32592 「愛国民族主義問題」について
(民族主義と国際主義、国家主義の相関考)

 (最新見直し2005.6.15日)

 「マルクス主義における愛国民族主義問題」について面と向かって考察される事が少ないように思われる。インターネット検索で田中克彦氏の「論文題目:ソビエト・エトノス科学論:その動機と展開」に出くわしたが、田中氏は次のように評している。

 概要「マルクス主義にとって、民族問題は、階級闘争の中に包摂されるかそれに従属するものであって、民族問題自体が取り上げられることが無く、いわばネガティブなものでしかなかった。そういう事情にあったので、ロシア10月革命後の新権力は、早速この問題に直面した。その政治的解答が、『ソビエト同盟』という国家形態であった。そのための理論と政策の構築にたずさわったのがしーニンととりわけスターリンであった」。

 問題は、「マルクス主義における民族問題」に直面した際の二代論客しーニンとスターリンのアプローチの差異であるが、れんだいこはこれを分かりやすく且つ正確に解説したものを知らない。田中氏は次のように述べている。

 「1913年のスターリンによる『マルクス主義と民族問題』がマルクス主義にもとづく民族理論として評価され、その後の道しるべとなった。奇妙なことは、それが政治のレベルにとどまらず、学界的レベルにまで及んだことである」。

 スターリンは更に、1950年に「マルクス主義と言語学の諸問題」を著し、引き続き論及している。

 れんだいこは、スターリンの両著作に精通していないので論及できないが、「マルクス主義における民族問題」に関するスターリン的解析理論がマルクス主義の見地から見て正統的であり得るや否や、という点が考察されねばならないと考えている。この際の比較理論としてレーニンのこの問題に対する諸見解を知ることが必要であろう。併せて、マルクス、エンゲルスの見解をも知らねばならない。

 ところが、残念ながら、田中氏の指摘しているが如く「マルクス主義にとって、民族問題は、階級闘争の中に包摂されるかそれに従属するものであって、民族問題自体が取り上げられることが無く、いわばネガティブなものでしかなかった」という事情によってであろうが、要領よく纏められた文献を見つけることができない。そこで、いきなりれんだいこ史観でこの問題に分け入ってみたい。

 2004.3.24日再編集 れんだいこ拝



【「共産主義者の宣言」文中の「プロレタリアは祖国を持たない」について】
 「共産主義者の宣言」文中の「プロレタリアは祖国を持たない」と「プロレタリアはまず政治的支配を奪取して、自己を国民的階級の地位にまで高め、自己を国民(ナチオン)としなげればならないのであるから、それ自身やはり国民的(ナチオナル)である」の両記述を如何に整合的に理解すべきか。

 多くの自称マルクス主義者は、プロレタリア革命闘争上、ナショナリズムと国際主義を対立概念で捉え、ナショナリズム運動を排斥し国際主義にどう純化し得るのか、その純化度を競う事でマルクス主義度を測ろうとしているように見える。例えば、「構造改革論の思想的意義と現実的課題」の著者のように、「要するにマルクスは、長期的・戦術的には『国際主義』を、短期的・戦術的には、いわば『ナショナリズム』をプロレタリアの使命として示唆したといえよう」とする観点に立っているように見える。

 果たしてこの理解はマルクス主義的だろうか。この理解に拠れば、国際主義とナショナリズムを対立的に捉えた上で、マルクスは何やら目先でナショナリズム、その果てに国際主義を視野に入れていたというようなことになるが、こういう理解は却って理解が混乱しやしないか。

 もっと素直に、愛国民族主義問題を捉えても良いのではなかろうか。各国人民は、それぞれ当該国家及び民族の自存と自律を求める。その先に「全世界の民衆が永久平和と四海兄弟主義に向って、よりよき理解を求めて止まぬ」国際主義が待ち受けている、とそのまま受け止めれば良いのではなかろうか。

 プロレタリアが自国の革命をナショナリズム的に為すのは当然であるとする見地に立ちたい。但し、プロレタリアのみがナショナリズム的革命を国際主義的見地から為しうるのであり、それはブルジョアジーのその種の革命の限界を更に突破する汎人類的意義を持つ革命であるとする認識を持ちたい。実際、マルクスは、歴史弁証法的にこう認識していたのではなかろうか。「共産主義者の宣言」の「プロレタリアは祖国を持たない」の趣旨を正確に受け止めれば、そう判ずることができる。「プロレタリアは祖国を持たない」は、プロレタリアには祖国は不要だという意味ではなく、プロレタリアにはブルジョア的祖国は不要だという意味であろう。「万国の労働者よ団結せよ」と対句になっている。プロレタリア的祖国は協調主義によって国際主義を生み出すことが出来るという見通しに立っているとと拝するべきだろう。

 つまり、れんだいこは、プロレタリア的ナショナリズムと国際主義は何ら対立概念ではないということを指摘している。従来の通俗マルクス主義がナショナリズムと国際主義を対立概念で捉えているのは間違いたいという事が云いたい訳である。この差は実は大きな意味が有る。ここでは触れないが、ネオ・シオニズムと決別し抗争する為に必要な認識作業として要請されている。

 2006.10.31日再編集 れんだいこ拝

【「マルクス主義における民族問題」におけるレーニン的理解について】
 レーニンは、10月革命政権樹立後忽ち、社会主義建設におけるナショナリズム問題に直面した。ソヴィエト・ロシアは社会主義の史上最初の国家として登場したが、その反動として諸外国による革命への干渉や国内における反革命勢力の反撃を呼び起こした。レーニンとボルシェヴィキ党は、「社会主義的前衛の論理」に基づき、ソヴィエト国家の「国家的利益」(ナショナル・インタレスト)と、それに即した諸民族の反帝国主義独立運動こそが全世界のプロレタリアの利益であるという見地に立ち、これに対抗する資本主義国家やその国家観、或いはそれに追従する植民地諸国の従属的行動を批判した。

 レーニンは、1913年の「民族問題に関する批判的論評」で次のように述べている。
 「ブルジョア・ナショナリズムとプロレタリア国際主義とは、それぞれ前資本主義世界の二つの大きな階級的陣営に対応して、民族問題におけるこの種の政策、二つの世界観を表現するところのスローガンである」。

 この見地に拠れば、ソヴィエト・ロシア創出以降は特に、プロレタリア国際主義こそがマルクス主義的愛国民族主義の見地となるべきであり、ブルジョア・ナショナリズムは反動のそれでしかない、ということになろう。これを仮に「レーニン式愛国民族主義論」と命名する。西欧の社会主義者たちは、「レーニン式愛国民族主義論」に困惑させられることになった。西欧社会主義者にとって、ソヴィエト・ロシアはあくまで西欧辺境のロシアの土地に形成されたソヴィエト・マルクス主義の産物であり、それをそのまま模範とするわけにはいかなかった。ここに、ソヴィエト・マルキシズムと西欧的マルキシズムとの間に対立が生じた。もっとも、マルクス主義に於ける愛国民族主義論を廻っての純理論的対立の面もあったが、実際にはレーニンが指摘した如く排外主義的愛国民族主義に陥っている面もあったので、この両者を識別せねばならない。

 レーニン登場以前は、マルクス主義の正統の継承者であり権威であったカウツキー(1854〜1938)は、ソヴィエト社会主義政権を一党独裁であると非難し、西欧ではむしろ民主主義を通じて社会主義を実現すべきである、と主張した(「プロレタリアートの独裁」1918年)。これに対して、レーニンは、「プロレタリア革命と背教者カウツキー」(1918年)によって、彼に反駁し、激しい非難を加えた。

 レーニンは、自らの「レーニン式愛国民族主義論」に基づき、共産主義インターナショナル(コミンテルン)を創設し、第一次大戦直後の1919年春、モスクワで第1回大会を開催した。翌1920年、第2回大会において具体的な活動方式を決定し、第三インターとして、「正統」をもって任じ、各国のメンバーに対して、大会と委員会との決定には無条件的に服従すべきことを要求した。「レーニン式愛国民族主義論」は、ソヴィエト・コミュニズムを国際共産主義革命の「前衛」ないし「橋頭堡」として、指導と統合の役割を果すこととなった。

 「レーニン式愛国民族主義論」は、ソヴィエト国家をそのままプロレタリア国際主義の中核とみなし、ソヴィエトの国是に即さないプロレタリア運動を「異端」とみなした。当時、カウツキー、ベルンシュタイン(1850〜1932)に代表される西欧マルクス主義は、マルクス主義理論の民主主義化的修正を行って、「正統」から離脱していた。レーニンは、カウツキー、ベルンシュタインは無論、ローザ・ルクセンブルグ(1870〜1919)に対しても、その民族理論が「レーニン式愛国民族主義論」的見地に立っていないとの理由で、「日和見主義」の名のもとに、これを非難した。

 レーニンはこう述べている。
 「プロレタリアは、民族の同権、民族国家に対する平等の権利を認めるが、その場合、あらゆる民族のプロレタリアの同盟を最も高く評価して優先せしめ、民族的要求や分離はすべて労働者の階級闘争の観点から評定する」(『民族自決について』1914)。

 民族問題に関するスターリンの見地は、「レーニン式愛国民族主義論」にはまだ弁えられていたプロレタリア国際主義の精神を放棄し、ソ同盟一辺倒式に改悪した。スターリンは、民族自治を説いたオーストリア・マルキシズムの理論家オットー・バウァー(1881〜1938)やカール・レンナー(1870〜1951)の民族理論を批判した。彼らは文化的見地に立って、東欧の弱小諸民族は、文化的には西欧的キリスト教文化圏に属するから、それぞれの主体的条件に従い、民族自決の上に立って社会主義化の道を進むべきであるとしていたが、スターリンは、これを「ブルジョア民族主義の代弁をするショーヴィニズム(排外主義)である」と論難した(『マルクス主義と民族問題』1913)。

 スターリンは実に徹底したソヴィエト一元化主義の路線を貫いた。スターリンによる一国社会主義の建設と防衛は、1928年のコミンテルン第6回大会で採択された概要「ソヴィエト連邦は国際的プロレタリアの唯一の祖国であり、資本主義諸国の攻撃からソヴィエト連邦を全力をあげて守ることが国際的プロレタリアの義務である」とする綱領を生み出し、コミンテルンに結集した各国共産党を拝跪させた。スターリンにより、ソ同盟は、全世界的規模における反帝国主義・社会主義革命運動の司令塔であると位置づけされ、この論理に従って、ソ同盟による帝国主義的支配をもたらすことになった。

