3253333 「2月革命」の様子と経過考

 (最新見直し2006.3.29日) 只今書き換え中、各方面ご理解頼む。

 今日の時点からロシア革命を総括するとき、「10月革命」に向かったボルシェヴィキの戦略戦術が、特殊ロシア状況的としても、1・タイムリーにして最善のものであったのか(ベスト論)、2・他にもっと適切な方法があったが止むを得ず選択し成功したものなのか(ベター論)、3・時期尚早的に強行し成功したものなのか(グッド論)、4・それは誤ったクーデターだったのか(バッド論)、5・極力回避すべき邪なクーデターだったのか(ワース論)、6・最悪な形態だったのか(ワースト論)等々を廻る議論の余地が大いにあるように思われる。以下追跡してみたい。宮地健一氏の「『レーニンによる十月クーデター』説の検証」、元老院議員氏のロシア革命 第2部その1」その他を参照する。

 2005.12.3日再編集 れんだいこ拝

 この問題は、【憲法制定議会選挙の実施と、その結果に対するボリシェヴィキの方針の問題】考と重なる。

 
当時のロシアの大衆は次第に西欧近代化の洗礼を受け始め、ツアーリズムを攻撃し始めていた。既にデカブリストの頃から、普通選挙にもとづく国民代表機関による憲法制定が主張されており、いわばロシア人民大衆の念願となっていた。1902年のロシア社会民主労働党第2回大会で採択された党綱領は、次のように述べている。
 概要「ロシア社会が必要とする政治的・社会的諸改革の恒久的実現は、専制を打倒し、全人民によって自由に選挙された憲法制定議会を召集することによってはじめて達成できると、かたく確信する」。

 但し、レーニンは、パリ・コミューンについてのマルクスの分析と、1905年に労働者が組織したソヴェトの経験をふまえて、すでに二月革命以前に書かれた「いくつかのテーゼ」(1915年)において、次のように述べている。
 概要「憲法制定議会を独立のスローガンとしてかかげることは正しくない。問題は誰がそれを召集するかにある。憲法制定議会問題をそれとして取り扱うのではなく、革命闘争全体の中に位置付けるべきである」。

 レーニンは、日露戦争時も第一次世界大戦時においても、次のような観点に立っていた。
 「全ての帝国主義列強、英国、フランス、ドイツ、オーストリア、ロシア、イタリア、日本、アメリカのブルジョアジーは、あまりにも反動的であり、あまりにも世界支配への野望で一杯であったから、これらの国々のブルジョアジーの側からの戦争はすべて、反動的なもののみである。プロレタリアートは、そのようなあらゆる戦争に反対するばかりでなく、そのような戦争では“己の”政府の敗北を望むだけでなく、革命蜂起のために、敗北を利用すべきである」。
 「古いロシアは死んでゆくだろう。その場所に取って代わって、自由なロシアが現われつつある。ツァーの専制を守護していた邪悪な勢力は壊滅するだろう。しかしも唯一覚醒を遂げ組織化されたプロレタリアートのみが、この邪悪な勢力に致命的打撃を与えることが出来る」。


【2月革命から10月までのレーニンと制憲議会の流れについて】
 2月革命から10月革命にへ至るドラマをここで見ていくことにする。この過程の評価は、ソ連邦崩壊後いやましに低く評価されつつある。果たしてどうだろうか。れんだいこには、10月革命後のドイツにおける蜂起戦の敗北と比較すれば、ロシア・ボリシェヴィキの功の面が際立っているように見える。今日の先進国革命論者がただの一国に於いても成功事例を持たないとき、この当時のボリシェヴィキ運動の凄さは好評価の方に重きを置かれるべきではなかろうか。それが素直な見解というものだと思えてくる。

 ドイッチャーは、「ロシア革命50年」の中で次のように述べている。
 「1917年の2月革命は、ただ10月への序曲として、歴史上に地位を占めるだけである」。

 ロイ・メドヴェージェフは、「10.7日札幌での講演」で次のように述べている。当時の党派の動きを見事に解説している。(出典先失念)

 「今世紀の初め、ロシアでは社会主義を志向する約10の政党、政治グループが積極的な活動を展開していた。政党としては1917年の秋に結成されたばかりのロシア左派社会革命党は平均的農民及び豊かな農民に支持を求めていた。彼等はマルクス主義者ではなかったが、多くの案においてボリシェヴィキよりも急進的であった。ロシア社会革命党は農民と学生に支持を求めていた。ロシア社会革命党の急進的な諸グループは帝室、皇帝、県知事に対するテロ活動を支持していた。

 メンシェヴィキはロシア社会民主労働党の一部であった。彼等はロシアはまだ社会主義革命への準備が出来ていないと考えていた。メンシェヴィキの左派を率いていたのはY.マールトフ、右派を率いていたのはG.プレハーノフであった。

 ナロードニキと労働党(労働人民社会党)は中道左派政党で、より急進的だったのは共産主義のナロードニキである。ロシア革命で著しい跡を残したのが共産主義のアナーキスト達で、それより小さな跡を残したのがサンディカリズムのアナーキスト達だ。これらの政党のそれぞれが1917年から1922年にロシアのいずれかの地域で政権につき、自分達の実力を見せることが出来た。

 ロシア社会革命党はヴォルガ川沿岸地域で、メンシェヴィキはグルジアで、アナーキストはウクライナの南東部で、ナロードニキは北部で政権についていた。まだ革命前、皇帝の特別警備隊はボリシェヴィキのことを最も急進的な革命政党とは評価していなかった。ボリシェヴィキは大企業の労働者、工業分野のプロレタリアートに支持を求め、農村や都市の手工業者層、商人層には殆ど影響力を持っていなかった。ボリシェヴィキの主だった優位な点はその急進主義ではなく、規律であった。彼等は左派のなかで最も規律正しく、きちんと組織されていた。レーニンは既に1903年に秩序、規律の崇拝を党内に植え付けていたのだ」。

 2005.11.27日再編集 れんだいこ拝

【2月革命直前の動き】
 1916.12月、ペテログラードの「戦時工業委員会」に属する労働者が民主主義の即時樹立を要求して大衆行動に出ることを決定した。

 1917.1月、トロツキーがニューヨークに到着。ブハーリンと知り合い、ロシア人の革命紙「ノーヴィ・ミール(新世界)」の編集部に加わる。

 2.12日、「戦時工業委員会」の数人が警察に逮捕された。内務省による「進歩派」の「戦時工業委員会」への弾圧であった。

 2.14日、逮捕された労働者代表の呼びかけに応え、国会が召集されたこの日、10万人以上の労働者がストライキに突入した。

 河合秀和氏の「レーニン」は次のように記している。
 「折柄の物価の急上昇と配給機構の機能停止と重なって、次の二週間の間に更に多くの労働者がこのストライキに参加し、遂にはペトログラードの中心部に、近郊の工場地帯から労働者の大群が流れ込んでいった。そして、警察ではもはやこの事態に対応できなくなり、守備隊の兵士が労働者に発砲するのを拒否した瞬間に革命が始まった」。

【エス・エルの動き】

 この頃、エスエルは、2月以降無原則に入党を認め始め、下級将校・軍官吏・医師の助手・書記等が、革命的労農兵士とブルジョアジーの間に立つかのように中間派的主張を掲げていたエスエルに大挙に入党している。エスエルの党員はこの頃40万とも70万ともいわれており、4月頃のボリシェヴィキで約8万人であったことを思えば、エスエルこそ革命派の最大勢力であった。そのエス・エルは積極的にソヴィエトに参加し、代表にも選出されていた

