3253396 ドイツ革命の挫折考






(私論.私見)


 【第二インター分裂時のドイツ共産党の様子】以降

 1917.10月ロシア10月革命が成功する。ロシアにおけるソビエト、工場委員会の設立が相継いだ(1917−18)。この革命の最中レーニンは『資本主義の最高の段階としての帝国主義』を著す。ロシア10月革命の成功は、ドイツ共産主義者たちに強い影響を与え、革命の余波がドイツに及ぶことが必死な情勢となった。その流れを検証する。

 それまでの社会民主主義勢力が目指す民主主義革命と明確に決別して、誕生したばかりのロシア社会主義政権に呼応して、蜂起した労働者階級とともに、ドイツにおける「ソビエト政権」=ドイツ社会主義共和国の樹立、社会主義権力の樹立に目的をおくべく路線転換させた。

 1918.1月末、ロシアの新政権がブレスト・リトヴスク講和条約に応じた時、ドイツのプロレタリアートは、ドイツ帝国主義の侵略政策に抗議して「無併合・平和」のスローガンを掲げ、一台政治ストライキに立ち上がった。ドイツの主要工業都市へ嵐のように波及していった。

 ドイツの「スパルタクス・ブント」は、武装蜂起に取り掛かった。1918.10.26日革命的オプロイテの会議は、「国民蜂起が宣言された暁には、万難を排して革命を決行する」ことを決議し、11.3日に向けて集会デモを組織した。この時同時に、リープクネヒト、ピーク、メイヤーの3名を執行委員会に加えることを認めた。こうして、蜂起の指導部が形成された。オプロイテは、ベルリンの労働者大衆とスパルタクスの間を取り持つ役割を果たしていくことになった。

 革命の烽火は、水兵の叛乱から始まった。10.29日英軍との交戦の為の出撃を拒否したヴィルヘルムスハーヘンの水兵の反乱は、11.3日キール軍港に帰港した第6艦隊の水兵デモを呼び寄せ、武装衝突事態となる。この革命行動は自発的なものでしたが、その革命の波に社会民主党勢力が参加する。ドイツ革命がこうして開始された。

 11.4日水兵評議会へと発展し、数日にして全国に波及、殆ど全ての港町に労兵評議会が樹立されていった。11.7日中部ドイツで、社会民主党、独立社会民主党の指導の下で行われた反戦デモが、武装デモに発展し、ミュンヘンに労兵評議会が樹立された。11.7日ベルリンでは、政府によって集会が禁止され、11.8日オプロイテの主要幹部の一人ドイミッヒが逮捕された。

 11.9日一斉蜂起。皇帝が退位。その日のうちにドイツ社会民主党の指導者・フリードリッヒ・エーベルトが宰相の地位についた。同党のシャイデマンが、革命を共和制の線で押し留める目的から帝政の廃止と共和制の樹立を宣言し、ヘゲモニーを掌握した。

 11.10日第2回労兵評議会が開かれたが、右派の社会民主党、独立社会民主党と左派のオプロイテが対立したまま選挙となり、オプロイテ6、社会民主党6、兵士評議会4の計24名で執行委員会を構成するという三重権力を生んだ。

 12.6日反動側からの揺り戻し「三大事件」が発生している。一つは、武装兵士の一団によるエーベルトの大統領推挙、一つは、政府の名を語った他の一団によるベルリン執行協議会の逮捕の企て、一つは、スパルタクス団のデモ隊と近衛軽騎兵隊との衝突であった。このことは、反革命側が武装行動に入りつつあることを知らせていた。

 12.16日488名の代表で構成されたドイツ全国労兵評議会(スパルタクス代表は10名、リープクネヒト、ルクセンブルクは選出されなかった)は、圧倒的多数で労兵評議会を解散させ、国民議会選挙を1.19日に行うことを決定した。

 スパルタクス・ブントがリープクネヒト、ルクセンブルクは代表選出しなかったことは、両名が党内を掌握していなかったことを物語っている。スパルタクス・ブント内には対立が発生しており、革命的オプロイテは、ブント内極左派と対立して、スパルタクス・ブントの再統合を要求した。

