5-1 賃労働と資本


 なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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 上記を転載するに当たり読みやすくするため、任意に漢字変換を行い、引用元、参照本の紹介についても著者名、著作名のみ記す等簡略にした。同様の趣旨から句読点、洋数字変え、段落替えもれんだいこ風に簡略にしました。地文にある解説手引用番号を極力削除しました。正確には上記テクストないし原本に当たるべし。


☆  エンゲルスの序論

 つぎの労作は、新ライン新聞の1849.4.5日号以降につづきものの論文としてのったものである。そのもとになったのは、マルクスが1847年にブリュッセルのドイツ人労働者協会でおこなった講義である。それは、印刷物のうえでは未完成のままになっている。第269号のおわりにある「つづく」は、そのころたてつづけにおこったいろいろの事件、ロシア軍のハンガリア侵入や、この新聞自身が禁止される(1849.5.19日)動機になったドレスデン、イゼルローン、エルバーフェルト、ファルツ、バーデンの蜂起の結果として、実行されずにおわった。このつづきの原稿は、マルクスの遺稿のうちにもみつからなかった。

 「賃労働と資本」は、パンフレット型の単行本としていくつもの版がでている。いちばん最新のものは、1884年、ホッティンゲン=チューリヒ刊のスイス協同組合印刷所版である。これらの従来の版本は、正確に原本の用語どおりであった。しかし、今回の新版は、宣伝用パンフレットとして1万部以上も配布される予定となっている。そこで私には、こういう事情のもとではマルクス自身、原文どおりそのまま重版することに賛成するかどうか、という疑問がおこらざるをえなかった。

 40年代には、マルクスはまだその経済学の批判をおえていなかった。これは、50年代の末にやっとおわったのである。だから、「経済学批判」の第1分冊(1859年)よりまえにでた彼の著作は、個々の点では、1859年よりのちに書かれた著作とちがっていて、のちの著作の立場からみれば妥当でなかったり、まちがってさえいると思われる表現や、章句そのものをふくんでいる。ところで、一般読者を目当てとした普通の版では、著者の精神的発展のうちにふくまれているこういう初期の立場もさしつかえなく、著者にも読者にも、これらの旧著をそのまま重刷させるあらそう余地のない権利があるということは、自明のことである。そして私は、そのうちの一語でもかえようとは、夢にも思わなかったであろう。

 新版がほとんど労働者のあいだの宣伝だけを目的としているばあいには、話はべつである。そのばあいにはマルクスは、無条件に、1848年のころの古い叙述を彼の新しい立場と調和させたであろう。そして私は、今回の新版のために、あらゆる本質的な点でこの目的を達するのに必要な少数の変更や追加をおこなうことは、マルクスの精神にしたがって行動するものだと、確信している。そこで、私は読者にあらかじめおことわりしておく。これは、マルクスが1849年に書いたままのパンフレットではなくて、ほぼ彼が1891年にはこう書いたろうと思われるパンフレットである。それに、ほんとうの原文は非常な大部数で流布しているので、私がそれを将来だす全集にふたたびもとのまま再録できるようになるまでは、それで十分である。

 私がくわえた変更は、みな一つの点をめぐっている。原本では、労働者は賃金とひきかえに資本家に彼の労働を売ることになっているが、このテキストでは彼の労働力を売ることになっている。そして、この変更について私は説明をする義務を負っている。つまり、労働者にたいしては、これはたんなる字句拘泥ではなく、むしろ経済学全体のうちでもっとも重要な点なのだということをわからせるために説明し、またブルジョアにたいしては、無教養の労働者にはどんなにむずかしい経済学上の叙述でもたやすくわからせることができるのだから、一生涯かかってもこういうこみいった問題を解くことのできない、高慢ちきな「教養ある人々」より、無教養の労働者のほうがどんなにすぐれているかしれないということをさとらせるために、説明するのである。

 古典経済学は、産業の実践から、工場主は彼の労働者の労働を買い、それにたいして支払っているという、工場主のありきたりの考えをうけいれた。こういう考えでも、工場主の商売用や簿記や価格計算には、十分まにあってきた。ところが、素朴に経済学にうつしいれられたとき、それは、ここでじつにおどろくべき誤謬と混乱をひきおこしたのである。

 経済学はつぎの事実にいきあたる。それは、いっさいの商品の価格は、経済学で労働とよばれている商品の価格をもふくめて、たえず変動するということ、これらの価格は、非常にさまざまな事情のためにあがりさがりしており、しかもそれらの事情は商品そのものの生産とまったくなんの関係もないことが多いので、価格は普通はまったくの偶然によってきめられるようにみえるということである。そこで、経済学が科学としてあらわれる〔3〕やいなや、その最初に当面した課題の一つは、外見上商品価格を支配しているようにみえるこの偶然の背後にかくれて、じつはこの偶然そのものを支配している法則を、さがしもとめることであった。あるいは上へ、あるいは下へと、たえず変動し動揺する商品価格の内部に、経済学はこの変動と動揺の軸となっている固定した中心点をさがしもとめた。一言で言えば、経済学は、商品価格から出発してそれを規制する法則としての商品価値をさがしもとめたのである。つまり、いっさいの価格変動はこの商品価値から説明され、また結局はみなそれに帰着するはずであった。

 そこで古典経済学は、ある商品の価値は、その商品にふくまれており、その商品の生産に必要な労働によってきめられることを、みいだした。古典経済学はこの説明で満足した。そしてわれわれも、さしあたってはこの説明で満足することができる。ただ、誤解を避けるために、この説明は今日ではまったく不十分なものになってしまったということを、注意しておきたい。

 マルクスが、はじめて、価値を形成するものとしての労働の性質を根本的に研究し、そのさい、ある商品の生産に外見上必要にみえ、あるいは実際にも必要な労働は、どれでも、いつでも、消費された労働量と一致する価値量をその商品につけくわえるとはかぎらないことを、発見した。したがって、今日われわれが簡単に、リカードーのような経済学者にならって、ある商品の価値はその商品の生産に必要な労働によってきめられる、というにしても、そのさい、われわれはつねに、マルクスによってなされた留保を前提しているのである。ここではこれだけ言っておけばよい。それ以上のことは、マルクスの『経済学批判』(1859年)と『資本論』第一巻にある。

 しかし、経済学者が労働によって価値がきめられるというこの命題を、「労働」という商品に適用するやいなや、彼らは、つぎつぎに矛盾におちいっていった。「労働」の価値はどうしてきめられるか? そのうちにふくまれている必要労働によって。だが、ある労働者の一日、一週、一ヵ月、一年間の労働には、どれだけの労働がふくまれているか? 一日、一週、一ヵ月、一年分の労働である。もし労働がいっさいの価値の尺度であるなら、われわれは、「労働の価値」もほかならぬ労働で表現するほかないことになる。しかし、われわれが、一時間の労働の価値は一時間の労働にひとしいということしか知らないなら、われわれは一時間の労働の価値について絶対になにも知らないのである。だから、それだけでは、われわれは髪の毛一筋でも目標に近づいたことにならない。われわれはぐるぐると堂々めぐりをつづけているだけである。

 そこで古典経済学は、言いまわしをかえてみた。彼らはこう言った。ある商品の価値はその生産費にひとしい、と。だが、労働の生産費とはなにか? この問いにこたえるには、経済学者は、論理をすこしばかり曲げなければならない。労働そのものの生産費は、遺憾ながらたしかめることができないから、彼らは、それのかわりに、いまや労働者の生産費とはなにか、を研究する。そして、このほうはたしかめることができる。それは、時と事情とに応じてちがいはするが、一定の社会状態、一定の地方、一定の生産部門についてみれば、やはり一定しており、すくなくともかなりに狭い限界の内にある。われわれは今日、資本主義的生産の支配のもとに生活しているが、ここでは住民中の大きな部分をしめ、しかもたえず増大していく一階級は、賃金とひきかえに生産手段・・道具、機械、原料、生活資料・・の所有者のためにはたらくときにだけ、生活することができる。この生産様式の基礎のうえでは、労働者の生産費は、彼に労働する能力をあたえ、彼の労働能力をたもち、そして老年や病気や死のために彼が去ったばあいには新しい労働者でこれを補充するために、つまり、労働者階級を必要な人数だけ繁殖させるために、平均的に必要な生活資料の総和・・またはその貨幣価格・・からなっている。われわれは、この生活資料の貨幣価格が平均一日3マルクであると仮定しよう。

 そこで、わが労働者は、彼をやとっている資本家から一日3マルクの賃金をうけとる。資本家は、そのかわりに、彼を日にたとえば12時間はたらかせる。そのさいこの資本家は、ほぼつぎのように計算する。わが労働者・・機械工・・がある機械の部品をつくるものとし、それを一日でしあげるものと仮定しよう。原料・・必要な半加工形態にある鉄と真鍮・・に20マルクかかる。蒸気機関による石炭の消費、この蒸気機関そのものとわが労働者がその作業にあたって使用する旋盤その他の道具との磨損分は、日割にして彼個人に割りふって計算すれば、1マルクの価値をあらわす。一日分の賃金は、われわれの仮定によれば、3マルクである。これらを合計すれば、この機械部品にたいして24マルクとなる。しかし、資本家は、その部品にたいして平均27マルクの価格、したがって彼の支出した費用より3マルクだけ多い価格を彼の客からうけとるように、計算をたてるのである。

 資本家がポケットに入れるこの3マルクはどこからでてくるのか? 古典経済学の主張によれば、商品は平均すればその価値で、すなわち、これらの商品にふくまれている必要労働量に一致する価格で、売られる。してみれば、この機械部品の平均価格・27七マルク・・は、それの価値に、すなわち、それにふくまれている労働に、ひとしいことになろう。しかし、この27マルクのうち21マルクは、わが機械工がその労働をはじめるまえにすでに存在していた価値であった。20マルクは原料にふくまれていたし、1マルクは作業中にたかれた石炭や、作業にあたって使用されてこの価値額だけその性能のへった機械や道具に、ふくまれていた。あと6マルクのこるが、これが原料の価値につけくわえられたものである。しかし、この6マルクは、わが経済学者自身の仮定によれば、わが労働者が原料につけくわえた労働からしか生ずることができない。したがって、彼の12時間の労働は6マルクの新しい価値をつくりだしたのである。してみると、彼の12時間の労働の価値は六マルクにひとしいことになろう。これでわれわれはついに、「労働の価値」とはなにかを発見したことになろう。

 「ちょっとまってくれ!」とわが機械工はさけぶ。「6マルクだって? だが、おれは3マルクしかうけとっていない! おれの資本家は、おれの12時間の労働の価値は、3マルクにすぎないと、神かけて断言している。そしておれが6マルク要求しようものなら、彼はおれをわらいとばしてしまう。これはどうつじつまをあわせたらよいのか?」 われわれはわが労働の価値について、さきにははてしない堂々めぐりにおちいったのだが、今度はいよいよ解くことのできない矛盾にはまりこんでしまった。われわれは労働の価値をさがしもとめて、自分が必要とする以上のものをみいだしたのである。12時間の労働の価値は、労働者にとって3マルクであるが、資本家にとっては6マルクで、資本家はそのうち3マルクを賃金として労働者に支払い、3マルクを自分のポケットにねじこむ。してみると、労働は一つの価値でなく二つの価値を、おまけにひどくちがう価値をもっていることになる!

 貨幣に表現された価値を労働時間に還元してみると、この矛盾は、いっそうばかげたものになる。12時間の労働によって6マルクの新しい価値がつくりだされる。したがって6時間では3マルクとなるが、これは労働者が12時間の労働とひきかえにうけとる額である。労働者は、12時間の労働とひきかえに、ひとしい対価として、6時間の労働の生産物をうけとる。したがって、労働は二つの価値をもっていて、その一方が他方の2倍の大きさであるのか、それとも12と6がひとしいのか、どちらかである! どちらのばあいにも、まったくばかげたことになる。

 いくらもがきまわっても、われわれが労働の売買や労働の価値を論じているあいだは、われわれはこの矛盾からぬけだせない。そして、経済学者にとってもそうであった。古典経済学の最後の分枝であるリカードー学派は、おもに、この矛盾が解決不可能なことにつきあたって破綻した。古典経済学は袋小路にはいりこんでしまった。この袋小路から脱けだす路をみいだした人こそ、カール・マルクスであった。

 経済学者が「労働」の生産費だと考えてきたものは、労働の生産費ではなくて、生きた労働者そのものの生産費であった。そして、この労働者が資本家に売ったものは、彼の労働ではなかったのである。マルクスは言っている。「彼の労働が実際にはじまるときには、この労働はもうこの労働者のものではなくなっている。したがって、もはや彼がそれを売ることはできない」。だから、彼はせいぜい彼の将来の労働を売ることができるだけであろう。すなわち、一定時間だけ一定の労働給付をおこなうという義務をひきうけることができるだけであろう。だが、そうすることで、彼は労働を売るわけではなく(なぜなら、労働はこれからはじめてなされなければならないであろうから)、一定の支払いとひきかえに、一定時間だけ(時間払い賃金のばあい)または一定の労働給付をおこなうために(出来高払い賃金のばあい)、彼の労働力を資本家の自由にゆだねるのである。つまり、彼は、彼の労働力を賃貸し、または売るのである。しかし、この労働力は彼の体と合生しており、この身体からひきはなすことはできない。したがって、労働力の生産費は労働者の生産費と一致する。経済学者が労働の生産費と名づけたものは、ほかならぬ労働者の生産費のことであり、したがって労働力の生産費のことである。こうして、われわれはまた、労働力の生産費から労働力の価値にもどり、そして、マルクスが労働力の売買にかんする節でやったように(『資本論』、第一巻第四章第三節)、一定の質の労働力の生産に必要ネ社会的必要労働の分量をきめることができるのである。

 さて、労働者が資本家に彼の労働力を売ったあとで、すなわち、あらかじめ約定された賃金・・時間払い賃金または出来高払い賃金・・とひきかえに彼の労働力を資本家の自由にゆだねたあとで、なにがおこるか? 資本家は労働者を自分の作業場または工場へつれていくが、そこにはすでに作業に必要ないっさいのもの、原料や、補助材料(石炭、染料等)や、道具や、機械が存在している。ここで労働者は汗水ながしてはたらきはじめる。彼の日給は、まえどおりに、3マルクだとしよう。・・このばあい、彼がそれを時間払い賃金の形でかせぐか出来高払い賃金の形でかせぐかは、どうでもよいことである。このばあいにもまた、労働者は12時間のあいだに彼の労働によって6マルクの新しい価値を消耗された原料につけくわえるものと、仮定しよう。この新しい価値を資本家は完成品の販売にさいして実現する。資本家は、このうちから労働者にその取分の3マルクを支払うが、残りの3マルクは自分でとる。ところで、労働者が12時間で6マルクの価値をつくりだすとすれば、6時間では3マルクの価値をつくりだす。だから彼は、資本家のために6時間はたらいたなら、賃金としてうけとった3マルクの対価はすでに資本家につぐなったわけである。6時間はたらいたあとでは、両方とも勘定ずみで、どちらも相手がたに一文の借りもない。

 「ちょっとまってくれ!」と今度は資本家がさけぶ。「おれは労働者をまる一日、12時間だけやとったのだ。ところが、6時間では半日にしかならない。だから、もう6時間おわるまでつづいてせっせとはたらくのだ。・・そうしてはじめておれたちは勘定ずみになるのだ!」。そして実際、労働者は、彼が「自由意志で」むすんだ契約、6労働時間を要する労働生産物とひきかえにまる12時間はたらく義務を彼に負わせている契約に、したがわなければならないのである。

 出来高払い賃金でも、まったく同じことである。わが労働者は12時間に12個の商品をつくるものと仮定しよう。そのおのおのが原料と磨損分とで2マルクかかり、2マルク半で売られるとする。そうすると、ほかの条件がまえどおりだとすれば、資本家は労働者に1個あたり25ペニヒをあたえるであろう。すなわち、12個では3マルクになり、労働者はそれをかせぐのに12時間を要する。資本家は12個にたいして30マルクうけとる。原料と磨損分とのための24マルクをさしひくと6マルクのこるが、そのうちから彼は3マルクの賃金を支払い、3マルクをポケットにいれる。まえとまったく同じである。このばあいにも労働者は、6時間は自分のために、すなわち彼の賃金をうめあわせるために(12時間の各一時間に半時間ずつ)はたらき、6時間は資本家のためにはたらく。

 「労働」の価値から出発したかぎり最良の経済学者をさえ挫折させた困難は、われわれが「労働」の価値の代りに「労働力」の価値から出発するやいなや消えてなくなる。労働力は、われわれの今日の資本主義社会では商品であり、商品だという点ではほかのどの商品ともかわりはないが、しかし、まったく特殊な商品である。すなわち、それは、価値を創造する力であるという、価値の源泉、しかも適当にとりあつかえばそれ自身のもっている価値より大きな価値の源泉になるという、特別の性質をもっている。今日の生産の水準のもとでは、人間の労働力は、一日のうちに、それ自身でもっており、それ自身についやされる価値より大きな価値を生産するだけではない。新しい科学的発見のなされるたびに、新しい技術的発明がなされるたびに、労働力の一日の費用にたいする労働力の一日の生産物のこの超過分はふえていき、したがって労働日のうち、労働者が彼の日給のうめあわせをはたらきだす部分がみじかくなり、したがって、他面では、労働日のうち、彼が代価の支払いをうけないで自分の労働を資本家に贈呈しなければならない部分が長くなる。

 そして、労働者階級だけがいっさいの価値を生産するということ、これが、今日のわれわれの全社会の経済制度である。というのは、価値とは、労働ということをべつのことばでいいあらわしたものにすぎず、今日のわれわれの資本主義社会で、一定の商品のうちにふくまれている社会的必要労働の分量をさすのにもちいられる表現にすぎないからである。しかし、労働者が生産したこれらの価値は、労働者のものではない。それらは、原料や機械や道具を所有し、かつ労働者階級の労働力を買う可能性をその所有者に与える前払い手段を所有する人のものである。だから、労働者階級は、自分の作りだした生産物の全量のうち、一部分を自分の分として返してもらうだけである。そして、残りの部分は資本家階級が自分の分としてとり、せいぜいなお地主階級とわければよいのであるが、われわれがたったいまみたように、この部分は新しい発明や発見がなされるたびに大きくなっていくのに、労働者階級のわりまえとなる部分は、(頭わりで計算すると)ごくゆっくりと、わずかばかり増加するだけであるか、あるいは全然増加せず、ばあいによっては減少さえしかねないのである。

 だが、ますます急速につぎつぎにとってかわっていくこれらの発明や発見、前代未聞の程度で日々にたかまっていく人間労働のこの生産性は、ついには一つの衝突をうみ、この衝突のなかで、今日の資本主義経済は没落せざるをえなくなる。一方には、はかりしれない富と、購買者につかいこなせないありあまった生産物がある。他方では、社会の膨大な大衆はプロレタリア化され、賃金労働者にかえられ、まさにその結果として、このありあまった生産物を手にいれる力をうしなっている。

 少数の、法外に富んだ階級と、多数の、無産の賃金労働者の階級とへ社会が分裂した結果、この社会はそれ自身のありあまった富のなかで窒息しているのに、この社会の大多数の成員は、ほとんどあるいはまったく保護されずに極度の欠乏におちいるままにまかされている。この状態は日ましにいよいよ不合理に、そして不必要になる。この状態はとりのぞかなければならないし、またとりのぞくことができる。一つの新しい社会制度が可能である。

 それは、今日の階級差別が消えうせており、・・おそらく、いくらか不足がちな、だがいずれにせよ道徳的にはなはだ有益な、短い過渡期を経て・・すでに存在している巨大な生産力を計画的に利用しさらに発展させることによって、すべての社会成員が、平等の労働義務を負いながら、生活のため、生活享楽のため、いっさいの肉体的・精神的能力を発達させ発揮するための手段をも、平等に、ますますゆたかに利用できる、そういう社会制度である。
そして、労働者がこういう新しい社会制度をたたかいとる決意をますますかためていることは、大洋の両側で、明5月1日と5月3日の日曜日とが証明するであろう。

     ロンドン 1891年4月30日 フリードリヒ・エンゲルス
     1891年ベルリン発行のマルクスの著作「賃労働と資本」単行版のために執筆(1891年版のテキストによる)



☆  一

 われわれは、今日の階級闘争や民族闘争の物質的基礎をなしている経済的諸関係をこれまで述べなかったといって、いろいろの方面から非難をうけた。われわれは、わざと、これらの経済的関係には、それが政治的衝突のうちに直接に姿をあらわしてくるところでしか、ふれなかったのであった。

 これまではなによりも必要だったのは、日々の歴史のうちに階級闘争をあとづけ、すでにありあわせる歴史的材料や、日々あらたにつくりだされる歴史的材料にもとづいて、つぎのことを経験的に証明することであった。それは、二月革命と三月革命をおこなった労働者階級が征服されると同時に、彼らの敵―フランスではブルジョア共和主義者、ヨーロッパ大陸全体では封建的絶対主義とたたかっているブルジョア階級と農民階級―も敗北したのだということ、フランスで「律儀(りちぎ゙)な共和制」が勝利したことは、同時に、英雄的な独立戦争をもって二月革命にこたえた諸民族の没落であったということ、最後に、革命的労働者の敗北とともに、ヨーロッパはその古い二重の奴隷制に、すなわちイギリス的=ロシア的な奴隷制に逆もどりしたということである。

 パリの六月闘争、ウィーンの陥落、1848.11月のベルリンの悲喜劇、ポーランド、イタリア、ハンガリアの必死の奮闘、アイルランドの飢饉のための屈服・・これらが、ヨーロッパにおけるブルジョアジーと労働者階級の階級闘争を総括する主要な諸契機であって、われわれはこれらにもとづいて、つぎのことを証明した。それは、どんな革命的反乱も、たとえその目標がどんなに階級闘争からかけはなれているようにみえようとも、革命的労働者階級が勝利するまでは、失敗するほかないということ、どんな社会改良も、プロレタリア革命と封建的反革命とが一つの世界戦争で勝敗を決するまでは、ユートピアにとどまるということである。われわれの叙述では、現実においてもそうであるが、ベルギーとスイスとは、一つはブルジョア的君主制の模範国として、もう一つはブルジョア的共和制の模範国として、大歴史画中の悲喜劇的な漫画的風俗画であった。どちらの国も、自分は階級闘争にもヨーロッパ革命にも同じようにかかわりがない、と想像しているのである。

 わが読者諸君は、1848年に階級闘争が巨大な政治的形態をとって発展するのをみてきたのであるから、ブルジョアジーの存立と彼らの階級支配との基礎をなしており、また労働者の奴隷状態の基礎ともなっている経済的諸関係そのものに、いまやくわしくたちいるべきときである。

 われわれはつぎの三つの大きな部分にわけて叙述しよう。

(一) 賃労働の資本にたいする関係、労働者の奴隷状態、資本家の支配。
(二) 今日の制度のもとでは、中間市民階級といわゆる農民部分の没落が避けられないこと。
(三) 世界市場の専制的支配者であるイギリスがヨーロッパのいろいろの民族のブルジョア階級を商業的に隷属させ搾取していること。

 われわれはできるだけ簡単に、わかりやすく述べるようにつとめ、読者は経済学のごく初歩的な概念さえもたないものと仮定してかかろう。われわれは、労働者にわかってもらいたいのである。それに、ドイツでは、官許の現状弁護論者から社会主義的な魔術師やみとめられない政治的天才・・細分したドイツには、こういった連中は君主の数よりまだ多いのだが・・にいたるまで、もっとも簡単な経済的諸関係にかんしてさえきわめてはなはだしい無知や概念の混乱がみなぎっているのである。

 そこで、まず第一の問題にとりかかろう。賃金とはなにか? それはどのようにしてきめられるか?

