5-2 賃金、価格、利潤

(暫時借用)

 なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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 上記を転載するに当たり読みやすくするため、任意に漢字変換を行い、引用元、参照本の紹介についても著者名、著作名のみ記す等簡略にした。同様の趣旨から句読点、洋数字変え、段落替えもれんだいこ風に簡略にしました。地文にある解説手引用番号を極力削除しました。正確には上記テクストないし原本に当たるべし。



§ 賃労働と資本

☆  エンゲルスの序論

 つぎの労作は、『新ライン新聞〔1〕』の一八四九年四月五日号以降につづきものの論文としてのったものである。そのもとになったのは、マルクスが一八四七年にブリュッセルのドイツ人労働者協会でおこなった講義である。それは、印刷物のうえでは未完成のままになっている。第二六九号のおわりにある「つづく」は、そのころたてつづけにおこったいろいろの事件、ロシア軍のハンガリア侵入や、この新聞自身が禁止される(一八四九年五月一九日)動機になったドレスデン、イゼルローン、エルバーフェルト、ファルツ、バーデンの蜂起の結果として、実行されずにおわった。このつづきの原稿は、マルクスの遺稿のうちにもみつからなかった。
 『賃労働と資本』は、パンフレット型の単行本としていくつもの版がでている。いちばん最新のものは、一八八四年、ホッティンゲン=チューリヒ刊のスイス協同組合印刷所版である。これらの従来の版本は、正確に原本の用語どおりであった。しかし、今回の新版は、宣伝用パンフレットとして一万部以上も配布される予定となっている。そこで私には、こういう事情のもとではマルクス自身、原文どおりそのまま重版することに賛成するかどうか、という疑問がおこらざるをえなかった。
 四〇年代には、マルクスはまだその経済学の批判をおえていなかった。これは、五〇年代の末にやっとおわったのである。だから、『経済学批判』の第一分冊(一八五九年)よりまえにでた彼の著作は、個々の点では、一八五九年よりのちに書かれた著作とちがっていて、のちの著作の立場からみれば妥当でなかったり、まちがってさえいると思われる表現や、章句そのものをふくんでいる。ところで、一般読者を目当てとした普通の版では、著者の精神的発展のうちにふくまれているこういう初期の立場もさしつかえなく、著者にも読者にも、これらの旧著をそのまま重刷させるあらそう余地のない権利があるということは、自明のことである。そして私は、そのうちの一語でもかえようとは、夢にも思わなかったであろう。
 新版がほとんど労働者のあいだの宣伝だけを目的としているばあいには、話はべつである。そのばあいにはマルクスは、無条件に、一八四八年のころの古い叙述を彼の新しい立場と調和させたであろう。そして私は、今回の新版のために、あらゆる本質的な点でこの目的を達するのに必要な少数の変更や追加をおこなうことは、マルクスの精神にしたがって行動するものだと、確信している。そこで、私は読者にあらかじめおことわりしておく。これは、マルクスが一八四九年に書いたままのパンフレットではなくて、ほぼ彼が一八九一年にはこう書いたろうと思われるパンフレットである。それに、ほんとうの原文は非常な大部数で流布しているので、私がそれを将来だす全集にふたたびもとのまま再録できるようになるまでは、それで十分である。
 私がくわえた変更は、みな一つの点をめぐっている。原本では、労働者は賃金とひきかえに資本家に彼の労働を売ることになっているが、このテキストでは彼の労働力を売ることになっている。そして、この変更について私は説明をする義務を負っている。つまり、労働者にたいしては、これはたんなる字句拘泥ではなく、むしろ経済学全体のうちでもっとも重要な点なのだということをわからせるために説明し、またブルジョアにたいしては、無教養の労働者にはどんなにむずかしい経済学上の叙述でもたやすくわからせることができるのだから、一生涯かかってもこういうこみいった問題を解くことのできない、高慢ちきな「教養ある人々」より、無教養の労働者のほうがどんなにすぐれているかしれないということをさとらせるために、説明するのである。
 古典経済学〔2〕は、産業の実践から、工場主は彼の労働者の労働を買い、それにたいして支払っているという、工場主のありきたりの考えをうけいれた。こういう考えでも、工場主の商売用や簿記や価格計算には、十分まにあってきた。ところが、素朴に経済学にうつしいれられたとき、それは、ここでじつにおどろくべき誤謬と混乱をひきおこしたのである。
 経済学はつぎの事実にいきあたる。それは、いっさいの商品の価格は、経済学で労働とよばれている商品の価格をもふくめて、たえず変動するということ、これらの価格は、非常にさまざまな事情のためにあがりさがりしており、しかもそれらの事情は商品そのものの生産とまったくなんの関係もないことが多いので、価格は普通はまったくの偶然によってきめられるようにみえるということである。そこで、経済学が科学としてあらわれる〔3〕やいなや、その最初に当面した課題の一つは、外見上商品価格を支配しているようにみえるこの偶然の背後にかくれて、じつはこの偶然そのものを支配している法則を、さがしもとめることであった。あるいは上へ、あるいは下へと、たえず変動し動揺する商品価格の内部に、経済学はこの変動と動揺の軸となっている固定した中心点をさがしもとめた。一言で言えば、経済学は、商品価格から出発してそれを規制する法則としての商品価値をさがしもとめたのである。つまり、いっさいの価格変動はこの商品価値から説明され、また結局はみなそれに帰着するはずであった。
 そこで古典経済学は、ある商品の価値は、その商品にふくまれており、その商品の生産に必要な労働によってきめられることを、みいだした。古典経済学はこの説明で満足した。そしてわれわれも、さしあたってはこの説明で満足することができる。ただ、誤解を避けるために、この説明は今日ではまったく不十分なものになってしまったということを、注意しておきたい。マルクスが、はじめて、価値を形成するものとしての労働の性質を根本的に研究し、そのさい、ある商品の生産に外見上必要にみえ、あるいは実際にも必要な労働は、どれでも、いつでも、消費された労働量と一致する価値量をその商品につけくわえるとはかぎらないことを、発見した。したがって、今日われわれが簡単に、リカードーのような経済学者にならって、ある商品の価値はその商品の生産に必要な労働によってきめられる、というにしても、そのさい、われわれはつねに、マルクスによってなされた留保を前提しているのである。ここではこれだけ言っておけばよい。それ以上のことは、マルクスの『経済学批判』(一八五九年)と『資本論』第一巻にある。
 しかし、経済学者が労働によって価値がきめられるというこの命題を、「労働」という商品に適用するやいなや、彼らは、つぎつぎに矛盾におちいっていった。「労働」の価値はどうしてきめられるか? そのうちにふくまれている必要労働によって。だが、ある労働者の一日、一週、一ヵ月、一年間の労働には、どれだけの労働がふくまれているか? 一日、一週、一ヵ月、一年分の労働である。もし労働がいっさいの価値の尺度であるなら、われわれは、「労働の価値」もほかならぬ労働で表現するほかないことになる。しかし、われわれが、一時間の労働の価値は一時間の労働にひとしいということしか知らないなら、われわれは一時間の労働の価値について絶対になにも知らないのである。だから、それだけでは、われわれは髪の毛一筋でも目標に近づいたことにならない。われわれはぐるぐると堂々めぐりをつづけているだけである。
 そこで古典経済学は、言いまわしをかえてみた。彼らはこう言った。ある商品の価値はその生産費にひとしい、と。だが、労働の生産費とはなにか? この問いにこたえるには、経済学者は、論理をすこしばかり曲げなければならない。労働そのものの生産費は、遺憾ながらたしかめることができないから、彼らは、それのかわりに、いまや労働者の生産費とはなにか、を研究する。そして、このほうはたしかめることができる。それは、時と事情とに応じてちがいはするが、一定の社会状態、一定の地方、一定の生産部門についてみれば、やはり一定しており、すくなくともかなりに狭い限界の内にある。われわれは今日、資本主義的生産の支配のもとに生活しているが、ここでは住民中の大きな部分をしめ、しかもたえず増大していく一階級は、賃金とひきかえに生産手段・・道具、機械、原料、生活資料・・の所有者のためにはたらくときにだけ、生活することができる。この生産様式の基礎のうえでは、労働者の生産費は、彼に労働する能力をあたえ、彼の労働能力をたもち、そして老年や病気や死のために彼が去ったばあいには新しい労働者でこれを補充するために、つまり、労働者階級を必要な人数だけ繁殖させるために、平均的に必要な生活資料の総和・・またはその貨幣価格・・からなっている。われわれは、この生活資料の貨幣価格が平均一日三マルクであると仮定しよう。
 そこで、わが労働者は、彼をやとっている資本家から一日三マルクの賃金をうけとる。資本家は、そのかわりに、彼を日にたとえば一二時間はたらかせる。そのさいこの資本家は、ほぼつぎのように計算する。
 わが労働者・・機械工・・がある機械の部品をつくるものとし、それを一日でしあげるものと仮定しよう。原料・・必要な半加工形態にある鉄と真鍮・・に二〇マルクかかる。蒸気機関による石炭の消費、この蒸気機関そのものとわが労働者がその作業にあたって使用する旋盤その他の道具との磨損分は、日割にして彼個人に割りふって計算すれば、一マルクの価値をあらわす。一日分の賃金は、われわれの仮定によれば、三マルクである。これらを合計すれば、この機械部品にたいして二四マルクとなる。しかし、資本家は、その部品にたいして平均二七マルクの価格、したがって彼の支出した費用より三マルクだけ多い価格を彼の顧客からうけとるように、計算をたてるのである。
 資本家がポケットに入れるこの三マルクはどこからでてくるのか? 古典経済学の主張によれば、商品は平均すればその価値で、すなわち、これらの商品にふくまれている必要労働量に一致する価格で、売られる。してみれば、この機械部品の平均価格・・二七マルク・・は、それの価値に、すなわち、それにふくまれている労働に、ひとしいことになろう。しかし、この二七マルクのうち二一マルクは、わが機械工がその労働をはじめるまえにすでに存在していた価値であった。二〇マルクは原料にふくまれていたし、一マルクは作業中にたかれた石炭や、作業にあたって使用されてこの価値額だけその性能のへった機械や道具に、ふくまれていた。あと六マルクのこるが、これが原料の価値につけくわえられたものである。しかし、この六マルクは、わが経済学者自身の仮定によれば、わが労働者が原料につけくわえた労働からしか生ずることができない。したがって、彼の一二時間の労働は六マルクの新しい価値をつくりだしたのである。してみると、彼の一二時間の労働の価値は六マルクにひとしいことになろう。これでわれわれはついに、「労働の価値」とはなにかを発見したことになろう。