 12.30日ロシア革命の影響を強く受けて、ローザ・ルクセンブルクやカール・ループクネヒトらがスパルタクス団の流れを受けて「左派」を結集し、ドイツ共産党を設立する。ドイツにおける共産党の誕生である。党創立大会が開かれ、ブレーメン左派を含む46地方83代表、赤色兵士同盟から3代表、青年層から51代表その他87名の出席の下で、前衛党を結成した。レーニンがこれを歓喜して向かえた。

 大衆の革命的エネルギーと武装反革命があちこちで衝突し始めだした。1.5日「スパルタクス団蜂起」。その日の夕刻の指導者会議で、ドイミッヒ、ミュラーら6名が反対したが、圧倒的多数で政府打倒、権力奪取、革命評議会議長にルーデブーア、リープクネヒト、シェルツェの3名を選出した。

 革命は蜂起をともない、多分に「強力的」でしたが、ドイツ国内においては国民的支持を得、帝政崩壊につながっていく。この過程で、共産党と社会民主党が対立し始める。共産党は、暴力的蜂起を唯一の戦術として、地域的に「レーテ・ソビエト」を樹立していくことで、ドイツ全体の革命に結びつけようと戦略・戦術を打ち立てた。社会民主党は、第一党もしくは二党の地位を国会において確保してこともあって、大衆の蜂起を原動力としながらも、直接には暴力的方法を採らずに、選挙において、政権を交代させるとの戦術を採用しようとした。こうして両党間には重大な違いが生じた。政権に接近する社会民主党の立場をよしとしない共産党側は、地域的な蜂起を繰り返す。

 この間政府は、社会民主党の領袖ノスケを総司令官に任命し、主としてドイツ帝国陸軍の旧将校団の下に組織された3千名の義勇兵を1.11日ベルリンに招きいれた。革命側の敗北が決定的になり、1919.1.15日政府の武力弾圧に抗しての大衆蜂起を企てた共産党のローザ・リクセンブルクとループクネヒトが逮捕され射殺された。かくてドイツ革命は挫折した。


 この事件をきっかけに、共産党は社会民主党と敵権力の側にある勢力と認定し、社会民主党とも各地で衝突することになる。そして、ドイツ共産党自身の性格が、急速にボルシェビキ化していった。

 1919年1月、国民議会選挙が行われる。多数派社会民主党は、得票率37.9%を得て第一党になります。独立社会民主党は、7.6%の得票率であったが政権参加を拒否する。この党内に共産党が入り込んでいた。多数派社会民主党は、カトリックの中央党(19.7%)と、左派リベラルのドイツ民主党(18.6%)とともに、いわゆるワイマール連立政権を樹立する。

 2月国民議会において多数派社会民主党のフリードリヒ・エーベルトが共和国初代大統領に選出される。首相は、同党のフィリップ・シャイデマンがなる。


 1919.3.2日第三インタナショナル(コミンテルン)が創立される(〜43年)。ロシア革命を指導したレーニンは、新しい国際的革命組織をめざして、第三のインターナショナル結成に着手し、「マルクス主義の正統的継承者」としてこれを指導した。内乱と外国の武力干渉(日本はシベリア出兵)によって危機を迎えたソビエト政権は、世界革命へと連動させるべく國際共産党の再組織化へ向かった。1919.3.2日19カ国50名の代表者がモスクワに集まり、コミンテルン(第3インタナショナル)を結成し、翌年の第2回大会で規約を決定した。

 1919年、ペトログラードで開催されたプロレタリア政党国際会議において、第三のインター、すなわちコミンテルンが発足する。大会は、30カ国の共産党、左翼社会主義組織の代表53(投票権を持つ者35名)が参加して開催され、いわゆるコミンテルン(国際共産党)を結成した。ここに、単一の国際的政治組織としての共産党が誕生し、その活動方針としてマルクス・レーニン主義二依拠することが宣言された。レーニンが「ブルジョア民主主義とプロレタリアート独裁とに関するテーゼ」を報告している。