 もし労働者に、きみの賃金はいくらか? とたずねるなら、あるものは、「私は私のブルジョアから一労働日につき一マルクもらっている」とこたえ、また他のものは、「私は二マルクもらっている」などとこたえるであろう。彼らは、その所属する労働部門のことなるにしたがって、一定の作業をはたしたことにたいし、たとえば一ヤードの亜麻布を織ったことや、一台(ボーゲン)分植字したことにたいして、彼らがそのときのブルジョアからうけとるいろいろちがった金額をあげるであろう。彼らのあげる数字がいろいろであるにもかかわらず、つぎの点では彼らはみな一致するであろう。それは、賃金とは、一定の労働時間、または一定の労働給付にたいして資本家が支払う貨幣額のことだ、ということである。

 だから、資本家は貨幣をもって労働者の労働を買い、労働者は貨幣とひきかえに資本家に自分たちの労働を売るようにみえる。しかし、これはそうみえるだけである。彼らが実際に貨幣とひきかえに資本家に売るのは、彼らの労働力である。この労働力を資本家は、一日、一週間、一ヵ月等々をかぎって買う。そして彼は、それを買ったあとでは、労働力を約束した期間はたらかせることによって、それを消費する。資本家は、労働者の労働力を買ったのと同じ金額、たとえば2マルクで、2ポンドの砂糖でも他のなにかの商品の一定量でも、買おうと思えば買えたのである。彼が二ポンドの砂糖を買った2マルクは、2マルクの砂糖の価格である。彼が12時間分の労働力の使用を買った2マルクは、12時間の労働の価格である。だから、労働力はまさしく砂糖と同じく一つの商品である。前者は時計ではかられ、後者は秤ではかられる。 労働者は、彼らの商品すなわち労働力を、資本家の商品すなわち貨幣と交換する。しかも、この交換は一定の割合でおこなわれる。これこれの時間だけ労働力を使用するのにたいしてこれこれの貨幣額というように。12時間の機織(ハタオ)りにたいして2マルクというように。

 ところでこの2マルクだが、これは2マルクで買うことのできる他のあらゆる商品を代表してはいないであろうか? だから、労働者は、実際上、彼の商品すなわち労働力を、あらゆる種類の商品と、しかも一定の割合で交換したことになる。資本家は、労働者に彼の一日の労働と交換に2マルク与えることによって、これこれの量の肉、これこれの量の衣服、これこれの量の薪、燈火等々を与えたのである。だから、この2マルクは、労働力が他の諸商品と交換される割合を、すなわち彼の労働力の交換価値を、あらわしている。貨幣で評価されたある商品の交換価値こそ、商品の価格とよばれるものである。だから、賃金とは、労働力の価格・・ふつう労働の価格とよばれている・・にたいする、人間の血肉以外にはやどるべき場所のないこの独特の商品の価格にたいする特別の名まえにすぎないのである。

 だれでもよい、一人の労働者を、たとえば一人の織物工をとってみよう。資本家は彼に織機と糸を供給する。織物工は仕事にかかり、糸は亜麻布になる。資本家は亜麻布を自分のものにし、それをたとえば20マルクで売る。さて、織物工の賃金は、亜麻布にたいする、20マルクにたいする、彼の労働の生産物にたいする、わけまえであろうか? けっしてそうではない。亜麻布が売られるずっとまえに、おそらくはそれが織りあげられるずっとまえに、織物工は彼の賃金をうけとりずみである。だから、資本家はこの賃金を、亜麻布を売って得る貨幣で支払うのではなく、手持の貨幣で支払うのである。織物工がブルジョアから供給をうける織機や糸がこの織物工の生産物でないように、織物工が彼の商品すなわち労働力と交換にうけとる諸商品も、彼の生産物ではない。ブルジョアが自分の亜麻布に買手を一人もみつけられないということだって、ありうることだった。それを売ってもブルジョアが賃金さえ回収できないということだってありうることだった。彼がその亜麻布を織賃にくらべてはなはだ有利に売るということだって、ありうるのである。

 しかし、こうしたことはみな織物工にはなんの関係もない。資本家は、彼の手持の財産の、彼の資本の一部をもって織物工の労働力を買うのであって、それは、資本家が彼の財産の他の一部をもって原料・・糸・・や労働用具・・織機・・を買ったのとまったく同じである。これらの仕入れをしたのちは、そしてこういう仕込品のなかには亜麻布の生産に必要な労働力もはいっているのであるが、彼はもっぱら自分のもちものである原料と労働用具をつかって生産するのである。実際、わが織物工君ももちろん労働用具のなかにはいるのであって、彼が生産物または生産物の価格のわけまえにあずからないことは、織機がそれにあずからないのと同様である。

 だから、賃金は、自分の生産した商品にたいする労働者のわけまえではない。賃金は、資本家が一定量の生産的労働力を買いとるのにもちいる既存の商品の一部である。 だから、労働力は、その所有者である賃金労働者が資本に売る一つの商品である。なぜ彼はそれを売るのか? 生きるためである。

 しかし、労働力をはたらかせること、すなわち労働は、労働者自身の生命活動であり、彼自身の生命の表現である。そして、この生命活動を、彼は、必要な生活資料を手にいれるために、他の人間に売るのである。だから、彼の生命活動は、彼にとっては、生存するための手段にすぎないのである。彼は生きるためにはたらく。彼は労働を彼の生活のなかにさえふくめない。労働はむしろ彼の生活を犠牲にすることである。それは、彼が他の人間にせり売りした一つの商品である。したがって、彼の活動の生産物も、彼の活動の目的ではない。彼が自分自身のために生産するものは、彼の織る絹布でもなく、彼が鉱山から掘り出す金(キン)でもなく、彼のたてる邸宅でもない。自分自身のために生産するものは、賃金である。

 そして、絹布や金や邸宅は、彼にとっては、一定量の生活資料に、おそらくは一枚の木綿の上衣、幾枚かの銅貨、地下室の住居に、かわってしまう。そして、12時間のあいだ、織ったり、つむいだり、鑿坑したり、挽(ヒ)いたり、家をたてたり、シャベルですくったり、石をわったり、運搬したりなどする労働者・・この労働者は、この一二時間の機織り、紡績、鑿坑、挽き加工、建築、シャベル仕事、石割・・を、彼の生命の発現と、彼の生活と、みとめているであろうか? その逆である。生活は、彼にとっては、この活動のやむところで、食卓で、居酒屋の腰掛で、寝床で、はじまるのである。これに反して、12時間の労働は、彼にとって、機織り、紡績、鑿坑等としてはなんの意味をもまったくもたず、彼を食卓につかせ、居酒屋の腰掛にかけさせ、寝床に横にならせるかせぎとして、意味をもっているのである。もし蚕が幼虫としての生命をつないでいくためにつむぐのであったら、それは、一個の完全な賃金労働者であったろう。

 労働力はいつでも商品であったわけではない。労働はいつでも賃労働、すなわち自由労働であったわけではない。奴隷は彼の労働力を奴隷所有者に売ったのではない。それは、牛が自分の働きを農民に売らないのと同じである。奴隷は、その労働力もろとも、彼の所有者に売りきりにされる。彼は、一人の所有者の手から他の所有者の手に移転することのできる商品である。彼自身が商品なのであって、労働力が彼の商品なのではない。農奴は、彼の労働力の一部だけを売る。彼が土地所有者から賃金をうけとるのではなく、むしろ土地所有者が彼から貢物をうけとるのである。

 農奴は土地に付属し、土地の持主のために収益をうみだす。これに反して、自由な労働者は自分自身を売る、しかも切売りする。彼は彼の生命の8時間、10時間、12時間、15時間を、今日も明日も、一番高い値をつける人に、原料、労働用具、生活資料の所有者すなわち資本家に、せり売りする。労働者は所有者のもちものでも土地に付属するものでもないが、彼の毎日の生命の8時間、10時間、12時間、15時間は、それを買う人のものである。労働者は、そうしたいときにはいつでも、自分のやとわれている資本家のところを去るし、資本家もまた、つごうしだいでいつでも、労働者からもはやなんの利益もひきだせないか、または予期した利益がひきだせなくなるやいなや、労働者を解雇する。

 しかし、労働力の販売を唯一の生計の源泉とする労働者は、生きることを断念しないかぎり、買手の階級全体すなわち資本家階級をすてることはできない。彼は、あれこれの資本家のもちものではないが、資本家階級のもちものである。しかもそのさい、自分を売りつけること、すなわち、この資本家階級のなかに一人の買手をみつけることは、彼が自分でやらなければならない仕事なのである。

 いま資本と賃労働の関係にいっそうくわしくたちいるまえに、われわれは、賃金の決定のさいに問題となってくるもっとも一般的な関係を簡単に述べよう。賃金は、われわれがみたとおり、労働力という特定の商品の価格である。したがって、賃金も、ほかのいっさいの商品の価格をきめる法則と同一の法則によってきめられる。そこで、つぎの問題がおこる。商品の価格はどのようにしてきめられるか?



☆  二
 商品の価格はなにによってきめられるか?

 買手と売手のあいだの競争によって、需要と供給、欲求と提供の関係によってきめられる。商品の価格をきめるこの競争には三つの方面がある。同じ商品をいろいろの売手が供給する。同じ品質の商品をいちばん安く売るものが、まちがいなく、他の売手を戦場から駆逐し、最大の販路を確保する。だから、売手たちはたがいに販路、市場をあらそう。彼らのだれもが売りたいのだし、できるだけたくさん売りたいのだし、できれば他の売手をしめだして自分ひとりでうりたいのである。そこで、あるものは他のものよりも安く売る。そこで、売手のあいだに競争がおこり、この競争が彼らの提供する商品の価格をおしさげる。

 しかし、買手のあいだにも競争がおこり、この競争が、今度は、提供された商品の価格をひきあげる。最後に、買手と売手のあいだに競争がおこる。一方はできるだけ安く買おうとし、他方はできるだけ高く売ろうとする。買手と売手のあいだのこの競争の結果は、まえにあげた二つの方面における競争がどういう関係にあるかに、すなわち買手軍のあいだの競争と売手軍のあいだの競争とのどちらがつよいかによってきまるであろう。産業はこの二つの軍勢を戦場で対陣させるが、そのおのおのの軍勢がまた味方の陣のなかで味方の部隊同士でたたかう。味方の部隊の同士打ちがいちばん少ない軍勢が相手方に勝つのである。

 市場に100梱の綿花があり、それと同時に1000梱の綿花にたいする買手があるものと仮定しよう。つまり、このばあいには、需要は供給の10倍である。だから、買手のあいだの競争は非常に激しいであろうし、どの買手も一梱を、できれば100梱全部を、手にいれようとする。この例は、なにもかってに仮定したものではない。われわれは商業の歴史上にいくたびか綿花の凶作期をみてきたが、そういうときには、あいむすんだ幾人かの資本家が、100梱どころか、世界の綿花の在荷全部を買占めようとしたものである。そこで、ここに述べたばあいには、ある買手は、綿花の梱にたいして比較的高い値段をつけることで、他の買手を戦場から駆逐しようとする。綿花の売手たちは、敵軍の部隊が猛烈な仲間争いをしているのをみているし、また彼らの100梱全部の売れ口がまったく保証されているので、彼らの敵がたがいにあらそって綿花の価格を買いあおっているさいに、自分たちが仲間同士つかみあいをはじめて綿花の価格をひきさげたりしないように、用心するであろう。こうして突然、売手の軍勢内に平和がおとずれる。彼らは、一致結束して買手に応待し、泰然と腕ぐみしている。そして、もしいちばん熱心な買手のつける値にさえきわめてはっきりした限度があるのでなかったら、売手の要求はとどまるところがないであろう。

 だから、ある商品の供給がその商品にたいする需要より少ないときは、売手のあいだにはわずかな競争しかおこらないか、あるいはまったく競争がおこらない。この競争が減少するのに比例して、買手のあいだの競争が増大する。その結果、商品の価格は多かれすくなかれいちじるしくあがる。これと反対の結果をともなう反対のばあいのほうがもっとひんぱんにおこることは、人の知るところである。需要にたいして供給がいちじるしく過剰となる。売手のあいだに必死の競争がおこる。買手が不足する。商品は捨て値で投売りされる。

 だが、価格があがる、さがるとは、どういうことか、高い価格、低い価格とはどういうことか? 一粒の砂も顕微鏡でみれば高いし、一基の塔も山とくらべれば低い。また、価格が需要・供給の関係できまるとすれば、需要・供給の関係はなにによってきまるのか?

 だれでもよい、そこらのブルジョアにきいてみよう。彼はすこしも思案せず、アレクサンドロス大王のうまれかわりでもあるかのように、九々の表をつかってこの形而上学的な難問を一刀両断に解決するであろう。彼はわれわれにむかって言うであろう。もし私が自分の売る商品を生産するのに100マルクかけ、その商品を売って110マルクを得る・・もちろん一年後に・・なら、それはふつうの、まともな、正当なもうけである。これに反し、もしそれと交換に120マルク、130マルクをうけとるとすれば、それは高いもうけである。もしまた200マルクも得るとすれば、それは、法外な、莫大なもうけというものであろう、と。してみると、このブルジョアにはなにがもうけの尺度になっているのか? それは、彼の商品の生産費である。もしこの商品と交換に彼がうけとる他の商品のある量が、もっと少ない生産費しかかからなかったものとすれば、彼は損をしたのである。もし彼の商品と交換にうけとる他の商品のある量が、もっと多くの生産費のかかったものとすれば、彼はとくをしたのである。そしてもうけの上がり下がりを、彼は、彼の商品の交換価値がどれだけゼロ・・生産費・・の上または下にあるかの程度によって計算するのである。

 さて、われわれがみたとおり、需要・供給の関係がかわるにしたがって、価格があるいはあがり、あるいはさがる。すなわち、あるいは高い価格が生じ、あるいは低い価格が生じる。もしある商品の価格が、供給が不足なためあるいは需要が不釣合に増加したためにいちじるしくあがるなら、かならずなにか他の商品の価格が相対的にさがったことになる。というのは、ある商品の価格とは、それと交換に他の諸商品があたえられる割合を貨幣で表現したものにすぎないからである。

 たとえば、1ヤールの絹布の価格が5マルクから6マルクにあがるとすれば、銀の価格は絹布にくらべてさがったことになり、同様にまた、もとの価格のままでいる他のすべての商品の価格も絹布にくらべてさがったことになる。まえと同じ分量の絹製品を手にいれるのに、いまではそれと交換にこれらの商品をまえより多い分量であたえなければならない。ある商品の価格があがった結果はどういうことになるか? 多量の資本がこのさかえている産業部門にながれこんでくるであろう。そして、好況産業の分野への資本のこうした流入は、その産業がふつうのもうけしかあげないようになるまで、あるいはむしろ、その産業の生産物の価格が過剰生産のため生産費以下に下落するまで、つづくであろう。

 逆のばあい。ある商品の価格がその生産費以下にさがるなら、資本はこの商品の生産からひきあげられるであろう。ある産業部門がもう時勢にあわなくなっており、したがってほろびるほかないばあいをのぞいては、資本がこうして逃避する結果、このような商品の生産すなわちその供給は減少していき、供給が需要と一致するようになるまで、従って商品の価格がふたたびその生産費の高さに上がるまで、あるいはむしろ、供給が需要以下にへるまで、つまりその価格がふたたびその生産費以上にあがるまで、ひきつづいて減少するであろう。というのは、商品の時価はいつでもその生産費の上か下かにあるものだからである。

 これでわかるように、資本はたえずある産業の分野から他の産業の分野へながれこみ、ながれでる。価格が高いと、過度の流入がおこり、価格が低いと、過度の流出がおこる。べつの観点から、供給ばかりでなく需要も生産費によってきまることを、あきらかにすることもできよう。けれどもそうするのは、われわれの対象からはなれすぎることになるであろう。

 われわれがたったいまみたように、供給と需要の変動は、商品の価格をたえずくりかえし生産費にひきもどす。なるほど、商品の現実の価格はつねにその生産費の上か下かにあるが、騰貴と下落は相殺されるので、一定期間について産業の満干を通算すれば、各商品は、その生産費に応じてたがいに交換される。だから、商品の価iはその生産費によってきめられるのである。

 ここに価格は生産費によってきめられるといっても、それを経済学者のいう意味にとってはならない。経済学者は言う。商品の平均価格は生産費にひとしい、これが法則である、と。騰貴が下落で、また下落が騰貴で相殺される無政府的な運動を、彼らは偶然のものとみなしている。だが、それなら、変動を法則とみなし、生産費による決定を偶然のものとみなしても、いっこうさしつかえないわけである。・・事実、べつの経済学者はそうしている。しかし、ほかならぬこの変動、すなわち、くわしく観察すれば、このうえなくおそろしい荒廃をともなっており、地震のようにブルジョア社会の基礎をゆりうごかしている、この変動だけが、その経過を通じて、価格を生産費によってきめるのである。こういう無秩序の総運動が、この社会の秩序となっているのである。この産業的無政府状態の経過を通じて、この循環運動のうちで、競争がいわば一方の行きすぎを他方の行きすぎによって相殺するのである。

 これを要するに、ある商品の価格がその生産費によってきめられるのは、この商品の価格が生産費以上に上がる時期が、それが生産費以下にさがる時期によって相殺され、またその逆のばあいは逆に相殺されるというようにしておこなわれるのである。これは、もちろん、ある個々の産業生産物についてではなくて、その産業部門全体についてしか言えないことである。したがって、これはまた個々の産業家についてではなくて、産業家階級全体についてしか言えないことである。

 価格が生産費によってきめられるということは、価格がある商品を生産するのに必要な労働時間によってきめられるということにひとしい。というのは、生産費は、(一)原料と用具の磨損分、すなわち、それを生産するのにある量の労働日がついやされており、したがってある量の労働時間をあらわしている産業生産物、(二)まさに時間を尺度とする直接の労働、からなっているからである。

 さて、一般に商品価格を規制しているのと同じ一般的な法則が、もちろん、賃金すなわち労働の価格をも規制している。労働賃金は、需要・供給の関係に応じて、労働力の買手である資本家と労働力の売手である労働者とのあいだの競争の成りゆきに応じて、あるいはあがり、あるいはさがるであろう。一般に商品価格が変動するのに応じて、賃金も変動する。しかし、この変動の内部では、労働の価格は生産費によって、つまり、この労働力という商品を生産するのに必要な労働時間によって、きめられるであろう。

 では、労働力の生産費とはなにか?

 それは、労働者を労働者として維持するために、また労働者を労働者にそだてあげるために、必要な費用である。したがって、ある労働に必要な養成期間が短ければ短いほど、その労働者の生産費はますますすくなく、彼の労働の価格、すなわち彼の賃金はそれだけ低い。見習期間がほとんどまったく必要でなく、労働者の生(ナマ)身さえあればたりるような産業部門では、彼を生産するのに必要な生産費は、彼を労働能力あるものとして生かしておくのに必要な商品だけにほとんどかぎられる。だから、彼の労働の価格は、生活必需品の価格によってきめられるであろう。

 しかし、これにくわえてもう一つ考えなければならないことがある。工場主は、彼の生産費を計算し、それにもとづいて生産物の価格を計算するにあたっては、労働用具の消耗をも勘定にいれる。たとえば、ある機械に一〇〇〇マルクかかり、そしてこの機械が一〇年間に消耗してしまうとすれば、彼は、一〇年後に消耗した機械を新しい機械ととりかえることのできるよう、年々一〇〇マルクを商品の価格に割りかける。これと同じように、単純な労働力の生産費にも、労働者の種属が繁殖して、消耗された労働者を新しい労働者にとりかえることのできるようにするための、繁殖費をくわえなければならない。つまり、労働者の磨損も機械の磨損と同じように勘定にいれられるのである。

 だから、単純な労働力の生産費は、労働者の生存費と繁殖費ということになる。この生存費と繁殖費との価格が、賃金を形づくる。こうしてきめられた賃金は、最低賃金とよばれる。この最低賃金も、一般に生産費によって商品の価格がきめられるばあいと同じに、個々の個人についてではなく、〔労働者という〕種属について言えることである。個々の労働者は、幾百万の労働者は、生きて繁殖していくのに十分なだけもらってはいない。しかし、労働者階級全体の賃金は、その変動の内部で平均化されて、この最低限に一致する。

 以上で、賃金をも、その他のあらゆる商品の価格をも同様に規制しているもっとも一般的な法則がわかったので、われわれは、われわれの主題にもっとくわしくたちいることができる。



☆  三

 資本は、新しい原料、新しい労働用具、新しい生活資料を生産するためにつかわれる、あらゆる種類の原料と労働用具と生活資料からなりたっている。資本のこれらの構成部分はみな、労働の創造物であり、労働の生産物であり、蓄積された労働である。新しい生産のための手段として役だつ蓄積された労働が、資本である。

 こう経済学者は言う。黒人奴隷とはなにか? 黒色人種の人間である。右の説明はこういう説明とおっつかっつのものである。黒人は黒人である。一定の諸関係のもとで、はじめて彼は奴隷となる。紡績機械は紡績するための機械である。一定の諸関係のもとでのみ、それは資本となる。これらの関係からひきはなされたら、それは資本ではない。そのことは、金(キン)がそれ自体としては貨幣ではなく、また、砂糖が砂糖価格でないのと同じである。

 生産のさいに、人間は、自然にはたらきかけるばかりでなく、またたがいにはたらきかけあう。彼らは、一定の仕方で共同して活動し、その活動をたがいに交換するということによってのみ、生産するのである。生産するために、彼らはたがいに一定の連絡や関係をむすぶが、これらの社会的連絡や関係の内部でのみ、自然にたいする彼らのはたらきかけがおこなわれ、生産がおこなわれるのである。

 もちろん、生産者がたがいにむすぶこれらの社会関係、彼らがその活動を交換し、生産行為の総体に参加する諸条件は、生産手段の性格がどうであるかに応じて、ちがったものとなるであろう。火器という新兵器が発見されるとともに、必然的に、軍隊の内部組織全体が変化し、諸個人が軍隊を形づくり、軍隊として作用しうる諸関係が変動し、種々の軍隊のあいだの関係も変化した。

 だから、個々人がそのうちで生産する社会関係、すなわち社会的生産関係は、物質的生産手段、生産力が変化し発展するのにつれて、変化し変動する。生産関係は、その総体において、社会関係、社会とよばれるものを、しかも一定の歴史的発展段階における社会、独特の、特色ある性格をもった社会を、形づくる。古代社会、封建社会、ブルジョア社会は、そういう生産関係の総体であって、それと同時に、それぞれ人類の歴史上の特殊な発展段階をあらわしているのである。

 資本もまた一つの社会的生産関係である。それは一つのブルジョア的生産関係であり、ブルジョア社会の一生産関係である。資本を構成する生活資料、労働用具、原料、それらは、一定の社会的諸条件のもとで、一定の社会関係のうちで生産され、蓄積されたものではないのか? これらのものは、一定の社会的諸条件のもとで、一定の社会関係のうちで、新しい生産に使用されるのではないのか? そして、ほかならぬこの一定の社会的性格こそ、新しい生産に役だついろいろの生産物を資本にするのではないのか?