【れんだいこ史観による民族主義総俯瞰】
 「愛国心、民族主義問題」は、近代以降の政治テーマとして最も主たるものであるにも関わらず究明されていない、というか忌避されているように見える。戦前の転向問題に直結しているにも拘わらず、理論的切開ができかねている。宮顕は単に「俺は不撓不屈非転向で闘い抜いた」なる真偽不明の手柄話で煙に巻き、転向者を批判するも飼い殺しするも自由の権力を手中にしたが、こういう姿勢は却って有害であるし、こういうことでは到底学問になり得ない。特に、日本の場合、国際的謀略とファナティックな国粋主義の結合により、国策的に東亜侵略を遂行してきた歴史を持っており、これをマルクス主義的に総括しておくことは左派運動の責務でもあり、どうしても必要なことのように思える。

 れんだいこ史観に拠れば、民族主義問題の根は深い。近代のブルジョア民主主義ないしその議会制、国民概念、国家間戦争、民族独立運動、植民地解放運動、これら全てが民族主義問題の観点から考察し得るように思われる。つまり、それらは全てが民族の自律自存、活力形成に繋がっており、これに成功した民族が強国を創り出し、失敗した民族が後進国の地位に甘んじ、あるいは植民地の悲哀を味わわされてきたという風に、民族主義問題はいわば歴史の歩みの根幹に関わっているように思える。

 してみれば、帝国主義とは強国化の発展過程であり、それを思えば批判を超えた国家の現実的生態に他ならない。帝国主義を生み出した近代及び現代史に対して、道義的的な批判説法して事足りるのは道学者だけだろう。近代史の諸国間対立の原基には民族主義問題があり、現代世界はなお諸民族の抗争と協調の只中に住しているように見える。階級闘争が一国主義的に展開されるのなら、それは民族主義の下位に位置している。だからいつでも民族主義に包摂されることになる。この観点は共有されるべきだ。

 興味深いことは次のことにある。れんだいこ史観に拠れば、「右派系は、民族主義を国家主義と同値で論じようとする。左派系は、民族主義を国際主義と対値で論じようとする。従って、いずれの側においても、民族主義問題が民族主義自体を課題として俎上に乗せられることが無い」。

 更に興味深いことは次のことにある。時の政策当局者がまともであれば、彼らは国家主義と民族主義を一応は仕切り分けしてその双方に取り組む。そこには、国家に対して国民に対して饒舌の効かない責任が付きまとっており、懸命にその歩みを漕いでいる。そういう意味でよほど賢明だ。なお、土着宗教派はどこの国においても民族問題をずばり引き受け考察しているように見える。彼らは世間に向けて「科学的社会主義教」の観点からの説教はしないが、むしろ近代以降の時代の特質を正確に捉えているように見える。皮肉なことだが、これが史実のように思える。

 2003.7.21日 れんだいこ拝

【その一、「共産主義者の宣言」に見る民族主義と国際主義の相関関係如何考】
 共産主義者は、国内の階級闘争と国際主義をどう結合すべきか。これを「『共産党宣言』に見る民族主義と国際主義の相関関係如何考」と課題設定し、「共産党宣言」に記された文言を検証してみる。該当個所を挙げながらこれを咀嚼してみる。

 「本文1、ブルジョアとプロレタリアート 」の稿で、次のように記されている。
 「内容においてではなく形式上は、プロレタリアートとブルジョワジーとの闘争は、まずは国内闘争である。個々の国のプロレタリアートは、もちろんなによりもまず、自国のブルジョワジー相手に諸問題の片をつけなくてはならない」とある。

 これによれば、階級闘争は、それぞれの母国で、「一国的なプロレタリアートとブルジョワジーとの闘争」が当然視されていることになる。

 「本文2、プロレタリアと共産主義者」の稿で、次のように記されている。
 「異なる国々でのプロレタリアの国内闘争において、共産主義者は、全プロレタリアートの共通の、一切の民族主義に左右されない利益を全面に押し出しつらぬく。労働者階級のブルジョアジーに対する闘争の様々な成長段階において、共産主義者は常に且つどこにおいても運動全体の利益を代表し体現する」。

 これによれば、共産主義者は、一国内的な階級闘争を推進しながらも、その目線は常に高く広く「一切の民族主義に左右されない国際主義」の観点を持って対処していくことが要件とされている。

 ブルジョアによる「共産主義者はさらに、国家(祖国、country)と民族性(nationality)を廃止しようと望んでいる」との非難に対して、次のように反論している。
 「労働者は国家(祖国)を持たない。持ってもいないものを、取り上げることなどできない。プロレタリアートは、なによりもまず、政治的支配権を獲得せねばならない。国家の支配階級にまで成り上がらねばならない。自らが国家として、更に云えば、言葉上ブルジョワ的な意味とは又違うそれ自身が国家的なものとして形成されねばならない」。

  これによれば、労働者階級は「国内の階級闘争を和合ないし解消するような意味での、ブルジョアジーと共有し得るような国家(祖国)など無い」ことを指摘していることになる。

 次のようにも述べている。
 「少なくとも文明諸国の指導による共同活動は、プロレタリアート解放の第一条件の一つである。他の者によるある個人の搾取をなくしていけばそれに応じて、他の国によるある国家の搾取も終息する。国家内の諸階級の対立が消滅して行けばそれに応じて、ある国家と他の国家との間の敵対関係もまた終焉するはずである」。

 これによれば、「他の者によるある個人の搾取」を揚棄する社会体制の創造が、「国家内の諸階級の対立の消滅」につながり、ひいては「ある国家と他の国家との間の敵対関係もまた終焉する」と述べていることになる。そういう一切の原基的なものとして、「資本主義的な私有財産制を止揚させる共産主義革命」の必要を説いているというスタンスであることが分かる。

 共産主義者と、イギリスのチャーチスト運動、アメリカの農地改革派、労働階級党、社会民主主義、民主社会主義、急進派の人達や政党との関係について、「批判的立場をとる権利を保持しつつ同盟関係に立つことを是認」して次のように述べている。
 「本文4、種々の抵抗党に対する共産主義者の立場」の稿で、「共産主義者は、労働階級が直面している利害を擁護せんとして目下緊急の目的を達成するために闘う。しかし現在の運動ではまた、運動の未来を代表し、気にかけてもいる」。

 具体的に次のように記している。
 「ドイツでは、共産主義者は、ブルジョワジーが絶対君主制、封建的地主階級、プチ・ブルジョワジーに対抗して、革命的にふるまっている限りで、ブルジョワジーと共闘している」。
 「ポーランド人のあいだでは、共産主義者は農業革命を民族解放の条件としている党派、すなわち1846年のクラカウの反乱をおこした党派を、支持する」。

 これによれば、共産主義者及びその政党は、唯我独尊的な党派的運動を戒め、絶対目的である「資本主義的な私有財産制を止揚させる共産主義革命」を引き寄せる為に必要な局面打開に一歩一歩取り組むことこそ肝要であるとしていることが分かる。

 付言すれば、日共その他の自称左派運動は、マルクス・エンゲルスの指針せしめた「資本主義的な私有財産制を止揚させる共産主義革命」を放棄し、唯我独尊的な党派的運動のみを吹聴しており、それは全く非ないしは反マルクス主義的であることが判明する。

 「共産主義者はその注意を主にドイツに向けている。なぜなら、ドイツが、ヨーロッパ文明のもっと進んだ状態の下で、また17世紀のイギリスや18世紀のフランスよりももっと発展したプロレタリアートをもって行われるブルジョワ革命の前夜にあるからである。それにまた、ドイツでのブルジョワ革命は、その後直ちに引続くプロレタリア革命の序曲でしかないからである」ともある。

 これによれば、「プロレタリア革命の序曲」としてのブルジョワ革命を推進し、それはプロレタリア革命へと「その後直ちに引続く」ものとして構想していることが分かる。且つ、西欧においては、ドイツ、フランス、イギリスを主とする国々の連動的な革命運動が常に視野に入れられていることも分かる。

 次のようにも述べている。

 「手短に言うと、共産主義者はどこでも、現存する社会的、政治的秩序に対するあらゆる革命的運動を支持する。こういう運動のすべてで、共産主義者は所有問題を、その時それがどんな発展度合にあろうとも、それぞれの運動の主要問題として、前面に立てる」。

 これによれば、共産主義者は、社会の進歩を促す全分野で共同闘争を組み、「資本主義的な私有財産制を止揚させる共産主義革命」の旗を打ち振り続けることが、らしき在り方だとしていることが分かる。

 次のようにも述べている。

 「最後に、共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義政党との同盟と協調に努める」。
、「万国のプロレタリア団結せよ!」。

 もはや解説不要であろう。


【その二、マルクス主義的「民族主義と国際主義の在り方論」考】
 以上から、「『「共産主義者の宣言』に見る民族主義と国際主義の相関関係如何」を考察するに付き、次のように総括できるのではなかろうか。
 各国人民は、まずそれぞれ自国階級闘争に取り組むべし。
 自国の階級闘争において、共産主義者はその他進歩的勢力との共同闘争を辞さず、その目的を隠さぬ形で先進的に担われるべし。
 各国の階級闘争は相互に連動していることを知るべし。
 各国の階級闘争は国際主義的に連帯し、共同闘争を組むべし。

 ここに認められるのは、透徹した「革命の弁証法式運動」であり、一国主義、国際主義、国際指導組織、革命の根拠地づくり、共産主義党派の独善性、議会主義、大衆闘争等々が孤立して独自に叫ばれている訳ではない、ということであろう。主観的にマルクス主義運動やってるつもりでも、「革命の弁証法式運動観」からかけ離れた党派運動、大衆運動、労働運動は、マルクス主義者のそれではない。そのことを確認すべきでは無かろうか。

