュエル内閣が罷免され、王族のブランデンブルク伯が首相に任命された。新内閣は、プロイセン国民議会をベルリンから追放、市民軍を武装解除し戒厳令をしいた。プロイセン国民議会は納税拒否などで抵抗したが効果なく、12月には国民議会は解散に追い込まれた。これにたいしてフランクフルト国民議会は、反撃を呼び掛けるのではなく、ただプロイセン政府をなすがままにさせておくだけであった。
 12月ようやくフランクフルト国民議会は、「ドイツ基本法」を公表した。これは、ブルジョア民主主義を表したもので、全ての国民に市民権を与え、営業・信仰・出版の自由を謳った。この基本法をもとに49年3月、憲法が公布された。
 その一方で国民議会は、国王に幻想をもちヴィルヘルム四世をドイツ皇帝に推戴したが、拒否された。もはや、反動派にとって国民議会を置いておく必要がなくなったのである。
 フランクフルト国民議会は政府に対して抗議や嘆願を繰り返す以外にはなにもしなかった。こうして、最初にオーストリアの議員が抜け、次にはプロイセン、さらには右派、中間派という具合に次々と逃亡していった。最後に残った百人たらずの議員は、シュトゥットガルトに移り「残余議会」をもったがそれも弾圧されて、国民議会は消滅の運命をたどった。こうして、革命で得たブルジョア民主主義的な獲得物も一掃されてしまった。

◆◆◆革命の教訓◆◆◆
 48年のドイツ革命の敗北は、ブルジョア自由主義派の敗北であった。ドイツのブルジョアジーは、なによりも労働者を恐れていた。彼らはブルジョア民主主義を獲得することでは、労働者と一致していたが、革命の瞬間から自分たちに対立するであろう労働者の闘いを恐れ、労働者に対抗するために封建的勢力に依存したのである。また小ブルジョア民主主義派も不決断と動揺を繰り返した。
 自由主義的ブルジョア内閣は、「さらにそこから、統一共和制というより進歩した段階に進むか、またはふるい教権的=封建的、官僚的支配体制にもどるか、いずれか」の「一つの休息点」(同上)でしかなかったのである。
 マルクス、エンゲルスは、ドイツの革命と反革命から重要な教訓を引き出している。それは、労働者は自らの政党を結成し、独自の闘いを推し進めなくてはならないということである。
 ドイツ革命の敗北の後、新たな労働者の闘いの高揚を期待して書かれた「共産主義者同盟への中央委員会の呼びかけ」は次のように訴えている。
 「小ブルジョア的民主党にたいする革命的労働者党の関係はこうだ、――すなわち、革命的労働者党はその打倒をめざしている分派に対抗して、この小ブルジョア的民主党と提携するが、民主党がそれ自身の利益になるように自分の地位をはかる問題では、ことごとくこの民主党と対立するものである。民主主義的小ブルジョアは、革命的プロレタリアのために全社会を変革しようなどとは毛頭考えず、現在の社会をできるだけ自分らにがまんできる、そして快適なものにするような、そうした程度の社会状態の変更をめざして努力する」。民主主義的小ブルジョアは「私的所有の変更」を要求するだけであるが、労働者にとって問題なのは、「(私的所有の)廃止であり、階級対立のごまかしではなくて階級の廃止であり、現在の社会の改善ではなくて新しい社会の建設である」。
 そして、労働者党の小ブルジョア民主派に対する態度はどうあるべきかについて、「呼びかけ」は続いて述べている。
 「民主主義的小ブルジョアは、彼らがいたるところで抑圧されている現在の瞬間においては、プロレタリアにむかって一般に提携と和解を説いている。彼らはプロレタリアに手をさしのべ、民主党内のあらゆる色合いをふくむ一大反対党をつくろうと努力する。すなわち、彼らは労働者を一つの政党組織――そのなかでは、彼らの特殊な利害がその背後に秘められている一般的な民主主義的言辞がはばをきかせ、平和をたもつためにプロレタリアートの特定の要求を主張することはゆるされない――のなかに引き込もうと努力するのである。このような提携は彼らの利益になるだけで、プロレタリアートにはまったく不利益になろう。プロレタリアートは、骨をおってかちえたその独立の地位の全体をうしない、ふたたび公認のブルジョア民主主義の付属物に身をおとしてしまうだろう。したがってこのような提携は断固斥けられなくてはならない。またしても身を屈して、ブルジョア民主主義者に拍手をおくる合唱隊のわき役をつとめたりせずに、労働者、とりわけ同盟は、公認の民主主義者とならんで、労働者党の独立の秘密組織と公然の組織とをつくりあげ、各班を、プロレタリアートの地位と利害とがブルジョア的諸影響をはなれて議論される労働者協会の中心および中核にするように、つとめなければならない」
 労働者は自らの階級的立場に立ち、独自の闘いを推し進めなくてはならないという指摘は、自由主義的ブルジョア党派や小ブルジョア党派との提携、「民主連合政権」をもちあげている今日の共産党に対する鋭い批判にもなっている。


帝国主義戦争への協力とブルジョア支配の補完
◆1917年ロシア臨時政府の経験

◆◆◆臨時政府とソヴェトの成立◆◆◆

 第一次大戦は世界に大きな影響を与えたが、とりわけロシアの受けた影響は深刻であった。戦争は大衆に未曾有の犠牲を押しつけ、その不満は労働者のストライキ、デモととなって現われた。1917年2月、首都ペテログラードのパンを要求する労働者のデモ、ストライキはたちまちのうちに全市に広がり、兵士も反乱を起こして労働者に合流した。労働者、兵士の蜂起によってツアーリ専制は打倒された。
 カデット党(立憲民主党――自由主義的、君主主義的ブルジョア政党)とオクチャブリスト党(10月17日同盟――産業ブルジョアジーと大地主の政党)に代表されるブルジョアジーの勢力は「責任内閣制」を要求する「進歩派ブロック」を形成していたが、彼らは、革命を欲していなかったし、それに参加もしなかった。彼らは労働者、農民の革命を恐れ、それを避けようと努めた。彼らにとっては労働者、農民の革命よりもツアーリ専制の方がましであった。ツアーリ専制は、労働者、農民の革命からブルジョアジーの利益を守ってくれる衝立であり、防壁であった。ペトログラードの革命が成功したとき、カデットのミリューコフやオクチャブリストのグチコフは、君主制を救おうとさえしたのである。だがそれはもはや不可能であることが明らかになった。
 3月、ツアーリ専制に代わって誕生したのは、法相ケレンスキーを除けば首相兼内相のリヴォフをはじめとして全員がブルジョアの代表であった。
 臨時政府と並んでソヴエトが結成された。ペテルブルグ労働者および兵士代表ソヴエトがそれである。ソヴエトは全国に組織され人民の権力として臨時政府が継承した旧い権力機関と対立していた。臨時政府は直接大衆を掌握することができず、ソヴエトを通じてしかその支持を得ることができないという状況が生まれた。いわゆる「二重権力」である。しかし、自然発生的に生まれたソヴエトは、「権力の機関」としての自己の役割を自覚していなかった。生まれたばかりのペテルブルグ・ソヴエトの執行委員会は、帝国主義戦争の継続を認めるメンシェヴィキなどの右派社会民主主義派が多数を占めた。
 ペテルブルグ・ソヴエト総会は、政治的自由の保障、憲法制定会議の招集などを条件として、臨時政府を承認することを圧倒的多数で決定した。メンシェヴィキは、ブルジョア革命であるから労働者は参加すべきではない、政府に外から圧力をかけ、労働者に有利な政策(あくまでブルジョア民主主義の枠内で)を実行させるべきだと、1905年の革命の時と同じ主張を繰り返した。だがこの条件つき支持=閣外協力論は、実際にはブルジョア政府との協調以外のなにものでもなかった。
 臨時政府はソヴエトとの協定に基づいて「政治犯の釈放、言論・出版・結社・集会・ストライキの自由、普通・平等・秘密・直接選挙に基づく憲法制定会議の招集」などを約束した。そして同時に、臨時政府は戦争の継続を宣言した。ブルジョア政府にとって、連合国との同盟を維持しドイツとの戦争に勝利することは至上の課題だった。こうして臨時政府は、ブルジョア的自由と戦争の政府として登場したのである。
 外相ミリューコフは連合国に対して、ロシア政府は連合国側に立って最後の勝利まで戦争を継続する、ツアーの政府によって締結された全ての条約を忠実に厳守すると約束する覚書を送った。
 これに対して労働者や兵士は「侵略戦争反対」、「ミリューコフ打倒」などのスローガンを掲げたデモで反撃に立上り、ソヴエトも「反対」の態度を明らかにする中で、ミリューコフと陸相グチコフは辞任に追い込まれ、臨時政府は崩壊した。

◆◆◆連合政権と帝国主義戦争◆◆◆
 メンシェヴィキらはあらゆる政党の代表によって組織され、あらゆる階級によって支持される諸階級の協調による政府を目指した。
 一方、ソヴエトの圧力に悩まされてきたブルジョアジーは、連立政権を組織することを有利と考えるようになった。彼らはソヴエトの代表である“社会主義者”を政府に引き入れることによって、ソヴエトに結集する労働者・農民に対する支配を打ち固めようとしたのである。
 5月、こうして最初の連合政府が誕生した。それには8人のブルジョアの代表のほかにエス・エル(社会革命党――小ブルジョア政党)、メンシェヴィキ、ナロードニキから各々二人が入閣した。
 だが、ブルジョアジーと共同し、平和的に進もうとするメンシェヴィキらはたちまち躓いた。政府内における労働大衆の代表として考えられていた彼らは、労働大衆の要求を無視することができなかったからである。彼らの背後には、労働者、兵士、農民を結集するソヴエトがあった。
 政府内部の対立の第一の問題は、土地の問題であった。土地の分配を要求する農民は土地に関する契約を禁止し、あらゆる土地を土地管理委員会の管理のもとに引き渡すように要求した。だが、この要求は私有財産の侵害として地主やブルジョアジーの反発を引き起こした。農業大臣チェルノフ(エス・エル)は、農民の圧力によって立法化をはかろうとしたが、ブルジョア大臣の反対にあって挫折した。また彼自身、政府内の不和を恐れてその要求を貫こうとはしなかった。
 土地問題に象徴されるように、政府は重要な問題について一致することが不可能であることを明らかにした。
 戦争に関する問題についても意見の不一致を暴露した。
 入閣したメンシェヴィキ、エス・エルの大臣は「祖国擁護」の立場であり、ドイツが戦争をやめないかぎり、戦争の継続を主張していた。これに対して労働者、農民はなによりも戦争の終結を望んでいた。しかし、連合政府は、連合国の要請によってドイツへの侵攻の準備を開始したのである。その先頭に立ったのは陸・海相ケレンスキーであった。彼は、懲罰をもって兵士を戦闘にかり立てた。
 こうした事実は連合政権がブルジョアジーのための政府であり、労働者、農民の利害と対立していること、“社会主義“大臣が労働者、農民の代表ではなく、ブルジョアジーに利用されている存在でしかないことを明らかにした。こうして、労働者、農民の同情と支持は「全権力をソヴエトへ」と呼び掛けたボリシェヴィキへますます集まっていった。
 労働大衆の連合政権への不満と不信は、6月の首都で労働者、兵士の大規模なデモとして爆発した。彼らの旗には「全権力をソヴエトへ」「秘密条約を葬れ」「侵略戦争を葬れ」と書かれていた。これはボリシェヴィキの革命的政策が労働者大衆の中に深く浸透し、影響を広げていることを示していた。
 労働大衆の高揚とは逆に、メンシェヴィキやエス・エルはますます反動化し、ブルジョアジーとの共同を強め、連合政権は労働者、農民との対立を深めていった。

◆◆◆反革命への道を掃き清める◆◆◆
 6月デモはブルジョアジーを震え上がらせた。ブルジョア新聞(そしてメンシェヴィキなども)は「無政府状態」の蔓延を阻止し、ボリシェヴィキの進出を阻止しうる「強固なる権力」の建設を叫んだ。ブルジョアジーは、「二重権力」状態を終わらせ、階級支配の確立のために策動を強めていった。
 6月デモの翌日、ケレンスキー陸海相は、前線での総攻撃を開始した。愛国主義を煽り、緩んだ支配を固めようとしたのだ。だが、総攻撃は失敗し、ますます兵士の反戦意識を高め、軍隊の瓦壊を促進する結果に終わった。クロンシュタットの兵士や労働者らは武装し、戦争反対のデモを行った。
 これに対して政府は、戦線から政府に忠実な軍隊を呼び寄せ弾圧した。ボリシェヴィキは「祖国の裏切り者」として断罪され、指導者は逮捕され、その機関紙の発行は禁止された(七月事件)。
 7月下旬には、ケレンスキーを首相兼陸海相とする内閣が誕生した。18人の閣僚のうち11人が“社会主義者”であった。カデットからは5人が入閣した。カデットは、入閣の条件としてソヴエトと一線を画することをあげた。
 それに基づいて「国家評議会」が開かれた。それには、国会議員、村会、市会、消費組合、将校団、資本家団体、労働組合などの代表が集まった。「国家評議会」は、カデット、将校団、資本家団体など反動派のデモンストレーションの場となった。彼らは、ボリシェヴィキの革命からロシアを救済することを公然と訴えた。
 その代表として選ばれたのはコルニーロフ将軍である。彼には、ソヴエトを破壊し、ブルジョア独裁のための道を切り開く任務が課せられた。その陰謀の中心はカデットのミリューコフがいた。そして、この陰謀についてケレンスキー自身もまったく無関係ではなかった。
 だが、コルニーロフの反革命が現実の運動になると、ケレンスキーはコルニーロフを総司令官から解任した。ケレンスキーは自ら陰謀計画に加担しながらも、コルニーロフに反対したのは、反革命の波がボリシェヴィキのみならず、自分にも襲いかかってくる危険があったからである。コルニーロフはケレンスキー政府に対して新たな政府を組織するとして全ての権力を引き渡すよう要求した。コルニーロフの勝利は、ケレンスキーの破滅をも意味した。
 迫り来る反革命の危機に対して、首都の兵士は迅速に反撃に立上り、労働者は武装した。鉄道労働者はストに入った。労働者、兵士の新たな高揚によって反革命は掃討された。
 コルニーロフの反乱の失敗で、カデットは政府から去った。自らの党が計画した反革命を裁く政府にはいられなくなったからである。しかし、これを契機にケレンスキー政権は独裁的性格を強めていった。ケレンスキーは、ツアー時代の将軍2人、砂糖工場主、メンシェヴィキの4人を加えた5人からなる「執政内閣」を組織したのである。
 コルニーロフの反乱は急速に労働者大衆を目覚めさせた。メンシェヴィキやエス・エルらの協調主義に従い、連合政権を支持していたグループや労働者は、ブルジョアジーとの協調、共同が何をもたらすかを自覚した。こうして十月革命は準備され、勝利していった。

◆◆◆ロシア革命が教えるもの◆◆◆
 17年のロシアの経験は、「民主連合政権」(自由主義者や社会民主主義党派との連合政権)にどんな期待や幻想ももつことはできないこと、階級闘争を発展させるのは労働者階級自身の闘いであって、ブルジョア自由主義者や小ブルジョア党派との同盟や共同ではないことを教えている。もちろん階級闘争の具体的な政治的局面での彼らとの共同や妥協はありえるだろう。だがそれを恒久化したり、自己目的化するとすれば、それは労働者の階級的団結と闘いを解体し、敗北に導くだろう。
 メンシェヴィキはソヴエトの代表として、ブルジョア自由主義者と「連合政権」をつくった。だがすでに見たように「民主連合政権」は、労働者や農民が要求していた生活の安定や改善をもたらす改革を行うことはできなかった。ブルジョアジーの根本的利害に関わるような問題では、たちまち深刻な意見の対立を引き起こし、労働者や農民の要求は拒否された。もし、労働者の要求を貫徹しようすれば(メンシェヴィキはもともとそんな意志はもっていなかったのであるが)、政府はばらばらに分解してしまっただろう。実際、ウクライナの自治を認めたことを不満としてブルジョア大臣は辞任し(第一次ルヴォフ内閣)政府危機を招いた。
 政府の維持をはかるためには、結局はメンシェヴィキやエス・エルがしたように労働大衆を裏切り、最も右翼的な党派=ブルジョアジーに歩調をあわせなくてはならなかった。ブルジョアジーがメンシェヴィキら“社会主義者”を受け入れたのは、ブルジョアジーに対する労働大衆の闘いへの衝立とするためであり、幻想を振りまき資本の支配のもとに労働大衆をつなぎとめておくためであった。こうしてブルジョアジーは危機の時代を乗り越えようとしたのである。
 しかし労働大衆の要求を実現しえない「連合政権」と労働大衆との対立は避けられない。階級対立が激化するなかで「連合政権」はますます無力化していった。こうしてよりあからさまな暴力によって労働大衆の運動を抑圧しようとする反革命が生まれた。コルニーロフの反乱は、「民主連合政権」の矛盾が生みだしたものであった。メンシェヴィキらの階級協調主義は反革命の台頭を助けたのである。
 今日共産党は、労働者と自由主義勢力や小ブルジョアなどが共同する「民主連合政権」は、反動勢力を孤立させ、資本の体制の「平和的変革」を行っていくことを可能とすると言っている。しかしこれはまったくの幻想である。共産党の主張する「民主連合政権」とは、現代の「ケレンスキー政権」である。労働者はそれにどんな期待をもつことも出来ない。労働者は自らの階級的闘い発展させ、貫徹していかなくてはならない。