 資本は、生活資料、労働用具、原料だけ、物質的生産物だけから構成されているのではない。資本は同じように交換価値からも構成されている。資本を構成するいろいろの生産物はみな商品である。だから、資本はいろいろな物質的生産物の一総和であるだけではない。それは、いろいろな商品の、交換価値の、社会的量の、一総和である。

 たとえ羊毛を木綿におきかえ、小麦を米におきかえ、鉄道を汽船におきかえても、その木綿、米、汽船・・資本の体(カラダ)・・が、まえに資本を体現していた羊毛、小麦、鉄道と同じ交換価値、同じ価格をもってさえいれば、資本はやはりもとのままである。資本の体はたえず形をかえても、資本はすこしも変化をこうむらずにもいられるのである。

 しかし、およそ資本はみな、商品すなわち交換価値の一総和であるとしても、商品の、交換価値の一総和なら、どれでもみな、資本だということにはならない。およそいくたの交換価値の一総和はみな、一つの交換価値である。およそ一つの交換価値はみな、いくたの交換価値の一総和である。たとえば、一〇〇〇マルクの価値の一戸の家は、一〇〇〇マルクの額の一つの交換価値である。一ペニヒの価値の一枚の紙は、一〇〇分の一ペニヒを一〇〇個あわせた額の、諸交換価値の一総和である。他のいろいろの生産物と交換できる生産物が商品である。これらの生産物をたがいに交換できる一定の比率は、それらのものの交換価値、あるいは、貨幣であらわせば、その価格を形成する。これらの生産物の量の大小は、商品であるとか、一つの交換価値であるとか、一定の価格をもっているとかいう、これらの生産物の性質をすこしもかえることはできない。木は大きくても小さくても、やはり木である。鉄を他の生産物と交換するのに、オンス単位でしようと、トン単位でしようと、商品であり交換価値であるという鉄の性格にかわりがあろうか? 量の大小にしたがってあるいは大きな価値の、あるいは小さな価値の商品であり、あるいは高い価格の、あるいは低い価格の商品であるだけである。

 では、どのようにして、諸商品の、諸交換価値の一総和が資本となるのか?

 それが直接の生きた労働力との交換を通じて、独自の社会的力として、すなわち社会の一部の者の力としてみずからを維持し、ふやすことによってである。労働能力のほかにはなにももたない一つの階級が存在していることが資本の必要な前提である。直接の生きた労働を蓄積された、過去の、対象化された労働が支配することが、はじめて、蓄積された労働を資本とするのである。資本の本質は、蓄積された労働が生きた労働のために新しい生産の手段として役だつという点にあるのではない。それは、生きた労働が蓄積された労働のためにそれの交換価値を維持しふやす手段として役だつという点にあるのである。

 資本家と賃金労働者とのあいだの交換では、どういうことがおこるか?

 労働者は、彼の労働力と交換に生活資料をうけとるが、資本家は彼の生活資料と交換に労働を、労働者の生産的活動を、創造力をうけとる。そして、労働者は、この力によって、彼の消費するものをうめあわせるばかりでなく、蓄積された労働にたいして、それがまえにもっていたよりも大きな価値をあたえるのである。労働者は、資本家のもちあわせている生活資料の一部をうけとる。これらの生活資料は、労働者にとってなんの役にたつか? 直接の消費の役にたつ。しかし、私が生活資料を消費するやいなや、それは私の手からうしなわれて、もうかえってこない。もっとも、私は、この生活資料が私を生かしてくれる期間を利用して、新しい生活資料を生産するのではあるが、すなわち、それを消費しているあいだに、私の労働によって、消費されてなくなる価値のかわりに新しい価値をつくりだすのではあるが。しかし、ほかならぬこの貴重な再生産力を、労働者は、うけとった生活資料と交換に資本にゆずりわたしてしまうのである。だから、労働者は、彼自身からみれば、この力をうしなってしまったわけである。

 一つの例をとろう。ある農業企業家が彼の日雇人に、毎日銀貨五グロシェンをあたえるとする。この銀貨五グロシェンとひきかえに日雇人は、終日農業企業家の畑ではたらき、こうして農業企業家に銀貨一〇グロシェンの収入を保証する。農業企業家は、彼が日雇人にゆずりわたさなければならない価値のうめあわせを得るばかりではない。彼はそれを二倍にするのである。だから、彼は、彼が日雇人にあたえた銀貨五グロシェンを、みのりある生産的な仕方で使用し消費したわけである。彼は、まさに、二倍の価値のある土地生産物を生産して銀貨五グロシェンを銀貨一〇グロシェンにする日雇人の労働と力を、銀貨五グロシェンで買ったのである。これに反して日雇人は、彼の生産力の働きをほかならぬこの農業企業家にゆずりわたして、この生産力のかわりに銀貨五グロシェンをうけとるのであるが、彼はこの銀貨五グロシェンを生活資料と交換し、その生活資料をおそかれはやかれ消費してしまう。だから、この銀貨五グロシェンは二とおりの仕方で消費されたわけである。すなわち、資本にとっては再生産的に・・というのは、それは銀貨一〇グロシェンを生み出した労働力〔9〕と交換されたのであるから・・消費され、また、労働者にとっては不生産的に・・というのは、それは生活資料と交換されたのであるが、この生活資料は永久に消滅しており、労働者は農業企業家とのあいだに同じ交換をくりかえすことによってしか、その価値をふたたびうけとることができないのであるから・・消費されたのである。こうして、資本は賃労働を前提し、賃労働は資本を前提する。両者はたがいに制約しあう。両者はたがいにうみだしあう。

 ある綿布工場の一労働者をとってみよう。この労働者は綿布を生産するだけであるか? いな、彼は資本を生産する。すなわち、あたらしく彼の労働を支配し、この労働を手段として新しい価値をつくりだすのに役だつ価値を、生産するのである。資本は、労働力と交換されることによってしか、賃労働をうみだすことによってしか、ふえることができない。賃金労働者の労働力は、資本をふやすことによってしか、自分を奴隷としているその力をつよめることによってしか、資本と交換されることができない。だから、資本がふえるのは、プロレタリアートが、すなわち労働者階級がふえることである。

 それだから資本家と労働者との利害は同一なのだ、とブルジョアやその経済学者は主張する。実際そうだ! 労働者は、資本がやとってくれなければ破滅してしまう。資本は、労働力を搾取しなければ破滅するし、労働力を搾取するには、資本はこの労働力を買わなければならない。生産にあてられる資本、すなわち生産的資本が急速にふえればふえるほど、したがって産業が繁栄すればするほど、ブルジョアジーが富めば富むほど、景気がよくなればなるほど、資本家にはそれだけ多くの労働者が必要となり、労働者はそれだけ高く売れていく。

 だから、労働者がどうやらしんぼうできる状態をたもつのに欠くことのできない条件は、生産的資本ができるだけ急速に増大することである。だが、生産的資本が増大するとはどういうことか? 生きた労働を支配する蓄積された労働の力が増大することである。労働者階級にたいするブルジョアジーの支配が増大することである。賃労働が、自分を支配する他人の富を、自分に敵対的な力である資本を生産するというと、この敵対的な力から、賃労働を雇用する手段、すなわち生活資料が還流してくる。ただし、賃労働がふたたび資本の一部となり、ふたたび資本を加速度的な増大運動になげいれる槓杆(テコ)になるということを条件として。

 資本の利害と労働者の利害とが同一であるというのは、資本と賃労働とが同じ一つの関係の二つの側面だ、ということにすぎない。この両者がたがいに制約しあっているのは高利貸と浪費者とがたがいに制約しあっているのと同じである。賃金労働者が賃金労働者であるかぎりは、彼の運命は資本に依存している。さかんにはやしたてられている労働者と資本家の利害の共通というのは、こういうことなのである。



☆  四

 資本が増大すれば、賃労働の量が増大し、賃金労働者の数が増大する。一言で言えば、資本の支配がさらに多くの個人のうえにひろがっていく。そして、もっとも有利なばあいを仮定すると、生産的資本が増大すれば、労働にたいする需要が増大し、したがって、労働の価格すなわち賃金があがる。

 家は大きくても小さくても、そのまわりの家も同じように小さければ、その家は住居にたいするいっさいの社会的要求をみたす。しかし、その小さい家とならんで邸宅がたてられると、その小さい家はあばら家にちぢんでしまう。そうなると、その小さい家は、その住み手がなにも要求する権利がないか、ごくわずかしか要求する権利がないことを、証明する。そして、文明のすすむにつれて、その家がどんなに高くなっていこうと、隣の邸宅が同じ程度に、あるいはそれ以上にさえ高くなるなら、比較的に小さい家の住み手は、わが家のうちで、ますます不快に、不満に、せせこましく感じるであろう。

 賃金がめだってふえるためには、生産的資本が急速に増大することが前提される。生産的資本が急速に増大すれば、その結果、富や、ぜいたくや、社会的欲望や、社会的享楽も同じように急速に増大する。だから、労働者の享楽がたかまったにもかかわらず、労働者には手のとどかない資本家の享楽の増大にくらべれば、また全体としての社会の発展水準にくらべれば、それがあたえる社会的満足はすくなくなったのである。われわれの欲望や享楽は社会からうまれる。だから、われわれは、欲望や享楽を、社会を標準としてはかる。われわれはこれらを、それを充足させる物を標準としてははからない。欲望や享楽は社会的なものであるから、それらは相対的なものなのである。

 一般的に言って、賃金は、それと交換に得られるいろいろの商品の量だけで、きめられるわけではない。それは、いろいろの関係をふくんでいるのである。労働者がまず彼らの労働力と交換にうけとるものは、一定額の貨幣である。賃金はこの貨幣価格だけによってきめられるのであるか?

 一六世紀には、アメリカでいっそう豊富な、採掘の容易な鉱山が発見された結果、ヨーロッパで流通する金銀がふえた。したがって、金銀の価値は、他の諸商品にくらべてさがった。労働者は、彼の労働力にたいしてひきつづきそれまどと同じ量の銀貨をうけとった。彼らの労働の貨幣価格はまえと同じであったが、それにもかかわらず、彼らの賃金はさがった。なぜなら、彼らが同じ分量の銀と交換にうけとる他の諸商品の総和は、まえよりすくなくなったからである。これこそ、一六世紀に資本の増大、ブルジョアジーの勃興をうながした事情の一つであった。

 もう一つべつのばあいをとってみよう。一八四七年の冬には、凶作の結果、もっともなくてならない生活資料である穀物、肉、バター、チーズなどの価格が非常にあがった。労働者が彼らの労働力にたいしてこれまでと同じ額の貨幣をうけとったものと仮定しよう。彼らの賃金はさがったのではなかろうか? もちろんさがったのだ。同じ貨幣と交換に彼らのうけとったパン、肉などは、まえよりすくなかった。彼らの賃金がさがったのは、銀の価値が減少したからではなくて、生活資料の価値が増大したからであった。

 最後に、労働の貨幣価格はもとのままなのに、新しい機械の使用、豊作等の結果として農産物と工業製品の価格がみなさがったと仮定しよう。そうなると、労働者は同じ貨幣であらゆる種類の商品をまえより多く買えるようになる。だから、彼らの賃金はあがったのであるが、それはまさに、彼らの賃金の貨幣価値がかわらなかったからである。

 だから、労働の貨幣価格、すなわち名目賃金は、実質賃金とは、すなわち実際に賃金と交換に得られる諸商品の総和とは、一致しない。だから、賃金のあがりさがりをいうばあいには、われわれは、労働の貨幣価格、すなわち名目賃金だけを眼中においてはならない。しかし、名目賃金、すなわち労働者がそれとひきかえに資本家に自分自身を売る貨幣額によっても、実質賃金、すなわちこの貨幣とひきかえに買うことのできる諸商品の総和によっても、賃金のなかにふくまれているいろいろの関係はまだつくされない。 賃金は、さらに、なによりも、資本家のもうけ、利潤にたいする賃金の割合で、きめられる。・・これは、比較的な、相対的な賃金である。

 実質賃金は、他の諸商品の価格とくらべた労働の価格をあらわしているが、これに反して相対的賃金は、直接の労働によってあらたしく生産された価値のうち、蓄積された労働すなわち資本のものとなるわけまえにくらべての、直接の労働のわけまえをあらわしている。われわれはまえに一四ページ〔本書三〇ページ〕でこう述べた。「賃金は、自分の生産した商品にたいする労働者のわけまえではない。賃金は、資本家が一定量の生産的労働力を買いとるのにもちいる既存の商品の一部である」。しかし、資本家はこの賃金を、労働者によって生産された生産物を売った代価のなかから、うめあわせをしなければならない。それをうめあわせても、ふつうはなおあとに、彼の投下した生産費をこえてある超過分、すなわち利潤がのこるような仕方で、うめあわせなければならない。労働者の生産した商品の販売価格は、資本家にとっては三つの部分にわかれる。第一には、彼が前払いした原料の価格のうめあわせ、およびやはり彼が前払いした道具、機械その他の労働手段の磨損分のうめあわせ、第二には、彼が前払いした賃金のうめあわせ、第三には、以上のものをこえた超過分である資本家の利潤。この第一の部分がまえからあった価値を回収するにすぎないのに反して、賃金のうめあわせも、超過分たる資本家の利潤も、だいたいにおいて、労働者の労働によってつくりだされ、原料につけくわえられた新しい価値から得られることはあきらかである。そしてこの意味では、賃金と利潤を相互にくらべるために、この両方を労働者の生産物にたいするわけまえとみなすことができる。

 実質賃金がもとのままであっても、またあがってさえも、相対的賃金は、それにもかかわらずさがることもありうる。たとえば、あらゆる生活資料の価格が三分の二だけ下落したのに、一日の賃金は三分の一だけ、つまり、たとえば三マルクから二マルクに、下落するものと仮定しよう。労働者はこの二マルクで以前に三マルクで手にはいったよりも多量の商品を手にいれられるけれども、彼の賃金は資本家のもうけとくらべればへったのである。資本家(たとえば工場主)の利潤は、一マルクだけふえた。すなわち、資本家が労働者に支払う交換価値はまえより少量となったのに、労働者は、それとひきかえに、まえより多量の交換価値を生産しなければならない。労働のわけまえにくらべて資本のわけまえは増大した。資本と労働とのあいだの社会的富の分配は、さらに不平等になった。資本家は、同じ資本でまえより多量の労働を支配する。労働者階級を支配する資本家階級の力は大きくなり、労働者の社会的地位は悪化し、さらに一段と低く資本家の社会的地位の下におしさげられたのである。

 では、賃金と利潤の相互関係において、そのあがりさがりをきめる一般法則はどういうものか?

 賃金と利潤は、反比例する。資本のわけまえである利潤は、労働のわけまえである一日の賃金がさがるのに比例してあがり、またその逆のばあいは逆である。利潤は、賃金がさがっただけあがり、賃金があがっただけさがる。おそらく、つぎのように言って異論をとなえるものがあるであろう。資本家は、彼の生産物を他の資本家たちと有利に交換することによってもうけることもできるし、また、新しい市場が開拓された結果としてであれ、古い市場における需要が一時的にふヲたことなどの結果としてであれ、彼の商品にたいする需要が増大したためにもうけることもありうる。つまり、資本家の利潤は、賃金すなわち労働力の交換価値のあがりさがりとはかかわりなく、べつの資本家たちをぺてんにかけることによって、ふえることもありうる。あるいはまた、資本家の利潤は、労働用具の改善や、自然力の新しい応用等によってあがることもありうる、と。

 まず第一に、これは、逆の道をとおってではあるが、やはり同じ結果に達したものであることを、みとめなければならないであろう。なるほど、賃金がさがったから利潤があがったのではないが、利潤があがったから賃金がさがったのである。資本家は、同じ量の他人の労働で、まえより多量の交換価値を買いとったが、それだからといって労働にまえより多く支払いはしなかった。だから、それが資本家にあたえる純益にくらべて、労働にたいする支払いは低くなったのである。

 そのうえ、商品価格は変動するにもかかわらず、各商品の平均価格、それが他のいろいろの商品と交換される割合は、その生産費によってきまっていることに、注意をうながそう。だから、資本家階級の内部におけるぺてんは、かならずや相殺される。機械が改良されたり、自然力があたらしく生産に応用されれば、一定の労働時間内に、同じ量の労働と資本とでまえより多量の生産物をつくりだすことはできるようになるが、まえより多量の交換価値をつくりだすことはけっしてできない。私が紡績機械を使用することによって、一時間のうちに、この機械が発明される以前にくらべて二倍の糸を、たとえば五〇ポンドのかわりに一〇〇ポンドを、供給できるとしても、私はこの一〇〇ポンドと交換に、結局は、以前五〇ポンドと交換にうけとっていた以上の商品をうけとりはしない。それは生産費が半分にさがったからである。いいかえれば、同じ費用で二倍の生産物を供給することができるようになったからである。

 最後に、一国についてみても、また全世界市場についてみても、資本家階級すなわちブルジョアジーが生産の純益をどんな割合で自分たちのあいだに分配しようとも、この純益の総量はいつでも、だいたいにおいて、蓄積された労働が直接の労働によってふやされた量に過ぎない。したがって、この総量は、労働が資本をふやすのに比例して、すなわち利潤が賃金にくらべてあがるのに比例して、増大する。

 これでわかるように、われわれが資本と賃労働の関係の範囲内にとどまるばあいにさえ、資本の利害と賃労働の利害とはまっこうから対立するのである。資本が急速に増大するのは、利潤が急速に増大するのと同じことである。利潤が急速に増大できるのは、労働の価格が、相対的賃金が、同じように急速に減少するばあいだけである。実質賃金が、名目賃金すなわち労働の貨幣価格と同時にあがっても、利潤に比例してあがらないなら、相対的賃金はさがることもありうる。たとえば、好景気のときに、賃金が五パーセントあがり、一方、利潤が三〇パーセントあがるとすれば、比較的すなわち相対的賃金は、増大したのではなくて、減少したのである。

 だから、資本の急速な増大にともなって労働者の所得がふえるにしても、それと同時に労働者と資本家をわかつ社会的溝もふかくなるし、それと同時に労働を支配する資本の力、資本への労働の依存も増大するのである。資本が急速に増大することが労働者の利益であるというのは、つぎのことを意味するにすぎない。それは、労働者が他人の富を急速にふやせばふやすほど、ますます大きなかけらが労働者の手におちてき、ますます多くの労働者を仕事につけ、うみだすことができるようになり、資本に依存する奴隷の数をますますふやすことができる、ということである。

 こうして、われわれはつぎのことを知った。労働者階級にとってもっとも有利な状態である、資本のできるだけ急速な増大でさえ、どれほど労働者の物質的生活を改善しようとも、労働者の利害と、ブルジョアの利害すなわち資本家の利害との対立をなくしはしない。利潤と賃金とは、あいかわらず反比例する。資本が急速に増大すれば、賃金もあがるかもしれないが、資本の利潤のほうがくらべものにならないほど早くあがる。労働者の物質的状態は改善されたが、それは彼の社会的地位を犠牲にしてである。彼らと資本家をわかつ社会的な溝は、ひろがった。

 最後に、賃労働にとってもっとも有利な条件は生産的資本ができるだけ急速に増大することであるというのは、つぎのことを意味するにすぎない。それは、労働者階級が、彼らに敵対する力、彼らを支配する他人の富を急速にふやし増大させればさせるほど、労働者階級はそれだけ有利な条件のもとで、あたらしくブルジョア的富をふやし、資本の力を増大させるためにはたらかせてもらえる・・ブルジョアジーが彼らをつないでひきまわす金の鎖をあまんじてみずからきたえながら・・、ということである。



☆  五

 生産的資本が増大することと賃金があがることとは、実際に、ブルジョア経済学者の主張するように、切りはなせないようにむすびついているのであろうか? われわれは彼らのことばをそのまま信じてはならない。彼らが、資本が肥えふとればふとるほど資本の奴隷の餌(エサ)もよくなる、などというのをさえ、われわれは、信じてはならない。封建諸侯はその従者の華美をほこったものであるが、ブルジョアジーは彼らとこうした偏見をともにするには、開化しすぎており、勘定高すぎる。ブルジョアジーは、その生存条件からして勘定高くしないわけにはいかないのである。

 そこでわれわれは、もっとくわしく研究しなければならないだろう。生産的資本が増大すると、賃金にどういう影響があるか? ブルジョア社会の生産的資本が全体として増大すれば、労働のいっそう多面的な蓄積がおこる。もろもろの資本の数と規模が増大する。資本の数がふえれば、資本家のあいだの競争がふえる。もろもろの資本の規模が大きくなれば、いっそう巨大な武器をもった、いっそう膨大な労働者軍を産業戦場にひいていく手段が得られる。

 ある資本家が他の資本家を戦場から駆逐し、この資本を奪取することができるのは、より安く売ることによってだけである。より安く売って、しかも破滅せずにいられるためには、彼はより安く生産しなければならない。すなわち、労働の生産力をできるだけたかめなければならない。ところが、労働の生産力がたかめられるのは、なによりも、分業を増進させることによってであり、機械をいっそう全面的に採用し不断に改良することによってである。分業をおこなっている労働者軍が大きくなればなるほど、機械の採用が大規模になればなるほど、生産費は比較的に言ってそれだけへり、労働はそれだけ多産的になる。そこで資本家のあいだに、分業と機械を増大させ、それらをできるだけ大規模に利用しようとする全面的な競争がおこる。

 いまある資本家が、分業を増進させることにより、新しい機械を使用し改良することにより、自然力をいっそう有利に大量的に利用することによって、同じ量の労働または蓄積された労働をもって彼の競争者たちよりも多量の生産物、商品をつくりだす手段をみいだしたとすれば、彼が、たとえば、彼の競争者たちが半ヤールの亜麻布を織るのと同じ労働時間のうちに一ヤールの亜麻布を生産できるようになったとすれば、この資本家はどう行動するであろうか?