 これにつき、「ロシア革命史」は次のように記している。

 概要「エスエルに新たに入党した『新米のナロードニキ(新中間層)』は、ブルジョアよりも、ボリシェヴィキ派の運動の方を恐れていた。エスエルは、その後の革命的流動情勢を牽引する能力を欠いていた為、メンシェヴィキとボリシェヴィキの働き掛けに晒されることになった」。
 「エスエルの方が数が多いが、理論という点でメンシェヴィキの下風に立っていたのである」
 「エスエルの党員証は、革命の施設への臨時の入構許可証であり、もっとまともな党員証と交換されるまで効力を持っていた」。

 エスエルのこの余りにもな膨張が、エスエル右派(メンシェヴィキ同調派)とエスエル左派(ボリシェヴィキ同調派)の分裂を生み出すことになった。他にも、新米のナロードニキ(新中間層に限らず、店主・地主・役人・いくらかの将軍を含む将校たち)の多くは、ボリシェヴィキ派の伸長を恐れ、ブルジョアの側に加担してしまう者もいた。最終的に、ケレンスキー政権にぴったりの居場所を見つけていった。つまり、情勢が激動化し始めるや、エスエルのその多くはは穏健化の道へ向かい始めた事になる。


【2月革命の経過】
 宮地健一氏の「『レーニンによる十月クーデター』説の検証」の「1、二月革命のデータ」を援用する。長尾久・氏の「ロシア十月革命」からの引用(P.52〜55)とある。
 1917.2月、ロシア西部で極端な降雪があった。このため鉄道輸送が大打撃をうけ、一番生産地から遠いペテログラードで食料・石炭の供給が停滞した。国民生活に深刻な影響を与え、女性による食料を求めるデモが続いていた。既にこの頃、第一次世界大戦の重みが後進工業国であったロシアに大きな負担となりつつあった。
 2.17(2.23)日、首都ペトログラード(ペテルブルクがドイツ語風のため、大戦に際しロシア語風に改められた)で労働者による大規模なゼネスト・暴動が発生した。ペトログラードの女子労働者が「パンをよこせ」と要求してストライキに入り、さらに街頭デモに進出したことが発端となり、ストライキに入る労働者が激増し、デモは「専制打倒」、「戦争反対」などを要求するようになった。

 この時、皇帝は、首都から700km近くも離れた前線のモギリョフの大本営にいたが、ペトログラードのハバーロフ将軍に対し、ストを「明日早々にも終息せしめる」べきことを下命した。首都の軍隊が皇帝につくか労働者につくかが問題となった。「ロシア革命史」は次のように記している。

 「機関銃が蜂起を一掃するか、あるいは蜂起が機関銃を奪取するのか否か?」。

 首相ゴリツィンは事態の収拾は不可能とみて、皇帝に電報で辞意を伝えた。ニコライ2世は首相の辞任申し出を拒否し、強硬姿勢を崩さず、君主ハバロフ軍警司令官に翌日のデモの鎮圧を命じた。

 首都の治安を預るハバーロフ将軍は、このデモに対し、初日には警官隊を、2日目には鞭と槍を持つ騎兵隊を投入し、その後の情況に応じて軍隊を鎮圧に出動させた。ところが、鎮圧を拒否して反乱を起こす部隊が続出し、政府軍は機能を停止してしまい、政府の首脳は反乱側によって逮捕されてしまった。

 2.23日、この日は国際婦人デーだった。緊迫した空気の中で、ボリシェヴィキ、メジライオンツィ、メンシェヴィキ・イニシャティヴ・グループは、屋内集会を予定していた。しかし、ヴイボルク地区の女子繊維労働者たちは、みずからのイニシャティヴでストライキに入り、さらに隣接する金属工場をもストライキに入れていった。夕方までに、ヴイボルク地区はぜネストの様相を呈するに至った。ストライキに入った大衆は、街頭に出て「パンをよこせ」と叫びつつ、都心へ向った。そして官憲の阻止線を突破して、ネフスキー大通りでデモをおこなった。若干の場所で警官との衝突があり、21名が逮捕された。なおストライキに入ったのは、7万8千〜8万8千人の労働者だった。


 2.24日、闘争は拡大した。ストライキ参加労働者は15万9千人にふくれ上った。多くの地区にストライキが波及した。警官のほかカザーク、歩兵も出動して強化された弾圧態勢に対して、デモ隊の戦闘性も高まった。阻止線突破の際に、投石、投氷(氷の破片を投げる、当時の首都は厳冬だった)がおこなわれた。いぜんとして「パンをよこせ」のスローガンが有力だったが、「専制打倒」や「戦争反対」のスローガンも、しだいに現われてきた。商店の打ちこわしがかなりふえた。出動したカザークにデモ隊への共感が見られた。

 暴動は各地にひろがり、バクー、ニジニノヴゴロド、モスクワへも波及した。すでに全市の労働者の半数近くがストに参加していた。反乱兵がソビエトに加わり始め、労働者・兵士が革命の推進力になった。スローガンも次第に政治性を帯び始め、市民は赤旗をもちだし、「ドイツ女(アレクサンドラ皇后をさす)を倒せ、プロトポポフ(内相・ラスプーチンの知己)を倒せ、戦争をやめろ、専制反対!」と叫び始めた。

 2.25日、ストライキは全市をおおうに至った。労働者の9割に当る20〜24万の労働者がストライキに加わった。新聞も電車もストップした。学生も多くがストライキに突入した。多くの大衆が再び都心へ向い、ネフスキー大通りとその周辺でくり返しデモをおこなった。この時点では自然発生的なもので、政党の参加はまったくみられなかった。ボリシェヴィキやエスエル等主要な革命派の指導者の多くが国外に亡命していたことによる。

 これについて、セクション A - アナキズムとは何か?」の「A.5. 4 ロシア革命のアナキストたち」は次のように述べている。

 この運動は非常に自発的だったため、全ての政治政党は置いてきぼりにされた。そこにはボルシェヴィキも含まれていた。
 「ボルシェヴィキのペトログラード組織は、皇帝を打倒する運命を担った革命直前に、ストライキの呼びかけに反対した。幸運なことに、労働者はボルシェヴィキの命令を無視し、どのみちストライキを続行したのだった。労働者がボルシェヴィキの指導に従っていたとすれば、その時に革命が生じていたかどうかは疑わしい」(「Murray Bookchin, Post-Scarcity Anarchism, p. 194」)。

 新しい「社会主義」国家が革命を止めるのに充分な力を持つまで、革命は下からの直接行動の流れの中で実行されていたのである。

 左翼にとって、帝政の終焉は、社会主義者とアナキストがいたるところで長年にわたって行ってきた活動の頂点であった。人間の進歩的思考が伝統的抑圧に打ち勝ったことを示していた。全世界の左翼はこのことを充分に賞賛した。だが、ロシア内部では、物事はさらに進展していた。仕事場・街路・大地で、民衆は、封建主義を政治的に廃絶するだけでは充分ではないと徐々に確信するようになっていた。封建的搾取が経済に存続している限り、帝政を打倒したところで本当の変化はなかった。だから、労働者は仕事場を、農民は大地を奪取し始めたのだ。ロシア中で、普通の人々が自分たちの組織・労働組合・協同組合・職場委員会・評議会(ロシア語ではソヴィエト)を作り始めた。当初、こうした組織は、リコール可能な代理人を持ち、相互に連合するというアナキズムのやり方で組織されていた。