 思えば、れんだいこが感じた戦後左派運動に対する違和感とは、もっともなものであり、このマルクス主義的観点からあまりにも逸脱していることに対する漠然とした疑問では無かったか。しかし、それを証する知識を持たなかった故に沈黙せざるを得なかった。しかし、こうして、「共産主義者の宣言」の翻訳をものして原文の真意を確認した以上、次のように云う事を何を憚ることがあろうか。世にある自称マルクス主義的左派運動ないしその党派運動は、何らマルクス主義的なものではないと。

【その三、マルクス主義的「民族主義と国際主義の在り方論」とネオ・シオニズムの関係如何考】
 さて、このマルクス主義的「民族主義と国際主義の在り方論」をこれだけで終わるとすると、十分でないように思える。これについては、マルクス自身さほど言及していないのではないかと思われる。唯一、「ユダヤ人問題について」で本格的に論ぜられているのかも知れないが、れんだいこはまだ読みきっていない。和訳本が無いのが残念の極みである。どなたか是非翻訳して下さり、我々の啓発に一役買って欲しい。

 れんだいこは何を云おうとしているのかというと、近代から現代に至るまでの歴史に顕著なユダヤ民族主義的ネオ・シオニズムの動向について言及せずんば片手落ち過ぎやしないか、ということである。今や、明らかにネオ・シオニズムが世界を席捲しつつある。ネオ・シオニズムの勃興と発展の様は、マルクス主義のそれよりも力強く、マルクス主義が衰微したのに比して、今まさに意気軒昂である。これをそれとして観ずしては現代史を語ることは出来ないだろう。

 では、ネオ・シオニズムとは何か、それに答える。れんだいこによれば、「ネオ・シオニズムとは、ロスチャイルド1世時代に教義的に確立されたものであり、ユダヤ民族を最良の選良民として他の諸民族を下位に序列化し、彼らが支配する政治経済文化体制を世界基準として押し付けようとする文明の波運動」ということになる。目下、米国大統領ブッシュを押し立てて強権政治を振舞うネオコン一派は、明らかにシオニズム的意向を踏まえて、意図的に世界に干渉を開始している。

 この流れこそ、近現代史に隠然と公然と影響力を行使しつつある最強のベクトルでは無かろうか。これに比すれば、マルクス主義的階級闘争は過去も今も、その下位に甘んじているようにさえ思われる。それが証拠に、ネオ・シオニズム体制下でも、投降主義的合法化政党として共産党は認められており、利用されている。

 それが現実ならば、この情況に言及しないマルクス主義なぞ有り得て良い訳が無い。れんだいこの関心は、マルクス主義が遂にネオ・シオニズムに抗することができず、歪曲されつつ敗退していった要因にある。マルクス主義とは所詮そこまでのものでしかなかったのであろうか。

 補足しておくが、れんだいこは、ユダヤ民族主義そのものを弾劾しようというのでは無い。その一派であるネオ・シオニズム、その横行を許容しているユダヤ民族主義を俎上に乗せねばならないと考えている。今や、世界各国は、つまりはその下にある各国人民大衆は、彼らの愛玩になるか、手下になるか、家畜になるかの選択を突きつけられようとしている。金融支配が、そのローラー役を務めているように見える。

 これに対するれんだいこ見解を樹立せずんば、「民族主義と国際主義の在り方論」は完結しない。その前に、マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキー、毛沢東等々のお歴々がこの問題を如何に論じていたのか知りたい、というのが目下のれんだいこの心境である。

 2004.1.18日 れんだいこ拝

左派運動における愛国心、民族主義問題について れんだいこ 2004/01/07
 「石堂清倫 /米田綱路(聞き手)」 http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/isido3.htm)は次のように記している。
 「エンゲルスは、アイルランドの独立連動を助けないようなイギリスの労働運動は自己自身の解放もできないだろう、その原因はイギリス人の愛国主義にあると批判したことがある」。

 れんだいこは、上記のほかにもマルクス、エンゲルスの「愛国心、民族主義問題」への言及を知りたいが、浅学故に自力ではいかんともし難い。そのことはともかく、上述文のエンゲルス語録の真意を解釈して見たい。

 エンゲルスは末尾で、「イギリス人の愛国主義批判」をしている。国語的解釈となるが、エンゲルスはこの時、愛国主義批判をしているのだろうか。然りと理解するのが、大方のマルキストであろう。彼らによれば、そう読み取るべきであると云う。

 しかしながら、れんだいこはそのようには受け取らない。ここでエンゲルスが批判しているのは、一般的愛国主義批判ではなく、「イギリス人の偏狭且つ排外主義的な愛国主義の批判」を為しているのではなかろうか。その具体的事例として「アイルランドの独立連動を助けないような」と前置き説明しているのではなかろうか。世界の左派運動については知らないので日本左派運動について言及するが、大方の理解は、このれんだいこ式解釈を認めない。

 こうなると。マルクス主義以前の問題として、言語学的能力の方が問われているということにならざるを得ない。その格好教材が手に入ったので面白話しをしてみたい。或る日、れんだいこの経営する碁会所で、ある常連客の賭け碁専門の方が対局中に倒れた。病院へ運ばれ、手当てを受けた。その方が翌日碁会所へやって来た。れんだいこは、倒れたときには居合わせなかったが、その時には居た。「おぅ何々さん、大丈夫でしたか」と声を掛けた。

 その返答が、「いやぁ、三途の川を渡るところまで行ったのだが、番屋の鬼が出てきて渡り銭を出せと云う。ポケット調べたら銭が無かったので、それじゃぁ取りに戻りますつうて帰ってきた」。ここで、居合わせた者は爆笑した。

 ところが、ここへ、「それはお気の毒だ。私が渡り銭貸してあげよう」などと云う者がでてきたらどうする。言葉尻解釈からすれば、そういう申し出もあり得るだろう。それを座の盛り上げの為に冗談で云うのなら、ここで又爆笑となる。実際、そのように会話が遣り取りされた。今から思い出してもおかしいや。

 ところで、これをマジに、至って親切心露わに申し出て来る者が出てきたらどうする。話が通じない奴だということになろう。れんだいこは思う。「エンゲルスは、アイルランドの独立連動を助けないようなイギリスの労働運動は自己自身の解放もできないだろう、その原因はイギリス人の愛国主義にあると批判したことがある」の一文から、「マルクス主義は愛国心を否定するのを原則とする」と理解する者は、上述の面白話で、ひたすら真面目に渡り銭貸しを申し出る者に相当しないだろうか。俗に、面白くも可笑しくも無い奴の部類に入るだろう。

 れんだいこは思う。マルクス、エンゲルスは、労働者階級の国際主義的な解放を宣べた。この際の国際主義は、愛国心との対極において捉えるのではなく、1・労働者階級にとって愛国心と国際主義は両有することができる。2・愛国主義、民族解放運動は、国際主義に通ずる方向でのみ是認されるべきである。3・国際主義は世界諸民族共和であらねばならぬ。4・排外主義的愛国主義、民族解放運動はマルクス主義とは無縁のものである、という4センテンスで理解されるべきでは無かろうか。

 敢えて指摘せねばならない重要なことは、支配階級側が排外主義的愛国主義、あるいは場合によっては民族離間運動を鼓吹して来た時、又は国家主義的戦争行為に人民大衆を動員せんとする時、日本左派運動はこれと如何に切り結ぶべきかにある。

 従来の運動はあまりにも国際主義一本槍で反対の声を挙げ続けてきた。れんだいこは、これが成功した例を知らない。為すべきは、彼らの口車である愛国主義、民族主義を逆手にとって、何が愛国主義であるものかは、民族主義であるものかはと批判し、自前の愛国主義論、民族主義論をも対置していくべきでは無かろうか。

 仮に、日本政治史における目下の問題について言及してみよう。小泉政権はひたすらにブッシュ―小泉関係の蜜月ぶりを自慢し、誰よりも忠犬ぶりを見せることが日本国家百年の計に合致すると嘯いている。この時、我々は、戦争一般反対も良かろう、憲法守れも良かろう、しかしもう一つ肝心なことは、小泉の向う道は取り返しのつかない亡国の道であることを指弾し、その売国奴的利権の実態を暴露し、その詐術を一つづつ剥いでいくことではなかろうか。

 思えば、日本左派運動は、あまりにも日本の歴史を愛しようとしていない。フランス革命、ロシア革命については見てきたように語るものはいても、日本史上の世界史的偉業である幕末志士の回天運動には疎い。近頃では新撰組の方がもてはやされるという風潮があるのも気に入らない。

 それもそのはずだ、左派運動の良質なインテリでさえ次のように述べている。
 「そういう意味では、明治維新は確かに変革ではあるけれども、歴史を前進させるための革命ではなかった。それは革命であると同時に復古であって、太政官制のような古めかしい、前代的形態のエリート権力でもって近代化を図っていくことになりました」。

 こう総括して恥じない。れんだいこは思う。そうではないのだ。水戸学的復古学は当時の学問水準において革命的エネルギーの水源地となっていたのであり、「太政官制のような古めかしい、前代的形態」衣装を纏ったにせよ、時代的に桎梏となっていた幕藩体制打破へ向け「一定の」有益な役割を果たした。

 いずれにせよ様々な思想が飛び交いつつ倒幕諸勢力が共同した。かくして回天運動は成功し、明治新政府が樹立された。この政府のその後の過程は、多々ある可能性の中から「富国強兵、殖産興業」路線を選択し、伊藤博文一派が主導権を握るようになるや人民大衆的にみてくそ面白くも無い道のりへ歩を進めるようになった。そのなれの果てが大東亜戦争であり、敗戦であった。凡そ以上のように概括すべきではなかろうか。決して、幕末志士の回天運動の意義を落とし込めてはいけない、あの革命過程には豊穣なものがあったのだ、ということが云いたい訳だ。

 話を戻す。日本左派運動は、支配階級が愛国心を奏でれば我々の愛国心で、資本同盟的国際主義を奏でれば労働同盟的国際主義で、政策でくれば政策で、国家百年の計でくれば百年の計でという具合に、ことごとく全分野戦線で闘うべきではないのか。れんだいこには、そのように向わないのが何故なのか分からない。

 愛国心、民族主義問題から逃げてはいけない、我々の指針する道こそひっきょう愛国的愛民族的であり、国際主義でもあるという展望を提起して向うべきではないのか、そんなことを考えている。