 彼は、ひきつづき半ヤールの亜麻布をいままでどおりの市場価格で売ってもさしつかえないが、しかし、それでは、彼の敵を戦場から駆逐して、自分自身の販路を拡大する手段にはならないであろう。ところが、彼の生産が拡大したのと同じ割合で彼にとって販路の必要も拡大したのである。彼がこの世にもたらした、より強力で高価な生産手段は、なるほど彼が自分の商品をより安く売ることができるようにはするが、同時に、より多くの商品を売り、自分の商品のためにはるかに大きな市場を奪取しなければならないようにする。だから、わが資本家は、半ヤールの亜麻布を彼の競争者たちより安く売るであろう。

 しかし、この資本家は一ヤールを生産するのに、彼の競争者たちが半ヤールを生産する以上の費用はかけていないのだが、彼はその一ヤールを、彼の競争者たちが半ヤールを売る値段ほど安くは売らないであろう。そうしたのでは、余分のもうけは一文もなく、交換しても生産費を回収するだけとなろう。したがって、たとえ他のものより多くの収入を得たにしても、それは彼がより大きな資本をうごかしたからであって、より有効に彼の資本をもちいたためではないということになろう。それに、彼の商品の価格を彼の競争者たちより数パーセント安くきめれば、彼のめざす目的は達せられるのである。競争者よりも安く売れば、競争者たちを戦場から駆逐し、彼らからすくなくともその販路の一部をもぎとることになる。そして、最後に、商品の時価は、その販売が産業の好況期におこなわれるか不況期におこなわれるかに応じて、たえず生産費の上なり下なりにあるということを、思いおこそう。一ヤールの亜麻布の市場価格がそのいままでふつうであった生産費の下にあるか上にあるかに応じて、もっと多産的な新しい生産手段をもちいた資本家が彼の現実の生産費をこえて売る率もかわるであろう。

 しかし、わが資本家の特権はながつづきしない。競争相手の他の資本家たちも、同じ機械、同じ分業を採用し、それらのものを同じまたはもっと大きな規模で、採用するようになる。そして、それはやがてあまねく採用され、その結果、亜麻布の価格はそのもとの生産費以下どころか、その新しい生産費以下にひきさげられるであろう。

 だから、資本家たちはおたがいに、新しい生産手段が採用される以前にあったのと同じ状態におかれるのであって、もし彼らがこの生産手段をつかってまえと同じ価格で二倍の生産物を供給できるとすれば、いまではこの二倍の生産物をもとの価格以下で供給しなければならないのである。この新しい生産費を基礎として、ふたたび同じ競技がはじまる。分業がすすみ、機械がふえ、分業と機械の利用される規模が大きくなる。そして競争はこの結果にたいしてふたたび同じ反作用をもたらす。

 これでわかるように、生産方式、生産手段はこうしてたえず変革され革命化されていき、分業は一段とすすんだ分業を、機械の使用は一段とすすんだ機械の使用を、大規模な作業は一段と大規模な作業を、必然的によびおこすのである。これが、ブルジョア的生産をたえずくりかえしてその古い軌道からなげだし、資本が労働の生産力を緊張させたという理由でさらに資本を強制して労働の生産力を緊張させる法則であり、資本にすこしの休息もさせずに、たえず、すすめ! すすめ! と耳うちする法則である。

 この法則こそは、景気周期の変動の内部で商品の価格を必然的に平均化させてその生産費に一致させるあの法則にほかならない。ある資本家がどんなに有力な生産手段を戦場にひきだしても、競争はこの生産手段を一般化するであろうし、競争がこの生産手段を一般化したそのときから、彼の資本がいっそう多産的になったこのただ一つの結果は、いまでは同じ価格で以前の一〇倍、二〇倍、一〇〇倍を供給しなければならない、ということでしかない。ところが、彼は、販売価格の下落をもっと多量の生産物の販売でおぎなうために、おそらく千倍も売らなければならないので、また、いまでは、もっともうけるためばかりでなく、生産費を回収するためにさえ・・生産用具そのものがますます高価になっていくことはわれわれがすでにみたところである・・もっと大量に売らなければならないという理由で、またこのように大量に売ることは、この資本家にとってだけでなく、彼の競争相手たちにとっても死活問題になっているという理由で、従来の闘争が、すでに発明された生産手段が多産的であればあるほどそれだけ激しいものとなって、はじまるのである。だから、分業と機械の使用とは、くらべものにならないほど大きな規模で、あたらしくすすむであろう。

 使用される生産手段の力がどうであろうと、競争は、商品の価格を生産費にひきもどすことによって、したがって、いっそう安く生産できるように、すなわち同じ量の労働でいっそう多量に生産できるようになるのと同じ割合で、ますます安く生産すること、同じ価額でますます多量の生産物を供給することを一つの命令的な法則にすることによって、資本からこの力のうむ黄金の果実をうばおうとする。こうして資本家は、彼自身の骨折からは、同じ労働時間内にいっそう多くのものを供給する義務のほかには、一言で言えば、彼の資本の増殖の条件をいっそう困難にするほかには、なにも得るところがないことになろう。だから、競争がその生産費の法則をもってたえず資本家を追いまわし、およそ彼がその競争者にたいしてきたえる武器はみな彼自身にむけられた武器としてはねかえってくる一方、資本家は、古い機械と分業のかわりに新しい、より高価ではあるがより安く生産する機械と分業をやすみなく採用し、競争が新しいものを旧式にしてしまうまでまたないというやりかたで、たえず競争をだしぬこうとする。

 いま、この熱病的な運動が世界市場全体で同時におこっていることを考えるなら、資本が増大し、蓄積され、集積するのにともなって、分業や、新しい機械の使用や、古い機械の改善がたえまなく、たてつづけに、ますます大規模におこなわれる結果となることは、あきらかである。

 だが、生産的資本の増大ときりはなすことのできないこれらの事情は、賃金の決定にどういう影響をおよぼすか?

 分業がすすめば、一人の労働者が五人、一〇人、二〇人分の仕事をすることができるようになる。だから、それは労働者のあいだの競争を五倍、一〇倍、二〇倍も増大させる。労働者は、たがいに自分を他のものよりも安く売りあうことで競争するばかりではない。彼らは、一人が五人、一〇人、二〇人分の仕事をすることによっても競争する。そして、資本によって採用され、たえず増進していく分業は、労働者を強制してこの種の競争をさせるのである。

 さらに、分業がすすむのに比例して、労働が単純化される。労働者の特別の熟練は無価値なものになる。彼は、肉体力も精神力もはたらかせる必要のない、単純な、単調な生産力にかえられる。彼の労働はだれにでもできる労働になる。そこで、競争者が四方八方から彼におそいかかってくる。そのうえ、労働が単純になり、まなびとりやすいものになればなるほど、それを身につけるのに必要な生産費がすくなくなればなるほど、賃金はますます下落することを、注意しておこう。というのは、他のあらゆる商品の価格と同じように、賃金も生産費によってきめられるからである。

 だから、労働が不満足な、不快なものになるのに比例して競争が増大し、賃金が減少する。労働者は、もっと長い時間はたらくか、同じ時間内にもっと多くのものを供給するか、どちらにしてももっと多く労働することによって、自分の賃金額を維持しようとする。こうして彼は、困窮にせまられて、分業の有害な影響をさらにはなはだしくする。その結果は、彼がはたらけばはたらくほど、彼のうけとる賃金はそれだけすくなくなる。それというのも、はたらけばはたらくほど、彼は仲間の労働者たちと競争するようになり、したがって仲間の労働者たちをことごとく競争者にかえてしまい、彼らもまた彼自身と同じ悪い条件ではたらこうと申しでるようになるという、したがって、結局彼は自分自身と、つまり労働者階級の一員としての自分自身と、競争するようになる、という簡単な理由からである。

 機械は、これと同じ影響をはるかに大きな規模でもたらす。というのは、機械は、熟練労働者を不熟練労働者で、男を女で、大人を子供でおきかえるからであり、また、それがあたらしく採用されるところでは、手作業労働者を大量に街頭になげだし、それが完成され改良され、もっと多産的な機械によっておきかえられるところでは、労働者を、小きざみにおはらいばこにするからである。さきほどわれわれは、資本家相互のあいだの産業戦争のあらましを走り書きした。この戦争の独特な点は、その戦闘の勝利が労働者軍を徴募するよりむしろ除隊させることによって得られるという点である。将軍である資本家は、だれがもっとも多く産業兵を除隊させることができるかについて、たがいに競争するのである。

 なるほど、経済学者は、機械のために余分になった労働者は新しい部門で仕事をみつける、とわれわれにかたってきかせる。彼らは、さすがに、解雇されたその同じ労働者が新しい労働部門に就職する、とはっきり主張しようとはしない。事実はこのようなうそに、あまりにも明白に反しているからである。ほんとうは、彼らは、労働者階級の他の構成部分のために、たとえば、労働者の若い世代で、すでにこの没落した産業部門にはいろうとして待機していた部分のために、新しい雇用の道がひらかれるであろう、と主張しているだけなのである。これは、もちろん、落伍した労働者にとってたいした慰めというものだ。資本家諸公は、新鮮な、搾取できる血肉に、こと欠かないであろう。死者をして死者をほうむらしめよ、と。これは、ブルジョアが労働者にあたえる慰めであるよりも、むしろ自分自身にあたえる慰めである。もし賃金労働者階級全体が機械によって絶滅されるのだったら、賃労働がなければ資本でなくなってしまう資本にとって、なんとおそろしいことであったろう!

 だが、機械のために直接に仕事から追われたものも、また新しい世代で、すでにこの仕事の口をまっていた部分の全体も、新しい仕事をみつけるものと仮定しよう。この新しい仕事にたいして、なくした仕事と同じ額が支払われると、だれか思うものがあろうか? そういうことは、経済学のあらゆる法則と矛盾することであろう。われわれがすでにみたとおり、近代産業は、たえず、より複雑な、より高級な仕事をより単純な、より低級な仕事とおきかえるのである。

 そうだとすると、機械のためにある産業部門からほうりだされた一団の労働者は、もっと賃金の低い、悪いところでないかぎり、どうして他の産業部門に避難所をみつけられようか? 例外として、機械そのものの製造に従事する労働者がひきあいにだされてきた。産業でより多くの機械が要求され消費されるようになれば、かならず機械がふえるはずであり、したがって機械製造が、したがって機械製造業における労働者の雇用が増大するはずである。そして、この産業部門で使用される労働者は、熟練労働者、それどころか、教養ある労働者でさえある、というのである。

 この主張は、すでに以前でも半面の真理にしかすぎなかったのであるが、一八四〇年以来は、真理らしい外観さえまったくうしなってしまった。というのは、機械の製造でも、綿糸の製造におとらずますます多くの方面で機械がもちいられるようになり、機械製造につかわれている労働者も、きわめて精巧な機械にくらべてはすでにきわめて精巧でない機械の役目しかはたせなくなったからである。

 それでも、機械のためにおはらいばこになった一人の男のかわりに、工場はたぶん三人の子供と一人の女をつかっているだろう、という! だが、この男一人の賃金は、この三人の子供と一人の女をやしなうのに十分なはずではなかったか? 賃金の最低限は、〔労働者の〕種属を維持し繁殖させるのに十分なはずではなかったか? そうだとすれば、ブルジョアのこのんでもちいるこのきまり文句はなにを証明するのか? ほかでもない、いまでは、一労働者家族の生計の資を得るために以前の四倍の労働者の生命が消費されているということである。

 要約しよう。生産的資本が増大すればするほど、分業と機械の使用がますます拡大する。分業と機械の使用が拡大すればするほど、労働者のあいだの競争がそれだけ拡大し、彼らの賃金はますます縮小する。そのうえ、労働者階級はなお、彼らより上の社会層からも補充されていく。多数の小産業家や小金利生活者が労働者階級のなかへ転落してくるが、これらのものは、労働者の腕とならべて自分の腕をさしあげる以外には、どうしようもないのである。こうして、仕事をもとめて高くさしあげられた腕の森はますますしげっていき、腕そのものはますますやせていく。

 たえずますます大規模に生産することを、すなわち、まさに大産業家であって小産業家でないことを第一条件の一つとする闘争に、小産業家がもちこたえられないことは、自明のことである。資本の量と数が増大するのに比例して、資本が増大するのに比例して、資本の利子が低落していくこと、したがって小金利生活者はもはやその利子では生活できなくなり、そこで産業に身を投ずるほかなく、したがって小産業家の仲間の、こうしてまたプロレタリアートの候補者の、増加をたすけること、これらのことはみな、おそらく、これ以上くわしく説明するまでもないであろう。

 最後に、資本家がまえに述べたような運動に強制されて、すでに存在する巨大な生産手段をさらに大規模に利用し、この目的のために信用のあらゆる発条(バネ)をうごかすにつれて、それに比例して産業地震、商業界が富、生産物の一部を、また生産力の一部をさえ、地獄の神々にいけにえとしてささげることによってようやくその身をたもつあの産業地震も、増加する。一言で言えば、恐慌が増加する。

 恐慌は、つぎの理由だけからでもますますひんぱんに、激烈になっていく。それは、生産物の量が増大し、したがって市場を拡大しようとする要求が増大すればするほど、世界市場はますます収縮し、また開発すべき新市場はますますのこりすくなくなるという理由である。というのは、いつでも前回の恐慌によって、これまで征服されずにいたか、あるいは商業が表面的に搾取してきただけの一市場が世界商業に従属させられたからである。しかし、資本は労働によって生きているだけではない。権勢あると同時に野蛮な支配者である資本は、彼の奴隷の死体を、恐慌で没落する労働者のいけにえ全体を、自分といっしょに墓穴にひきずりこむのである。これを要するに、資本が急速に増大すれば、労働者のあいだの競争は、それとはくらべものにならないほど急速に増大する。すなわち、雇用手段である労働者階級のための生活資料は、相対的にますます減少する。だが、それにもかかわらず、資本の急速な増大は、賃労働にとってもっとも有利な条件である。

     一八四七年一二月一四・三〇日におこなった講演
     はじめ『新ライン新聞』一八四九年四月五・八日および一一日号に発表
     一八九一年にベルリンで単行小冊子としてエンゲルスの序文および編集で発行
     右の小冊子のテキストによる



☆  人名注
リカードー,デーヴィド(1772・1823)  イギリスの経済学者。古典経済学の最後の偉大な代表者

☆  事項注
〔1〕 『新ライン新聞』・・1848年6月1日から1849年5月19日までケルンで出ていた。同紙の編集主筆はマルクスであった。
〔2〕 マルクスは『資本論』にこう書いている。「私が古典経済学というのは、……ウィリアム・ペティ以来の、ブルジョア的生産関係の内的関連を研究する経済学全体のことである。」(『資本論』、第1巻、国民文庫版(1)、145ページ)
イギリスにおける古典経済学の最大の代表者はアダム・スミスとデーヴィド・リカードーであった。
〔3〕 「狭義の経済学は17世紀の終りごろに天才的な人々の頭脳に生まれたとはいうものの、重農学派とアダム・スミスがあたえたその積極的な定式化においては、本質上、18世紀の所産である……」(エンゲルス『反デューリング論』、選集、第14巻、285ページ)
〔4〕 「すべての社会成員が」・・原文ではこれは aller Gesellschaftsglieder となっていて、ungeheuren Produktivkraefte にすぐつづいているので、ここの文章全体は、「すべての社会成員の、すでに存在している巨大な生産力を計画的に利用しさらに発達させることによって、平等の労働義務を負いながら、生活のため、生活享楽のためいっさいの肉体的・精神的能力を発達させ発揮するための手段をも平等に、ますますゆたかに利用できる、そういう社会制度なのである」としか訳せない。しかし、これは不完全文章なので、引用した語はおそらく allen Gesellschaftsglieder の誤植であろう。そうだとすると、本文に訳したようになる。
〔5〕 イギリスの労働組合は、5月の第1日曜日に国際的プロレタリア的祝日をいわうことにしていたが、1891年には、5月3日が第1日曜日にあたっていた。
〔6〕 すなわち、パリにおける1848年2月23・24日の革命、ウィーンにおける3月13日の革命、ベルリンにおける3月18日の革命。
〔7〕 『新ライン新聞』にマルクスが発表したテキストでは「その所属する労働部門のことなるにしたがって」という句のうしろに「一定の労働時間にたいし、または」という句がはいっている。
〔8〕 当時ヨーロッパ大陸では、おもに銀本位制が採用されていた。
〔9〕 この箇所の「労働力」という用語は、エンゲルスが挿入したものではなく、『新ライン新聞』にマルクスが発表したテキストで、すでにそうなっている。



§ 解説

 マルクス主義経済学をまなぼうとするばあい、ほとんどかならずといっていいほど、まず最初に『賃労働と資本』や『賃金、価格、利潤』(本文庫既刊)を読むのが普通である。これは、日本でも諸外国でも、そうである。このように『賃労働と資本』は、マルクス主義理論をまなぶ者の必読の文献となっている。それはなぜだろうか。

☆  一

 われわれの生活はもとより、政治をはじめ社会全体の動きが、経済の問題とふかくつながっていることは、だれでも感じている。経済ほど切実でしかも根本的な問題はないであろう。ところがまたその経済の問題ほど、一般につかみにくく、わかりにくいものもないのではないか。資本主義の経済は、たんなる常識や外見だけの観察ではわからない秘密のカラクリを土台にしている。だから資本主義経済のほんとうの姿、意味、働きをつかむためには、どうしてもわれわれは科学の力によって、この秘密のカラクリを見やぶらなければならない。それによってはじめて、われわれは社会全体の動きの方向を見とおすことができるようになるし、またしたがって、そのなかでわれわれがどう生活し行動したらいいかもはっきりしてくる。この意味で、科学的な経済学についての大筋だけでもまなんでおくことは、現代に生きる人々、とくに働く人々にとって絶対に欠くことができないと言っていい。
 マルクス経済学は、まさにこの資本主義経済の秘密のカラクリをはじめて赤裸々にえぐりだし、働く者の行動に科学的な指針をあたえ、その未来をあかあかとてらしだした。資本主義経済のカラクリは、きわめて複雑で巨大な体系をなしている。しかしその巨大な網の目をときほごしてゆく手がかりは、資本家と労働者との関係をただしく理解することにある。実際に富の生産にたずさわっている労働者がまずしいのに、労働をしない資本家が利潤(これを正確に科学的なことばで「剰余価値」とよぶ)をあげて富んでいるのはなぜなのか。つまり労働者はどのようにして資本家に搾取されているのか、を理論的につかむことにある。この理論が、「剰余価値の法則」とよばれるものであって、マルクス経済学全体の土台石であり、核心である。マルクスは『資本論』のなかで、この法則をくわしく説明するとともに、それを鍵とし、それを発展させて、資本主義社会全体の経済的運動法則、資本主義社会の発生と発展と消滅の法則をあきらかにした。そしてこれによって、資本主義社会のなかに生きる労働者の地位と運命とすすむべき道をさししめして、社会主義の必然性を科学的に論証した。
 けれども、『資本論』は全三巻、数千ページにおよぶ大著であり、それを読みとおし、十分に理解することはけっしてやさしいことではない。どうしても手引きとなる入門書が必要である。ことに毎日の労働と生活に追われる労働者には、『資本論』全体をひもとくことはきわめてむずかしいであろう。この意味で、その簡潔な解説書が必要である。そして、こうした入門書、解説書としてもっとも正確で適切なものと言えば、言うまでもなくマルクス自身が書いたものであろう。『賃労働と資本』は、まさにそれなのである。
 『賃労働と資本』は、わずか数十ページのパンフレットであるが、そのなかには、前述のマルクス経済学の核心、『資本論』の中心理論、科学的社会主義の理論的土台である「剰余価値の法則」が、生きいきと簡潔に述べられている。
 この本のはじめでマルクスは言っている、「われわれは、労働者にわかってもらいたいのである」と。そして「経済学のごく初歩的な概念さえもたない」読者のために、「できるだけ簡単に、わかりやすく述べる」と言っている。たしかに、どんなに読書になれない人でも、この本によってマルクス経済学の中心理論を理解できるはずである。またすでに多少ともマルクス理論を知っている読者のばあいにも、この本によって自分の知識を生きいきとしたものにし、いっそう確実なものにたかめることができるであろう。

☆  二

 マルクスは一八四七年の末に、ベルギーのブリュッセルのドイツ人労働者協会で労働者のために経済学の講演をやった。その講演をもとにして、一八四九年四月に『新ライン新聞』に『賃労働と資本』という表題で論文を連載した。その後これは単行本で発行されたが、マルクスの死後、一八九一年に、エンゲルスが、いままでの版に必要な修正をくわえて、新版を発行した。これが現在の『賃労働と資本』であり、この訳本の原本である。
 マルクスがこの講演をやった一八四七年、この論文を書いた一八四九年という年を考えていただきたい。一八四九年には、マルクスはまだ三一歳の若さであった。しかしこのころには、マルクスはエンゲルスとの協力をとおしてすでに科学的社会主義すなわち共産主義の理論を確立していた。前年の一八四八年には、二人の共著で『共産党宣言』が出ている。同時にこの一八四八年は、ヨーロッパ大陸全体が民主主義革命のあらしでゆらいだ年であった。パリでも、ウィーンでも、ベルリンでも、民衆は武器をとってたちあがった。そしてマルクス自身も、この革命のあらしの渦中に積極的に参加したのである。
 しかし、一八四八・四九年の革命は、どこでもブルジョアジーの裏切りのために敗北した。これ以後、労働者階級は、ブルジョアジーとともにではなく、ブルジョアジーに抗して、民主主義革命の旗をおしすすめなければならなくなる。ブルジョアジーとの階級闘争をとおして、民主主義革命を達成し、つづいて社会主義革命をおこなわなければならない。だが、労働者階級が本当にその能力をもち、正しい戦略と戦術のもとに闘争をつづけるためには、彼らはまず、階級闘争の歴史的意義と資本主義社会の動きを正確におしえる科学的社会主義の理論を身につけること、そして自分自身の階級的地位と歴史的使命とを、はっきり理解することが必要である。『共産党宣言』はまさにこの大綱をしめしたものであり、『賃労働と資本』は、それをとくに経済学的な分析によって裏づけるものであった。マルクスが『賃労働と資本』を書いたのは、第一節のはじめで彼が言っているとおり、こういう実践のための理論をあきらかにすることを目的としたのである。

☆  三

 前述のように、エンゲルスはこの本の新版を出すさいに、マルクスの論文に多少の修正をくわえた。「これは、マルクスが一八四九年に書いたままのパンフレットではなくて、ほぼ彼が一八九一年にはこう書いたろ、と思われるパンフレットである」と、彼は言っている。エンゲルスが修正をくわえたのは、「労働」と「労働力」ということばの区別を、はっきりさせるためであった。
 労働力とは、富を生産し、価値を創造する、人間の肉体上精神上の能力、すなわち労働する力、の全体である。「労働」とは、この労働力を実際に使用し、発揮して、富を生産し、価値を創造することである。「労働力」は人間にやどっている働く力であり、「労働」はその力を実際につかうことである。この二つを区別することは、きわめて重要である。ある意味では、これが剰余価値理論の中心であり、資本主義的搾取の秘密を解く鍵であると言っていい。いわゆるブルジョア経済学は、すべてこの点でまちがっていると言うこともできる。
 エンゲルスの修正以前の『賃労働と資本』でも、事実上はこの区別がはっきりしており、それにもとづいて賃金や剰余価値の説明がおこなわれている。しかしこの点がほんとうに理論的にはっきりするのは、『資本論』第一巻(一八六七年発行)である。『賃労働と資本』を書いた当時のマルクスは、まだマルクス主義経済学を完成していなかった。したがってエンゲルスは、後年のマルクスの正確な概念規定にもとづいて、『賃労働と資本』の用語や表現をいっそう科学的な形になおしたのである。
 以上のことについては、この本のはじめのエンゲルスの序文で、くわしく、しかも平易に説明されている。本文でも一節から三節にかけて説かれているが、読者がまずこの序文をよく読んでおかれることを希望する。そして、「労働力」と「労働」の区別が、たんなることばの問題でなく、深刻な階級的意味をもっていることを、しっかりつかんでいただきたい。さらにすすんだ読者は、『賃金、価格、利潤』の第七・一〇節、『ソ同盟・経済学教科書』第七章「資本と剰余価値。資本主義の基本的経済法則」、『資本論』第一巻第二篇第四章第三節「労働力の購買と販売」、同第三篇第五章「労働過程と価値増殖過程」などを研究されるといいと思う。

