3253334 「7月事件」の様子と経過考

 (最新見直し2005.12.17日)只今書き換え中、各方面ご理解頼む。

 以下追跡してみたい。

「四月テーゼ」が全党的承認される
 4.28日、ボリシェヴィキ党の第7回全ロシア党協議会が開かれ、レーニンはみずからが起草した「四月テーゼ」を精力的に説き続け、下部組織からの突き上げと相まって全党的承認を勝ち取る。71票対39票、棄権8票の採決であった。遂に、レーニンは形勢を逆転させ、「レーニンあっての革命」路線へ向かうことになる。但し、社会主義政策の導入や臨時政府打倒については、いつからやるとはまだ公然と宣言するには至らなかった。とりあえずは「全ての権力をソヴィエトへ」、「戦争反対」というスローガンを党の方針として採用したことに意味があった。

 4.24-29日、第7回党協議会で、憲法制定議会の選挙に対する対応が問われた。レーニンは、既に1917年4〜5月中に執筆した「党綱領改正資料」で次のように記していた。
 概要「国家の全最高権力は人民によって選挙され、人民がいつでも解任でき、一院制の単一の国民議会を構成する人民代表に属するところのブルジョア民主主義的な共和国ロシア(「ロシア民主主義共和国」)を目指し、更にここでの議会主義的代議機関は、立法をおこなうとともに自分の法律を執行もする人民代表ソヴェト(さまざまな階級および職業の、またはさまざまな地域の)に、しだいに代えられる」。

 レーニンは、これを「最小限綱領」としていた。すなわち、ここでは、「古い国家機関の破壊ではなく、ブルジョア議会制的代議機関からソヴェトへの平和的な改造」が語られていた。その後の事態の推移と関連して注目に価する。

 この頃までのソビエト内のイニシアチブは、メンシェヴィキとエスエルが握っていた。メンシェヴィキとエスエルは、レーニンの「四月テーゼ」の根幹である「全ての権力をソビエトへ!」スローガンを拒否し続けたが、「四月テーゼ」の発表以来次第にソビエト内におけるボルシェビキの勢力が増大し、民衆によるデモが激化した。臨時政府はボルシェビキを押さえようとしたが、ボルシェビキの勢力は逆に全国に広がっていった。4月の終わり頃には、ボリシェヴィキが多数派になる兆しが見え始めた。


トロツキーがペトログラードに帰還
 5.4日、トロッキーが釈放され、ニューヨークからカナダの収容所を経て、スカンジナビア諸国を経由してペトログラードに帰還した。レーニンより一ヶ月遅れであった。メジライオンツィ(どの分派にも属していない国際主義派の地区間組織)に加わり、ボリシェヴィキと歩調を合わせて活動を開始する。

 トロツキーは、これまで党組織論を廻る対立からメンシェヴィキ寄りの立場を採っていたが、この帰還以降はレーニンと提携していくことになる。トロツキーは、革命を見つめ非妥協的にこれを遂行しようとするレーニンを評価し、帰国早々に「四月テーゼ」支持を表明した。この同調につき、トロツキーは、「我が生涯2」の中で次のように記している。
 「私はレーニンの判断は知らなかった。私は自分自身の前提と自分の革命的経験から出発したのだった。そして私はレーニンと同一の展望を示し、レーニンと同じ戦略的路線を採った」。

 6月、トロツキーが「言葉から行動へ」を書いてボリシェヴィキとの合同を支持した。トロツキーは、その天才的な弁舌によって労働者や兵士をボリシェヴィキの側へとひきつけていき、 以降のボリシェヴィキはレーニンとトロツキーという車の両輪によって引っぱられることになる(トロツキーは、7月末に正式に入党する)。

 トロツキーは、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキの戦闘的な部分と協力、ぺテルブルク・ソビエトの活動に積極的に参加し、その雄弁さにおいても傑出した指導者の一人として認知されていった。ソビエトは、大衆の自立的な行動機関であると共に革命諸派の統一戦線の場であった。この共同戦線上にトロツキーの才能が開花し頭角を現していく。トロツキーは、ぺテルブルク・ソビエトの議長ノサーリが逮捕されるとこれを後継し、指導していくことになった。時に27歳。

レーニンとトロツキーの革命理論の相似と相違考
 レーニンとトロツキーの革命理論及びその戦略戦術には明らかな違いがあった。双方が見解の差を認めつつ噛み合わせてその後の歴史を創っていくことになる。