 2004.1.7日 れんだいこ拝

石堂清倫氏の「日本左派運動に対する警告」について れんだいこ 2004/01/08
 うちはだいこさん早速のレス有難うね。お陰さまでれんだいこの脳細胞は刺激を受けております。次の一文を書き付けました。ご意見お聞かせください。

 【石堂清倫氏の「日本左派運動に対する警告」について】

 「石堂清倫 /米田綱路(聞き手・本紙編集)」に興味深い史実が紹介されている。

 意訳概要「20世紀の始め、帝政ロシアが極東に進出して、アムール河北岸に住んでいる中国人3000人ばかりを虐殺するという大事件が発生した。すぐさま第一高等学校の寮歌『アムール河の流血や』が作られ唱歌される。ところが、この歌のメロディーが『聞け万国の労働者』となり、やがて『大和男の子と生まれなば、散兵戦の華と散れ』で知られる『日本陸軍の歌(歩兵の本領歌)』となる。

 おなじメロディが、わずか20年の間に、愛国の歌から労働者解放の歌になり、それがすぐに巻き返されて軍国主義の歌にもなった。このことが、二〇世紀前半の特徴のように思われるわけです」。

 もう一つ興味深い史実が紹介されている。「1922年に、コミンテルンのジノヴィエフが、モスクワにアジア諸国の革命家たちを集めて極東民族大会を開催しました。ジノヴィエフは、極東で真っ先に革命を行う可能性があるのは日本で、日本なしにアジアの革命は考えられないと信じていました。しかし、日本人のもって生まれた愛国心が、アジアの革命運動を結合する大きな妨げになっている。エンゲルスは、アイルランドの独立連動を助けないようなイギリスの労働運動は自己自身の解放もできないだろう、その原因はイギリス人の愛国主義にあると批判したことがあります。

 ジノヴィエフはこの言葉を引いて、日本人も母乳とともに愛国心で育ってきたことを指摘しました。象徴的だったのは、朝鮮の金という若い労働者が『朝鮮人の労働者と日本の労働者が同じ工場で働いていても、日本人は朝鮮人に対する支配者であって同僚ではない。日本人の愛国心は排外主義、ショービニズムだ』と言ったことです。それは1922年のことです。そのあと1924年に日本共産党ができます。そして28年に3.15事件で大弾圧されるわけですね」。

 石堂氏は、「愛国心が排外主義約な傾向と結びつけられ、侵略的帝国主義のイデオロギーに化した」経過について、左派運動が主体的に自己切開することの必要を指摘し、「民族的なナショナリズムと社会主義との関係」はいつまでも看過し得ないテーマとなっていると説いている。

 意訳概要「国際主義と口では云うものの、距離がありすぎた日本の社会主義者の理論と実践が問題である」とした上で、「どうすれば日本がアジア諸国民の友になれるかを、日本の社会主義運動が具体的に検討した形跡はない」、「共通の綱領を持ち共通の資本と戦うという国際連帯の運動はありません。利害の不一致は当然あるのですが、そうした各国の多様な社会主義運動を、いかにして統一するかという共同の知恵がないのが現実です」と指摘している。

 石堂氏のこの「日本左派運動に対する警告」をどう受け止めるべきか。れんだいこによれば、「おざなりな国際主義一般では役に立たない。もっと血肉になるような理論と運動を創りださねばならない」という、石堂氏の沈痛な感慨として理解すべきではなかろうか、ということになる。

【れんだいこの愛国心、民族愛の哲学的考察】(思いつくくままに書き付けておく)
 主として精神面の、国家愛(通称、愛国心と云う)、民族愛の由来をどこに求めるべきか、につき考察してみる。れんだいこは次のように考える。「そもそも、国民国家・資本主義体制から愛国主義はうまれたといえるのであり、マルクス主義の見地からは愛国主義はナンセンスでしかない代物である」として突き放すのではなく、「『汝自身を知れ』的人間考察の相似的発展系の問題であり、我々の精神の中にある高次な思惟ないし感情の転化したもの」と捉えるべきでは無かろうか。つまり、「始発において人間の自己愛から紐解くべきでは無かろうか」。

 人は誰しも、己の生を「病まず弱らず」慈しみながら寿命のままに生きるよう条件付けられている。これを自己愛と云う。自己愛に対してその由来をなぜと問うのは難解が過ぎるので、この方面の問いかけは捨象して、論をまず自己愛から起したい。

 自己愛は、血肉を授与された両親愛に、血肉を分けた兄弟愛に通じている。これを家族愛と云う。究極、自己を包摂する家族の生存と血族の継承が愛国心、民族愛の母胎となっているように見える。この家族愛が血統的一族愛へ、一族愛が郷土愛へ、郷土愛が地方愛へ、地方愛が国家愛へ、国家愛が地球愛へと漸次昇華して行っているように思える。「れんだいこの国家論」の時に考察したが、これは「正」の面であるように思われる。

 ところで、自己愛が実際にはどのようにして他の者との関係づくりに向うのか、それを考察してみたい。従来、この観点からの考察が為されていないように見える。れんだいこは、次のように推理している。人は誰しもまず自己愛を形成する。しかし、この自己愛は、己への愛を強めれば強めるほど他者の中に似たような面を観ることになり、この面を通じて自己愛が他者愛へと通底する。

 この自己愛と他者愛が更に発展していったところに共同愛が生まれ、それはフォイエルバッハ的類的共同性へまで高まる。いわゆるヒューマニズムは、この段階の高次な思惟ないし感情のことを指すのではなかろうか。留意すべきは、いきなり類的共同性にまで高まるのではなく、「似た者同士の仲間愛」概念を通じて類的共同性へ至るという構造になっていることを見て取らねばならない、ということであろう。このことの重要性は後に改めて確認しようと思う。

 上記の認識は、マルクス主義の登場により更に精緻にされることになった。それによれば、自己愛の発展系としての家族愛、血族愛、郷土愛、地方愛、国家愛へ、地球愛への昇華過程は単純にはそうならないという。その論理式は次のようになる。国家内は多数の階層及びいくつかの階級に分裂しており、階級闘争を常態としている。国家とは支配階級の階級支配的機関及び暴力装置であり、国家愛とは支配階級のイデオロギー的産物でしかない。従って、国家愛という一元的なものはなく、被支配階級にとって支配階級の説く国家愛は幻想のものでしかない。概略そのように述べている。

 さて、こうなると、自己愛の発展系としての国家愛へ至る過程を再検証せねばならないことになる。要点を整理すると、1・国家愛とは支配階級のイデオロギーであって、被支配階級にとっては幻想なのか。これに取って代わるものが国際愛なのか。2・被支配階級にとって敢えて国家愛を求めれば祖国愛と云うべきで、両者は識別されるべきものである。3・被支配階級の祖国愛と支配階級の国家愛とはどこかで共通しどこかで背馳しているという関係になっているのか。凡そこれらの判別が必要ということになる。
 これに、れんだいこは如何に応えるのか。まず、家族愛、血族愛をベースにした自己愛を肯定しようと思う。この自己愛が如何なる昇華過程を辿るのかが通説とは異なる。これを説明しよう。自己愛は、自己の内省に向う幅と奥行きの質に応じて他者の中に類的共同性を見出す。但し、一般的な類的共同性ではなく、自分と似たような気質、気性、性格、環境の者により強く共鳴する。いわゆる「似たもの同士」を愛するようになる。これを「同好的姻戚関係」と名付けようと思う。

 補足すれば、人と人とは、「己を愛しないものは、人を愛することができない。己を愛すれば、人をも愛するようになる」という相関関係にあることになろう。もう一つ補足すれば、自己愛とエゴイスムとは違う。エゴイズムとは、本質的に他者の幸を顧みず、共存共生関係が視野に入っていない思想であろう。

 ところで、世間は広く、「非同好的姻戚関係」も広く存在する。この時、自己愛は、「同好的姻戚関係」の者と誼を通じ、「非同好的姻戚関係」の者に対しては「されて嫌なことはしない」適度の距離関係で通交しようとする。留意すべきは、自己愛、「同好的姻戚関係」の者、「非同好的姻戚関係」の者の三者関係は廻りまわって互いに共生関係にあるということである。これを分かりやすく云うと、「個性差は相互に排除し合うものではなく共生関係の華であり、補完し合っているあっている」。補足すれば、この共生関係を顧慮しない社会制度は修正されるべきで、時に改良により時に革命的に新秩序が創造されるべきであろう。

 さて、問題はこれからだ。世の中(社会)は、自己愛は、「同好的姻戚関係」の者と誼を通じ、「非同好的姻戚関係」の者とで構成されている。この仕訳けは、気質、気性、性格、環境別のものに過ぎない。実際の社会は更に、階層的ないし階級的に構成されている。この階層ないし階級は本質的に共生面と抗争面との矛盾関係に在り、自己愛の昇華過程はこれに大きく影響を受ける。ある意味で、自己愛の昇華過程と階級的矛盾関係が重畳的な構造になっている。こう複眼式に視座を据えるべきであろう。

 この構造の中で、愛国心、民族主義が芽生えてきている。それは、人間の思惟活動が高次になる必然の過程であり、これを抑える訳にはいかない。愛国心、民族主義の基盤には、れんだいこが「れんだいこの国家論」の中で述べた「巨大なオマンマ体系」があり、その上向関係において「支配被支配的関係を包摂した階級矛盾」が機能している。この只中での愛国心、民族主義をどう捉えるのかが、いわゆる「愛国心、民族主義問題」となるべきであろう。

 してみれば、「愛国心、民族主義問題」はかなり高度な理論対象ということになる。これを一面的に称揚したり、拒否してみても何ら解決しない。実際には、個として始まり、集団として始まり、階級として始まる「愛国心、民族主義問題」として多義的に位置付け、それぞれの情況に応じた意義において称揚したり、拒否すべきでは無かろうか。

 但し、指針とすべき道筋はある。それは、人類の共生共存関係の構築に立脚し、それぞれの自己愛がより充たされる社会へ向けて処世化すべきであるという公理を確立し、これに反する傾向に追従せず、抵抗し、情況が促せば革命的に雪崩れ込む運動を組織していくべきであろう。