 「ちょっとまってくれ!」とわが機械工はさけぶ。「六マルクだって? だが、おれは三マルクしかうけとっていない! おれの資本家は、おれの一二時間の労働の価値は、三マルクにすぎないと、神かけて断言している。そしておれが六マルク要求しようものなら、彼はおれをわらいとばしてしまう。これはどうつじつまをあわせたらよいのか?」
 われわれはわが労働の価値について、さきにははてしない堂々めぐりにおちいったのだが、今度はいよいよ解くことのできない矛盾にはまりこんでしまった。われわれは労働の価値をさがしもとめて、自分が必要とする以上のものをみいだしたのである。一二時間の労働の価値は、労働者にとって三マルクであるが、資本家にとっては六マルクで、資本家はそのうち三マルクを賃金として労働者に支払い、三マルクを自分のポケットにねじこむ。してみると、労働は一つの価値でなく二つの価値を、おまけにひどくちがう価値をもっていることになる!
 貨幣に表現された価値を労働時間に還元してみると、この矛盾は、いっそうばかげたものになる。一二時間の労働によって六マルクの新しい価値がつくりだされる。したがって六時間では三マルクとなるが、これは労働者が一二時間の労働とひきかえにうけとる額である。労働者は、一二時間の労働とひきかえに、ひとしい対価として、六時間の労働の生産物をうけとる。したがって、労働は二つの価値をもっていて、その一方が他方の二倍の大きさであるのか、それとも一二と六がひとしいのか、どちらかである! どちらのばあいにも、まったくばかげたことになる。
 いくらもがきまわっても、われわれが労働の売買や労働の価値を論じているあいだは、われわれはこの矛盾からぬけだせない。そして、経済学者にとってもそうであった。古典経済学の最後の分枝であるリカードー学派は、おもに、この矛盾が解決不可能なことにつきあたって破綻した。古典経済学は袋小路にはいりこんでしまった。この袋小路から脱けだす路をみいだした人こそ、カール・マルクスであった。
 経済学者が「労働」の生産費だと考えてきたものは、労働の生産費ではなくて、生きた労働者そのものの生産費であった。そして、この労働者が資本家に売ったものは、彼の労働ではなかったのである。マルクスは言っている。「彼の労働が実際にはじまるときには、この労働はもうこの労働者のものではなくなっている。したがって、もはや彼がそれを売ることはできない。」だから、彼はせいぜい彼の将来の労働を売ることができるだけであろう。すなわち、一定時間だけ一定の労働給付をおこなうという義務をひきうけることができるだけであろう。だが、そうすることで、彼は労働を売るわけではなく(なぜなら、労働はこれからはじめてなされなければならないであろうから)、一定の支払いとひきかえに、一定時間だけ(時間払い賃金のばあい)または一定の労働給付をおこなうために(出来高払い賃金のばあい)、彼の労働力を資本家の自由にゆだねるのである。つまり、彼は、彼の労働力を賃貸し、または売るのである。しかし、この労働力は彼の体と合生しており、この身体からひきはなすことはできない。したがって、労働力の生産費は労働者の生産費と一致する。経済学者が労働の生産費と名づけたものは、ほかならぬ労働者の生産費のことであり、したがって労働力の生産費のことである。こうして、われわれはまた、労働力の生産費から労働力の価値にもどり、そして、マルクスが労働力の売買にかんする節でやったように(『資本論』、第一巻第四章第三節)〔国民文庫版、第二分冊、四二・五八ページ〕、一定の質の労働力の生産に必要な社会的必要労働の分量をきめることができるのである。
 さて、労働者が資本家に彼の労働力を売ったあとで、すなわち、あらかじめ約定された賃金・・時間払い賃金または出来高払い賃金・・とひきかえに彼の労働力を資本家の自由にゆだねたあとで、なにがおこるか? 資本家は労働者を自分の作業場または工場へつれていくが、そこにはすでに作業に必要ないっさいのもの、原料や、補助材料(石炭、染料等)や、道具や、機械が存在している。ここで労働者は汗水ながしてはたらきはじめる。彼の日給は、まえどおりに、三マルクだとしよう。・・このばあい、彼がそれを時間払い賃金の形でかせぐか出来高払い賃金の形でかせぐかは、どうでもよいことである。このばあいにもまた、労働者は一二時間のあいだに彼の労働によって六マルクの新しい価値を消耗された原料につけくわえるものと、仮定しよう。この新しい価値を資本家は完成品の販売にさいして実現する。資本家は、このうちから労働者にその取分の三マルクを支払うが、残りの三マルクは自分でとる。ところで、労働者が一二時間で六マルクの価値をつくりだすとすれば、六時間では三マルクの価値をつくりだす。だから彼は、資本家のために六時間はたらいたなら、賃金としてうけとった三マルクの対価はすでに資本家につぐなったわけである。六時間はたらいたあとでは、両方とも勘定ずみで、どちらも相手がたに一文の借りもない。
 「ちょっとまってくれ!」と今度は資本家がさけぶ。「おれは労働者をまる一日、一二時間だけやとったのだ。ところが、六時間では半日にしかならない。だから、もう六時間おわるまでつづいてせっせとはたらくのだ。・・そうしてはじめておれたちは勘定ずみになるのだ!」そして実際、労働者は、彼が「自由意志で」むすんだ契約、六労働時間を要する労働生産物とひきかえにまる一二時間はたらュ義務を彼に負わせている契約に、したがわなければならないのである。
 出来高払い賃金でも、まったく同じことである。わが労働者は一二時間に一二個の商品をつくるものと仮定しよう。そのおのおのが原料と磨損分とで二マルクかかり、二マルク半で売られるとする。そうすると、ほかの条件がまえどおりだとすれば、資本家は労働者に一個あたり二五ペニヒをあたえるであろう。すなわち、一二個では三マルクになり、労働者はそれをかせぐのに一二時間を要する。資本家は一二個にたいして三〇マルクうけとる。原料と磨損分とのための二四マルクをさしひくと六マルクのこるが、そのうちから彼は三マルクの賃金を支払い、三マルクをポケットにいれる。まえとまったく同じである。このばあいにも労働者は、六時間は自分のために、すなわち彼の賃金をうめあわせるために(一二時間の各一時間に半時間ずつ)はたらき、六時間は資本家のためにはたらく。
 「労働」の価値から出発したかぎり最良の経済学者をさえ挫折させた困難は、われわれが「労働」の価値の代りに「労働力」の価値から出発するやいなや消えてなくなる。労働力は、われわれの今日の資本主義社会では商品であり、商品だという点ではほかのどの商品ともかわりはないが、しかし、まったく特殊な商品である。すなわち、それは、価値を創造する力であるという、価値の源泉、しかも適当にとりあつかえばそれ自身のもっている価値より大きな価値の源泉になるという、特別の性質をもっている。今日の生産の水準のもとでは、人間の労働力は、一日のうちに、それ自身でもっており、それ自身についやされる価値より大きな価値を生産するだけではない。新しい科学的発見のなされるたびに、新しい技術的発明がなされるたびに、労働力の一日の費用にたいする労働力の一日の生産物のこの超過分はふえていき、したがって労働日のうち、労働者が彼の日給のうめあわせをはたらきだす部分がみじかくなり、したがって、他面では、労働日のうち、彼が代価の支払いをうけないで自分の労働を資本家に贈呈しなければならない部分が長くなる。
 そして、労働者階級だけがいっさいの価値を生産するということ、これが、今日のわれわれの全社会の経済制度である。というのは、価値とは、労働ということをべつのことばでいいあらわしたものにすぎず、今日のわれわれの資本主義社会で、一定の商品のうちにふくまれている社会的必要労働の分量をさすのにもちいられる表現にすぎないからである。しかし、労働者が生産したこれらの価値は、労働者のものではない。それらは、原料や機械や道具を所有し、かつ労働者階級の労働力を買う可能性をその所有者に与える前払い手段を所有する人のものである。だから、労働者階級は、自分の作りだした生産物の全量のうち、一部分を自分の分として返してもらうだけである。そして、残りの部分は資本家階級が自分の分としてとり、せいぜいなお地主階級とわければよいのであるが、われわれがたったいまみたように、この部分は新しい発明や発見がなされるたびに大きくなっていくのに、労働者階級のわりまえとなる部分は、(頭わりで計算すると)ごくゆっくりと、わずかばかり増加するだけであるか、あるいは全然増加せず、ばあいによっては減少さえしかねないのである。
 だが、ますます急速につぎつぎにとってかわっていくこれらの発明や発見、前代未聞の程度で日々にたかまっていく人間労働のこの生産性は、ついには一つの衝突をうみ、この衝突のなかで、今日の資本主義経済は没落せざるをえなくなる。一方には、はかりしれない富と、購買者につかいこなせないありあまった生産物がある。他方では、社会の膨大な大衆はプロレタリア化され、賃金労働者にかえられ、まさにその結果として、このありあまった生産物を手にいれる力をうしなっている。少数の、法外に富んだ階級と、多数の、無産の賃金労働者の階級とへ社会が分裂した結果、この社会はそれ自身のありあまった富のなかで窒息しているのに、この社会の大多数の成員は、ほとんどあるいはまったく保護されずに極度の欠乏におちいるままにまかされている。この状態は日ましにいよいよ不合理に、そして不必要になる。この状態はとりのぞかなければならないし、またとりのぞくことができる。一つの新しい社会制度が可能である。それは、今日の階級差別が消えうせており、・・おそらく、いくらか不足がちな、だがいずれにせよ道徳的にはなはだ有益な、短い過渡期を経て・・すでに存在している巨大な生産力を計画的に利用しさらに発展させることによって、すべての社会成員〔4〕が、平等の労働義務を負いながら、生活のため、生活享楽のため、いっさいの肉体的・精神的能力を発達させ発揮するための手段をも、平等に、ますますゆたかに利用できる、そういう社会制度である。そして、労働者がこういう新しい社会制度をたたかいとる決意をますますかためていることは、大洋の両側で、明五月一日と五月三日の日曜日〔5〕とが証明するであろう。

