325832 れんだいこの雇用企業主義論考

 (最新見直し2007.5.3日)

 関連サイト【あっしら氏の労資関係新論

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこは、新しい体制概念として「雇用企業主義」なる概念を創案することにした。これは、「従来の資本主義対社会主義論」に疑問を覚え始めたからである。従来のそれは、国有化論を廻る色分けで論ぜられてきているように思われるが、それがナンセンスと確信したことによる。本来の社会主義、共産主義論はいうなれば社会化論であり、国有化論ではなかったという観点から更に押し進めて、ならば社会化論とはどういう意味かを突き詰めることにした。そこから生まれたのが「雇用企業主義」なる観点である。

 これによれば、マルクスが展望した「社会の社会化による社会主義論」とは要するに、企業の民営国営に拘るものではなく、むしろ雇用及び利益分配の合理的在り方問題となるべきものであり、それは国営と私営の棲み分けによる企業の合理的在り方問題となり、従来式の利潤による企業評価ではなく雇用の質量による企業評価となるべきであり、これらを総合勘案してして「雇用企業主義」なる概念で捉えたほうが分かり易い。

 れんだいこはそのように考え、爾今当分「雇用企業主義の諸問題」を考察していくことにした。こうなると、マルクスの搾取理論を手直しせねばなるまい。疎外化理論を新たな視点から捉え直さねばなるまい。最終的には、資本論に代わる企業論を書き上げねばなるまい。

 2006.6.23日、2007.5.3日再編集 れんだいこ拝


Re:労働者とは(2) れんだいこ 2003/02/26
 上海バンスキングさん皆さんちわぁ。例のお二人方、ご三人方の遣り取りはなかなか終息の気配が無いですねぇ。むしろ面白がって赤勝て白勝てで加勢する者まで現われております。どういう結末になるのやらねぇ。他所の掲示板での経過まで持ち込み始めるとややこしくはなるのですが、致し方無いのかなぁ。少々燻りつつあります。それはそれとして上海バンスキングさんの投稿内容にコメントつけて見ようと思います。

> ですからストよりも経営協議会なんです。「従業員証」保持クラスの全ての従業員が株主・役員、国家相手に産業転換の戦いを行うべきなのです。

 れんだいこは、この問題に関心があります。「経営協議会」ないしは「生産管理委員会」化の是非論になる訳ですが、その前にマルクスの資本論の読み直しの必要を感じております。学生時代に読んでいるだけの知識しか無いので頼りなくもどかしい。マルクスの資本論は結局何を解明しようとしていたのか、そこのところを追跡したい気分です。

 先だって、広西元信氏の「資本論の誤訳」で刺激を受けたばかりなのですが、れんだいこの理解に拠れば、広西説曰くマルクスは国有化理論は説いていない、資本及び企業の社会化を指針させていたのが実際だ、といことになるようです。ちなみにエンゲルスは、マルクスのこの観点を共有することが出来ず、どちらかというと国有化理論に道を開いたきらいがある、ということになるようです。

 この説が正しければ、レーニン主義に導かれたロシア10月革命とその後の建国革命史は社会主義の青写真において重大なところで非マルクス主義的路線を指針させていたという欠陥を持っていたことになります。この欠陥が、その後のソ連史に大きく影響を与え事実致命的となった、という事にもなります。もっとも、広西説による「経営協議会」化指針は、この問題意識から始まったにしては非常に右翼的な結論に導いたものでしかなく、結論から見ると味気ない。が、観点の斬新さは注目されるのではないかと考えております。

 れんだいこ理解に拠れば、「社会主義社会とは、資本主義社会に較べて資本及び企業の社会化を合法則的に促進させた社会である」ということになります。とすれば、それは社会全域に「生産管理委員会」を設立していく方向が指針となるべきではないか、ということになります。つまり、労働側が生産管理及び経営管理能力を身に付けていく漸次的発展が視野に入れて置かれねばならない、というようなことになります。

 もっとも、実際には、下部構造的経済システムをそのようにリードしていくには上部構造の政治的働きかけとマッチせねば効率的にならず、つまりはワンセット化で推し進められねばならない、つまり革命という事業手法を通してしか実現し得ない、と読み取るべきでせう。どちらが先かではなく同時並行的な流れで実現していくべきである、というようなことになると思います。恐らく、マルクスは、こういう目線で社会主義社会をイメージ化していたのではないでせうか。

