32522 衝撃の誤訳指摘

 (最新見直し2006.7.12日)

 広西元信氏の「資本論の誤訳」(こぶし書房、2002.3.30日再初版)は非常に刺激的である。初版は1966.12.1日らしいが、2002.3.30日再出版され、れんだいこも読む機会に恵まれた。内容は、題名「資本論の誤訳」とあるが、資本論にとどまらずマルクス主義全体のいわば通念化している常識に対して、異議を唱えているところに値打ちがある。その通念常識がどうでも良いようなところのものであれば影響は無いのだが、マルクス主義の根本理解に関わるところに異議を唱えているから、衝撃は重い。主として、「誤訳」でアプローチしているが、それは手法であって、本質はマルクス主義の理解を廻っての論戦となっているところに意義がある。

 非常に幸運だったことは、広西元信氏の「資本論の誤訳」が、れんだいこのモヤモヤを晴らしてくれたことである。れんだいこも、マルクス主義の理解を廻って至るところで齟齬し始めている。もはやマルクス自身の教説、その信徒の教説、流布されているマルクス主義を峻別し、今一度再整理し直さなければならないと思い立っているところであるが、広西元信氏の「資本論の誤訳」はそのモヤモヤに根拠があることを示唆してくれた。そういう意味で有り難かった。思わず読み耽った。その成果を以下記しておこうと思う。

 2003.1.3日 れんだいこ拝


「資本論の誤訳」感想記 れんだいこ 2003/01/04
 今年の正月は、広西元信氏の「資本論の誤訳」(こぶし書房)を読み進めることになった。縁あってインターネットで取り寄せた。まだ読了してないが、早くもこうして感想を記そうというほどに衝撃的であった。れんだいこは、公認マルクス主義に数々の疑問を生みつつあり、それに対置すべくいくつかの仮説を用意している。この場合、ならばマルクスの原典に当たり確認すれば良いのだが、やぶ用というかオマンマ稼業でなかなかそれも出来ない。そういう悩みの中で年が明け、暮れ、また明けてきた。

 こたび「資本論の誤訳」を読んで、「目からうろこが落ちるほど洗われた」というより「ハタと膝を打った」という感じの方が近い。その一つ。所有と占有概念の違いを識別すること。マルクスが、占有概念で社会主義社会を透視していたという指摘に対してなるほどと思った。その二。マルクスの言説の中に国有化概念は無く、むしろ資本主義的株式会社を労働者の生産管理的方向(アソシエーション)へ発展させる必要を遠望していたこと。その限りで、ロシアのスターリニズム的国有化政策指導は何らマルクス主義的でないどころか、反対物であったこと。その三。プロレタリア独裁という概念は、共産党の独裁に道を拓く指針ではなく、社会の支配権総体に対してブルジョア独裁に対置される用語であること、等々が特に共感できた。

 著者曰く、そういう読み誤りが全て「誤訳」から発している。「誤訳」の由来はまた別の考察として、世界中のマルクス主義文献の特徴となっている。数多くの著者を異にする翻訳本が出ているが、共通して「誤訳」している。無知からくるものならともかく頑迷なまでに意図的な「誤訳」もある。その「誤訳」版マルクス主義を前提にして、社会を批判し得々としている知識人が多い、との指摘もなるほどと思った。

 一番為になったことは、れんだいこがこのところ関心を寄せているマルクスとルネサンス精神との絡みであった。本書は正面から問うてはいないが、マルクスがルネサンス精神の空気を吸っておりその雰囲気の中で著作している、その継承者としての立場に有ったことを示唆している。ところが、マルクス主義の後継者はここのところをすっぽり欠落させてしまう。この観点からの研究をもっとしておきたいと思った。

 最後に。マルクスの資本論、その他著作での教説は、意外というか予想以上に具体的な言及をしているのではないのか。当時の社会を踏まえて極めて的確な青写真を用意し、ないし指摘していたのではないのか、そこら辺りを読み直してみたいと思った。

 この理解の仕方に異論があれば、指摘して欲しいと思います。以上感想記と致します。しかしなんだな、本書に拠れば、史上のマルキストというのはみんな偽者ということになってしまう。そういう衝撃本的重みがありますね。


【村岡 到:書評・広西元信『資本論の誤訳』 (こぶし書房)、摂取すべき先駆的な諸提起】
 「カオスとロゴス」編集長・村岡 到・氏の書評「広西元信『資本論の誤訳』 (こぶし書房)摂取すべき先駆的な諸提起」(「QUEST」第19号、2002.5月掲載)を転載しておく。
 1999年末に86歳で亡くなられた広西元信さんのまぼろしの問題作「資本論の誤訳」(1966年)が、こぶし書房から復刻された。編集・解説は国分幸氏(岐阜経済大学教授)。