☆  四

 つぎに本文の主な内容にふれておこう。
 第一節では、賃金とはなにか、が論じられ、それが資本家が買いとる労働力という商品の価格であることがあきらかにされる。そのほか、三二・三ページにかけて、奴隷と農奴と賃労働者とのちがいをしめし、賃労働の歴史性を説いた有名な一節がある。また、三〇・二ページには、賃労働者が人間らしい生活をうばわれているありさまが説明されている。マルクス経済学の根底にながれている激しいヒューマニズムの精神に注目すべきであろう。
 第二節では、まず商品生産の経済法則である価値法則と、この価値法則が競争と生産の無政府性をとおして実現される様子が簡潔に説明される。『資本論』で言えば、第一巻第一篇第一章第一、二節で説かれている労働価値論の部分にあたる。これによって一般に商品の価値と価格がなにによってきまるかがあきらかにされ、ついでこの節の終りの部分で、労働力という商品の価格すなわち賃金が、同じ価値法則にもとづいて、労働力の生産費すなわち労働者の生存費と繁殖費によってきまることが説かれる。
 第三節では、資本が分析される。資本とはなにか。資本はたんなるカネでもないし物でもない。われわれの家計のカネや家財道具は資本とは言えない。資本とは、時にはカネ、時には物(機械とか原料とか)と、さまざまに形をかえながらも、全体として、賃労働者を搾取することによって自己増殖する価値のことだ。したがってそれは、資本家と労働者のあいだの社会的生産関係、階級関係をあらわしている。ここで、第二節で述べられた労働力と労働、価値という概念にもとづいて、資本がいかにして剰余価値を獲得するかが説明される。この意味で、ここはこの本の中心である。マルクスはまだ剰余価値ということばをもちいていないが、ここの内容はまさに剰余価値の源泉を平易に説いたものである。本節ではさらに、四四・六ページに、生産力と生産関係についての古典的な説明があり、また最後の五一・二ページでは、資本家と労働者との利害の同一という、御用学者の俗論が批判されている。「資本家あっての労働者」、「会社あっての組合」というこうした俗論は、いまでもわれわれのまわりに流布されていることに注意したい。
 第四節では、すすんで資本家と労働者との利害がまっこうから対立することを論証している。これは前節の剰余価値法則から出てくるもっとも重要な結論である。ここでマルクスは、名目賃金と実質賃金の区別をあきらかにし、さらに資本主義が発展するにつれて労働者階級の資本家階級にたいする相対敵地位がしだいに悪化することをしめしている。これは、いわゆる労働者階級の相対的貧困化の法則である。五三ページにある小さい家と邸宅の例も、よく引用される部分である。
 第五節では、資本主義の発展、すなわち資本の蓄積が賃金水準におよぼす作用を分析している。すでに前節で、資本蓄積の増大は労働者にとチては相対賃金の低下(相対的貧困化)と資本の支配の増大であることがあきらかにされた。ここではさらにその説明が発展させられる。すなわち、資本蓄積が増大すれば、分業と機械の使用がひろがり、それがまた労働者のあいだの競争をはげしくして、彼らの賃金をますます切りさげ、また他方、大量の労働者から職をうばって産業予備軍(失業者群)をつくりだす反面、婦人や子どもを家庭から工場にひきずりだす。さらに血で血をあらう資本間の競争は、たえず弱小の企業家たちを没落させて、労働者軍を拡大し、こうして社会全体を少数の大資本家と多数のプロレタリアートに二分してゆく。以上が、マルクスのしめす賃金運動の法則、労働者階級の絶対的貧困化の法則、資本主義下の労働者階級の運命である。ますます頻繁に、ますますはげしくなる恐慌はこの過程をはやめ、破局を近づける。『資本論』第一巻第三篇第八章、第四篇、さらにとくに第七篇第二三章の「資本主義的蓄積の一般法則」は、以上の点をくわしく述べたものといってよい。

☆  五

 『賃労働と資本』は、ここでおわっている。この本のはじめのところでは、マルクスは三つの項目をあげてこの本のプランとしているが、実際に書かれたのは、そのうち第一の項目だけで、第二、第三は書かれずにおわった。この事情はエンゲルスの序文の冒頭にくわしい。マルクスが第二、第三でなにを書くつもりであったかは、いろいろな推測はできるけれども、はっきりしない。ただ、このように『賃労働と資本』ははじめのプランからすれば未完におわってはいるが、しかし現在のままの形でも、経済学のもっとも基本的な原理は十分に説明されており、これだけで独立のパンフレットとしてまとまっていると言ってよい。
 『賃労働と資本』を読んだ人は、それをさらに発展させる意味で、できるだけすすんでつぎの諸文献を併読していただきたい。(一)マルクス=エンゲルス『共産党宣言』、(二)マルクス『賃金、価格、利潤』、(三)エンゲルス『空想から科学へ』、(四)エンゲルス『資本論綱要』。さらにすすんだ読者は、(五)マルクス『経済学批判』(以上はすべて本文庫にはいっている)、(六)ソ同盟科学院経済研究所『経済学教科書』(新日本出版社)第二篇を読まれるとよく、もっとすすんでは、(七)マルクス『資本論』(国民文庫)ととりくんでほしいと思う。

 一九五六年四月 国民文庫編集委員会



 インターネット上に党派のサイトが登場し、その理論研修コーナーが設けられているところもあるが、どういう訳か解説ばかりである。日共系出版による著作権が睨みを利かしているせいであろうか。それなら、他の出版社から版権を借りるとか原典管理者と交渉するとか手立てを尽せば良いのに。れんだいこは、党派としては怠惰と診る。

 しかし、そのような解説サイトを設けているのはまだ良い方だということになるのだから肌寒い。次に記すのは日本労働党のマルクス主義入門コーナーに掲載されている「賃労働と資本」である。それを単に転載するのでは面白くないので、れんだいこのコメント付きとする。しかし、日本労働党も又何の説明も無く「
Copyright(C) Japan Labor Party 1996-2003」なる著作権主張をしている。一体、何のためにそのような有害無益権を振り回すのだろう。解せないこと夥しい。

労働新聞 マルクス・レーニン主義 古典紹介 マルクス主義入門 カール・マルクス著「賃労働と資本」

(1)『賃労働と資本』の成り立ち
(2)賃金とは何か?
(3)賃金はどのようにして決められるのか?
(4)資本とは何か?
(5)資本家と労働者の利害の本質的対立
(6)資本主義の発展と賃金、労働者の運命

Copyright(C) Japan Labor Party 1996-2003

労働新聞 2003年6月5日号 通信・投稿(1)『賃労働と資本』の成り立ち

プロローグ

 「おい、今年は給料上がんねぇみたいだぞ」
 ここは下町の下請け工場。昼休み、弁当をかき込んでいたクマさんに、同僚のトラさんが話しかける。
 「ふん、前から組合は『賃上げよりも雇用』とか言ってたからな」
 「この不況だしな。まあ、クビがつながっただけでもめっけものか」
 あきらめ顔で語るトラさんに、はしを握るクマさんの手が止まる。
 「じゃあ何か? 会社がもうからねえ時は、俺らの給料も下げていいってか? 大体、ホントにもうかってないのか」
 クマさんの反論に、トラさんはちょっとあわてる。
 「だって、『会社が発展してこそ、俺たちの生活もよくなる』。だから、仕方ないんじゃ…」
 「俺もこの前までそう思ってた。だけど、『賃労働と資本』って本を読んで、考えが変わったのよ」
 「へぇ、何か難しそうだな。どんなことが書いてあんだ?」
 「よくぞ聞いてくださった」
 クマさんは得意気に話し始める。
   *  *  *
 『賃労働と資本』は、マルクスが、1847年の冬にベルギーのドイツ人労働者協会で行った経済学の講演をもとにしている。マルクスはそれを、1849年、「新ライン新聞」に「賃労働と資本」という表題で論文として掲載した。
 『賃労働と資本』は、当初のマルクスの構想によれば、(1)賃労働の資本に対する関係、労働者の奴隷状態、資本家の支配、(2)こんにちの制度のもとでは、中間市民階級といわゆる農民部分の没落が避けられないこと、(3)世界市場の専制的支配者である英国がヨーロッパのいろいろの民族のブルジョア階級を商業的に隷属させ搾取していること、の3つで構成されることになっていた。しかし、当局の処分などによって、結局(1)の部分のみしか書かれず、未完のままとなっている。(1)〜(3)の全体を網羅(もうら)するのは、1868年の『資本論』を待たねばならない。
 マルクスがこの講演を行い、執筆に当たった1847年から49年という時代に注目しておくことは重要である。この時期、ヨーロッパは民主主義革命の嵐が吹き荒れ、労働者階級はじめ民衆は武器を取って革命に加わった。しかし、この革命はどこでもブルジョアジーの裏切りのために敗北せざるを得なかった。以降、労働者階級は、ブルジョアジーの指導下にとどまるのでではなく、それに抗し、民主主義革命の徹底と、社会主義革命の実現を目指して闘うことを自らの任務とするようになる。そして、そのためには、階級闘争の歴史的意義と資本主義社会のからくりとその運命を正確に教える科学的社会主義の理論を身につけ、労働者階級が自分自身の階級的地位と歴史的使命を、はっきりと自覚することが必要であった。
 マルクスとエンゲルスが1848年に著した『共産党宣言』は、まさにこの任務にこたえようとするものであり、本書『賃労働と資本』は、それを経済学的な分析によって裏づけようとするものである。
 まず、この『賃労働と資本』を読むに当たって、エンゲルスによる序文を熟読することをお勧めする。
 ここでエンゲルスは、『賃労働と資本』が発刊に当たり、彼による訂正が加えられていることを明らかにしている。エンゲルスは序文で、「これは、マルクスが1849年に書いたままのパンフレットではなくて、ほぼ彼が1891年にはこう書いたろうと思われるパンフレットである」「原本では、労働者は賃金と引き替えに資本家に彼の『労働』を売ることになっているが、このテキストでは彼の『労働力』を売ることになっている。…これはたんなる字句拘泥(こうでい)ではなく、むしろ経済学全体のうちでもっとも重要な点なのだ」(国民文庫版、以下同)と述べている。
 労働者が日々資本家に売っているものは「労働」ではなく「労働力」であることがなぜ重要なのか。
 「労働力」とは、人間が富を生産し、価値を創造する肉体上・精神上の能力、すなわち「労働する力」のことである。「労働」とは、この労働力を実際に使用して富を生産し、価値をつくり出す行為である。この二つを区別することは、きわめて重要である。そして、その「労働力」は砂糖などと同じく商品であり、しかも価値を増やす特殊な商品であることが、この書を通じて解明されていく。
 ここにこそ資本主義社会のからくり、搾取の秘密を理解する鍵、剰余価値理論の中心がある。そしてそれこそ、資本主義社会での資本家と労働者との非和解的な関係の基礎でもある。   (O) (つづく)

労働新聞 2003年6月15日号 通信・投稿『賃労働と資本』(2)賃金とは何か

 「賃金とは何か。それはどのようにして決められるか」。これが最初のテーマである。
 まず、賃金とは何か?「月20万円」などの給料(賃金)は、労働者が自分たちの「労働」を売り、その対価として受け取っているように見える。また、近代経済学、さらに最近では御用労働組合も、そう主張する。だが、これは「そう見えるだけである」。
 ここで、エンゲルスが序文で指摘した「労働」と「労働力」の違いを想起していただきたい。
「彼ら(労働者)が実際に貨幣と引き替えに資本家に売るのは、彼らの『労働力』である。この『労働力』を資本家は、一日、一週間、一カ月等々を限って買う。そして彼は、それを買った後では、労働力を約束した期間働かせる(つまり「労働」させる)ことによって、それを消費」し、製品をつくらせ、富を得るのである。
 だから「労働力」は、機械、原料などと同じ、商品そのものである。したがって「賃金とは、『労働力』の価格…ふつう『労働』の価格と呼ばれている…に対する、人間の血肉以外には宿るべき場所のないこの独特の商品の価格に対する、特別の名前にすぎないのである」。
 この項以降、繰り返し説明される「労働力」の「独特の商品」としての性格、ここにこそ、資本主義経済のすべてのからくり、秘密がある。
 しかもそれは、労働者の労働の結果としての生産物の「分け前」でもない。賃金は、資本家が手持ちの貨幣で、あらかじめ支払うのである。だから、たとえ出来上がった製品が売れるか否か、あるいはどの程度利益をもたらすかは、それをつくった労働者には何の関係もない。これは「日当」での労働を考えれば明らかなことである。
 「売上が伸びないから給料が払えない」という俗流の賃金論、あるいは会社と労働者が利益を分けあっているなどという「パイの論理」は、すでにここで見事に打ち破られる。
 ところで、労働者はなぜ、自分の労働力を売るのか?
 答えは言うまでもなく、「生きるためである」。
 だが本来、「労働力を働かせること、すなわち労働は、労働者自身の生命活動であり、彼自身の生命の表現である」はずだった。蚕は幼虫としての命をつないでいくために、つまり賃金のために、絹糸を紡ぐのではない。それは生命活動そのものである。獲物を追って野山を駆けていた原始の時代を想像してほしい。人間にとって生きることは労働することであった。ところが今日の資本主義社会の下では「彼の生命活動は、彼にとっては、生存するための手段にすぎない」。だから「彼は労働を彼の生活の中にさえ含めない。労働はむしろ彼の生活(生命)を犠牲にすることである」。労働者は、資本家によって買い上げられた何時間かの労働を、「彼の生命の発現と、彼の生活と、認めているであろうか? その逆である。生活は、彼にとっては、この活動の止むところで、食卓で、居酒屋の腰掛けで、寝床で、始まるのである」。マルクスのこの指摘は、はたと膝を打つほどに、実感に満ちた話ではないか。労働者にとって、確かにそここそが、ほっとし、人間としての自分を取り戻せる場所である。
 「生命活動を、…必要な生活資料を手にいれるために、他の人間に売」っているがゆえに、この資本主義社会では労働は、実につまらない、いとわしいものとなる。資本家は、「仕事は生きがい」とか「やりがいのある仕事」などとあおって、労働者に懸命に働くよう求める。はては過労死の悲劇である。また、このペテンにだまされて、仲間を「怠け者」「仕事のできない奴」などと差別することはないだろうか。これこそ資本家どもの思うつぼである。本来人間的であるはずの労働が、かくもしんどいのは、この資本主義社会そのものに原因があるのである。
 以上のように、労働者は自らの労働力、つまり生命の8時間、10時間……を毎日毎日、資本家に切り売りしている。したがって逆に、労働者は自分の都合で資本家の元を去ることができるが、逆に資本家もまた、労働者から利益が引き出せなくなれば解雇する。だが、「労働力の販売を唯一の生計の源泉とする労働者は、生きることを断念しないかぎり、買手の階級全体すなわち資本家階級を捨てることはできない。彼は、あれこれの資本家の持ちものではないが、資本家階級の持ちものである」。労働者は生きるためには、労働者であること(労働力を資本家に売ること)をやめることはできないのである。これが資本主義のもとでの「自由な労働者」の運命である。ここで、マルクスは奴隷と農奴と賃労働者の違いを示し、賃労働の歴史性を分かりやすく説いている。
 この章の最後に1つ。「自分を売りつけること、すなわち、この資本家階級のなかに1人の買手を見つけることは、彼が自分でやらなければならない仕事なのである」。失業している労働者、あるいは失業を経験した人ほど、実感をもって読める部分ではないだろうか。    (O)(つづく)

労働新聞 2003年6月25日号 学習『賃労働と資本』(3)賃金はどのようにして決められるのか?

 第1章でマルクスは、賃金とは「労働力という特定の商品の価格」であることを明らかにした。するとそれは、「どのようにして決められる」のだろうか。このことこそ、労働者にとっては生きていく上での大問題、また悩みの種でもある。資本家は「妥当な賃金水準」などというではないか。憲法には「健康で文化的な最低限の生活」を保障すると書いてある。それは、本当か?
 労働力は商品である。だから「商品の価格は何によって決められるか」が最初の問題である。
 それは一般に、「需要と供給の関係」で決まる、といわれる。より具体的にいえば、「売手の間に競争が起こり、この競争が彼らの提供する商品の価格を押し下げる。しかし、買手の間にも競争が起こり、この競争が、こんどは提供された商品の価格を引き上げる。最後に、買手と売手の間に競争が起こる。一方はできるだけ安く買おうとし、他方はできるだけ高く売ろうとする」。
 ここでマルクスは綿花の例をあげ、価格の上がり下がりは必然的に、資本の市場への参入と撤退を招くため、「一定期間について産業の満干を通算すれば、各商品は、その生産費に応じて互いに交換される。だから、商品の価格はその生産費によって決められる」と解明する。
 価格の上がり下がりという市場での取引で、偶然に決定されるように見えるこの現象も、膨大な取引の諸事実をならしてみれば、生産費を、あたかも座標の軸として、その上下に動いているのである。
 このことは資本家に聞いてみればよく分かる。彼らは商売でもうけたか、損したか、その「もうけの尺度」を、彼の商品の生産費においているではないか。
 さて、問題はこの先である。「商品価格を規制しているのと同じ一般的な法則が、もちろん、賃金すなわち労働の価格をも規制している」のだから「労働の価格は生産費によって、つまり、この労働力という商品を生産するのに必要な労働時間によって、決められる」。
 では、労働力の生産費とはなんだろうか?この問いにマルクスは、「労働者を労働者として維持するために、また労働者を労働者に育てあげるために、必要な費用である」と結論づける。
 とすると、「見習期間がほとんどまったく必要でなく、労働者の生身さえあれば足りるような産業部門では、彼を生産するのに必要な生産費は、彼を労働能力あるものとして生かしておくのに必要な商品だけにほとんど限られる」。
 つまり、熟練の必要のない産業部門ほど、賃金は安いことになる。技術革新と機械化、自動化が進むほど、この部分が拡大することにも注目しなければならない。
 さらに、「単純な労働力の生産費にも、労働者の種属が繁殖して、消耗された労働者を新しい労働者に取り替えることのできるようにするための、繁殖費を加えなければならない」。
 1000万円の機械が10年間で摩耗するとすれば、年間100万円は商品価格に転嫁される。「つまり、労働者の磨損も機械の磨損と同じように勘定に入れられるのである」。労働者の減価消却分が加えられるわけだ。
 「だから、単純な労働力の生産費は、労働者の生存費と繁殖費ということになる。この生存費と繁殖費との価格が、賃金を形づくる」。
 「適正な賃金水準」? この資本主義社会ではそれは、たったこれだけのことである。
 「こうして決められた賃金は、最低賃金と呼ばれる。この最低賃金も、一般に生産費によって商品の価格が決められる場合と同じに、個々の個人についてではなく、(労働者という)種属についていえることである。個々の労働者は、幾百万の労働者は、生きて繁殖していくのに十分なだけもらってはいない。しかし、労働者階級全体の賃金は、その変動の内部で平均化されて、この最低限に一致する」。
 この、最低賃金の決定法則は、現在も同じである。種属としての労働者が死なない程度に生命を維持し、次の世代の労働者を産み、育てる。労働者が受け取る賃金は、まさにこれ以上ではない。しかも最近は、「成果主義」などといわれ、基本給はどんどん下げられる。グローバル資本主義の下では、この最低賃金すら保証されないのだ。
 現在の日本は政府も嘆くほどの「少子化」社会である。次世代の労働者を産み育てることもできなくなった社会は、労働者の受け取る賃金が、この生活費と繁殖費以下のものにとどまっていることを意味しているのだ。  (O)(つづく)

労働新聞 2003年7月5日号 学習『賃労働と資本』(4)資本とは何か?

搾取が資本を増大させる

 これまで述べてきた賃金に対して、第3章でマルクスは、その対立物としての「資本」の説明に移っている。
 資本とは何か。近代経済学は「新しい原料、新しい労働用具、新しい生活資料を生産するために使われる、あらゆる種類の原料と労働用具と生活資料」と説明している。しかし、自らの個人的な消費と生産のために労働者が蓄え、持っているささやかな家財道具や自動車、あるいは預金などが資本であろうか。そうではない。
 では、原料や労働用具などは、この資本主義社会で、いかにして資本となるのだろうか。マルクスは、それは「直接の生きた労働力との交換を通じて、独自の社会的力として、すなわち社会の一部の者(資本家階級)の力として自らを維持し、増やすことによってである」と述べている。資本を増やすのは、唯一「直接の生きた労働力」、つまり労働者の労働力である。
 ここで、労働者の労働を「生きた労働」、資本を過去の労働の成果・蓄積物として「蓄積された労働」と呼ぶとすると、「資本の本質は、(近代経済学がいうような)蓄積された労働が生きた労働のために新しい生産の手段として役立つという点にあるのではない。それは、生きた労働が蓄積された労働のためにそれの交換価値を維持し増やす手段として役立つという点にあるのである」。
 資本家が資金を集め、工場を建てて、労働者を雇って働かせること。その労働者の労働の成果から資本家はもうけをかすめ取り、肥え太り、また、株主に配当が払われ、工場、生産資材などが維持、拡大される。その時初めて資金、工場、原料などが資本となるのである。
 だから、労働者を雇って働かせることが、つまり「労働能力のほかには何も持たない1つの階級(労働者階級)が存在していることが資本の必要な前提」なのである。
 ここまで、労働力が資本を増やすと述べたが、これは人間関係に置き換えると、どういうことか。これはまさに、労働者と資本家との間の社会的生産関係、階級関係として表現されていく。
 「労働者は、彼の労働力と交換に生活資料を受け取るが、資本家は彼の生活資料と交換に労働を、労働者の生産的活動を、創造力を受け取る。そして、労働者は、この力によって、彼の消費するものを埋め合わせるばかりでなく、蓄積された労働に対して、それが前に持っていたよりも大きな価値を与えるのである」。労働者は労働力を売る。資本家はそれを決まった時間で買い取り、働かせる。ところがその労働は、労働者に支払われる分よりもより多くの価値(資本家のもうけ)を生み出してしまう! のだ。まさに人間の労働力とは「創造力」である。
 この部分は、本書の中心的部分でもあり、「資本論」において「剰余価値」という言葉で述べられている、資本による賃労働者の搾取について解明したところである。まさに資本の本質とは、賃労働者を搾取することによって自己増殖する価値のことであった。
 また注意を要するところだが、「資本は、……賃労働を生み出すことによってしか、増えることができない。賃金労働者の労働力は、資本を増やすことによってしか、自分を奴隷としているその力を強めることによってしか、資本と交換されることができない。だから、資本が増えるのは、プロレタリアートが、すなわち労働者階級が増えることである」。
 この資本主義社会では、労働者が生きるためには自分の労働力を売る以外にないのだから、それは必然的に資本を増やすことにつながる。労働者が働き資本が増えれば、ますます多くの工場が建設され、多くの労働者が雇われるようになる。
 「だから資本家と労働者との利害は同一なのだ」と、資本家ども、あるいは経済学者、最近では多くの労働組合幹部までもが言う。
 この言い古されたペテンにだまされてはならない。たしかに、「労働者は、資本が雇ってくれなければ破滅してしまう。資本は、労働力を搾取しなければ破滅する」。しかし資本の増大は「労働者階級に対するブルジョアジーの支配が増大すること」、搾取と抑圧、賃金奴隷への支配の強まりを意味するのであるから「資本の利害と労働者の利害とが同一であるというのは、資本と賃労働とが同じ一つの関係の二つの側面だ、ということに過ぎない。この両者が互いに制約しあっているのは高利貸と浪費者とが互いに制約しあっているのと同じである」と、マルクスはこの俗論を明快に論破するのである。     (O) (つづく)