革命の時代に日和見主義者と手を組む
◆ハンガリー・ソヴィエト政権の成立と崩壊

◆◆◆共和国政府の樹立◆◆◆

 ハンガリーの革命は、第一次大戦の経済的危機を背景として、ロシア革命の強い影響のもとで始まった。
 第一次大戦ではハンガリーはドイツ側として参戦したが、たびかさなる軍事的敗北と戦争による経済危機は、国内の階級対立を一層激化させた。農業は荒廃し、都市の食料事情は悪化し、大衆は飢えに苦しんだ。大衆の反戦、平和を求める声は急速に高まり、各地で労働者による軍に対する反抗が起こり、戦線では兵士の反乱が相次いだ。
 18年1月、オーストリー全土に起こったストライキはハンガリーに波及、首都ブダペストでは即時講和を要求する30万の大衆集会が行われた。続いて労働者は社会民主党の中止の決定を振り切ってゼネストを決行した(これを契機として、社会民主党内に左派が結成された)。
 5月にはペーチで2千名の兵士が兵舎を占拠、プロレタリア革命のスローガンを掲げた。続いて6月に賃上げストが行われたが、軍隊の発砲を契機としてゼネストに発展した。この間、首都および工業都市で労働者代表タナーチ(=ソヴェト)が結成された。また8月には最初の兵士タナーチが結成された。
 10月末、ウィーンで革命が勝利した報がブダペストに伝わると、左派社会民主党や革命的社会主義者によって指導された武装労働者と兵士は、ブダペスト市内の鉄道、銀行など主要施設、政府官庁を占拠し、政治犯を釈放しはじめた。国王は国民会議の領袖であるカーロイ伯を首相に指名し、権力はブルジョア急進党、カーロイ党、社会民主党三党による国民会議に委譲された。十月ブルジョア革命は、兵士タナーチ、労働者タナーチと労働者大衆の力を基礎にして遂行されたのである。国民会議は「人民共和国」を宣言、ハンガリーは、数世紀にわたるハプスブルク家の支配に終止符をうち、国家的独立を獲得した。
 しかし、政府は労働者の社会変革の要求、農民の土地配分要求を実現し得ないことが明らかになった。三党のなかで唯一組織労働者に基盤をもっていた社会民主党は、急進化した労働者タナーチの体制内への取り込みを企んだ。しかし、これは左翼反対派の反発を招ねき、都市においても地方においても、次第に政府とタナーチとの対立が表面化していった。また土地改革を実行しない政府に農民はあいそをつかし、離れていった。
 こうした状況のもとで、左派社会主義者とロシア帰りの共産主義者によって共産党が設立された。共産党はタナーチ権力の樹立、土地の奪取を訴え、大衆の支持を拡大していった。
 政府からの労働者、農民の離反、共産党の運動の活発化、クロアチア人、ルーマニア人、スロバキア人の分離・独立宣言によって連合政権は危機を迎えた。
 社会民主党では、単独政権か連合政権からの離脱論かが論争となった。右派は政府からの離脱を、中央派、左派は単独政権を主張したが、最終的には中央派クンフィによる提案によって、社会民主党閣僚を増加させて連合政府内にとどまることになった。
 こうして19年1月には、カーロイ党左派、ブルジョア急進党、小農業党、社会民主党の四党からなるベンリケイ新内閣が生まれた。社会民主党は11の閣僚中軍事大臣はじめ4閣僚を占め影響力を増大させた。農業大臣には小農業党党首ナジャターディ・サーボーが、内務大臣には共産党に批判的なナジ・ヴィンツェが登用された。これは、農民の不満を緩和し、急進化する労働者大衆に一定の譲歩を示しつつ、他方では共産党、左派に対しては対決する姿勢を明らかにしたものであった。

◆◆◆社共合同と革命政府の樹立◆◆◆
 ベンリケイ政権のもとで土地分配法がようやく公布された。2百ホルド(115ha)までの土地私有が認められ、それを超える部分は買い上げられ、土地のない農民に5〜10ホルド(2.9〜5.8ha)ずつ分配されることが規定されていた。しかし、改革は実施されなかった。
 また政府の公約した「独占企業の社会化」も所有者の強い抵抗にあって中止され、労働者の要求は8時間労働制以外にはなに一つ実現しなかった。これに対して労働者は、実力で企業から経営者を追いだして社会化を遂行した。共産党は「カーロイの“人民共和国”は資本の支配の変形にすぎず、国家は依然として有産階級による労働者搾取の道具となっている」として、労働者、兵士、農民タナーチを権力機関として組織すること、プロレタリアートの革命権力を樹立することを訴えた。
 社会民主党指導部は共産党を直ちに攻撃した。中央派のクンフィは、議会における演説で、「われわれは、階級的憎悪と階級闘争という手段を用いるつもりはない。……われわれは、すべての人々が、階級的利害を離れてわれわれを支持することを期待する」(斎藤稔、「ハンガリー・ソヴェト共和国」歴史学研究244号より)と国民融和を訴えた。そして社会民主党は工場占拠をよびかける共産党を非難し、労働組合とブダペスト労働者タナーチから共産党員を排除するよう指令した。しかし、最大の労組である鉄鋼、金属労組などから拒否された。
 こうした状況のもとで、政府は共産党の影響力の拡大を阻止するために暴力的手段に訴えた。政府はベーラ・クンをはじめ共産党幹部を逮捕、機関紙を発禁とした。
 しかし、政府の共産党弾圧はハンガリー全土に抗議の嵐を呼び起こし、国内各地で抗議のデモや集会が相次いだ。ブダペスト最大のチェペル金属工場の一万人集会では共産党幹部釈放を要求するとともに、全工場代表者会議開催を呼び掛けた。それは事実上、蜂起の呼び掛けであった。失業労働者は監獄を襲撃、共産党員の釈放を要求、印刷労働者はストライキに突入した。共産党を除く全ての新聞の発行は止まり、共産党系の武装労働者は結集し始めた。
 政府にもはや労働者の闘いを阻止する力はなかった。内閣は総辞職して社会民主党に政権を託した。しかし、社会民主党は単独で政権を引き受ける考えはなかった。彼らは政府からの退陣を主張する右派と共産党との連立を要求する左派の対立の中で揺れ動いていたが、最終的には左派の要求をいれて、共産党との合同による新政権を樹立することを決めた(但し、右派の指導部の一部は合同による政権に反対して離党し、亡命あるいは反共産党運動を続けることになる)。直ちにブダペスト労働者タナーチもこれを承認し、社会民主党中央派のガルバイを議長とする新政府=「革命統治評議会」が樹立され、ハンガリー・タナーチ共和国が宣言された。
 革命政府の党派別構成は、社会民主党19名(右派6、中央派8、左派5)、共産党13、無党派2名であり、社会民主党が多数を占めた。共産党からはベラ・クーンが外務人民委員になったが人民委員代理が多かった。(ルカーチは教育人民委員代理、ラコーシが商工人民委員代理、サーント・ベーラは軍事人民委員代理など)。
 こうして革命政府は、ブルジョア急進派の没落と社会民主党の共産党への接近によって平和的に実現した。しかし、旧支配階級は完全に打倒されたわけではなかったし、右派を中心とする社会民主党は一時的に後退したにすぎず復活の機会をうかがっていた。また帝国主義諸国は武力干渉を開始した。
 革命政府は直ちに産業、土地の国有化、赤衛隊の組織化など労働者国家建設に着手した。産業の国有化については、3月から4月にかけて20人以上の労働者を有する工業・商業が無償で国家に接収された。これらの企業は労働者、職員の中から選出された経営評議会と政府任命の生産委員とによって経営されることになった。土地国有化については、土地社会化法が公布され、100ホルド(57ha)以上の土地は家畜・農具とも無償で接収され、地主的土地所有者は一掃されたが、しかし貧農(100万人以上を数えた)は土地を受け取らなかった。土地は、農民に分配されずに国営農場になった農業生産協同組合に引き渡されたからである。
 レーニンは、ハンガリーの指導者に対して、性急さや先走りをしないように忠告した。彼は、社会主義の建設は「かなり長い過渡期を必要」とすること、なぜなら、「生産を組織がえすることは困難なこと」だからであるだけでなく、「小ブルジョア的およびブルジョア的経営方法に慣れた習慣の大きな力は、長期の、ねばり強い闘争を通じて、はじめて克服できるからである」(「ハンガリアの労働者への挨拶」)と訴えた。しかし、この忠告は顧みられなかった。
 当時、社会民主党も共産党もハンガリーがロシアと同様に遅れた農民国家であるという状況を考慮せずに機械的に「大規模経営」を直ちに実現しようとした。彼らはまた大土地所有を占拠し協同組合を組織していった農業労働者の闘いを過大評価していた。彼らは、土地の国有化をもって農業政策ではロシアのボリシェヴィキのそれよりも進んでいると評価していたのである。だが、この政策は小農民の革命政権への反発をよび起こし、反動派へ走る要因となった。

◆◆◆社会民主主義者の動揺と革命政権の崩壊◆◆◆
 帝国主義諸国は革命が他国へ波及することを恐れ、ハンガリーに対して経済封鎖を行った。フランスはチェコ、ルーマニアをけしかけて武力干渉に出た。政府は赤軍を再編成して干渉軍の包囲網を打ち破り、スロバキアに進撃した。ハンガリー赤軍の進攻に呼応してスロバキアでは革命政権が生まれた。
 こうした高揚の時期に社共合同後の初めての全国大会が開かれた。しかし、大会は社会民主主義者と共産党との対立を明らかにした。右派、中央派の社会民主主義者は、レーニンの「きのう味方となった社会主義者のあいだや、小ブルジョアジーの間に動揺が現れたら、容赦なく動揺を鎮圧すべきです」(同上)という手紙を引合いに出して、共産主義者は政府の分裂を策し、社会民主主義者を攻撃していると非難した。彼らは、ブルジョア民主主義の基礎のうえに、フランスやイギリスなど協商国側と交渉して、国家再編を行おうとしていた。結局、両者の対立は解けず妥協に終わった。これは「ハンガリー社会主義・共産主義労働者党」という名称に象徴されている。これを機に右派は独自性を強めていくのである。
 情勢は急速に悪化していった。協商国は赤軍の境界内への撤退を要求してきた。ハンガリー政府はこれを受け入れたが(撤退によってスロバキア革命政府は崩壊した)、干渉軍はハンガリー国内に居座った。一方国内では、反動派による反革命策動が活発となり、彼らは富農の反乱、地方や首都で王制派や士官の活動などを呼び掛けた。
 事態が絶望的となる中で、社会民主主義者は労働組合指導者からなる臨時政府に権力を譲るように迫った。ベラ・クーン、ランドラーらは亡命した。こうして8月1日、ハンガリー・タナーチ政権は、133日にわたる歴史を閉じた。
 革命政権に替わって右派社会民主主義者のペイドルを首班とする「労働組合政府」が成立した。政府は「政治犯」を釈放し、共産党員の逮捕を指示した。企業の国有化を廃止し、私有財産の復活を宣言した。しかし協商国側の承認を得ることができず、ルーマニア占領軍に支持された反動派のクーデタによって打倒された。社会民主主義者の単独政権は、反動派に対して何の抵抗もせず、わずか4日で崩壊、その後のホルティの軍事独裁へとつながっていくのである。
 革命政権崩壊を促進したのは、急進的農業政策の誤りばかりではなく、組織的に共産党が弱体であったことも大きな要因となった。社会民主党との合同は、共産党が社会民主党の中に吸収され解消される結果となった。19年のはじめに共産党の影響が増大した時でも党員はわずかに1万〜3、4万人にすぎなかった。これに対して社会民主党の党員数は戦前にすでに10万人に達していたのであり、合同直前には80万を数えた(羽場久み子、「ハンガリー革命史研究」)。そして労働組合は右派の影響下にあった。
 また、党とタナーチとの関係においても、党とタナーチの関係はあいまいなままにとどまった。とりわけ農村では、党の組織はタナーチに肩代わりされ、独自の組織もなく、活動も行っていなかった。生産を管理、指導する役割をもった職場の労働者タナーチも、労働者の未熟練などで一部は旧管理者や旧所有者が生産管理や生産委員会のメンバーとしてとどまったため、労働者管理は形式的にしか機能しなかった。労働者タナーチ、農村タナーチも革命的な指導部をもたなかったのである。これは、ロシア革命でボリシェヴィキがソヴェト中でのねばり強い活動によって、大衆への影響力を拡大し、支持を獲得していったことと対照的である。
 ハンガリー革命政権は、帝国主義の軍事的干渉、農民の離反、さらには社共の日和見主義によって崩壊した。コミンテルン第二回大会は、「共産主義者はだれでもハンガリー・ソヴェト共和国の教訓をわすれてはならない。ハンガリーの共産主義者と改良主義者が連合したため、ハンガリーのプロレタリアートは大きな犠牲をはらった」と指摘している。この教訓は、「改良主義及び『中央派』の政策と完全に、絶対的に絶縁する必要がある」とのコミンテルン加入条件に反映された。しかし、ハンガリー革命の挫折の教訓は生かされることなく、後にスターリンの人民戦線戦術のもとで繰り返されるのである。


社民との協調主義に溺れ、反革命に敗北
◆独ザクセン、チューリンゲンの労働者政府の経験

◆◆◆ザクセン労働者政府の成立◆◆◆

 1923年、ドイツ中部のザクセン、チューリンゲン両州で左派社会民主党と共産党連合による「労働者政府」が相次いで誕生した。ドイツは諸州の連邦という形で各州ごとに地方政府をもち、かなり大きな権限をもっていたのである。この社、共連合による「労働者政府」の政策と行動は、「民主連合政権」の特徴を示している。
 23年の春から夏にかけてドイツの階級対立は先鋭化した。連合国による苛酷な賠償はドイツ国民に大きな負担をもたらした。また、フランスのルール占領をめぐって、ドイツとフランスの緊張が激化する一方、国内では反動的民族主義的組織や軍国主義的組織の活動が活発となっていった。
 9月半ばにはストライキ運動が活発となった。ベルリンその他の都市の飢餓行進は警官隊との衝突に発展した。他方、ニュルンベルクでは武装ファシストと民族主義団体がデモを行い、キュストリンでは非合法の「黒い国防軍」の反乱が起きた。この事件をきっかけとしてエーベルト大統領は非常事態を宣言し、全行政権をゲスラー国防相に委ねた。それは労働者抑圧の白紙委任状を軍部=ゼークト将軍に与えたことを意味した。
 政治反動が強まるなか、10月、ザクセン州で社会民主党左派のツァイグナーを首班とする社、共連合政府――5人の左派社会民主党員と2人の共産党員――が成立した。ザクセン州ではすでに社会民主党と共産党が議会で多数派を占めていたが、共産党が入閣に踏み切ったからである。
 共産党の入閣は、労働者をファシズム的反動勢力との闘いに引き入れるためだとされた。共産党指導部であったブランドラーは後に述べている。
 「ザクセン政府へのわれわれの入閣が、中央のファシスト独裁の耐えうるところでないことは明らかであった。われわれは、二つの観点から入閣を企てた。第一は、武器を手にいれるために、第二は、この地位が国の執行権介入によって、つまりファシズムによって攻撃された場合、この地位の擁護を通じて、従来、誤り導かれていた社会民主党系労働者大衆を彼らの指導者から切り離すこと、および合法的に成立したザクセンとチューリンゲン政府を擁護する闘争として始まったこの闘争に彼らを引き入れること、などの可能性を生み出すために、事実上の権力的地位を作りだすことであった」(「政治情勢と党の次の任務」、中村丈夫編、『マルクス主義革命論史・3』)
 ツァイグナー政府は、自らを共和国を防衛する「抑圧されたすべての勤労者大衆の政府」であると宣言した。
 ツァイグナーは迫りつつある軍事独裁に対抗すべく、ワイマール「憲法擁護を目的とした共和国防衛緊急軍を創設する」と述べた。
 これとともに決定されたことは、8時間労働日など労働者の権利を守ること、経済統制委員会を政府機関が公認すること、すべての青少年に学習の権利を認める統一的単線学校制度の継続、職業学校を創立することなどであった(上杉重三郎、『ドイツ革命運動史・上』)。
 しかし、ツァイグナーは、緊急軍の創設はもとより、資本の根本的な利害に触れるような改革は行わなかったし、自ら公約した労働者生活防衛のための政策さえなに一つ本気で遂行しなかった。
 ザクセンに続いて、チューリンゲンでも社会民主党と共産党による労働者政府が樹立された。政府は労働者の武装隊を組織して、地方警察と結合をはかる、エーベルト大統領の「非常事態宣言の撤回」「すべてのファショ団体の武装解除」を掲げた。

