マルクス主義原書を読まねばならない事由考

 (最新見直し2006.7.8日)

 2006年7月、エンゲルスの「空想から科学へ」の翻訳に着手した。それについて思うことを以下書き付けておく。

 マルクスの原書について思うことはこうである。「読んだからと云って、どうなるもんでもなかろう」。これは、訓詁学的に博学をひけらかす識者に云いたいセリフである。次に云いたい事は、「読まなきゃ、どうにもならんだろう」。読まずいて批判ばかりしている連中への当てこすりセリフである。次に、「読ませるように仕向けず、読ませなくすようにする意図はナヘンにありや」と云いたい。ニセの友はこういうことばかりしている。これらのいずれの作法をも強く批判したい。

 もう一つ問題がある。それにしても現行の和訳文が拙すぎる。というか、マルクス、エンゲルスの原意を巧妙に卑俗なものに訳し代えている。マルクス、エンゲルスの言葉遣いは非常に吟味されており、故に考慮して訳出せねばならぬのに、単数を複数に、複数を単数にわざわざ訳し代えている。中には肯定のところを否定に、否定のところを肯定に書き換えているような例もある。これでは意味が全く通じなくなる。更には、さほど必要でもない解説を原文に書き加えて、文章の格調を落としこめている。

 この驚くべき狂態が、罷り通っている。こういう風なことが故意でなくして有り得るだろうか。れんだいこは、これを訝る。世に識者は居るが、何故にこのことを告発しなかったのだろう。思えば、れんだいこが若かりし頃、マルクス主義文献を読んでみて、理解し難い箇所があった。何度も放り投げざるを得なかった。しかし、れんだいこの能力不足のせいにして、まさか翻訳の悪文を疑うことが無かった。なぜなら、共産党の発行文書であったり、錚錚たる泰斗の訳であったからである。

 しかし、れんだいこは今確信している。明らかに変調訳が押し付けられている。彼らはなぜかように悪訳にしたのか。著作権主張も然りであるが、普及の為にではなく閉じ込める為に論じている。この云いはウソではない。何なら彼らの主張に耳を傾けてみよ。馬鹿げたこと甚だしく、悪意を見ないわけにはいかない。

 それにしても、同じような疑問を抱かない、あるいは抱かなかったその他大勢の学士の頭脳はどうなっているのだろう。れんだいこは、かの悪訳でも理解し得たその能力に脱帽せざるを得ない。れんだいこは、既成左派運動への深い失望から、一からの見直しに向かい始めている。その一環として、れんだいこの翻訳能力は拙いにせよ、気づいた以上、良訳を求めて為しえる限り奮闘せねばならない。この現実に立ち向かわない左派は、怒りが少な過ぎよう。

 不平ばかり云ってもしようがないので、れんだいこが率先する。いつもの作法である。御意の同志よ、手分けして真っ当な訳文を作り上げ、サイトアップしようぜ。知の共有を、人の協働を共同を創造せん。この先に社会主義が待ち受けているのであって、この道なしには有り得ない。この根本理合いが分からない自称社会主義者なぞクソ食らえ。

 2004.1.25日、2006.7.8日再編集 れんだいこ拝

 俗に、「知は力なり」であろう。一般に政治的議論の場合批判が逞しゅうされるが、空転しがちである。これから学ぶのに、いわゆる基礎知識が不足している場合が多い。そこで、れんだいこは考えた。最低限の教養として次のような教材はマスターしておかねばならないと考えられるものをピックアップし、我がサイトに晒しておくことにする。文意は変えてはならないが、できるだけ読みやすくする為の改変も辞さない。後は活用を望むばかりである。

 マルクス主義の原典に当る意義は、軽視されがちだが次のことにある。いわゆる弁証法的唯物論という人類の認識が到達した高みを学ぶことに尽きるが、マルクス自身が著作の中でこの手法を実践しており、マルクスを置いて他はなかなかこれを為しえていない。故に、通俗的な解説本で事足れリという訳にはいかないのである。あくまで原典に接して、しかる後に解説本で補足せねばならない。誰しも思うであろう。豊かな泉からこんこんと湧き出る清水の匂いを。

 だから、原典に向わせない日共式悪巧み指導を排撃せよ。ならば他所(よそ)はどうか。サイト上に解説本を掲示(サイトアップ)するのは無いよりははるかに良い。但し、原典とセットでなければおかしい。原典を掲示せず解説本をのみ掲示して仕事をしたかのような体裁を取り繕うのはまやかしだ。しかしだ、なぜかこんな風潮しか目に付かない。何なんだろうこの現象は、とれんだいこは訝る。

 次にお願いしておく。他にもいろいろ有る。そこで共同作業人を募集することにする。規約も何も無い。あるのは、本趣旨に合意する人士による手分け方式による共同作業の成果ばかりである。謝礼も無い。それで良いと思う人は掲示板なりメールを頼む。

 補足すれば、いわゆる著作権問題がある。しかし、れんだいこはこれを恐れない。なぜなら、あれは知への偏狭な資本主義的関与制度だからである。ここで取り上げる人士が今生きていたとして、俺の著作を勝手に晒してはならないと問責してくる恐れがある場合にのみ控えることとする。マルクスがエンゲルスがレーニンが市川がそったらこと云う訳が無かろう。

 誰がいつどのような方法で取り込んだのか知らないが、自分が書いてもいないものにましてやあろうことかマルクス、エンゲルス、レーニン、市川のように大衆の利益に殉じて自己の私利を犠牲にしたような人士の著作に対して、権利を主張して他の容喙を拒否するような輩には疑惑を向けるべきだろう。冒涜余りあるというべきだろう。そういう御仁が何事か主張してくれば闘うしかない。れんだいこはそう考えた。だから、この作業は進める。

 2003.3.10日 れんだいこ拝




(私論.私見)