 2004.1.8日 れんだいこ拝

【「愛国心の実体」の哲学的考察】
 「愛国心、民族愛」は、次の4項から構成されているとする指摘を受けた。面白いまで書き付けておく。氏に拠ると、1・愛府心、2・愛民心、3・領土愛、4・歴史風土愛が、 「愛国心」の実体であると云う。1の愛府心の府とは幕府の府であり、時の権力ということになる。よって、権力に対する忠誠という意味になる。その他は文字通りに解すればよい。

 2006.10.31日 れんだいこ拝


2289 返信 Re:ナショナリズム考 今は名を秘す 2003/01/05 23:32
 「革命的祖国敗北主義」はレーニンの立場によるもので、帝政ロシアは「諸民族の牢獄」と呼ばれ、そのなかで抑圧民族である大ロシア人の一員であったがゆえに、レーニンは被抑圧民族の解放には留意してきました。ロシア革命においては、民族自決の権利が承認され、ソビエト連邦の結成に際しては連邦離脱の権利は認められていたということです。

 そして、レーニンとスターリンの対立はまさに連邦の形態と各共和国の地位、主権(自治化)の問題をめぐって発生し、それは具体的にはカフカスの民族問題をめぐって激化、レーニンの死後にスターリンが独裁者となるなかで、極端な中央集権化と民族の抑圧、ロシア語やキリル文字の強制と急速なロシアへの同化が進み、独ソ戦争(大祖国戦争と命名される)のなかでロシア民族主義は全面化、そのなかでボルガ・ドイツ人やクリミア・タタール人、トルコ系メスヘチア人やチェチェン人などのカフカスの諸民族、朝鮮人などに対する民族丸ごとの強制移住が行われています。


 レーニンは次のように述べている。1913年に「真の民主主義の条件のもとでは、学校を、民族別に分割しなくても、母国語による母国史などの教授の利益を完全に保障することができる」(「ロシアの学校における学生の民族的構成、民族問題に関する批判的覚書」)。

 国際人権宣言第三条「自己の選択した言語を自由に使用することについての、及びこの言語を教えることについての権利を全ての個人に承認することは全ての国家の義務に属する」(1929.10.12日国際法学会ニューヨーク会議で採択)。

 「朝鮮人の民族的教育に対する圧迫は、実は日本民族自身の民族教育圧迫に通底している。これは一人教育の分野だけの問題ではない」。



Re:「左翼概念論」 今は名を秘す 2003/02/06
> > 「左翼」という言葉は「人民」とか「労働者」という言葉と極めて密接なイメージが付きまといますが、果たして、日本を例にとるならば「人民」とか「労働者」という部分はメジャーに存在しているのでしょうか?

> > れんだいこさんが提起された「左翼概念論」ですが、左翼が対象とする相手は日本の場合何になるのでしょうか?(ウヨクのイメージは国体護持というのがまだ使えそうですが。)

>  そろそろバシッとした左翼とは論をどなたか展開してくれないかなぁ。民族主義との関わり、ナチズムとの近似性と違和性、階級規定との関わり等々を分かり易く教えて欲しい。ここを突破しないと、左派だとか左翼だとかいっても、イメージするものが段違い過ぎてコミュニケートにならないかも知れんからねぇ。

 民族主義といっても、抑圧民族の民族主義と、被抑圧民族の民族主義を、左翼は分けて考えるということです。左翼は、民族自決権を尊重し、侵略と植民地支配に反対する立場から、被抑圧民族・植民地人民が民族解放と主権の確立のための武器として、民族主義の旗を掲げることを、決して否定しないということです。

 しかし抑圧民族、たとえば日本帝国主義本国人が民族主義を掲げる場合、それは天皇制を前提とし、日本単一民族論を掲げ、過去の侵略・植民地支配を正当化するものになっていますね。

 そうした民族主義と、それに基づく「国益」という概念は、第三世界の被抑圧民族に対する搾取と抑圧を正当化するために機能するもので、左翼が擁護するものには決してなりえない。つまり、日本愛国主義と左翼は決して両立しえないものだということです。

 日本共産党は「対米従属論」の立場に立っています。しかし日米同盟は日本の支配階級がみずからの立場の強化のために便宜的にアメリカとの軍事同盟を主体的に選択しているのであって、第三世界の人民の押し付けられた「従属」とは全く異質のものです。

 イタリア・ファシズムは独占資本、大金融資本、さらには王家、協会、大土地所有などの封建的諸勢力と結び、そのいっぽうで似非社会主義の綱領を掲げ、一定の「反資本」の装いすらこらして、独占資本の搾取に苦しめられていた中産階級の反資本主義的感情さえも巧みに利用し、それによって起こる内部的矛盾、混乱を暴力や戦争政策によって解決するという方向性をもっていたわけです。

 これは、ナチスにも見られ、ナチズムは「国家社会主義ドイツ労働者党」というのが正式名称で、やはり「社会主義」の偽装をしています。もちろん、その名称の割には基本的に国家主義のみが実行され、社会主義はほとんど実行されなかったということです。ナチスは、国家権力ではなく、党として活動していたころには、労働者階級に近づく道を発見することはまったくできず、大ブルジョアジーのなかに資金面でヒトラーを支援する者もいたが、そのいっぽうで小ブルジョアジーの絶望を組織したということです。


Re:「左翼概念論」 れんだいこ 2003/02/07
 今は名を秘すさん皆さんちわぁ。はっきりとした見解披瀝が為されておりますので助かります。以下、コメントつけさせていただきます。

> 民族主義といっても、抑圧民族の民族主義と、被抑圧民族の民族主義を、左翼は分けて考えるということです。左翼は、民族自決権を尊重し、侵略と植民地支配に反対する立場から、被抑圧民族・植民地人民が民族解放と主権の確立のための武器として、民族主義の旗を掲げることを、決して否定しないということです。

> しかし抑圧民族、たとえば日本帝国主義本国人が民族主義を掲げる場合、それは天皇制を前提とし、日本単一民族論を掲げ、過去の侵略・植民地支配を正当化するものになっていますね。そうした民族主義と、それに基づく「国益」という概念は、第三世界の被抑圧民族に対する搾取と抑圧を正当化するために機能するもので、左翼が擁護するものには決してなりえない。つまり、日本愛国主義と左翼は決して両立しえないものだということです。

 これについてですが、れんだいこが思うに次のような論理展開のほうが適切ではないでせうか。まずは、民族主義につきなべて第一義的に認める。つまり、抑圧民族、被抑圧民族の区別を設けず、誰しもどの民族も自愛すべきだ。次に、その必然論理で、「被抑圧民族は民族主権と自決権の回復を勝ち取るべきだ。植民地状態からの独立運動を正のベクトルとみなす」、「抑圧民族には、優越的排外主義的民族主義と対等的国際主義的民族主義の相克が運命付けられており、左派は後者の線での民族主義を称揚すべきだ」。結論として、「責任ある民族主義の見地が国際主義に繋がるような民族主義にして国際主義運動」を構築していくべきだ。

 つまり、「民族主義を、左翼は分けて考える」、「日本愛国主義と左翼は決して両立しえない」とするのではなく、上述のような絡みにおいて理解し直すべきではないでせうか。この観点の必要は二度と、第一に、コミンテルン的絶対指導に服してはならないという意味で、第二に、天皇制的暴力的な一億一心的指導に拝跪してはならないという意味で必要ではないでせうか。

 考えてみれば、戦前の共産主義者は徒に国際主義運動に憧憬し過ぎていたのではなかろうか。むしろ、民族主義、愛国主義的観点から自国政府の軍事路線、経済路線、大衆生活圧迫路線に対し論を対置して、「その道は間違いである」とその非を警鐘乱打していくべきではなかったか。「自由・自主・自律」的精神を称揚し大衆的喧喧諤諤運動の盛り上げに精進していくべきではなかったか。その限りで、コミンテルン的一元的指導なぞ必要ではなかった。あくまで、民族主義、愛国主義的観点を確立しえて後の関係造りで十分だった。

 もし、そのような運動が展開できていたなら、仮に弾圧に次ぐ弾圧で逼塞せしめられていたとしても、日帝の敗北に際して逸早く決起し、「見よ、俺達の指摘した通りの結果になったではないか。お前達はどう責任をとるつもりか。連合国軍の対応如何でこの国家、民族は消滅されるであろうが、指導者族は総懺悔総蟄居せよ。我々は再び闘わねばならない」という声明ができていたはずだ。当然、獄中主義者の解放は、ポツダム宣言受諾声明と同時に獄内外の呼応によって為し遂げられていたはずだ。それに対し、支配層は茫然自失のていで為す術も無かっただろう。

 残念ながら史実はそのようには運ばなかったけれども、その原因の一つに、自国と民族に責任を持つ運動を確立しえていなかった故に、何らかの指示待ち族にさせられていた悪癖があったのではなかろうか。実に、戦前の党運動、大衆運動、戦後のそれもまた失敗に帰した要因には、この辺りの観点間違い、習性が起因しているのではなかろうか。

 以上、民族主義について発酵しつつあるれんだいこ観点を披瀝して見ました。


Re:愛国心、民族主義と国際主義の相関関係 れんだいこ 2003/12/27
 2003.12.27日、人生学院掲示板において、蓼食う虫さんから、「さざなみ通信 一般投稿から」という表題で、「さざなみ通信」に投稿されている「横山涼平様」(2003/12/24 天邪鬼)に対するコメントを求められた。「日共宮顕―不破系の理論的特質の考察、2・現状規定の反動的狙い、3・「二つの敵論」の狙い、を観点にれんだいこ史観による評論を求めます。虫にも判るようにお願いします」とある。

 本来、「さざなみ通信」http://www.linkclub.or.jp/~sazan-tu/index.htmlで為されている遣り取りであるので、筋論から言えば「さざなみ通信」で継続すれば良いとも思う。が、れんだいこは久しく登場していないので、急に割り込むのも気が引ける。その内容を見るのに、「愛国心と国際主義の問題」、「日本の防衛問題」という一般問題を取り上げているので、当掲示板で引き受けても良いかと思い急遽書き込むことにした。