     ロンドン 一八九一年四月三〇日
                        フリードリヒ・エンゲルス

     一八九一年ベルリン発行のマルクスの著作
     『賃労働と資本』単行版のために執筆
     一八九一年版のテキストによる


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§ 賃労働と資本

☆  一

 われわれは、今日の階級闘争や民族闘争の物質的基礎をなしている経済的諸関係をこれまで述べなかったといって、いろいろの方面から非難をうけた。われわれは、わざと、これらの経済的関係には、それが政治的衝突のうちに直接に姿をあらわしてくるところでしか、ふれなかったのであった。
 これまではなによりも必要だったのは、日々の歴史のうちに階級闘争をあとづけ、すでにありあわせる歴史的材料や、日々あらたにつくりだされる歴史的材料にもとづいて、つぎのことを経験的に証明することであった。それは、二月革命と三月革命〔6〕をおこなった労働者階級が征服されると同時に、彼らの敵・・フランスではブルジョア共和主義者、ヨーロッパ大陸全体では封建的絶対主義とたたかっているブルジョア階級と農民階級・・も敗北したのだということ、フランスで「律儀(リチギ)な共和制」が勝利したことは、同時に、英雄的な独立戦争をもって二月革命にこたえた諸民族の没落であったということ、最後に、革命的労働者の敗北とともに、ヨーロッパはその古い二重の奴隷制に、すなわちイギリス的=ロシア的な奴隷制に逆もどりしたということである。パリの六月闘争、ウィーンの陥落、一八四八年一一月のベルリンの悲喜劇、ポーランド、イタリア、ハンガリアの必死の奮闘、アイルランドの飢饉のための屈服・・これらが、ヨーロッパにおけるブルジョアジーと労働者階級の階級闘争を総括する主要な諸契機であって、われわれはこれらにもとづいて、つぎのことを証明した。それは、どんな革命的反乱も、たとえその目標がどんなに階級闘争からかけはなれているようにみえようとも、革命的労働者階級が勝利するまでは、失敗するほかないということ、どんな社会改良も、プロレタリア革命と封建的反革命とが一つの世界戦争で勝敗を決するまでは、ユートピアにとどまるということである。われわれの叙述では、現実においてもそうであるが、ベルギーとスイスとは、一つはブルジョア的君主制の模範国として、もう一つはブルジョア的共和制の模範国として、大歴史画中の悲喜劇的な漫画的風俗画であった。どちらの国も、自分は階級闘争にもヨーロッパ革命にも同じようにかかわりがない、と想像しているのである。
 わが読者諸君は、一八四八年に階級闘争が巨大な政治的形態をとって発展するのをみてきたのであるから、ブルジョアジーの存立と彼らの階級支配との基礎をなしており、また労働者の奴隷状態の基礎ともなっている経済的諸関係そのものに、いまやくわしくたちいるべきときである。
 われわれはつぎの三つの大きな部分にわけて叙述しよう。(一)賃労働の資本にたいする関係、労働者の奴隷状態、資本家の支配。(二)今日の制度のもとでは、中間市民階級といわゆる農民部分の没落が避けられないこと。(三)世界市場の専制的支配者であるイギリスがヨーロッパのいろいろの民族のブルジョア階級を商業的に隷属させ搾取していること。
 われわれはできるだけ簡単に、わかりやすく述べるようにつとめ、読者は経済学のごく初歩的な概念さえもたないものと仮定してかかろう。われわれは、労働者にわかってもらいたいのである。それに、ドイツでは、官許の現状弁護論者から社会主義的な魔術師やみとめられない政治的天才・・細分したドイツには、こういった連中は君主の数よりまだ多いのだが・・にいたるまで、もっとも簡単な経済的諸関係にかんしてさえきわめてはなはだしい無知や概念の混乱がみなぎっているのである。
 そこで、まず第一の問題にとりかかろう。賃金とはなにか? それはどのようにしてきめられるか?
 もし労働者に、きみの賃金はいくらか? とたずねるなら、あるものは、「私は私のブルジョアから一労働日につき一マルクもらっている」とこたえ、また他のものは、「私は二マルクもらっている」などとこたえるであろう。彼らは、その所属する労働部門のことなるにしたがって、一定〔7〕の作業をはたしたことにたいし、たとえば一ヤードの亜麻布を織ったことや、一台(ボーゲン)分植字したことにたいして、彼らがそのときのブルジョアからうけとるいろいろちがった金額をあげるであろう。彼らのあげる数字がいろいろであるにもかかわらず、つぎの点では彼らはみな一致するであろう。それは、賃金とは、一定の労働時間、または一定の労働給付にたいして資本家が支払う貨幣額のことだ、ということである。
 だから、資本家は貨幣をもって労働者の労働を買い、労働者は貨幣とひきかえに資本家に自分たちの労働を売るようにみえる。しかし、これはそうみえるだけである。彼らが実際に貨幣とひきかえに資本家に売るのは、彼らの労働力である。この労働力を資本家は、一日、一週間、一ヵ月等々をかぎって買う。そして彼は、それを買ったあとでは、労働力を約束した期間はたらかせることによって、それを消費する。資本家は、労働者の労働力を買ったのと同じ金額、たとえば二マルクで、二ポンドの砂糖でも他のなにかの商品の一定量でも、買おうと思えば買えたのである。彼が二ポンドの砂糖を買った二マルクは、二マルクの砂糖の価格である。彼が一二時間分の労働力の使用を買った二マルクは、一二時間の労働の価格である。だから、労働力はまさしく砂糖と同じく一つの商品である。前者は時計ではかられ、後者は秤ではかられる。 労働者は、彼らの商品すなわち労働力を、資本家の商品すなわち貨幣と交換する。しかも、この交換は一定の割合でおこなわれる。これこれの時間だけ労働力を使用するのにたいしてこれこれの貨幣額というように。一二時間の機織(ハタオ)りにたいして二マルクというように。ところでこの二マルクだが、これは二マルクで買うことのできる他のあらゆる商品を代表してはいないであろうか? だから、労働者は、実際上、彼の商品すなわち労働力を、あらゆる種類の商品と、しかも一定の割合で交換したことになる。資本家は、労働者に彼の一日の労働と交換に二マルク与えることによって、これこれの量の肉、これこれの量の衣服、これこれの量の薪、燈火等々を与えたのである。だから、この二マルクは、労働力が他の諸商品と交換される割合を、すなわち彼の労働力の交換価値を、あらわしている。貨幣で評価されたある商品の交換価値こそ、商品の価格とよばれるものである。だから、賃金とは、労働力の価格・・ふつう労働の価格とよばれている・・にたいする、人間の血肉以外にはやどるべき場所のないこの独特の商品の価格にたいする特別の名まえにすぎないのである。
 だれでもよい、一人の労働者を、たとえば一人の織物工をとってみよう。資本家は彼に織機と糸を供給する。織物工は仕事にかかり、糸は亜麻布になる。資本家は亜麻布を自分のものにし、それをたとえば二〇マルクで売る。さて、織物工の賃金は、亜麻布にたいする、二〇マルクにたいする、彼の労働の生産物にたいする、わけまえであろうか? けっしてそうではない。亜麻布が売られるずっとまえに、おそらくはそれが織りあげられるずっとまえに、織物工は彼の賃金をうけとりずみである。だから、資本家はこの賃金を、亜麻布を売って得る貨幣で支払うのではなく、手持の貨幣で支払うのである。織物工がブルジョアから供給をうける織機や糸がこの織物工の生産物でないように、織物工が彼の商品すなわち労働力と交換にうけとる諸商品も、彼の生産物ではない。ブルジョアが自分の亜麻布に買手を一人もみつけられないということだって、ありうることだった。それを売ってもブルジョアが賃金さえ回収できないということだってありうることだった。彼がその亜麻布を織賃にくらべてはなはだ有利に売るということだって、ありうるのである。しかし、こうしたことヘみな織物工にはなんの関係もない。資本家は、彼の手持の財産の、彼の資本の一部をもって織物工の労働力を買うのであって、それは、資本家が彼の財産の他の一部をもって原料・・糸・・や労働用具・・織機・・を買ったのとまったく同じである。これらの仕入れをしたのちは、そしてこういう仕込品のなかには亜麻布の生産に必要な労働力もはいっているのであるが、彼はもっぱら自分のもちものである原料と労働用具をつかって生産するのである。実際、わが織物工君ももちろん労働用具のなかにはいるのであって、彼が生産物または生産物の価格のわけまえにあずからないことは、織機がそれにあずからないのと同様である。
 だから、賃金は、自分の生産した商品にたいする労働者のわけまえではない。賃金は、資本家が一定量の生産的労働力を買いとるのにもちいる既存の商品の一部である。 だから、労働力は、その所有者である賃金労働者が資本に売る一つの商品である。なぜ彼はそれを売るのか? 生きるためである。
 しかし、労働力をはたらかせること、すなわち労働は、労働者自身の生命活動であり、彼自身の生命の表現である。そして、この生命活動を、彼は、必要な生活資料を手にいれるために、他の人間に売るのである。だから、彼の生命活動は、彼にとっては、生存するための手段にすぎないのである。彼は生きるためにはたらく。彼は労働を彼の生活のなかにさえふくめない。労働はむしろ彼の生活を犠牲にすることである。それは、彼が他の人間にせり売りした一つの商品である。したがって、彼の活動の生産物も、彼の活動の目的ではない。彼が自分自身のために生産するものは、彼の織る絹布でもなく、彼が鉱山から掘り出す金(キン)でもなく、彼のたてる邸宅でもない。自分自身のために生産するものは、賃金である。そして、絹布や金や邸宅は、彼にとっては、一定量の生活資料に、おそらくは一枚の木綿の上衣、幾枚かの銅貨、地下室の住居に、かわってしまう。そして、一二時間のあいだ、織ったり、つむいだり、鑿坑したり、挽(ヒ)いたり、家をたてたり、シャベルですくったり、石をわったり、運搬したりなどする労働者・・この労働者は、この一二時間の機織り、紡績、鑿坑、挽き加工、建築、シャベル仕事、石割・・を、彼の生命の発現と、彼の生活と、みとめているであろうか? その逆である。生活は、彼にとっては、この活動のやむところで、食卓で、居酒屋の腰掛で、寝床で、はじまるのである。これに反して、一二時間の労働は、彼にとって、機織り、紡績、鑿坑等としてはなんの意味をもまったくもたず、彼を食卓につかせ、居酒屋の腰掛にかけさせ、寝床に横にならせるかせぎとして、意味をもっているのである。もし蚕が幼虫としての生命をつないでいくためにつむぐのであったら、それは、一個の完全な賃金労働者であったろう。労働力はいつでも商品であったわけではない。労働はいつでも賃労働、すなわち自由労働であったわけではない。奴隷は彼の労働力を奴隷所有者に売ったのではない。それは、牛が自分の働きを農民に売らないのと同じである。奴隷は、その労働力もろとも、彼の所有者に売りきりにされる。彼は、一人の所有者の手から他の所有者の手に移転することのできる商品である。彼自身が商品なのであって、労働力が彼の商品なのではない。農奴は、彼の労働力の一部だけを売る。彼が土地所有者から賃金をうけとるのではなく、むしろ土地所有者が彼から貢物をうけとるのである。
 農奴は土地に付属し、土地の持主のために収益をうみだす。これに反して、自由な労働者は自分自身を売る、しかも切売りする。彼は彼の生命の八時間、一〇時間、一二時間、一五時間を、きょうもあすも、いちばん高い値をつける人に、原料、労働用具、生活資料の所有者すなわち資本家に、せり売りする。労働者は所有者のもちものでも土地に付属するものでもないが、彼の毎日の生命の八時間、一〇時間、一二時間、一五時間は、それを買う人のものである。労働者は、そうしたいときにはいつでも、自分のやとわれている資本家のところを去るし、資本家もまた、つごうしだいでいつでも、労働者からもはやなんの利益もひきだせないか、または予期した利益がひきだせなくなるやいなや、労働者を解雇する。しかし、労働力の販売を唯一の生計の源泉とする労働者は、生きることを断念しないかぎり、買手の階級全体すなわち資本家階級をすてることはできない。彼は、あれこれの資本家のもちものではないが、資本家階級のもちものである。しかもそのさい、自分を売りつけること、すなわち、この資本家階級のなかに一人の買手をみつけることは、彼が自分でやらなければならない仕事なのである。
 いま資本と賃労働の関係にいっそうくわしくたちいるまえに、われわれは、賃金の決定のさいに問題となってくるもっとも一般的な関係を簡単に述べよう。
 賃金は、われわれがみたとおり、労働力という特定の商品の価格である。したがって、賃金も、ほかのいっさいの商品の価格をきめる法則と同一の法則によってきめられる。そこで、つぎの問題がおこる。商品の価格はヌのようにしてきめられるか?


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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
http://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/AkamacHomePage/DVProject/DVProjectJ.html
http://www5.big.or.jp/~jinmink/TAMO2/DT/index.html