 以上の観点からすると、労働組合の目的は、資本側の横暴に抗する運動、資本家の経営能力水準を労働側が獲得し、より合理的な企業経営能力を身につけることが責務となると思います。分かり易く云えば、投資家、資本家、管理職を不要とするような労働側による自主管理型企業経営能力を創造せねばならない。労働運動の本義はここにある、というようなことになるのではないでせうか。それと並行して政治課題に対する取り組み、上部構造を下部構造に相応しいものに転換せしめていく運動が必要となるのではないでせうか。

 ところが、実際にやってきた労働運動は非常に矮小なものでしかなかった。革命的にやるにせよ労資協調的にやるにせよ、反発か屈服かという二者択一的な機械的なものでしかなかった。自主管理的な発想はとんとなかったから、最後には雇用主である資本側に敗北せざるを得なかった。それは、ある種不毛な大地での闘争ないしは協調でしかなかった。

 分かりやすい例で、戦後のスーパーマーケットの躍進を挙げてみる。スーパーマーケットは当初スーと出てパーと消えると揶揄されていたが、その予想に反して全国的に勃興し、次第に集合が進み今日段階まで至った。その功績として物資流通の社会化を大いに高めたという面があると思います。

 このスーパーの功績に対し、左派運動は如何なる対応を見せたか。日共運動は、中小零細の権益を守れという観点から進出反対運動しか対置できなかった。新左翼系がどう対応したのかは知らない。というか、何も理論を持たなかったのではなかろうか。しかし、今日歴然としていることは、全国各地へのスーパーの進出により大衆生活が極めて高度にコントロールされていることである。

 それを思えば、そのリーダー役であった中内功の功績は計り知れない。その中内氏がポイ捨てされ更にイジメられようとしている姿は可哀想でならない。ダイエーはまもなく外資の手に落ちるであろうが、怒りが禁じえない。政治に携わる上層部が馬鹿だとこういうことになる。ものの道理が分からない連中を政治の要職に就かせてはならない、ということになる。

 話を戻して。つまり、我々は目下の資本主義体制下にあっても、全域全方面において古い芽と新しい芽を識別し、より合理的社会化の流れを促進せしめていく運動に着手すべきではなかろうか。捨てられる古い芽は、事業転換や一層の事業特化を促すべきであり、そのことにより生き延びるならばこれを政策的に支援すれば良い。いたずらな誘致反対進出反対は何の功も無かろう、むしろ害悪である。

 近時の民営化の動きもこの観点から照らせば、ナンセンスということになろう。公共目的の強い事業はむしろ公営化で何ら問題なく、問題なのはその公営事業体の体質の近代化、合理化であろう。これにメスを入れることなく民営化してみても、それは新たな利権の場になるだけだろう。中曽根式戦闘的労組運動の解体を策しての民営化論なぞ滅茶苦茶というべきだろう。

 話が戻っていなかったので正式に戻す。上海バンスキングさんが既成の労働運動に納得し難きものを感じるのは正論であろう。戦前も戦後も目下も何がしか重要な観点を欠落させたまま推移しており、為に労働貴族を跋扈させてきた。その種の運動は似非であり、労働運動の内部から排撃していくべきだろう。留意すべきは、左派的にこれを行う場合、明日の社会の責任者主体としての観点からこれを行うべきであり、単に資本と激しく抵抗した故をもって事足れりとしてはならないだろう。それは一歩であり、そこから先が問題だろう。

 以上、まとまりを得ないかも知れませんが私見を述べてみました。


【れんだいこの労使関係新論】
 【あっしら氏の労資関係新論】の感想をメモっておく。

 マルクスは、「共産主義者間の宣言」で階級闘争論をぶち上げ、資本論で剰余価値説を詳細に説いて見せた。れんだいこは、経済学論的には理解できていないのであるが、この学によって引き起された実践に対する論評は出来る。れんだいこの見るところ、剰余価値説とは、「賃金生存費説を前提とした不払い労働の搾取論」であり、マルクスが労働者階級に資本家階級に対する闘いの武器としてこの論拠を与えた功績は意義あるものである。

 れんだいこに云わせれば、このことには問題ない。何事も理論が無ければ始まらないので、ここは認めねばならない。問題は、労働者階級がこの論拠をあたかも全面的真理と看做して良いものだろうかということにある。それは戦う武器ではあるが真理とは違うという弁えが欲しい。丁度地球儀のように、見る位置と視点の角度によって図形が違って見えてくるのと同様である。

 資本家階級には別の風景がある。経営者にも別の風景がある。労働者階級の風景がある。そういう意味で、それぞれの論拠を刷り合わせ練り合わせねばならない。そういう作業が残っているのに、それをせずに一つの論拠を押し付けていくのは、いわば専制に陥ったことになるのではなかろうか。剰余価値説はあくまで労働者階級側に立った時の真理であり、この真理は一面的相対的なものでしかないことを踏まえないと危険である。戦後日本左派運動の莫大な非生産性、運動的消耗性は、この愚昧に陥ったまま抜け出せないことにあるのではなかろうか。

