325513 第二インター分裂時のドイツ共産党の様子

 (参考資料)
 http://www.kitanet.ne.jp/~takashi/1bu-kyou/1bu-kyou-018.htm参照、引用

【ドイツ社会民主党の対応】

 ドイツ社会民主党が、社会主義鎮圧法(1878〜90年)下の非合法状態から解放された直後の帝国議会選挙(1890.2月)において、一挙に投票総数の約20%、35議席を獲得する。その後、「民主主義とは何よりもまず政治的自由と議会主義を意味するに至った」として、マルクス主義に民主主義的概念の尊重という重点移動を見せた。

 ベルンシュタインは、社会の革命的転覆の戦略とプロレタリアートの階級独裁の思想(あるいは資本主義の崩壊と社会革命の必然的到来をひたすら待機する思想)に代わる「不断の前進」の戦略――改良の戦略を提唱する。だが、この「改良の戦略」は反面、現存する社会体制と国家機構、運動体の組織や思想の持つ巨大な既成性に日常的に取り囲まれていること、またそれらにある程度「取りこまれる」ことなしには、それらを利用することもできないこと、その結果、この戦略主体自身がこの「既成性」の一部に知らずして変容してしまいもすること、という新たな悪魔的矛盾に社会民主党を捲きこむのである。

 1907.8月シュトゥットガルトで25カ国、884名が参加して第二インターナショナル第7回大会が開かれた。この時、理論的未解決問題として植民地問題と軍国主義及び戦争反対に関する問題が話し合われた。この理論的解明は、迫り来る欧州の戦争に対してどのような態度を採るべきかという切実な課題としてのしかかってきていた。

 
中央派が提起した決議草案には、「大会は、植民地政策を、原則的に、またいついかなる時にも排撃するというのではない。なぜなら、社会主義体制のもとでも、それは文明の利益に役立ち得るからである」と書き込まれていた。レーニン、ローザ・ルクセンブルクらが反対派に廻り、108票対127票で否決されたものの、第二インターナショナル内の足並みが崩れ始めていた。

 第一次世界大戦への突入前のドイツ資本主義の帝国主義的発展過程で、ドイツ社会民主党多数派は、議会主義的改良主義的色彩を濃厚にしていた。カウツキーは、超帝国主義論を唱え、帝国主義は世界的な平和をつくりだすとさえしていた。第一次世界大戦前夜でもある1912年帝国議会選挙が行われ、社会民主党は34.8%の得票率、110人の国会議員を獲得し、院内最大政党となる。驚くべき躍進を遂げている。

 当時の社会民主党は一枚岩の政党ではなく、凡そ6派に分かれていた。多数派は、べーベル、カウツキーらの「マルクス主義派」であり、右派はベルンシュタインらの修正改良主義派、フォン・フォルマールらの改革主義派、イデオロギー論争無関心派とも呼ぶべき純実践派に分岐しており、左派にローザ・ルクセンブルクやフランツ・メーリンク、カール・リープクネヒトらが位置していた。これらが人望熱いべーベルによって「行動主義」のもとに一応の団結を保っていた。

 1913.8.13日にこの党をうまく束ねてきたべーベルが死去する。翌1914.7.28日オーストリアがセルビアに宣戦布告、次いでロシアがセルビアを助けて参戦し、これにドイツがロシア、並びにその同盟国フランスに宣戦、フランスが応戦し、イギリスもドイツに宣戦布告、ここに第一次世界大戦が勃発した。

 第一次世界大戦が勃発するや、各国の第二インターナショナルに結集する社会主義政党は当初は帝国主義戦争反対を表明していたが、次第に自国政府の戦争を支持し始め「祖国防衛戦争」と位置付けることになった。帝国主義国家間の戦争ではあっても、民族間の戦争という様相を帯びており、国民が「総動員」化が始まると国際主義の理念は振り捨てられることになった。必ずしも侵略する側と防衛する側の戦争という図式では収まらなかったということでもある。各国それぞれの民族意識は、自国を擁護もしくは賛美するかわりに他国の民族を差別し、抑圧してかまわないとする民族拝外主義となって高揚していった。そのナショナリズムに社会主義者も巻き込まれていった。