 天邪鬼氏の投稿は、横山涼平氏の2003.12.21日付け投稿文「日米安保条約解消」に対するre投稿となっている。そこで、横山涼平氏の投稿文に目を通すと次のような内容になっている。

 「日米安保条約はペリー来航以来の不平等条約です。日米安保条約は日本国土に米軍が駐留して日本防衛を勤めると書いてありますが、その裏では日本の属国化を狙っています。これは同時に日本国民の愛国心を失くさせようとしているのです。愛国心と聞くと極端に軍国主義の復活だ。と勘違いしている人がいます。愛国心というのは日本以外の国はどこでも当たり前なのです。しかし日本はGHQの洗脳で愛国心=軍国主義=悪となってしまっているのです。

 まずこれを解消するには日米安保条約を解消して、米国と日米友好条約の締結を締結する必要があります。また同時にアジアとの共同体制も確立する事が大事です。また日本共産党に考え直して欲しいのは自衛隊放棄です。ある政治家がこういいました。防衛力を持たず敵に攻め込まれたらどうしますか?と質問しました。政治家はこういいました。降伏すればいい。といいました。こんな暴言は許されません。日本の防衛力は時と共に拡大していく脅威に対しての防衛力をもつ必要性があります。またなぜ軍を悪と決め付けてしまうのですか?自衛隊はあの帝國軍とは違います。防衛軍なのです。自国の安全保障は自分たちの力で確立するのが真の独立国です」。

 ここでは、次のように論理が組み立てられている。
@・日米安保条約の本質は、日本の属国化にある。
A・その体制は、日本国民の愛国心を失くさせようとしている。
B・愛国心は尊ぶべき自然な感情であり、軍国主義礼賛とは別物である。
C・GHQの洗脳で、愛国心=軍国主義=悪とされてしまっている。
D・日米安保条約を解消して、米国と日米友好条約の締結を締結する必要がある。
E・アジアとの共同体制も確立する事が大事。
F・防衛力をもつ必要がある。
G・自衛隊は帝國軍とは違い防衛軍である。
H・自国の安全保障は自分たちの力で確立するのが真の独立国である。

 れんだいこが論評すれば、古典的右翼愛国者風の素朴稚拙な見解であるようにお見受けする。「B・愛国心は尊ぶべき自然な感情であり、軍国主義礼賛とは別物である」の指摘のところが生き生きしているように見える。

 これに対し、天邪鬼氏が2003.12.24日付け投稿文「横山涼平様」で次のように応答している。相手が少年風であることを考慮して優しく諭すように対話している。しかし、この応答にも内容的に問題が認められるので、これを解説付きで読み解くことにする。

 Dの「日米安保条約を解消して、米国と日米友好条約の締結を締結する必要がある」に対して、「甘いですね。日米安保条約は事前協議で1年前に通告すれば解消できることになっています。で、条約ではそう書いていても、ハイそうですかとアメリカが引き上げると期待するとしたらあなたはあまちゃんです」と述べている。

 (れんだいこ見解) この応答は正しい。この辺りにつき日共党中央は誤魔かしているが、安保条約解約を通告すれば解消するなどというものでは無かろう。こういう弱悩化理論を意図的に吹聴しているところに、宮顕―不破系日共党中央の犯罪的役割が認められる。

 続いて、「かりに民主連合政府ができて、その政府が日米安保条約の破棄をアメリカに通告すれば、アメリカが全軍事力を日本に投下するのは間違いないでしょう。その攻撃と破壊はイラクの比ではないでしょう。だがそれでもなお日米安保条約を破棄しなければならないのです。だから安保破棄という限りよほど腹を据えねばなりません。安保条約破棄は日本人民とアメリカ帝国主義の死闘になる以外にありません」と補足している。

 (れんだいこ見解) この観点も正しい。

 続いて、「だから日本共産党は安保条約を『凍結』するのです。日本革命は日米安保条約破棄と一体のものでしょう。安保条約をなくする以外に日本革命はないのです。だから平和革命などは夢のまた夢ですが、そういえばおそらくこのさざなみ通信に三角波が立つでしょう。民主主義革命なんて臆病者の主張にしか過ぎません。さて反論がきてからこの話は続けましょう」と述べている。

 (れんだいこ見解) 「だから平和革命などは夢のまた夢」との観点を披瀝しているが、この見解は明らかに日共のそれでは無い。故に、天邪鬼氏が日共系の者では無いことが判明する。

 次に、Bの「愛国心は尊ぶべき自然な感情であり、軍国主義礼賛とは別物である」に対して、「愛国心!まさかあなたのような10代の人からその言葉を聞くとはびっくりしました。郷土愛ならわかります。ふるさとが懐かしいという気持ちならば私にもあります。愛国心と郷土愛とは別のものです」と述べている。

 (れんだいこ見解) この応答は正しい。

 続いて、「だが各国の人が愛国心を持ちすぎていて、かれらのそれぞれの国と国の利害が対立すれば戦争しかないではないですか。そんな時、愛国心は軍国主義以外に進む道がありますか。抑圧民族の愛国主義は侵略主義なのです。反対に被抑圧民族の愛国主義は反植民地主義、民族独立の思想です。だから日本人が愛国主義を唱えれば反対しなければならないが、イラク人民が愛国主義を唱えれば断固支持しなければなりません」と述べている。

 (れんだいこ見解) この見解は、いわゆる左派運動の従来式の常識的見解そのままであろう。

 但し、れんだいこは、この説を採らない。 愛国心という言葉で考察すると問題がややこしくなるので、もっと一般化して民族主義と言い換えて考察してみたい。果たして、民族主義に抑圧民族だとか被抑圧民族だとかの区分が必要であろうか。れんだいこは、そうは思わない。

 如何なる民族も己のアイデンティティを尊ぶべきで、相互に認め合うべきでは無かろうか。「抑圧民族の民族主義、愛国主義は侵略主義になり易い」が、それは封建的ないしブルジョア的なものが鼓吹されるからであり、生産階級の愛国主義又は民族主義は国際主義的に連帯し得るものであり、侵略や戦争を好まない。

 「被抑圧民族の愛国主義は、反植民地主義、民族独立になり易い」が、それは諸悪の根源的に民族ないし国家の独立が侵されていることを見据えての賢明な対応によってそうなる。被抑圧民族の愛国主義又は民族主義も国際主義的に連帯し得るものであり、侵略や戦争を好まない。

 つまり、どちらにしても侵略や戦争を好まない訳で、それがなぜ侵略や戦争に向うのかというと、そこにマルクス主義的な資本主義体制の分析理論が学ぶに値する。これを手短に云えば、「資本主義の無限大的資本増殖化過程が必然的に国家・民族間の利害衝突を呼び込み、それが戦争行為、侵略行為へと導く」という事になるのでは無かろうか。

 続いて、「本当は働く人たちにとって国家なんかないほうがいいのです。国があるから戦争があります。共産主義社会は国家のない社会です。なぜなら階級のない社会だから暴力機構である国家は消滅するしかないのです。共産主義者はそのような社会を目指しています」と述べている。

 (れんだいこ見解) この応答は不正確であるが、いいたいことは分かる。

 続いて、「国家とは何でしょうか。階級支配のための、荒っぽく言えば、国家は道具なのです。支配階級が被支配階級を制圧するための暴力機構が国家なのです。国家は警察と軍隊と法律によって成り立ちます。どの国でも国家を転覆する行為に対して重罪にする法律を持たないない国家はありません。すべての法律は支配階級が被支配階級を抑圧するためのものです。それは階級社会が生まれてからずーッとそうなのです。これらを総合して暴力機構と呼びます。ですから愛国とはこの支配階級の暴力機構を愛することに他ならないのです。日本共産党も愛国心を標榜しますがもってのほかです」と述べている。

 (れんだいこ見解) これも、この見解は、いわゆる左派運動の従来式の常識的見解そのままであろう。

 但し、れんだいこは、この説を採らない。 「国家は階級支配の道具であり、本質的に暴力機構である」という観点は、半面の真理でしかない。もう半面は、「当該国家の支配階級と被支配階級の階級闘争的釣り合いの中にあり、法秩序ないし政治情況はそれを反映している。拠って、この振り子がどちらに傾きつつあるのかが不断に争われている」という観点が必要では無かろうか。

 意味するところは、「政治は生き物であり、これを担う政治的主体によって歴史が創られつつあり、よって世の中は弁証法的に揺れ動いている。故に、政治参加は何人も事情の許せる限り権利であり義務である」という観点が欲しいということだ。

 続いて、「したがって『労働者階級に国家はない』とマルクスが看破し、第一インタナショナルのテーゼにしたのです。ナショナリズムこそは帝国主義の思想であり、インターナショナリズムこそがプロレタリアートの思想として掲げられるべき旗です。この重要なテーゼに日本共産党は背反しています。はじめは右翼日和見主義として、今日では社会排外主義として労働者人民の前に立ちふさがるようになったと私は考えています」と述べている。

 (れんだいこ見解) これについて、れんだいこは次のように思う。云いたいことは分かる。しかし、マルクスの「労働者階級に国家はない」発言はどの文献で確かめられるのだろう。恐らく、庶民大衆の我々にとって、ブルジョアジーに喧伝されるような排外主義的国家には用がない、騙されるなという警句で云われているのでは無かろうか。

 つまり、「労働者階級に国家はない」を文字通りに理解するのは正確を欠いているのでは無かろうか。れんだいこの知るマルクスの国家論は、その階級支配性と将来における死滅の展望である。これ以外の「有る無し」発言は知らない。

 続いて、「だから、だからイラク戦争において反植民地闘争に立ち上がるイラク人民とイスラム世界の人々に敵対するしかないのです。彼らの崇高な反植民地闘争をテロだといってはばからないのです。それならばすべての革命はテロになり、そのようにいうならば反革命でしかありえません。若しも暴力革命のすべてを否定すればフランス革命も、ロシア革命も否定せざるを得ず、近代資本主義もなければ社会主義もないし、帝国主義支配は永遠のものになります」と述べている。

 (れんだいこ見解) これは日共党中央の「テロ見解、国連に委ねよ見解」を批判している。その限りで正しい。「それならばすべての革命はテロになり、そのようにいうならば反革命でしかありえません」はゼツ正しい。