労働新聞 2003年7月15日号 学習『賃労働と資本』(5)資本家と労働者の利害の本質的対立

 前章で、マルクスは「資本家と労働者の利害の共通」というまやかしに対して、それを「高利貸と浪費者」に例え、「同じ1つの関係の2つの側面」に過ぎないと言った。今回は、その労働者と資本家の相互関係についての考察である。これこそ実は、この資本主義社会の運命を決定づける、階級闘争の実際的基礎である。
 マルクスがまずふれる、人間の欲望や享楽についての見解は有名である。
 例えば、昔の炭鉱住宅を思い出してほしいが、人は周囲が小さい、同じような家ばかりなら何の不自由も、不満も感じない。ところが、見えるところに大邸宅が建てば、とたんに小さな家はみすぼらしく見え、惨めに感じ、いつか大邸宅に住みたくなる。つまり欲望という感情にも物質的基礎があり、「欲望や享楽は社会的なもの」「相対的なもの」である。「隣の芝生」とはよく言ったもので、人間の欲望それ自身は無制限なものではない。原始時代や赤ん坊のことを考えてみればよい。彼らは決してプール付きの家に住みたいとは思わないであろう。
 ところで「資本主義は個人の欲望を基礎にするから発展する」「社会主義はそれを認めない、悪平等だからから失敗した」などという。しかし欲望が社会的だとしたら、この論議の根拠自身が崩れるのではないだろうか! 現実にありもしない豪奢(ごうしゃ)や自由などをあおり立てる、CNNなど帝国主義の電波メディアの犯罪的役割もここにある。
 さて、賃金にもこの問題が当てはまる。仮に、賃金が変わらなかったとして、物価が軒並み上がったら、つまりインフレになればどうだろうか。労働者が同じ金額で買える物は少なくなり、生活の満足度は下がる。名目上の賃金は変わらなくても、実質の賃金は下落したのである。60年代など高度経済成長期はこんなものであった。
 逆に、いまの日本のようなデフレ下で物価が下がったらどうか。賃金が変わらなければ、ちょうど逆のことが起こることになる。だから、「賃上げ」だの、「右肩上がりの経済」だの言っても、名目賃金だけを見ていたら何も分からない。
 さらに、賃金にとって決定的なことがもう1つある。マルクスは「賃金は、さらに、何よりも、資本家のもうけ、利潤に対する賃金の割合で、決められる」とし、これを、資本家のもうけとの比較という意味で、「相対的な賃金」と名付けている。
 実質賃金は、他の諸商品の価格と比べた労働の価格を表している。これに反して相対的賃金は、労働によって新しく生産された価値のうち、資本のものとなる分け前に比べての、直接の労働の分け前である。
 資本家は生産された商品を売るのだが、この価格は、次の3つで構成される。「第1には、彼が前払いした原料の価格の埋め合わせ、およびやはり彼が前払いした道具、機械その他の労働手段の磨損分の埋め合わせ、第2には、彼が前払いした賃金の埋め合わせ、第3には、以上のものを超えた超過分である資本家の利潤」である。だが、「この第1の部分が前からあった価値を回収するに過ぎないのに反して、賃金の埋め合わせも、超過分たる資本家の利潤も、だいたいにおいて、労働者の労働によってつくり出され、原料につけ加えられた新しい価値から得られる」ものではなかったか! 労働者の受け取る賃金と資本家が搾取する利潤とは、要するに「労働者の生産物に対する(資本家と労働者の)分け前」、労働者が生産した富の奪い合いの関係にあることが分かる。これこそ資本家と労働者の相互関係の本質である。
 景気がよい時で、ものがよく売れ、労働者の賃金が10%上がったと仮定しよう。一方で、資本家の利潤は15%上がったとする。労働者は豊かになったのだろうか? いや、「労働の分け前に比べて資本の分け前は増大した。資本と労働との間の社会的富の分配は、さらに不平等になった」のである。労働者の相対的賃金は減少したのだ。こうして、「賃金と利潤は、反比例する」という法則が発見される。
 マルクスは言う「労働者階級にとって最も有利な状態である、資本のできるだけ急速な増大でさえ、どれほど労働者の物質的生活を改善しようとも、労働者の利害と……資本家の利害との対立をなくしはしない、利潤と賃金とは、あいかわらず反比例する」と。
 「労働生産性」などという言葉があるが、これこそ資本家のためにこの「反比例」を極限まで拡大することである。最近では、史上空前の利益を上げた会社が「賃上げゼロ」という実態すらあるではないか。(O)(つづく)

労働新聞 2003年7月25日号 学習『賃労働と資本』(6)資本主義の発展と賃金、労働者の運命

 「賃労働と資本」の最後の章では、資本主義の発展が賃金に与える影響について述べている。連載の第1回でふれたように、本書はこの章で未完のまま終る。しかし、この部分で読者は、賃金とは何か、資本とは? という問題の解答から、さらに踏み込んで、この資本主義社会の内包する根本的な矛盾と労働者階級の歴史的な運命と任務について、鋭い示唆(しさ)を受けることになる。
 資本主義社会では、資本家同士は市場をめぐりし烈な争いをしている。そこで、「分業と機械を増大させ、それらをできるだけ大規模に利用しようとする全面的戦争が起こる」「生産方式、生産手段は……たえず変革され革命化されていき、分業はいちだんと進んだ分業を、機械の使用はいちだんと進んだ機械の使用を、大規模な作業はいちだんと大規模な作業を、必然的に呼び起こす」。
 こうすることで資本家は、生産の効率を上げ、今まで5人、10人の労働者でしていた仕事を、1人でできるようにする。彼は「より安く、より大量に」製品を生みだし、市場のシェアを奪い、競争者をけ落とそうとするわけだ。だからこの生産の大規模化、組織化、技術革新、そして生産力の増大は、決して労働者を幸せにはしない。むしろ逆である。
 それは「労働者の間の競争を5倍、10倍、20倍も増大させる。労働者は、たがいに自分を他のものよりも安く売りあうことで競争するばかりではない。彼らは、1人が5人、10人、20人分の仕事をすることによっても競争」させられる。
 「機械は熟練労働者を不熟練労働者で、男を女で、大人を子供で置き換え」、「それ(機械)が新しく採用されるところでは、手作業労働者を大量に街頭に投げ出し、それが完成され改良され、もっと多産的な機械によって置き換えられるところでは、労働者を小刻みにお払い箱にするからである」。
 結局、産業戦争での「将軍である資本家は、だれが最も多く産業兵(労働者)を除隊させることができるかについて、たがいに競争するのである」。大首切り計画を発表しただけで、その会社の株価が跳ね上がるといった「リストラ効果」なる最近話題の現象は、ここから起こるわけである。
 さて、マルクスの時代から、経済学者どもは「機械のために余分になった労働者は新しい部門で仕事を見つける」ことができる、と言ってきた。いうところの「雇用の流動化」だ。わが国の経済学者の大臣も、まったく同じことを言っている。しかし「本当は、彼らは、労働者階級のほかの構成部分のために、たとえば、労働者の若い世代で、……待機していた部分のために、新しい雇用の道が開かれるであろう、と主張しているだけなのである」。だから「機械のためにある産業部門から放り出された一団の労働者は、もっと賃金の低い、悪いところでない限り、どうして他の産業部門に避難所を見つけられようか?」失業し、職安に通ったことのある人なら、だれでも知っていることである。
 では、1人の男性が解雇され、新たに「3人の子供と1人の女性」が雇われた場合はどうか。雇用は拡大したのか?
 ところで「この男1人の賃金は、この3人の子供と1人の女性を養うのに十分なはずではなかったか? 賃金の最低限は、(労働者の生産費に等しいはずで)種族を維持し繁殖させるのに十分なはずではなかったか?」「ほかでもない、いまでは、1労働者家族の生計の資を得るために以前の4倍の労働者の生命が消費されているということである」。確かに労働者は増えたが、その貧困化はいっそう進んだのだ。
 それだけではない。資本家間の競争によって、「労働者階級はなお、彼らより上の社会層からも補充されていく。多数の小産業家や小金利生活者が労働者階級の中へ転落してくる」。労働者はますます増え、労働者の間の競争がそれだけ拡大し、彼らの賃金はますます縮小する。
 こうして社会は、少数の大資本家と大多数の労働者階級に2極分化していく。その上、そのたびに労働者はいっそうの貧困に追い込まれる。
 マルクスはこの章の最後で「産業地震」という言葉で恐慌に言及している。巨大化した生産力は資本家自身によっても制御できず、周期的な恐慌が避けられない。そして、恐慌はますます頻繁に、より激烈になっていき、社会のこの過程をいっそう加速する。破局が近づく。
 これが資本主義下の労働者のあるがままの運命である。
 本書では資本主義経済の基礎的原理がここまで述べられている。しかし、社会の大多数となり、生産の実際をも握った労働者階級の歴史的任務はこの事実を科学的に認識するところからこそ始まるのである。
 本書の意義は、まさにそこにある。

エピローグ
 「…ってわけよ、分かったかい?」
長話を終えたクマさんが満足げにのぞき込むと、お銚子を抱えたトラさんはスースー寝息を立てている。
 「ちぇっ、人がせっかく話してんのに、寝てやがら」と苦笑いしたクマさんだったが、トラさんの何かしら満足げな寝顔に「話せてよかったなぁ」とも思うのであった。(完)





(私論.私見)



Karl Marx Wage Labour and Capital

Delivered: December 1847
Source: Wage Labour and Capital, the original 1891 pamphlet
Edited/Translated: Frederick Engels
First Published (in German): Neue Rheinische Zeitung, April 5-8 and 11, 1849
Online Version: Marx/Engels Internet Archive (marxists.org) 1993, 1999
Transcription/Markup: Zodiac and Brian Basgen

industrial lansdscape


Table of Contents:

Introduction
Preliminary
What are wages?
By what is the price of a commodity determined?
By what are wages determined?
The nature and growth of capital
Relation of wage-labor to capital
The general law that determines the rise and fall of wages and profit
The interests of capital and wage-labor are diametrically opposed
Effect of capitalist competition on the capitalist class, middle class and working class




Karl Marx
Wage Labour and Capital


Introduction to
Karl Marx's
Wage Labor and Capital

by Frederick Engels


 

This pamphlet first appeared in the form of a series of leading articles in the Neue Rheinische Zeitung, beginning on April 4th, 1849. The text is made up of from lectures delivered by Marx before the German Workingmen's Club of Brussels in 1847. The series was never completed. The promise "to be continued", at the end of the editorial in Number 269 of the newspaper, remained unfulfilled in consequence of the precipitous events of that time: the invasion of Hungary by the Russians [Tsarist troops invaded Hungary in 1849 to keep the Austrian Hapsburg dynasty in power], and the uprisings in Dresden, Iserlohn, Elberfeld, the Palatinate, and in Baden [Spontaneous uprisings in Germany in May-July 1849, supporting the Imperial Constitution which were crushed in mid-July], which led to the suppression of the paper on May 19th, 1849. And among the papers left by Marx no manuscript of any continuation of these articles has been found.

"Wage-Labor and Capital" has appeared as an independent publication in several editions, the last of which was issued by the Swiss Co-operative Printing Association, in Hottingen-Zurich, in 1884. Hitherto, the several editions have contained the exact wording of the original articles. But since at least 10,000 copies of the present edition are to be circulated as a propaganda tract, the question necessarily forced itself upon me, would Marx himself, under these circumstance, have approved of an unaltered literal reproduction of the original?

Marx, in the '40s, had not yet completed his criticism of political economy. This was not done until toward the end of the fifties. Consequently, such of his writings as were published before the first installment of his Critique of Political Economy was finished, deviate in some points from those written after 1859, and contain expressions and whole sentences which, viewed from the standpoint of his later writings, appear inexact, and even incorrect. Now, it goes without saying that in ordinary editions, intended for the public in general, this earlier standpoint, as a part of the intellectual development of the author, has its place; that the author as well as the public, has an indisputable right to an unaltered reprint of these older writings. In such a case, I would not have dreamed of changing a single word in it. But it is otherwise when the edition is destined almost exclusively for the purpose of propaganda. In such a case, Marx himself would unquestionably have brought the old work, dating from 1849, into harmony with his new point of view, and I feel sure that I am acting in his spirit when I insert in this edition the few changes and additions which are necessary in order to attain this object in all essential point.

Therefore, I say to the reader at once: this pamphlet is not as Marx wrote it in 1849, but approximately as Marx would have written it in 1891. Moreover, so many copies of the original text are in circulation, that these will suffice until I can publish it again unaltered in a complete edition of Marx's works, to appear at some future time.

My alterations centre about one point. According to the original reading, the worker sells his labor for wages, which he receives from the capitalist; according to the present text, he sells his labor-power. And for this change, I must render an explanation: to the workers, in order that they may understand that we are not quibbling or word-juggling, but are dealing here with one of the most important points in the whole range of political economy; to the bourgeois, in order that they may convince themselves how greatly the uneducated workers, who can be easily made to grasp the most difficult economic analyses, excel our supercilious "cultured" folk, for whom such ticklish problems remain insoluble their whole life long.

Classical political economy [1] borrowed from the industrial practice the current notion of the manufacturer, that he buys and pays for the labor of his employees. This conception had been quite serviceable for the business purposes of the manufacturer, his bookkeeping and price calculation. But naively carried over into political economy, it there produced truly wonderful errors and confusions.

Political economy finds it an established fact that the prices of all commodities, among them the price of the commodity which it calls "labor", continually change; that they rise and fall in consequence of the most diverse circumstances, which often have no connection whatsoever with the production of the commodities themselves, so that prices appear to be determined, as a rule, by pure chance. As soon, therefore, as political economy stepped forth as a science, it was one of its first tasks to search for the law that hid itself behind this chance, which apparently determined the prices of commodities, and which in reality controlled this very chance. Among the prices of commodities, fluctuating and oscillating, now upward, now downward, the fixed central point was searched for around which these fluctuations and oscillations were taking place. In short, starting from the price of commodities, political economy sought for the value of commodities as the regulating law, by means of which all price fluctuations could be explained, and to which they could all be reduced in the last resort.

And so, classical political economy found that the value of a commodity was determined by the labor incorporated in it and requisite to its production. With this explanation, it was satisfied. And we, too, may, for the present, stop at this point. But, to avoid misconceptions, I will remind the reader that today this explanation has become wholly inadequate. Marx was the first to investigate thoroughly into the value-forming quality of labor and to discover that not all labor which is apparently, or even really, necessary to the production of a commodity, imparts under all circumstances to this commodity a magnitude of value corresponding to the quantity of labor used up. If, therefore, we say today in short, with economists like Ricardo, that the value of a commodity is determined by the labor necessary to its production, we always imply the reservations and restrictions made by Marx. Thus much for our present purpose; further information can be found in Marx's Critique of Political Economy, which appeared in 1859, and in the first volume of Capital.

But, as soon as the economists applied this determination of value by labor to the commodity "labor", they fell from one contradiction into another. How is the value of "labor" determined? By the necessary labor embodied in it. But how much labor is embodied in the labor of a laborer of a day a week, a month, a year. If labor is the measure of all values, we can express the "value of labor" only in labor. But we know absolutely nothing about the value of an hour's labor, if all that we know about it is that it is equal to one hour's labor. So, thereby, we have not advanced one hair's breadth nearer our goal; we are constantly turning about in a circle.

Classical economics, therefore, essayed another turn. It said: the value of a commodity is equal to its cost of production. But, what is the cost of production of "labor"? In order to answer this question, the economists are forced to strain logic just a little. Instead of investigating the cost of production of labor itself, which, unfortunately, cannot be ascertained, they now investigate the cost of production of the laborer. And this latter can be ascertained. It changes according to time and circumstances, but for a given condition of society, in a given locality, and in a given branch of production, it, too, is given, at least within quite narrow limits. We live today under the regime of capitalist production, under which a large and steadily growing class of the population can live only on the condition that it works for the owners of the means of production -- tools, machines, raw materials, and means of subsistence -- in return for wages. On the basis of this mode of production, the laborer's cost of production consists of the sum of the means of subsistence (or their price in money) which on the average are requisite to enable him to work, to maintain in him this capacity for work, and to replace him at his departure, by reason of age, sickness, or death, with another laborer -- that is to say, to propagate the working class in required numbers.

Let us assume that the money price of these means of subsistence averages 3 shillings a day. Our laborer gets, therefore, a daily wage of 3 shillings from his employer. For this, the capitalist lets him work, say, 12 hours a day. Our capitalist, moreover, calculates somewhat in the following fashion: Let us assume that our laborer (a machinist) has to make a part of a machine which he finishes in one day. The raw material (iron and brass in the necessary prepared form) costs 20 shillings. The consumption of coal by the steam-engine, the wear-and-tear of this engine itself, of the turning-lathe, and of the other tools with which our laborer works, represent, for one day and one laborer, a value of 1 shilling. The wages for one day are, according to our assumption, 3 shillings. This makes a total of 24 shillings for our piece of a machine.

But, the capitalist calculates that, on an average, he will receive for it a price of 27 shillings from his customers, or 3 shillings over and above his outlay.

Whence do they 3 shillings pocketed by the capitalist come? According to the assertion of classical political economy, commodities are in the long run sold at their values, that is, they are sold at prices which correspond to the necessary quantities of labor contained in them. The average price of our part of a machine -- 27 shillings -- would therefore equal its value, i.e., equal the amount of labor embodied in it. But, of these 27 shillings, 21 shillings were values were values already existing before the machinist began to work; 20 shillings were contained in the raw material, 1 shilling in the fuel consumed during the work and in the machines and tools used in the process and reduced in their efficiency to the value of this amount. There remains 6 shillings, which have been added to the value of the raw material. But, according to the supposition of our economists, themselves, these 6 shillings can arise only from the labor added to the raw material by the laborer. His 12 hours' labor has created, according to this, a new value of 6 shillings. Therefore, the value of his 12 hours' labor would be equivalent to 6 shillings. So we have at last discovered what the "value of labor" is.

"Hold on there!" cries our machinist. "Six shillings? But I have received only 3 shillings! My capitalist swears high and day that the value of my 12 hours' labor is no more than 3 shillings, and if I were to demand 6, he'd laugh at me. What kind of a story is that?"

If before this we got with our value of labor into a vicious circle, we now surely have driven straight into an insoluble contradiction. We searched for the value of labor, and we found more than we can use. For the laborer, the value of the 12 hours' labor is 3 shillings; for the capitalist, it is 6 shillings, of which he pays the workingman 3 shillings as wages, and pockets the remaining 3 shilling himself. According to this, labor has not one but two values, and, moreover, two very different values!

As soon as we reduce the values, now expressed in money, to labor-time, the contradiction becomes even more absurd. By the 12 hours' labor, a new value of 6 shillings is created. Therefore, in 6 hours, the new value created equals 3 shilling -- the mount which the laborer receives for 12 hours' labor. For 12 hours' labor, the workingman receives, as an equivalent, the product of 6 hours' labor. We are, thus, forced to one of two conclusions: either labor has two values, one of which is twice as large as the other, or 12 equals 6! In both cases, we get pure absurdities. Turn and twist as we may, we will not get out of this contradiction as long as we speak of the buying and selling of "labor" and of the "value of labor". And just so it happened to the political economists. The last offshoot of classical political economy -- the Ricardian school -- was largely wrecked on the insolubility of this contradiction. Classical political economy had run itself into a blind alley. The man who discovered the way out of this blind alley was Karl Marx.

What the economists had considered as the cost of production of "labor" was really the cost of production, not of "labor", but of the living laborer himself. And what this laborer sold to the capitalist was not his labor.

"So soon as his labor really begins," says Marx, "it ceases to belong to him, and therefore can no longer be sold by him."

At the most, he could sell his future labor -- i.e., assume the obligation of executing a certain piece of work in a certain time. But, in this way, he does not sell labor (which would first have to be performed), but not for a stipulated payment he places his labor-power at the disposal of the capitalist for a certain time (in case of time-wages), or for the performance of a certain task (in case of piece-wages). He hires out or sells his labor-power. But this labor-power has grown up with his person and is inseparable from it. Its cost of production, therefore, coincides with his own cost of production; what the economist called the cost of production of labor is really the cost of production of the laborer, and therewith of his labor-power. And, thus, we can also go back from the cost of production of labor-power to the value of labor-power, and determine the quantity of social labor that is required for the production of a labor-power of a given quantity, as Marx has done in the chapter on "The Buying and Selling of Labor Power". [Capital, Vol.I]

Now what takes place after the worker has sold his labor-power, i.e., after he has placed his labor-power at the disposal of the capitalist for stipulated-wages -- whether time-wages or piece-wages? The capitalist takes the laborer into his workshop or factory, where all the articles required for the work can be found -- raw materials, auxiliary materials (coal, dyestuffs, etc.), tools, and machines. Here, the worker begins to work. His daily wages are, as above, 3 shillings, nd it makes no difference whether he earns them as day-wages or piece-wages. We again assume that in 12 hours the worker adds by his labor a new value of 6 shillings to the value of the raw materials consumed, which new value the capitalist realizes by the sale of the finished piece of work. Out of this new value, he pays the worker his 3 shillings, and the remaining 3 shillings he keeps for himself. If, now, the laborer creates in 12 hours a value of 6 shilling, in 6 hours he creates a value of 3 shillings. Consequently, after working 6 hours for the capitalist, the laborer has returned to him the equivalent of the 3 shillings received as wages. After 6 hours' work, both are quits, neither one owing a penny to the other.

"Hold on there!" now cries out the capitalist. "I have hired the laborer for a whole day, for 12 hours. But 6 hours are only half-a-day. So work along lively there until the other 6 hours are at an end -- only then will we be even." And, in fact, the laborer has to submit to the conditions of the contract upon which he entered of "his own free will", and according to which he bound himself to work 12 whole hours for a product of labor which cost only 6 hours' labor.

Similarly with piece-wages. Let us suppose that in 12 hours our worker makes 12 commodities. Each of these costs a shilling in raw materials and wear-and-tear, and is sold for 2.5 shillings. On our former assumption, the capitalist gives the laborer .25 of a shilling for each piece, which makes a total of 3 shillings for 12 pieces. To earn this, the worker requires 12 hours. The capitalist receives 30 shillings for the 12 pieces; deducting 24 shillings for raw materials and wear-and-tear, there remains 6 shillings, of which he pays 3 shillings in wages and pockets the remaining 3. Just as before! Here, also, the worker labors 6 hours for himself -- i.e., to replace his wages (half-an-hour in each of the 12 hours), and 6 hours for the capitalist.

The rock upon which the best economists were stranded, as long as they started out from the value of labor, vanishes as soon as we make our starting-point the value of labor-power. Labor-power is, in our present-day capitalist society, a commodity like every other commodity, but yet a very peculiar commodity. It has, namely, the peculiarity of being a value-creating force, the source of value, and, moreover, when properly treated, the source of more value than it possesses itself. In the present state of production, human labor-power not only produces in a day a greater value than it itself possesses and costs; but with each new scientific discovery, with each new technical invention, there also rises the surplus of its daily production over its daily cost, while as a consequence there diminishes that part of the working-day in which the laborer produces the equivalent of his day's wages, and, on the other hand, lengthens that part of the working-day in which he must present labor gratis to the capitalist.

And this is the economic constitution of our entire modern society: the working class alone produces all values. For value is only another expression for labor, that expression, namely, by which is designated, in our capitalist society of today, the amount of socially necessary labor embodied in a particular commodity. But, these values produced by the workers do not belong to the workers. They belong to the owners of the raw materials, machines, tools, and money, which enable them to buy the labor-power of the working class. Hence, the working class gets back only a part of the entire mass of products produced by it. And, as we have just seen, the other portion, which the capitalist class retains, and which it has to share, at most, only with the landlord class, is increasing with every new discovery and invention, while the share which falls to the working class (per capita) rises but little and very slowly, or not at all, and under certain conditions it may even fall.

But, these discoveries and inventions which supplant one another with ever-increasing speed, this productiveness of human labor which increases from day to day to unheard-of proportions, at last gives rise to a conflict, in which present capitalistic economy must go to ruin. On the one hand, immeasurable wealth and a superfluidity of products with which the buyers cannot cope. On the other hand, the great mass of society proletarianized, transformed into wage-laborers, and thereby disabled from appropriating to themselves that superfluidity of products. The splitting up of society into a small class, immoderately rich, and a large class of wage-laborers devoid of all property, brings it about that this society smothers in its own superfluidity, while the great majority of its members are scarcely, or not at all, protected from extreme want.

This condition becomes every day more absurd and more unnecessary. It must be gotten rid of; it can be gotten rid of. A new social order is possible, in which the class differences of today will have disappeared, and in which -- perhaps after a short transition period, which, though somewhat deficient in other respects, will in any case be very useful morally -- there will be the means of life, of the enjoyment of life, and of the development and activity of all bodily and mental faculties, through the systematic use and further development of the enormous productive powers of society, which exists with us even now, with equal obligation upon all to work. And that the workers are growing ever more determined to achieve this new social order will be proven on both sides of the ocean on this dawning May Day, and on Sunday, May 3rd. [Engels is refering to the May Day celebrations of 1891]

FREDERICK ENGELS
London, April 30, 1891.



Footnotes

[1]

"By classical political economy, I understand that economy which, since the time of W. Petty, has investigated the real relations of production in bourgeois society, in contradistinction to vulgar economy, which deals with appearances only, ruminates without ceasing on the materials long since provided by scientific economy, and there seeks plausible explanations of the most obtrusive phenomena for bourgeois daily use, but for the rest confines itself to systematizing in a pedantic way, and proclaiming for everlasting truths, trite ideas held by the self-complacent bourgeoisie with regard to their own world, to them the best of all possible worlds."