 これに対して、第二インターナショナルの議会主義派は独自の道を歩んでいくことになった。コミンテルンは、第二インターナショナルの議会主義派に対して「日和見修正主義」と非難し、対するに第二インターナショナルの議会主義派は、コミンテルンを「独裁主義」と応酬した。その亀裂はどんどん深まつていき、ほとんど泥仕合の様相を呈するに至った。りました。そして、この泥仕合が、1930年代のファシズムの時代を迎えてなお続き、左翼内部の路線封立により却ってファシズムの進行を促進するという面が生まれる。この時局対応型として統一戦線論が生まれることになる。

 1919.7月ワイマール市で開かれた国民議会で、ワイマール憲法と呼ばれるドイツ憲法が採択されます。君主制が廃止され、民主共和制、すなわち議会制度に基づく大統領制による政治統治が採用され、ドイツはかたちの上では民主主義国家となる。ただしこの民主憲法は、大統領に大きな権限を与えていたことから、その制度を「悪用」することで、新たな独裁政治を生み出す可能性を秘めていた。現実に、いくたの変遷を経てナチス・ヒトラーによる独裁政権を誕生させることになる。

 1919.10月ハイベルヒ大会が開かれ、ドイツ共産党は分裂した。左派はドイツ共産労働党を結成したが、「左翼小児病」的傾向に染まっていた。ドイツ共産党の分裂は、1921.8月のイエナ大会まで続き、二つの共産党が存在するという事態を現出した。

 1919年パリ講和会議、ベルサイユ条約締結。

 1920.10月のハルレ大会は、3分の2以上の圧倒的多数で「21か条」に賛成し、第3インターナショナルへの加盟を決議し、同年10月のベルリンにおける統一党大会で、分裂した独立社会民主党左翼と合同して、輝かしい伝統を持つ副名スパルタクス・ブントの名を捨て、ドイツ統一共産党と改称した。

 社会民主党は、ワイマール憲法下の社会体制を確立しておきながら、1920年から8年間のあいだ、たった9か月間だけ大臣を送っただけで、野党にわざと甘んじるという「戦術」に出る。その間も、政府を「消極的に支持」する態度ではいるが、このへんの対応は実に一貫していなかった。

 1925年に、カウツキーらによってまとめられたハイデルベルク綱領は、さきのエルフルト綱領を継承し、その意味では社会民主党は依然として、マルクス主義政党を標榜してはいた。マルクス主義政党でありながら、議会制民主主義を通じての革命を追究するとの論理的矛盾に苦しむことになる。

 28年から30年までは、社会民主党ミューラー内閣が誕生する。時あたかも世界恐慌を迎え、経済危機が進行し、失業が増大します。このとき、ミューラー内閣は、失業保険料の増額をめぐって、法案をうまくまとめることが出来ずに、退陣する。主導力の欠如が露呈したかたちとなった。



 1929年の大恐慌は、ドイツ資本主義に大打撃を与えた。1928年を100として鉱工業生産指数は、30年に83.6、31年に67.6、32年3月には35.3まで下落し、操業率は同じく32年に30%台に低落した。失業率は、29年に24%だったのが32年には72%に上った。

 ドイツ社会民主党指導者ナフタリは、この危機に有効な手法を対置しなかった。

 この頃、コミンテルンは、29.7月のコミンテルン第11回執行委員会で「社会ファシズム論」を提起し、「左」傾した。1924−27年の「右」傾の揺り戻しであった。「あらゆる革命的行動を準備し展開する場合に、社会民主党や改良主義者の指導者に反対し、是非とも猛烈な、一貫した、全面的闘争を行わなければならぬ」としていた。「社民的な統一戦線論」を否定し、「下からの統一戦線」構築を呼びかけた。

 但し、トロッキーと左翼反対派は、「社会ファシズム論」を間違いであると指摘しつつその論理の延長上で、「社会民主党との、又はドイツ労働組合指導者との、共同綱領反対!共同の出版物、旗、プラカード反対、別個に進み、一緒に撃て! 如何に撃ち、誰を撃ち、いつ撃つか、だけについて協定せよ!」(トロッキー「ドイツ労働者への手紙(「次は何か」)」と主張していた。