 この時点でのトロツキーの革命理論の骨子は次のようなものであった。トロツキーとレーニンは、「ロシアの後進性」認識即ち1・ロシアのブルジョアにはブルジョア革命を遂行する意志も力もないこと、2・一方のプロレタリアートもまた弱体なことに於いて一致していた。問題は、レーニンが労農民主独裁によるブルジョア革命遂行、然る後に社会主義革命という青写真を提起していたのに対し、トロツキーは、農民を革命勢力の主体として対等に位置づけるのに反対し、「労働者派主体民主独裁」を唱え、革命政権樹立後直ちにプロレタリア革命の開始に向うべきではないか、としていた。そういう戦略戦術に違いが見られた。しかし、これは若干の違いであり、殊更に論うほどの差異ではなかった。

 ちなみに、トロツキーは、農民問題と革命論の関係を次のように位置づけていた。

 概要「農民は自身が小資産所有者であり小商品生産者であることから常にブルジョアジーとプロレタリアートの間で動揺しており、またその社会的構成が異質である(様々な階層があり、富農対貧農の対立が激しい)。故に、農民全体を糾合するような政策は難しい。つまり、農民全体が一丸となってプロレタリアートに協力することは不可能である。レーニンの労農民主独裁においては、プロレタリアートが農民よりも少数派になってしまう可能性があり、それではブルジョア革命において土地を手にした農民が、そのまま保守化してブルジョアと手を結び社会主義社会建設への道を塞いでしまう可能性が高いであろう。農民の革命性を否定するわけでも、来るべき革命政府に農民を入れない訳ではないが、農民のかなりの部分がブルジョアの側に取り込まれてしまう恐れが予見される以上、真に革命的なプロレタリアートが少数派に落ちる可能性のある労農民主独裁ではなく、あくまでプロレタリアート主体の『農民の支援を受けるプロレタリアートの独裁』でなければならない」。

 トロツキーは、「後進国ロシアに於ける革命と先進国西欧諸国との連動問題」について次のように位置づけていた。

 概要「先進国においてはプロレタリアートとブルジョアジーとの関係調整はかなりよく整っており、両者間の最終的衝突(プロレタリア革命)は起こったことがない。しかし、後進国においては両者間の暴力的衝突を防ぐシステムそのものが未成熟である。従って、プロレタリア革命は先進資本主義国たる西欧よりも後進国たるロシアの方で先に起こり得るのであり、西欧におけるプロレタリア革命はロシア革命を起爆剤としてのみ世界革命として起り得るのである。そもそも、高度に資本主義の発達した西欧の諸国では(世界革命によらない)一国での社会主義建設は困難である。何故ならば、高度の資本主義国家は他国との経済的紐帯が極めて緊密であり、プロレタリア革命を決行した所で、経済封鎖をうければすぐに干上がってしまうからである」。

 トロツキー理論は、ロシア革命を契機とする世界革命の到来を大前提としていた。

 十月革命の直前、トロツキーがアメリカのジャーナリスト・ジョン・リードに語った要旨は次の通りである。ちなみに、ジョン・リードは、十月革命を現場からルポした大作「世界をゆるがした十日間」の著者で、雑誌記者として第一次世界大戦の各戦線を取材し、1917.8月からロシアに滞在した。帰国後アメリカ共産党の創設に参加し、コミンテルンのアメリカ代表にもなるが、20年にモスクワで客死した人物である。

 概要「(プロレタリアート独裁政権を樹立すれば)それはヨーロッパにおける即時平和の有力な要因となるであろう。なぜなら、この政府は全ての国々の頭上を越えて、その人民に直接かつ即座に呼びかけて、休戦を提唱するだろうからだ。平和回復の暁には、ロシア革命の圧力は『無併合・無賠償・人民の自決権』とヨーロッパ連合共和国の方向へ向けられるだろう。この戦争の終わりには、ヨーロッパは外交官によってではなしに、プロレタリアートによって改造されると思う。ヨーロッパ連合共和国つまりヨーロッパ合衆国これでなければならぬ。国民の自治ではもう不十分だ。経済の進展は、国境の廃止を要求している。もしもヨーロッパが諸国家群に分裂して存続するならば、帝国主義はその仕事を再び始めるだろう。ただ、ヨーロッパ連合共和国だけが、世界に平和を与えることが出来るのだ。だが、ヨーロッパの大衆行動なくしては、これらの目的は実現出来ない。さて云々」。

 トロツキー理論の特徴は、ブルジョア革命をそれとして目指すのではなく、ブルジョア革命をプロレタリア革命の中に包摂し、不断のプロレタリア革命によって解決していくという見識にあった。これをトロツキーの「永続革命論」と云う。