 つまり、ボルシェヴィキの指導に関わらぬアナキスト系の縁の下の力持ち的働きがあったと指摘している。

 この日は、「専制打倒」、「戦争反対」のスローガンが前面に出てきた。デモ隊の戦闘性も増した。いくつかの場所で、デモ隊の一部はピストルを射ったり、爆弾を投げたり、警察署を襲撃した。官憲側も警官のピストル射撃、軍隊の小銃発砲を何回かおこなった。この応酬の中でデモ隊に4名、官憲側に1名の死者が出た。

 この日も出動したカザークの民衆への共感が目立った。発砲している警官をしり目に後退した例、一個中隊がデモ隊側について逮捕された者を解放した例、発砲を要請したある警察署長をサーベルで切り殺した例が、見られる。この日夕刻までには、ヴイボルク区から警官がほぼ完全に一掃された。警官は殺されるか逃亡した。このように闘争が激しくなった時、ツァーリから「首都における騒擾を明日は中止させよ」という電報が届いた。

 2.26日未明、官憲は約100名の革命分子を一斉検挙した。決戦が始まった。この日は日曜日だった。午前中市内は平穏だった。午後になるとデモ隊がネフスキー大通りに現われて大規模な衝突がおこった。デモ隊は、出動した警官・軍隊に石や氷片を投げつけた。ネフスキー大通りアニチコフ宮殿前で軍隊が群集に発砲し続々と死傷者が出た。 第2の血の日曜日となった。1905年の血の日曜日事件ですら発砲は偶然で、ニコライ2世が命じたものではない。今回は違った。その日のうちに市内随所で200人の死亡者がでた。ズナーメンスカヤ広場で午後4時半にデモ隊が一掃された時、40名の死体が残された。 

 市民の側に多数の死傷者が出たが、無辜の市民への軍隊の発砲が市民の反発を招いた。発砲事件直後から発砲を拒否する連隊が現れ、さらに発砲を命ずる将校が射殺された。すでに首都は無秩序となっていた。

 銃撃した軍隊の方も動揺していた。武力鎮圧の線がはっきりしてくるにつれて、鎮圧の主体となる軍隊内部の亀裂が拡大してきた。長期化する第一次世界大戦の重みが、兵士の間にかってない反戦機運をもたらしており、あくまで鎮圧を命じる将校と躊躇う兵士との対立が表面化してきた。貴族や地主出身者の多い将校の大多数は、デモを鎮圧しようとしたが、一般兵士たちの多くは労働者に深く同情し、発砲命令を受けてもなるべく空に向けて撃とうとした。

 同夜、市民への銃撃に憤激したパブロフスキー聯隊第4中隊(前線からの負傷帰還兵を主体とする)が反乱を宣言した。同連隊教導隊が民衆に発砲したということを聞いて憤激したのがきっかけとなった。しかしこの反乱は、孤立したものに終り鎮圧された。彼等はすぐに他の部隊に武装を解除されたが、武器を持った兵士数十人が逃走し、労働者の中に紛れこんでしまった。撃たれた市民の側も軍隊を味方につけようと必死になる。「兄弟姉妹を撃つな!」、「我々と一緒になれ!」。

 
国会議長ロジャンコは、モギリョフの大本営にいる皇帝ニコライ2世に事態の重大さを次のような電報で伝えた。

 「首都は無政府状態にある。政府の機能は麻痺している。交通機関および食糧と燃料の供給ルートはズタズタになってきている。一般の不満は増大している。街では無謀な撃ち合いが行われ、あちこちで部隊が同士討ちをやっている」。

 夜12時、一日中鎮圧行動をおこなっていたヴォルイニ連隊教導隊が帰営した。25日から鎮圧のため狩り出されていたこの部隊のメンバーの内面で、命令への服従と民衆虐殺者になりたくないという感情との矛盾が、耐えがたいまでに鋭くなっていた。教導隊員は、下士官候補生として兵士の中ではエリートとして選抜された部分だったが、それでも兵士であり、民衆の一部だった。26日夜帰営した時、この隊のキルピーチニコフ曹長とマルコフ伍長の心はすでに決まっていた。二人は、小隊長と班長を集めて、「明日は出動すまい」と提案した。、実際に市民への銃撃をおこなった部隊の兵士たちも憤激していた。みなこれに賛成した。

 2.27日午前五時、ヴォルイニ連隊教導隊は全員起床し、小隊ごとに会合した。兵士たちは、小隊長、班長を支持した。こうして、午前9時頃、ヴォルイニ連隊教導隊の下士官が出動を命令しに来た隊長を射ち殺し、反乱を開始した。反乱はただちに全ヴオルイニ連隊に拡がり、さらに、同じ構内に兵舎のあったプレオブラジェンスキー連隊、リトヴァ連隊、工兵第六予備大隊に拡がった。反乱した部隊は街頭に進出し、労働者と一緒になって大砲工場を襲撃、大量の武器を強奪した。

 正午頃には帝政に最も忠実な部隊とされる自転車部隊(金持ちの子弟が多かった)が反乱部隊の砲撃を受けて崩壊した。午後1〜2時頃には労働者と共にクレストゥイ監獄から2400名の政治犯を解放した。夕方までにさらに5つの聯隊が反乱に加わった。反乱に加わった兵士は6万6700人に達した。それ以外の部隊も、デモ隊に接触するとそのままその中に溶け込んでしまった。反乱の波は、ヴイボルク区や南部にも拡がり、この日のうちに革命側が首都で優勢になった。

 「ロシア革命史」は次のように記している。

 「その日、蜂起しなかったのは、蜂起する暇がなかった部隊だけであった」。
  2.28日、反乱軍の兵士は12万6700人にも達した(革命勃発前の首都の兵力は約15万)。政府軍の抵抗は急速に弱まり、同昼には政府軍は解体してしまった。ハバーロフ将軍は電話でクロンシュタット軍港の部隊に応援を頼んだが、そちらの司令官は、自分の受け持ち地区の方が心配だといって取り合わなかった。ハバーロフ将軍は手許に残ったわずかな部隊と共に海軍本部に籠ったが、昼過ぎにはその部隊も解散した。

 蜂起はペトログラード市の外にまでひろがっていた。軍隊が明確に労働者の側についたこの日、革命の勝利が決定的となった。「第一革命」の悲劇は繰り返されなかった。モスクワでは27日に、その他の都市では3月1〜2日にデモがはじまった。ペトログラード以外では戦闘はなかった。この革命におけるペトログラードでの死傷者は1443名であったという。

 国家評議会議長イ・シチェグロヴィートフ、元陸相スホムリーノフ、首都戒厳司令官ハバーロフ、内相プロトポーポフ、元首相シチュルメル、首相ゴリーツインらが、3.1までに(この年2月は28日までである)次々と逮捕された。こうして首都におけるツァーリ権力は崩壊した。軍は続々と群衆に合流し、軍司令部、内務省、警察など市内要所を制圧した。

 この勝利は人民の血の犠牲によってかちとられた。のちに都市(市会)連合ペトログラード市委員会によって集計されたところによると、首都における二月革命の際の死者は169名だった。この中には将校2、警官2などの専制側の人物も含まれている一方、革命側死者で含まれていない者がある程度いると思われる。