◆◆◆軍事的弾圧による政府崩壊◆◆◆
 これに対して、ブルジョアジーはザクセンやチューリンゲンの社、共連合政権をだまって見過ごす気はなかった。国防軍は東プロイセンとシュレージェンからのじゃがいもの搬出を禁止し、ザクセンを封鎖して飢餓状態をつくりだした。
 ザクセンの国防軍司令官ミューラーはザクセン政府から州警察軍に対する指揮権を剥奪する一方、ファシストや君主主義者からなる反革命部隊の装備をおこなった。
 そして中央政府と軍部は、武力によってザクセン、チューリンゲンの社、共政権を打倒するために軍隊を両州に派遣した。
 しかしツァイグナー首相は、国防軍の進駐の目的が「合憲的な」状態を回復するためであるという通告を受けていたにもかかわらず、軍隊へのザクセン進攻はバイエルンの極右反動派の進入を阻止するためであるかに偽った。中央政府、軍部による反革命に対して、ツァイグナー社会民主党政権は闘う意志など少しももちあわせていなかったのである。
 軍隊がザクセンに進入を開始した日にザクセン政府の招集で開かれた会議(ケムニッツ会議)でも、そのことは明らかになった。この会議は、経営協議会、経済統制委員のほか消費組合、反ファッショ行動委員会、失業者の各代表、労働組合幹部が参加した。発言者は軍事独裁に反対する闘いを直ちに開始する必要性を強調し、ザクセン政府が、戒厳令と国防軍の強化に反対し、ゼネストを呼びかけるよう要求した。
 しかし、社会民主党の労働大臣はゼネストを議題にすることを拒否し、もしこれに関して討議を続けるならば退場すると威嚇した。これに対して共産党のブランドラーは、ゼネストは全会一致でなければ意味がないと発言したが、もともと共産党も真剣に反動勢力と闘う気などなかったのである。こうしてゼネストは葬りさられた。
 ザクセンに進駐した軍隊は、ザクセン政府に退陣を迫った。ツァイグナー政府はこれを拒否した。これに対して大統領エーベルトは、憲法の規定に基づき政府の解消を命令し、代わって反動として知られた人民党代議士をザンセン州高等弁務官に任命した。これに続いてチューリンゲン政府も共産党の大臣の辞職を強要され崩壊した。二つの政府は抵抗もなしに敗北したのである。両政府崩壊後、共産党は非合法化された。

◆◆◆共産党の社会民主党との協調◆◆◆
 ブランドラーは、闘争の敗北の原因は社会民主党の裏切りと労働者大衆の意識の立ち遅れにあったと総括した。
 「社会民主党―共産党政府への攻撃は、プロレタリアート独裁のための闘争の始まりとなるはずであった。われわれはこれを達成するために、党としてあらゆる試みをしたが、この試みは挫折した。なにによってか? ザクセンに対する国の執行権力が通告された決定的瞬間に、社会民主党指導部に誤り導かれた社会民主党系労働者もまた、この国の執行権力に対して公然たる武装闘争を行う用意がなかったということによって挫折したのである。有名ないし悪名高いケムニッツ会議は、そのことをまったく歴然と示した。この会議では次のようなことが起った。経営レーテ、つまり経営のプロレタリアの90パーセントは、社会民主党党員どもが詐欺師的トリックを演ずるさまを静かに傾聴し、ザクセンに対する国の執行権介入は、ザクセンに向けられたものではぜんぜんなく、バイエルンに対する闘争を偽装したものにすぎないものと解すべきであると彼らは語ることができた」(同前)
 社会民主党が反動勢力と徹底的に闘いえないということは明らかであった。ツァイグナー社会民主党政府の下での管理委員会は資本の断固たる規制を行わず、また労働者会議所もおしゃべりの機関にすぎなかった。政府は口先では労働者のための政治を謳いながら実際では警察が失業者のデモ隊に対して発砲するなど、労働者の大衆運動に対して弾圧しさえしてきたのである。
 労働者の革命的闘いを恐れるツァイグナー社会民主党が、反動勢力の攻撃と闘いを貫徹しえないことは分かりきったことであった。
 ブランドラーは労働者大衆がまだ社会民主党の日和見主義の影響の下に置かれ、自らの階級的任務を自覚していなかったと強調している。しかし、ツァイグナー社会民主党政権を労働者のための政府として美化してきたのは共産党自身であった。彼らは労働者に資本の支配の打倒に向けた闘いを呼びかけ、組織するのではなく、資本のもとでの八時間労働日の防衛などの「中間的要求」について、そのための社会民主主義者との統一戦線による労働者政府についておしゃべりしてきた。
 共産党は労働者政府のための闘いについて次のように述べた。
 「労働者政府は、プロレタリアート独裁でもなければ、またそれにいたる平和的、議会主義的な段階でもない。それは労働者階級がプロレタリア的諸機関とプロレタリア的大衆運動に支えられながら、ブルジョア民主主義の枠のなかで、またなによりもまずそれを手段として、労働者的政策を遂行しようとする試みである。……
 共産党は労働者政府を、現在の段階ではプロレタリアートの生存のための闘争を援助できる唯一の政府として、ブルジョア政府や連立政府や社会民主主義政府に対置するが、ブルジョアジーに降伏せずにプロレタリアートの利害を代表できる政府は、それしかありえない。……。
 労働者政府への参加が共産党にとって意味するものは、プロレタリアートの革命的目標を犠牲にした協定でもなければ、詭計ないし戦術的なマヌーヴァーでもなく、改良主義的労働者諸党がブルジョア階級から分離し、プロレタリアートの日常的要求のために共産主義者とともに闘うことを容認する明確な意志を示す場合にはじめて成立するそれらの諸党との共同闘争への用意なのである」(ドイツ共産党第八回大会で採択されたテーゼ、『マルクス主義革命論史・3』)
 共産党はブルジョア民主主義の枠内でブルジョア国家に依存しながら、「日常的要求」のための闘いを訴えきたのである。労働者に対して「われわれが責任をおっているのは、州議会の多数派と法にたいしてである」などとさんざんブルジョア民主主義について幻想を煽っておきながら、労働者の階級的意識が立ち遅れていたため、ザクセン政府が崩壊せざるをえなかったなどというのは、まったくの欺瞞であった。共産党の日和見主義こそ労働者の階級的闘いを解体してきたのである。

◆◆◆日和見主義的な労働者政府綱領◆◆◆
 ブランドラーは「ザクセン政府への共産党員の入閣は、ブルジョア共和制から脱却して、プロレタリアート支配のための闘争に移るための一歩であった」と後に語ったが、入閣の方針はコミンテルンの指示でもあった。
 コミンテルンはザクセンの経験を総括し、「入閣の意味は、特殊に軍事的・政治的な任務」にあったと述べている。コミンテルンは「遅くとも4ないし6週間後に決定的な時点がくるという情勢評価のもとに、直接役立てうるあらゆる陣地を直ちに占拠」し、5ないし6万人の武装を実現することによって蜂起し、全国的な蜂起に発展させていくと展望していたのである。
 ザクセンの経験を総括したコミンテルン決議は、「党員のまずなすべきことは、労働者の武装の問題を容赦なく提起することだった。労働者政権に関与したその時から、プロレタリアートの武装以外のテーマは、党員にあってはならなかった」として、ザクセンの「実験」の敗北はドイツ共産党指導部が労働者の闘いの意欲を評価できなかったこと、武器の準備、労働者を蜂起に向けて組織化する活動を怠ったためであると批判した(「ザクセンの実験とハンブルグの闘争」)。
 だが、当時のザクセン政府が革命的蜂起の出発点になるというのは、コミンテルンの主観的願望であった。ゼネストを否定したケムニッツ会議の報告の到着が遅れたハムブルグの共産党は蜂起したが、わずか3百人たらずの孤立した闘いに終わった。
 ザクセンの敗北はドイツ共産党指導部の蜂起準備に現われた組織的な誤りといったことにはなかった。それはツァイグナー政府を労働者のための政府であるかに美化し、彼らと協調し、馴れあってきたことに示される日和見主義的政治の結果であった。
 そしてその日和見主義は、非共産主義諸党との連合=「労働者政府」を掲げたコミンテルン(トロツキー、ジノビエフが主導的役割を果たした)の統一戦線戦術と結び付いていた。コミンテルンはブルジョア政党と社会民主党の連合に対抗する「政治・経済の分野における全労働者政党の一大連合」としての労働者政府のための闘いは、広範な労働者を革命的闘いに結集していく闘いであると述べた。
 だが、資本と一切の日和見主義を徹底的に暴露し、労働者を革命政党に組織していくという根本的な任務を放棄し、社会民主主義者との統一戦線、連合を追求するならばその政府は、改良主義的な、あるいは社会民主主義的な政権にしかなりえないであろう。革命政党による労働者大衆の獲得を通じて革命を根本的に準備するという課題を、非共産主義諸党との連合に歪曲した統一戦線戦術がブランドラーらの日和見主義を生み出したのである。


ブルジョアとの協調推し進め挫折
◆フランス人民戦線政府の経験

◆◆◆反ファシズム人民戦線の結成◆◆◆

 1930年代の世界恐慌とファシズムの台頭する激動の時代に、フランスでは「自由と平和とパン」をスローガンとして、レオン・ブルムを首班とする社会党人民戦線政府が誕生した。ファシズムからの防衛とパン獲得のための恐慌の克服を目指したブルム政権の“実験”の破綻は、「平和で民主的な豊かな日本」という共産党の民主連合政権の一つの将来の姿を示しているといえよう。
 ブルム政権を生みだした主体となったのは、反ファシズムの運動であった。恐慌のもとでの国民の窮乏、大量失業を背景にファシズムが台頭、ドイツではヒトラーが権力を掌握した。フランスでも「火の十字団」などファシズム的右翼勢力が影響力を広げ、左翼との衝突を繰り返した。こうした状況のもと、人民戦線運動は、右翼的勢力に対抗して、平和と民主主義、国民生活防衛を掲げた反ファシズム運動として高揚した。35年7月、「パンと平和と自由」のスローガンのもとに、社会党、共産党、急進社会党、労働総同盟、反ファシスト知識人監視委員会など50に近い団体のもとに50万人が参加して、かつてない大規模なデモがパリで繰り広げられた。
 このデモの直後に開かれたコミンテルン第七回大会で、ディミトロフは「50万の人々の参加した7月14日のデモとその他のフランス都市におけるおびただしいデモの意義は、はかり知れぬほど大きい。これはたんに労働者の統一戦線運動であるだけではない。これはフランスにおけるファシズムに反対する広汎な人民戦線の始まりである」と述べた。
 右翼のデモに対抗する大衆行動を組織するために設立された「人民連合全国委員会」はその後も活動を続けることとなり、やがて社会党、共産党はじめ左翼各党派を中心に百近い団体が結集した「人民連合」=人民戦線が結成された。
 人民戦線結成にあたって綱領が作られた。
 綱領前文では、「パンと平和と自由」のスローガンの意義を再確認するとともに、「この綱領は意図して即時適用可能な方法に限定される」ことを謳った。政治的要求では、ファシスト団体の武装解除、解散、言論、組合運動の自由などを掲げた。経済的要求としては、恐慌により失われた購買力の回復、労働時間の短縮、大規模な公共事業、失業基金の設立などである。国有化については兵器産業がその対象とされただけであった。共産党のトレーズはコミンテルンの会議で、広汎な反ファシズム人民連合の結成に成功した理由は、「ブルジョア民主主義を一貫して守ってきた」ためであったと述べている。
 綱領が資本の体制の枠内での“改革”にとどめるというように、人民連合は結成時点においてすでに未来に向けての発展の契機を失っていたのである。
 こうした中で迎えた36年5月の総選挙は、左翼の人民連合派対右翼を中心とする反人民戦線派との闘いとなった。総選挙の結果は、人民戦線派が373議席を獲得、反人民戦線の248議席を大きく上回り勝利を収めた。
 人民戦線政府は、第一党となった社会党と急進社会党を中心として組織された。第二党となった共産党は入閣の要請をことわった。それは、労働者の革命政党としての立場からではなかった。彼らは、共産党の政府への参加がプチブルジョアを怯えさせ、人民戦線から離れるのを恐れたのである。そのかわり閣外での「完全で強固な支持」を決めた。

◆◆◆人民戦線によるストの抑制◆◆◆
 ブルム内閣が成立したとき、フランス全土では大規模なストライキが闘われていた。
 4月には地方で工場占拠をともなう小規模なストライキが起こっていたが、5月1日、パリ地方のルノー自動車工場の2万5千人をはじめ12万人の金属労働者が作業を停止した。本格的なストライキの波は、ル・アーヴルの航空機工場でメーデーに休んだ労働者の解雇処分の撤回をもとめてストライキが行われたのに始まった。ストライキは、工場占拠をともないながらまたたく間に全国に波及した。スト件数は1万2000、参加者は約2百万人に上った。
 労働者の闘いの高揚のなかで、社会党最左派のピヴェールは「一切は可能である」、「資本主義世界は死の苦悩に瀕している。いまこそ新しい世界をつくるべきである」と叫んだ。ピヴェールは、ブルム政権が資本に反対する革命的な政権になりうるという幻想をもってはいたが、人民戦線を防衛的な運動から攻勢的な運動に、さらに資本に反対する闘いに発展させていこうとして「一切が可能である」と主張したのである。
 社会党、労働総同盟は労働者の闘いの発展をなによりも恐れていた。ストライキ闘争の発展は社会秩序を混乱させ、急進社会党を刺激して成立したばかりのブルム政府を崩壊に導きかねない、と。
 政府が成立した翌日、ブルムは労働者にストライキの激化を避けるように呼び掛け、ストを収拾するために労働総同盟と資本側の調停に乗り出した。こうして組合運動の自由、賃金の7〜15%の引き上げ、ストライキ参加者を処分しないこと、労働者による法の尊重などを主な内容とするマティニョン協定が結ばれた。
 社会党も共産党も協定をすばらしい勝利とたたえた。しかし、資本にとって協定は、労働者の攻勢を押し留め、反撃の体制を準備するための一時的な譲歩であった。
 ストライキ闘争の発展を恐れたのは社会党ばかりではなかった。共産党もまた労働者にストライキを自制するよう呼び掛けたのである。トレーズは次のように言った。
 「満足な結果がえられたら、ただちにストライキを終わらせるすべを知らなくてはならない。いまだ要求のすべてが通ったといえなくても、要求の本質的な部分において勝利を収めている場合は、妥協することさえ知る必要があるのだ。一切が可能であるというわけではない」。さらに彼は、工場占拠で闘っている労働者に対して、「工場を占拠し、生産を労働者の管理に置く」にはおよばないと述べた。
 トレーズの発言を受けて共産党中央委員会は次のような決議をした。「この危険な公式(一切は可能である)にたいして、中央委員会は《一切が可能であるというわけではない》という共産党の声明を対置させる。党の主要なスローガンは、依然として《一切を人民戦線のために、一切を人民戦線によって》なのである」と。
 共産党にとって、人民戦線は体制内の運動であり、それを乗り越え前進してはならないのである。彼らは労働者の闘いを資本の体制に反対する革命的な闘いへと発展させていこうとする者に対して、労働者を国民から孤立させる挑発者、分裂主義者として非難したのである。共産党は労働者の闘いの妨害者として現れたのである

◆◆◆破産した購買力拡大政策◆◆◆
 協定が調印された後、政府は有給休暇法(年間2週間)、団体協約法、週40時間法を相次いで成立させた。
 ブルム政府が最も重視した政策は経済政策であった。彼らによれば、経済恐慌は過剰生産の結果ではなく、過少消費の結果であり、大衆の購買力の増加によって恐慌を克服しうるというのである。人民戦線綱領にしたがってブルム政府は大衆の購買力を増加させるために、全国失業基金の設立や、農業所得を増加させるための小麦公団の創設、公共事業、賃金の減額なしの労働時間の短縮を実施した。ブルム政府の政策はアメリカのルーズベルトのニューディールが念頭にあったと言われている。しかし、アメリカのような大規模な公共事業は実施されず、政策の中心は労働時間の短縮であった。
 社会党は、賃下げなしの労働時間短縮は就業できる仕事を再配分することによって失業を解消することができるし、総需要を増大させて経済を活気づけると主張した(これは現在、共産党や全労連が持ち上げているワークシェアリング政策だ)。
 だが、この政策は“生産コスト”を高騰させて輸出を困難にした。金は海外に流出し、生産は低下した。政府は輸出拡大のために平貨切り下げを実施した(すでに政府成立直後から蔵相は輸出拡大のために平貨切り下げを行おうとしたといわれる。これに対して自国の市場が荒されるのを嫌ってイギリスは反対した。結局、イギリス、アメリカの合意のもとには3カ月後の9月に実施されたのだが)。
 平貨切り下げによって消費物資は高騰し、実質賃金は低下した。労働者はわずか3カ月前にマティニョン協定で得た利益の半分を失った。
 また、雇用を拡大させるはずであった労働時間短縮も、その損失を埋め合わせるために資本は新たな労働者を雇うよりも、一人当りの生産高を増やそうとした。このために政府が期待したような雇用拡大をもたらさなかった。
 労働時間短縮による購買力増加政策が失敗に終わったのは、利潤の獲得を生産の唯一の目的とする資本の体制を前提としていたためである。企業の目的が利潤の獲得にある以上、利潤の拡大を妨げる労働時間短縮の負担をだまって受け入れるはずはなかった。政府の購買力増加政策は画餅に終わったのである。
 こうして、わずかな間にブルムの経済政策の無力さは明らかになった。

