3251−3 マルクス主義研究の研究
 マルクス主義の研究を志してみて、認識の共有が如何に難しいか知らされつつある。しかしあきらめてはいけない。れんだいこの到達し得る限りにおいて要点を整理し、それらを俎上に乗せて喧喧諤諤してみたい。この作業をあまりにしなさ過ぎるからいつまでたっても崩しては積む積み木作業の域を出ないのではなかろうか。以下、注目されるべき見解について考察を試みる。


【アソシエーション」論、ネットワーク論、ポストモダニズム論】
  「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような連合」(『宣言』)を下支えする<生産手段の社会化>について、一言も触れられていない。後で取り上げる村岡到氏は、「近年<アソシエーション>の視点がクローズアップされているが、<生産手段の社会化>と切断された形での<アソシエーション>の強調は認識の後退でしかない」と指摘しているが、同感である。

 全体としては「玉石混淆」と評する以外にない。
 


ひとりよがりのマルクス論 佐々木信男

 マルクスとは一体何であろうか。フロイトやソシュール、ニーチェ、ハイデガーと並び、20世紀という時代に巨大な影響力をもって君臨してきた思想家であるには違いない。だが実際のところを言えば、名前は知っていてもあまり読まれることのない思想家ではないだろうか。だいたい彼の著作は大部で断片的であり、おまけに日本語訳の文も、訳者たちの多大な努力にもかかわらず、原文の難解さを更に難解にしてしまっていることが往々にしてある。だいたい「資本論」全3巻など普通の人が読んで理解できる本ではなくなっている。

 私はマルクスの専門家ではない。しかしながら素人学問で格闘するように読んだマルクスの思想のいくつかのモチーフを平易な日本語で語りなおすことは価値あることではあると思う。「資本論」という本は主として19世紀のヨーロッパの経済分析にある種の力点が置かれている。私はむしろ、“偉大なる未完成品”である「経済学・哲学草稿」や「ドイツ・イデオロギー」に即して彼の思想の哲学的基礎を明らかにしていきたいと思う。

 1、貨幣と資本主義について

 最初に貨幣ということについて、マルクスはどのような概念規定をしているのだろう。

 「貨幣が一切の人間的および自然的な性質を転倒させまた倒錯させること、できないことごとを兄弟のように親しくさせること──神的な力──は、人間の疎外された類的本質[Gattungswesen]、外化されつつあり自己を譲渡しつつある類的本質としての、貨幣の本質のなかに存している。貨幣は人類の外化された能力である」(マルクス「経済学・哲学草稿」城塚登・田中吉六訳、岩波文庫183〜184頁)。

 何を訳のわからんことを、と思われる読者も在ることだろう。要するにこういうことである。例えばここに1万円という価値がある。この額の紙幣は1万円という限度内においてなら自由に商品を買うことができる。すなわちどんな種類の実際的価値にも、この1万円という抽象的な数字は転用することができるというわけである。1万円はバスや電車の交通費にもなれば、一家の電気料金を払ってもいいし、どこかに遊びに行くこともできるし、何かおいしいものを食べることもできる。

 人間という存在は「生産」をして「お金」をもらい、「消費」して生きている。生産とはつまり仕事である。消費もまた仕事である。「お金」という存在は生産と消費を媒介し止揚するひとつの点として人間の前に現れる。つまり貨幣は仕事と仕事を交換するひとつの抽象的な代替物である。そういう意味で貨幣は人間の能力のひとつのシンボルと言える。

 シンボルとはひとつの記号であり、言ってみれば抽象化されたことばのようなものである。ところがシンボルというものは(言葉そのものがそうであるように)固定化して反復化されるとそれは一つの権力になる。例えば国家というものは放っておけば勝手に権力化して、文明化し、官僚化するものである。

 「資本の偉大な文明化作用」と言い、マルクス本人も資本主義内部において多くの使用価値が生み出され、文明が飛躍的に進展していくことを認めている。しかしながらマルクスが未来の資本主義内部において予測するものは、貨幣そのものの権力化なのである。

 「労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多くつくればつくるほど、それだけますます彼はより安価な商品となる。事物世界の価値増大にぴったり比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。労働はたんに商品だけを生産するのではない。労働は自分自身と労働者とを商品として生産する。しかもそれらを、労働が一般に商品を生産するのと同じ関係のなかで生産するのである。 さらにこの事実は、労働が生産する対象、つまり労働の生産物が、ひとつの疎遠な存在として、生産者から独立した力として、労働に対立するということを表現するものにほかならない」(同86〜87頁)。

 また「ドイツ・イデオロギー」においてもこの主題がより発展された形で現れる。

 「諸個人は、いつでも自分自身から出発したが、しかし、もちろん、彼らのあたえられた歴史的な諸条件と諸関係の内部での自分自身からであって、イデオローグたちのいう意味での「純粋な(」)個人からではない。しかし、歴史的発展のあいだに、そしてまさに、分業の内部では避けられない〈歴史[的]〉社会的諸関係の自立化によって、各個人の生活のあいだの区別、すなわち、人格的であるかぎりでの生活と、労働のなんらかの部門およびそれに付属する諸条件のもとに従属させられているかぎりでの生活とのあいだの区別が現われる」 (注1)(マルクス/エンゲルス草稿完全復元版「ドイツ・イデオロギー」渋谷正編訳、新日本出版社、148頁)。