 続いて、「帝国主義間の戦争において『降伏すればいいのです』という政治家がいればそれは正しいのです。祖国敗北主義といいます。レーニンによって徹底的に批判されたカウツキーに対する評価は『祖国擁護主義』でした。だから日本のマルクス主義者は不破氏をカウツキーとさげすんで呼びます。祖国擁護主義はマルクス主義の敵です」と述べている。

 (れんだいこ見解) この応答は不正確であるが、いいたいことは分かる。

 但し、れんだいこは次のような注釈を付けたい。「祖国敗北主義」を「帝国主義間の戦争において『降伏すればいいのです』という政治家がいればそれは正しいのです」的なセンテンスで捉えるのは基本的に間違っている。

 レーニンの「祖国敗北主義」は、生産階級が帝国主義間戦争に巻き込まれず、逆にこれを利用して社会主義革命を引き寄せるために「革命的祖国敗北主義」を呼号し、実際に10月革命まで漕ぎ着けたのであり、そこが素晴らしい。ただ単にそれぞれの国々の生産階級に「降伏主義」を宣伝したのでは無い。それは非常に危険な戦略戦術に陥る危険性がある。

 続いて、「労働者階級にとってその国のブルジョアジーの利益のための戦争は関係がありません。かってに資本家同士が甲子園で殺し合いをすればいいのだよ。国が負けようが勝とうが万国の労働者にはそもそも国家なんかないのですから関係ありません。自衛隊なんかいりません。自衛隊は帝国主義の軍隊ですから。しかも資本家のための軍隊だから解体する以外にありません。だが労働者の軍は必要なのです。ただし反革命を制圧するための軍です。革命の過程で労働者階級は武装する以外にないのですから、反革命に対抗するための労働者の軍隊がそのとき結成されていななければならないでしょう。それは自衛隊と異質のものです」と述べている。

 (れんだいこ見解) これはかなり危険水域に入った発言のように思える。

 れんだいこは、この観点とは基本的にスタンスが違う。「国が負けようが勝とうが万国の労働者にはそもそも国家なんかないのですから関係ありません」と云われると、マルクス主義の読み方の初手まで遡って議論せねばならない必要を感じる。マルクスは、そんな馬鹿げた結論を出していないし、マルクスが云おうが云うまいが馬鹿げ過ぎている。

 生産階級は、ブルジョアジー間の戦闘に大いに関心を持ち、それを革命戦略戦術の中に利用していかなければならない。これが、革命闘争の生きた弁証法であり、この観点を欠落させると「祖国敗北主義」は悪利用されることになろう。

 自衛隊解体論、革命軍創出論を云うことは結構だ。しかし、誰が、どういう機関で、権威で、反革命規定し得るのか、ここを切開しないと歴史から何も学ばなかったことになる。その為に史実の検証をやり直し工夫を引き出す必要がある。しかし、現に何も出来ていない、これを痛苦に受け止める感性と知性がないと、「自衛隊解体論、革命軍創出論」も虚々しい。結局、何も語っていないに等しい。

 続いて、「『防衛力を持たずに敵に攻め込まれたら』という敵とはどこの国のことですか。すでにアメリカ帝国主義に攻め込まれ60年近く支配されているのに二重支配ですか。 横山さんは十代の学生さんだからもっと勉強ができますね。どうかレーニンの『国家と革命』岩波文庫にありますから読んでくださいね。ついでに『帝国主義論』も読んでいただければおおむね私の言うこともわかるでしょう。よいお正月を迎えてください。天邪鬼より」と述べ、結びとしている。

 (れんだいこ見解) れんだいこは、「防衛力を持たずに敵に攻め込まれたら」という仮想問答は必要と思う。この時、だから自衛隊、米衛隊、国防の必要論に掠め取られるのではなく、その前に非軍事的・国際協調的・平和外交的に為し得る限りの手当てをしてきただろうか、と問い直したい。

 戦後憲法はそれを指針しており、曲がりなりにもこの指針通りに国家を舵取りしてきたから戦後復興と未曾有の高度経済成長と諸外国からの高い評価を受けてきた。この戦略は成功したのであり、今もってその価値は損なわれていない。むしろ、諸外国は戦後日本の歩みから学び取り、これを手本に「金食い虫軍事からの決別」に向おうとしているのが昨今の状況だ。それをなぜに逆方向へミスリードされねばならないのか、誰がこれを仕掛け、これに誰が群がろうとしているのだ、ここを問いたいと思う。

 既に、我が国の累積過重債務と経済無策ぶり、軍事防衛予算の突っ込みぶりを見れば、これは狂人の行為に等しい。誰がこんな無茶な方向に招こうとしているのだ。今や、これを後押しする勢力との非妥協的聖戦こそ待ち望まれている。「小泉頑張れエール」をこれ以上贈り続ける者がいれば、右同罪として歴史責任文庫の中に記帳しておかねばなるまい、 マジそう思う。

 2003.12.27日 れんだいこ拝


Re:愛国心はむずかしい、うんそれについてのれんだいこコメント 2004/04/14
 蓼食う虫さん皆さんちわぁ
> 木村氏が、批判されている観点はここいらでしょうかね?
> 高潔な人士としての形容で阿修羅に書き込んだのですが、おこられました。
> 確かに、危険な言葉ですね。

 これですが、れんだいこのこのところの関心は、「愛国心、愛民族心」についてマルクスはどのように説いていたのかに向かい、「共産主義者の宣言」、「ゴータ綱領批判」の精読に向かいました。原文の独語では叶わず、英文で確認しました。

 それによると、「愛国心、愛民族心」を封建的意識から奏でることは論外として退けているように思います。しかし、「愛国心、愛民族心」を放棄させる遣り方で国際主義に殉じるように説いているのかというとそうではない。

 それぞれの自国民が自国の革命を「愛国心、愛民族心」の観点から取り組むのは当たり前としている。しかし、「ブルジョアジー対プロレタリアートの最終的二大階級決戦」では、プロレタリアートの解放闘争は、必然的に国際主義と通底するような遣り方で担われることになる。

 ブルジョアジーの対封建闘争は排外主義的「愛国心、愛民族心」の中でのイニシアチブ闘争として展開された。そして勝利した。しかる後、ブルジョアジーは一定の国際主義を生み出す。なぜなら資本主義的競争が国内市場のみならず必然的に国際化していくことになるから、それに応じた国際主義を生み出していくことになる。

 しかしながら、ブルジョア国際主義は所詮自身の自身たちの自国の権益を優先するために生み出されるものであって「真の諸民族友愛的国際主義」にはなりえない。いわゆる矛盾がそこに介在する。

 プロレタリアート解放闘争は、ブルジョア国際主義のそういう限界を突き抜けて歴史上初めて立ち現れる「諸民族協和的国際主義」として担われることになる。それは、各国の「愛国愛民族主義」の道筋を通じて同時並行的に共同的に達成される。

 ここにプロレタリアート解放闘争の歴史的意義がある云々というようなことになるのではないかと思われます。

 従って、我々こそが「真の愛国心、愛民族心」を兼ね備えているのだとして、支配階級及びその諸政策と正面から対峙していく運動が望まれているように思います。しかしながら、史実に立ち現れたマルクス主義者のそれは、「愛国心、愛民族心」を云うのは体制側の運動であるとしてこれから背を向け、専ら国際主義的観点から、実際にはソ同盟本国主義的コミンテルン運動に拝跪していった。

 お陰で、支配階級側は、無人の荒野を行くが如く「愛国心、愛民族心」プロパガンダ運動を手中にし、左派ないしその同調者に対して「この非国民め」的弾圧を「正義の名と心情」においてなし得ることになった。

 当時の左派運動者はこれに抗する術を持ち得なかった。なぜなら、時局柄切迫するところから生み出された相互に愛国主義的な帝国主義戦争イデオロギーに対して「エアポケット」に陥っていたから。この作風は今日まで続いているようにも思われる。

 日本赤軍系の特によど号事件派は逸早くこの隘路から脱出できたように思われる。それは、北朝鮮へ行くことにより、朝鮮民族の主体思想による国家建設の実態を見てはたと気づかされた面では無かったか。(朝鮮労働党の支配体制及び諸政策のよしあしはここでは問わない)

 今塩見氏はこの観点にしっかりと立つようになっているように思われる。それは恐らく田宮、小西らと幾度も論じた末にもたらされた観点では無かろうか。結論的に云えば、左派風愛国心と愛民族主義の観点の獲得である。この観点があまりにも弱すぎたのが、日本左派運動の宿あではなかろうかと。

 れんだいこはここまでは観点を一致させている。ここから更に観点が分岐し、れんだいこはもはや明治維新のひれを民族的偉業とみなし、戦後の保守本流を形成した自民党ハト派系の肯定的見直しまで辿り着いている。それは余算ごとだが一言しておく。

 2004.4.14日 れんだいこ拝

 追 塩見氏が「一晩集中して書き上げた」とあるので、れんだいこも酔眼ながら集中して書いてみました。


再び(ドキ!) 蓼食う虫 2004/04/15
 れんだいこさん こんにちは
 れんだいこさんのエアーポケット説考えさせられました。「愛国心」について、このサイトでは、数年間論議されています。しかし、いまだにキッチリと決着しているようにもおもえません。比べて、塩見氏はキッチリとした観点で、「愛国心」を使用しているように思います。

 第一に、塩見氏自身が労働者民衆第一主義に立脚し、具体的に活動されているなかで使用しているからです。
 第二に、我が国の客観的条件の中での使用ではあろうが、マルクス主義における普遍的位置づけにまでも、止揚しているのではないかと推察される記述があるからです。

 私は、この度、はじめて「愛国者」なる表現で「箕輪氏」を表現してみました。その結果二つの具体的リアクションを受けました。ご存知のとおり、「粗雑な表現である。」というリアクション、つまりすんなりと受け入れられなかったと言う意味で失敗。もう一つは、「国家大事主義」というリアクションです。

 <参考引用>木村さま
 阿修羅の投稿読みました。
 驚きました。その前の方ので、ほ〜と思っていたところでした。
 頭の中での整理ができませんが、そういう志は、多分政治的な意図ではなくて、日本国大事主義の良き変容みたいな感じなのでしょうと考えました。
 明治維新を担った世代は楽屋裏がうすっぺらなベニヤ板であったことを知っていた。しかしそれでなんとか保ったのは、足らない分を人が埋めたからだ。悲しいことだが、とかなんとか司馬遼太郎が書いてましたがそういうことかもしれないなど思い出します。------引用ここまで-----