◆◆◆ブルム政権の崩壊◆◆◆
 もともとブルム政権には資本と徹底的に闘うという意志などなかった。ブルムは組閣直前の党大会で次のように述べた。「一つの社会体制は、よかれあしかれ、その内部で人が生きている何かである。われわれはすでに現体制の矛盾、欠陥を暴露したが、体制の内側から働きかけること、これがわれわれの実験の目標である。“諸君はブルジョア社会を管理し、救助しようとしているのだ”という人がいるかも知れない。しかし、現在の社会をよりよきものに変え得るか否かが最重要問題である」
 彼は、ブルジョアジーに対して「わが内閣は、ある種の資本主義的所有形態の革命的収用にのりだす権限もないし、またその意図もない……今日の社会体制と所有制度の枠内で、どの程度まで、どの段階まで、一定の社会的前進と人間的平等が実現しうるか、これを証明することなのである」(議会での演説)と、資本の根本的利益を損なうことなど毛頭考えていないと弁解し、資本の協力を訴えている。
 だが、ブルムの立場はまったく矛盾している。政府の“諸改革”が資本の利益を脅かしているときに、彼らの協力など得ることはできないからである。資本は、政府に対して、海外に資本を逃避させ、生産をサボタージュすることによって抵抗した。生産が縮小、低下するなかで、政府の景気回復策は行き詰まり、破綻した。
 一方、スペイン人民戦線政府支援をめぐって政府内の亀裂は拡大した。
 フランスと時を同じくしてスペインでも人民戦線政府が誕生したが、ドイツ、イタリアのファシスト政権は人民戦線政府に反対して蜂起したフランコの反革命を支援した。ブルムは当初スペイン人民戦線支援を打ち出したものの、急進社会党の強硬な反対、イギリスの反発にあって、国内での統一と国際協調のために“不干渉政策”に転換し、スペインの人民を見殺しにした。
 対外的にも対内的にも政府の政策は行き詰まり、わずか3カ月にしてもはやブルム政権は、前進する気力さえ失っていた。ブルムは「社会、経済生活にもたらしえた巨大な変化の後では、国の繁栄、健康にとって十分な安定とノーマルな時期が絶対に必要である」と人々に秩序への復帰を訴えた。これは、ますます反動派やブルジョアジーを勢いづかせることとなった。
 こうしてついに37年2月、追いつめられたブルムは人民戦線の社会、経済政策の「休止」を宣言するに至るのである。そして労働者の購買力の増加という政策も放棄していった。
 その後、急進社会党のショータン内閣、第二次ブルム内閣と形式的には人民戦線は38年4月まで継続するが、労働者のストは味方であったはずの政府によって弾圧されていった。実際的には「休止」宣言の時点で人民戦線政府は死んだのである。そして第二次ブルム政権崩壊後に誕生したかつての人民戦線の盟友急進社会党ダラディエ政権のもとで、人民戦線のシンボルであった週40時間労働制は廃止された。そして反革命=ファシズム勢力が再び勢いを盛り返してくるのである。
 人民戦線の約束した生活の向上も平和も何一つ実現しなかった。労働者が獲得した有給休暇制、労働時間短縮も労働者の大衆的な闘いの高揚の結果であった。だが、労働者の闘いは発展させられるのではなく、逆に資本の秩序のなかに押し留められた。社会党も共産党も体制内の“改革”を訴え、労働者の階級闘争を抑制した。こうした社共、人民戦線政府の日和見主義、改良主義こそ、労働者の団結と闘いを解体し、反動的勢力の反攻を許したのである。


ブルジョア秩序維持唱え革命闘争を解体
◆共産党とスペイン人民戦線

◆◆◆人民戦線政府の成立とフランコの反乱◆◆◆

 1936年2月、スペインの人民戦線政府が誕生した。そしてそれを契機として労働者、農民の闘いは急速に高揚していったが、結局は革命にまで発展させられることなくブルジョア秩序の枠内に押し留められた。ブルジョア自由主義派と協調に終始し、反革命の勝利を許したスペイン人民戦線政府の経験は、プチブルジョア党派や自由主義的ブルジョア党派との連合を謳う共産党の民主連合政権の将来を明示しているといえよう。
 2月の総選挙は、左派共和党、社共など「人民戦線」と右派勢力の「国民戦線」との対決となった。
 総選挙を前にして、左派共和党、社会党、共産党、UGT(社会党系労組)、POUM(トロツキスト系政党)を中心として「人民ブロック協定」が結ばれた。その主な内容は、政治犯の釈放、憲法上の自由の回復、農民への国家援助、中小商工業者に対する税の軽減、公共事業計画の実施といったもので、本質的にはブルジョア改良主義を超えないものであった。
 選挙の結果は、国民戦線の205議席に対して、人民戦線派は268議席(左派共和党158、社会党88、共産党17)を獲得して勝利した。これはそれまで選挙に否定的であったアナーキスト系労働者も投票に参加した結果であった。
 こうして共和派によるアサニャ政府が誕生した。社会党や共産党は閣外支持にとどまった。
 選挙の勝利と共に都市では労働者は待遇改善を要求してストライキに立ち上がり、農村では農民は地主の土地を占拠しはじめた。これに対して、政府はストライキを不法と宣言し、労働者のデモや集会を弾圧した。また政府は土地の分配計画を拒否し、土地の獲得をめざす農民の運動は鎮圧された。教会や地主の富はほとんど手つかずのまま温存された。
 「協定」は、3万人の政治犯の釈放、軍隊による労働者への残虐行為の責任者の処罰を謳っていたが、政治犯は一部が釈放されたにすぎず、労働者を弾圧した将軍は一人として裁かれなかった。労働者政党や労働組合の支援を得て誕生したアサニャ政府であったが、政府は共同政綱であった「人民ブロック協定」をなに一つまじめに実行しようとしなかったのである。
 政府は「協定」を無視する一方では、陰で右翼反動派との妥協政策を追求していた。
 7月、フランコの武装蜂起を合図に、右翼反動派は各地で一斉に反乱を起した。全国の50の守備隊のほとんどが次々とフランコ支持を表明した。労働者政党、労働組合は政府に武器を要求した。しかし、政府は反乱の事実を打消し、労働者に武器を支給することを拒否した。政府は労働者、農民に渡った武器がやがて自分たちに向けられることを恐れていたのである。こうした危険を犯すよりもフランコ派と手を結んだほうがましであるとして、政府は最後まで反革命派との妥協による危機乗りきり策に希望を託した。政府は反革命派との妥協の政府を組織することに決め、右翼に閣僚の椅子を与える提案を行ったが拒否された。

◆◆◆二重権力と政府による弾圧◆◆◆
 反革命の蜂起に対して反撃に立ち上がったのは労働者であった。政府が反革命への反撃を躊躇し、陰で妥協策を追求している間、彼らは銃砲店や警察から銃を、建設現場からダイナマイトを調達し、兵舎を襲撃し、反動的軍人を逮捕するなど、軍隊が反革命に合流するのを防いだ。労働者のすばやい革命的な闘争なしには、共和派政府はひとたまりもなく反革命によって打倒されていただろう。
 いたるところに労働者と農民の“権力”が生まれた。
 工業地帯をもつカタロニア州(広汎な自治権をもつ政府が認められていた)では、CNT(アナーキスト系労組)とUGT(社会党系労組)の共同委員会が運輸と工業を掌握した。社会党、共産党、POUM、労働組合の代表からなる「反ファッショ市民軍委員会」が組織された。農村では農民委員会がつくられ、旧自治組織に代わった。都市の工場には工場委員会が組織され労働者による工場管理が行われた。反ファッショ市民軍委員会の周りには、工場、食糧、警察、農村各委員会などさまざまな委員会が組織された。カタロニアで、唯一権威をもっているのは州政府ではなくて反ファッショ市民軍委員会であり、その布告は実質的には法律として機能した。州政府は市民軍委員会の布告を追認していたにすぎない。
 中央政府がある首都マドリードも同様であり、反ファッショ合同市民軍委員会、労働者パトロール、工場委員会が組織された。こうして、スペインの約半分の土地と大都市のほとんどは革命的労働者の権力のもとにあった。ロシアの17年の二月革命の時と同様に「二重権力」の状態がうまれたのである。本当に力を持っていたのは、自然発生的に生まれた反ファッショ委員会であったが、労働者は十分にそれを自覚してはいなかった。
 妥協的な共和党政府では反革命と闘い抜くことが出来ないことが明らかになるなかで、9月には左派社会党カバリェロを首相として、左右両社会党、共産党、共和派による連合政府がつくられた。
 政府の基本政策についてカバリェロは次のように述べた。「本政府は、反ファシズム闘争におけるスペインの防衛という唯一の願望による統一を維持せんがために、我が党の主張や独自の方針を擁護することを正式に放棄した上で、他の党派の参加を得たものである」
 彼は首相に選ばれる前までは戦争と革命を切り離すことに反対していた。実際に、ブルジョア体制にとどまるのではなく、労働者、農民によって始められた革命を深め、発展させることは同時に反革命との戦争に勝利する道であった。ところが、いまや戦争への勝利のために労働者は革命的闘いは控えなくてはならないと主張し、ブルジョア国家再建のための指導者になったのである。こうして、カバリェロ政府の下で労働者、農民の闘いは圧迫されていった。
 ブルジョア秩序維持の先頭に立ったのは、共産党であった。共産党は内戦勃発以来、唯一の援助国ソ連の後押しに加え、労働者組織からの脱落分子やプチブルジョアの大量の加入によって党勢を拡大した。彼らの基本的政策はブルジョア共和制維持を一歩も超えるものではなかった。当時共産党機関紙は次のように述べた。
 「現在の労働運動が戦争終結後にプロレタリア独裁を目指しているというのは絶対誤りである。われわれが戦争に協力するのは社会的な動機があるからなどと言われるはずはない。われわれコミュニストはこのような憶測を真っ先に払いのける。われわれはもっぱら民主主義共和国防衛への念願によって動機づけられているのである」(フェリックス・モロウ著、『スペインの革命と反革命』より)
 フランコの反革命に勝利するためには、自由主義的ブルジョアやプチブルジョアとの同盟を堅持しなくてはならない、労働者は民主主義の防衛のために闘っているのであり、革命を言うことは彼らを敵に追いやり、政府を崩壊させる反革命である、と共産党は主張したのである。ソ連の援助を背景に政府内で発言力を強めた共産党の攻撃のほこ先は、労働者、農民の革命的闘争に向けられた。
 共産党は、内戦に勝つためには軍隊や警察を政府の統制のもとに置かなくてはならないとして、ブルジョア国家権力を強化していった。
 労働者市民軍は解体されて、徴兵制が敷かれた。軍隊内では位階制が復活した。労働者、農民の軍隊は解体され、士官の命令のままに動く階級的軍隊が復活したのである。次いで、カタロニアやマドリードで行われていた労働者パトロールは禁止され、これに代わって政府の警察が整備、強化された。警察隊員の労働組合、政党への加入が禁止され、集会、言論活動が規制された。階級的軍隊と警察の復活政策の仕上げは、労働者の武装解除である。労働者から武器が取り上げられ、政府の許可なしには武器を持つことは出来なくなった。
 その一方では、検閲が復活し、政府に批判的であったCNTやPOUMに対する弾圧は熾烈となっていった。CNTやPOUMの大衆集会は禁止され、彼らの機関紙は発行停止され、ラジオ局も閉鎖された。POUMは非合法化され、その指導者、活動家幹部は全員投獄された。共産党による秘密警察がのさばり、密告、拷問、暗殺、逮捕など“赤色”テロルが荒れ狂うのである。POUMの指導者ニンもファシスト反革命の烙印を押され、拷問のすえ秘密裏に虐殺された。

◆◆◆人民戦線政府の敗北◆◆◆
 政府と労働者の亀裂が深まり、労働者の政府への不信が高まるなかで、37年5月に、カバリェロは首相を辞任、代わって社会党右派のネグリンを首相とする政府が成立した。共産党はこれを「勝利の内閣」と呼んだ。しかし、共和国の「秩序回復」の名のもとに労働者の獲得した成果は次々と奪われ、これまでなりをひそめていたブルジョア分子が政治の表舞台に現れてきた。
 農民による集産化農場は解体され、土地は元の地主に返された。工場では労働者の管理権は剥奪され、それは国家の手に移され、工場の旧所有者への補償が認められた。
 ネグリン政府のもとで、人民戦線政府は敗北に向かって突き進んでいったのである。フランコの反革命の勝利がもはや誰の目にも明らかとなった段階で、ネグリンは共産党排除に乗り出した。
 共産党はこれを「ネグリンの裏切り」として非難した。「1938年の3月から、それに続く時期の抵抗の支持者であったネグリンと、この戦闘の最後の時期のネグリンとではたいへんな相違があった。あの当時のネグリンは、人民と勝利とに確信をもち、それを達成する意志をしめし、大衆の支持をもとめ、したがって党の支持をもとめた。いまの時期のもう一人のネグリンは、党の支持をさけ、共産党の提案に耳をかたむけことを拒否した。ネグリンはもはや闘争をつづけようとしなかった。そして降伏主義者の思いどおりにさせていたのである」(スペイン共産党、『スペイン人民戦線史』)
 だが、敗北の責任をネグリンに帰す共産党の総括は徹底して欺瞞である。ネグリンが“変質”したわけではない。ネグリンや自由主義ブルジョアジーは、労働者の革命からブルジョア体制を守るために共産党を利用したのである。労働者、農民の敗北が決定的となった時、共産党はもはや彼らにとって御用済みとなった。こうして最後には彼らは共産党から離れ、敵対するようになっていった。
 人民戦線の敗北は、アナーキスト、社、共、POUMの日和見主義の破綻を暴露している。
 労働者の革命的権力を樹立することこそ、反革命を粉砕するとともに労働者の解放を勝ち取ることであった。しかし、「社会党、共産党の直接(閣僚として)参加にもとづく真正の人民戦線政府」を革命を促進するための政府として要求したPOUMの政策は、労働者、農民に勝利の展望を与えることはできず、信頼を失っていった。また労働者の国家=権力を否定したアナーキストの運動は行き詰まり、結局はブルジョア国家に依存していった。アナーキストの日和見主義はブルジョア秩序の回復、強化を叫ぶ社共や自由主義的ブルジョアジーを助けた。アナーキストや社、共、POUMの日和見主義はブルジョア勢力、反動分子が復活するのを助け、労働者、農民の革命的闘いを解体し、反革命の勝利に道を開いていったのである。


資本主義的復興に手を貸した社共
◆戦後イタリアの「国民政府」の経験

 第二次大戦末期から終戦後にかけて、フランスやイタリアではブルジョア政党と社会党、共産党とが連合した「国民政府」が樹立された。これはコミンテルンの方針の転換を反映している。人民戦線政府が敗北し、ファシズムが勝利するなかでコミンテルンは、それまでの社会党、共産党を中心とした統一戦線から自由主義的ブルジョア政党との「国民的」統一戦線に転換していった。そしてもはや社会主義は遠い将来の目標として棚上げされ、「民主主義と自由」のための闘いが強調されたのである。フランスの経験については、『プロメテウス』32号で論じたので、ここではイタリアの「国民政府」について取り上げることにする。

◆◆◆バドリオ政権の成立◆◆◆
 第二次大戦中の43年半ばから戦後の47年半ばまでの4年間は、ブルジョア政党=キリスト教民主党(以下キ民党)と社会、共産両党を中心とする連合政権の時代であった。この連合政権はファシスト崩壊から戦後直後の激動の時期にあって、ブルジョア支配秩序の確立と資本主義的経済再建の基礎を築く役割を果たした。
 イタリアではドイツや日本と異なって、ファシズム政権の崩壊はすでに大戦中に始まった。ファシズムに対する闘いは、43年の「フィアット=ミラフォリオ」工場の大ストライキをはじめとする労働者のストライキ闘争として発展した。賃上げ、食糧、平和を要求する労働者の闘いは、たちまちトリノ、ミラノとそれら近郊の企業に波及し、政府は譲歩を余儀なくされ、労働者は多くの経済的要求を勝ち取った。これはファシスト支配が労働者大衆の闘いと軍事的敗北によってぐらつきはじめたことを示す明らかな兆候であった。一方、42年には共産党、社会党、キ民党などによる「民族解放戦線委員会」が結成され、レジスタンスが開始された。
 労働者の闘いとレジスタンス運動の広がりがファシスト政権を揺るがすなかで、支配階級はムッソリーニの政権から離反していった。
 その決定的契機となったのは連合軍のシチリア上陸であった。43年3月、国王はムッソリーニ首相を罷免し、新たにエチオピアの征服者バドリオ元帥に組閣を命じた。これはファッショ党内反対派、資本家、保守的政治家によるクーデタであった。彼らが最も恐れていたのはファシズムの軍事的敗北と共倒れになることであった。ファシスト政権の敗北が濃厚となるなかで、ムッソリーニを排除して連合軍と和平を行い、自らの体制の維持を図ろうとしたのである。バドリオ政権は、フアシスト党や大評議会を解散する一方、反ファシスト政治犯を釈放した。しかし、これは徹底されず、共産党活動家の釈放については再三引き延ばされた。とはいえ社会党、共産党など反ファシスト諸政党はこれまでの非合法状態を脱して、事実上合法的な存在となった。
 政府はファシスト党組織の解散を命じはしたが、ファシズムの政府機構についてはそのままにした。彼らはファシズムの統治機構をそのまま温存し、反ファッショ勢力の政治的影響力を奪い、自分たちの支配を確立しようとした。
 ムッソリーニの罷免とバドリオ政権の成立が発表された時、彼らの予測に反して、ファッショ党とファシスト義勇軍の抵抗はほとんどなかった。むしろファシズムに反対する大衆行動が全国を覆った。とりわけ北部では、デモを越えて労働者は政治犯を釈放した。危機的事態を恐れた国王は、労働者の闘いを抑え込むために戒厳令を敷いたのである。
 国王とバドリオは、密かに連合軍との和平工作を行った。9月、休戦協定が発表されると、既に連合軍の支配下にあったサレルノ以南の地域を除いて、イタリアはドイツの占領下におかれた。このため、バドリオ政権はその支柱であった軍隊さえ捨ててローマから南部に逃亡し、連合軍の占領地ブリンディジに政府を移した。一方、ドイツ軍に救出されたムッソリーニは、ヒトラーのひ護の下に北部サロォで政府を樹立した。こうして、イタリアは休戦協定発表から数日のうちに二分されることとなった。