 本来なら、人間の生活には労働に即応した貨幣価値が与えられなければならない。(私は現代の資本主義がそうでなくなっているとは思わない。これはマルクスのひとつの視点であり、資本の論理を転倒させるための一つの戦略だからである。)ところが権力化された貨幣は集積されて資本となり、《資本》という名の一つの社会関係の内部において「資本の論理」が働くようになる。簡単に言うと「カネの論理」である。マルクスが模索する理想的社会とは資本の論理を止揚したその後で、いかにして人間の人間的な労働が「生の第一の欲求」(「ゴータ綱領批判」)となり得るのか、ということを目指していく社会なのである。

 「以前のどの時代にも、〈この〉生産諸力が、諸個人としての諸個人の交通にたいしてこのような無関係な姿をとったことはなかったのであり、というのは、彼らの交通そのものがまだかぎられたものだったからである。他方で、この〈引き[離された]〉生産諸力にたいして大多数の個人が向きあっており、この諸力は彼らから引き離されていて、それゆえに、彼らはあらゆる現実的な生活内容をうばわれて、抽象的な諸個人になってしまったのだが、しかし、そのことによってはじめて、彼らは、諸個人として相互に結合することができる境遇におかれるのである。〈抽[象的な]〉彼らがまだ生産諸力および彼ら自身の生存にたいしてたもっている唯一の関係、すなわち労働は、彼らの場合に自己活動のあらゆる外観を失ってしまい、そして、労働が彼らの生活を不快にすることによってのみ、彼らの生活を維持する。以前の諸時代には、自己活動と物質的生活の産出とは、それらが別々の人物に属したことによって分けられていて、物質的生活の産出は、諸個人自身の局限性のためにまだ低級な種類の自己活動〈と〉とみなされたが、これにたいして、今日では、〈自己活動〉一般に物質的生活〈と〉が目的として現われ、この物質的生活の産出、すなわち労働Fが手段として現われるほどに、自己活動と物質的生活の産出とはばらばらになっている」 (注2)(同166頁)。

 少々長い引用になってしまったが、マルクス・エンゲルスの二人の労働に対する見解がよくわかる文章であると思う。労働とは「物質的生活の産出」と「自己活動」という二つの体裁を持っている。貨幣とはその両者を媒介し止揚するひとつの標識なのである。ところが貨幣が蓄積され、資本の論理が権力化すると、「自己活動」であるはずの人間の生の自由な物象化作用が疎外され、単なる「もの」的生産に従事するだけの資本の歯車のような存在に甘んじてしまう、そういった事態をマルクスは資本主義の未来において危惧しているわけである。

 (注1) この「ドイツ・イデオロギー」の文はエンゲルスの書いたものであり、これをもってマルクスの見解とすることはいささか牽強付会の謗りを免れ得ないかもしれない。「ドイツ・イデオロギー」という遺稿は大部分がエンゲルスの筆になるものであるが、マルクスがエンゲルスの原稿に補筆を行っていること、また「ドイツ・イデオロギー」全体の序文をマルクスが書いていることなどから、基本的な唯物史観の理解に関しては共通の見解に達していると判断することが妥当であると筆者は考える。マルクスとエンゲルスが意見を異にする部分もまた存在すると筆者は考えているが、これについては後述する。(注2) この文もまたエンゲルスの手になるものである。注1を参照のこと。補筆・修正が多く、決定稿とは言い難いが二人の見解は充分に推し量ることができると信ずる。

 2、生産とは何か

 マルクスという人の思想の中心テーゼは“生産”という言葉で表すことができる。生産行為こそが、人間と動物を分かつ決定的な差異であり、人間の歴史を決定する規定的要因であると彼は捕らえている。 (注1)

 「社会で生産をおこなっている個々人の社会的に規定されている生産が、いうまでもなく出発点である」(マルクス『経済学批判序説』・「経済学批判」所収、武田隆夫・遠藤湘吉・大内力・加藤俊彦訳、岩波文庫、287頁)。

 さて、ここで一つの疑問が生ずる。ではマルクスという人は「生産」というものをどのようなものだと考えているのだろう。「生産力」や「生産関係」とかいう言葉はきちんとした定義付けもなされぬまま、お題目のように唱えられてきた感がある。果たしてマルクス自身はどう考えていたのか。