 かくして首都ペトログラードにおける皇帝の権力は完全に消滅した。これが「二月革命」である。 なお、「二月革命」という呼び名は、当時のロシアが西欧諸国とは異なる暦(ユリウス暦)を用いていたことに関係している。ユリウス暦は、西欧のグレゴリウス暦よりも13日ずれている。この為、西欧諸国ではこの時の革命をグレゴリウス暦を用いて「三月革命」と呼ぶことがある。但し、当事者のロシア人はグレゴリウス暦に改暦した後もずっと「二月革命」と呼んでいるので、ここでもこれに従い「二月革命」とする。

 1905年革命の例にならい、反乱軍の各中隊から1名、労働者千名名から1名の代表者を集めたソヴィエトが結成された。その中心はメンシェヴィキと社会革命党の活動家であり、議長にはメンシェヴィキのチヘイゼが、副議長には社会革命党のケレンスキーが就任した。

 国会議長ロジャンコは、ニコライ2世に電報を打ち、内閣を改造し国会主導の新政府を組織すべきだと請願した。ニコライ2世は、国会派の野心を察知し、逆に国会を休会にするよう命じた。傍らのアレクセイエフ参謀総長に「デブのロジャンコが無意味なことを言ってよこした」と話したという。そして前線にいた4個連隊をイワノフに命じて鎮圧のため急派し国会の停会を命じた。

 この間、ニコライ2世は、内政をラスプーチンの影響下にあったとされているアレクサンドラ皇后にまかせていた。普通の市民は、ヘッセン公国出身の皇后をドイツ人とみなし敵視した。アレクサンドラ皇后はイギリスのビクトリア女王の孫で可愛がられ、イギリスに長く住んだ。母国語も英語とみてよい。皇后は、絶対王政を信条とし議会を敵とみなしていた。

 *月**日、全ては一変した。ボリンスキー連隊では、キルピチニコフという軍曹が前日自分を殴った上官を射殺した。他の士官は兵舎から逃走し、連隊はそのまま街にでた。セミョノフスキー連隊、イスマイロフスキー連隊、リトウスキー連隊等々そして最後は伝統のプレオブラチェンスキー連隊も反乱に加わった。反乱軍は内務省、軍司令部、警備隊司令部(オフラーナ)警察、兵器庫を襲い、最早抵抗する者はいなかった。将校団とツアーの緊密な関係は脆かった。

 兵器廠・監獄・ペトロパヴロフスク要塞も革命側の手に落ちた。

 午前中、閣議で、皇弟ミハイル大公に内閣の改造をすべくニコライ2世にとりつぎを頼む事になった。ミハイル大公は大本営に電話をしたが、アレクセイエフから、皇帝はツァールスコエ・セロ(夏宮、レニングラード近郊の離宮、アレクサンドラ皇后が住む)に行かれそこで決めます、と伝えられただけだった。これはロマノフ王朝とともに自身の運命をも決めた一瞬だった。閣議より妻の意見を重視しては近代国家は成り立たない。

 閣議は二度と開かれることはなかった。ロジャンコは前日の皇帝の停会命令に反し国会の続行を決意した。兵士が国会(タブリダ宮にあった)へ次々と来て権力を掌握してくれと依頼した。兵士は反乱を起こした以上あとに引けなかった。引けば軍法会議で処刑が待ち受けていた。


【二重権力の出現】

 帝政最後のゴリツィン内閣は事態収拾を断念、政権を放り出した。一方、解散命令にかかわらず議員たちは非公式に臨時国会委員会を開き、事態収拾と政権獲得の方法について論議を始めた。また、反乱した労働者の代表ソヴィエトも召集され、国会委員会とソヴィエト内のメンシェヴィキ・社会革命党の幹部との交渉も続けられた。

 
27日午前10時、労働者の代表、左派知識人、メンシェヴィキ議員が集まり、1905年の第一革命の時と同じく、「ソヴィエト」の結成を呼びかけた。これは「労働者は1000人に1人、兵士は中隊に1人の代表を選出してダヴリーダ宮に集まれ」というビラを配っただけである。そのダヴリーダ宮は国会議事堂として使われていた。宮殿には反乱部隊が続々と集まってきていた。

 「ケレンスキー回顧録」は次のように記している。

 概要「国会議長ロジャンコは、メンシェヴィキ議員のスコペレフに『工場の秩序維持のためにソヴィエトを組織するから部屋を借りたい』と頼まれ、トルドヴィキ(労働派)のケレンスキーに『どうかね、君、少し危険過ぎはしないだろうか』と相談した。ケレンスキーの返事は『危険と言われるが、いったい、何が危険なのですか。いずれは、誰かが労働者を統制する必要がありますから』と応え、ロジャンコも納得した」。

 ソヴィエトが、ダヴリーダ宮の一室に本部を構えたことにつき、トロツキーの「ロシア革命史」は、「革命はみずからの確かな拠点を得た。労働者、兵士、やがては農民もこれからはソヴィエトだけを頼りにすることになる」との積極的な評価をくだしている。これに対し、ケレンスキーは、概要「ソヴィェトはダヴリーダ宮の中に本部を持つことにより、政治的に無知な人々の目には、ソヴィエトが物理的に新政府と密接に結合しているために、何となく、対等の組織であり、従って、全国に支配力を有しているように見えたのである」との酷評を記している。

 ダヴリーダ宮の予算委員会の大部屋で行われたソヴィエト臨時執行委員会の設立は数時間のうちにテキパキと完了した。この大混乱の最中での「代表者の選出」がどの様に行われたのかは全くの謎である。ケレンスキーは、ソヴィェトの主導権は最初から組織や政治活動に熟達したグループに握られていたと証言している。「ケレンスキー回顧録」は次のように述べている。

 「短時間に適正な選挙を組織するなどということは、とうてい不可能であったから、労働者の代表は多かれ少なかれ、でたらめに選出されたのは当然なことだった」。

 その日の夜、ソヴィエト議長にメンシェヴィキのチヘイゼ、副議長にケレンスキー他1人が選出された。ケレンスキーはその場におらず、自分が選ばれたのを知ったのも後になってからだった。ボリシェヴィキは出遅れ、執行委員15人のうち2人だけであった。この間、皇帝の政府の高官たちが次々と拘束され、タヴリーダ宮に連行された。

 兵士や労働者や逮捕者でごった返すダヴリーダ宮にて、国会のブルジョア議員たちは何をしていたか? 翼賛派の議員はどこかに消えており、ダヴリーダ宮にいるのはある程度以上の進歩思想を持つ議員だけとなっていた。しかし彼等は迷っていた。「議員の多くは逃げることだけを考えていた」。このまま革命に合流するのか、あくまで皇帝に忠誠を誓うのか。

 例えば、カデット(自由国民党)のミリューコフは、ソヴィエトが創設された27日の時点でもまだ「すべてについて正確な情報を収集する必要がある。そうすれば事態について審議出来る。だが今はまだ時期尚早である」と述べていた。革命に合流して、もし前線から皇帝に忠実な部隊が引き返してきたら、自分たちまで謀反人にされてしまうかもしれないと日和見していた。とりあえずは会議すべきだが、右派の議員たちは皇帝の命令によらない会議なのだからその名称はあくまで「非公式」会議とすべきと主張し、ケレンスキー等左派議員は皇帝の権威と無関係に「公式」会議を名乗ればよいと主張した。