◆◆◆共産党の入閣政策◆◆◆
 連合軍との休戦協定成立と時を同じくして、反ファッショ諸党は国民解放委員会(CLN)に結集し、国民統一戦線が結成された。しかし、バドリオ政権への参加をめぐって、内部では分裂していた。
 行動党、社会党、共産党の三党は、バドリオ政権のファシズムとの共犯性を非難し、CLNを基礎とした共和国の樹立で一致、協力を説くキ民党、自由党、労働民主党三党と真っ向から対立していたのである。
 だが、バドリオ政権反対を主張する共産党の政策の転換を迫ったのは、3月のソ連によるバドリオ政権との外交関係の樹立であった。ソ連に続いて米英もバドリオ政権との関係強化を謳った。
 4月、ソ連から帰国したトリアッティは、共産党全国会議で次のように提案した。すなわち、当面の課題は全力をあげてナチスの支配を一掃することである。そのためには政府と反ファシスト諸党との間の分裂は至急克服されなくてはならない。この分裂の主因となっている君主制の問題は、解放後まで棚上げして、すべての反ドイツ・反ファシズム勢力が「国民的統一」のもとに結集する必要がある、と。
 これに対して、ローマやミラノの共産党組織からは反論が続出した。スコッチマルロは、バドリオ政権の労働者弾圧をあげ、それとの協力に反対して次のように述べた。「力関係だけでなく、相手の政治的立場を見る必要がある。力が大きくても、反民主的ならそれと結ぶことは不可だ。(したがって)バドリオの過小評価も当然だ。彼の反民主的政策は、その反独的立場を空しくし、対独宣戦そのものを空虚にした」
 またセッキアもトリアッティに反対した。
 「今日、サロ・ファシスト以外に反国民的勢力がないと考えるのは誤りだ。ドイツに協力している産業家・高級官僚・バドリオ派など……。国民的統一は、右の方に拡大していくだけでは実現できない。……われわれはストを指導し、パルチザン闘争をやっている。これがわれわれの政策の根本部分だ」(伊藤昭一郎著『イタリア共産党史』)
 しかし、トリアッティは党内の強硬な反対を押し切って、バドリオ政権への参加を決定した。
 トリアッティは、共産党はいまや「労働者階級の党」「前衛党」から脱皮して、広く「国民大衆の党」にならなくてはならない、そして「批判と宣伝の党」から、「統治の責任を担いうる党」になっていかねばならないと強調した。「われわれは労働者階級の党である。……しかし労働者階級は国民の利害にけっして無縁ではない。……ファシズムが泥土の中をひきずり、裏切った国民的利益の旗を、われわれは拾いあげ、わが旗とする。……ロシアでおこなわれたことをおこなうという課題が、イタリアの労働者に現在課せられているのではない。……イタリア労働者階級は、イタリアを引きずりこんだいまの破局からの出口を全国民に指し示すために発言し、方針を出すべきである。……われわれの政策は、国民の政策であり、政策の統一である」(同)
 共産党はいまや民族の党、国民の党として現れたのである。階級政党から国民政党へ、バドリオ政権反対から支持への共産党の政策転換は「サレルノの転換」とよばれているが、それは資本の支配を打倒して社会主義を勝ち取るという労働者階級の課題を放棄して、ファシズム崩壊後に備えてブルジョア体制の延命を図ろうとする保守勢力への追随、屈服を意味した。こうして国王の政府に反対していた社会党、行動党も参加してバドリオ政権は、“国民政権”として発足した。共産党からはトリアッティとグロが入閣、トリアッティは副首相の地位に就いた。

◆◆◆「統治の党」としての共産党◆◆◆
 44年6月、ローマは連合軍によって解放された。バドリオ内閣は辞職し、CLNの要請によってすべての反ファショ勢力参加のもとで保守的政治家ボノーミの新内閣が組織され、続いてイタリア解放直後にはレジスタンスの主要な指導者の一人であった行動党のバッリを首相とする政府が誕生した。全土解放後に誕生したこの政府はなお形式的にはCLNに基礎をおく政府であった。しかし、ファシズムとの闘争という目標が達成されたいま、CLNの内部ではすでにバッリ政権後をめぐって激しい対立が展開されていた。
 共産党は“国民的統一”こそがなによりも優先されるべきだと主張した。トリアッティは、キ民党、共産党、社会党の「三大大衆政党」による連合政権を主張したのである。共産党はキ民党との同盟政策として早くもローマ解放直後の44年7月には行動統一協定の提案を行っている。こうして、翌45年3月にはキ民、共産、社会三党による行動統一協定が結ばれ、12月には、キ民党のデ・ガスペリを首班とする三党連合政権が発足した。
 資本家階級や保守の勢力がガスペリ政権に託したことは、ブルジョア秩序を確立し、戦争で破壊された経済を復興の軌道に乗せることであった。ガスペリが社会、共産党両党を政権に加えたのは、レジスタンスの影響を無視しえなかったからである。社、共を内閣に取り込むことによって労働者を懐柔しようとしたのである。
 「国民的統一」を謳った共産党にとって、それにひびを入れる一切の問題は排除されねばならなかった。
 その最大の問題はCLNの処遇であった。共産党は「民主国家では対立する二つの権力は存在しえないから、CLNは権力を放棄しなければならない」と主張した。北部、中部では労働者を中心とするレジスタンスは連合軍がくる前に自力で主要な都市を解放していった。そしてこの地域では知事、市町村長、警察署長などを任命し、レジスタンス指導部であった「上部イタリア国民解放委員会」は、自立的権力としての様相を呈していた。だが共産党は闘いの中で生まれたこの革命的権力を否定し、ブルジョア国家権力の確立を訴えたのである。
 こうした方向は、経済問題でも追求された。大戦によって破壊され、疲弊した経済の再建は労働者が積極的に取り組むべき任務とされた。トリアッティは45年8月の党内経済問題討論会議で次のように述べた。
 「なされるべき第一のことは、私によれば、労働者に対し、彼らが働くところではどこでも、労働能率向上の必要性をアピールすることである。……労働者階級は、労働生産性の増大が民主体制をイタリアにつくるのに成功するための条件の一つであることを知らねばならない。なぜなら、われわれが経済問題、および働かないという一時の流行を今解決することに成功しないならば、民主主義への闘いの運命を損なうだろうからである」
 そして「われわれは、低い生産コスト、高い労働生産性、そして高賃金にもとづく国民生産のすべての再組織に向かわなくてはならない」(同上)という。
 生産の再開、復興のために先頭にたって働くということが、「なされるべき第一のこと」として労働者に押しつけられた。そして「労働者と生産ブルジョアジーとの同盟政策」が謳われ、そのもとで工場評議会やCLNによる生産管理は生産復興の妨げになるとして排除され、その一方では企業の旧首脳が続々と復帰を果たしたのである。
 共産党はブルジョア的統治の責任を担う「秩序の党」として現れた。ガスペリ政府に法相として入閣したトリアッティ(他にスコッチマルロが財務相、グロが農相)は頻発する騒乱のなかで、「公権力への反抗」に対しては「最大の迅速と最大の厳しさ」をもって対処することを命じた。
 ファシストの制裁についても同様である。
 44年、45年、46年の各年にファシストの大赦が行われたが、46年のそれはトリアッティの提案であった。
 またガスペリ政府は発足後間もない46年3月には、ファシズム制裁最高委員会を解散した。それと同時に、制裁を受けた者の異議申し立てを認めた。その結果、ファシストに協力し国家機関から追放された者のほとんどが無罪とされ、国家と社会の要職に復帰した。ファシストとその協力者に対する制裁が後退する一方では、ブルジョアジーによってファシストに対して果敢に闘ったパルチザン(労働者、農民を中心とした遊撃隊)を殺人、強盗、略奪者とするキャンペーンが開始された。それは革命的分子を企業や国家機構から追放し、ブルジョアの階級支配を打ちかためていくための攻撃であった。パルチザンに対しては、追放を免れた裁判官によって厳しい処罰が下された。また警察に編入されたパルチザンたちは、「セクト的であり、公務執行能力に欠ける」として大量に追放されていったのである。
 そして47年にはキ民党は社、共を排除した第四次ガスペリ政権を発足させた。共産党のキ民党との協調政策は、資本が戦後の危機を乗りきり、労働者大衆の資本に対する怒りや不満をそらせる避雷針となり、資本主義の再建を支える役割を果たしたのである。


戦後資本主義の再建と安定に奉仕
◆共産党も「激励」した片山「社会党」政権

◆◆◆社会党首班内閣の成立◆◆◆

 前回見たように第二次大戦直後の激動期には、イタリアやフランスでは社会党、共産党が入閣した国民連合$ュ府が誕生した。日本でも新憲法のもとでの初の総選挙で社会党を首班とする政権が生まれた。連立政権とはいえ“労働者の政党”を名乗る政党の政権が生まれたのは、日本ではこれが初めてのことであった。
 1947年4月の総選挙で社会党は143議席を獲得(得票率25.7%)、第一党に躍進した(他の党の議席は、自由党131、民主党124、国民協同党31、共産党4、諸派20、無所属13)。しかし議席では3分の1に満たない比較第一党であった。これは保守の票が自由党、民主党に分裂したためであった。
 社会党の片山哲委員長は次のような勝利の談話を発表した。「我が党が第一党の栄誉を獲得したことは、旧勢力に代わる革新勢力の台頭のあらわれ、すなわち“時代の力”のあらわれである。保守勢力の政策を国民が信頼しないということが明らかになった以上つぎの政権は、資本主義から社会主義へ移行する性質をもった政権でなければならない」
 だが、実際には社会党にとって第一党は青天の霹靂であった。選挙結果を聞いて片山は「弱った」と言い、書記長の西尾末広(後に民社党初代委員長となる)は「そりゃ、えらいこっちゃ」(困ったという意味)と思わず口走り、とまどいを隠せなかったように、社会党は本気で公約実現のために闘う覚悟などなかったのである。
 6月1日発足した片山内閣は、社会、民主、国協三党連立内閣となった。しかし、それにたどりつくまでには、社会党内では自由党を含めた四党連立をめざす右派と、自由党を除いた三党連立を主張する左派の対立があった。
 西尾、片山ら右派指導部がめざしたのは「自由党を含む挙国一致体制」であり、この構想はそれまで何度もくり返してきた自由党との連立工作の延長以外のなにものでもなかった。
 こうして四党の政策協定が成立した。その内容は、経済危機突破のための経済統制、生産増強のために超重点産業政策の導入と重要産業に対しては必要に応じた国家管理、インフレ克服のための健全財政の堅持および金融統制、賃金及び価格の統制、闇取引の撲滅など九項目であった。経済再建を最大の課題としたこの政策協定は、占領軍司令官マッカーサーが吉田首相に宛た書簡と、これに対する吉田の回答を「ふと啓示のように頭に浮かべ」た(西尾)のを基に作成されたものであった。
 協定について、自由党が「政策協定はほとんど社会党がわが党の政策をのんで同調したので、まずこれで大成功」と語り、民主党も「わが党の政策を全面的に取り入れた故に、これは民主党中心の内閣だ」と高言したように、それは「ほとんど無修正」で承認された。そして同時に四党の閣僚の配分も決められた。
 しかし自由党はいったんは連立に同意したものの、社会党左派の排除を要求する吉田の反対で参加しないこととなった。このため西尾ら執行部は三党連立に切り替えた。民主党は三党連立か四党連立かをめぐって意見が分裂、結局は三党連立派が勝利することになるが、この過程で民主党の提案で、次の三カ条が連立の条件として追加された。@極右、極左主義反対の堅持。A重要機密を漏洩しない。B社会不安を起こす恐れのある行動をしない。違反する党員に対しては各党が責任をもって処置する。三条件は「極右」反対も謳っているが、社会党の左派を意識したものであることは明らかである。民主党は左派の行動を規制しようとしたのである。
 一方、右派指導部に抵抗してきた鈴木茂三郎や加藤勘十ら左派も四党政策協定、三党条件に大した反対もしなかった。彼らは自由党と提携することに反発していたにすぎず、保守勢力との連立に反対していたわけではなかったからである。しかも鈴木、加藤は共産党との「絶縁宣言」を行い、西尾らに追随していくのである。彼らは二・一ストを禁止した占領軍の強硬姿勢にすっかり動揺していた。
 四党協定によって公約を放棄した社会党は、さらにこの三カ条によってその行動をしばられることになった。こうして社会党は、保守勢力がつくった土俵のなかで片山内閣を発足させていくのである。連立に参加しなかった自由党も閣外協力することになり、事実上の「挙国一致政府」であった。

◆◆◆独占資本の復興助けた政策◆◆◆
 組閣を終えた翌日、片山首相はラジオで国民に危機突破の覚悟を訴えた。片山は「特に国民諸君にお願いしたいことは、危機突破のために、それぞれ分に応じて、犠牲を甘受していただきたいということである。すなわちインフレ克服、生産復興のために、この上とも、耐乏生活を続けていただきたいということである」と述べて、労働者の期待に冷水を浴びせたのである。片山内閣が誰のための政府であるかは明らかであった。
 続いて政府は8項目からなる「経済緊急対策」を決定したが、それは「自力をもって経済安定のためにできるかぎりの施策を行う」必要を強調し、再び「耐乏と、協力と、そして血と汗の労働」を訴えるなど、就任直後の国民への訴えと変わらない内容で、社会党が自負してきた労働者の政党としての独自性などほとんどなかった。
 その中心は1800円平均賃金をテコとする「新物価体系」であった。
 これはほぼ次のようなものであった。まず基礎的物資(鉄鋼、石炭、肥料、ソーダなど)の公定価格を1934〜36年を基準として、その60〜65倍の限度(安定帯)を設ける。これは当時の市場での価格にほぼ等しい水準であった。そして基礎物資の公定価格を基準に原価計算して他の商品価格の公定価格を定める。他方、賃金は基礎物資の生産する企業の採算条件から決めるというのである。
 具体的には、最初に鉄鋼の公定価格(消費者価格)を設定し、この価格で補給金を計算に入れれば鉄鋼資本の採算がとれるように石炭の公定価格を決める。そして次に、この価格で石炭資本が利潤を得られるように、石炭のコストの半ばを占める炭鉱労働者の賃金を定め、これを基準として一般労働者の賃金を決めるというやり方であった。それが1800円のベース賃金であった。これは基準年次の28倍であった。企業の生産物については原価計算主義がとられつつも、労働者の賃金については生活の実態は無視されたのである。
 「新物価体系」は労働者の賃金の実質的切り下げを行いつつ基礎物資の公定価格を決め、その公定価格をもってしても採算がとれない場合は、政府が財政的手段によって利潤を保障したのであり、それが価格差補給金であった。
 1800円ベース賃金がいかに労働者の実生活からかけ離れた低い水準であったかは、労働省の「都市家計調査」によっても47年6月の全国十都市の家計支出が、4700円余となっていたことからも明らかである。
 こうして政府は、石炭を増産し、それを鉄鋼生産にまわし、さらにそれを石炭採掘に再投入するという「傾斜生産方式」をとり、産業の拡大再生産を目指したのである。当時の生産目標は石炭3千万d、鉄鋼7十万dであった。補給金は、その他の産業も含めて47年7月から年度末までに120億円を計上し、その一般会計に占める割合は約一割、11.1%(翌年は13.2%、49年度には24.2%)にも達した。
 社会党が労働者党としての政策といってきた炭鉱の国家管理政策も、実際にはブルジョア的なものでしかなかった。もともと、マッカーサーも「炭鉱はあらゆる経済活動と密接に関連しており、したがって国有化の提案は検討する理由が十分ある」(対日理事会への覚書)と述べていたし、また自由党も一時は「国家管理」を認めていたのである。
 社会党は炭鉱の国家管理法案を作った。社会党はその理由について、このままでは新炭鉱の開発が不可能である、炭鉱資金の不足、限りある資材を炭鉱に優先的にまわす、政府は炭鉱の内容を十分に管理する必要がある、生産能率、経営効率をあげるために労資一体の関係を作り上げなくてはならない、と述べた。それは結局は産業復興のために「3千万dの生産を確保」することが必要であり、そのために国家管理を行うということであり、もはや社会変革を目指して重要産業の「社会化」を行っていくというこれまでの主張は影も形もなかったのである。
 しかしこうした国家管理ですら民主党や自由党の反発をよび、法案はさらに後退した。すなわち、国の現場管理は否定され本社経由の管理に、労働者参加の経営協議会は議決機関ではなく諮問機関になった。しかも、国家管理の対象は経営が困難な炭鉱に限定された。
 だが、国会審議は紛糾を重ねた。自由党は国家管理は財産権の侵害であるとして反対した。これに対して政府は法案は産業の復興と経済の安定にいたるまでの緊急措置であり、その目的は政府、経営者および労働者が一体となって石炭の増産を達成することにある。国家管理は石炭増産の緊急対策として立案したものであって、他の産業に及ぼす考えはないと弁明にこれ努めるありさまであった。そしてやっと成立したもののその実施は48年4月まで延期された(結局、芦田内閣のもとで指定を受けただけで、実際には何の効果もなく50年には廃止された)。
 国家管理法はみじめな結末を辿ったが、自由党はこれを契機に閣外協力をやめ、さらに与党民主党の一部が自由党に同調して反対に廻り、党から分裂し新たな党派を結成した。こうして片山連立内閣は分解し始めていく。