☆  二

 商品の価格はなにによってきめられるか?
 買手と売手のあいだの競争によって、需要と供給、欲求と提供の関係によってきめられる。商品の価格をきめるこの競争には三つの方面がある。
 同じ商品をいろいろの売手が供給する。同じ品質の商品をいちばん安く売るものが、まちがいなく、他の売手を戦場から駆逐し、最大の販路を確保する。だから、売手たちはたがいに販路、市場をあらそう。彼らのだれもが売りたいのだし、できるだけたくさん売りたいのだし、できれば他の売手をしめだして自分ひとりでうりたいのである。そこで、あるものは他のものよりも安く売る。そこで、売手のあいだに競争がおこり、この競争が彼らの提供する商品の価格をおしさげる。
 しかし、買手のあいだにも競争がおこり、この競争が、今度は、提供された商品の価格をひきあげる。
 最後に、買手と売手のあいだに競争がおこる。一方はできるだけ安く買おうとし、他方はできるだけ高く売ろうとする。買手と売手のあいだのこの競争の結果は、まえにあげた二つの方面における競争がどういう関係にあるかに、すなわち買手軍のあいだの競争と売手軍のあいだの競争とのどちらがつよいかによってきまるであろう。産業はこの二つの軍勢を戦場で対陣させるが、そのおのおのの軍勢がまた味方の陣のなかで味方の部隊同士でたたかう。味方の部隊の同士打ちがいちばん少ない軍勢が相手方に勝つのである。
 市場に一〇〇梱の綿花があり、それと同時に一〇〇〇梱の綿花にたいする買手があるものと仮定しよう。つまり、このばあいには、需要は供給の一〇倍である。だから、買手のあいだの競争は非常に激しいであろうし、どの買手も一梱を、できれば一〇〇梱全部を、手にいれようとする。この例は、なにもかってに仮定したものではない。われわれは商業の歴史上にいくたびか綿花の凶作期をみてきたが、そういうときには、あいむすんだ幾人かの資本家が、一〇〇梱どころか、世界の綿花の在荷全部を買占めようとしたものである。そこで、ここに述べたばあいには、ある買手は、綿花の梱にたいして比較的高い値段をつけることで、他の買手を戦場から駆逐しようとする。綿花の売手たちは、敵軍の部隊が猛烈な仲間争いをしているのをみているし、また彼らの一〇〇梱全部の売れ口がまったく保証されているので、彼らの敵がたがいにあらそって綿花の価格を買いあおっているさいに、自分たちが仲間同士つかみあいをはじめて綿花の価格をひきさげたりしないように、用心するであろう。こうして突然、売手の軍勢内に平和がおとずれる。彼らは、一致結束して買手に応待し、泰然と腕ぐみしている。そして、もしいちばん熱心な買手のつける値にさえきわめてはっきりした限度があるのでなかったら、売手の要求はとどまるところがないであろう。
 だから、ある商品の供給がその商品にたいする需要より少ないときは、売手のあいだにはわずかな競争しかおこらないか、あるいはまったく競争がおこらない。この競争が減少するのに比例して、買手のあいだの競争が増大する。その結果、商品の価格は多かれすくなかれいちじるしくあがる。
 これと反対の結果をともなう反対のばあいのほうがもっとひんぱんにおこることは、人の知るところである。需要にたいして供給がいちじるしく過剰となる。売手のあいだに必死の競争がおこる。買手が不足する。商品は捨て値で投売りされる。
 だが、価格があがる、さがるとは、どういうことか、高い価格、低い価格とはどういうことか? 一粒の砂も顕微鏡でみれば高いし、一基の塔も山とくらべれば低い。また、価格が需要・供給の関係できまるとすれば、需要・供給の関係はなにによってきまるのか?
 だれでもよい、そこらのブルジョアにきいてみよう。彼はすこしも思案せず、アレクサンドロス大王のうまれかわりでもあるかのように、九々の表をつかってこの形而上学的な難問を一刀両断に解決するであろう。彼はわれわれにむかって言うであろう。もし私が自分の売る商品を生産するのに一〇〇マルクかけ、その商品を売って一一〇マルクを得る・・もちろん一年後に・・なら、それはふつうの、まともな、正当なもうけである。これに反し、もしそれと交換に一二〇マルク、一三〇マルクをうけとるとすれば、それは高いもうけである。もしまた二〇〇マルクも得るとすれば、それは、法外な、莫大なもうけというものであろう、と。してみると、このブルジョアにはなにがもうけの尺度になっているのか? それは、彼の商品の生産費である。もしこの商品と交換に彼がうけとる他の商品のある量が、もっと少ない生産費しかかからなかったものとすれば、彼は損をしたのである。もし彼の商品と交換にうけとる他の商品のある量が、もっと多くの生産費のかかったものとすれば、彼はとくをしたのである。そしてもうけの上がり下がりを、彼は、彼の商品の交換価値がどれだけゼロ・・生産費・・の上または下にあるかの程度によって計算するのである。
 さて、われわれがみたとおり、需要・供給の関係がかわるにしたがって、価格があるいはあがり、あるいはさがる。すなわち、あるいは高い価格が生じ、あるいは低い価格が生じる。もしある商品の価格が、供給が不足なためあるいは需要が不釣合に増加したためにいちじるしくあがるなら、かならずなにか他の商品の価格が相対的にさがったことになる。というのは、ある商品の価格とは、それと交換に他の諸商品があたえられる割合を貨幣で表現したものにすぎないからである。たとえば、一ヤールの絹布の価格が五マルクから六マルクにあがるとすれば、銀の価格〔8〕は絹布にくらべてさがったことになり、同様にまた、もとの価格のままでいる他のすべての商品の価格も絹布にくらべてさがったことになる。まえと同じ分量の絹製品を手にいれるのに、いまではそれと交換にこれらの商品をまえより多い分量であたえなければならない。ある商品の価格があがった結果はどういうことになるか? 多量の資本がこのさかえている産業部門にながれこんでくるであろう。そして、好況産業の分野への資本のこうした流入は、その産業がふつうのもうけしかあげないようになるまで、あるいはむしろ、その産業の生産物の価格が過剰カ産のため生産費以下に下落するまで、つづくであろう。
 逆のばあい。ある商品の価格がその生産費以下にさがるなら、資本はこの商品の生産からひきあげられるであろう。ある産業部門がもう時勢にあわなくなっており、したがってほろびるほかないばあいをのぞいては、資本がこうして逃避する結果、このような商品の生産すなわちその供給は減少していき、供給が需要と一致するようになるまで、従って商品の価格がふたたびその生産費の高さに上がるまで、あるいはむしろ、供給が需要以下にへるまで、つまりその価格がふたたびその生産費以上にあがるまで、ひきつづいて減少するであろう。というのは、商品の時価はいつでもその生産費の上か下かにあるものだからである。
 これでわかるように、資本はたえずある産業の分野から他の産業の分野へながれこみ、ながれでる。価格が高いと、過度の流入がおこり、価格が低いと、過度の流出がおこる。
 べつの観点から、供給ばかりでなく需要も生産費によってきまることを、あきらかにすることもできよう。けれどもそうするのは、われわれの対象からはなれすぎることになるであろう。
 われわれがたったいまみたように、供給と需要の変動は、商品の価格をたえずくりかえし生産費にひきもどす。なるほど、商品の現実の価格はつねにその生産費の上か下かにあるが、騰貴と下落は相殺されるので、一定期間について産業の満干を通算すれば、各商品は、その生産費に応じてたがいに交換される。だから、商品の価格はその生産費によってきめられるのである。
 ここに価格は生産費によってきめられるといっても、それを経済学者のいう意味にとってはならない。経済学者は言う。商品の平均価格は生産費にひとしい、これが法則である、と。騰貴が下落で、また下落が騰貴で相殺される無政府的な運動を、彼らは偶然のものとみなしている。だが、それなら、変動を法則とみなし、生産費による決定を偶然のものとみなしても、いっこうさしつかえないわけである。・・事実、べつの経済学者はそうしている。しかし、ほかならぬこの変動、すなわち、くわしく観察すれば、このうえなくおそろしい荒廃をともなっており、地震のようにブルジョア社会の基礎をゆりうごかしている、この変動だけが、その経過を通じて、価格を生産費によってきめるのである。こういう無秩序の総運動が、この社会の秩序となっているのである。この産業的無政府状態の経過を通じて、この循環運動のうちで、競争がいわば一方の行きすぎを他方の行きすぎによって相殺するのである。
 これを要するに、ある商品の価格がその生産費によってきめられるのは、この商品の価格が生産費以上に上がる時期が、それが生産費以下にさがる時期によって相殺され、またその逆のばあいは逆に相殺されるというようにしておこなわれるのである。これは、もちろん、ある個々の産業生産物についてではなくて、その産業部門全体についてしか言えないことである。したがって、これはまた個々の産業家についてではなくて、産業家階級全体についてしか言えないことである。
 価格が生産費によってきめられるということは、価格がある商品を生産するのに必要な労働時間によってきめられるということにひとしい。というのは、生産費は、(一)原料と用具の磨損分、すなわち、それを生産するのにある量の労働日がついやされており、したがってある量の労働時間をあらわしている産業生産物、(二)まさに時間を尺度とする直接の労働、からなっているからである。
 さて、一般に商品価格を規制しているのと同じ一般的な法則が、もちろん、賃金すなわち労働の価格をも規制している。
 労働賃金は、需要・供給の関係に応じて、労働力の買手である資本家と労働力の売手である労働者とのあいだの競争の成りゆきに応じて、あるいはあがり、あるいはさがるであろう。一般に商品価格が変動するのに応じて、賃金も変動する。しかし、この変動の内部では、労働の価格は生産費によって、つまり、この労働力という商品を生産するのに必要な労働時間によって、きめられるであろう。
 では、労働力の生産費とはなにか?
 それは、労働者を労働者として維持するために、また労働者を労働者にそだてあげるために、必要な費用である。
 したがって、ある労働に必要な養成期間が短ければ短いほど、その労働者の生産費はますますすくなく、彼の労働の価格、すなわち彼の賃金はそれだけ低い。見習期間がほとんどまったく必要でなく、労働者の生(ナマ)身さえあればたりるような産業部門では、彼を生産するのに必要な生産費は、彼を労働能力あるものとして生かしておくのに必要な商品だけにほとんどかぎられる。だから、彼の労働の価格は、生活必需品の価格によってきめられるであろう。
 しかし、これにくわえてもう一つ考えなければならないことがある。工場主は、彼の生産費を計算し、それにもとづいて生産物の価格を計算するにあたっては、労働用具の消耗をも勘定にいれる。たとえば、ある機械に一〇〇〇マルクかかり、そしてこの機械が一〇年間に消耗してしまうとすれば、彼は、一〇年後に消耗した機械を新しい機械ととりかえることのできるよう、年々一〇〇マルクを商品の価格に割りかける。これと同じように、単純な労働力の生産費にも、労働者の種属が繁殖して、消耗された労働者を新しい労働者にとりかえることのできるようにするための、繁殖費をくわえなければならない。つまり、労働者の磨損も機械の磨損と同じように勘定にいれられるのである。
 だから、単純な労働力の生産費は、労働者の生存費と繁殖費ということになる。この生存費と繁殖費との価格が、賃金を形づくる。こうしてきめられた賃金は、最低賃金とよばれる。この最低賃金も、一般に生産費によって商品の価格がきめられるばあいと同じに、個々の個人についてではなく、〔労働者という〕種属について言えることである。個々の労働者は、幾百万の労働者は、生きて繁殖していくのに十分なだけもらってはいない。しかし、労働者階級全体の賃金は、その変動の内部で平均化されて、この最低限に一致する。
 以上で、賃金をも、その他のあらゆる商品の価格をも同様に規制しているもっとも一般的な法則がわかったので、われわれは、われわれの主題にもっとくわしくたちいることができる。