 トロツキーは、「永続革命論」に関連して次のようにも述べている。1917.9.7日の党中央機関紙に掲載され、その後一冊のパンフレットとして再版された。

 概要「我々にとって、インターナショナリズムとは、機会さえあればすぐ裏切る為にのみ存在している抽象概念ではないのだ(ツェレテリチェルノフにとってはそうだが)。それは直接に我々を導く原則であり、根本的に実践的原理なのである。全ヨーロッパの革命無くして、我々には永続的且つ決定的な勝利は有り得ないであろう。永久殺戮に対する永久革命! 人類の未来の運命は実にこの闘争に賭けられているだ」。

エスエルの臨時政府支持の動き
 5月、全ロシア農民代表大会が開かれ、エスエルの主導で、臨時政府支持を決議している。 

 5.4日、臨時政府は、ソヴィエト側から強い批判を受けていたグチコフ・ミリューコフらを罷免し、メンシェヴィキ、エスエルから数名の大臣を入閣させ政局の安定をはかった。

【第一回全ロシア・労兵ソビエト大会】
 6.3日、第一回全ロシア・労兵ソビエト大会が開かれ、822名の代議員が参加した。エスエルは285名、メンシェヴィキは248名、ポルシェヴィキは105名の代議員を送り込んでいた。帰国したばかりのトロツキーは、10名の「統一社会民主主義者」派に加わっていた。過半数を占めたエスエルは、臨時政府を支持した。

【ケレンスキーが陸相に就任し、軍事攻勢に出る】

 6月**日、ケレンスキーは陸相に就任し、ドイツ軍に対し軍事攻勢作戦にでる意欲を固めた。まずアレクセイエフを更迭し代わりにブルシロフを据えた。ブルシロフは7月攻勢の目標としてレンベルクを設定し、南西軍(コルニロフ)で前と同じ広正面での浸透をはかる作戦をたてた。しかし年初からすでに脱走兵は200万人を越え各部隊に督戦委員を配置せねば軍隊は動かない状態と化していた。それでも前線にいる兵士は650万人を数えた。少なくとも独墺軍を60%上回る数だった。

 *月**日、攻勢が開始され、またも東ガリシアで独墺軍の前線を崩壊させた。ここから奇妙な状態が生じる。独墺軍は前年の経験から後方の第2線の防御陣地を作りまた第1線は薄く配置していた。独墺軍の撤退はワナに似たところがあった。ところがロシア軍の最前線の兵士はこれを見破ってしまう。6.20日以降、前線兵士とりわけ突撃部隊が前進を拒みはじめた。革命をみて兵士は考える兵士に変わっていた。将校はこの兵士が疑問をもつことを、反抗と解した。奇妙な停滞が2週間続いたあと、独墺軍が7.6日に反攻に出て結局元の戦線に戻って終了した。

 *月**日、ケレンスキーは事態を全く掌握できず、総司令官をブルシロフからコルニロフに代えた。コルニロフは直ちに攻勢の中止を指令し、軍の温存をはかることに努めた。戦争政策の失敗により、反政府デモが激化した。

 ケレンスキーは、ペトログラード守備隊の一部を前線に派遣する決定をした。ペトログラードの機関銃第一連隊がそれに反対し、武装デモをよびかけ、労働者も巻き込んだ。これは「自然発生的な兵士・労働者の武装デモとスト」だった。ボリシェヴィキは当初反対し、中止を説得したが、逆にやじり倒され、途中から支持方針に転換した。


【7月革命】
 以下、宮地健一氏の「『レーニンによる十月クーデター』説の検証」の「3、七月事件のデータ」の項を参照(目下は転載)する。(長尾久「ロシア十月革命」P.159〜162)

 7.3-5日、首都に駐屯する機関銃兵第一連隊が前線出動に抵抗して武装デモを起こし、これに各地の兵や労働者が参加して大規模なデモに発展した。彼らは、ソビエトよる全権力の掌握を要求したが、ソビエトの指導部は協調派が主流であり、レーニンも又概要「時期尚早であり得策でない、待て」と訴えた。デモ隊の半蜂起的決起には「受け皿」が用意されておらず、蜂起隊と政府軍間に戦闘が行われ翌日まで続き、4百余名の死傷者を出した。かくて失敗した。七月闘争は間もなく鎮静化した。7月革命は鎮圧した臨時政府はレーニンらの逮捕を命じ、革命派の弾圧に乗り出した。レーニンはまたもや逃亡を強いられフィンランドに逃亡した。トロツキー、ルナチャルスキー、コロンタイら主要幹部が逮捕された。これを「7月事件」と云う。以下、この経緯を見ておく。