◆◆◆政府の崩壊◆◆◆
 片山内閣のブルジョア的本性は明らかになり、労働者大衆の政府への期待は急速にしぼんでいった。そして失望は政府への反感、さらには打倒へと短期間のうちに切り替わっていった。それにつれて社会党内の左右の対立も、47年末から翌年にかけて激化していった。そしてついに1月、社会党大会は「四党政策協定」の破棄を決定する。
 内閣崩壊の契機となったのは官公労働者の生活補給金支給のための補正予算案が予算委員会で否決されたことであった。政府は生活補給金支給の財源を鉄道運賃や郵便料金の値上げに求めたが、左派は政府管理物資の払い下げと戦時公債の利払い停止に財源を求めるべきだとして反対、予算委員会で否決。48年2月、内閣はこの責任をとって総辞職に追い込まれていったのである。こうして片山内閣は誕生してわずか8ヵ月余で崩壊した。
 片山内閣は労働者大衆のための政府であるかの幻想を振りまき、労働者大衆に耐乏生活を要求し、労働者の階級闘争への防波堤の役割を果たした。そして傾斜生産方式、価格差補給金、公定価格体系などの重要経済政策を自由党政権からそのまま引き継いだばかりでなく、これらの諸政策をさらに強化した。これらの政策は瀕死の瀬戸際にあった日本資本主義を危機から救いだし、独占資本の再建に向けて本格的に動き出していくためのものであった。国家の手厚い援助によって利潤を保障された独占資本は立ち直り、活気をとりもどしていくのである。
 内務省の解体と地方自治制度の確立、司法省の解体と再編、労働省の設置、教育基本法など一連の「民主化」をあげ、社会党政権であったからこそ「民主化」は進んだのであって、もし保守政権であったら民主化はサボタージュされていたとする評価がある(松岡英夫「連合政権が崩壊した日」)。しかし、これらの“改革”は基本的には戦後のブルジョア民主憲法の枠内のものでしかなかった。
 片山内閣は、日本資本主義が戦後の危機を乗りきり、本格的に復活、強化していくのを助ける役割を担ったが、こうした役割を果たしえたのは、芦田民主党総裁が「労働攻勢をともかくもこのていどにとどめえたのは片山内閣の功績である」と述べたように、一時的にせよ労働者が政府に期待をよせていたからであった。社会党は“社会主義”の看板を掲げ労働者大衆の政府であるかの幻想をばらまき、資本との協調を労働者に押しつけたのである。
 最後にこの時期の共産党の態度について見ておこう。
 今日では共産党は、片山政権を「国民を犠牲にし、独占資本の復活を助けた」(党史)と批判している。だが当時、彼らは片山政権に対して、期待を振りまいていたのである。
 内閣成立当時、野坂は、連立工作のなかで自由党や民主党に譲歩したことを批判しつつも、「勤労大衆を基礎とし、社会主義を標榜する日本社会党がヨーロッパの社会民主党のテツをふまないことを、わが共産党は友党として切望する」、「社会党が目前の危機と困難を打開し、さらに将来政権を保持するためには、……政治的カケヒキにたよるのではなくて、大衆を信頼し、大衆の支持によりかかることである」と激励した。また共産党の影響下にあった産別会議も、社会党首班内閣成立は「民主陣営の前進」であると歓迎し、課題は選挙公約の実行を産別会議と労働者が支持していくことにあると訴えた。共産党もまた片山内閣が労働者のための政府になりうるかのような幻想を振りまき、労働運動のなかに混乱を持ち込んだのである。
 共産党が最終的に「片山内閣打倒」を打ち出すのはやっと48年2月になってから、すなわち片山政権の反動的役割が誰の目にも明白となり、労働者が闘いに立上りつつあったなかである。インフレの昂進のもとで生活防衛、1800円ベース賃金打破をめざして労働者の闘いは秋から年末にかけて燃え上がった。労働運動は再び上昇に転じたのである。共産党は労働者大衆よりもはるかに遅れていたのだ。

10
国軍に依存し自滅の道を進む
◆挫折したチリ人民連合の“実験”

 1970年に成立したチリのアジェンデ人民連合政権は、ブルジョア議会を通じて合法的、平和的に社会主義を目指した政府であった。チリ共産党は、「人民政府の体制下でも、その後の社会主義の条件下でも……あらゆる宗教上の信条は尊重され、思想的・政治的複数主義も存在し、それぞれの理念のために闘うことは妨げられない」と述べた。人民連合政権の動向は社会主義への「平和的な道」の“実験”として注目を集めた。
 ところが人民連合政権は、誕生後わずか2年10カ月で、軍事クーデターによって崩壊した。イタリアやスペインの共産党はチリの経験を総括し、国民の多数を結集するための努力や配慮が欠けていたとして、その後、あからさまなブルジョア政党との協調=「歴史的妥協」路線に進んでいった。チリの経験はその契機となった。

◆◆◆アジェンデ政権の成立◆◆◆
 70年11月、社、共を中心とした人民連合政権が誕生した時、チリ社会は深刻な危機の中にあった。
 人民連合政権に先立つフレイ・キリスト教民主党政権は、資本主義的な経済発展を推し進めるために重化学工業の発展、土地改革を掲げた。外国資本の導入による重化学工業化政策は、対外債務の増加、内外の大資本の経済支配の強化をもたらした。一方、土地改革も地主の抵抗によって不徹底に終わった。そして政権末期には、経済は停滞し、対外債務は巨大な額にのぼり、インフレは高進し、失業の不安が労働者大衆の生活を脅かしていた。一方、農業の衰退が進み、食料をはじめとする生活物資は不足し、農民も貧困にあえいでいた。
 経済的危機の深まりの中で、その看板であった「自由の中の革命」の幻想は雲散霧消してしまった。大衆の不満は高まり、労働者のストライキや土地改革を要求する農民の闘いが発展した。
 こうした中で迎えた9月の大統領選挙は、右派のブルジョア政党・国民党、キリスト教民主党(以下キ民党)、人民連合の三つ巴の闘いとなった。
 選挙では、人民連合のアジェンデが第一位となったが、その得票率は36.2%(国民党のアレクサンドリは34.9%、キ民党のトミッチは28.8%)と三分の一強にとどまった。過半数を得られない場合は、大統領選出は上下両院の合同会議の指名によることになっていた。しかし、人民連合の議席は両院議員総数2百のうちの80(上院50中23、下院150中57)を占めるにすぎなかった。
 キ民党は、もし人民連合が憲法上の修正を受け入れるならば、アジェンデ就任に同意すると表明した。憲法上の修正とは、新政府は新聞、放送、教育、司法などに干渉しない、軍の将校は士官学校出身者以外には任命することができず、軍や警察の規模を変更しない、などであった。これらは、大統領の権限を規制し、ブルジョア国家機構を維持しようとするものであった。人民連合はキ民党の支持を取付けるためにこれらの条件を受け入れたが、これは自らの権限を放棄し、ブルジョア秩序や国家機構に手を触れないことをブルジョアジーに対して約束したことを意味した。
 ブルジョアジーの支持を受けた代償として、アジェンデは過半数(15名中8名)の閣僚が人民連合内のブルジョア諸党からなる政府を組織した。これら諸党は議席ではわずかであったにもかかわらずそうしたのである。残りの7名は社会党から4名、共産党から3名が入閣した。

◆◆◆破綻した人民連合政権の“改革”◆◆◆
 アジェンデ政権は発足と同時に政策の実施に着手した。3年間に実行した主な内容は、“所得の再配分”、産業の国有化、および農地改革であった。
 といっても、アジェンデ政権の独自の政策とよべるものは所得の再配分政策ぐらいでしかなかった。
 産業の国有化については、まずケネコット、アナコンダなどの米系企業が所有する五大銅山の国有化が実施された。しかし、前フレイ政権の下でも、チリの総輸出の8割を占める銅産業の国有化は民族的課題とされていたのであり、国民党が国有化法に棄権した以外はすべての政党がこれに賛成した。続いて哨石、鉄鋼石、石灰(これらはほとんどチリの資本であった)などの資源産業が国有化されたが、これもブルジョア的な限界を越えるものではなかった。資源産業の国有化は、資本主義的発展にとって必要とされていたのである。
 農地改革については、72年半ばには80haを越える大土地所有は国に接収され、農民に分配されたり、あるいは新たに導入された協同組合に転換された。しかし、この土地の改革は、前政権からの引継ぎでしかなかった。大地主は名義を分散するなどしたりして実質的な土地の接収を免れたものも少なくなかった。
 改革が終わった時点で、多くの土地を持たない農民が残された。土地を持たない農業労働者は17万、失業・臨時労働者は14万、家族の生活の維持さえも困難な5ha以下の零細農は36万も存在したのである。
 一方、72年の時点では、なお20haを越える中・富農層は農地面積や生産額の約半数を占めていた。しかも地主は近郊の小農や小作に対して農地改革後も大きな影響力を行使することができた。
 所得の再配分$ュ策は選挙公約に含まれていたもので、寡婦、老齢者、退職者のための各種年金の引き上げ、医療費の減免、15歳以下の全児童に対する一日半リットルのミルクの無料支給、家族手当の引き上げ、スラム街の住宅改善、診療所や学校建設、賃上げなどであった。
 賃上げは主として低所得者の引き上げを狙いとしたものであったが、同時にすべての労働者について、物価上昇に対して100%のスライド(約35%の賃上げ)制を導入した。
 これら一連の“所得再配分”政策は、消費を刺激し経済拡大をもたらしたかにみえた。しかし、財政のばらまきによる社会福祉の充実といった政策は、ケインズ主義的な政策の焼き直しにすぎなかった。財政の膨張はインフレを高進させ、たちまち行き詰まってしまったのである。
 71年後半より物価は上昇しはじめ、物資の不足も目立ち始めた。インフレによる物価騰貴が進み、また民間企業は生産をサボリ、投機に走った。一方、米国の経済封鎖≠フ影響も現れ始めた。
 経済が悪化するもとで、ブルジョア勢力は反政府攻勢を開始した。彼らはマスコミを総動員して大々的な反人民連合キャンペーンを行った。71年末には、食糧不足に抗議するブルジョア女性による「空なべデモ」が行われたが、これは人民連合に対する初めての街頭行動であった。これ以降、小ブルジョアを巻き込んで右翼、保守勢力によるテロやデモが急速に活発となっていったのである。

◆◆◆軍隊への依存と政権の崩壊◆◆◆
 72年9月には右翼テロ組織と結んだ一部軍隊のクーデター計画が発覚、続いて全国的な「資本家スト」が行われた。
 このストの発端となったのは、トラック輸送業者のストであった。鉄道網が未発達なチリでは輸送はトラック(ほとんどが2、3台を所有する零細業者)に依存するところが大きかったが、政府は輸送の安定確保のために南部の州に民間と合同で合弁企業をつくることを計画した。これに対して南部のトラック業者の組合は経営を脅かすとして反対し、計画撤回を求めてストに突入した。ストは全国のトラック業者に波及、さらに自由業者、教員、医師、学生、小農などが連帯してストを宣言し、いわゆる「資本家スト」が始まったのである。
 全国の輸送をマヒさせたストの最中、国会ではキ民党、国民党ら野党による四閣僚の不信任を可決した。これに対してアジェンデ大統領は政府を総辞職させ、新たにプラッツ陸軍総司令官ら三軍の代表を入閣させた軍民内閣を組織した。アジェンデは軍隊の力をかりて混乱した事態の収拾を図ろうとしたのである。これは人民連合政府が統治する能力のないことを自ら暴露する以外のなにものでもなかった。
 続く73年3月の総選挙では、人民連合派は議席数においても得票数においても支持を若干増やしたが、階級対立は一層激しくなっていった。選挙後、反革命派の攻撃は、経済的揺さぶりから軍部への工作、テロ活動へと多面的となっていった。
 3月末には、軍部の圧力で政府に協力的であったプラッツ将軍ら3人の軍人閣僚が辞任に追い込まれた。続く6月には、軍隊によるクーデタ未遂事件が起きた。それまで軍人によるクーデタ計画は幾度となく発覚したが、実際に実行されたのはこれが初めてのことであった。
 一方、資本家勢力による生産サボタージュ、投機、闇市場への物資の横流しなどは「資本家スト」以来ずっと続いており、経済の混乱に拍車をかけた。
 エルテニエンテ銅山で賃金をめぐってストが起きたのは、こうした経済がじり貧の状態にあった4月のことであった。2カ月に及ぶストは一時金の支給で収拾したが、これをきっかけとして、全国で右翼テロが活発となり、これに対抗する左翼との衝突を繰り返した。
 内戦の危機が刻々と迫るなか、政府は労働者に対して反撃を呼び掛け、組織するのではなく、逆にキ民党に対し国有化部門の現状凍結、工場・土地占拠の停止、基準に合致しない国有化企業の民間への返還など、“改革”を停止ないしは後退させることを約束することによって協力を取り付けようとしたのである。
 こうした政府の妥協的態度は、反政府派をますます勢いづかせることになった。キ民党は政府の要請を拒否した。そして、銅山ストのほとぼりもまださめやらぬ7月下旬、再びトラック業者がストに入ったのを契機として、全国的な大規模な「資本家スト」が繰り返された。
 次第に激しさを増していく階級対立によって経済がマヒするなかで、怒りくるった小ブルジョアは次々と右翼、保守勢力による反政府攻撃に巻き込まれていった。共産党は小ブルジョアを引き離すといって改革をためらい、引き戻しさえした。彼らは農地改革を前進させることを求めて農地を占拠した農民の闘争や、生産をサボタージュする資本家の工場占拠を行った労働者の闘いを「極左妄動」と非難し、ブルジョアジーに対して改革の“凍結”を約束したのである。
 だが、右翼、保守勢力が小ブルジョアを反革命的な行動に動員しえたのは、人民連合政府が“改革”をためらい、ブルジョアとの妥協的な態度に終始したからにほかならない。政府の妥協的、日和見主義的な態度こそが反革命勢力を勢いづかせ、経済をマヒさせ、絶望した小ブルジョアを反革命の側に追いやったのである。
 政府は日毎に高まる政治的、社会的不安に終止符を打つために、再び軍民内閣を組織した。だが、アジェンデが自ら閣僚に任命したピノチェト将軍らによる軍隊のクーデターによって人民連合政権は打倒された。クーデターのその日から人民連合の活動家の大量逮捕が行われ、多くが拷問や虐殺で殺された。以降、十数年に渡る軍事独裁の時代が始まるのである。
 社共は軍隊を支配階級の「従順な召使とみなすことはできない」と美化してきた。共産党は次のように述べた。チリの軍隊は「職業意識と、合憲的に成立した政府を尊重しようとする精神が支配的である。くわえて、陸軍と海軍は、独立をめざす闘争のなかで生まれた。三軍の一般兵士と士官は貧しい社会階層の出身者であり、将校のほとんどすべても中間層の出身者である」。
 だが、チリの経験は共産党の主張がまったくの日和見主義的幻想であり、ブルジョア国家の軍隊が資本のための階級的暴力機関であること、労働者はブルジョアの権力機構を打ち砕き、自らの階級的権力を打ち立てなることなしには革命を勝利させることは出来ないことを改めて実証した。
 労働者の革命的闘いに依拠し社会改革を発展させるのではなく、ブルジョア勢力との妥協にはしり、さらには反動的な軍隊に依存していった人民連合の日和見主義こそが敗北を準備したのである。