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☆  三

 資本は、新しい原料、新しい労働用具、新しい生活資料を生産するためにつかわれる、あらゆる種類の原料と労働用具と生活資料からなりたっている。資本のこれらの構成部分はみな、労働の創造物であり、労働の生産物であり、蓄積された労働である。新しい生産のための手段として役だつ蓄積された労働が、資本である。
 こう経済学者は言う。
 黒人奴隷とはなにか? 黒色人種の人間である。右の説明はこういう説明とおっつかっつのものである。
 黒人は黒人である。一定の諸関係のもとで、はじめて彼は奴隷となる。紡績機械は紡績するための機械である。一定の諸関係のもとでのみ、それは資本となる。これらの関係からひきはなされたら、それは資本ではない。そのことは、金(キン)がそれ自体としては貨幣ではなく、また、砂糖が砂糖価格でないのと同じである。
 生産のさいに、人間は、自然にはたらきかけるばかりでなく、またたがいにはたらきかけあう。彼らは、一定の仕方で共同して活動し、その活動をたがいに交換するということによってのみ、生産するのである。生産するために、彼らはたがいに一定の連絡や関係をむすぶが、これらの社会的連絡や関係の内部でのみ、自然にたいする彼らのはたらきかけがおこなわれ、生産がおこなわれるのである。
 もちろん、生産者がたがいにむすぶこれらの社会関係、彼らがその活動を交換し、生産行為の総体に参加する諸条件は、生産手段の性格がどうであるかに応じて、ちがったものとなるであろう。火器という新兵器が発見されるとともに、必然的に、軍隊の内部組織全体が変化し、諸個人が軍隊を形づくり、軍隊として作用しうる諸関係が変動し、種々の軍隊のあいだの関係も変化した。
 だから、個々人がそのうちで生産する社会関係、すなわち社会的生産関係は、物質的生産手段、生産力が変化し発展するのにつれて、変化し変動する。生産関係は、その総体において、社会関係、社会とよばれるものを、しかも一定の歴史的発展段階における社会、独特の、特色ある性格をもった社会を、形づくる。古代社会、封建社会、ブルジョア社会は、そういう生産関係の総体であって、それと同時に、それぞれ人類の歴史上の特殊な発展段階をあらわしているのである。
 資本もまた一つの社会的生産関係である。それは一つのブルジョア的生産関係であり、ブルジョア社会の一生産関係である。資本を構成する生活資料、労働用具、原料、それらは、一定の社会的諸条件のもとで、一定の社会関係のうちで生産され、蓄積されたものではないのか? これらのものは、一定の社会的諸条件のもとで、一定の社会関係のうちで、新しい生産に使用されるのではないのか? そして、ほかならぬこの一定の社会的性格こそ、新しい生産に役だついろいろの生産物を資本にするのではないのか?
 資本は、生活資料、労働用具、原料だけ、物質的生産物だけから構成されているのではない。資本は同じように交換価値からも構成されている。資本を構成するいろいろの生産物はみな商品である。だから、資本はいろいろな物質的生産物の一総和であるだけではない。それは、いろいろな商品の、交換価値の、社会的量の、一総和である。
 たとえ羊毛を木綿におきかえ、小麦を米におきかえ、鉄道を汽船におきかえても、その木綿、米、汽船・・資本の体(カラダ)・・が、まえに資本を体現していた羊毛、小麦、鉄道と同じ交換価値、同じ価格をもってさえいれば、資本はやはりもとのままである。資本の体はたえず形をかえても、資本はすこしも変化をこうむらずにもいられるのである。
 しかし、およそ資本はみな、商品すなわち交換価値の一総和であるとしても、商品の、交換価値の一総和なら、どれでもみな、資本だということにはならない。
 およそいくたの交換価値の一総和はみな、一つの交換価値である。およそ一つの交換価値はみな、いくたの交換価値の一総和である。たとえば、一〇〇〇マルクの価値の一戸の家は、一〇〇〇マルクの額の一つの交換価値である。一ペニヒの価値の一枚の紙は、一〇〇分の一ペニヒを一〇〇個あわせた額の、諸交換価値の一総和である。他のいろいろの生産物と交換できる生産物が商品である。これらの生産物をたがいに交換できる一定の比率は、それらのものの交換価値、あるいは、貨幣であらわせば、その価格を形成する。これらの生産物の量の大小は、商品であるとか、一つの交換価値であるとか、一定の価格をもっているとかいう、これらの生産物の性質をすこしもかえることはできない。木は大きくても小さくても、やはり木である。鉄を他の生産物と交換するのに、オンス単位でしようと、トン単位でしようと、商品であり交換価値であるという鉄の性格にかわりがあろうか? 量の大小にしたがってあるいは大きな価値の、あるいは小さな価値の商品であり、あるいは高い価格の、あるいは低い価格の商品であるだけである。
 では、どのようにして、諸商品の、諸交換価値の一総和が資本となるのか?
 それが直接の生きた労働力との交換を通じて、独自の社会的力として、すなわち社会の一部の者の力としてみずからを維持し、ふやすことによってである。労働能力のほかにはなにももたない一つの階級が存在していることが資本の必要な前提である。
 直接の生きた労働を蓄積された、過去の、対象化された労働が支配することが、はじめて、蓄積された労働を資本とするのである。
 資本の本質は、蓄積された労働が生きた労働のために新しい生産の手段として役だつという点にあるのではない。それは、生きた労働が蓄積された労働のためにそれの交換価値を維持しふやす手段として役だつという点にあるのである。
 資本家と賃金労働者とのあいだの交換では、どういうことがおこるか?
 労働者は、彼の労働力と交換に生活資料をうけとるが、資本家は彼の生活資料と交換に労働を、労働者の生産的活動を、創造力をうけとる。そして、労働者は、この力によって、彼の消費するものをうめあわせるばかりでなく、蓄積された労働にたいして、それがまえにもっていたよりも大きな価値をあたえるのである。労働者は、資本家のもちあわせている生活資料の一部をうけとる。これらの生活資料は、労働者にとってなんの役にたつか? 直接の消費の役にたつ。しかし、私が生活資料を消費するやいなや、それは私の手からうしなわれて、もうかえってこない。もっとも、私は、この生活資料が私を生かしてくれる期間を利用して、新しい生活資料を生産するのではあるが、すなわち、それを消費しているあいだに、私の労働によって、消費されてなくなる価値のかわりに新しい価値をつくりだすのではあるが。しかし、ほかならぬこの貴重な再生産力を、労働者は、うけとった生活資料と交換に資本にゆずりわたしてしまうのである。だから、労働者は、彼自身からみれば、この力をうしなってしまったわけである。
 一つの例をとろう。ある農業企業家が彼の日雇人に、毎日銀貨五グロシェンをあたえるとする。この銀貨五グロシェンとひきかえに日雇人は、終日農業企業家の畑ではたらき、こうして農業企業家に銀貨一〇グロシェンの収入を保証する。農業企業家は、彼が日雇人にゆずりわたさなければならない価値のうめあわせを得るばかりではない。彼はそれを二倍にするのである。だから、彼は、彼が日雇人にあたえた銀貨五グロシェンを、みのりある生産的な仕方で使用し消費したわけである。彼は、まさに、二倍の価値のある土地生産物を生産して銀貨五グロシェンを銀貨一〇グロシェンにする日雇人の労働と力を、銀貨五グロシェンで買ったのである。これに反して日雇人は、彼の生産力の働きをほかならぬこの農業企業家にゆずりわたして、この生産力のかわりに銀貨五グロシェンをうけとるのであるが、彼はこの銀貨五グロシェンを生活資料と交換し、その生活資料をおそかれはやかれ消費してしまう。だから、この銀貨五グロシェンは二とおりの仕方で消費されたわけである。すなわち、資本にとっては再生産的に・・というのは、それは銀貨一〇グロシェンを生み出した労働力〔9〕と交換されたのであるから・・消費され、また、労働者にとっては不生産的に・・というのは、それは生活資料と交換されたのであるが、この生活資料は永久に消滅しており、労働者は農業企業家とのあいだに同じ交換をくりかえすことによってしか、その価値をふたたびうけとることができないのであるから・・消費されたのである。こうして、資本は賃労働を前提し、賃労働は資本を前提する。両者はたがいに制約しあう。両者はたがいにうみだしあう。
 ある綿布工場の一労働者をとってみよう。この労働者は綿布を生産するだけであるか? いな、彼は資本を生産する。すなわち、あたらしく彼の労働を支配し、この労働を手段として新しい価値をつくりだすのに役だつ価値を、生産するのである。
 資本は、労働力と交換されることによってしか、賃労働をうみだすことによってしか、ふえることができない。賃金労働者の労働力は、資本をふやすことによってしか、自分を奴隷としているその力をつよめることによってしか、資本と交換されることができない。だから、資本がふえるのは、プロレタリアートが、すなわち労働者階級がふえることである。
 それだから資本家と労働者との利害は同一なのだ、とブルジョアやその経済学者は主張する。実際そうだ! 労働者は、資本がやとってくれなければ破滅してしまう。資本は、労働力を搾取しなければ破滅するし、労働力を搾取するには、資本はこの労働力を買わなければならない。生産にあてられる資本、すなわち生産的資本が急速にふえればふえるほど、したがって産業が繁栄すればするほど、ブルジョアジーが富めば富むほど、景気がよくなればなるほど、資本家にはそれだけ多くの労働者が必要となり、労働者はそれだけ高く売れていく。
 だから、労働者がどうやらしんぼうできる状態をたもつのに欠くことのできない条件は、生産的資本ができるだけ急速に増大することである。
 だが、生産的資本が増大するとはどういうことか? 生きた労働を支配する蓄積された労働の力が増大することである。労働者階級にたいするブルジョアジーの支配が増大することである。賃労働が、自分を支配する他人の富を、自分に敵対的な力である資本を生産するというと、この敵対的な力から、賃労働を雇用する手段、すなわち生活資料が還流してくる。ただし、賃労働がふたたび資本の一部となり、ふたたび資本を加速度的な増大運動になげいれる槓杆(テコ)になるということを条件として。
 資本の利害と労働者の利害とが同一であるというのは、資本と賃労働とが同じ一つの関係の二つの側面だ、ということにすぎない。この両者がたがいに制約しあっているのは高利貸と浪費者とがたがいに制約しあっているのと同じである。
 賃金労働者が賃金労働者であるかぎりは、彼の運命は資本に依存している。さかんにはやしたてられている労働者と資本家の利害の共通というのは、こういうことなのである。


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☆  四

 資本が増大すれば、賃労働の量が増大し、賃金労働者の数が増大する。一言で言えば、資本の支配がさらに多くの個人のうえにひろがっていく。そして、もっとも有利なばあいを仮定すると、生産的資本が増大すれば、労働にたいする需要が増大し、したがって、労働の価格すなわち賃金があがる。
 家は大きくても小さくても、そのまわりの家も同じように小さければ、その家は住居にたいするいっさいの社会的要求をみたす。しかし、その小さい家とならんで邸宅がたてられると、その小さい家はあばら家にちぢんでしまう。そうなると、その小さい家は、その住み手がなにも要求する権利がないか、ごくわずかしか要求する権利がないことを、証明する。そして、文明のすすむにつれて、その家がどんなに高くなっていこうと、隣の邸宅が同じ程度に、あるいはそれ以上にさえ高くなるなら、比較的に小さい家の住み手は、わが家のうちで、ますます不快に、不満に、せせこましく感じるであろう。
