解説

 マルクスの「ゴータ綱領批判」評は一般に、「マルクスが、過去の革命や闘争の経験を総括して、『共産党宣言』ほかで展開した自らの国家論をさらに発展させたマルクス主義国家論の古典、社会主義革命とプロレタリアートの独裁、資本主義から共産主義への過渡期におけるふたつの段階、社会主義段階での生産と分配、完全な共産主義社会の基本的特徴など、一連の思想が定式的に記述されている」とコメントされている。

 れんだいこはこの解説に満足しない。肝心な観点が欠けているからである。ここで、マルクス主義のその思想形成過程を確認しておく。れんだいこは、次のように仕分けする。@・「共産主義者の宣言」前、A・「共産主義者の宣言」後、B・「資本論」後、C・マルクス没後の四期に分けたい。そうすると、「ゴータ綱領批判」は、3期において著作されており、「マルクスが資本論の著作に向かった以降にして、党派的に活動した晩年のものであることが分かる。しかしてそれはマルクス主義の円熟期のものである」という点に大いなる意味がある。つまり、この段階のマルクスの諸言説こそ最も正確な意味でのマルクス主義であるということになる。そういう意味で、「ゴータ綱領批判」の史的価値があり、「誰しも学ばねばならない文献」となっている。

 2004.3.4日 れんだいこ拝


 この「ゴータ綱領批判」の中で、何が弁論されているのか。これを見る前に、背景事情を確認しておく。



(れんだいこの観点から書き上げるまで今しばらくご容赦を)


2003年8月19日(火)「しんぶん赤旗」「ゴータ綱領批判」の読み方――マルクスエンゲルスの未来社会論を解明

不破議長を講師に学習会


 2003.8.19日付け赤旗によると、日共の不破議長を講師とする学習会「『ゴータ綱領批判』の読み方−マルクス・エンゲルスの未来社会論−」が18日夕、党本部で開かれた。マルクスの「ゴータ綱領批判」にもとづくものとされてきた未来社会論−−社会主義、共産主義の二段階発展論の九十年近くにわたり続いてきた教科書的な“定式”を根本的に見直し、この問題をマルクス、エンゲルスの文献に沿って理論的・歴史的に深く掘り下げ、今後の綱領改定案の討議の力にすることを目的にしたもの、とある。


村岡到不破はマルクス批判に踏み出すか2003.9.13

400字×40枚
近刊の『不破哲三との対話――日本共産党はどこへ行く?』社会評論社、に収録予定。

 日本共産党の不破哲三議長は、昨年来、綱領改定を視野に入れてマルクス主義の古典の解釈を中心に党内教育に力を注いでいる。昨年は一年間にわたって「代々木『資本論』ゼミナール」を開催し、つい最近も『ゴータ綱領批判』をテーマに党本部で学習会を開催した。六月の第七回中央委員会総会でも綱領改定案についての説明で、マルクスの未来社会論について時間をさいて論じた。「代々木『資本論』ゼミナール」の最終講義と、七中総での報告については、その都度、取り上げて論評したが、直近の『ゴータ綱領批判』論についても新しく検討をくわえ、一つの論文にまとめることにした。前の二つは、そのまま再録する。ただしそれらの結論部分については、本稿のむすびに趣旨を活かして移動した。不破は、いよいよマルクス批判に踏み出すのであろうか。

 「アソツィールテ」と言い出す

 不破は、二〇〇二年十二月一六日に党本部で開かれた「代々木『資本論』ゼミナール」の最終講義で大変に興味深い話を語った(「赤旗」十二月一九日)。「『結合された生産者たち』の問題」についてである。
 本題に入る前に、確認しておきたいことがある。この「代々木『資本論』ゼミナール」開催の意義についてまずは大きく肯定的評価をある種の羨望もこめてはっきりと認めたい。この講座は、党創立八〇周年を記念して、幹部・中堅活動家三〇〇人の規模で、一年間にわたって開講されたもので、講師は不破が務めた。不破自身は、最終講義で「歴史的な壮挙」とまで自画自賛している。そこまで持ち上げてよいかどうかは人それぞれであろうが、確かに日本のどの政治勢力にとっても真似のできることではない。それだけの関心・エネルギー・努力が共産党に存在していることを知っておく必要がある。