 ダヴリーダ宮には大勢の兵士たちが集まっており、つまり彼等は国会に革命政府の樹立を求めていた。ケレンスキーは、皇帝ではなく国会こそが、皇帝ではなく国民の意志に基づく国家の代表たることを宣言すればよいと考えた。議会制民主主義の信奉者であるケレンスキーは、その制度に対する民衆の絶対的期待を確信していた。今現在の国会は制限選挙によって選ばれたものだが、ケレンスキーは、「他の誰よりも彼等(戦場の兵士たち。民衆)は国会の権威を承認している」(ケレンスキー回顧録)と強く信じていた。

 会議は非公式のものとなった。その会議で、左派の議員たちが国会を「革命の頭脳」たらしめることを主張したが、右派はこれを退け、とりあえず「秩序の回復」それから「人々、諸機関との交渉」という曖昧な目的を持つ「国会臨時委員会」を組織することにした。この動きをソヴィエトが睨んでいた。

 
メンシェヴィキの議員たちは、別にソヴィエトを権力機関たらしめようなどとは考えていなかった。メンシェヴィキの理論によれば、今回の二月革命があくまでブルジョア革命である以上、ここで権力を握り、革命政府を組織するのはブルジョアの代表である国会(臨時委員会)でなければならない。ソヴィエトは、ブルジョアの代表である臨時委員会に対して外から圧力を加えていればよいのであるとしていた。ボリシェヴィキはまだ主な党幹部が亡命・流刑先から戻っておらず、意見の一致をみなかった。

 ケレンスキーは、帝政を打倒し民主国家を樹立するために将校の協力が必要であった。上流階級出身である将校もソヴィエトよりも臨時委員会を信頼し、権力を握るのはソヴィエトではなく臨時委員会でなければならないとしていた。ケレンスキーは、臨時委員会と反乱軍との結合につとめた。しかし、ダヴリーダ宮殿内は武器を持った兵士たちで溢れかえっていたが、将校の姿がほとんど見えず、ケレンスキーを苛立たせていた。

 「ロシア革命史」は次のように記している。

 「ソヴィエトの執行委員会代表が臨時委員会委員長のロジャンコを訪れ、革命政府をつくれとしつこく言い寄った。まだ帝室に未練があるロジャンコは、『これはどういうことになるのか、謀反か謀反でないのか』と悩みに悩んだが、カデットのミリューコフは喜色満面であった」。

 ミリューコフは、ロジャンコよりは左に立ち西欧風の立憲国家を標榜していたが、自分たち(ブルジョアジー)に権力が転がり込んできたことに大喜びしていた。とはいえ、帝政の廃止を唱えるほど急進的ではないので、ニコライ2世を退位させた上で、皇弟ミハイルの摂政のものとに皇太子アレクセイを即位させるという案を持ち出した。「アレクセイは病気の子供、ミハイルは全くの愚物」。立憲君主政は保守的ブルジョアジーが最も望む体制である。

 28日午前2時、ロジャンコが、権力を掌握し、革命のイニシアティヴを握る決意を固めた。若い頃カメルパーシだったロジャンコは忠実な君主主義者であり、国会議長にして臨時委員会委員長という立場にいなければ「陰謀家・謀反人・暴君殺し」から「権力をとれ」と詰寄られることもなくどこかに逃亡するか、ダヴリーダ宮の片隅に埋没するかしていたであろう。今回の決心も、「その機会が来たらすぐにでも皇帝に喪失物(専制権力)を返すため、忠臣としてそうした」のであった。

 2.28日朝、臨時委員会がソヴィエトの軍事委員会を支配下におさめ、ついで各省庁の接収に乗り出した。官僚と将校の大部分は臨時委員会に従った。これまで戦々恐々として革命をやり過ごしていた将校たちは、臨時委員会という味方を得てようやく安心した。

  しかし、これは手遅れであった。問題はその前日夜に生じていた。司令官を追放したり殺したりした部隊の兵士たち(を代表するソヴィエト軍事委員会の代表団)は、しかし自分たちがこれから何をやったらいいのか見当もつかないため、国会軍事委員会議長のエンゲルハルト議員に命令を発してくれるよう頼んでいた。ところがエンゲルハルト議員はかような面倒な問題を先送りにしてしまい、兵士たちを失望させてしまった。

 
2.27日、革命の進展のなかで、ふたつの権力機関が成立した。一つは国会議員のメンバーによってつくられた国会臨時委員会である。ロジャンコは躊躇しながら国会議員からなる臨時執行委員会を権力掌握のため組織した。議長はロジャンコが就任したが当初から中心人物と目されていたのはケレンスキーだった。国会臨時委員会は権力掌握を決定し、諸官庁を接収、さらに軍隊の掌握を試みた。

 もう一つは労働者・兵士代表の自発的な行動によって結成されたペトログラード・ソビエトである。ペトログラード・ソビエトは、1905年の革命の際に短いが輝かしい役割を担ったぺテルブルク・ソビエトの復活であり、超党派組織として発生した。当初はメンシェヴィキが支配的地位ののぼり、最初の議長はチヘイゼが就任した。この時のボルシェヴィキ勢力は、メンシェヴィキや社会革命党(エス・エル)に比べてまだ弱かった。

 
佐久間元・氏は、「革命の挫折」で次のように記している。

 「2月革命は、臨時政府とソビエトに代表される『二重権力』を生み出した」。

 首都ペトログラードには、「臨時委員会」と「ソヴィエト」という2つの権力が並び立つに至った。この中から、どのような政府をつくりだすかが問題である。臨時委員会はソヴィエト執行委員会に対し閣僚ポストを2つ提供すると申し出ていた。そのソヴィエト内には「ソヴィエトのみによる臨時革命政府樹立」論も存在したが、メンシェヴィキは政権参加を考えず、エスエルもこれに従って、結局は臨時委員会のみによる「臨時政府」が誕生するに至った。

 この頃のソヴィエトは「ブルジョア政府に対する勤労者の利益擁護のための社会主義諸政党の一種の組合にとどまっていたといえた(ロシア革命)」とはいえ「命令第1号」によるソヴィエトの兵士掌握はまだ続いており、実質的な「二重権力」状態はその後も継続することになる。

 ただし、トルドヴィキ議員のケレンスキーのみはこのような動きを無視し、ソヴィエト副議長でありながら司法相として臨時政府に入閣した。ケレンスキー本人にいわせれば、ソヴィエトの代表を1人も含まない政府が全国民の支持を受けるかどうかは疑問(ケレンスキー回顧録)であった。臨時委員会がケレンスキーを入閣させたのは、恐らくケレンスキーからの工作もあったのであろうが、どうやら彼をソヴィエトから切り離そうという思惑があったようである(ロシア革命史)。しかし、そうだとすると臨時委員会よりもケレンスキーの方が役者が上であった。

 ソヴィエトの全体会議に登場したケレンスキーは次のように演説した。

 「臨時政府に参加するのにソヴィエトの信任状をとらなかったのは、単に時間がなかったからである」「私は旧体制の議員(革命前の制限選挙で選ばれたブルジョア議員)を政府で監視するのだ」「私は(司法相として)すべての政治犯(革命前に帝政に反対したせいでシベリア送り等に処せられていた人々)の釈放を命令した」。

 会議は大喝采でこれに応じた。ケレンスキーはソヴィエトの支持を得ると共に、「臨時政府に入閣する他の大臣たちに、自分だけは君たちのようなお手盛りの大臣ではなく、人民大衆(ソヴィエト)の支持でなった大臣であるという印象を刻みつけた。このことが、ケレンスキーに臨時政府のなかで特別の発言力を持たせることになった(松田ロシア革命史)」のである。