11
閣外与党でブルジョア政府支える
◆伊共産党の「歴史的妥協」路線

◆◆◆チリ人民連合崩壊と「歴史的妥協」◆◆◆

 「歴史的妥協」路線が提起された契機となったのは、七三年のチリ人民連合政権の崩壊であった。連合政府はなぜ軍部クーデタによって打倒されたのか、その原因をめぐって世界的にも大きな論議となったが、ベルリングェルが教訓として引き出したものは、共産主義者、社会主義者(社会民主主義者)、カトリックという「三大大衆勢力」の同盟という新たな路線=「歴史的妥協」であった。
 それは「チリの事変後のイタリアについての考察」と題して発表された。そこでベルリングェルは次のように述べた。
 「民主的な革新の政治の実現」のためには、広範な社会的同盟の政策というだけでは不十分であり、「全民主勢力・全人民勢力間で、政治的同盟ができあがるほどまでに、これらの勢力間の一致と協力が、進捗することをゆるすような、ある一定の政治関係の体制が必要である」、なぜなら、「人民のなかに基盤をもち、人口の重要な部分を代表するような諸政党が、おたがいに敵対したり、激しい攻撃を加えたりするようでは、国が割れ、文字通り、国がまっぷたつに分裂することになってしまう。それは民主主義にとって、致命的であり、民主的国家の延命の基盤そのものをも、とり除きかねない」からである。
 「勤労者の諸政党と左翼統一は、中道から極右にいたる地位をもつ諸政党のブロックと対置される場合には、民主主義の防衛と進歩を保障するための十分の条件にならない」し、「左翼諸政党と左翼勢力が、投票と議員の数で51%をとったからといって、政権の安定や維持が保障されというのは全く幻想である。だからこそ、われわれは、『左翼的交代』とは言わず、むしろ『民主的な交代』を語っているのである。『民主的な交代』とは、共産主義的理念・社会主義的理念をもつ人民勢力と、カトリック的理念をもつ人民勢力、そして民主主義を志向する団体との間で、ひとつの協力とひとつの相互理解をうちたてる、という政治的な展望のことである」(ベルリングェル著『先進国革命と歴史的妥協』より)
 チリ人民連合は左翼勢力の統一を基盤としていたために、キリスト教民主党の影響下にある大衆を結集することができずに、右翼反動派の反革命を許した。「民主的な革新政治」を実現していくためには、キリスト教民主党との“和解”=同盟(以下、キ民党)が必要であるというのである。
 しかし、小ブルジョアを反政府行動にかり立て、右翼反動派に追いやったのは、資本の支配の基礎に一指も触れようともしない人民連合政府の改良主義であった。人民連合政権は、ブルジョア国家機構に少しも手を付けようとしなかったし、右翼反動派の策動を野放しにした。それはますます反動派、保守の勢力をつけ上がらせたのである。労働者の革命的闘いを発展させていくことこそが、小ブルジョアを労働者の味方に引き付けあるいは好意的中立の立場をとらせることを可能にしただろう。
 またベルリングェルはキ民党をそのまま受け入れるわけではない。「それはキリスト教民主党の政治方向や指導路線の変化を含むのだ」、キ民党の内部の保守的、反動的傾向や試みを孤立させ、その人民的要素の比重を常に確認させるような持続的な刺激、これが「歴史的妥協」の提案なのだと主張した。だが、これはブルジョア政党への追随を隠すデマゴギーに等しい。
 ベルリングェルは、チリの経験から労働者の断固たる革命的闘いの必要と必然性という教訓を学ぶのではなく、反対に政府が国民の大多数の支持をえるためにブルジョア政党との同盟が必要だという日和見主義的結論を導きだしたのである。

◆◆◆イタリアの危機と国民的“連帯”の訴え◆◆◆
 73年秋、石油危機は経済を直撃した。エネルギーの8割を石油に依存し、しかもその9割以上を輸入にあおいでいるイタリアにとって、原油価格の引き上げは大打撃であった。インフレはますます高進した。インフレと物価上昇を抑制するために引き締め政策が実施されたが、これは企業倒産と失業の増加を招いた。このため74年末から緩和政策に切り替えられたが、これは再びインフレ、物価高騰を招くといったように、イタリアは「破産状態」といわれる状況にあった。
 経済的危機は政治的、社会的混乱を引き起こした。経済発展にとり残され、4分の3の貧困層が集中する南部はネオ・ファシストの最大の温床となっていたが極右、ネオ・ファシストのテロは、ますます活発となった。そして70年に続いて、74年にも右翼軍人によるクーデタ計画があったことが後に判明した。大統領は軍に国家への忠誠を求める声明を発し、共産党や労組の幹部は安全のため一時身を隠さねばならないという状況であった。
 こうしたなかで、共産党は「国難」に向かう“救国の党”として登場した。「歴史的妥協」は、危機に陥ったブルジョア支配を救出するための政策であった。
 74年末、ベルリングェルは、危機を政治、経済、文化のあらゆる分野にわたるものとしてとらえ、それに対処するためにはキ民党やその他諸政党の責任を批判するにとどまってはならなず、国民の「緊張した努力」が必要である、と訴えた。
 「緊張した努力」というのは、「もっと多く生産しなければならないということを意味しており、あらゆる資源を浪費せず、節約し、活用しなければならないことを意味しており、……現在の生活様式とは違った様式でのよりよい生活様式の道を探求するために若干の習慣を変えなければならないことを意味している」。労働者には生産への努力と節約である。
 そして政治家や公務員に対しては「国民および国家にたいする献身的な服務」を、教師と学生に対しては「学習にたいする真剣さと規律」を、知識人に対しては「国の進歩のための任務の自覚」を、そして最後に「非行や不道徳、極端になった利己主義や個人主義」に反対する国民の連帯を訴えた。
 だが、インフレの高進による経済破綻、政治家や公務員の腐敗、堕落、利己主義や個人主義の蔓延等々、イタリアが陥っている経済的、社会的な深刻な危機はブルジョア社会の矛盾とその頽廃の現われであった。頽廃し、腐敗した資本の体制をそのままにして、危機克服のための「国民的」団結と連帯を訴える共産党の主張は、無力であり反動的であった。それは危機の根源である資本の支配から目を反らせ、資本との協力、ブルジョア国家の「再建」を労働者大衆に訴えるものであったからである。ベルリングェルは「近い目標として社会主義の目標を提起することはない」と、ブルジョアジーに請け合った。
 共産党の提案は、キ民党や社会党に無視された。しかし、選挙では共産党が躍進した。75年の統一地方選挙では、共産党は33.4%の票を獲得、第一党のキ民党に1.9%にまで迫った。続く76年の総選挙でも、共産党は34.4%を獲得、議席でも227(630中)とキ民党に得票率で4.3%、議席で36差まで迫った。キ民党にとって選挙で躍進した共産党を無視することはできなくなった。

◆◆◆「非常時内閣」とその挫折◆◆◆
 既に選挙の期間中、共産党は「歴史的妥協」の緊急版としての「挙国一致内閣」を提唱したが、選挙後、議会第二党として下院議長と6つの常任委員長を獲得した共産党の与党化は急ピッチで進んだ。
 第三次アンドレオッティ・キ民党単独内閣での新任投票では共産党は棄権したが、それは事実上、政府の信任を意味した。実際、選挙後は政府と共産党の定期協議が持たれ、主な政策と方針はあらかじめ話し合われていたのである。
 そして共産党は組織、77年はじめには「非常時内閣」を唱えて、キ民党との政策協定を結び閣外与党となった。
 経済危機を国難≠ニとらえ、経済再建を至上の課題とした共産党は、政府の耐乏政策――各種公共料金の値上げ、賃金の一部凍結、賃金の物価スライド制の抑制、賃上げの抑制、休日の削減、社会保障の削減等々――を次々と受け入れ、協力を誓った。
 ベルリングェルは、「耐乏」の意義について、「われわれにとって耐乏は、たんに景気対策的なものではなく、根本的な構造危機に陥った体制の根源にメスをいれ、かつそれを克服するための手段である。……耐乏は、新しい価値の枠組をもたらし、また厳しさと効率、真剣さと公正を意味する」(『耐乏政策と国の変革』)と述べた。
 しかし、ブルジョア国家の軍隊や官僚組織の膨張、その他諸々の不生産的産業や頽廃的産業、それに従事する不生産的階級や寄生的階級にふれずに、浪費や濫費を非難し、大衆の「耐乏」の美徳を説く共産党の主張は、まったくの欺瞞であった。
 インフレに反対して立ち上がった労働者に対して、共産党は「インフレに対する闘いは、労働生産性の向上を伴わなければならない」、「犠牲なくして危機からの脱出なし」と説教してまわった。
 一方的に労働に犠牲を強いるものとして、労働者の不満や怒りは高まるばかりであった。76年の10月から12月にかけて、耐乏政策に抗議してイタリア最強の労組の一つトリノ・フィアット工場の労働者が共産党の市長を吊るしあげたのをはじめ、耐乏政策に反対して国鉄、郵政の労働者などの40万人のスト、ローマ労働者の100万人スト、金属労働者の統一デモが行われた。
 共産党を与党とする「歴史的妥協」の政府が労働者の反発を買い孤立を深めるなか、77年には、急進派の「赤い旅団」によるモロ・キ民党党首誘拐事件(のち殺害)が起こった。これを契機にキ民党は共産党に対して冷淡な態度をとるようになっていった。それはキ民党の指導者のうちで最も共産党との連携に積極的であったモロを失ったということよりも、最早、キ民党が共産党の協力の必要を認めなくなった結果であった。キ民党にとって共産党との連携は、労働者に犠牲を推しつけて危機を乗り切るための一時的な政策であった。
 それは第二次大戦直後の45〜47年の繰返しであった。当時共産党はキ民党を中心とする国民的%煌tに入閣し、戦争で破壊された経済の復興に奉仕した。共産党は労働者にストライキの自制を説き、生産への協力を訴えた。こうして労働者人民を犠牲にして資本主義的再建の基礎が築かれた。47年、キ民党は政府から共産党を追放した。ブルジョアジーは、その支配が不安定であり労働者の攻撃にさらされているときは、労働者の攻撃をそらすための衝立として共産党の大臣を必要としたが、最早必要がなくなったからであり、ブルジョア政党だけのほうがより一層効果的に資本主義的再建が出来る見通しがついたからであった。共産党は遅かれ早かれ、ご用済みとして追放される運命にあったのである。
 労働者に犠牲を強要する政府に対する労働者大衆の不信や怒りが高まるなか、ベルリングェルは78年5月には、党の「自主的なイニシアティブがうすめられ、色あせた」と言わざるをえなかった。そして翌年1月には共産党はついに与党離脱を決定した。
 76年から約3年にわたる「歴史的妥協」政策は、危機に陥ったキ民党支配の補完的役割を果たした。それは、戦後、キ民党と連合を組んでブルジョア支配を助けてきた中道政党の役割を共産党を担うことを意味した。
 ブルジョア政党とともに資本主義の民主的改革を実現していくといった「歴史的妥協」の政府は、構造改革路線の一層の進化の結果であった。構造改革路線では、社会主義を展望した“民主的改革”を謳ったが、「歴史的妥協」路線は、社会主義を棚上げしブルジョア国家の「再建」を訴えたのである。70年代の「歴史的妥協」=「国民的政府」の経験は、今日共産党が提唱している保守勢力を含めた「暫定政府」あるいは「よりまし政府」に労働者は信頼を寄せることができないことを教えている。

12
衰退する資本にテコ入れ
◆仏、ミッテラン大統領下の「左翼連合政府」

 1981年5月の大統領選決戦投票で、保守のジスカールデスタンを破って、左翼統一候補の社会党ミッテランが大統領に当選した。左翼の勝利は36年の社会党ブルム人民戦線政府以来40数年ぶりのことであった。インフレの高進、失業の増加など社会的矛盾が深まるなかで、青年や労働大衆は左翼候補ミッテランに期待した。社共は、「左翼連合」による「社会改革」を約束した。だがそれは空文句でしかなかった。「左翼連合」政治はブルジョア政治に行き着いた。

◆◆◆社共連立政権の誕生とその政策◆◆◆
 大統領選に引き続いて行われた6月の国民議会選挙は、社会党(急進社会党等を含む)が圧勝、単独過半数を獲得した。首相には社会党のモーロワが任命され、共産党からも4人が入閣、社共連立内閣が誕生した。
 政権発足直後には、失業・雇用対策として21万人の公務員(地方自治体、郵便、病院、文化・社会施設等)の増員、60万青年の雇用計画を決定した。また労働対策では賃下げなしに週40時間労働から39時間に短縮(85年までには週35時間労働に)、有給休暇も1週間の増加(4週間から5週間に)された。
 さらに社会保障も拡大された。最低賃金10%引き上げをはじめ、家族手当、住宅手当25%、老齢年金の20%、児童手当25%、身体障害者手当20%引き上げ等が実施された。そしてこれらの措置の財源の一部として3百万フラン以上の所得を持つ人に対する富裕税の導入、石油企業、銀行への増税が行われた。
 72年の社共共同政府綱領に基づいて、鉄鋼、化学、電機、軍需産業など工業部門五社、銀行および保険の二社を対象として国有化が実施された。
 モーロワ首相は国有化法案の主旨説明で次ぎのように述べた。「第一に上げられるのは、自主性・活力・競争力に富み、新しいダイナミズムを生み出す企業から構成される強力な公共部門の拡大である」「この法案が指定する企業のコントロールが実現すれば……これら主要産業を中心にして、豊富な技術力に挑戦する巨大産業部門を確実に発展させることができる」
 モーロワ政権はこれら国有化を資本の支配を克服していく第一歩として位置付けていたのではなく、目的は、産業の再生、国際競争力の強化であった。国有化によって投資と生産の効率的運用を図ろうというのである。銀行、保険の国有化も、こうした投資計画への重点的な資金融資を促すためであった。第二次大戦直後、フランスやイタリアではブルジョア政権のもとでドイツに協力した企業を中心に国有化が行われ、経済の復興の役割を担ってきたが、モーロワ政権による国有化もこうしたブルジョア的国有化であった。
 モーロワは「公共支出増大、消費拡大による景気刺激、成長政策をとり、失業とのたたかいを第一の課題とし、インフレ対策は第二次的課題だとしてきた」と述べたが、初期の政策は、財政支出と消費拡大による景気回復を図ろうとするケインズ政策であった。ただ、これに左翼政権として独自性をだすために社会保障とか労働時間短縮などの労働政策がつけ加えられたにすぎない。
 しかし、国有企業は不振をきわめ、新たに国有化された企業の赤字は82年には約160億フランに達した。また国有化に伴う補償も財政を圧迫した。大衆の所得の増大によって消費需要を拡大し、企業の生産・投資を活発にし景気回復を図っていくというのが政府の目論みであった。だが、財政膨張によるケインズ政策はインフレを招き、輸入が拡大し貿易赤字も68年以来の最悪を記録した。失業者は200万を超え、わずか1年で政府の政策は破綻した。

◆◆◆露骨なブルジョア産業再建策◆◆◆
 82年5月、ドロール蔵相は「物価と所得抑制によるインフレ対策を重点におく、耐乏、国民連帯、努力が必要である」と訴え、財政膨張政策から緊縮政策への転換を明らかにした。
 まず6月には通貨の切り下げと、同月から4カ月間の物価と賃金の凍結が行われた。続いて、83年3月には「緊縮プラン」(ドロール・プラン)が打ち出された。その主な内容は次のようなものである。社会保険料の1%引き上げ、酒税、たばこ税の引き上げ、ガス、電気、電話料金、国鉄運賃の8%値上げ、貯蓄の義務づけ、外貨節約のための外国旅行の制限。
 これは、これまでの政府の公約を自ら否定することであった。社共は保守政権のもとで、労働者大衆の生活が破壊されてきたと批判し、彼らの政策こそが失業をなくし、生活向上を実現していく道であると語ってきた。しかし、政府は労働者大衆に対して、経済危機を克服していくためには、犠牲を耐えしのばなくてはならないというのだ。「耐乏」を求められているのが労働者大衆、低所得者であり、金持ち階級や資本でないことは「緊縮プラン」の階級性を明らかにしていた。
 政府は労働者に犠牲を押しつける一方では、企業に対しては、事業税の減税、社会保険事業主負担率の凍結などを約束した。労働者大衆の犠牲で困難を乗りきろううとする「緊縮プラン」はありきたりのものであった。
 ところが共産党は「統治の党」として、「当面の緊急対策が危機から脱出し変革の道をきりひらくための『必要悪』である」としてこの反動的なブルジョア政策を認めた。最大の労組共産党系の労働総同盟(CGT)もこれにならった。
 共産党(およびCGT)に助けられて、政府はさらに露骨な資本再建政策を打ち出していった。
 モーロワの後、新たな首相に任命されたのはファビウスであったが、彼はすでに工業相の時に、国際競争においてフランスの産業は支配的地位を確保して行かなくてはならない、国有企業が市場経済と国際競争に組み込まれている以上、経営者は迅速に意思決定する必要があるして、国家の介入の緩和を唱え、さらに国有企業が赤字を理由に国家予算に助けられることなど論外であると述べ、国有企業の再編・合理化計画を明らかにした。
 それは、最先端技術とエレクトロニクス産業の育成と鉄鋼、自動車、造船、石炭などの機関産業のリストラである。こうして、ファビウス内閣のもとで、自動車のプジョーで2千人の首切りが行われたのをはじめ、石炭(3万人)、造船(5千人)、鉄鋼(2万5千人)など大規模な人員削減・合理化が強行されていったのである。
 共産党はこのファビウスが首相になったのを機に、連立政権から離脱を決定した。労働者を犠牲にして資本のための産業再編・合理化を推進するファビウス政権に対する労働者の闘いを恐れてのことである。首切り合理化に反対して労働者はストライキ闘争に立上りつつあった。
 共産党は、ミッテラン社会党は労働者を裏切ったと非難した。だが、彼らにミッテラン社会党を批判する資格などさらさらなかった。ミッテラン社会党を持ち上げ、社会党と連立政権を組み、支えてきたからである。彼らは、社会党とともにケインズ主義による財政支出と消費拡大による景気回復を叫んできた。だが、それは破綻し、モーロワ政権は緊縮政策に転換していった。緊縮政策は、共産党が擁護してきた消費拡大のケインズ的政策の破綻の必然的な結果であった。ファビウスの政策も同じである。資本主義を前提するかぎり、資本の擁護といったブルジョア政治に行き着かざるを得ない。
 もともとミッテラン社会党に資本と闘う意思などなかった。大統領選の年の初めに発表された党の選挙綱領は「独立ヨーロッパの中の強力なフランス」として、「多国籍企業、アメリカおよび日本製品の浸透及び浸入から欧州共同体を守る」ことを掲げた。ミッテランは、欧州統合を強力に推進した。その目的は、欧州における強力なライバルとして登場したドイツを取り込み、米国や日本に対抗して欧州統合を実現し、その盟主としてフランスが居座ることであった。それはフランス独占資本の野望を代弁するものであった。