 この空漠を埋めるような役割を果たしたのがナチスであった。1930年の9月の選挙においてナチスは、一挙に500万以上を増して600万票獲得した。1932年7月末の選挙において、ナチス1300万、社会民主党700万、共産党630万という内訳となった。1928、30、32年の選挙における得票率推移は、共産党が10.6、13.1、14.3%に比して、ナチスは2.6、18.3、37.1%という激増ぶりを示していた。

 1930年9月の選挙、1932年7月の選挙、1932年11月の選挙、1933年3月の選挙の推移は次の通りである。

得票率
930年9月の選挙 1932年7月の選挙 1932年11月の選挙 1933年3月の選挙
社会民主党 24.5%→ 21.6%→ 20.4%→ 18.3%
共産党 13.1%→ 14.6%→ 16.9%→ 12.3%
国家社会主義党 18.3%→ 37.4%→ 33.1%→ 43.9%

  ナチは、労働者をとりこむために国家社会主義労働者党となのる。 ではどうやってナチは権力奪取したのであるか? 国会放火事件を共産党になすりつけ、反共宣伝をおこなった。 社民党・共産党を襲撃して(突撃隊)、殲滅していった。参考としてイタリアファシスト党をあげる。元社会党機関紙編集委員長であったムッソリーニは、第一次大戦参戦の立場から、社会党を離党して、ファシスト党を結成。そこで、社会党・共産党・労働組合を襲撃して権力を握る。 ナチを認めたのは、ブルジョアジーで、社民・共産を殲滅してくれたお礼で権力につかせた。そこでナチは支持を拡大していった。ナチスがドイツ国民からの支持を増やしたのは、社会民主党の政策に問題があったからでもあった。

 この間、31.4月スペイン革命が勃発している。31.8月ドイツ共産党は、「社会ファシズム論」に基づき、社会民主主義者の影響下にあったプロイセン政府に反対する人民投票において、ナチスと共同してブリューニング内閣打倒運動に乗り出している。

 32.4月ブリューニングに代って政権の座についたバーベン政府は、32.11月倒壊し、シュライヒャーがこれに代った。32年末、社会民主主義者が「恐慌時におけるストライキ」に難色を示している際に、断固たる絶対的ゼネストを呼号し、ベルリンにおける市外電車の従業員の大ストライキをナチスと共同で指導した。

 シュライヒャー政権はより純粋なボナパルチストであったが短命で、33.1.31日ヒットラーが政権を掌握した。バーベンを副首相とする連立政府であった。この時、「ドイツ・プロレタリアートは、決定的指令を待っていた。全世界のプロレタリアートの注意が、ソ連邦赤軍の上に集められた。世界各国政府は、息を呑んで動かなかった。その時に、スターリンは、ソ連邦はドイツの内政に干渉しないという保証を、ベルリン駐在大使の口を通じて行わせた」(佐久間元「革命の挫折」)。

 2.26日陰謀的な国会放火事件発覚。翌日2.27日大統領緊急令により共産党解散指令。その翌日、ドイツ共産党の指導者、テールマンらが逮捕される。4.1日コミンテルン執行委員会常任委員会決議は、概要「ファシストのテロにも関わらず、ドイツの革命的昂揚は増大するであろう。ファシズムへの大衆の抵抗は、増大せずにはおかないであろう。公然たるファシスト独裁は、大衆の間の一切の民主主義的イルージョンを破壊し、大衆を社会民主主義の影響から解放して、ドイツがプロレタリア革命に向かって発展する速度を促進させる」と、何とも希望観測的な評論に終始している。5.1日ヒットラーの指令によるテロルが荒れ狂い、ドイツの左派政党は「一戦も交えることなく」解体させられた。コミンテルン指導部の無能が曝け出された。トロッキーと左翼反対派はスローガンに終始し、「理論を実践に媒介する手段としての組織を持ち得なかった為に、この批判は、ドイツ・プロレタリアートの敗北を食い止めることには役立たなかった」(佐久間元「革命の挫折」)。

 以降、ドイツは、ヒットラーの指導の下で、国家独占資本主義への道を急ピッチで整備していった。租税免除ないし軽減、その為の差別税制の採用、配当制限令の施行、強制カルテル立法による独占の強化推進などの経済政策が功を奏し、ドイツ資本主義は危機を脱していった。




科学的実践論(日本共産党(行動派)議長大武礼一郎

ナチスとヒトラーについて!