 「すべての生産は、ある一定の社会形態の内部で、またそれを媒介として、個人の側からなされる自然の占有である」(同293頁)。

 生産という行為によって人間は自然から飛躍する。すなわち人間は自然そのもの、そのままの中にではなく、自然を素材として変形・発展させた文化・文明、そういった人間的社会形態の中に生きることを選んだ生命体なのである。人間はもはや生命を維持するためだけに食物を摂取するのではないし、種を保存するためだけに性行為をするのではない。人間にとって生きるということは動物的・野性的な生を生きることではなく、あくまで文化的・社会的、そして人間的な生を生きることなのである。動物は《意味》という抽象作用を持たない。だが人間は抽象作用としての《意味》を感じなければ「人間的な生」を生きることができないのである。

 「しかし生産が消費のために創造するものは、ただその対象だけではない。生産はまた、消費に、その規定性、その性格、その finish 《仕上げ》をあたえる。消費が、生産物に生産物としての仕上げをあたえたのと同じように、生産は、消費にその仕上げをあたえる。[消費の]対象は、けっして対象一般ではなくて、ある一定の対象であり、しかもそれは、ある一定の、生産そのものによってふたたび媒介されるような仕方で、消費されなくてはならない。空腹は空腹であるが、料理された肉をフォークやナイフでたべてみたされる空腹は、手や爪や牙をつかって生肉をむさぼりくらうような空腹とは、別のものである。だから消費の対象ばかりではなく、消費の仕方もまた、生産によって、客体的にはむろんのこと主体的にも、生産される」。(同300頁)

 「ドイツ・イデオロギー」の中で「意識は最初から既に社会的な産物であり、およそ人間が存在するかぎりそうでありつづける」(前掲書58頁)という表現が見られる。 (注2) これをもって明らかなように、マルクスにとって“生産”というキータームは単なる経済的な要因という偏狭な了見に押しこめられてしまうようなものではない。“生産”とは人間の人間としての存在の条件であり、人間が自然的な生を飛び越えて人間的な生の存在へ至ろうとする、意味としての存在の開示のことをいうのである。ハイデガーによれば現存在は世界=内=存在として存在している。 (注3)つまり存在というものはある世界観の中のひとつの意味の要素のようなものとして世界性・体系性を内持しているのである。例えば音楽における「ド」というひとつの階名は、ハ長調やヘ短調といった関係性(換言すれば世界性・体系性)の中のひとつの意味として人間の耳に認識される訳である。

 「生産のこのような様式は、それが諸個人の肉体的存在の再生産であるという側面からだけ考察されるべきではない〈のであり、それは〉。それは、むしろ、すでにこれらの個人の活動のある特定の方法、彼らの生命を表出するある特定の方法、彼らのある特定の生活様式なのである。諸個人が、〈自己を表出する〉彼らの生命を表出するとおりに、彼らは存在しているのである。したがって、彼らがなんであるかは、彼らの生産〈様式の中に〉と、すなわち、彼らがなにを生産するのか〈ということのなかに〉と、また、彼らがいかに生産するのか〈ということの《なかに》〉と〈示される〉一致する。したがって、諸個人がなんであるかは、彼らの生産の物質的諸条件に依存する」(前掲書「ドイツ・イデオロギー」18頁)。

 マルクスは前述したように、資本主義の過剰に極まった中では「自己活動」としての生の生産とは別に、それとは分離された疎外された生の再生産様式が現出する事態を暴露した訳であるが、彼の考える人間の生の純粋な“生産”とは、自然を人間の手によって昇華させ、物象化された世界として創造・開示することをいうのである。すなわち生産とは、社会的人間の協働に基礎づけられた世界性・価値・意味の創造にほかならない。

 真の「生産力」とはただ単に財貨を作り出すだけの力ではないし、「生産関係」とはただ労資関係だけを指す言葉ではない。「生産力」とは人間が自然を人間的・文化的なものとして昇華させる力そのものであり、その「生産力」が社会における協働関係という相で現じたものが「生産関係」と呼ばれるのである。だが「生産力」と「生産関係」という二つの語を切り離して論ずることは避けるべきである。なぜならマルクス自身が人間の本質を「社会的な諸関係の総和」 (注4) と表現するように、本来一人の人間による創造行為と社会そのものによる創造行為は切り離すことができないものだからである。すなわち「生産力」とは「生産関係」のことであり、「生産関係」とは「生産力」である、という言い方もできるのである。つまり生産とは、「ある一定の社会形態の内部で」「個人のがわからなされる自然の占有」だからである。

 マルクスの思想は単なる唯物論ではない。それは弁証法的な唯物論である。彼の思想が単なる「もの」的契機によってのみ歴史・社会が発展してゆくというように歪曲されてはならない。彼は人間の“生産”という行為に着目することによって、世界そのものの在り方が「生産諸関係」すなわち創造的人間関係によって規定されていること、人と人との関係が物と物との関係として表示される事態が人間の物象化的な錯認であること、こういったことをマルクスは明らかにした訳である。

 「・・・それゆえ物性は、あくまで自己意識に対して自立的なものでも本質的なものでもなく、一つのたんなる被造物であり、自己意識によって措定されたものであるということ、そして措定されたものは、自己自身を確証してみせるのではなく、ただ措定するという行為を確証してみせるにすぎず、しかもその行為が一瞬のあいだは自分のエネルギーを生産物として固定し、仮象としてそれに一つの自立的な現実的なものという役割を ──ただしほんの一瞬のあいだにすぎないが──与えるということである。(中略)