◆◆◆共同綱領と共産党の連合政策◆◆◆
 85年に開かれた共産党大会は、72年の社共・共同綱領とそれにもとづく左翼連合政策について、「否定的役割」を果たしたと総括した。「社会党が左翼連合に属したのは、人民運動を分断し、その戦闘能力を失わせ、わが党の影響力を減退させるためであった」
 そしてマルシェ書記長は中央委報告で共同綱領について次のように述べた。「共同綱領は、さまざまな拘束をわれわれに課した。第一に、共同綱領にもとづく左翼政党の連合が政治改革に唯一最良の手段とわれわれが確信したときから、何年にもわたり、変革をめざす闘争よりも、このような協定を結ぶためのたたかいを優先させた。……第二に、共同綱領が締結され、重要な改革をこの綱領にもりこむことに成功して以来、危機からの脱出のために実現すべき解決策の性格という最も重要な課題をも同時に解決されたとみなす傾向があった」「われわれは、共同綱領に、資本の支配に反対する措置を含ませることに成功した、しかし、このことは同時に、社会党が資本主義との決別を決定したかのような幻想を広める結果となった」。こうして大会は「左翼連合」にかわって「新しい多数派の人民連合」を打ち出した。
 「左翼連合」=社会党との連合ではなくて「新しい多数派の人民連合」だといっても、いったい根本的な違いがあるだろうか。ただ、共産党の連合の相手が社会党ではなくなったということにすぎない。社会党との連合が破綻したから、「人民連合」というのは自らの「連合政治」、社会党との馴れ合い政治の破綻をごまかす欺瞞でしかないだろう。フランスの社共連立政権は、共産党の「連合政治」の破綻を明らかにしている。
 「左翼連合」が成立したのは、六九年に「資本主義を代表する政治的勢力との同盟」の禁止を決議し、すべての左翼政党との連合を訴えたことを契機としている。71年に社会党の再建大会が開催され、この「左翼連合」の方針が公式に確認され、ミッテランが第一書記に選ばれた。こうした経過を経て、72年社会党と共産党との間で共同政府綱領が調印された。これに基づいて、74年の大統領選ではミッテランが左翼統一候補として闘っている。
 しかしその後、社共はその綱領の改定をめぐって対立した。その主な点は、国有化する企業の範囲であり、共産党は数を増やすことを主張し、社会党はそれに反対し、交渉は決裂した。これ以降社共は、批判合戦を行う。共産党は、ミッテラン社会党を「ヘゲモニーを押しつけ、政権に就くための補助勢力として共産党を利用している」とか「保守より反動的」などと非難を繰り返してきた。
 だが81年の大統領選では、共産党は決選投票で左翼候補としてミッテランへの投票を呼び掛けた。そして共産党はこれまでの社会党への批判について総括することなく社会党政権に入閣したのである。
 ミッテランは共産党の入閣について、「私は政策を掲げた。この政策を受け入れる勢力、私を選ぶすべての勢力を私は結集した。私がその勢力をなぜ切り捨てることができようか。共産党はもちろん私と異なる政策をもっているが、共産党閣僚は共産党の政策を実行するものではない」と述べた。ミッテランが対立してきた共産党の入閣を認めたのは、共産党の支持者、とりわけCGTを考えてのことであった。共産党に大臣の椅子を与えることによって、その背後にいる労働者を取り込もうとしたのである。そして共産党は入閣することによって、ミッテラン社会党のブルジョア政治を助けてきた。
 共産党は社会党との連合で資本の体制を改革し、その支配克服に前進していけるかの幻想を振りまいた。だが小ブルジョア的党派やブルジア党派との「連合政治」によっては、資本との闘いを貫徹していくことはできない。それは、労働者の階級意識を混乱させ、闘いを解体させるものにしかならない。資本の体制を克服することができるのは、労働者階級の革命的闘いである。

13 最終回
“民主”勢力との連合から公然たるブルジョア連合へ
◆“民主連合”路線の歴史的総括

 民主(人民)連合政権の歴史は、それが労働者階級の独自の闘いを放棄し、ブルジョア自由主義勢力や小ブルジョア勢力との協調に歪め闘争を敗北に導く日和見主義であることを明らかにしている。共産党は最近では彼らが“革新”かどうかの“試金石”とまでいってきた安保条約破棄まで棚上げして、ブルジョア政党との連立政権(「暫定政権」)を掲げるにいたった。民主(人民)連合政治は、ブルジョア政党の公然たる連合政治に行き着いたのである。

◆◆◆小ブルジョア勢力との統一戦線◆◆◆
 日本共産党が民主連合政権構想を打ち出したのは、1973年の第十二回大会である。民主連合政権構想の最大の特徴は、この政権の性格を社会主義を直接めざすものではなく、「国民生活防衛と民主主義的改革」のための政権と規定していることである。
 共産党は、民主連合政権が出来たとしても、自分たちの目指している「民族民主統一戦線政府を目指して強引にひっぱっていく」ことはしない、革新統一戦線に参加する政党、政治勢力の間の将来の政治的展望や見解の不一致な点は保留し、一致点で共闘する政府であると説明している。
 共産党の民主(人民)連合戦術の基礎となっているのは、多数者の結集ということである。大資本の支配に苦しめられているのは労働者ばかりではなく、農民や中小零細企業などの小ブルジョアもそうである。小ブルジョアジーや民主的・自由主義的ブルジョアジーも含めた国民の多数を結集する広範な統一戦線こそが、大資本の支配を打ち破っていくために必要である、そのためには労働者の階級的闘いを訴えて、彼らを脅かすべきではなく、彼らに受け入れられる民主主義的、改良主義的な“改革”にとどまるべきであるというのである。
 現在の共産党の民主(人民)連合戦線は、1930年代の人民戦線以来の戦術である。当時の人民戦線戦術は、ファシズムに対抗しこれを打ち破っていくことを可能にすると大々的に宣伝された。その理由は単純である。労働者階級だけでは無力であり、小ブルジョアジーや自由主義的ブルジョアジーを労働者との統一戦線に結集することが必要であるということであった。イタリアやドイツのファシズムは独占資本の支配によって没落し、破滅した小ブルジョアを組織し、労働者の闘いを壊滅させることに成功した。こうして小ブルジョアを労働者の側に獲得することがファシズムに勝利する道であるとされたのである。
 フランスやスペインで人民戦線政府が誕生した。そして人民戦線政府はファシズムから民主主義や合法的政府を防衛する闘いとして美化され、それは70年代のチリの「人民連合」政府に受け継がれた。人民戦線政府ではファシズム反革命に対する防衛的な性格が強調されたのに対して、人民連合政府は、統一戦線を基盤として社会主義への道を切り開く政権として位置付けられた。人民連合政権では、大資本によって搾取、収奪されている小ブルジョアを労働者の側に結集して多数派を形成し、平和的、適法的に社会主義に向けて前進することが謳われた。だが、人民戦線政府であれ人民連合政府であれ、小ブルジョアジーとの連合の必要を強調している点では同じである。
 大資本の勢力は決定的に少数であり、小ブルジョアジーなどを結集して「国民の多数派」を結集すれば反動派の策動を粉砕し、大資本を追いつめることが出来るという共産党の「多数者」革命の主張は、労働者の革命的闘争の意義を否定する日和見主義である。
 自由主義的ブルジョアジーや小ブルジョアジーとの連合という人民戦線戦術の無力さは、スペインやフランスの経験が明らかにしている。
 ブルジョア的反動に対する大衆の反発の中で、自由主義的ブルジョアや小ブルジョア勢力は労働者とともに統一戦線を組み政権を獲得した。しかし、民主(人民)連合政権の勝利は一時的なものでしかなかった。ブルジョア自由主義派は、ファシズムやブルジョア反動派に対して徹底して闘おうとはせず妥協や取り引きに終始した。彼らが最も恐れていたのは労働者の革命的闘いであった。
 例えば、スペインでは社共の後押しで成立したブルジョア共和派政権は、フランコが蜂起してもそれとの闘いを躊躇した。反革命に対してすばやい反撃を組織したのは労働者であり、政府でなかった。彼らが人民戦線の政権に参加したのは、それによって労働者の階級的闘いの発展を押しとどめ、ブルジョア支配体制を救うためであった。ブルジョア共和派は労働者の革命的闘いに反対し、抑圧した。
 そしてそれを助けたのは共産党である。彼らはまずファシストに勝利しなくてはならない、そのためには統一戦線を乱してはならないと主張した。労働者は民主主義の防衛にとどまるべきで、ブルジョア社会秩序を乗り越えるような闘いは、共和派を統一戦線から離反させる反革命的行動だと非難し、労働者の革命的闘いを弾圧したのである。
 フランスの人民戦線、チリの人民連合も同様である。チリの場合は、社会主義を将来の展望としていたが、生産をサボタージュした資本家の工場や大地主の土地を労働者や農民が占拠することは、中小資本家を敵の側に追いやり政権を崩壊させることだと反対した。
 一方フランスの場合は、共産党のトレーズは、急進派が「一切が可能である」といったのに対して、「一切が可能ではない。すべてを人民戦線のために」と叫び、労働者のストライキ闘争に反対し、これを抑圧した。これこそ民主(人民)連合政権戦術の日和見主義的本性を示す言葉である。

◆◆◆連合政府挫折の原因◆◆◆
 共産党は、民主(人民)連合政権の挫折の原因を、連合内部の不統一、とりわけ急進派のせいにしている。スペイン人民戦線政府では、アナーキストやトロツキスト(POUM)が、チリでは急進派(MIR)が労働者や農民をけしかけて工場や農地をブルジョアジーや地主から収奪した等々。
 だが、民主(人民)連合政権の挫折の原因は、急進派にあったわけではない。
 チリ人民連合政権は、当初は労働者大衆の経済的地位の改善をもたらした(賃上げ、労働時間短縮、福祉など)。しかしやがて労働者大衆の期待は幻滅に変った。政府が労働者大衆に与えた経済的な改善は、資本の生産サボタージュやインフレによってたちまち奪い去られてしまったからである。社共にとって労働者の解放ははるか遠い将来のことでしかなかった。資本との対決を回避する政府に残された手段は、ケインズ主義的な財政膨張政策であった。その結果は物価の騰貴である。労働者大衆は以前のブルジョア政権よりも激しいインフレに苦しめられた。
 経済が崩壊し、政府の政策の無力さが暴露されるなかで、反動派やブルジョア政党は小ブルジョアジーを巻き込んで政府打倒の策動を強めた。小ブルジョアは、もはや政府に混乱しか見出さなかった。彼らはインフレと経済混乱の元凶は、労働者の政府=人民連合政府にあり、自分たちを破滅させようとしているとして、政府に敵対するようになっていったのである。
 政府の政策が行き詰まったのは、革命的政策を取りえず、私有財産を保証するなどとブルジョアジーと協調していたからである。労働者の革命的闘いを発展させることこそが、動揺的な小ブルジョアジーを味方につけ、あるいは中立化して、反動勢力や資本の策動を打ち破り、労働者の解放の展望を切り開いていく道であった。だが、共産党は労働者の革命的闘いを発展させるのではなく、逆にそれに反対したのである。
 共産党は小ブルジョアジーが大資本によって支配され、搾取されていることを持出して、労働者との連合を説く。しかし、彼らが大資本と対立しているというのは一面にしかすぎない。彼らは他方では大資本と無数の糸で結ばれているのであって、それに依存しているのである。彼らの闘いのほこ先は、しばしば労働者に向けられる。彼らの地位そのものが多くの点で労働者の利益と対立させられているからである。彼らが労働者の革命的闘いに参加してくるのは、もはや没落が避けられなくなったことを自覚し、自らの地位を捨て去る時である。
 資本の支配の基礎に一指だに触れず、資本の勢力との協調に終始した人民連合政権の改良主義、日和見主義こそ、その挫折と敗北の原因である。労働者の支持を失った政府は労働者の革命的闘いによって乗り越えられるか、あるいは内部から解体するか(フランス人民戦線)、反革命によって打倒される(チリ人民連合政府)しかなかったのである。

◆◆◆民主連合政権の進化としての暫定政府◆◆◆
 共産党は今日では「暫定政権」を持出している。彼らによればこの政府は、「国民の今の利益にかなう」政策を実行するための政府である。「今の利益」とは何か。共産党が具体的な課題としてあげたのは、消費税率の引き下げであり、政治腐敗の打破などである。彼らはかつては日米安保条約を「諸悪の根源」といってきた。そして、日米安保廃棄を唱えない社会党などの「よりまし政権」を日和見主義だと非難してきた。ところが現在では、「諸悪の根源」(といっても共産党のドグマでしかないが)を棚上げして、「今の利益」を実現するための政府を唱えているのである。そしてそのためには、野党であれば保守政党であっても一緒に政府を組織するというのだ。
 だが「諸悪の根源」の克服のために闘わないで、これを棚上げにして「今の利益」を云々することは欺瞞ではないのか。共産党はあれやこれやの改良を「国民の切実な要求」と偽り、ブルジョア改良政治にどっぷりつかっているのである。
 それは、民主連合政府を持ち上げてきた日和見主義政治の内的進化の必然的帰結である。共産党は口先では一切の搾取や抑圧を廃絶した社会(社会主義)を目指すと言いつつも、これを将来の「国民の選択」の問題として棚上げし、資本主義の「民主的改革」について語ってきた。
 ブルジョア政党との連立政権が何をもたらすかは、イタリアの「歴史的妥協の政府」の経験が明らかしている。
 ブルジョア政党との「歴史的妥協の政府」は、イタリア共産党の構造的改革路線の一層の進化であり、社共を中心とした人民連合政府からブルジョア政党を含めた「国民連合政府」への転換であった。共産党は、党はたんなる批判勢力、たんなる反対勢力にとどまってはならず、積極的、建設的活動によって国民生活に介入していかなくてはならないと述べ、ブルジョア政党との連立を正当化した。
 もちろん、労働者の革命政党はたんなる批判と宣伝の党ではない。その任務は労働者の革命闘争を組織し、資本の支配を打倒し、革命的権力を樹立し、社会主義を建設していくことである。ところが共産党は革命政党の根本的任務を歪曲して、経済、社会に介入してイタリア社会を救済するために積極的に活動すべきだと主張したのである。
 「歴史的妥協の政府」は、インフレ克服、経済再建、政治腐敗、右翼テロとの闘争を謳った。だが、これらはまさに資本主義の矛盾の現れであった。資本の支配をそのままにブルジョア政党と手を取り合って、危機の克服についておしゃべりすることは、資本への屈服であり、追随でしかなかった。実際、共産党の「歴史的妥協」路線は、増税、賃金切り下げ、福祉縮小等々労働者に犠牲を押しつけることで、資本が困難を切り抜けることを助けたのである。
 労働者の階級的、革命的闘争を発展させ、推し進めるなかで、資本主義の経済的、社会的な矛盾を克服しようとするのではなく、資本主義の体制の枠内での「民主的改革」を謳う共産党の民主(人民)連合政治は、あからさまなブルジョア政党との協調に行き着いた。現在、日本共産党は自民党との連立までは行っていない。だが、将来彼らが自民党との連立に行き着かないと誰が保証できようか。彼らのいう「暫定政権」は、それを否定するものではないからである。

田口騏一郎

「海つばめ」684号(1998.7.5)〜731号(1999.6.27)






(私論.私見)