 第二次世界大戦中にナチス・ヒトラーが行ったユダヤ人大虐殺(ホロコースト)については今でも大きな論議が繰り返されている。最近出版されたこの問題を論じた本がヒットしたり、地方では今でも各種の講演会や展示会が開かれ、博物館がオープンしたり、ついには二十世紀最大のこの事件をもう一度見つめ直そうという運動もはじまった。

 ドイツ現代史の研究家・学者である滝田毅氏などは徹底した人間性悪説にもとづき、その観念論的空想歴史観によってヒトラーを徹底的にこき下ろしている。彼はいう『シーザーやナポレオンなどの歴史上の他の独裁者と比べて、この男には安らぎを与える家庭もなければ心から信頼できる真の友人すらも見出せない。彼が二十世紀に及ぼした影響はあくまでネガティヴなものでしかない。……この男とナチズムはドイツ史の「不慮の事故」あるいは「例外現象」として、正統ドイツ史から除外する、いわば非連続説が主流を占めていた。つまりドイツ人はだまされたというのである』と(講談社『本』一九九八年三月号)。そして世界中の一般的評価の到達点は「ホロコーストの犠牲者は、アウシュビッツの百五十万人を含め約六百万人、との定説で一致している。しかし、ドイツ人によってなぜ、ここまで残虐なことが引き起こされたかを説明することは難しい」ということである。そのとおり、誠に難しい。しかしそれは、観念論的空想歴史観だから難しいのである。反対に科学思想と歴史科学からみたとき誠に明快になる。エンゲルスがこのことについて語っているように「青天のへきれきのような政治界全体の不意を打った事件、あるものは道徳的な憤激の声たかい叫びをあげて断罪し、またあるものはみなあ然として見ているばかりで、だれ一人理解するものがなかった事件を、マルクスは、みじかい、寸鉄人を刺すような叙述を発表し、事件は歴史が生み出した必然の結果でしかないことをあきらかにした」(エンゲルス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」第三版への序文)とおり、科学は偉大であり、歴史科学は真理である。この哲学観からみたとき、ヒトラーはどうなるのか。そこにも「あらゆる事件と事変の根底にはその土台として、時代に応じた階級対立と階級闘争がある」、「あらゆる事件、あらゆる出来事、あらゆる人物や歴史上の英雄もまたみな歴史科学の発展法則が生み出した産物にすぎない」という科学的根拠によってのみ真実は引き出されてくる。

 さて、ではヒトラーが出現し、ヒトラーを生み出した当時のドイツにおける階級対立と階級闘争とは何であったのか。ヒトラーを生み出した当時のドイツとはどんな歴史時代だったのか。このことを証言するのが加瀬俊一著『ワイマールの落日―ヒトラーが登場するまで―』(光人社刊)である。この本の著者は職業外交官としてワイマール時代を通じてドイツに駐在し、後に優れた官交評論家として活躍してきた人で、この本はドイツ史の貴重な資料として評価されている。政党政派に属さず、一定のイデオロギーに染まず、冷徹なまなざしで、客観的な事実のみを丹念に追及していったこの著作の中にこそ、歴史の真実が明らかにされている。ヒトラーが出現するに至ったワイマールのドイツの歴史的時代のなかにこそ、ヒトラーを生み出した時代と歴史があり、当時の階級対立と階級闘争がある。このことを加瀬氏は次のように描き出している(その核心部分)。