(Karl Marx, Capital, Vol.I, p.93f.)




Perliminary


Karl Marx
Wage Labour and Capital


Preliminary


 

From various quarters we have been reproached for neglecting to portray the economic conditions which form the material basis of the present struggles between classes and nations. With set purpose we have hitherto touched upon these conditions only when they forced themselves upon the surface of the political conflicts.

It was necessary, beyond everything else, to follow the development of the class struggle in the history of our own day, and to prove empirically, by the actual and daily newly created historical material, that with the subjugation of the working class, accomplished in the days of February and March, 1848, the opponents of that class ? the bourgeois republicans in France, and the bourgeois and peasant classes who were fighting feudal absolutism throughout the whole continent of Europe ? were simultaneously conquered; that the victory of the "moderate republic" in France sounded at the same time the fall of the nations which had responded to the February revolution with heroic wars of independence; and finally that, by the victory over the revolutionary workingmen, Europe fell back into its old double slavery, into the English-Russian slavery. The June conflict in Paris, the fall of Vienna, the tragi-comedy in Berlin in November 1848, the desperate efforts of Poland, Italy, and Hungary, the starvation of Ireland into submission ? these were the chief events in which the European class struggle between the bourgeoisie and the working class was summed up, and from which we proved that every revolutionary uprising, however remote from the class struggle its object might appear, must of necessity fail until the revolutionary working class shall have conquered; ? that every social reform must remain a Utopia until the proletarian revolution and the feudalistic counter-revolution have been pitted against each other in a world-wide war . In our presentation, as in reality, Belgium and Switzerland were tragicomic caricaturish genre pictures in the great historic tableau; the one the model State of the bourgeois monarchy, the other the model State of the bourgeois republic; both of them, States that flatter themselves to be just as free from the class struggle as from the European revolution.

But now, after our readers have seen the class struggle of the year 1848 develop into colossal political proportions, it is time to examine more closely the economic conditions themselves upon which is founded the existence of the capitalist class and its class rule, as well as the slavery of the workers.

We shall present the subject in three great divisions:

The Relation of Wage-Labor to Capital, the Slavery of the Worker, the Rule of the Capitalist.

The Inevitable Ruin of the Middle Classes [petty-bourgeois] and the so-called Commons [peasants] under the present system.

The Commercial Subjugation and Exploitation of the Bourgeois classes of the various European nations by the Despot of the World Market ? England.

We shall seek to portray this as simply and popularly as possible, and shall not presuppose a knowledge of even the most elementary notions of political economy. We wish to be understood by the workers. And, moreover, there prevails in Germany the most remarkable ignorance and confusion of ideas in regard to the simplest economic relations, from the patented defenders of existing conditions, down to the socialist wonder-workers and the unrecognized political geniuses, in which divided Germany is even richer than in duodecimo princelings. We therefore proceed to the consideration of the first problem.




What are Wages?


Karl Marx
Wage Labour and Capital


What are Wages?
How are they Determined?


 

If several workmen were to be asked: "How much wages do you get?", one would reply, "I get two shillings a day", and so on. According to the different branches of industry in which they are employed, they would mention different sums of money that they receive from their respective employers for the completion of a certain task; for example, for weaving a yard of linen, or for setting a page of type. Despite the variety of their statements, they would all agree upon one point: that wages are the amount of money which the capitalist pays for a certain period of work or for a certain amount of work.

Consequently, it appears that the capitalist buys their labour with money, and that for money they sell him their labour. But this is merely an illusion. What they actually sell to the capitalist for money is their labour-power. This labour-power the capitalist buys for a day, a week, a month, etc. And after he has bought it, he uses it up by letting the worker labour during the stipulated time. With the same amount of money with which the capitalist has bought their labour-power (for example, with two shillings) he could have bought a certain amount of sugar or of any other commodity. The two shillings with which he bought 20 pounds of sugar is the price of the 20 pounds of sugar. The two shillings with which he bought 12 hours' use of labour-power, is the price of 12 hours' labour. Labour-power, then, is a commodity, no more, no less so than is the sugar. The first is measured by the clock, the other by the scales.

Their commodity, labour-power, the workers exchange for the commodity of the capitalist, for money, and, moreover, this exchange takes place at a certain ratio. So much money for so long a use of labour-power. For 12 hours' weaving, two shillings. And these two shillings, do they not represent all the other commodities which I can buy for two shillings? Therefore, actually, the worker has exchanged his commodity, labour-power, for commodities of all kinds, and, moreover, at a certain ratio. By giving him two shillings, the capitalist has given him so much meat, so much clothing, so much wood, light, etc., in exchange for his day's work. The two shillings therefore express the relation in which labour-power is exchanged for other commodities, the exchange-value of labour-power.

The exchange value of a commodity estimated in money is called its price. Wages therefore are only a special name for the price of labour-power, and are usually called the price of labour; it is the special name for the price of this peculiar commodity, which has no other repository than human flesh and blood.

Let us take any worker; for example, a weaver. The capitalist supplies him with the loom and yarn. The weaver applies himself to work, and the yarn is turned into cloth. The capitalist takes possession of the cloth and sells it for 20 shillings, for example. Now are the wages of the weaver a share of the cloth, of the 20 shillings, of the product of the work? By no means. Long before the cloth is sold, perhaps long before it is fully woven, the weaver has received his wages. The capitalist, then, does not pay his wages out of the money which he will obtain from the cloth, but out of money already on hand. Just as little as loom and yarn are the product of the weaver to whom they are supplied by the employer, just so little are the commodities which he receives in exchange for his commodity ? labour-power ? his product. It is possible that the employer found no purchasers at all for the cloth. It is possible that he did not get even the amount of the wages by its sale. It is possible that he sells it very profitably in proportion to the weaver's wages. But all that does not concern the weaver. With a part of his existing wealth, of his capital, the capitalist buys the labour-power of the weaver in exactly the same manner as, with another part of his wealth, he has bought the raw material ? the yarn ? and the instrument of labour ? the loom. After he has made these purchases, and among them belongs the labour-power necessary to the production of the cloth he produces only with raw materials and instruments of labour belonging to him. For our good weaver, too, is one of the instruments of labour, and being in this respect on a par with the loom, he has no more share in the product (the cloth), or in the price of the product, than the loom itself has.

Wages, therefore, are not a share of the worker in the commodities produced by himself. Wages are that part of already existing commodities with which the capitalist buys a certain amount of productive labour-power.

Consequently, labour-power is a commodity which its possessor, the wage-worker, sells to the capitalist. Why does he sell it? It is in order to live.

But the putting of labour-power into action ? i.e., the work ? is the active expression of the labourer's own life. And this life activity he sells to another person in order to secure the necessary means of life. His life-activity, therefore, is but a means of securing his own existence. He works that he may keep alive. He does not count the labour itself as a part of his life; it is rather a sacrifice of his life. It is a commodity that he has auctioned off to another. The product of his activity, therefore, is not the aim of his activity. What he produces for himself is not the silk that he weaves, not the gold that he draws up the mining shaft, not the palace that he builds. What he produces for himself is wages; and the silk, the gold, and the palace are resolved for him into a certain quantity of necessaries of life, perhaps into a cotton jacket, into copper coins, and into a basement dwelling. And the labourer who for 12 hours long, weaves, spins, bores, turns, builds, shovels, breaks stone, carries hods, and so on ? is this 12 hours' weaving, spinning, boring, turning, building, shovelling, stone-breaking, regarded by him as a manifestation of life, as life? Quite the contrary. Life for him begins where this activity ceases, at the table, at the tavern, in bed. The 12 hours' work, on the other hand, has no meaning for him as weaving, spinning, boring, and so on, but only as earnings, which enable him to sit down at a table, to take his seat in the tavern, and to lie down in a bed. If the silk-worm's object in spinning were to prolong its existence as caterpillar, it would be a perfect example of a wage-worker.

Labour-power was not always a commodity (merchandise). Labour was not always wage-labour, i.e., free labour. The slave did not sell his labour-power to the slave-owner, any more than the ox sells his labour to the farmer. The slave, together with his labour-power, was sold to his owner once for all. He is a commodity that can pass from the hand of one owner to that of another. He himself is a commodity, but his labour-power is not his commodity. The serf sells only a portion of his labour-power. It is not he who receives wages from the owner of the land; it is rather the owner of the land who receives a tribute from him. The serf belongs to the soil, and to the lord of the soil he brings its fruit. The free labourer, on the other hand, sells his very self, and that by fractions. He auctions off eight, 10, 12, 15 hours of his life, one day like the next, to the highest bidder, to the owner of raw materials, tools, and the means of life ? i.e., to the capitalist. The labourer belongs neither to an owner nor to the soil, but eight, 10, 12, 15 hours of his daily life belong to whomsoever buys them. The worker leaves the capitalist, to whom he has sold himself, as often as he chooses, and the capitalist discharges him as often as he sees fit, as soon as he no longer gets any use, or not the required use, out of him. But the worker, whose only source of income is the sale of his labour-power, cannot leave the whole class of buyers, i.e., the capitalist class, unless he gives up his own existence. He does not belong to this or that capitalist, but to the capitalist class; and it is for him to find his man ? i.e., to find a buyer in this capitalist class.

Before entering more closely upon the relation of capital to wage-labour, we shall present briefly the most general conditions which come into consideration in the determination of wages.

Wages, as we have seen, are the price of a certain commodity, labour-power. Wages, therefore, are determined by the same laws that determine the price of every other commodity. The question then is, How is the price of a commodity determined?




By what is the price of a commodity determined?


Karl Marx
Wage Labour and Capital


By what is the price of a commodity determined?


 

By the competition between buyers and sellers, by the relation of the demand to the supply, of the call to the offer. The competition by which the price of a commodity is determined is threefold.

The same commodity is offered for sale by various sellers. Whoever sells commodities of the same quality most cheaply, is sure to drive the other sellers from the field and to secure the greatest market for himself. The sellers therefore fight among themselves for the sales, for the market. Each one of them wishes to sell, and to sell as much as possible, and if possible to sell alone, to the exclusion of all other sellers. Each one sells cheaper than the other. Thus there takes place a competition among the sellers which forces down the price of the commodities offered by them.

But there is also a competition among the buyers; this upon its side causes the price of the proffered commodities to rise.

Finally, there is competition between the buyers and the sellers: these wish to purchase as cheaply as possible, those to sell as dearly as possible. The result of this competition between buyers and sellers will depend upon the relations between the two above-mentioned camps of competitors ? i.e., upon whether the competition in the army of sellers is stronger. Industry leads two great armies into the field against each other, and each of these again is engaged in a battle among its own troops in its own ranks. The army among whose troops there is less fighting carries of the victory over the opposing host.

Let us suppose that there are 100 bales of cotton in the market and at the same time purchasers for 1,000 bales of cotton. In this case, the demand is 10 times greater than the supply. Competition among the buyers, then, will be very strong; each of them tries to get hold of one bale, if possible, of the whole 100 bales. This example is no arbitrary supposition. In the history of commerce we have experienced periods of scarcity of cotton, when some capitalists united together and sought to buy up not 100 bales, but the whole cotton supply of the world. In the given case, then, one buyer seeks to drive the others from the field by offering a relatively higher price for the bales of cotton. The cotton sellers, who perceive the troops of the enemy in the most violent contention among themselves, and who therefore are fully assured of the sale of their whole 100 bales, will beware of pulling one another's hair in order to force down the price of cotton at the very moment in which their opponents race with one another to screw it up high. So, all of a sudden, peace reigns in the army of sellers. They stand opposed to the buyers like one man, fold their arms in philosophic contentment and their claims would find no limit did not the offers of even the most importunate of buyers have a very definite limit.

If, then, the supply of a commodity is less than the demand for it, competition among the sellers is very slight, or there may be none at all among them. In the same proportion in which this competition decreases, the competition among the buyers increases. Result: a more or less considerable rise in the prices of commodities.

It is well known that the opposite case, with the opposite result, happens more frequently. Great excess of supply over demand; desperate competition among the sellers, and a lack of buyers; forced sales of commodities at ridiculously low prices.

But what is a rise, and what a fall of prices? What is a high and what a low price? A grain of sand is high when examined through a microscope, and a tower is low when compared with a mountain. And if the price is determined by the relation of supply and demand, by what is the relation of supply and demand determined?

Let us turn to the first worthy citizen we meet. He will not hesitate one moment, but, like Alexander the Great, will cut this metaphysical knot with his multiplication table. He will say to us: "If the production of the commodities which I sell has cost me 100 pounds, and out of the sale of these goods I make 110 pounds ? within the year, you understand ? that's an honest, sound, reasonable profit. But if in the exchange I receive 120 or 130 pounds, that's a higher profit; and if I should get as much as 200 pounds, that would be an extraordinary, and enormous profit." What is it, then, that serves this citizen as the standard of his profit? The cost of the production of his commodities. If in exchange for these goods he receives a quantity of other goods whose production has cost less, he has lost. If he receives in exchange for his goods a quantity of other goods whose production has cost more, he has gained. And he reckons the falling or rising of the profit according to the degree at which the exchange value of his goods stands, whether above or below his zero ? the cost of production.

We have seen how the changing relation of supply and demand causes now a rise, now a fall of prices; now high, now low prices. If the price of a commodity rises considerably owing to a failing supply or a disproportionately growing demand, then the price of some other commodity must have fallen in proportion; for of course the price of a commodity only expresses in money the proportion in which other commodities will be given in exchange for it. If, for example, the price of a yard of silk rises from two to three shillings, the price of silver has fallen in relation to the silk, and in the same way the prices of all other commodities whose prices have remained stationary have fallen in relation to the price of silk. A large quantity of them must be given in exchange in order to obtain the same amount of silk. Now, what will be the consequence of a rise in the price of a particular commodity? A mass of capital will be thrown into the prosperous branch of industry, and this immigration of capital into the provinces of the favored industry will continue until it yields no more than the customary profits, or, rather until the price of its products, owning to overproduction, sinks below the cost of production.

Conversely: if the price of a commodity falls below its cost of production, then capital will be withdrawn from the production of this commodity. Except in the case of a branch of industry which has become obsolete and is therefore doomed to disappear, the production of such a commodity (that is, its supply), will, owning to this flight of capital, continue to decrease until it corresponds to the demand, and the price of the commodity rises again to the level of its cost of production; or, rather, until the supply has fallen below the demand and its price has risen above its cost of production, for the current price of a commodity is always either above or below its cost of production.

We see how capital continually emigrates out of the province of one industry and immigrates into that of another. The high price produces an excessive immigration, and the low price an excessive emigration.

We could show, from another point of view, how not only the supply, but also the demand, is determined by the cost of production. But this would lead us too far away from our subject.

We have just seen how the fluctuation of supply and demand always bring the price of a commodity back to its cost of production. The actual price of a commodity, indeed, stands always above or below the cost of production; but the rise and fall reciprocally balance each other, so that, within a certain period of time, if the ebbs and flows of the industry are reckoned up together, the commodities will be exchanged for one another in accordance with their cost of production. Their price is thus determined by their cost of production.

The determination of price by the cost of production is not to be understood in the sense of the bourgeois economists. The economists say that the average price of commodities equals the cost of production: that is the law. The anarchic movement, in which the rise is compensated for by a fall and the fall by a rise, they regard as an accident. We might just as well consider the fluctuations as the law, and the determination of the price by cost of production as an accident ? as is, in fact, done by certain other economists. But it is precisely these fluctuations which, viewed more closely, carry the most frightful devastation in their train, and, like an earthquake, cause bourgeois society to shake to its very foundations ? it is precisely these fluctuations that force the price to conform to the cost of production. In the totality of this disorderly movement is to be found its order. In the total course of this industrial anarchy, in this circular movement, competition balances, as it were, the one extravagance by the other.

We thus see that the price of a commodity is indeed determined by its cost of production, but in such a manner that the periods in which the price of these commodities rises above the costs of production are balanced by the periods in which it sinks below the cost of production, and vice versa. Of course this does not hold good for a single given product of an industry, but only for that branch of industry. So also it does not hold good for an individual manufacturer, but only for the whole class of manufacturers.

The determination of price by cost of production is tantamount to the determination of price by the labor-time requisite to the production of a commodity, for the cost of production consists, first of raw materials and wear and tear of tools, etc., i.e., of industrial products whose production has cost a certain number of work-days, which therefore represent a certain amount of labor-time, and, secondly, of direct labor, which is also measured by its duration.




By what are wages determined?


Karl Marx
Wage Labour and Capital


By what are wages determined?


 

Now, the same general laws which regulate the price of commodities in general, naturally regulate wages, or the price of labor-power. Wages will now rise, now fall, according to the relation of supply and demand, according as competition shapes itself between the buyers of labor-power, the capitalists, and the sellers of labor-power, the workers. The fluctuations of wages correspond to the fluctuation in the price of commodities in general. But within the limits of these fluctuations the price of labor-power will be determined by the cost of production, by the labor-time necessary for production of this commodity: labor-power.

What, then, is the cost of production of labor-power?

It is the cost required for the maintenance of the laborer as a laborer, and for his education and training as a laborer.

Therefore, the shorter the time required for training up to a particular sort of work, the smaller is the cost of production of the worker, the lower is the price of his labor-power, his wages. In those branches of industry in which hardly any period of apprenticeship is necessary and the mere bodily existence of the worker is sufficient, the cost of his production is limited almost exclusively to the commodities necessary for keeping him in working condition. The price of his work will therefore be determined by the price of the necessary means of subsistence.

Here, however, there enters another consideration. The manufacturer who calculates his cost of production and, in accordance with it, the price of the product, takes into account the wear and tear of the instruments of labor. If a machine costs him, for example, 1,000 shillings, and this machine is used up in 10 years, he adds 100 shillings annually to the price of the commodities, in order to be able after 10 years to replace the worn-out machine with a new one. In the same manner, the cost of production of simple labor-power must include the cost of propagation, by means of which the race of workers is enabled to multiply itself, and to replace worn-out workers with new ones. The wear and tear of the worker, therefore, is calculated in the same manner as the wear and tear of the machine.

Thus, the cost of production of simple labor-power amounts to the cost of the existence and propagation of the worker. The price of this cost of existence and propagation constitutes wages. The wages thus determined are called the minimum of wages. This minimum wage, like the determination of the price of commodities in general by cost of production, does not hold good for the single individual, but only for the race. Individual workers, indeed, millions of workers, do not receive enough to be able to exist and to propagate themselves; but the wages of the whole working class adjust themselves, within the limits of their fluctuations, to this minimum.

Now that we have come to an understanding in regard to the most general laws which govern wages, as well as the price of every other commodity, we can examine our subject more particularly.




The nature and growth of capital


Karl Marx
Wage Labour and Capital


The Nature and Growth of Capital


 

Capital consists of raw materials, instruments of labor, and means of subsistence of all kinds, which are employed in producing new raw materials, new instruments, and new means of subsistence. All these components of capital are created by labor, products of labor, accumulated labor. Accumulated labor that serves as a means to new production is capital.

So says the economists.

What is a Negro slave? A man of the black race. The one explanation is worthy of the other.

A Negro is a Negro. Only under certain conditions does he become a slave. A cotton-spinning machine is a machine for spinning cotton. Only under certain conditions does it become capital. Torn away from these conditions, it is as little capital as gold is itself money, or sugar is the price of sugar.

In the process of production, human beings work not only upon nature, but also upon one another. They produce only by working together in a specified manner and reciprocally exchanging their activities. In order to produce, they enter into definite connections and relations to one another, and only within these social connections and relations does their influence upon nature operate ? i.e., does production take place.

These social relations between the producers, and the conditions under which they exchange their activities and share in the total act of production, will naturally vary according to the character of the means of production. With the discover of a new instrument of warfare, the firearm, the whole internal organization of the army was necessarily altered, the relations within which individuals compose an army and can work as an army were transformed, and the relation of different armies to another was likewise changed.

We thus see that the social relations within which individuals produce, the social relations of production, are altered, transformed, with the change and development of the material means of production, of the forces of production. The relations of production in their totality constitute what is called the social relations, society, and, moreover, a society at a definite stage of historical development, a society with peculiar, distinctive characteristics. Ancient society, feudal society, bourgeois (or capitalist) society, are such totalities of relations of production, each of which denotes a particular stage of development in the history of mankind.

Capital also is a social relation of production. It is a bourgeois relation of production, a relation of production of bourgeois society. The means of subsistence, the instruments of labor, the raw materials, of which capital consists ? have they not been produced and accumulated under given social conditions, within definite special relations? Are they not employed for new production, under given special conditions, within definite social relations? And does not just the definite social character stamp the products which serve for new production as capital?

Capital consists not only of means of subsistence, instruments of labor, and raw materials, not only as material products; it consists just as much of exchange values. All products of which it consists are commodities. Capital, consequently, is not only a sum of material products, it is a sum of commodities, of exchange values, of social magnitudes. Capital remains the same whether we put cotton in the place of wool, rice in the place of wheat, steamships in the place of railroads, provided only that the cotton, the rice, the steamships ? the body of capital ? have the same exchange value, the same price, as the wool, the wheat, the railroads, in which it was previously embodied. The bodily form of capital may transform itself continually, while capital does not suffer the least alteration.

But though every capital is a sum of commodities ? i.e., of exchange values ? it does not follow that every sum of commodities, of exchange values, is capital.

Every sum of exchange values is an exchange value. Each particular exchange value is a sum of exchange values. For example: a house worth 1,000 pounds is an exchange value of 1,000 pounds: a piece of paper worth one penny is a sum of exchange values of 100 1/100ths of a penny. Products which are exchangeable for others are commodities. The definite proportion in which they are exchangeable forms their exchange value, or, expressed in money, their price. The quantity of these products can have no effect on their character as commodities, as representing an exchange value , as having a certain price. Whether a tree be large or small, it remains a tree. Whether we exchange iron in pennyweights or in hundredweights, for other products, does this alter its character: its being a commodity, or exchange value? According to the quantity, it is a commodity of greater or of lesser value, of higher or of lower price.

How then does a sum of commodities, of exchange values, become capital?

Thereby, that as an independent social power ? i.e., as the power of a part of society ? it preserves itself and multiplies by exchange with direct, living labor-power.

The existence of a class which possess nothing but the ability to work is a necessary presupposition of capital.

It is only the dominion of past, accumulated, materialized labor over immediate living labor that stamps the accumulated labor with the character of capital.

Capital does not consist in the fact that accumulated labor serves living labor as a means for new production. It consists in the fact that living labor serves accumulated labor as the means of preserving and multiplying its exchange value.




Relation of wage-labor to capital


Karl Marx
Wage Labour and Capital


Relation of Wage-Labour to Captial


 

What is it that takes place in the exchange between the capitalist and the wage-labor?

The laborer receives means of subsistence in exchange for his labor-power; the capitalist receives, in exchange for his means of subsistence, labor, the productive activity of the laborer, the creative force by which the worker not only replaces what he consumes, but also gives to the accumulated labor a greater value than it previously possessed. The laborer gets from the capitalist a portion of the existing means of subsistence. For what purpose do these means of subsistence serve him? For immediate consumption. But as soon as I consume means of subsistence, they are irrevocably lost to me, unless I employ the time during which these means sustain my life in producing new means of subsistence, in creating by my labor new values in place of the values lost in consumption. But it is just this noble reproductive power that the laborer surrenders to the capitalist in exchange for means of subsistence received. Consequently, he has lost it for himself.