 ここでいう、その前の方の、が「蓼食う虫の投稿」です。ほう〜の内容はわかりませんが、結論は上記のとおり。「足らない分を人が埋めたからだ。」このような大衆の気分の或いは、空気の上に、薄っぺらなベニヤ板があり、楽屋の上で、維新のブルジョワ革命がなされたという見解でしょう。

 「たぶん政治的な意図ではなく・・」は、スロウーガン的拙文が、すんなりと受け入れられたという意味で実践的に正しいと思いました。

 「失敗」と「成功」いうリアクションから、「愛国心」の多岐にわたる論議として深化させる必要性を感じました。実践的に使用し検証するためにも、それこそ、ブルジョワ的使用とプロレタリア的使用があろうし、私には、むずかしい!!国家学説の歪曲に対する対抗手段としても、国家学説とキッチリ結びつけての「愛国心」の論議再開を望みます。とくに、このサイトに興味を示された全ての皆様の率直な論議を期待しております。

 何故なら、反動的イデオローグのサイト支配に腹が立つからです。そして、自分自身の知力のなさを実感するからです。


【近藤栄蔵の国家意識の強さ指摘考】
 近藤栄蔵は「コミンテルンの密使」の中で次のように記している。
 「私がプロフィンテルンで仕事をする間に感づいたことの一つは、いかに国家意識なるものが強いかということだった。インターナショナリズムの旗の下にプロレタリアを代表して集まった者の間に、国民的意識がわだかまっていて、第一プロレタリア世界革命の為の協働に支障をきたしてはならぬとは云わずと知れている。にも拘わらず、実際に於いては、我々各国のプロレタリア代表は各々個別の勝手な意見を吐き、お互い同志隣国の運動を非難し、国を異にする同志のあら探しに興味を持ち、共同戦線をサボる傾向さへ示したのである。要するに、各国代表の現実の国民的意識が、理想のインターナショナリズムより強かったのだ

 特にドイツ代表とフランス代表との間の対立は面白いほどだった。両国のブルジョア政府は、鎬を削って争っている。その裏を掻いて両国のプロレタリア運動は、一致団結して双方ブルジョア支配を打倒するというのが公式である。ところが実際には、プロレタリア代表も、ブルジョア外交官に負けずに、鎬を削って相争うていた。意見の相違ばかりではなかった。性格上の相違も面白く目立った云々」。

【インターネットサイト】


【関連著作集】

参考文献

『〈民主〉と〈愛国〉』小熊英二 新曜社 2002

『〈日本人〉の境界』小熊英二 新曜社 1998

『歴史と民族の発見』石母田正 東京大学出版会1952

『続 歴史と民族の発見』石母田正 東京大学出版会1953

『神奈川大学評論』38号および39号 2001年 「人類史的転換期のなかの歴史学と日本社会(上下)」

『日本国民論』ユン・コンチャ 筑摩書房 1997

『丸山真男集』第8巻 岩波書店1996年 「日本におけるナショナリズム」

『相関社会学』第5号 小熊英二 1995年 「忘れられた民族問題」

『石母田正著作集』第16巻 1990

『歴史としての戦後史学』網野善彦2000

『中央公論』1959年 4月号 加藤周一「民族主義と国家主義」

『ナショナリズムを読む』状況出版 1998

『検証 内ゲバ』いいだもも他 社会批評社2001年  

『マルクス主義と民族自決権』丸山敬一 信山社出版 1989

 【戦後思想の主な4つの潮流】[7]

・戦前リベラリスト 保守派「心」グループ:和辻哲郎・津田左右吉・田中耕太郎など

・戦前リベラリスト 民主主義的知識人:南原繁・矢内原忠雄・末川博・横田喜三郎など

・「近代主義者」 西欧的近代市民社会理論:丸山真男・大塚久雄など

・日本共産党 マルクス主義者

 前者2つが「実証主義的歴史学」、マルクスには一定の理解を示しつつマックス・ウェーバーなど非マルクス主義に依拠する丸山・大塚、マルクス主義歴史学

[1] 『相関社会学』第5号 1995 「忘れられた民族問題」小熊英二

[2] 例えば 榊利夫「レーニンと自決権」 不破哲三「科学的社会主義と民族自決の原則」 佐々木一司ら「社会主義と民族自決」などいずれも『前衛』

[3] 『マルクス主義と民族自決権』丸山敬一(1989年 信山社出版)

[4] 『ナショナリズムを読む』(1998年 状況出版)第1部『マルクス主義と民族問題』上条勇 

[5] 『検証 内ゲバ』 いいだもも 他 (2001年 社会批評社)

[6] 『歴史としての戦後史学』 網野善彦(2000年 日本エディタースクール)

[7] 『日本国民論』ユン・コォンチャ (1997年 筑摩書房)





 

(私論.私見)


マルクス、エンゲルスにおけるロシア帝国に対する特殊な敵意。


姜尚中氏が語る『愛国の作法』
市民記者とディスカッション
記者名軸丸靖子
2006-10-25 11:29
 
 声高に愛国心教育が叫ばれるなかで、「愛」と「国」のそもそも論に挑む『愛国の作法』(朝日新書)を刊行した政治学者・姜尚中氏が24日、オーマイニュースを訪れ、編集部と20代の市民記者4人の取材に応じた。執筆の動機には「品格とか美しいとか、あまりにも中身のない言葉が氾濫(はんらん)していることへの違和感があった」と背景を語った(一問一答の詳細は後日掲載します)。


■きっかけは「愛国心」■

――『愛国の作法』は今月、朝日新聞社が創刊した「朝日新書」の刊行第1号となっている。もともとは編集者側が憲法改正についての執筆をもちかけてきたが、姜氏から「国の愛し方か、愛国の作法というのはどうですか」と逆提案、「『国家の品格』(藤原正彦著・新潮新書)も売れているし、いいじゃないか」と話が決まった。

 「愛国心について書いてみたいと思った理由は、大きく4つあります。まず、このままでは『愛国』という言葉が特定の、はっきり言えば右側の人々の専売特許になってしまうという恐れがあったこと。『愛国』という言葉の内実を問いただし、特定のイデオロギー論を論じる人々を達観しないと、『平和』や『人権』という言葉が力を持たなくなると考えました」

 「2つ目は、問題山積のイラク戦争をどう見るかということ。大量破壊兵器国連査察団の人を東京大学の授業に呼んで講演してもらったときに、『自分はパトリオット(愛国者)だ。愛国だから反戦なのだ』と発言されていたのが非常に印象に残っていたのです。3点目が、こうした問題を『在日』である自分が書くことの意義ですね」

 「最後に、今、必要とされている『愛国』という言葉も、いつか役割を終えるということがありました。そのときに、北朝鮮問題を含めた東北アジアの姿が見えてくるのではないか、『愛国』という言葉の彼方(かなた)に、ある種の地域主義の姿が示されるのではないかと思ったのです」

――同書では、愛国論の前に「愛するということ」や「国というもの」について正面から論じている。また、カバー折にある「『改革』で政府によって打ち捨てられた『負け組』の人々ほど、『愛国』に癒やしを求めるのはなぜか」という1文では、愛郷心と愛国心を混同し、反中・反韓の排他主義に傾く現代社会の病理も指摘している。

 「『愛国心』というわりに、愛するということが論じられていないから、きちっと書いておこうと思いました。『品格』とか『美しい国』とか、あまりにも中身のない言葉が氾濫していますが、僕は“そもそも論”をやりたかった。そうした中身のない言葉を比較的無理なく受け止めている人たちの内側にあるものは何なのかと思ったのです」

――国の愛し方について丹念に掘り下げた同書だが、愛国心を教科書的に定義しているわけではない。「これは『私の国の愛し方』について書いた本。この『私の』という点にこだわった」と姜氏は語る。実際、五輪招致をめぐって石原慎太郎・東京都知事から「怪しげな外国人」呼ばわりされた経験は、しっかりと本書のあとがきに引用している。

 また、本書にたびたび登場する安倍総理の論文『美しい国』については、あえて著者名を割愛し、「美しい国の著者」と遠回しに表現することで批判も込めたという。


■核拡散抑止に日本が果たすべき役割■

――大学で国際政治などを専攻していたという市民記者から、姜氏が学生のころの政治思想へのスタンスや歴史認識についての質問があった。また、同書にある「戦争の総括が成されていない」という下りについての質問に対しては北朝鮮の核問題に言及した。

 「実際に戦争の歴史を総括するのは非常に難しい。しかし、靖国問題がなぜここまでこじれたのかは、結局は東京裁判の総括が戦後、成されていないという問題に帰着します。戦後復興をスムーズに実施するために、進駐軍と一種のコラボレーションがはかられ、結局、深く議論されることはなかった。満州の植民地化、沖縄問題、アジア諸国が受けた被害、天皇訴追、原爆も同様の問題です」

 「現在、被爆国として核が持つ害悪を米国に知らせる義務が日本にはあるのに、日本はその義務を果たしていません。日本は米国による核の傘の下にあり、その一方で広島・長崎の過去がある。その立場から、核兵器の危険について世界へ知らせる義務があるのです」


■オーマイニュースの進む道■

――最後に、韓国発のオーマイニュースが日本で発展する可能性について話題になった。韓国と日本のメディアの違いとして、韓国では新聞への信頼性が低く、それがインターネットを発展させる背景になったと言われている。だが、日本ではそれが逆の状況にあるとして、「韓国のオーマイニュースと同じことをしていてはダメだろう」と姜氏は指摘した。

 「ただ、日本では新聞への信頼性はあっても現実に読まれていないという状況があり、日本のオーマイニュースは踏み込んでいけるのではないか。市民記者ともオンラインだけでなく、こういった顔を合わせるオフラインのつながりを充実させていくことが大切だと思う」


<姜尚中(カン・サンジュン)氏>
政治学者、東京大学大学院情報学環教授。1950年、熊本県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。著書に『ナショナリズム』『在日』など。


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