【ペトログラード・ソビエトの「命令第一号」】
 3.1日、ペトログラード・ソビエトの名で「命令第一号」が発布された。ソヴィエトの兵士たちは将校が自分たちから武器を没収して反革命にまわるのではないかと恐れており、そこで、自分たちで作成した「命令第1号」を決議し、軍の命令はソヴィエトの命令と衝突しない限りにおいて有効である、とした。
 概要「(臨時委員会の支配下に入ってしまった)国会の軍事委員会の命令は、それが労働者兵士ソヴィエトのの決定と一致している限りにおいてのみ実行されるべし。命令に反しない限り受け入れる」。
 概要「陸海軍の下級兵士は上官の意志の如何にかかわらず全ての武器を管理すること。いっさいの武器は兵士の委員会が管理し、要求があっても将校に引き渡してはならない」。

 即ち、兵士ソビエトが組織され、兵士ソビエトが武器を管理し、ソヴィエトの命令を国会軍事委員会決定に優先させるというものであった。それは、臨時政府の軍隊に対する命令権を阻喪させるものであり、ソビエトと臨時政府の二重権力状態が生まれたことを示唆している。以降、ソビエトの出す宣言や決議文の殆どがトロツキーの手になるものであったが次々と発令されていった。

 ソヴィエトは純粋には兵士(と労働者)のみの機関ではなく、兵士の代表として参加した下級将校もかなりいた。トロツキーの「ロシア革命史」は次のように記している。
 概要「臨時委員会のロジャンコが兵士に対し将校への服属を命じたため、それに反発する形で命令第1号が起草された。これは全く一般の兵士の意志によるもので、ソヴィエト幹部はその場にいなかった」。

 この「命令第1号」は、兵士を主体とするソヴィエトと、将校・官僚を掌握する臨時委員会とが拮抗する「二重権力」が固定化する最大の要因となった。この2つの力のバランスをどのように保つかが問題となる。

 それでも将校が指揮官として兵士を指揮するという軍隊の根本組織は表面的には変化はなかったが、一部の部隊では兵士たちが革命派将校を指揮官に選出するという光景が見られていた。これに対して(自分たちの支持する臨時委員会が権力をとったことに力付けられて)帝政以来の将校たちは激昂し、3.1日には「軍隊の規律の回復」を要求する将校大集会に訴えた。臨時委員会は「命令第1号」を無力化しようとしたが、もはや兵士の多くは将校の言うことを聞かなくなっていた。

 ケレンスキーによると、「命令第1号」は本来ペトログラード駐留軍のみを対象としていたが、正体不明の何者かによって全ロシア軍に流されてしまったのだという。そのことの真偽はともかくとして、前線でドイツ軍と対峙していたロシア軍の兵士たちの間では、国会臨時委員会ではなくソヴィェトの権威が急激に浸透していった。これはケレンスキーに言わせれば臨時委員会がさっさと権力をとらなかったせいなのだが、兵士は将校の命令を聞かなくなり、将校の方も兵士に命令するのを躊躇うようになっていた。

 前線で続々と「兵士委員会」が結成された。ドイツはこれを絶好の好機ととらえ、白旗を掲げてロシア兵との戦闘を停止する一方で、部隊をひとつひとつ西部戦線(対英仏戦線)へと移していった。3月21日には一部のドイツ軍部隊が中央の意向を無視してロシア軍を襲うという事件が起こったものの、ドイツ参謀本部は「こんなことは2度とやらない」という声明を発し、これはその後しばらくの間守られたのである。


【ロマノフ王朝崩壊】
 二月革命勃発の際、皇帝ニコライ2世はモギリョフの大本営におり、首都ペトログラードには不在であった。皇帝は革命の報を聞くと、ただちにイヴァーノフ将軍に首都への進撃を命じたが、この時点ではまだ首都の情勢を把握出来ず、イヴァーノフ将軍も友人たちへの土産物を買いととのえてから出発するというのんきさであった。しかしこの鎮圧軍はツァールスコエ・セローの反乱軍に阻まれ、撤退のやむなきに至った。

 ペトログラードの軍隊は完全に皇帝の手を離れ、ニコライ2世に対する感情は最悪であった。革命は全ロシアにひろがり、全国の都市でソヴィエトがつくられ、前線では兵士委員会が生まれた。特にクロンシュタット軍港の革命では、バルチック艦隊司令長官ネペニン提督や要塞司令官ヴィレン提督が水兵たちに残殺されるという事態がおこっていた。

 艦隊と軍港で数百人の将校が殺害・監禁され、無事でいるわずか12人の将校は実は最初から水兵の味方だったという有り様である(クロンシュタットの水兵たちは以後最も過激な革命派となる)。大本営の将軍たちにも革命を鎮圧する自信がなく、北部方面軍司令官ルースキー大将までもが臨時委員会のロジャンコ(国会議長)を首班とする「責任内閣」を認めるよう迫ってくる有様であった。

 ニコライ2世は前線から首都に向かっていたが、結局断念し、3.1日に北方戦線司令部のあったプスコフに入った。ニコライはここで、国会の根回しを受けた軍部が自分の退位を求めていることを知った。

 3.2日午前零時、皇帝は 1・弟ミハイル大公への譲位証書に署名、2・責任内閣の組織を認め、3・革命鎮圧のために出動していたイヴァーノフ軍の解体を承認した。ここに完全屈服させられることになった。

 皇帝ニコライ2世は前線から帰還する途中で捕らえられた。軍の首脳は皇帝に退位を進言、しかし革命は皇帝の理解を越えて進んでいた。臨時委員会のロジャンコからの電報も暗にニコライ2世の退位をほのめかしており、ニコライもやむなく皇位を皇太子アレクセイに譲る決意を固めた。「ロシア社会の危機と二月革命」は次のように記している。
 「とにかく人気のない自分が退位することにより、少なくともロマノフ王朝の皇統だけは守ろうとした」。

 しかしその後侍医と相談したニコライ2世は、血友病を持つ皇太子の即位は無理と判断し、かわりに皇弟ミハイル大公に皇位を譲るとの声明を発した。この「国家機密」を知らない国民は、幼い皇太子よりも壮年の皇弟の即位を警戒してしまった。カデットのミリューコフはソヴィエトからの臨時政府への入閣要請に対し、ミハイルを君主とする立憲君主政の樹立をその条件としたのだが、ミハイルは身の危険を感じ帝位を辞退した。ミハイル大公は、ケレンスキーの圧力もあり、即位を辞退してすべてを憲法制定議会に委ね当面の問題を臨時政府に託した。1917.3.3日のことであった。

 皇帝ニコライ2世は万策尽き、退位に同意したため、ここにロマノフ王朝は滅亡した。ここにロシアの帝政が打倒された。ロマノフ王朝は304年の歴史を閉じた。(厳密にいうと皇帝がいなくなっただけで、帝政そのものが廃止された訳ではない。その後、帝政の「国会」もそのまま存続し、議員たちも引き続き敬意を払われることとなった) ここまでの流れを「二月革命」と云う。