Let us take an example. For one shilling a laborer works all day long in the fields of a farmer, to whom he thus secures a return of two shillings. The farmer not only receives the replaced value which he has given to the day laborer, he has doubled it. Therefore, he has consumed the one shilling that he gave to the day laborer in a fruitful, productive manner. For the one shilling he has bought the labor-power of the day-laborer, which creates products of the soil of twice the value, and out of one shilling makes two. The day-laborer, on the contrary, receives in the place of his productive force, whose results he has just surrendered to the farmer, one shilling, which he exchanges for means of subsistence, which he consumes more or less quickly. The one shilling has therefore been consumed in a double manner ? reproductively for the capitalist, for it has been exchanged for labor-power, which brought forth two shillings; unproductively for the worker, for it has been exchanged for means of subsistence which are lost for ever, and whose value he can obtain again only by repeating the same exchange with the farmer. Capital therefore presupposes wage-labor; wage-labor presupposes capital. They condition each other; each brings the other into existence.

Does a worker in a cotton factory produce only cotton? No. He produces capital. He produces values which serve anew to command his work and to create by means of it new values.

Capital can multiply itself only by exchanging itself for labor-power, by calling wage-labor into life. The labor-power of the wage-laborer can exchange itself for capital only by increasing capital, by strengthening that very power whose slave it is. Increase of capital, therefore, is increase of the proletariat, i.e., of the working class.

And so, the bourgeoisie and its economists maintain that the interest of the capitalist and of the laborer is the same. And in fact, so they are! The worker perishes if capital does not keep him busy. Capital perishes if it does not exploit labor-power, which, in order to exploit, it must buy. The more quickly the capital destined for production ? the productive capital ? increases, the more prosperous industry is, the more the bourgeoisie enriches itself, the better business gets, so many more workers does the capitalist need, so much the dearer does the worker sell himself. The fastest possible growth of productive capital is, therefore, the indispensable condition for a tolerable life to the laborer.

But what is growth of productive capital? Growth of the power of accumulated labor over living labor; growth of the rule of the bourgeoisie over the working class. When wage-labor produces the alien wealth dominating it, the power hostile to it, capital, there flow back to it its means of employment ? i.e., its means of subsistence, under the condition that it again become a part of capital, that is become again the lever whereby capital is to be forced into an accelerated expansive movement.

To say that the interests of capital and the interests of the workers are identical, signifies only this: that capital and wage-labor are two sides of one and the same relation. The one conditions the other in the same way that the usurer and the borrower condition each other.

As long as the wage-laborer remains a wage-laborer, his lost is dependent upon capital. That is what the boasted community of interests between worker and capitalists amounts to.

If capital grows, the mass of wage-labor grows, the number of wage-workers increases; in a word, the sway of capital extends over a greater mass of individuals.

Let us suppose the most favorable case: if productive capital grows, the demand for labor grows. It therefore increases the price of labor-power, wages.

A house may be large or small; as long as the neighboring houses are likewise small, it satisfies all social requirement for a residence. But let there arise next to the little house a palace, and the little house shrinks to a hut. The little house now makes it clear that its inmate has no social position at all to maintain, or but a very insignificant one; and however high it may shoot up in the course of civilization, if the neighboring palace rises in equal of even in greater measure, the occupant of the relatively little house will always find himself more uncomfortable, more dissatisfied, more cramped within his four walls.

An appreciable rise in wages presupposes a rapid growth of productive capital. Rapid growth of productive capital calls forth just as rapid a growth of wealth, of luxury, of social needs and social pleasures. Therefore, although the pleasures of the laborer have increased, the social gratification which they afford has fallen in comparison with the increased pleasures of the capitalist, which are inaccessible to the worker, in comparison with the stage of development of society in general. Our wants and pleasures have their origin in society; we therefore measure them in relation to society; we do not measure them in relation to the objects which serve for their gratification. Since they are of a social nature, they are of a relative nature.

But wages are not at all determined merely by the sum of commodities for which they may be exchanged. Other factors enter into the problem. What the workers directly receive for their labor-power is a certain sum of money. Are wages determined merely by this money price?

In the 16th century, the gold and silver circulation in Europe increased in consequence of the discovery of richer and more easily worked mines in America. The value of gold and silver, therefore, fell in relation to other commodities. The workers received the same amount of coined silver for their labor-power as before. The money price of their work remained the same, and yet their wages had fallen, for in exchange for the same amount of silver they obtained a smaller amount of other commodities. This was one of the circumstances which furthered the growth of capital, the rise of the bourgeoisie, in the 18th century.

Let us take another case. In the winter of 1847, in consequence of bad harvest, the most indispensable means of subsistence ? grains, meat, butter, cheese, etc. ? rose greatly in price. Let us suppose that the workers still received the same sum of money for their labor-power as before. Did not their wages fall? To be sure. For the same money they received in exchange less bread, meat, etc. Their wages fell, not because the value of silver was less, but because the value of the means of subsistence had increased.

Finally, let us suppose that the money price of labor-power remained the same, while all agricultural and manufactured commodities had fallen in price because of the employment of new machines, of favorable seasons, etc. For the same money the workers could now buy more commodities of all kinds. Their wages have therefore risen, just because their money value has not changed.

The money price of labor-power, the nominal wages, do not therefore coincide with the actual or real wages ? i.e., with the amount of commodities which are actually given in exchange for the wages. If then we speak of a rise or fall of wages, we have to keep in mind not only the money price of labor-power, the nominal wages, but also the real wages.

But neither the nominal wages ? i.e., the amount of money for which the laborer sells himself to the capitalist ? nor the real wages ? i.e., the amount of commodities which he can buy for this money ? exhausts the relations which are comprehended in the term wages.

Wages are determined above all by their relations to the gain, the profit, of the capitalist. In other words, wages are a proportionate, relative quantity.

Real wages express the price of labor-power in relation to the price of commodities; relative wages, on the other hand, express the share of immediate labor in the value newly created by it, in relation to the share of it which falls to accumulated labor, to capital.




The general law that determines the rise and fall of wages and profit


Karl Marx
Wage Labour and Capital


The General Law that Determines the Rise and Fall
of Wages and Profits


 

We have said: "Wages are not a share of the worker in the commodities produced by him. Wages are that part of already existing commodities with which the capitalist buys a certain amount of productive labor-power." But the capitalist must replace these wages out of the price for which he sells the product made by the worker; he must so replace it that, as a rule, there remains to him a surplus above the cost of production expended by him, that is, he must get a profit.

The selling price of the commodities produced by the worker is divided, from the point of view of the capitalist, into three parts:

First, the replacement of the price of the raw materials advanced by him, in addition to the replacement of the wear and tear of the tools, machines, and other instruments of labor likewise advanced by him;

Second, the replacement of the wages advanced; and

Third, the surplus leftover ? i.e., the profit of the capitalist.

While the first part merely replaces previously existing values, it is evident that the replacement of the wages and the surplus (the profit of capital) are as a whole taken out of the new value, which is produced by the labor of the worker and added to the raw materials. And in this sense we can view wages as well as profit, for the purpose of comparing them with each other, as shares in the product of the worker.

Real wages may remain the same, they may even rise, nevertheless the relative wages may fall. Let us suppose, for instance, that all means of subsistence have fallen 2/3rds in price, while the day's wages have fallen but 1/3rd ? for example, from three to two shillings. Although the worker can now get a greater amount of commodities with these two shillings than he formerly did with three shillings, yet his wages have decreased in proportion to the gain of the capitalist. The profit of the capitalist ? the manufacturer's for instance ? has increased one shilling, which means that for a smaller amount of exchange values, which he pays to the worker, the latter must produce a greater amount of exchange values than before. The share of capitals in proportion to the share of labor has risen. The distribution of social wealth between capital and labor has become still more unequal. The capitalist commands a greater amount of labor with the same capital. The power of the capitalist class over the working class has grown, the social position of the worker has become worse, has been forced down still another degree below that of the capitalist.

What, then is the general law that determines the rise and fall of wages and profit in their reciprocal relation?

They stand in inverse proportion to each other. The share of (profit) increases in the same proportion in which the share of labor (wages) falls, and vice versa. Profit rises in the same degree in which wages fall; it falls in the same degree in which wages rise.

It might perhaps be argued that the capitalist class can gain by an advantageous exchange of his products with other capitalists, by a rise in the demand for his commodities, whether in consequence of the opening up of new markets, or in consequence of temporarily increased demands in the old market, and so on; that the profit of the capitalist, therefore, may be multiplied by taking advantage of other capitalists, independently of the rise and fall of wages, of the exchange value of labor-power; or that the profit of the capitalist may also rise through improvements in the instruments of labor, new applications of the forces of nature, and so on.

But in the first place it must be admitted that the result remains the same, although brought about in an opposite manner. Profit, indeed, has not risen because wages have fallen, but wages have fallen because profit has risen. With the same amount of another man's labor the capitalist has bought a larger amount of exchange values without having paid more for the labor on that account ? i.e., the work is paid for less in proportion to the net gain which it yields to the capitalist.

In the second place, it must be borne in mind that, despite the fluctuations in the prices of commodities, the average price of every commodity, the proportion in which it exchanges for other commodities, is determined by its cost of production. The acts of overreaching and taking advantage of one another within the capitalist ranks necessarily equalize themselves. The improvements of machinery, the new applications of the forces of nature in the service of production, make it possible to produce in a given period of time, with the same amount of labor and capital, a larger amount of products, but in no wise a larger amount of exchange values. If by the use of the spinning-machine I can furnish twice as much yarn in an hour as before its invention ? for instance, 100 pounds instead of 50 pounds -- in the long run I receive back, in exchange for this 100 pounds no more commodities than I did before for 50; because the cost of production has fallen by 1/2, or because I can furnish double the product at the same cost.

Finally, in whatsoever proportion the capitalist class, whether of one country or of the entire world-market, distribute the net revenue of production among themselves, the total amount of this net revenue always consists exclusively of the amount by which accumulated labor has been increased from the proceeds of direct labor. This whole amount, therefore, grows in the same proportion in which labor augments capital ? i.e., in the same proportion in which profit rises as compared with wages.




The interests of capital and wage-labor are diametrically opposed...


Karl Marx
Wage Labour and Capital


The Interests of Capital and Wage-Labour are diametrically opposed
Effect of growth of productive Capital on Wages


 

We thus see that, even if we keep ourselves within the relation of capital and wage-labor, the interests of capitals and the interests of wage-labor are diameterically opposed to each other.

A rapid growth of capital is synonymous with a rapid growth of profits. Profits can grow rapidly only when the price of labor ? the relative wages ? decrease just as rapidly. Relative wages may fall, although real wages rise simultaneously with nominal wages, with the money value of labor, provided only that the real wage does not rise in the same proportion as the profit. If, for instance, in good business years wages rise 5 per cent, while profits rise 30 per cent, the proportional, the relative wage has not increased, but decreased.

If, therefore, the income of the worker increased with the rapid growth of capital, there is at the same time a widening of the social chasm that divides the worker from the capitalist, and increase in the power of capital over labor, a greater dependence of labor upon capital.

To say that "the worker has an interest in the rapid growth of capital", means only this: that the more speedily the worker augments the wealth of the capitalist, the larger will be the crumbs which fall to him, the greater will be the number of workers than can be called into existence, the more can the mass of slaves dependent upon capital be increased.

We have thus seen that even the most favorable situation for the working class, namely, the most rapid growth of capital, however much it may improve the material life of the worker, does not abolish the antagonism between his interests and the interests of the capitalist. Profit and wages remain as before, in inverse proportion.

If capital grows rapidly, wages may rise, but the profit of capital rises disproportionately faster. The material position of the worker has improved, but at the cost of his social position. The social chasm that separates him from the capitalist has widened.

Finally, to say that "the most favorable condition for wage-labor is the fastest possible growth of productive capital", is the same as to say: the quicker the working class multiplies and augments the power inimical to it ? the wealth of another which lords over that class ? the more favorable will be the conditions under which it will be permitted to toil anew at the multiplication of bourgeois wealth, at the enlargement of the power of capital, content thus to forge for itself the golden chains by which the bourgeoisie drags it in its train.

Growth of productive capital and rise of wages, are they really so indissolubly united as the bourgeois economists maintain? We must not believe their mere words. We dare not believe them even when they claim that the fatter capital is the more will its slave be pampered. The bourgeoisie is too much enlightened, it keeps its accounts much too carefully, to share the prejudices of the feudal lord, who makes an ostentatious display of the magnificence of his retinue. The conditions of existence of the bourgeoisie compel it to attend carefully to its bookkeeping. We must therefore examine more closely into the following question:

In what manner does the growth of productive capital affect wages?

If as a whole, the productive capital of bourgeois society grows, there takes place a more many-sided accumulation of labor. The individual capitals increase in number and in magnitude. The multiplications of individual capitals increases the competition among capitalists. The increasing magnitude of increasing capitals provides the means of leading more powerful armies of workers with more gigantic instruments of war upon the industrial battlefield.

The one capitalist can drive the other from the field and carry off his capital only by selling more cheaply. In order to sell more cheaply without ruining himself, he must produce more cheaply ? i.e., increase the productive forces of labor as much as possible.

But the productive forces of labor is increased above all by a greater division of labor and by a more general introduction and constant improvement of machinery. The larger the army of workers among whom the labor is subdivided, the more gigantic the scale upon which machinery is introduced, the more in proportion does the cost of production decrease, the more fruitful is the labor. And so there arises among the capitalists a universal rivalry for the increase of the division of labor and of machinery and for their exploitation upon the greatest possible scale.

If, now, by a greater division of labor, by the application and improvement of new machines, by a more advantageous exploitation of the forces of nature on a larger scale, a capitalist has found the means of producing with the same amount of labor (whether it be direct or accumulated labor) a larger amount of products of commodities than his competitors ? if, for instance, he can produce a whole yard of linen in the same labor-time in which his competitors weave half-a-yard ? how will this capitalist act?

He could keep on selling half-a-yard of linen at old market price; but this would not have the effect of driving his opponents from the field and enlarging his own market. But his need of a market has increased in the same measure in which his productive power has extended. The more powerful and costly means of production that he has called into existence enable him, it is true, to sell his wares more cheaply, but they compel him at the same time to sell more wares, to get control of a very much greater market for his commodities; consequently, this capitalist will sell his half-yard of linen more cheaply than his competitors.

But the capitalist will not sell the whole yard so cheaply as his competitors sell the half-yard, although the production of the whole yard costs him no more than does that of the half-yard to the others. Otherwise, he would make no extra profit, and would get back in exchange only the cost of production. He might obtain a greater income from having set in motion a larger capital, but not from having made a greater profit on his capital than the others. Moreover, he attains the object he is aiming at if he prices his goods only a small percentage lower than his competitors. He drives them off the field, he wrests from them at least part of their market, by underselling them.

And finally, let us remember that the current price always stands either above or below the cost of production, according as the sale of a commodity takes place in the favorable or unfavorable period of the industry. According as the market price of the yard of linen stands above or below its former cost of production, will the percentage vary at which the capitalist who has made use of the new and more faithful means of production sell above his real cost of production.

But the privilege of our capitalist is not of long duration. Other competing capitalists introduce the same machines, the same division of labor, and introduce them upon the same or even upon a greater scale. And finally this introduction becomes so universal that the price of the linen is lowered not only below its old, but even below its new cost of production.

The capitalists therefore find themselves, in their mutual relations, in the same situation in which they were before the introduction of the new means of production; and if they are by these means enabled to offer double the product at the old price, they are now forced to furnish double the product for less than the old price. Having arrived at the new point, the new cost of production, the battle for supremacy in the market has to be fought out anew. Given more division of labor and more machinery, and there results a greater scale upon which division of labor and machinery are exploited. And competition again brings the same reaction against this result.




Effect of capitalist competition on the...


Karl Marx
Wage Labour and Capital


Effect of Capitalist Competition on the Capitalist Class
the Middle Class and the Working Class


 

We thus see how the method of production and the means of production are constantly enlarged, revolutionized, how division of labor necessarily draws after it greater division of labor, the employment of machinery greater employment of machinery, work upon a large scale work upon a still greater scale. This is the law that continually throws capitalist production out of its old ruts and compels capital to strain ever more the productive forces of labor for the very reason that it has already strained them ? the law that grants it no respite, and constantly shouts in its ear: March! march! This is no other law than that which, within the periodical fluctuations of commerce, necessarily adjusts the price of a commodity to its cost of production.

No matter how powerful the means of production which a capitalist may bring into the field, competition will make their adoption general; and from the moment that they have been generally adopted, the sole result of the greater productiveness of his capital will be that he must furnish at the same price, 10, 20, 100 times as much as before. But since he must find a market for, perhaps, 1,000 times as much, in order to outweigh the lower selling price by the greater quantity of the sale; since now a more extensive sale is necessary not only to gain a greater profit, but also in order to replace the cost of production (the instrument of production itself grows always more costly, as we have seen), and since this more extensive sale has become a question of life and death not only for him, but also for his rivals, the old struggle must begin again, and it is all the more violent the more powerful the means of production already invented are. The division of labor and the application of machinery will therefore take a fresh start, and upon an even greater scale.

Whatever be the power of the means of production which are employed, competition seeks to rob capital of the golden fruits of this power by reducing the price of commodities to the cost of production; in the same measure in which production is cheapened - i.e., in the same measure in which more can be produced with the same amount of labor ? it compels by a law which is irresistible a still greater cheapening of production, the sale of ever greater masses of product for smaller prices. Thus the capitalist will have gained nothing more by his efforts than the obligation to furnish a greater product in the same labor-time; in a word, more difficult conditions for the profitable employment of his capital. While competition, therefore, constantly pursues him with its law of the cost of production and turns against himself every weapon that he forges against his rivals, the capitalist continually seeks to get the best of competition by restlessly introducing further subdivision of labor and new machines, which, though more expensive, enable him to produce more cheaply, instead of waiting until the new machines shall have been rendered obsolete by competition.

If we now conceive this feverish agitation as it operates in the market of the whole world, we shall be in a position to comprehend how the growth, accumulation, and concentration of capital bring in their train an ever more detailed subdivision of labor, an ever greater improvement of old machines, and a constant application of new machine ? a process which goes on uninterruptedly, with feverish haste, and upon an ever more gigantic scale.

But what effect do these conditions, which are inseparable from the growth of productive capital, have upon the determination of wages?

The greater division of labor enables one laborer to accomplish the work of five, 10, or 20 laborers; it therefore increases competition among the laborers fivefold, tenfold, or twentyfold. The laborers compete not only by selling themselves one cheaper than the other, but also by one doing the work of five, 10, or 20; and they are forced to compete in this manner by the division of labor, which is introduced and steadily improved by capital.

Furthermore, to the same degree in which the division of labor increases, is the labor simplified. The special skill of the laborer becomes worthless. He becomes transformed into a simple monotonous force of production, with neither physical nor mental elasticity. His work becomes accessible to all; therefore competitors press upon him from all sides. Moreover, it must be remembered that the more simple, the more easily learned the work is, so much the less is its cost to production, the expense of its acquisition, and so much the lower must the wages sink ? for, like the price of any other commodity, they are determined by the cost of production. Therefore, in the same manner in which labor becomes more unsatisfactory, more repulsive, do competition increase and wages decrease.

The laborer seeks to maintain the total of his wages for a given time by performing more labor, either by working a great number of hours, or by accomplishing more in the same number of hours. Thus, urged on by want, he himself multiplies the disastrous effects of division of labor. The result is: the more he works, the less wages he receives. And for this simple reason: the more he works, the more he competes against his fellow workmen, the more he compels them to compete against him, and to offer themselves on the same wretched conditions as he does; so that, in the last analysis, he competes against himself as a member of the working class.

Machinery produces the same effects, but upon a much larger scale. It supplants skilled laborers by unskilled, men by women, adults by children; where newly introduced, it throws workers upon the streets in great masses; and as it becomes more highly developed and more productive it discards them in additional though smaller numbers.

We have hastily sketched in broad outlines the industrial war of capitalists among themselves. This war has the peculiarity that the battles in it are won less by recruiting than by discharging the army of workers. The generals (the capitalists) vie with one another as to who can discharge the greatest number of industrial soldiers.

The economists tell us, to be sure, that those laborers who have been rendered superfluous by machinery find new venues of employment. They dare not assert directly that the same laborers that have been discharged find situations in new branches of labor. Facts cry out too loudly against this lie. Strictly speaking, they only maintain that new means of employment will be found for other sections of the working class; for example, for that portion of the young generation of laborers who were about to enter upon that branch of industry which had just been abolished. Of course, this is a great satisfaction to the disabled laborers. There will be no lack of fresh exploitable blood and muscle for the Messrs. Capitalists ? the dead may bury their dead. This consolation seems to be intended more for the comfort of the capitalists themselves than their laborers. If the whole class of the wage-laborer were to be annihilated by machinery, how terrible that would be for capital, which, without wage-labor, ceases to be capital!

But even if we assume that all who are directly forced out of employment by machinery, as well as all of the rising generation who were waiting for a chance of employment in the same branch of industry, do actually find some new employment ? are we to believe that this new employment will pay as high wages as did the one they have lost? If it did, it would be in contradiction to the laws of political economy. We have seen how modern industry always tends to the substitution of the simpler and more subordinate employments for the higher and more complex ones. How, then, could a mass of workers thrown out of one branch of industry by machinery find refuge in another branch, unless they were to be paid more poorly?

An exception to the law has been adduced, namely, the workers who are employed in the manufacture of machinery itself. As soon as there is in industry a greater demand for and a greater consumption of machinery, it is said that the number of machines must necessarily increase; consequently, also, the manufacture of machines; consequently, also, the employment of workers in machine manufacture; ? and the workers employed in this branch of industry are skilled, even educated, workers.

Since the year 1840 this assertion, which even before that date was only half-true, has lost all semblance of truth; for the most diverse machines are now applied to the manufacture of the machines themselves on quite as extensive a scale as in the manufacture of cotton yarn, and the laborers employed in machine factories can but play the role of very stupid machines alongside of the highly ingenious machines.

But in place of the man who has been dismissed by the machine, the factory may employ, perhaps, three children and one woman! And must not the wages of the man have previously sufficed for the three children and one woman? Must not the minimum wages have sufficed for the preservation and propagation of the race? What, then, do these beloved bourgeois phrases prove? Nothing more than that now four times as many workers' lives are used up as there were previously, in order to obtain the livelihood of one working family.

To sum up: the more productive capital grows, the more it extends the division of labor and the application of machinery; the more the division of labor and the application of machinery extend, the more does competition extend among the workers, the more do their wages shrink together.

In addition, the working class is also recruited from the higher strata of society; a mass of small business men and of people living upon the interest of their capitals is precipitated into the ranks of the working class, and they will have nothing else to do than to stretch out their arms alongside of the arms of the workers. Thus the forest of outstretched arms, begging for work, grows ever thicker, while the arms themselves grow every leaner.

It is evident that the small manufacturer cannot survive in a struggle in which the first condition of success is production upon an ever greater scale. It is evident that the small manufacturers and thereby increasing the number of candidates for the proletariat ? all this requires no further elucidation.

Finally, in the same measure in which the capitalists are compelled, by the movement described above, to exploit the already existing gigantic means of production on an ever-increasing scale, and for this purpose to set in motion all the mainsprings of credit, in the same measure do they increase the industrial earthquakes, in the midst of which the commercial world can preserve itself only by sacrificing a portion of its wealth, its products, and even its forces of production, to the gods of the lower world ? in short, the crises increase. They become more frequent and more violent, if for no other reason, than for this alone, that in the same measure in which the mass of products grows, and there the needs for extensive markets, in the same measure does the world market shrink ever more, and ever fewer markets remain to be exploited, since every previous crisis has subjected to the commerce of the world a hitherto unconquered or but superficially exploited market.

But capital not only lives upon labor. Like a master, at once distinguished and barbarous, it drags with it into its grave the corpses of its slaves, whole hecatombs of workers, who perish in the crises.

We thus see that if capital grows rapidly, competition among the workers grows with even greater rapidity ? i.e., the means of employment and subsistence for the working class decrease in proportion even more rapidly; but, this notwithstanding, the rapid growth of capital is the most favorable condition for wage-labor.