 ここにおいて、貫徹された自然主義あるいは人間主義が、観念論とも唯物論とも異っているということ、また同時に、それがこれら両者を統一する真理であることをわれわれは見いだす」(前掲書「経済学・哲学草稿」204〜205頁)。

 (注1) 例えばエンゲルスは晩年、ブロッホにあてた手紙の中で「唯物史観によれば、歴史における究極的な規定的契機は現実的な生の生産と再生産です。それ以上のことは、マルクスも私もかって主張したことがありません」、「しかるに経済的契機が唯一の規定的契機だというようにねじまげられてしまうと、先の提題は無内容な、抽象的で馬鹿げた空文句になってしまいます」と述べている。廣松渉「今こそマルクスを読み返す」(講談社現代新書)68〜69頁を参照されたい。

 (注2) この部分はエンゲルス執筆である。この引用部の右欄の書き込みにエンゲルスの筆跡で「ある関係が存在するところでは、それは私にとって存在するのであり、動物は、なにものにたいしても「関係」しないし、そもそも関係しない」と書かれており、またそれに続けてマルクスの筆跡で「動物にとっては、それの他のものにたいする関係は、関係としては存在しない」と書かれている。またエンゲルスの部分の「関係」の下に引かれた下線はマルクスによるものの可能性が高いようである。(前掲書「ドイツ・イデオロギー」59頁および「別巻、注記・解題」の49頁を参照)

 (注3) 例えば「存在と時間」に次のような一文がある。「このような形で世界と「関係」をもってみることが可能であるのも、現存在がもともと世界=内=存在として存在しているからにほかならない。この世界=内=存在という存在構成は、現存在という性格の存在者のほかになお別の存在者が客体的に存在していて、現存在がこれと出会う、ということによってはじめて成立するものではない。このような存在者が現存在「と出会う」ということが可能であるのも、それがそもそもある世界の内部で、それ自身の側からおのれを示してくることができるからなのである」。(ハイデガー「存在と時間・上」細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫、134頁)

 (注4) マルクスの手帳の覚書である「フォイエルバッハにかんするテーゼ」の第6テーゼより。(服部文男監訳「ドイツ・イデオロギー」所収、新日本出版社、112頁)

 3、共産主義の二人の見解について

 マルクスの思想の形成過程を追おうとするとき、どうしても1844年の前後に書かれた「経済学・哲学草稿」と1846年のエンゲルスとの共著遺稿「ドイツ・イデオロギー」に触れねばならない。この間に明らかにマルクスはエンゲルスの影響により、思想の発展を遂げているからである。

 「経済学・哲学草稿」の思想(いわゆる初期マルクスの思想)は、簡単に言ってしまうとこうである。つまり、資本主義経済というものはお金の蓄積によって“カネの論理”によって動いていて、このような社会は人間の自由な創造行為としての労働を「疎外」してしまう、ということである。ずいぶんと乱暴な言い方であるが、要するにそういうことである。

 ところで、マルクスはそういったことを言わんがために、いろいろと貨幣や私有財産とか労働とかいったものをこの草稿の中で問い詰めていく。その結果、どうなるか。結局マルクスは疎外論を中心に資本主義経済一般を分析しながら、究極的には疎外そのものを回復することができない、というジレンマに陥ってしまうのである。どういうことかというと、「草稿」においては、労働・自己活動そのものがヘーゲル的な対象化や外化であると論ぜられている。確かにそう言われてみればそうである。人間はいわゆる“以心伝心”ができない。心で思ったことは形(あるいはシンボルとも言えるか)にしなければならない。形を見て、他者はそこに「心」を見る。そうして人間は関係を互いに取り結ぶわけであるが、これはつまり労働が存続する限り、疎外は永久に再生産されることになることを意味するのである。

 マルクスは、人間の自己産出をひとつの対象化・対象剥離・外化としてとらえるヘーゲルの労働観を「偉大なるもの」として評価する。しかしヘーゲルの労働の運動の主体はあくまで抽象的な「精神」である。フォイエルバッハはこの主体に批判の目を向けたのであり、主体を「類的本質」としての諸個人と置き換える。マルクスはこの主体概念に関して、フォイエルバッハの主体に則りながらも、それを乗り越えようと企図しているわけであるが、「経済学・哲学草稿」においてはそれが達成されているとは言い難い。純粋な個人ではなく、類的な諸個人としての“個人”を「草稿」においてマルクスは人間の主体概念として仮定する訳だが、それが明確な形にマルクスの頭の中でなっていたかというと、どうもそれは未完成であったようである。すなわち、結局のところ「草稿」においては労働は自己活動の“外化・剥離化”でしかなかったからである。そして「草稿」ではマルクスは《共産主義》そのものに対し、決して肯定的に書こうとしないのである。