 賃金がめだってふえるためには、生産的資本が急速に増大することが前提される。生産的資本が急速に増大すれば、その結果、富や、ぜいたくや、社会的欲望や、社会的享楽も同じように急速に増大する。だから、労働者の享楽がたかまったにもかかわらず、労働者には手のとどかない資本家の享楽の増大にくらべれば、また全体としての社会の発展水準にくらべれば、それがあたえる社会的満足はすくなくなったのである。われわれの欲望や享楽は社会からうまれる。だから、われわれは、欲望や享楽を、社会を標準としてはかる。われわれはこれらを、それを充足させる物を標準としてははからない。欲望や享楽は社会的なものであるから、それらは相対的なものなのである。
 一般的に言って、賃金は、それと交換に得られるいろいろの商品の量だけで、きめられるわけではない。それは、いろいろの関係をふくんでいるのである。
 労働者がまず彼らの労働力と交換にうけとるものは、一定額の貨幣である。賃金はこの貨幣価格だけによってきめられるのであるか?
 一六世紀には、アメリカでいっそう豊富な、採掘の容易な鉱山が発見された結果、ヨーロッパで流通する金銀がふえた。したがって、金銀の価値は、他の諸商品にくらべてさがった。労働者は、彼の労働力にたいしてひきつづきそれまどと同じ量の銀貨をうけとった。彼らの労働の貨幣価格はまえと同じであったが、それにもかかわらず、彼らの賃金はさがった。なぜなら、彼らが同じ分量の銀と交換にうけとる他の諸商品の総和は、まえよりすくなくなったからである。これこそ、一六世紀に資本の増大、ブルジョアジーの勃興をうながした事情の一つであった。
 もう一つべつのばあいをとってみよう。一八四七年の冬には、凶作の結果、もっともなくてならない生活資料である穀物、肉、バター、チーズなどの価格が非常にあがった。労働者が彼らの労働力にたいしてこれまでと同じ額の貨幣をうけとったものと仮定しよう。彼らの賃金はさがったのではなかろうか? もちろんさがったのだ。同じ貨幣と交換に彼らのうけとったパン、肉などは、まえよりすくなかった。彼らの賃金がさがったのは、銀の価値が減少したからではなくて、生活資料の価値が増大したからであった。
 最後に、労働の貨幣価格はもとのままなのに、新しい機械の使用、豊作等の結果として農産物と工業製品の価格がみなさがったと仮定しよう。そうなると、労働者は同じ貨幣であらゆる種類の商品をまえより多く買えるようになる。だから、彼らの賃金はあがったのであるが、それはまさに、彼らの賃金の貨幣価値がかわらなかったからである。
 だから、労働の貨幣価格、すなわち名目賃金は、実質賃金とは、すなわち実際に賃金と交換に得られる諸商品の総和とは、一致しない。だから、賃金のあがりさがりをいうばあいには、われわれは、労働の貨幣価格、すなわち名目賃金だけを眼中においてはならない。
 しかし、名目賃金、すなわち労働者がそれとひきかえに資本家に自分自身を売る貨幣額によっても、実質賃金、すなわちこの貨幣とひきかえに買うことのできる諸商品の総和によっても、賃金のなかにふくまれているいろいろの関係はまだつくされない。 賃金は、さらに、なによりも、資本家のもうけ、利潤にたいする賃金の割合で、きめられる。・・これは、比較的な、相対的な賃金である。
 実質賃金は、他の諸商品の価格とくらべた労働の価格をあらわしているが、これに反して相対的賃金は、直接の労働によってあらたしく生産された価値のうち、蓄積された労働すなわち資本のものとなるわけまえにくらべての、直接の労働のわけまえをあらわしている。
 われわれはまえに一四ページ〔本書三〇ページ〕でこう述べた。「賃金は、自分の生産した商品にたいする労働者のわけまえではない。賃金は、資本家が一定量の生産的労働力を買いとるのにもちいる既存の商品の一部である。」しかし、資本家はこの賃金を、労働者によって生産された生産物を売った代価のなかから、うめあわせをしなければならない。それをうめあわせても、ふつうはなおあとに、彼の投下した生産費をこえてある超過分、すなわち利潤がのこるような仕方で、うめあわせなければならない。労働者の生産した商品の販売価格は、資本家にとっては三つの部分にわかれる。第一には、彼が前払いした原料の価格のうめあわせ、およびやはり彼が前払いした道具、機械その他の労働手段の磨損分のうめあわせ、第二には、彼が前払いした賃金のうめあわせ、第三には、以上のものをこえた超過分である資本家の利潤。この第一の部分がまえからあった価値を回収するにすぎないのに反して、賃金のうめあわせも、超過分たる資本家の利潤も、だいたいにおいて、労働者の労働によってつくりだされ、原料につけくわえられた新しい価値から得られることはあきらかである。そしてこの意味では、賃金と利潤を相互にくらべるために、この両方を労働者の生産物にたいするわけまえとみなすことができる。
 実質賃金がもとのままであっても、またあがってさえも、相対的賃金は、それにもかかわらずさがることもありうる。たとえば、あらゆる生活資料の価格が三分の二だけ下落したのに、一日の賃金は三分の一だけ、つまり、たとえば三マルクから二マルクに、下落するものと仮定しよう。労働者はこの二マルクで以前に三マルクで手にはいったよりも多量の商品を手にいれられるけれども、彼の賃金は資本家のもうけとくらべればへったのである。資本家(たとえば工場主)の利潤は、一マルクだけふえた。すなわち、資本家が労働者に支払う交換価値はまえより少量となったのに、労働者は、それとひきかえに、まえより多量の交換価値を生産しなければならない。労働のわけまえにくらべて資本のわけまえは増大した。資本と労働とのあいだの社会的富の分配は、さらに不平等になった。資本家は、同じ資本でまえより多量の労働を支配する。労働者階級を支配する資本家階級の力は大きくなり、労働者の社会的地位は悪化し、さらに一段と低く資本家の社会的地位の下におしさげられたのである。
 では、賃金と利潤の相互関係において、そのあがりさがりをきめる一般法則はどういうものか?
 賃金と利潤は、反比例する。資本のわけまえである利潤は、労働のわけまえである一日の賃金がさがるのに比例してあがり、またその逆のばあいは逆である。利潤は、賃金がさがっただけあがり、賃金があがっただけさがる。
 おそらく、つぎのように言って異論をとなえるものがあるであろう。資本家は、彼の生産物を他の資本家たちと有利に交換することによってもうけることもできるし、また、新しい市場が開拓された結果としてであれ、古い市場における需要が一時的にふヲたことなどの結果としてであれ、彼の商品にたいする需要が増大したためにもうけることもありうる。つまり、資本家の利潤は、賃金すなわち労働力の交換価値のあがりさがりとはかかわりなく、べつの資本家たちをぺてんにかけることによって、ふえることもありうる。あるいはまた、資本家の利潤は、労働用具の改善や、自然力の新しい応用等によってあがることもありうる、と。
 まず第一に、これは、逆の道をとおってではあるが、やはり同じ結果に達したものであることを、みとめなければならないであろう。なるほど、賃金がさがったから利潤があがったのではないが、利潤があがったから賃金がさがったのである。資本家は、同じ量の他人の労働で、まえより多量の交換価値を買いとったが、それだからといって労働にまえより多く支払いはしなかった。だから、それが資本家にあたえる純益にくらべて、労働にたいする支払いは低くなったのである。
 そのうえ、商品価格は変動するにもかかわらず、各商品の平均価格、それが他のいろいろの商品と交換される割合は、その生産費によってきまっていることに、注意をうながそう。だから、資本家階級の内部におけるぺてんは、かならずや相殺される。機械が改良されたり、自然力があたらしく生産に応用されれば、一定の労働時間内に、同じ量の労働と資本とでまえより多量の生産物をつくりだすことはできるようになるが、まえより多量の交換価値をつくりだすことはけっしてできない。私が紡績機械を使用することによって、一時間のうちに、この機械が発明される以前にくらべて二倍の糸を、たとえば五〇ポンドのかわりに一〇〇ポンドを、供給できるとしても、私はこの一〇〇ポンドと交換に、結局は、以前五〇ポンドと交換にうけとっていた以上の商品をうけとりはしない。それは生産費が半分にさがったからである。いいかえれば、同じ費用で二倍の生産物を供給することができるようになったからである。
 最後に、一国についてみても、また全世界市場についてみても、資本家階級すなわちブルジョアジーが生産の純益をどんな割合で自分たちのあいだに分配しようとも、この純益の総量はいつでも、だいたいにおいて、蓄積された労働が直接の労働によってふやされた量に過ぎない。したがって、この総量は、労働が資本をふやすのに比例して、すなわち利潤が賃金にくらべてあがるのに比例して、増大する。
 これでわかるように、われわれが資本と賃労働の関係の範囲内にとどまるばあいにさえ、資本の利害と賃労働の利害とはまっこうから対立するのである。
 資本が急速に増大するのは、利潤が急速に増大するのと同じことである。利潤が急速に増大できるのは、労働の価格が、相対的賃金が、同じように急速に減少するばあいだけである。実質賃金が、名目賃金すなわち労働の貨幣価格と同時にあがっても、利潤に比例してあがらないなら、相対的賃金はさがることもありうる。たとえば、好景気のときに、賃金が五パーセントあがり、一方、利潤が三〇パーセントあがるとすれば、比較的すなわち相対的賃金は、増大したのではなくて、減少したのである。
 だから、資本の急速な増大にともなって労働者の所得がふえるにしても、それと同時に労働者と資本家をわかつ社会的溝もふかくなるし、それと同時に労働を支配する資本の力、資本への労働の依存も増大するのである。
 資本が急速に増大することが労働者の利益であるというのは、つぎのことを意味するにすぎない。それは、労働者が他人の富を急速にふやせばふやすほど、ますます大きなかけらが労働者の手におちてき、ますます多くの労働者を仕事につけ、うみだすことができるようになり、資本に依存する奴隷の数をますますふやすことができる、ということである。
 こうして、われわれはつぎのことを知った。
 労働者階級にとってもっとも有利な状態である、資本のできるだけ急速な増大でさえ、どれほど労働者の物質的生活を改善しようとも、労働者の利害と、ブルジョアの利害すなわち資本家の利害との対立をなくしはしない。利潤と賃金とは、あいかわらず反比例する。
 資本が急速に増大すれば、賃金もあがるかもしれないが、資本の利潤のほうがくらべものにならないほど早くあがる。労働者の物質的状態は改善されたが、それは彼の社会的地位を犠牲にしてである。彼らと資本家をわかつ社会的な溝は、ひろがった。
 最後に、
 賃労働にとってもっとも有利な条件は生産的資本ができるだけ急速に増大することであるというのは、つぎのことを意味するにすぎない。それは、労働者階級が、彼らに敵対する力、彼らを支配する他人の富を急速にふやし増大させればさせるほど、労働者階級はそれだけ有利な条件のもとで、あたらしくブルジョア的富をふやし、資本の力を増大させるためにはたらかせてもらえる・・ブルジョアジーが彼らをつないでひきまわす金の鎖をあまんじてみずからきたえながら・・、ということである。