 1991年のソ連邦崩壊後の反省的思索のなかで、私に深い影響と方向を与えてくれたのが広西さんであった。私が初めて広西さんを知ったのは、92年7月に『マルクス主義の破綻』(エスエル出版会)を手にした時である。一読して深くショックを受けた。レーニン流の国有型社会主義が真正面から批判されていたからである。それで、手紙を差し上げ、当時、広西さんが談話の場として常用していた、有楽町の喫茶店「リプトン」でお会いした。1ヶ月後にリプトンを訪ねたさいにいただいたのが、絶版の『資本論の誤訳』と『左翼を説得する法』であった。

 今度の著作に付されている『場』で、山口勇氏もふれているが、93年1月に「広西さんから話を聞く会」を開いたこともあった。最後にお会いしたのは、99年夏。私が『協議型社会主義の模索』(社会評論社)を刊行したあとで、「ささやかな出版記念だ」と言って、新宿の中村屋で紅茶とケーキをご馳走になり多額のカンパもいただいた。

 × × ×

 広西さんは、『資本論』をドイツ語、英語、フランス語、ロシア語、中国語の各国語版で比較検討して、日本の『資本論』訳者や研究者がいかに基礎的なところで、マルクスの原文の真意を理解していないかを系統的に明らかにした。中でもその核心は、「所有 / 占有」問題の解明に設定されていた。1960年代後半に平田清明が「個体的所有の再建」命題で論壇を騒がせたが、後年、その大半は広西さんが提起していたことを借用したものだと、坂間真人が『情況』誌上で明らかにした。「個々人的所有」問題を核心とする広西さんの提起はなお未解決の難題である。国分氏の「解説」は主要にこの問題に当てられ、広西さんのあくなき思索の変遷を克明にたどり、問題を解明している。私には今のところ、「所有ではなく占有を」というプルードンの標語の方向で考えることが大切だとしか分からない(この問題よりも「価値法則」をいかに揚棄するかが大問題だと考えている)。

 また、今でこそ、レーニンの「一国一工場」論は疑問とされ、「アソシエーション」はそれなりに共通語になりつつあるが、広西さんが『資本論の誤訳』で問題を提起したのは、スターリン主義「全盛」の66年である。「コンビネート〔統合〕とアソシエイト〔連合〕とを同じく結合などと訳す誤訳」を鋭く指摘した。分かりやすく言えば、資本制生産における上からの縦の命令的な関係を、横型の連帯的な関係に変革することが、マルクスの社会主義の真髄なのに、両方を「斜め」と訳したのでは何がどう変化するか不明になるということである〔この問題については、拙稿「『一国一工場』の『通説』が隠していたもの」(前出拙著)参照〕。

 ご子息の義信さんから、父君の書棚を整理していたら見つかったとして送付された新聞の切り抜きによれば、林健太郎が「東京新聞」の「論壇時評」で『資本論の誤訳』に言及していた! 68年にである(10月23日)。チェコスロバキア事件の直後にソ連型の社会主義の限界を指摘する文脈のなかで、前記の平田の論文の寸評と合わせて、林道義がマックス・ウェーバー論のなかで『共産党宣言』の「アソチアチオン」を「株式会社」と訳す解釈をした点を紹介し、その点での先駆的提起が『資本論の誤訳』であることを、林健太郎は明らかにしていた。だが、左翼はごく一部の例外を除いて無視した。この視野狭窄とセクト主義の悪弊がいかに根深いかを痛感する。

 広西さんの最後の到達点は、国分氏が整理しているように、「利潤分配制」の実現に集約される(国分氏はこの「利潤分配制」を「社会主義」だと主張する)。私は、「利潤分配制」は資本制経済の枠内での<改良>だと考えている(拙稿「利潤分配制を獲得目標に」『社会主義へのオルタナティブ』参照)。なお、「利潤分配制」については、私がこの間、推奨している尾高朝雄も1952年に著した『自由論』(筑摩書房)でフェビアン社会主義の紹介と合わせて言及していた。

 他にも、「ステートとナショナルとの混同」問題、『資本論』第49章の「価値規定」の問題などいくつも有益な指摘がある(後者については、最近では不破哲三氏も着目するようになった。不破氏は先行する研究には全く触れないが)。

 私は、社会主義経済については、<経済のアバウト性>を<公開性>と合わせてベースにする必要があると、先年「<協議経済>の構想」(前出拙著)で提起したが、「アダム・スミスの価値論」を述べたところで、この点――アバウト性が論及されていた。直接には失念していたのだが、ここから学んでいたのかも知れない。

 このように、今日、社会主義の新しい展望を模索するためには、避けて通れないいくつもの問題を先駆的に提起していたところに、本書の真価が存在する。<言葉>についてのこだわりと何ものにも囚われない自由な思考がいかに大切かを教えてくれる貴重な一書である。広く学ばれるよう期待したい。




(私論.私見)