 「共産主義とは否定の否定としての肯定であり、それゆえに人間的な解放と回復の、ひとつの歴史的発展にとって必然的な、現実的契機である。共産主義はもっとも近い将来の必然的形態であり、エネルギッシュな原理である。しかし共産主義は、そのようなものとして、人間的発展の到達目標──人間的な社会の形姿──ではない」。(前掲書「経済学・哲学草稿」148頁)

 マルクスのこの草稿では「私有財産の止揚つまり共産主義」がまだ低い次元であり、より高次なものとしての「社会主義としての社会主義」が云々される。だが、この部分のマルクスの叙述はよく意味がわからない。草稿は途中で中断されており、明確な結論が彼の中でこの時出ていたとは、正直言い難い。とりあえず、ここでは“共産主義”なる段階が彼の中ではひとつの過程として考えられているということ、このことをまず確認しておきたい。

 エンゲルスは1843年の頃までには、はっきりと共産主義に対し賛成の立場をとっていたようであるが、マルクスは少なくとも1844年のある時期まで、考えようによっては1845年にいたるまで共産主義に対し、懐疑的な態度をとっている。また「ゴータ綱領批判」などからもわかるようにマルクスはその生涯にわたって共産主義の運動にある意味、ひとつの“留保”をつけていた感がある。

 共産主義運動に対するエンゲルスとマルクスの考え方の相違は「ドイツ・イデオロギー」において部分的に散見される。この共著遺稿は基本的にエンゲルスが執筆したもので、それをマルクスがその後で見直しをして、校正や手直しをしたり頁付けを行ったりしている。基本的な唯物史観に対する了解事項に関しては、両者はほぼ共通の見解に達していると判断しても、強ち間違いではない。エンゲルスがイニシアチブをとって書かれたものであるからと言っても、あくまで原稿そのものは二人の“共通の見解”として書かれたものであるはずだからである。

 しかし、それが共産主義に対する二人のベクトルの違いになると、事は少々違ってくる。「ドイツ・イデオロギー」における二人の共産主義に対する温度差はかなり明確に見て取ることができる。

 「ドイツ・イデオロギー」の草稿18頁の右欄にマルクスの書き込みがあるが、この部分でマルクスは次のように述べている。

 「共産主義は、われわれにとって、つくりだされるべき状態、〈フォイエルバッハが・・・[理想]〉現実がしたがわなければならない[であろう]理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは、〈実[践的]〉現実的運動であり、〈その運動は実践的な〉その運動は現在の状態を廃棄する。」(前掲書「ドイツ・イデオロギー」65頁)

 どうもマルクスは共産主義社会を打ち建てられるべき社会状態とは考えてはいなかったようである。マルクスは共産主義なるものを来るべき人間の身の解放のための一過性の「方便」というように考えていたのである。廣松渉は「ドイツ・イデオロギー」の研究を通じて、当時マルクスが思想的に立ち遅れていて、それをエンゲルスが正しい共産主義運動にリードしたということで、「唯物史観」の完成者エンゲルスを高く評価しているようであるが、私はこれに全面的に首肯するものではない。マルクスはエンゲルスと並ぶ共産主義運動の実質的リーダーであった。先述の「経済学・哲学草稿」の引用のところでも述べたが、むしろマルクスは未来において共産主義社会が必然的に行き詰まることを、ある意味予見していたのではあるまいか。革命運動はユートピアを固定化した瞬間に、イデオロギーへと堕してしまう。マルクスにとってみれば共産主義社会はひとつの《過程》でしかないのであり、現実の体制を常に批判的に見てそのうえでそこに《生産的な批判》をしていくこと、そして社会を変えゆくこと、その現実的な民衆運動こそがマルクスの考えた“共産主義”なのである。なるほど現実的な現在のマルクス主義を作ったのは実はエンゲルスであるかもしれない。しかし、だからといってこの時のマルクスがエンゲルスよりも立ち遅れていたというのは、少々論理の飛躍がありはしないか。むしろ、こういったほうが正しいように思う。マルクスは共産主義運動というものをエンゲルスとは少し違った視角から見ていたのである。マルクスの考える共産主義運動は民衆の覚醒運動といったほうが近いように私には感じられるのである。

 マルクスが、珍しく未来の来るべき共産主義社会に対し、かたい口を開いた一書がある。「ドイツ労働者党綱領評注」、俗に「ゴータ綱領批判」と呼ばれる本がそれだ。この書の中でマルクスは「資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会」と「共産主義社会のより高度の段階」についていろいろ述べる。 (注1) だが「共産主義の第一段階」が「長い産みの苦しみ」を避けられないことは良くわかるのであるが、「共産主義の第一段階」の叙述を見ると、それはまるでトマス・モアのユートピアを思わせる。「労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこと」となるような理想としての社会像はわからなくもないが、果たしてこのような社会が歴史の発展段階としてやってくるのか、その実証的・科学的基礎はあるのか、というと大きな疑問を抱かざるを得ない。