 6.18日、ボルシェヴィキは、50万の労働者、兵士を動員してデモ。これが7.3日の反政府武装デモとなった。

 この頃、「全ロシア中央執行委員会」が結成された。エスエル、メンシェヴィキ、ボリシェヴィキ(35名)、その他小グループを含めた250名から構成されていた。この大会でレーニンは、臨時政府に対して宣戦を布告し、ボリシェヴィキが権力を取る用意があることを主張した。

 7.3日、政府が連合国側の圧力に屈して、ガリシャ戦線での攻勢を開始した。


 7.3日、1万9千名もの大連隊である機関銃兵第一連隊(首都とその近郊に駐屯)が、6月下旬から連隊の一部を前線へ送れという政府命令に抵抗していた。同連隊は、元来はこの問題を討議するために連隊総会を開くことになった。ところが実際には、総会は街頭進出問題を論ずる場になってしまった。「ペトログラード・アナキスト=コムニスト連盟」のブレイフマンは、臨時政府即時打倒、人民大衆自身による権力掌握、全工場の奪取を熱烈に訴え、武装デモを呼びかけた。ただちに武装行動に出ることは、連隊兵士の気分に合っていた。総会は、同日午後五時に武装デモを開始することを決議した。行動目的は、ソヴェート中執委に圧力をかけて、権力を握らせることだった。同連隊は首都の労兵を立ちあがらせるためにオルグを派遣した。

 同連隊のオルグは、ソヴェート中執委とボリシェヴィキ党の双方に反対された。協調派の握るソヴェート中執委が決起に反対したのは当然だが、ボリシェヴィキ党も、パリ・コミューンのように首都が孤立するのではないかという危惧、前線での攻勢進行中に決起すれば攻勢失敗の責任を転嫁されるという危惧から、反政府煽動を強めながらも、直接行動には反対していた。だが機関銃兵の決意は固かった。機関銃兵連隊を説得に行ったボリシェヴィキ党員ラツィスは、兵士には銃剣でおどされ、同連隊臨時革命委員長に選ばれたボリシェヴィキのセマーシコからは、「開始された運動を止めることはできぬ」ときっぱり拒絶された。逆に、機関銃兵のオルグは成功していった。首都の大衆は決起の合図を待ちのぞんでいたのだ。

 同午後7時頃、機関銃兵第一連隊、新レスネル工場、新パルヴィアイネン工場の労兵を先頭として、大武装デモが開始された。軍隊では、モスクワ連隊、擲弾兵連隊、バヴロフスキー連隊、工兵第六大隊、歩兵第一八〇連隊の一部、歩兵第一連隊の一部があとに続いた。労働者の方は、ルースキー・ルノー、アイヴァス、フェニックス、ペトログラート金属、旧パルヴィアイネン、バルト造船、ラジオ電信工場、ペトログラード鋼管、ジーメンス・シュッカート、製釘工場などの労働者があとに続いた。

 デモ隊の一部はクシェシンスカヤ邸(ボリシェヴィキ党本部所在地)に向かい、ここでボリシェヴィキ党幹部数名から、デモを中止して帰るようにという演説を聞いた。「ひっこめ!」という怒号でデモ隊は応えた。ついにボリシェヴィキ党指導者もデモを中止させることはできないことを覚った。その場にいた同党ペトログラード市委員は、緊急に協議し、「組織的」「平和的」なデモをおこなうよう提案することを決めた。この決定が発表されると、デモ隊は嵐のような拍手とマルセイエーズで応えた。この方針転換は、党中委によってもあとで追認された。この間、タヴリーダ宮で午後七時からおこなわれていたペトログラード・ソヴェート労働者部会も、デモ支持を決議し、これに「平和的性格を与える」ための委員会を選出した。この会議が終った頃からデモ隊がここに到着し始め、やがてタヴリーダ宮前はデモ隊でうめつくされた。

 だが、社会協調派のソヴェート権力反対の決意は固かった。深夜から翌早朝までおこなわれた労兵ソヴェート中執委事務局と全国農民ソヴェート執行委の合同会議は、圧倒的多数でデモ隊の要求を拒否し、デモ中止を要求した。この会議の終るまでにデモ隊はしだいに帰っていった。だが夜半頃、タヴリーダ宮でおこなわれたボリシェヴィキ党、メジライオンツィ、ペトログラード・ソヴェート労働者部会の幹部の会議は、翌日再度の武装デモを呼びかけることを決定した。