 では、我々は、「剰余価値説」や「階級闘争史観」の弊害からどう抜け出すべきか。ここが肝腎である。通り一遍のことを云っておけば、れんだいこは、労資紛争を否定せんとしている訳ではない。それはもっと盛んにするべきである。労働者階級はもっと団結すべきである。争議すべきである。しかしながら、何と闘うのかをはっきりせねばなるまい。ここが肝腎だと申し上げておる。

 1・賃上げに終始すべきか、2・生活改善を目指すべきか、3・その両方を目指すとしてどう取り組むのか。4・経営参画をめざすべきか、5・生産管理に向うべきか、その折衷形態が在るのか。6・政治的運動に取り組むべきか。7・その際、政府批判に向うべきか、8・体制変革に向うべきか、労組運動と大衆団体運動と政党運動をどう仕分けし、連動させるのか。そういうことについて、もっと理論と指針をうちたてねばならない。

 戦後左派運動は、この作業を怠慢したまま今日を迎えているのではないのか。闘った歴史は刻印されている。しかしながら、その闘いが次に生かされたのか。戦後左派運動は、勝利的に前進しつつあるのか。事実は逆ではないのか。かっての陣地よりも大幅に後退しており、現に今は解体寸前の風前の灯火にあるのではなかろうか。なぜ、こういう事態が生まれたのか、ここを痛苦に反省せねばなるまい。

 ここから、れんだいこの「労使関係新論」が生まれる。思うに、労働運動は、「職域生産点、労働点の持ち場持ち場の闘い」を原基とすべきである。この陣地戦での闘いは、「賃金生存費説を前提とした不払い労働の搾取論」に基づく剰余価値説に随うべきだろうか。れんだいこは、労働側としてはこの観点を保持しつつ、経営側資本側の観点をも聞き分け、何らかの妥協運動として持続的に展開していくべきと考える。

 その理由として、労資の利害対立が、果たして根源的な利害対立と言えるのかということである。総合的に考えねばならないとしても、その大部分は政治に譲り、労働運動は労働運動の原点として、職域に於ける労使関係のより適正な在り方模索に向うべきではないか。企業単位で見れば、労資には「同じ釜の飯」的要素もあるのではなかろうか。

 労使関係は果して真に対立しているのかどうかということである。「剰余価値説」や「階級闘争史観」に基づき「根源的な利害対立」を煽られているが、実際には疑問がある。理論的には、自由市場に於ける他社競合との関係で、或いは国際的競業との関係で、「同じ釜の飯を食い合う」立場に在るとも認められる。

 社内に於ける地位、職務の差にも幾分かは適正職能分掌の面も認められよう。適正職能分掌されていなければ、在るべき姿に為すべく闘えば良いのではなかろうか。これがこじれて紛争が長期化泥沼化するのも致し方ないというべきだろう。しかし、してみれば、何がしか適正職能分掌されていれば、労使関係には元々対立と協調が有り、それを踏まえつつより合理的在り方を求めて永続革命していくべきではないか。その果てにこそ共同社会が待ち受けているのではなかろうか。このレベルが低い段階での弱者側の団結、交渉、争議権は大いに認められ煽られるべきである。それが社会進歩ではなかろうか。かく認める観点が望まれているのではなかろうか。
 次に、マルクスの剰余価値説(利潤搾取説)の限界を見ておく必要がある。労資がれんだいこ的弁証法による対立と協調を繰り返すことにより、社業が発展し、その結果労働者の生活条件と労働条件が改善され中産階級といわれる新社会層が生み出されていったとする。この場合当然企業にも相当以上の利益が蓄積されている。お互い良しという訳である。これを仮に「進歩的経営論」と仮称することにする。

 歴史的に見た場合、戦後日本の高度経済成長期に、この「進歩的経営論」に立脚した理想的な労使関係の発展が見られた。「進歩的経営論」に支えられた企業活動が営まれている時には、それに応じた観点と論理が生み出され、その経営学に応じて社業の発展へと導かれていった。そういう時代が戦後日本に現出し、「世界で最も成功した産業国家である日本」と云われる時期があった。