 恐らくマルクス自身、明確にはわかっていた訳ではないと思う。マルクスが当面のところ直面していた問題は、マルクスの生きていた時代においての共産主義運動をいかに導いていくかということであろう。しかしマルクスの念頭からは、共産主義のより高度の発展段階としての民衆運動がどのようなものになるのか、という思索は終生去ることがなかったのではあるまいか。

 (注1) マルクス「ゴータ綱領批判」(望月清司訳・岩波文庫)の35〜39頁を参照のこと。

 4、疎外論と物象化論

 人間は、人間として生きるために、価値を生産、消費しなければならない。ところが価値を創るためには、人間は自己の本質を外化しなければならない。例えば労働を貨幣に変えなければならない。けれども硬貨や紙幣の中をどこをどうやって探してもあの労働に費やした汗水や本人の意志や働くことの喜びといったものは出てこない。例えば音楽を作るためには楽譜にしなければならない。しかし書かれた音符は記号でしかなく、そこには音楽の本質である人間性が存在していない。楽譜を再び音楽として蘇らせるためには、人間がそれぞれの音符に意味を与えながら(つまり、人間が音楽を感じ、解釈しながら)演奏しなければならない。すなわち、人間性を記号として表そうとする時、記号が記号のみの意味となってしまって人間性が無くなってしまうような現象を私は疎外と呼ぶ。

 と、すると価値を創造するという行為は全て疎外化ではないか、という問が立つ。確かにそうである。しかし私たちは価値を作り続けることができる。アルバイトをすれば給料が入る。給料とはある意味、アルバイトの疎外の結果である。しかし、私たちはそのわずかばかりの給料からさまざまな価値を再創造できる。楽譜は記号であるが再創造することによって、音楽として蘇らせることができる。つまり疎外を克服する方途とは、価値を創り続けることに尽きるのである。ところで価値を創り出し、感じ取る主体は、たとえ社会状態に基礎づけられていても所詮個人である。つまり疎外という事態から人々を守るためには、価値を創出しようとする意志を人間の内面から引き出さなければならない。

 ところで、筆者は今疎外ということについて述べた訳だが、疎外という言葉と並び、よく用いられるタームに「物象化」というものがある。G・ルカーチという人が物象化ということを言い出した最初の人のようである。だが彼にとっての物象化は疎外化ということとそれほど意味の相違を見せていない。彼にとっては疎外化と物象化はそう変わらないもののようである。

 日本において物象化ということを言い出した最初の人は廣松渉のようである。どうも彼によると物象化と言うものは「人と人との関係がものとものとの関係として表される事態」であるらしい。どうもわかるようでわからない。

 例えばこういうことを考えてみよう。日本における学校という教育現場、そこで考え得る最も基本的な人間関係は「生徒」と「教師」であろう。「教師」が「生徒」にたいし授業をする場所、それはもちろん教室である。教室には教師のための「教卓」があり、生徒のために個々人それぞれに「机」があったり、「背面黒板」や「掲示物」があったりする。

 山口昌男と言う人は、学校とは一つの劇空間なのではないか、ということを言っていたが、物象化とはこういうことを言うのではないだろうか。例えば生徒の誰かが「教卓」にいたずら書きでもしようものなら、教師はその生徒から馬鹿にされた気分になるにちがいない。なぜならこの場合、「教卓」への侮辱は「教師」というひとりの人間への侮辱になるからだ。人間関係がものの関係に姿を変えて現れ、ものの関係が人間関係を示すようになる現象を私は物象化と呼ぶ。

 ところで、いわゆる初期マルクスと後期マルクスとの思想の間には、確かにアルチュセールが「認識論的切断」という言葉で述べたように、ある種の思想の飛躍というものがある。それはよく「疎外論から物象化論へ」と言う一文で表される。

 ところで疎外論という発想から何が出てくるか? 簡単に言ってしまうと「人間が社会を創出する」という視点である。当たり前のことだがこの考えからはどうやっても社会革命という思想は出てこない。「体制が人間個人を疎外する、だから体制はおかしい」と言う考えは出てくるであろうが、それでもその体制を作ったのは人間なのである。だからまず人間が変わるべきだという考えが出てくるのは自然なことである。つまり、疎外論では社会革命という思想を定礎できないのである。

 では、物象化論ではどうか? 簡単に言うとこれは疎外論の逆で「社会が人間を創出する」という視点である。もちろんここから社会革命の思想まではあと一歩といったところである。なぜならこの場合、社会の変革によって人間の生も変わり得るということになるからである。

 ここで一つ大切なことを強調しておかなければならない。それはマルクスとエンゲルスの共著遺稿である「ドイツ・イデオロギー」についてである。周知のように「ドイツ・イデオロギー」と言う書は、フォイエルバッハやB・バウアーなどの先行する思想家を批判しながら、社会革命による共産主義社会を定礎するために書かれている。