 A 「用語は発展、訳語は同じ」?
 不破は、「『赤旗まつり』での話への補足――『結合された生産者たち』の問題」と項目を立ててこう語った。
訳語は同じですが、原語では資本主義の段階の結合(コンビニールテ)と社会主義の段階の結合(アソツィールテ)とは、用語も発展させられているのです。そういう点で、『結合された生産者』というのは大事な概念なんです。
 文意についてはまことにそのとおりである。だが、だれでもすぐにちょっとおかしなことに気づくであろう。「用語も発展させられている」のに、どうして「訳語は同じです」でよいのだろうか、と。友情が愛情に変化することもあるが、両方とも「情」とだけ表現するとしたら、どうやってその変化を表すことができるのか。そんな芸当はできないから、不破は恐らく「赤旗」創刊いらい初めて用いられたであろう、「コンビニールテ」とか「アソツィールテ」なるドイツ語をかっこに入れて話すことになったのである。これからは「結合」と書くときにはいつもこの非日常的なドイツ語のお世話になるのだろうか。いずれ、こんな馬鹿らしい表現は、「赤旗」紙上で「生存の自由」が「生存権」に替えられつつあるように、後述の用語に取って代わられるであろうが、まずは、不破の認識がここまで到達したことについては大いに賛意を表しておこう。
 こんな風に高飛車に書くのは不遜ではあるが、次の事情を知れば、それも許していただけるであろう。実は、この不破発言は、私の彼への批判にたいする応答なのである。
 経過を説明しよう。
 八月二六日に、不破は北京の社会科学院で「レーニンと市場経済」と題する講演をおこなった(九月四日「赤旗」発表)。私はただちに「あるべき『レーニンと市場経済』論」を書いて批判した(「稲妻」第三四四号=二〇〇二年十月一〇日、ホームページでは九月一三日)。批判の一つの要点は「生産手段」の問題が欠落しているという点であった。そうしたら、十一月四日に、前記の「『赤旗まつり』での話」――「ふたたび『科学の目』を語る 代々木『資本論』ゼミナール・赤旗まつり」が一五〇〇人もの聴衆を集めておこなわれ、そこで不破は、「生産手段」について重点を置いて語ることになり、そこに「結合された生産者」が登場することになった。そこで、私は再び直ちに「『赤旗まつり』不破講演の半歩前進――再び不破哲三を批判する」(ホームページ、十一月一五日)を書いた。その核心を再現しよう。
 不破は「誰が生産手段をにぎる」のかと問題を立て、『資本論』から「結合された生産者」の一句を引いて強調しはじめた。これは、三分の一はプラス評価できる前進である。問題の立て方だけは正しい。答えも半分は正しい。だが、「結合された」はいただけない。講演なので、引用頁をあげることはしていないが、この「結合された」は恐らく英語なら associated であり、近年おおいに議論されている問題の一句である。不破は後のほうで『フランスにおける内乱』の草稿から「自由な協同労働」を引用しているが、この「協同」も英語なら associated である。わざわざ不破は近年は誤訳とされている「結合された生産者」を使って、流行の「アソシエーション」という言葉に「赤旗」の読者が汚染されることを避けたわけである。以上、引用。
 これではっきりしたであろう。ついに不破は、「アソツィールテ」、慣用の英語で名詞形にすれば<アソシエーション>に到達したのである。
 その後、『レーニンと「資本論」』を一読したら、不破は一九九九年に、『資本論』の信用論からの引用――「結合された労働の生産様式」――に際して、「結合」に「アソツィールテ」とルビをふり(C一一六頁。E七六頁、九二頁)、さらに、エンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』からの引用――「生産者の自由で平等な協同関係」――に際して、「協同関係」に「アソツィアツィオン」とルビをふっていた(C三五二頁)。だが、そこでは、「コンビニールテ」と対比することもなく、これらの言葉の意味についてはまったく説明していない。不破は、一九九三年の『科学的社会主義の運動論』でも前者(信用論から)を引用しているが、そこでのルビは「アンツィールテ」と誤植されている(二五五頁)。ルビについての説明はない。したがって、前記の私の説明は変更する必要がない。