 第一次世界大戦でドイツが敗北した一九一八年十一月から一九三三年にヒトラーが出現するまでの時代をワイマール時代という。そのワイマール憲法は世界史上初めて出現したもっとも民主的で、平和的で、自由と民主主義の教典と呼ばれ、高くたたえられたものであった。しかしそれはまったくの空想と空論と形而上学な観念論的机上の作文でしかなく、ワイマールのドイツはまったくの階級対立と階級闘争、爆発と収れんの世界であった。政治は混乱し、首相は十三人も変わり、十以上もの政党が入り乱れ、経済は破綻し、道徳は退廃し、失業者が街に溢れ、民衆は働けど働けど苦しく、国民の総生産物はみな戦勝国によって賠償金として取り立てられてしまい、国民の貧困はその極に達していた。

 ドイツ国民を窮乏のどん底に落としたのはあのヴェルサイユ条約であった。敗戦国ドイツが戦勝国によって強制されたこの講和条約は一九一九年六月に調印されたが、ドイツ国民は無力で抵抗できなかった。だが憎悪することはできた。ドイツ国民はヴェルサイユ条約を憎悪し、戦勝国とくにフランスを憎悪し、この屈辱的条約を受諾したワイマール政府を憎悪した。無量の怨恨と無限の痛憤をもって憎悪した。憎悪に憎悪した。ドイツ国民が、この屈辱条約をいかに憎悪したかは、ドイツに住み、ドイツ人と共に暮らした者でなければわかるまい。

 この条約は敗残のドイツに酷烈非情な処罰を課していることを知ったドイツ人は絶望に打ちのめされた。産業と工業と農業に富んだドイツ一連の宝庫たるアルサス・ローレンヌはフランスへ。シュレジェンはポーランドに。オイペン、マルメディはベルギーへと、領土の一三パーセントと人口一〇パーセントを剥奪されたうえ、全植民地と全商船隊を没収され、陸海軍は極度に制限された。しかも戦争の全責任を問われ、巨額の賠償金を支払うばかりでなく、多くの要人は戦争犯罪人として引き渡されていった。炭鉱、鉄鋼、主要産業は根こそぎ強奪されていった。こうしたなかで飢えた国民、貧窮したドイツがどうして巨額な賠償金を払えるのか。悲観と絶望がドイツを支配した。

 インフレが加速され一九二三年一月に一ドルが七千マルクだったのが、八月には百万マルクとなり、ついには天文学的数字となり、白ワイン一本が実に十兆マルクもするに至った。ドイツ国民にはせつな主義があふれ、ベルリンはデカダンスとセックスと麻薬があふれた。音楽の世界では「明日は世界の終末だ」という歌が流行していく。一方ではいつも、どこかで労働者のストライキがおこり、いつも電気は止まり、電車も止まり、街頭では左翼と右翼が衝突を繰り返していた。もううんざりであった。こうしてワイマール末期の世相は実に暗いものであった。

 こういう時代にナチス党とヒトラーは街頭に立ち、デモを敢行し、左翼と激突し、実力で共産党本部や労働組合事務所を襲撃し、ポスターとビラでドイツ国民に呼びかけ、民族主義をあふりたてた。ドイツ国民の民族自決権を奪い返せ、国際連盟を脱退せよ、ヴェルサイユ条約を無視せよ、賠償の拒否、社会秩序の確立、失業者救済、をスローガンに選挙闘争を展開、こうしてナチス党は一九二三年にはミュンヘンで武装蜂起(敗北)、一九二八年、一九三〇年、一九三二年には四回も選挙戦を闘い、こうして一九三三年十一月にドイツにおいてはナチス党をただ一つの支配政党とするファシズム体制の承認を求める総選挙を実施したが、そのときドイツ国民は九六%の投票率と九二・二%の支持をナチスとヒトラーに与えたのである。ナチスとヒトラーはドイツ国民の絶対多数を獲得した。ドイツ国民はナチスとヒトラーに歓呼の声を上げた。ドイツ国民はヒトラーに運命を託した。これが歴史的事実であり、ここに歴史科学があり、ここに社会科学的歴史法則がある。