 既に述べたように、また周知のとおり「ドイツ・イデオロギー」はその殆どの部分がマルクスではなくエンゲルスによって書かれている。そこからいわゆる「エンゲルス主導説」なるものが一部の研究者の間で言われ出した訳であるが、私見を言えばこの遺稿の思想の悉くがエンゲルスの発想であるということは、それはいくら何でも言い過ぎであろうとは思う。エンゲルスの書いた草稿にマルクスは目を通して実際に手を加えている訳であるし、また「ドイツ・イデオロギー」全体の序文はマルクスによって書かれているのである。お互いに意見を出し合いながらの共同作業的な著作であったとするのが冷静な判断であろう。

 だが何もかも全く同じ意見を二人とも持っていたとするのもおかしなことである。ひとつだけ、明らかにベクトルの違いを両者の間で見せている事項がある。それが、共産主義というものに対する両者の考え方の違いである。

 マルクスの考える共産主義社会というものを考えるためには、どうしても「経済学・哲学草稿」、「ゴータ綱領批判」そして「ドイツ・イデオロギー」のマルクスが補筆した部分を参照しなければならない。不思議なことであるが、マルクスは意外に共産主義社会に対し、批判的な目で見ているのである。もちろん彼は共産主義者同盟の実質的な指導者であり、運動をリードした中心人物であったことは疑い得ないが、それでもなお彼は共産主義の運動と言うものを一過性の方便のようなものとして考えていた節がある。

 「社会を変革するためには個人が変わらなければならない。だが個人では社会体制を変えることはできない」。おそらくマルクス・エンゲルスはこういうことを考えたのであろう。だがマルクスはエンゲルスのように「だから共産主義・社会革命なんだ」とは安易に言わない。これはあくまで私見に過ぎないが、エンゲルスは「社会の変革」と「社会体制の打破」を混同しているように私には見える。真実の社会の変革とは、社会を破壊することでも否定することでもない。それはマルクスが言ったように「否定の否定としての肯定」でなければならない。

 マルクスが疎外論という考えを完全に捨て去ったというのは少しおかしいように思う。G・ルカーチが使った物象化というタームが「疎外」という考え方とセットになって使われていたように、「疎外」という言葉がある意味、下地となって「物象化」という言葉が使われたのである。マルクスは疎外論を克服し、一歩進んだ“こと”的な世界観構造というものを考えていたのであるが、彼の価値論を語るとき「疎外」というものを抜きにして考えることはできないのである。

 私たちは人間として、すなわち社会の中の個として、生きるときに必ず一つの矛盾に突き当たる。それは個人と体制との間の矛盾である。私たち人間は身体的には個人であるので、自由になりたいと思うのは普通のことである。だが私たちは個人でありながら社会の中の一人としてでしか生きられないような存在である。例えば人間は、職場の顔、友人に会うときの顔、恋人に会うときの、家族の中での顔、といったように様々な人格を場の差異によって使い分ける。エリクソンやG・H・ミードが言ったように人間は他者との距離によってのみ自己を確かめることができるのである。そこで個人は社会との矛盾に突き当たる。「職場は私を理解しない」、「家族は私をわかってくれない」、「学校なんてつまらない」等々、個人は形骸化した集団性に疑問を感じる。

 個人は社会を憂い、社会を変えたいと思うであろう。より良い社会を願うのは個人として至極当然のことである。問題はその方法である。例えばマルクス主義者たちはいわゆる革命を考えた。彼らは現行の体制の崩壊を前提とする。すなわちいったん一切をゼロにして、そこから人間らしい社会を造ろうと考えるのである。

 だが、個人的な意見を言わせてもらえれば、このような社会革命はわがままなことこの上ない。いわば自由の濫用である。例えば社会というものを草野球の場として考えてみよう。草野球には審判がいない。皆の意見でアウトかセーフかを決めるわけである。だが公式に試合をやろうと思うとどうしても審判が必要になってくる。ところで審判という名の“ブルジョア”が現れ始めるとゲームそのものが少々変わり、草野球ではなくなってくる。そのうち弊害も現れ始める。今のは誰が見てもセーフのところを審判の独断でアウトと言う場面も出てくるであろう。はた目には審判が独善的に見えてきたりする。ところでマルクス主義者たちのやろうとしていることは、要するにこの審判たちを皆殺しにすることである。果たしてそんなことをして何の意味があるだろうか。審判たちを「独善的だ」、「ブルジョア独裁」などと言っても、審判には審判の役割があるのである。審判の存在を否定しても、またすぐに審判が必要になるときが来るのである。

 本当の社会の変革とはそういうことではない。社会の存在と個人の行為は切り離せない而二不二の関係にある。個人とは、花崎皋平氏が言うように集団の中における集団を変革し得る潜勢力(ポテンツ)である。