【リヴォーフを首相とする臨時政府が樹立される】
 3.1日、国会は皇帝の停会命令を無視し、新政府樹立に向けての議論を行っていた。この日、カデットのリヴォフ公爵を首相とする臨時政府(単独)が成立した(3.1日〜5.2日)。カデット5、エスエル1の単独政権であった。首相兼内相がリヴォフ公、外相に同じくカデットのミリューコフ、陸海軍相に十月党のグチコーフ、 ソヴィエトから只一人、エスエルのケレンスキーが副首相兼法相として加わった。英仏両国の駐露大使が臨時政府を承認した。連合国側に立っての戦争を継続してくれる見込みがあったからである

 ケレンスキーを除けば実にみごとな「ブルジョアの政府」であった。この政府の中核はカデットの中心人物たるミリューコフであり、ブルジョアジーの全国機関である工商業評議会、連合貴族団評議会、さらに事務職員の上層部、自由業の団体、国家官吏といった人々がカデットのまわりに集まった。対して労働者や兵士の人気は最初からケレンスキーに集中していたのであった(ロシア革命史)。


 
3.2日に至り、ペトログラード・ソビエトの条件付き支持を得て、国会臨時委員会は臨時政府を組織した。臨時政府は主として、SR党とメンシェビキ、自由主義者たちの協力で成立していた。
リヴォーフが臨時政府首相となりケレンスキーは法相となった。臨時政府が集会・ストライキなどの自由を約束したことにより、残忍なツァーリ圧政は倒され民主的な政体が実現したかにみえた。

 臨時政府の施政方針が最初に為さねばならなかったことは、継続中の世界大戦とどのようにかかわっていくかという問題であった。前線は休戦状態が続いていたが、ブルジョアは戦争の遂行を要請していた。臨時政府は国内ブルジョアジーと連合国の支持のもと戦争を継続した。

 3.27日、臨時政府は独墺戦線の維持を決定した。連合国とくにイギリス、アメリカでは歓迎一辺倒となった。
 
 ソヴィエトの主流であるメンシェヴィキは、戦争の停止を訴え、臨時政府もやむなく「無併合と民族自決にたつ講和」を目指すと声明した。しかし同時に「連合国に対する義務を守る」との声明も付していた。つまり、「連合国が勝つまで戦争を続ける」という意味であった。これに対し、メンシェヴィキは、かような臨時政府の戦争遂行策に反発しつつも、レーニン的「の臨時政府打倒、戦争の即時終結」策を採るなどとは思いもよらなかった。

 臨時政府の戦争継続方針は、戦争の中止を要求するペトログラード・ソビエトとの対立を生じさせていくことになった。ペテログラードソビエトは、独墺両国の労働者が君主、地主と銀行家のくびきから離れ、軍務を拒否することを呼びかけた。そして秘密外交廃止と不割譲・不賠償を訴えた。すでにソビエトは社会主義3政党(社会民主党ボルシェビキ派、メンシェビキ派、社会革命党)に牛耳られていた。

 二月革命後、リヴォーフ臨時政府は制憲議会召集のための特別審議会を開設を宣言したが、政府内の対立により準備は進まなかった。(第二次臨時政府は9.30日召集を決めたものの、ケレンスキー首班の第三次臨時政府は、これをさらに延期して11.12日選挙、11.28日召集と決定するという流れになる)。

【臨時政府の諸政策

 3.3日、臨時政府の成立が公表され、「テロリスト・軍反乱・農民暴動を含む政治犯の釈放」、「言論・出版・集会の自由及び団結、ストライキの権利」、「8時間労働制」、「普通・平等・直接・秘密投票による憲法制定会議招集の準備」、「国内諸民族への自治」等々が確認された。「菊池ロシア革命史」は、「実際にはなかなか実現しなかった」と記している。

 臨時政府とソヴィエトとがどういう関係にあるのかという一番重要な問題については一言も言及されなかった。臨時政府の諸政策は「まったく欠点のない民主主義政府」ぶりを見せつつあったが、ソヴィエトは「ブルジョア的」というレッテルを貼ることで評価を落とし込めた。ケレンスキーは、「国内の勢力の分布をより正確に反映するよう」ソヴィエトの代表をもっと政府に入れて主張することになる。

 臨時政府は当面の政務に忙殺され、すべての改革を憲法制定議会開催まで延期した。ただ戦争問題は放置することを許されず継続方針を明らかにした。

 3.6日、臨時政府は、「わが同盟国とのあいだで取り交わされた合意を揺るぎなく遂行する」と宣言し、勝利の時まで戦争を続けることを明確にした。これは英仏など連合国に歓迎されたが、戦争にうんざりしていたロシアの民衆を失望させた。

 これに対し、ソヴィエトは即時講和を主張した。臨時政府とソビエトは、戦争継続をめぐって正面から対立した。但し、ソヴィエトを理論面で主導していたメンシェヴィキは労働者政権は時期尚早だと考え、臨時政府を監視しつつ支えるという立場を堅持した。数では多数を占める社会革命党は左右両派に分かれて方針が定まらなかった。ボリシェヴィキは数が少なすぎ、メンシェヴィキに追従するだけだった。

 「太田龍の時事寸評」の2006.3.28日付け第1630回「佐藤優氏の説(ソ連崩壊前夜と今の日本は酷似して居る)についての検証」は次のように記している。
 意訳概要「ソルジェニーツインは、2000年〜2001年にかけて上下二巻の大著(過去二百年のロシアとユダヤ)に於て、18世紀末から20世紀末までの二百年のロシアの歴史と、そしてこの二百年を通して、ユダヤがロシアに対してなにをしたかについて、一千頁を費やして著述した。第一巻は、18世紀末から1917年のいわゆるボルシェビキ革命まで。第二巻は、1917年ボルシェビキユダヤ共産革命政権下のロシアとユダヤ。

 このソルジェニーツインの大著は、日本のロシア問題専門家にとっては、存在しない本である。そんな「恐ろしい」本、「恐ろしい」問題に敢えて介入しようとしているロシア問題専門家は日本では見えない。ドイツ人は、すぐにこのソルジェニーツインの大著のドイツ語訳本を出版して居る。英訳は不可能であろう、とテックス・マーズは述べて居る。

 (中略)ユダヤ問題抜きのロシア問題など、およそ成立し得ないのではないか。いわゆる1917年3月革命なるもので、ケレンスキーが革命政権の閣僚として入り、次にその首相となると、このケレンスキーは、「シオン長老の議定書」をすべて没収し、焼却したのみならず、この「議定書」を所持頒布するものは「死刑」、とした。この政策は、ケレンスキーからボルシェビキ共産政権に移行したあとも、そのまま、継承された。

 しかし、今はどうか。今、プーチン政権下のロシアで、「シオン長老の議定書」は、大々的に、公然と流通して居ると聞く。この違いは何を意味するのか。これは、どうでも良い些末な現象なのか」。

【臨時政府に対するボリシェヴィキ党の方針】
 制憲議会をめぐるこの経過は、ロシア革命のその後の運命(内戦の勃発)と深い関係にある。社会民主主義と共産主義の分裂、ひいては社会主義と民主主義の現代的連関の問題としても極めて重要であるが、十分な考察の対象とされていないところである。 3.5日、ボリシェヴィキ党ペトログラード委員会は、「臨時政府の行動が、プロレタリアート並びに広範な民主的人民大衆の利益に合致する限り、臨時政府には反対しない」という意味の決議をしている。

 この時、社会民主党の主要幹部は亡命中か流刑地にいた。レーニン、ジノヴィエフはスイスのジェノバ、トロツキー、ブハーリンはアメリカに在った。モロトフら3人の中央委員会は、経験においても党内地位においても低かった。モロトフを編集責任者として再刊されたポルシェヴィキの機関紙「プラウダ」は、臨時政府を「資本家と地主の政府」であるとして非難し、民主的共和国樹立の為に憲法制定議会を召集するのはソビエトであると論陣を張っていた。