 れんだいこは、戦後日本をプレ社会秩序と看做す仮説を持っているので、次のように言い直すことが出来る。戦後日本のプレ社会主義は、政権与党自民党のハト派グループの舵取りにより、世界で最も成功した産業主義国家日本を創出した。当の日本はこのことをほとんど自覚しないまま60年代、70年代を疾駆した。田中ー大平同盟はこの時代の象徴である。その田中ー大平同盟に対してロッキード事件を狼煙として数次にわたる鉄槌が見舞われ、80年代初頭の中曽根政権登場により政府自民党はタカ派の手に握られることになった。

 ハト派からタカ派の転換は同時に産業主義国家日本の解体の始まりでもあった。この間、ねじれハト派系とみなせる竹下、宮沢、細川、羽田政権も生まれてはいるが、基本的構図として次第にタカ派主流化過程での変動でしかなかった。2006年現在に於いて稀代の米英ユ同盟拝跪型シオニスタン小泉政権が5年有余の治世にあり、日本経済は気息奄々状態にある。

 尻切れトンボでは有るが、一応以上述べておく。
 

【労働観の再吟味をせねばなるまい】
 以上の関心を引き継ぐには、労働観の吟味をせねばならないと思う。「果たして、労働はどうあるべきで、労働者はどう待遇されるべきなのかなのか」を問う考察である。れんだいこの見立てるところ、マルクス主義的搾取論には妙な癖がある、ということが次第に分かってきた。労働生産物の分配には搾取的なそれもあろうが、合理的な分配もあり、事業経営者即資本家即搾取者とするのは暴論ではなかろうか。我々が闘うのは、搾取的分配に対してであり、合理的な分配については、より合理性を見出すべく対立と協調を編み出していくべきではなかろうか。のべつくまなき搾取論を振りかざしは実態にそぐわない。れんだいこはそう考えている。問題は、これを論証する企業論の書上げだろう。

 2007.5.3日 れんだいこ拝

【山折哲雄氏の「東洋流『見えざる手』追求を」・考】
 2007.5.1日付日経新聞経済教室に、山折哲雄氏の「東洋流『見えざる手』追求を」が掲載されている。これにコメントしておく。

 イントロで次のように述べている。
 「近代日本の企業家精神には、儒教や仏教、神道の伝統が影響している。アングロサクソン流の資本主義とは別の、そうした東洋的な価値尺度を提示できる経済学体系が求められている。『見えざる手』を操る神とは、西洋的な一神教ではなく、八百万の神々かもしれない」。

 この問題意識はかなり貴重と受け取らせていただく。れんだいこ的には「アングロサクソン流」とあるところを、「ユダヤ・パリサイ派商法流」と書き換えるが、ここではそれほど大過なかろう。

 冒頭、山折氏は、経済学者の佐和隆光、野村證券元社長の田淵節也との対話を紹介し、「見えざる神の手」談義している。これを受けて、渋沢栄一、出光佐三、松下幸之助の3名の経済活動に内在していた精神について分析し、渋沢栄一の儒教、出光佐三の仏教、松下幸之助の神道との絡みについて言及している。そして次のように述べている。
 「日本資本主義の発展に尽くした三人の人生と事業を顧みると、儒教、仏教、神道の伝統が影を落としていることが分かる。その流れが、中国文明を受け入れた和魂漢才、西洋文明を受容した和魂洋才という日本人の生き方そのものであったことを忘れてはならない。むろんこれら三人の背後には、近世の石田梅岩や二宮尊徳のような存在が控えていた。梅岩の『心学』(経済倫理)ゆ尊徳の『報徳仕法』(計画経済)の考え方が、陰に陽にかれら三人の行き方や企業精神に影響を与えていたであろうことが推測される。いってみれば、それこそが、八百万の神々たちによる見えざる手さばきだったのではなかろうか」。

 続いて、日本の企業家が、西欧の旧約聖書的一神教的契約観念に準じつつも、日本教的多神教的報恩感謝精神で折り合いをつけていった「それぞれの事業経営で二重帳簿的な会計処理を行ってきた」のではないかと指摘している。

 その他縷々述べながら、次のようにも指摘している。
 「いつも気づかされるのが、その国際会議の土俵には一本の黄金の尺度しかおかれていないということだった。西欧社会の方から持ち出されてきた普遍主義という名の黄金の尺度である。もうそろそろ、我々の側からするもう一つの尺度があると声を上げてもいいのではないだろうか。『土俵は一つでも、尺度は二つ』という主張である。アングロサクソンのいう普遍的価値に対してアジアの側からさしだすもう一つの普遍的な価値尺度といってもよい」。

 山折氏のこの指摘は、英語論日本語論にも通用する。案外貴重な指摘ではなかろうか。

 2007.5.3日 れんだいこ拝




(私論.私見)