 「第三段階は、全面的に社会化された、自由な個人の人格的依存関係の段階である。ここでは、普遍的に発展した諸個人が、彼らの社会的関係をも、彼ら自身の共同的な諸連関として、彼ら自身の共同的な制御に服させるのだとされる。われわれが、現在おかれているのは、この三つのうちの第二段階であり、ここでの社会的なつながりは、事物(商品と貨幣)によってたもたれ、生産するものの生産物は、生産者とは無関係となり、むしろ生産者を奴隷化する力としてはたらく。したがって、生産という行為のうちに、人間の人間としての人格的なありかたは存在しなくなっている。このことを、『プロレタリアの人格と彼にしいられている生活条件、つまり労働との矛盾』とマルクスはのべている。マルクスにおける『人格』の概念は、それだけ独立にとりあげてしらべてみるねうちのあるものであるが、直接的には人間の素質としてあたえられた創造的な諸潜勢力(ポテンツェン)であり、人間の人格的なありかたというのは、自然的諸力と人間自身の潜勢的諸能力の自由な発展を可能にするようなありかた、それらを目的意識的に支配し、制御するような社会的なありかたのことである」(花崎皋平「マルクスにおける科学と哲学」盛田書店、89〜90頁)。

 個人とは社会および社会的価値を創出する実際の「主体者」なのである。マルクスの有名な唯物史観の公式においては、社会の下部構造・すなわち生産諸関係の変革によって社会全体の上部構造が徐々にせよ急激にせよ覆ることになっている。しかしこの下部構造の変革というものを果たして、「社会の貨幣の分配のシステムを変えること」のみにその意味を限定してよいのだろうか。

 本当の生産諸関係の変革とは人間の内面の変革である。社会とは民衆の交通のシステムである。私がこのマルクス論において、最後まで疎外論を否定しないのはここに理由がある。すなわち人間の価値の疎外が人間の不幸のひとつの因とするならば、その克服の方途もまた人間主体の価値の再創出に求められなければならないと信ずるからである。

 物象化論は、社会の存在によって人間ができるという視点を提示する。しかしそれは、ともすれば個人を社会性の囚人へと貶めてしまうのである。それは行き過ぎると人間主体の無限の可能性を否定し得るものであると私には思える。マルクスが「ドイツ・イデオロギー」以降において疎外論を克服したのは、社会という単位があって初めて人間の存在があるのだということ、諸集団の存在を抜きにして個人の確立を語ることはできない、ということに哲学的基礎を与えるためであった。しかし、マルクスは何のためにあの膨大な「資本論」を遺したのかと問うのなら、それはただひとつ民衆の幸福のためであった筈である。資本主義の嵐はマルクスの生きていた当時、巨大な怪物のように見えたのであろう。

 しかしマルクスは「ゴータ綱領批判」を繙けばわかるように、革命が容易に進むものであるとは決して考えていない。むしろそれは「生みの苦しみ」の辛酸を嘗めねばならないとマルクスは言う。つまりエンゲルスのシンプルな共産主義思想とは異なり、マルクスは社会の変革がそのまま個人の変革へと、車の両輪のようにつながっていなければならないと感じたのである。

 真の民主主義の勢力となり得る集団は、それは作られるものではなくて、自然発生的にできあがるものである。個人とは花崎皋平が言うように、集団の中における集団を変革し得る潜勢力である。個人の変革によって社会を真に変革することができるのである。真の革命とは二次的な社会を変えることではなく、人間を変えることで社会の変革を促すものである。われわれは価値を創り出すことができる。そして価値が再生産の過程に閉じ込められないように、われわれは再び価値を創造していかなければならない。その価値を創出する力、人間の内面の“生産力”を自由に発動させることこそ、個人の社会に対する一つの使命であり、責務である。

(参考文献)

  • K・マルクス「経済学・哲学草稿」(城塚登・田中吉六訳、岩波文庫)
  • K・マルクス「経済学批判」(武田隆夫・遠藤湘吉・大内力・加藤俊彦訳、岩波文庫)
  • K・マルクス「経済学批判要綱」(高木幸二郎監訳、大月書店)
  • K・マルクス「ゴータ綱領批判」(望月清司訳、岩波文庫)
  • K・マルクス/F・エンゲルス「草稿完全復元版ドイツ・イデオロギー」(渋谷正編訳、新日本出版社)
  • K・マルクス/F・エンゲルス「[新訳]ドイツ・イデオロギー」(服部文男監訳、新日本出版社)
  • 廣松渉「今こそマルクスを読み返す」(講談社現代新書)
  • 今村仁司「現代思想の基礎理論」(講談社学術文庫)
  • M・ハイデガー「存在と時間」(細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫)
  • T・カーヴァー「マルクスとエンゲルスの知的関係」(内田弘訳、世界書院)
  • T・オイゼルマン「マルクス主義と疎外」(樺俊雄訳、青木書店)
  • C・C・グールド「『経済学批判要綱』における個人と共同体」(平野英一・三階徹訳、合同出版)
  • 城塚登「若きマルクスの思想」(勁草書房)
  • 竹内良知「マルクスの哲学と宗教」(第三文明社)
  • 花崎皋平「マルクスにおける科学と哲学」(盛田書店)
  • 山口昌男「学校という舞台」(講談社現代新書)
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