 このグループは、ドイツ社会民主党、イギリス労働党が代表する。ドイツ社会民主党の場合、権力の中枢に接近しうる議会多数派勢力となっていたので与党責任が伴っており、国を挙げての聖戦気運が盛り上がりつつあるときにこれに抗することはできなかった。帝国主義間の戦争ではあったが、好戦国化しつつあったドイツにおいては、その政府に強力な発言権を確保していた社会民主党は世論に追い込まれるかたちとなった。こうして、シュトゥットガルト(1907年)、コペンハーゲン(1910年)、バーゼル(1912年)での誓いは投げ捨てられた。

 これに対し、そうした方針に反対して帝国主義戦争反対を唱えたのは、ロシアとセルビアのマルクス主義政党だけであった。ロシアでは、レーニンが概要「プロレタリアートは祖国を持たない」、「帝国主義戦争を内乱に転化せよ! これが唯一正しいプロレタリア的スローガンである」、「真のインターナショナリズムとは、『祖国防衛』を名目にして、フランスの労働者がドイツの労働者を打殺し、ドイツの労働者がフランスの労働者を打殺するのを是認することにあるのだろうか!」と主張し、国際主義の旗を護った。「第一次大戦を契機として決定的に社会排外主義に転落した、第二次インターナショナルのカウツキー等の指導理論にたいして、革命的祖国敗北主義を掲げて、戦争の革命への転化をおしすすめていかんとする国際的党派闘争の一環でもあった」(「国家と革命」)と位置付けられている。

 1915年3月ドイツ社会民主党は、自国の戦費調達のための国債発行という戦費案に社会民主党内多数派は賛成投票するという形で「祖国防衛」方針に転換した。この時、リープクネヒト、リュネーの二人の反対、30名の棄権退場が為された。修正主義者のベルンシュタインがこの戦費調達に反対していることが注目される。概要「祖国の危機に当たっては祖国を見捨ててはならない」という論理であった。この論理はレーニンから「社会排外主義」と規定されることになる。「社会排外主義として自己の日和見主義を完成させた」(佐久間元「革命の挫折」)。

 この「賛成」をどう見るのかが、その後の社会民主主義運動の正否を決める大問題となった。このドイツ社会民主党の態度は、諸国の社会主義勢力にもひろがり、第二インターナショナル加盟国の社会民主党などが次々と自国の戦争予算に賛成する事態を迎える。このことから、第二インターナショナルがかかげていた「プロレタリア国際主義」は崩壊し、それはとりもなおさず第二インターの崩壊となった。 

 1916.1.1日、左翼の第一回全国協議会が開催され、「国際社会主義者の任務に関するテーゼ」が採択された。テーゼは、第2インターナショナルの崩壊を確認し、第3インターナショナル創設を要求していた。その数週間後に、「スパルタクス」の変名で、活動を開始した。

 6月リープクネヒトの逮捕に抗議するベルリンのストライキが起こり、いくつかの主要軍需工場をマヒさせている。1917.2月のロシア2月革命の波は、4.16日30万の政治ストを発生させ、ライプチヒ、ハーレなどへ波及していった。

 1917.4月、戦費案に反対を表明していた少数派のリープクネヒト、メーリングらは党を割り、独立社会民主党(USPD)を結成する。反対派機関紙「インテルナツィオナーレ」が発刊され、多数派の政策に反対する見解がプロパガンダされた。この反対派には、フーゴ・ハーゼ、カール・カウツキー、ルドルフ・ヒルファディング、フランツ・メーリンク、ローザ・ルクセンブルク、カール・ループクネヒト、そしてベルンシュタイン、クルト・アイスナーらが参加していた。彼らは、自国の戦争反対で一致していた。


ドイツ革命の挫折考へ続く。