 7.4日、政府およびソヴェート中央のデモ禁止令をけって、前日を上まわる大武装デモが展開された。この日は、クロンシタット一万をはじめとし、ペチェルゴーフ、リゴヴォ、オラニエンバウム、クラースノエ・セローなどの近郊都市からもデモ隊がやってきた。四日のデモ参加者は、ソ連史家ズナーメンスキーの推定では、兵士四〜六万、労働者三〇〜三五万だった。デモ隊は、一二時頃から続々とタヴリーダ宮に到着し、再びソヴェート中央に圧力をかけた。だが協調派の決意はゆるがなかった。午後五時半に始まった労兵ソヴェート中執委・全国農民ソヴェート執行委合同会議は、二週間後に労兵ソヴェート中執委・全国農民ソヴェート執行委合同会議を地方代表を加えておこなうこと、それまで現政府の権力を認めることを決議した。この間、政府側のカザーク部隊とデモ側の部隊との間で銃撃戦がおこなわれ、死者まで出た。銃撃はこの他何度か起った。

 散発的な銃撃戦までおこなわれる中にあって、政府側武力はまことに弱少だった。政府とソヴェート中央は懸命になって部隊をかき集めたが、4日昼までに、プレオブラジェンスキー連隊、カザーク諸連隊、ヴラヂーミル士官学校から忠誠をとりつけることができただけだった。だが法相ベレヴェルゼフが使った奥の手、つまりレーニンがドイツのスパイであることを「証明」する文書を見せたことから、中立を保っていたセミョーノフスキー、イズマイロフスキー両連隊が夜になってソヴェート中央支持に転換し、タヴリーダ宮に現われた。この時から力関係が変化し始めた。しかも、あまりにも情勢が緊迫してきたため、夜に入るとボリシェヴィキ党はデモ隊に解散するよう説得し、9時頃までにデモ隊はタヴリーダ宮から姿を消した。

 7月革命は鎮圧したケレンスキー臨時政府は、7月革命をボリシェヴィキによるクーデターと断定し、レーニンらの逮捕を命じ、革命派の弾圧に乗り出した。


【7月革命が失敗し、レーニンらが逃亡、トロツキーらが逮捕される】

 1917.7−8月、レーニン、ジノヴィエフはまたもや逃亡を強いられフィンランドに逃亡し潜伏した。レーニンは、農家の庭で木の切り株を机に「国家と革命、マルクス主義の国家学説とプロレタリアートの任務」の推敲執筆に向かっている。レーニンは、同書で「既存の国家機構の横滑り的引継ぎを拒否してソビエトのような新機構を創出していくことによる文字通りの革命」を指針させた。

 政府は、全国で兵士数千人を逮捕した。ボリシェヴィキ幹部(ジノヴィエフ、トロツキー、カーメネフ、ルナチャルスキー、コロンタイら)も逮捕され、お馴染みのクレスチー監獄に収容された。


【ケレンスキー臨時政府のレーニン=ドイツのスパイ批判】

 ケレンスキー臨時政府は、この時、次のような批判をしている。

 概要「レーニンやその他のポルシェヴィキがドイツ政府の回し者であり、ドイツ参謀本部と関係がある。彼らは、ロシア軍隊の敗北とロシアの解体を誘発するためにドイツの金を受け取り、これを請け負っている」。
 「戦争がその最高の緊迫状態に達した、まさにその時に、レーニンがロシアを裏切ったということは『歴史的な、疑う余地無く確定的な、争い難い事実なのだ』」。
 「陸軍少尉エルモレンコは、ドイツの指導部との関係を保つために適切な手段、方法や、入用な資金の取次銀行や、又最重要な地位にあるスパイどもについての、必要なあらゆる情報を与えられていた。そして、そのスパイどもの中には、多くのウクライナ分離主義者の名と、それからレーニンの名があった」。

【ケレンスキーを首班とする第二次連立政府が成立】
 *月**日、東部軍参謀長ホフマンはズロチョフで反攻に出た。約20Kmに亘りロシア軍の前線が崩壊した。ロシア兵は敗走し壊乱に近い状態となった。そのニュースがペテログラードに着くとルォウ首相は辞任した。

 7.8(新暦7.24)日、対ドイツ6月攻勢敗退の報のなかで時局を乗り切るため、ケレンスキーを首相とする臨時政府の新内閣(第二次連立政府)が発足した(7.24〜8.26日)。カデット4、エスエル2、メンシェヴィキ3からなる連立政府であった。第2次連立政府は、「外敵と闘争し反革命より国家を守る政府である」と宣言し発足した。彼はブルジョワとソヴィエトの対立を調停する役回りを演じることで権力を維持しようとした。しかし、戦争継続の方針は変えず、悪化する経済に有効な対策を打てなかった。