 3.12日、スターリン、カーメネフ、シベリアの流刑先よりペトログラードに戻る。スターリン、カーメネフは、「臨時政府が、労働者階級と革命的農民層とを満足させる道に沿って働く限りにおいてのみ、その行動を指示せよ」という言い回しで、臨時政府を支持するという立場を取り、プラウダ編集局に影響を与え始めた。

 3.28日
、第一回ソヴィエト大会へのボリシェヴィキ代表団協議会。レーニン帰還前の党協議会となるが、この時の速記禄はその後も秘密に附されている。要するに、ルイコフ、カメネフ、モロトフ、トムスキー、カリーニンその他は右翼的日和見主義の立場に立ち、スターリン、グチコフ、ミリューコフらは日和見主義的に当面の臨時政府の支持、ボリシェヴィキと左派メンシェヴィキの合同に賛成、反戦という方針を打ち出していた。 

 トロツキーは、「わが生涯1」の中で次のように記している。
 「1917.3月、レーニンの到着する2、3日前に開かれた党会議の席上、スターリンはツェレテリの党との合同を頻りに説教していた。10月革命の後でさえ、ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、ルナチャルスキーその他10人ほどの人々が、社会革命党とメンシェヴィキとの提携の為に、死に物狂いで闘っていた」。

【トロツキーの動向】
 2−3月、トロツキーがロシア革命に関する一連の論文を執筆。その主要な方向性は、レーニンの「遠方からの手紙」と同一であった。

 トロツキーは痛論する。
 「彼等のうち一人でも、ゼネバのレーニンと、ニューヨークの私とによって、同一の結論に達した位置に、独りで達したモノがったら、その名を言ってみよ。彼等は唯の一人も名を挙げることはできない。レーニンが到着するまでスターリンとカメネフによって編集されていたペトログラードのプラウダは、狭小な理解と、盲目と、日和見主義の文献として長く残るであろう」。
 「レーニン無きレーニン主義者がレーニンから分離されている時には、いかに間違いばかりやるか。1905年の秋あるいは1917年の春の事態はそれを立証している」。

 ところが、官許「ソ連共産党史」は詐術的に次のように表記している。
 「流刑から帰ったばかりのスターリン、モロトフ及びその他は党の大多数と共に臨時政府不信任の政策を擁護し、防衛主義に反対し、平和の為の積極的闘争、帝国主義戦争反対闘争を力説した」。

 こうなると、歴史の公然たる偽造、歪曲である。

 3月、トロツキー一家がロシアへ向けてニューヨークを出発。4月、船上でイギリス軍に逮捕され、強制収容所へ。

「全ロシア・ソヴィエト協議会」

 全国の都市と軍隊につくられたソヴィエトは3月末から4月初めにかけて「全ロシア・ソヴィエト協議会」を開き、全国9地方と前線の13個軍の各代表1名をペトログラード・ソヴィエトに加え、これを全国執行委員会とする取り決めを行なった。臨時政府の方は革命前の県知事や郡警察署長にかわる役職として、また軍隊内の政府全権代表として新たに「コミサール(全権代表)」を任命、彼等をして地方の中心たらしめようとした。


「農民革命の経緯」
 宮地健一氏の「『レーニンによる十月クーデター』説の検証」の「2、農民革命のデータ」を援用する。長尾久・氏の「ロシア十月革命」のP.146〜147、152、163を参照する。

 二月革命が農村へ波及していく過程で、三月初めから新たな状況の中での農民運動が始まった。この間、農民運動も激化の一途をたどっていた。1917.3月頃から、ロシア全土で「自然発生的な民衆革命」が勃発した。農民は、地主・貴族から土地を奪い、それぞれの村落共同体ミール内で、「総割り替え」制度を行った。ソ連の歴史学者イ・イ・ミンツの作った表によると、3月に15五県で17件、4月に44県で204〜205件、5月に44県で259〜262件、6月に52県577件となっている。

 六月に件数の多い県のベストテンを見ると次のようになる。6月―ペンザ県47件、カザーン県36件、サマーラ県30件、サラートフ県26件、ヴォローネシ県25件、ミンスク県25件、クールスク県23件、トウーラ県2件、タムボフ県3件、リヤザーン県20件である。ヴオルガ中流域諸県と、中央農業地帯諸県とが、件数の多い所である。この傾向は一九一七年全体を貫いている。

 大体の傾向に変りはないが、ミンツの表では件数が少な目になっているようである。ソ連の歴史学者エヌ・ア・クラフチュークが、ヨーロッパ・ロシヤの大ロシヤ人諸県だけについて作った表では、3月183件、4月445件、5月580件、6月836件となっている。1917.3〜10月を通して見ると、農民運動の84.4%は対地主闘争、6.3%が対フートル農・オートルプ農闘争だった。闘争形態は、クラフチュークによると次のようだった。3月――打ちこわし46.9%、奪取24.5%、強制10.2%。4月――打ちこわし17.3%、奪取40.1%、強制35.8%。5月――打ちこわし22.1%、奪取48.7%、強制32.7七%。6月――打ちこわし11.5%、奪取56.2%、強制29.2%。

 「打ちこし」は、地主所領の全部又は一部の打ちこわしだった。「奪取」は、土地・農具・家畜・種子などの奪取、森林「盗伐」などである。「強制」は、地主農場からの農業労働者、特に捕虜(あちこちの農場で働かされていた)の排除、借地料引下げの強制、土地売買の禁止などである。農民の攻撃は、官有地・官有林にも向けられた。軍隊の派兵、農民の軍隊との小ぜり合いは3月から始まっている。

 農民運動は多くの場合ミール共同体を基礎として、郷・村総会−郷・村委員会を通じておこなわれた。だが郷より上級、つまり県・郡レベルでも3月から動きが始まる。(P.146〜145)

 運動の発展の中で農村でもソヴェート網が拡大していった。まず、県農民ソヴェートはヨーロッパ・ロシアで次のように組織されていった。

 3月――ニジェゴロト、サマーラ、ヤロスラーヴリの三県。
 4月――ペンザ、サラートフ、ヴォローネシ、トゥーラ、ミンスク、モスクワ、スモーレンスクの七県。
 5月――カザーン、クールスク、リヤザーン、タムボフ、モギリョーフ、ヴラヂーミル、カルーガ、コストロマー、トヴェーリ、ヴォーログダ、オローネツ、ペトログラード、ペルミの一三県。
 6月――オリョール、ヴィリノ、ヴィーチェプスク、アルハンゲリスク、ヴャートカ、ウファーの六県。

  6月末までで計29県で成立したことになる。ヨーロッパ・ロシヤでの県農民ソヴェート建設は、この頃でだいたい終ったと見てよい。郡農民ソヴェートは、7.15日現在、ロシヤ813郡中371郡で成立していた。なお農民代表機関(ソヴェート、委員会)は、郷については各村の総会で選ばれるが、郡については郷代表機関から、県については郡又は郷の代表機関から選ばれている。すでに述べた第一回全国農民代表大会は、ちょうど県農民ソヴェートが最も多くつくられた時におこなわれたのである。大会が協調主義路線で進んだことはすでに述べたが、農業問題については政府の枠にはおさまれなかった。(P.152)





(私論.私見)