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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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☆  五

 生産的資本が増大することと賃金があがることとは、実際に、ブルジョア経済学者の主張するように、切りはなせないようにむすびついているのであろうか? われわれは彼らのことばをそのまま信じてはならない。彼らが、資本が肥えふとればふとるほど資本の奴隷の餌(エサ)もよくなる、などというのをさえ、われわれは、信じてはならない。封建諸侯はその従者の華美をほこったものであるが、ブルジョアジーは彼らとこうした偏見をともにするには、開化しすぎており、勘定高すぎる。ブルジョアジーは、その生存条件からして勘定高くしないわけにはいかないのである。
 そこでわれわれは、もっとくわしく研究しなければならないだろう。
 生産的資本が増大すると、賃金にどういう影響があるか?
 ブルジョア社会の生産的資本が全体として増大すれば、労働のいっそう多面的な蓄積がおこる。もろもろの資本の数と規模が増大する。資本の数がふえれば、資本家のあいだの競争がふえる。もろもろの資本の規模が大きくなれば、いっそう巨大な武器をもった、いっそう膨大な労働者軍を産業戦場にひいていく手段が得られる。
 ある資本家が他の資本家を戦場から駆逐し、この資本を奪取することができるのは、より安く売ることによってだけである。より安く売って、しかも破滅せずにいられるためには、彼はより安く生産しなければならない。すなわち、労働の生産力をできるだけたかめなければならない。ところが、労働の生産力がたかめられるのは、なによりも、分業を増進させることによってであり、機械をいっそう全面的に採用し不断に改良することによってである。分業をおこなっている労働者軍が大きくなればなるほど、機械の採用が大規模になればなるほど、生産費は比較的に言ってそれだけへり、労働はそれだけ多産的になる。そこで資本家のあいだに、分業と機械を増大させ、それらをできるだけ大規模に利用しようとする全面的な競争がおこる。
 いまある資本家が、分業を増進させることにより、新しい機械を使用し改良することにより、自然力をいっそう有利に大量的に利用することによって、同じ量の労働または蓄積された労働をもって彼の競争者たちよりも多量の生産物、商品をつくりだす手段をみいだしたとすれば、彼が、たとえば、彼の競争者たちが半ヤールの亜麻布を織るのと同じ労働時間のうちに一ヤールの亜麻布を生産できるようになったとすれば、この資本家はどう行動するであろうか?
 彼は、ひきつづき半ヤールの亜麻布をいままでどおりの市場価格で売ってもさしつかえないが、しかし、それでは、彼の敵を戦場から駆逐して、自分自身の販路を拡大する手段にはならないであろう。ところが、彼の生産が拡大したのと同じ割合で彼にとって販路の必要も拡大したのである。彼がこの世にもたらした、より強力で高価な生産手段は、なるほど彼が自分の商品をより安く売ることができるようにはするが、同時に、より多くの商品を売り、自分の商品のためにはるかに大きな市場を奪取しなければならないようにする。だから、わが資本家は、半ヤールの亜麻布を彼の競争者たちより安く売るであろう。
 しかし、この資本家は一ヤールを生産するのに、彼の競争者たちが半ヤールを生産する以上の費用はかけていないのだが、彼はその一ヤールを、彼の競争者たちが半ヤールを売る値段ほど安くは売らないであろう。そうしたのでは、余分のもうけは一文もなく、交換しても生産費を回収するだけとなろう。したがって、たとえ他のものより多くの収入を得たにしても、それは彼がより大きな資本をうごかしたからであって、より有効に彼の資本をもちいたためではないということになろう。それに、彼の商品の価格を彼の競争者たちより数パーセント安くきめれば、彼のめざす目的は達せられるのである。競争者よりも安く売れば、競争者たちを戦場から駆逐し、彼らからすくなくともその販路の一部をもぎとることになる。そして、最後に、商品の時価は、その販売が産業の好況期におこなわれるか不況期におこなわれるかに応じて、たえず生産費の上なり下なりにあるということを、思いおこそう。一ヤールの亜麻布の市場価格がそのいままでふつうであった生産費の下にあるか上にあるかに応じて、もっと多産的な新しい生産手段をもちいた資本家が彼の現実の生産費をこえて売る率もかわるであろう。
 しかし、わが資本家の特権はながつづきしない。競争相手の他の資本家たちも、同じ機械、同じ分業を採用し、それらのものを同じまたはもっと大きな規模で、採用するようになる。そして、それはやがてあまねく採用され、その結果、亜麻布の価格はそのもとの生産費以下どころか、その新しい生産費以下にひきさげられるであろう。
 だから、資本家たちはおたがいに、新しい生産手段が採用される以前にあったのと同じ状態におかれるのであって、もし彼らがこの生産手段をつかってまえと同じ価格で二倍の生産物を供給できるとすれば、いまではこの二倍の生産物をもとの価格以下で供給しなければならないのである。この新しい生産費を基礎として、ふたたび同じ競技がはじまる。分業がすすみ、機械がふえ、分業と機械の利用される規模が大きくなる。そして競争はこの結果にたいしてふたたび同じ反作用をもたらす。
 これでわかるように、生産方式、生産手段はこうしてたえず変革され革命化されていき、分業は一段とすすんだ分業を、機械の使用は一段とすすんだ機械の使用を、大規模な作業は一段と大規模な作業を、必然的によびおこすのである。
 これが、ブルジョア的生産をたえずくりかえしてその古い軌道からなげだし、資本が労働の生産力を緊張させたという理由でさらに資本を強制して労働の生産力を緊張させる法則であり、資本にすこしの休息もさせずに、たえず、すすめ! すすめ! と耳うちする法則である。
 この法則こそは、景気周期の変動の内部で商品の価格を必然的に平均化させてその生産費に一致させるあの法則にほかならない。
 ある資本家がどんなに有力な生産手段を戦場にひきだしても、競争はこの生産手段を一般化するであろうし、競争がこの生産手段を一般化したそのときから、彼の資本がいっそう多産的になったこのただ一つの結果は、いまでは同じ価格で以前の一〇倍、二〇倍、一〇〇倍を供給しなければならない、ということでしかない。ところが、彼は、販売価格の下落をもっと多量の生産物の販売でおぎなうために、おそらく千倍も売らなければならないので、また、いまでは、もっともうけるためばかりでなく、生産費を回収するためにさえ・・生産用具そのものがますます高価になっていくことはわれわれがすでにみたところである・・もっと大量に売らなければならないという理由で、またこのように大量に売ることは、この資本家にとってだけでなく、彼の競争相手たちにとっても死活問題になっているという理由で、従来の闘争が、すでに発明された生産手段が多産的であればあるほどそれだけ激しいものとなって、はじまるのである。だから、分業と機械の使用とは、くらべものにならないほど大きな規模で、あたらしくすすむであろう。
 使用される生産手段の力がどうであろうと、競争は、商品の価格を生産費にひきもどすことによって、したがって、いっそう安く生産できるように、すなわち同じ量の労働でいっそう多量に生産できるようになるのと同じ割合で、ますます安く生産すること、同じ価額でますます多量の生産物を供給することを一つの命令的な法則にすることによって、資本からこの力のうむ黄金の果実をうばおうとする。こうして資本家は、彼自身の骨折からは、同じ労働時間内にいっそう多くのものを供給する義務のほかには、一言で言えば、彼の資本の増殖の条件をいっそう困難にするほかには、なにも得るところがないことになろう。だから、競争がその生産費の法則をもってたえず資本家を追いまわし、およそ彼がその競争者にたいしてきたえる武器はみな彼自身にむけられた武器としてはねかえってくる一方、資本家は、古い機械と分業のかわりに新しい、より高価ではあるがより安く生産する機械と分業をやすみなく採用し、競争が新しいものを旧式にしてしまうまでまたないというやりかたで、たえず競争をだしぬこうとする。
 いま、この熱病的な運動が世界市場全体で同時におこっていることを考えるなら、資本が増大し、蓄積され、集積するのにともなって、分業や、新しい機械の使用や、古い機械の改善がたえまなく、たてつづけに、ますます大規模におこなわれる結果となることは、あきらかである。
 だが、生産的資本の増大ときりはなすことのできないこれらの事情は、賃金の決定にどういう影響をおよぼすか?
 分業がすすめば、一人の労働者が五人、一〇人、二〇人分の仕事をすることができるようになる。だから、それは労働者のあいだの競争を五倍、一〇倍、二〇倍も増大させる。労働者は、たがいに自分を他のものよりも安く売りあうことで競争するばかりではない。彼らは、一人が五人、一〇人、二〇人分の仕事をすることによっても競争する。そして、資本によって採用され、たえず増進していく分業は、労働者を強制してこの種の競争をさせるのである。
 さらに、分業がすすむのに比例して、労働が単純化される。労働者の特別の熟練は無価値なものになる。彼は、肉体力も精神力もはたらかせる必要のない、単純な、単調な生産力にかえられる。彼の労働はだれにでもできる労働になる。そこで、競争者が四方八方から彼におそいかかってくる。そのうえ、労働が単純になり、まなびとりやすいものになればなるほど、それを身につけるのに必要な生産費がすくなくなればなるほど、賃金はますます下落することを、注意しておこう。というのは、他のあらゆる商品の価格と同じように、賃金も生産費によってきめられるからである。
 だから、労働が不満足な、不快なものになるのに比例して競争が増大し、賃金が減少する。労働者は、もっと長い時間はたらくか、同じ時間内にもっと多くのものを供給するか、どちらにしてももっと多く労働することによって、自分の賃金額を維持しようとする。こうして彼は、困窮にせまられて、分業の有害な影響をさらにはなはだしくする。その結果は、彼がはたらけばはたらくほど、彼のうけとる賃金はそれだけすくなくなる。それというのも、はたらけばはたらくほど、彼は仲間の労働者たちと競争するようになり、したがって仲間の労働者たちをことごとく競争者にかえてしまい、彼らもまた彼自身と同じ悪い条件ではたらこうと申しでるようになるという、したがって、結局彼は自分自身と、つまり労働者階級の一員としての自分自身と、競争するようになる、という簡単な理由からである。
 機械は、これと同じ影響をはるかに大きな規模でもたらす。というのは、機械は、熟練労働者を不熟練労働者で、男を女で、大人を子供でおきかえるからであり、また、それがあたらしく採用されるところでは、手作業労働者を大量に街頭になげだし、それが完成され改良され、もっと多産的な機械によっておきかえられるところでは、労働者を、小きざみにおはらいばこにするからである。さきほどわれわれは、資本家相互のあいだの産業戦争のあらましを走り書きした。この戦争の独特な点は、その戦闘の勝利が労働者軍を徴募するよりむしろ除隊させることによって得られるという点である。将軍である資本家は、だれがもっとも多く産業兵を除隊させることができるかについて、たがいに競争するのである。
 なるほど、経済学者は、機械のために余分になった労働者は新しい部門で仕事をみつける、とわれわれにかたってきかせる。
 彼らは、さすがに、解雇されたその同じ労働者が新しい労働部門に就職する、とはっきり主張しようとはしない。事実はこのようなうそに、あまりにも明白に反しているからである。ほんとうは、彼らは、労働者階級の他の構成部分のために、たとえば、労働者の若い世代で、すでにこの没落した産業部門にはいろうとして待機していた部分のために、新しい雇用の道がひらかれるであろう、と主張しているだけなのである。これは、もちろん、落伍した労働者にとってたいした慰めというものだ。資本家諸公は、新鮮な、搾取できる血肉に、こと欠かないであろう。死者をして死者をほうむらしめよ、と。これは、ブルジョアが労働者にあたえる慰めであるよりも、むしろ自分自身にあたえる慰めである。もし賃金労働者階級全体が機械によって絶滅されるのだったら、賃労働がなければ資本でなくなってしまう資本にとって、なんとおそろしいことであったろう!
 だが、機械のために直接に仕事から追われたものも、また新しい世代で、すでにこの仕事の口をまっていた部分の全体も、新しい仕事をみつけるものと仮定しよう。この新しい仕事にたいして、なくした仕事と同じ額が支払われると、だれか思うものがあろうか? そういうことは、経済学のあらゆる法則と矛盾することであろう。われわれがすでにみたとおり、近代産業は、たえず、より複雑な、より高級な仕事をより単純な、より低級な仕事とおきかえるのである。
 そうだとすると、機械のためにある産業部門からほうりだされた一団の労働者は、もっと賃金の低い、悪いところでないかぎり、どうして他の産業部門に避難所をみつけられようか?
 例外として、機械そのものの製造に従事する労働者がひきあいにだされてきた。産業でより多くの機械が要求され消費されるようになれば、かならず機械がふえるはずであり、したがって機械製造が、したがって機械製造業における労働者の雇用が増大するはずである。そして、この産業部門で使用される労働者は、熟練労働者、それどころか、教養ある労働者でさえある、というのである。
 この主張は、すでに以前でも半面の真理にしかすぎなかったのであるが、一八四〇年以来は、真理らしい外観さえまったくうしなってしまった。というのは、機械の製造でも、綿糸の製造におとらずますます多くの方面で機械がもちいられるようになり、機械製造につかわれている労働者も、きわめて精巧な機械にくらべてはすでにきわめて精巧でない機械の役目しかはたせなくなったからである。
 それでも、機械のためにおはらいばこになった一人の男のかわりに、工場はたぶん三人の子供と一人の女をつかっているだろう、という! だが、この男一人の賃金は、この三人の子供と一人の女をやしなうのに十分なはずではなかったか? 賃金の最低限は、〔労働者の〕種属を維持し繁殖させるのに十分なはずではなかったか? そうだとすれば、ブルジョアのこのんでもちいるこのきまり文句はなにを証明するのか? ほかでもない、いまでは、一労働者家族の生計の資を得るために以前の四倍の労働者の生命が消費されているということである。
 要約しよう。生産的資本が増大すればするほど、分業と機械の使用がますます拡大する。分業と機械の使用が拡大すればするほど、労働者のあいだの競争がそれだけ拡大し、彼らの賃金はますます縮小する。
 そのうえ、労働者階級はなお、彼らより上の社会層からも補充されていく。多数の小産業家や小金利生活者が労働者階級のなかへ転落してくるが、これらのものは、労働者の腕とならべて自分の腕をさしあげる以外には、どうしようもないのである。こうして、仕事をもとめて高くさしあげられた腕の森はますますしげっていき、腕そのものはますますやせていく。
 たえずますます大規模に生産することを、すなわち、まさに大産業家であって小産業家でないことを第一条件の一つとする闘争に、小産業家がもちこたえられないことは、自明のことである。
 資本の量と数が増大するのに比例して、資本が増大するのに比例して、資本の利子が低落していくこと、したがって小金利生活者はもはやその利子では生活できなくなり、そこで産業に身を投ずるほかなく、したがって小産業家の仲間の、こうしてまたプロレタリアートの候補者の、増加をたすけること、これらのことはみな、おそらく、これ以上くわしく説明するまでもないであろう。
 最後に、資本家がまえに述べたような運動に強制されて、すでに存在する巨大な生産手段をさらに大規模に利用し、この目的のために信用のあらゆる発条(バネ)をうごかすにつれて、それに比例して産業地震、商業界が富、生産物の一部を、また生産力の一部をさえ、地獄の神々にいけにえとしてささげることによってようやくその身をたもつあの産業地震も、増加する。一言で言えば、恐慌が増加する。恐慌は、つぎの理由だけからでもますますひんぱんに、激烈になっていく。それは、生産物の量が増大し、したがって市場を拡大しようとする要求が増大すればするほど、世界市場はますます収縮し、また開発すべき新市場はますますのこりすくなくなるという理由である。というのは、いつでも前回の恐慌によって、これまで征服されずにいたか、あるいは商業が表面的に搾取してきただけの一市場が世界商業に従属させられたからである。しかし、資本は労働によって生きているだけではない。権勢あると同時に野蛮な支配者である資本は、彼の奴隷の死体を、恐慌で没落する労働者のいけにえ全体を、自分といっしょに墓穴にひきずりこむのである。これを要するに、資本が急速に増大すれば、労働者のあいだの競争は、それとはくらべものにならないほど急速に増大する。すなわち、雇用手段である労働者階級のための生活資料は、相対的にますます減少する。だが、それにもかかわらず、資本の急速な増大は、賃労働にとってもっとも有利な条件である。

     一八四七年一二月一四・三〇日におこなった講演
     はじめ『新ライン新聞』一八四九年四月五・八日および一一日号に発表
     一八九一年にベルリンで単行小冊子としてエンゲルスの序文および編集で発行
     右の小冊子のテキストによる


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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
http://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/AkamacHomePage/DVProject/DVProjectJ.html
http://www5.big.or.jp/~jinmink/TAMO2/DT/index.html

☆  人名注
アレクサンドロス大王(前356・323)  マケドニア国王。

エンゲルス,フリードリヒ(1920・95)

マルクス,カール(1818・83)

リカードー,デーヴィド(1772・1823)  イギリスの経済学者。古典経済学の最後の偉大な代表者

☆  事項注
〔1〕 『新ライン新聞』・・1848年6月1日から1849年5月19日までケルンで出ていた。同紙の編集主筆はマルクスであった。
〔2〕 マルクスは『資本論』にこう書いている。「私が古典経済学というのは、……ウィリアム・ペティ以来の、ブルジョア的生産関係の内的関連を研究する経済学全体のことである。」(『資本論』、第1巻、国民文庫版(1)、145ページ)
イギリスにおける古典経済学の最大の代表者はアダム・スミスとデーヴィド・リカードーであった。
〔3〕 「狭義の経済学は17世紀の終りごろに天才的な人々の頭脳に生まれたとはいうものの、重農学派とアダム・スミスがあたえたその積極的な定式化においては、本質上、18世紀の所産である……」(エンゲルス『反デューリング論』、選集、第14巻、285ページ)
〔4〕 「すべての社会成員が」・・原文ではこれは aller Gesellschaftsglieder となっていて、ungeheuren Produktivkraefte にすぐつづいているので、ここの文章全体は、「すべての社会成員の、すでに存在している巨大な生産力を計画的に利用しさらに発達させることによって、平等の労働義務を負いながら、生活のため、生活享楽のためいっさいの肉体的・精神的能力を発達させ発揮するための手段をも平等に、ますますゆたかに利用できる、そういう社会制度なのである」としか訳せない。しかし、これは不完全文章なので、引用した語はおそらく allen Gesellschaftsglieder の誤植であろう。そうだとすると、本文に訳したようになる。
〔5〕 イギリスの労働組合は、5月の第1日曜日に国際的プロレタリア的祝日をいわうことにしていたが、1891年には、5月3日が第1日曜日にあたっていた。
〔6〕 すなわち、パリにおける1848年2月23・24日の革命、ウィーンにおける3月13日の革命、ベルリンにおける3月18日の革命。
〔7〕 『新ライン新聞』にマルクスが発表したテキストでは「その所属する労働部門のことなるにしたがって」という句のうしろに「一定の労働時間にたいし、または」という句がはいっている。
〔8〕 当時ヨーロッパ大陸では、おもに銀本位制が採用されていた。
〔9〕 この箇所の「労働力」という用語は、エンゲルスが挿入したものではなく、『新ライン新聞』にマルクスが発表したテキストで、すでにそうなっている。

§ 解説

 マルクス主義経済学をまなぼうとするばあい、ほとんどかならずといっていいほど、まず最初に『賃労働と資本』や『賃金、価格、利潤』(本文庫既刊)を読むのが普通である。これは、日本でも諸外国でも、そうである。このように『賃労働と資本』は、マルクス主義理論をまなぶ者の必読の文献となっている。それはなぜだろうか。