 ケレンスキー政府は、これ以上の革命の進展には反対するが、他方で民主主義化を推進しようとした。しかし、この中間主義的な政策は、革命派、反革命派の双方から不満を持たせた。

 7.18日、臨時政府はコルニロフ将軍を最高総司令官に任命、軍隊の刷新をはかった。コルニロフ将軍は、戦闘部隊内での政治的集会の禁止、前線の兵士ソヴィエトの解散・軍紀の回復を求めた。 

 ガリシア東部ではオーストリア軍の前進が開始され7.29日タルノポリに到達した。*月にはいるとドイツ軍第8軍(フーチェル)が冬期と同じくリガで攻勢にでた。今度は逆にドイツ軍がブルシロフの方法をまね強襲部隊による浸透作戦を実験的に導入した。これ以降この方法はフーチェル戦術と呼ばれる事になった。ロシア兵は脱走があいつぎ弱体化していたがそれでもよく戦った。2万人以上の捕虜は出しリガを失ったが、後方で踏みとどまった。

 ドイッチャーは、「ロシア革命50年」の中で、次のように評している。
 「2月体制の政府、リヴォフ公爵の政府とケレンスキーの政府もまた、自由なエージェントではなかった。これらの政府は、ロシアを戦争に引きずり込んだままにしておいた。それは彼らがツァーの政府と同様、ロシアを最後まで協商国側の交戦国としておくことを決意していた、ロシアと外国の金融資本の強力な中心に依存していたからである」。

【トロツキーその他ボリシェヴィキ党に入党】
 7.26-8.3日、ペトログラードで、ボリシェヴィキ第6回党大会が開かれ、この時、武装蜂起による権力奪取を決定した。トロッキー、メジライオンツィその他がボリシェヴィキ党に入党した。トロツキーは中央委員に選出された。

 「七月事件」以後の展開は、革命の平和的発展の可能性についてのレーニンの期待を、いったんは打ち砕いたが、この時期に彼は「立憲的幻想について」を書き、次のような見通しを語っている。

 概要「今日のロシアで憲法制定議会が開かれれば、エス・エルよりも左翼的な農民が多数を占めるであろうから、ブルジョアジーはその近い召集に反対して闘わないわけには居れず、そうなるとソヴェトの勝利のみがその召集を保障するだろう」。

 「ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争の経過と結果が、制憲議会のありかたを規定するのであって、その逆ではない」、というのがレーニンの理解だった。


【コルニロフのクーデター未遂事件】
 8月の後半、ケレンスキー政府の下でロシア軍の最高総司令官に就任した参謀長L・G・コルニーロフ将軍は、反戦を主張するソヴィエトを打倒しなくては戦争指導は難しいと考え、ケレンスキーの協調主義的な態度に不満を抱き、臨時政府と軍指導部との対立が深まった。ペテログラードに前線の軍を派遣しソビエトの打倒をはからねば、有効な戦争指導は難しいと考え、軍の首都への導入を依頼した。当初はケレンスキーもこれを支持し、かくて8.24日、コルニーロフ将軍は、第三騎兵軍団を首都に向けて進撃させた。

 ところが、コルニーロフ将軍が、「臨時政府は即時政権を最高司令官の手中に引き渡せ」と主張し始めた。8.25日、コルニーロフ将軍の反乱が発生した。

 9.12日、ケレンスキーは、コルニロフの軍が首都に近づくにつれ、「コルニーロフ軍が権力の奪取を狙って軍事攻撃によって臨時政府を転覆しようとしている」ことに脅え、反乱と見なすこととなった。

 ケレンスキー政府は一転、この右からの脅威に対抗するため集められるかぎりの左の支持を受け入れねばならなかった。臨時政府の危機にあたって、ケレンスキーはソビエトに「無条件支持」を要求し、ボリシェヴィキに支援を訴えた。各地のソビエトが臨時政府に協力して軍隊の進撃を妨害し始めた。その当時、労働者に配られた四万挺の銃のうち、かなりの部分はボリシェヴィキの赤衛隊に渡ったボリシェヴィキ非合法化が解除され、ボリシェヴィキは、コルニロフと闘うためにケレンスキー政府と同盟を結んだ。

 この時のことを、レーニンは次のように述べている。
 「客観的に見て、この情況から抜け出す方法は無い。残されたのはブロレタリアートによる独裁か、コルニーロフ将軍一派による独裁かのどちらかでしかない」。