 科学思想、科学的法則、歴史科学は、すべての事件と事変、そしてすべての人物と英雄は、階級対立と階級闘争の歴史的産物であると断定する。ではヒトラーとナチスを生み出したワイマール時代のドイツにおける階級対立と階級闘争とは何であったのか。それはすでに、先に紹介したとおり、加瀬俊一氏の著『ワイマールの落日―ヒトラーが登場するまで―』が語っているとおり、それはまさに、ドイツ国民の民族自決権を奪った屈辱的ヴェルサイユ条約に対するドイツ国民の民族主義的闘争であり、このような売国的条約を受け入れた憎むべきワイマール政府打倒の闘いであり、国家と社会の安定と安全を求める闘いであり、生活と労働と生きる権利を守る闘いであった。ここにワイマールの時代におけるドイツ国民の階級対立と階級闘争があった。この闘いの力強い核となったのがナチスであり、実はこの党は当初は国家社会主義ドイツ労働者党という名の左の衣をつけた民族主義の党、左翼大衆党であった。これが後に社会ファシズムに転化したのである。いずれにしても当時のドイツ国民は国際帝国主義権力に対する闘い、国内の売国的権力に対する闘い、すべては権力をめぐる闘いであったし、これは歴史の必然であり、その必然性がナチスとヒトラーを生み出し、そのような歴史がナチスとヒトラーにドイツ国民の運命を託したのである。しかしやがてファシズムは歴史の発展法則からして、それはいずれは拒否される運命であり、歴史科学はそのように解決した。それが第二次世界大戦におけるナチスとヒトラーの運命となったとおりである。




世界革命の夢やぶれる

 ボリシェヴィキ首脳部は、ソヴィエト政権が生き残り、社会主義社会を実現するためには、資本主義が発達した(つまり、理論的にはより社会主義社会に近い)ヨーロッパ諸国でも革命がおこる必要がある、と考えていた。

 ドイツ革命は全土にレーテ(労働者と兵士の評議会。ソヴィエトにあたる)を生みだし、「世界革命」の第一歩になるかと思われた。しかし、成立したのは穏健な社会民主党の政権であった。この政党はマルクス主義に立脚するが、議会制民主主義のもとでの社会主義を志向し、路線の違いからロシアのボリシェヴィキと激しく対立していた。

 ただ、社会民主党左派から分かれたスパルタクス団はボリシェヴィキ流の武装革命をめざしていた。彼らは1919年1月ドイツ共産党を結成し、ベルリンなどで蜂起に踏み切った。しかし、政府側の義勇軍に鎮圧され、中心人物のリープクネヒトとルクセンブルクは惨殺された。3月初旬にふたたび蜂起したものの、党首以下3500人が義勇軍に殺され完全な失敗におわった。

 ドイツ共産革命の挫折を「指導力の欠如」にあるとみたレーニンは3月、中欧や北欧、南欧の労働運動の代表者を集め、コミンテルン(第3インターナショナル)を発足させた。ボリシェヴィキをモデルとした共産党を各国に設立し、それをロシアが指導することで「世界革命」を実現しようとしたのである。各国党には、ロマノフ王朝から没収した莫大な財産から資金援助が行われた。

 しかし、「世界革命」への道は険しかった。1919年3月下旬にハンガリーでクン=ベーラ率いる「ソヴィエト共和国」が成立したが、ルーマニア軍と反革命軍の攻撃により4ヶ月あまりで倒れた。ドイツでも、ルール工業地帯で1920年3月に共産党が政権樹立を宣言したものの、正規軍により苦もなく鎮圧された。米・英・仏など先進資本主義諸国では、革命の気配すらなかった。

 ロシア内戦が最終段階にさしかかっていた1920年4月末、ポーランドがロシアに侵攻を開始した。その目的はウクライナ西部への領土拡大であり、5月7日にはキエフを占領した。しかし赤軍は7月に総反撃を開始、1000kmを踏破して8月にはワルシャワ前面に達した。赤軍占領地帯にはポーランド臨時革命委員会が設立され、いよいよ「革命の輸出」がはじまるかに思われた。

 ところが、補給線の伸びきった赤軍はポーランド軍に側面をつかれると総崩れとなり、国外に追い出された。10月に講和が結ばれ、ロシアはポーランドに白ロシアとウクライナの西部を譲った。「世界革命」の夢はまたも絶たれた。