☆  一

 われわれの生活はもとより、政治をはじめ社会全体の動きが、経済の問題とふかくつながっていることは、だれでも感じている。経済ほど切実でしかも根本的な問題はないであろう。ところがまたその経済の問題ほど、一般につかみにくく、わかりにくいものもないのではないか。資本主義の経済は、たんなる常識や外見だけの観察ではわからない秘密のカラクリを土台にしている。だから資本主義経済のほんとうの姿、意味、働きをつかむためには、どうしてもわれわれは科学の力によって、この秘密のカラクリを見やぶらなければならない。それによってはじめて、われわれは社会全体の動きの方向を見とおすことができるようになるし、またしたがって、そのなかでわれわれがどう生活し行動したらいいかもはっきりしてくる。この意味で、科学的な経済学についての大筋だけでもまなんでおくことは、現代に生きる人々、とくに働く人々にとって絶対に欠くことができないと言っていい。
 マルクス経済学は、まさにこの資本主義経済の秘密のカラクリをはじめて赤裸々にえぐりだし、働く者の行動に科学的な指針をあたえ、その未来をあかあかとてらしだした。資本主義経済のカラクリは、きわめて複雑で巨大な体系をなしている。しかしその巨大な網の目をときほごしてゆく手がかりは、資本家と労働者との関係をただしく理解することにある。実際に富の生産にたずさわっている労働者がまずしいのに、労働をしない資本家が利潤(これを正確に科学的なことばで「剰余価値」とよぶ)をあげて富んでいるのはなぜなのか。つまり労働者はどのようにして資本家に搾取されているのか、を理論的につかむことにある。この理論が、「剰余価値の法則」とよばれるものであって、マルクス経済学全体の土台石であり、核心である。マルクスは『資本論』のなかで、この法則をくわしく説明するとともに、それを鍵とし、それを発展させて、資本主義社会全体の経済的運動法則、資本主義社会の発生と発展と消滅の法則をあきらかにした。そしてこれによって、資本主義社会のなかに生きる労働者の地位と運命とすすむべき道をさししめして、社会主義の必然性を科学的に論証した。
 けれども、『資本論』は全三巻、数千ページにおよぶ大著であり、それを読みとおし、十分に理解することはけっしてやさしいことではない。どうしても手引きとなる入門書が必要である。ことに毎日の労働と生活に追われる労働者には、『資本論』全体をひもとくことはきわめてむずかしいであろう。この意味で、その簡潔な解説書が必要である。そして、こうした入門書、解説書としてもっとも正確で適切なものと言えば、言うまでもなくマルクス自身が書いたものであろう。『賃労働と資本』は、まさにそれなのである。
 『賃労働と資本』は、わずか数十ページのパンフレットであるが、そのなかには、前述のマルクス経済学の核心、『資本論』の中心理論、科学的社会主義の理論的土台である「剰余価値の法則」が、生きいきと簡潔に述べられている。
 この本のはじめでマルクスは言っている、「われわれは、労働者にわかってもらいたいのである」と。そして「経済学のごく初歩的な概念さえもたない」読者のために、「できるだけ簡単に、わかりやすく述べる」と言っている。たしかに、どんなに読書になれない人でも、この本によってマルクス経済学の中心理論を理解できるはずである。またすでに多少ともマルクス理論を知っている読者のばあいにも、この本によって自分の知識を生きいきとしたものにし、いっそう確実なものにたかめることができるであろう。

☆  二

 マルクスは一八四七年の末に、ベルギーのブリュッセルのドイツ人労働者協会で労働者のために経済学の講演をやった。その講演をもとにして、一八四九年四月に『新ライン新聞』に『賃労働と資本』という表題で論文を連載した。その後これは単行本で発行されたが、マルクスの死後、一八九一年に、エンゲルスが、いままでの版に必要な修正をくわえて、新版を発行した。これが現在の『賃労働と資本』であり、この訳本の原本である。
 マルクスがこの講演をやった一八四七年、この論文を書いた一八四九年という年を考えていただきたい。一八四九年には、マルクスはまだ三一歳の若さであった。しかしこのころには、マルクスはエンゲルスとの協力をとおしてすでに科学的社会主義すなわち共産主義の理論を確立していた。前年の一八四八年には、二人の共著で『共産党宣言』が出ている。同時にこの一八四八年は、ヨーロッパ大陸全体が民主主義革命のあらしでゆらいだ年であった。パリでも、ウィーンでも、ベルリンでも、民衆は武器をとってたちあがった。そしてマルクス自身も、この革命のあらしの渦中に積極的に参加したのである。
 しかし、一八四八・四九年の革命は、どこでもブルジョアジーの裏切りのために敗北した。これ以後、労働者階級は、ブルジョアジーとともにではなく、ブルジョアジーに抗して、民主主義革命の旗をおしすすめなければならなくなる。ブルジョアジーとの階級闘争をとおして、民主主義革命を達成し、つづいて社会主義革命をおこなわなければならない。だが、労働者階級が本当にその能力をもち、正しい戦略と戦術のもとに闘争をつづけるためには、彼らはまず、階級闘争の歴史的意義と資本主義社会の動きを正確におしえる科学的社会主義の理論を身につけること、そして自分自身の階級的地位と歴史的使命とを、はっきり理解することが必要である。『共産党宣言』はまさにこの大綱をしめしたものであり、『賃労働と資本』は、それをとくに経済学的な分析によって裏づけるものであった。マルクスが『賃労働と資本』を書いたのは、第一節のはじめで彼が言っているとおり、こういう実践のための理論をあきらかにすることを目的としたのである。

☆  三

 前述のように、エンゲルスはこの本の新版を出すさいに、マルクスの論文に多少の修正をくわえた。「これは、マルクスが一八四九年に書いたままのパンフレットではなくて、ほぼ彼が一八九一年にはこう書いたろうと思われるパンフレットである」と、彼は言っている。エンゲルスが修正をくわえたのは、「労働」と「労働力」ということばの区別を、はっきりさせるためであった。
 労働力とは、富を生産し、価値を創造する、人間の肉体上精神上の能力、すなわち労働する力、の全体である。「労働」とは、この労働力を実際に使用し、発揮して、富を生産し、価値を創造することである。「労働力」は人間にやどっている働く力であり、「労働」はその力を実際につかうことである。この二つを区別することは、きわめて重要である。ある意味では、これが剰余価値理論の中心であり、資本主義的搾取の秘密を解く鍵であると言っていい。いわゆるブルジョア経済学は、すべてこの点でまちがっていると言うこともできる。
 エンゲルスの修正以前の『賃労働と資本』でも、事実上はこの区別がはっきりしており、それにもとづいて賃金や剰余価値の説明がおこなわれている。しかしこの点がほんとうに理論的にはっきりするのは、『資本論』第一巻(一八六七年発行)である。『賃労働と資本』を書いた当時のマルクスは、まだマルクス主義経済学を完成していなかった。したがってエンゲルスは、後年のマルクスの正確な概念規定にもとづいて、『賃労働と資本』の用語や表現をいっそう科学的な形になおしたのである。
 以上のことについては、この本のはじめのエンゲルスの序文で、くわしく、しかも平易に説明されている。本文でも一節から三節にかけて説かれているが、読者がまずこの序文をよく読んでおかれることを希望する。そして、「労働力」と「労働」の区別が、たんなることばの問題でなく、深刻な階級的意味をもっていることを、しっかりつかんでいただきたい。さらにすすんだ読者は、『賃金、価格、利潤』の第七・一〇節、『ソ同盟・経済学教科書』第七章「資本と剰余価値。資本主義の基本的経済法則」、『資本論』第一巻第二篇第四章第三節「労働力の購買と販売」、同第三篇第五章「労働過程と価値増殖過程」などを研究されるといいと思う。

☆  四

 つぎに本文の主な内容にふれておこう。
 第一節では、賃金とはなにか、が論じられ、それが資本家が買いとる労働力という商品の価格であることがあきらかにされる。そのほか、三二・三ページにかけて、奴隷と農奴と賃労働者とのちがいをしめし、賃労働の歴史性を説いた有名な一節がある。また、三〇・二ページには、賃労働者が人間らしい生活をうばわれているありさまが説明されている。マルクス経済学の根底にながれている激しいヒューマニズムの精神に注目すべきであろう。
 第二節では、まず商品生産の経済法則である価値法則と、この価値法則が競争と生産の無政府性をとおして実現される様子が簡潔に説明される。『資本論』で言えば、第一巻第一篇第一章第一、二節で説かれている労働価値論の部分にあたる。これによって一般に商品の価値と価格がなにによってきまるかがあきらかにされ、ついでこの節の終りの部分で、労働力という商品の価格すなわち賃金が、同じ価値法則にもとづいて、労働力の生産費すなわち労働者の生存費と繁殖費によってきまることが説かれる。
 第三節では、資本が分析される。資本とはなにか。資本はたんなるカネでもないし物でもない。われわれの家計のカネや家財道具は資本とは言えない。資本とは、時にはカネ、時には物(機械とか原料とか)と、さまざまに形をかえながらも、全体として、賃労働者を搾取することによって自己増殖する価値のことだ。したがってそれは、資本家と労働者のあいだの社会的生産関係、階級関係をあらわしている。ここで、第二節で述べられた労働力と労働、価値という概念にもとづいて、資本がいかにして剰余価値を獲得するかが説明される。この意味で、ここはこの本の中心である。マルクスはまだ剰余価値ということばをもちいていないが、ここの内容はまさに剰余価値の源泉を平易に説いたものである。本節ではさらに、四四・六ページに、生産力と生産関係についての古典的な説明があり、また最後の五一・二ページでは、資本家と労働者との利害の同一という、御用学者の俗論が批判されている。「資本家あっての労働者」、「会社あっての組合」というこうした俗論は、いまでもわれわれのまわりに流布されていることに注意したい。
 第四節では、すすんで資本家と労働者との利害がまっこうから対立することを論証している。これは前節の剰余価値法則から出てくるもっとも重要な結論である。ここでマルクスは、名目賃金と実質賃金の区別をあきらかにし、さらに資本主義が発展するにつれて労働者階級の資本家階級にたいする相対敵地位がしだいに悪化することをしめしている。これは、いわゆる労働者階級の相対的貧困化の法則である。五三ページにある小さい家と邸宅の例も、よく引用される部分である。
 第五節では、資本主義の発展、すなわち資本の蓄積が賃金水準におよぼす作用を分析している。すでに前節で、資本蓄積の増大は労働者にとチては相対賃金の低下(相対的貧困化)と資本の支配の増大であることがあきらかにされた。ここではさらにその説明が発展させられる。すなわち、資本蓄積が増大すれば、分業と機械の使用がひろがり、それがまた労働者のあいだの競争をはげしくして、彼らの賃金をますます切りさげ、また他方、大量の労働者から職をうばって産業予備軍(失業者群)をつくりだす反面、婦人や子どもを家庭から工場にひきずりだす。さらに血で血をあらう資本間の競争は、たえず弱小の企業家たちを没落させて、労働者軍を拡大し、こうして社会全体を少数の大資本家と多数のプロレタリアートに二分してゆく。以上が、マルクスのしめす賃金運動の法則、労働者階級の絶対的貧困化の法則、資本主義下の労働者階級の運命である。ますます頻繁に、ますますはげしくなる恐慌はこの過程をはやめ、破局を近づける。『資本論』第一巻第三篇第八章、第四篇、さらにとくに第七篇第二三章の「資本主義的蓄積の一般法則」は、以上の点をくわしく述べたものといってよい。

☆  五

 『賃労働と資本』は、ここでおわっている。この本のはじめのところでは、マルクスは三つの項目をあげてこの本のプランとしているが、実際に書かれたのは、そのうち第一の項目だけで、第二、第三は書かれずにおわった。この事情はエンゲルスの序文の冒頭にくわしい。マルクスが第二、第三でなにを書くつもりであったかは、いろいろな推測はできるけれども、はっきりしない。ただ、このように『賃労働と資本』ははじめのプランからすれば未完におわってはいるが、しかし現在のままの形でも、経済学のもっとも基本的な原理は十分に説明されており、これだけで独立のパンフレットとしてまとまっていると言ってよい。
 『賃労働と資本』を読んだ人は、それをさらに発展させる意味で、できるだけすすんでつぎの諸文献を併読していただきたい。(一)マルクス=エンゲルス『共産党宣言』、(二)マルクス『賃金、価格、利潤』、(三)エンゲルス『空想から科学へ』、(四)エンゲルス『資本論綱要』。さらにすすんだ読者は、(五)マルクス『経済学批判』(以上はすべて本文庫にはいっている)、(六)ソ同盟科学院経済研究所『経済学教科書』(新日本出版社)第二篇を読まれるとよく、もっとすすんでは、(七)マルクス『資本論』(国民文庫)ととりくんでほしいと思う。

   一九五六年四月
     国民文庫編集委員会


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(私論.私見)