 ケレンスキーは鉄道労働者にストを指令し、さらにペテログラードにソビエトの活動家を核とする赤衛隊なる義勇軍を創設した。この反革命との闘争においてボルシェヴィキは指導権を握り、全国に檄をとばし赤衛隊を結成し防衛に努めた。鉄道労働者はロシアで唯一熟練工の組織で臨時政府に忠実だった。反乱軍は鉄道労働者のサボタージュによって立ち往生し、ソヴィエトの工作員の説得を受けて兵士たちは解散しはじめた。元々戦意の乏しいコルニロフの軍は行き場を失い、原隊に復帰していった。

 9.1日、コルニロフの軍事行動は失敗し、コルニーロフは逮捕された。ケレンスキー自ら後任の総司令官となった。「コルニーロフの反乱」は、ケレンスキーと軍部との離反を表面化させた。首都ペトログラードの兵士たちは、無意味な戦争で前線に派遣されることを嫌悪した。「平和=ドイツとの単独講和・戦争終結」を唱えるボリシェヴィキを支持する兵士が増大した。臨時政府に3人が入閣して、戦争継続政策に賛成していたメンシェヴィキ、エスエルにたいする支持は、首都で激減し始めた。

 ケレンスキー政府はコルニーロフの反乱を鎮圧することができたが、それはソビエトの力に頼ったものであったから、臨時政府の無力をあらわにし、政府に閣僚を出しているカデットやエスエル右派、メンシェヴィキの信用はがた落ちとなった。

 結果的にはソビエトの革命化が進み、ボリシェヴィキの力を増大させた。臨時政府は、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会(イスパルコム)の圧力を受けて、トロツキーら7月事件の逮捕者を釈放した。ボルシェヴィキの指導者たちが釈放されたことにより、ソヴィエト内における勢力は1割程度(7月)の状態から半数を占めるまでになった。

 コルニーロフを最高総司令官に任命したケレンスキー自身が責任を追及されることになった。対照的に、「即時講和、農民への即時土地分配、労働者による工場管理、パンと土地と平和を与えない臨時政府打倒」を訴え、強力な組織をもつボルシェヴィキなどの勢力が増大した。 

 鈴木肇・氏の「ソ連共産党」は次のように記している。

 「8月に起きたコルニーロフ将軍の反政府反乱は失敗に終わったが、ケレンスキー首相の率いる臨時政府はこの事件で更に弱体化した」。

 コルニーロフ事件は、ケレンスキーと軍部との決裂を決定付けたことにより重要な意味を持つ。軍部は政府に忠誠を保つのが慣わしのところ、将校団は、コルニーロフの下に結集することはなかったとはいえ、ケレンスキーのアピールに困惑し軽蔑した。将校団の間で人気のある指揮官への首相の対応や、その彼と共謀したと多くの傑出した将軍を告発し逮捕したこと、そして、左翼に首相が迎合したことが理由であった。ロシア10月革命時に、ケレンスキーが、彼の政府をボリシェヴィキから救うよう支援を軍部へ訴えたとき、彼に応えるものは誰もいないという結果を招くことになった。

【ボリシェヴィキヘの支持が急速に進展】

 8.31日、コルニロフ運動崩壊後、ソヴィエト代表のリコールと再選挙が無制限に行なわれた結果、首都の労働者および守備軍の間に感情の変化がつくり出され、ボリシェヴィキヘの支持が急速に進展していった。ボリシェヴィキは、コルニーロフ反乱の粉砕後勢いを増し、首都ペトログラードとモスクワを初めとするソヴェトにおいて、多数派となった。この力に押されてメンシェヴィキとエスエルは、カデットとの共同入閣を拒否する方針を決めた。

 トロッキーの「ロシア革命史」は、この頃のボリシェヴィキヘの支持の広がりを次のように証言している。

 「ことにモスクワの地区デユーマの選挙は、大衆の雰囲気の尖鋭な変化を示して、全国を驚愕させた。エス・エルの『偉大なる』党は、六月に獲得した37万5000票のうち、わずかに5万4000票しか保持することができなかった。メンシェヴィキは7万6000票から1万6000票におちた。カデット党は8000票失っただけで、10万1000票を保持した。一方、ボリシェヴィキは、7万5000票から19万8000票にとびあがった」。  

 9.4日、「七月事件」以来投獄されていたボリシェヴィキ指導者たちが、トロツキーとカーメネフも含めて釈放された。この頃、社会民主党はメンシェビキの首領トロツキーがボルシェビキ寄りとなり、またジノビエフやカーメネフなどのボルシェビキが穏健化していたが、臨時政府打倒で統一がとれてきた。

 この頃、メンシェビキ派もかなり大きな勢力に成長していたが、民衆的支持がボリシェヴィキとエスエル左派に向い始めた。「パンと土地と平和」というボリシェヴィキの単純な綱領が、この危機と革命的激情の時を迎えて急速に浸透し始めた。特にソビエトの革命化が進行するにつれてボルシェビキ派の勢力が拡大し、この頃には党員40万人を数え、各地のソビエトで多数派を獲得するに至っていた。9.5日、ボリシェヴィキは、モスクワ・ソヴィエトで勝利をかちとった。

 
レーニンは、諸情勢の急変を敏感に察知した。彼は、この瞬間こそ権力奪取する絶好のチャンスと判断した。「国家権力を掌握出来るし、また掌握しなければならない」と檄を飛ばしている。


【トロツキーを議長とする革命派の新幹部会が選出される】

 9.9日、ペトログラード・ソビエトの幹部会が改選されて協調派が権力を失い、出獄したばかりのトロツキーが議長に選出された。次のように記されている。

 概要「私のこの演説によって、迷っていた百人以上の代議員が我々の側に身を投じた。投票の間、私は幾人かの友人達と共に控え廊下を行ったり来たりジリジリしていた。我々は過半数の投票は得られないと考え、それでも成功だと思い始めていた。ところが、開票の結果、我々の側がエスエルとメンシェヴィキの連合体よりも百票以上の多数を獲得したことが判明した。我々は勝利した。私はソビエト議長になった」(トロツキー「我が生涯2」)。

 ボリシェヴィキを多数派とする革命派の新幹部会が選出された。ひき続き各地のソビエトは急速に革命化し、「全権力をソビエトへ」という決議が各地で採択される状況となった。

 トロツキーはソヴィエト内に軍事革命委員会を組織し(社会革命党右派とメンシェヴィキは不参加)、軍事革命委員会の議長として武装蜂起を準備しはじめた。ペトログラード・ソビエトの軍事革命委員会が精力的に武装蜂起を指導していった。 蜂起の日時は、10.25日のロシア全土のソヴィエト代表者が集まる全ロシア・ソヴィエト会議の直前に設定された。

 他方、臨時政府においては、コルニーロフ反乱後、自由主義者の大物が入閣して第三次連立政府が成立し、革命化するソビエトとの対立が一層深まった。


【「農民革命」】

 宮地健一氏の「『レーニンによる十月クーデター』説の検証」の「2、農民革命のデータ」を援用する。長尾久・氏の「ロシア十月革命」のP.146〜147、152、163を参照(目下は転載)する。

 首都を中心として二月革命後最大の闘争が起った7月は、1917年の農民運動が最高の件数を記録した月でもあった。ミンツの表によると、6月の577件に対して、7月は1122件を記録している。農民運動は全国のほとんどすべての県で起っているが、そのうち件数の多かったのは次の県である。カザーン県75件、モギリョーフ県74件、サラートフ県65件、スモーレンスク県53件、ペンザ県51件、クールスク県47件、フスコーフ県44件、リャザーン県43件、オリョール県42件、キーエフ県40件。地域的には、ヴォルガ中流域が断然トップであり、中央農業地帯がこれに次いでいる。

 件数第一位のカザーン県での運動の内容は、それまでの運動の継続という性格が強いが、七月から新たに、穀物国家専売に反対する闘争が始まっている。穀物専売は、政府によって三月二五日に実施が宣言されていたのだが、春蒔穀物の収穫期に入って問題が具体的になったのである。闘いは、国家と農民の問での穀物の争奪戦を意味した。七月末までに、この穀物専売反対闘争の激化によって、県コミサールは県下の四郡に軍隊を派兵するよう軍管区司令部に要請した。そのうちの一つであるヤドリン郡のアリコフスカヤ郷では、七月二五日に、専売実施のためにやってきた役人・軍人ら一〇人くらいを農民がふくろだたきにし、軍隊が送られて、二八日までに農民二九人が逮捕された。農民は郷総会を通じて決起した。同じヴォルガ中流域のペンザ県については、七月末、同県地主代表が「過激行為は今は少い。ほとんどすべてがすでに奪取されているからである」と述べている。県コミサールの七月一九日付報告書を見ても、合意によって紛争が解決される傾向が強い。ペンザ県のこれまでの動向からして、合意とは地主の譲歩による合意だろうと推定できる。実際、同県の二つの郡については、「多くの地主」の譲歩、「地主はほとんどいつでも譲歩した」ことが、はっきりと報告されている。

 全国的に見た運動の内容は次のようだった。所領奪取三六件、牧草地・草刈場奪取二四四件、森林区奪取二二件、農具・家畜奪取三二件、収穫穀物奪取五九件、強制借地二九件、森林伐採・搬出禁止三六件、労働者排除八一件、その他二三三件。(P.163)





(私論.私見)