 これだけのことなら、事は私と不破との二人だけのやりとりにすぎないが、私たちが知らなければならないことがさらにある。「コンビニールテ」と「アソツィールテ」との違いに重要な意義を見い出し、鋭角的に問題提起していた先人が日本には存在していたのである。広西元信が、その人である。一九六六年、『資本論の誤訳』である。
 邦訳の一番、悪い点は、連合生産者が結合生産者と誤訳されていることです。社会主義を意味するアソシエート(連合・提携)と、資本主義を意味するコンビネート(統合)とが、同じように、結合、などという訳になっていることです。この両語を区別せずに、混同して、同じように結合などと訳す訳し方は、邦訳の最大の悪癖です。……アソシエートとコンビネート、この両語を私のように連合と統合などと訳さず、別の訳し方もあろう。前者を協会、協同、組合とか、後者を統一、統括、合一とか、いろいろの訳し方もあろう。あってもよいはずです。ただ、両語を同じ訳語、結合などと訳してはいけません。これでは社会主義と資本主義との区別が、わからないものになってしまうからです。(こぶし書房、二〇〇二年復刻版、一四頁)。
 すでに一九六六年にここまではっきりと認識されていたのである。「邦訳の最大の悪癖」とまで指弾されていたにもかかわらず、日本のマルクス主義者は例外なしにこの広西の先駆的批判を無視した。私は、すでに何度も書いているように、ソ連邦崩壊の後に、九二年夏に広西さん本人と『資本論の誤訳』に出会い、深い衝撃を受けて、直ちに、その意義を理解し、学ぶことができた。それゆえに、前述のような批判を不破に加えることができたにすぎない。広西さんが生きていたら、苦笑しながら「そんなものだよ」と軽くいなしたであろうことを、いくらか真面目に書いているにすぎない。
 私は、広西さんだけを称えたいわけではない。何事においても、先人の先駆的認識から虚心に、党派的色めがねを外して学ぶことがいかに大切かということを声を大にして主張したいのである。

 B ソ連邦を「社会主義」と言っていたのは誰か
 もう一つ、「社会主義論」についても、不破は同様の態度をくりかえしている。不破は「『結合された生産者たち』の問題」の次の項目を「社会主義論では旧ソ連をどう見るかが大事」と立て、「このソ連を社会主義の現実だとする見方が、社会主義のイメージをゆがめたことは、たいへん大きなものがありましたし、理論の上でも世界的にたいへん有害な影響をあたえました」と語った。さらに「ソ連の社会体制が社会主義の反対物だったという結論を明確に出しているところは、世界の共産党のあいだでもまだ少数でしょう」などと威張っている。
 これまた、私が長いあいだ主要に問題にしているところであるが、「ソ連を社会主義の現実だとする見方」を、長い期間、共産党自身が取っていたではないか。一九七七年の第一四回党大会で打ち出した「社会主義生成期」論はいったい何だったのか。当時は「目からうろこが落ちる」(上田耕一郎)と自画自賛していたこの謬論は、九四年の第二〇回党大会で撤回されお蔵入りとなったが、だからと言ってその責任が帳消しになるわけではない。
 ソ連邦はなお「社会主義」ではないと、明確に主張していたのは、トロツキーを先駆とするいわゆるトロツキストであり、そこに新左翼の存在理由の一つがあったのである。何度も引用しているが、トロツキーは一九三六年に執筆した『裏切られた革命』で、「空想の翼をどんなに勝手に広げて見ても、マルクスやエンゲルスやレーニンが描いた労働者国家の輪郭と〔ソ連邦の〕国家との間の対照のように甚だしい対照を想像することはできない」ときっぱりと批判したのである(論争社、一九六二年、五七頁)。
 しかも、後段の「ソ連の社会体制が社会主義の反対物」という認識は半分は誤りである。この小論では論及する余裕はないが、これでは、一九一七年のロシア革命とその後の社会主義をめざしたさまざまな苦闘を清算主義的に切り捨てることになるからである。だから、不破は、私が前記の論文で指摘したように、例えば「社会主義経済計算論争」の検討には決して進まないのである。
 さらに、その次の項目で「価値法則」について、「価値法則も歴史の産物であって」とつぶやいているが、北京での講演でも赤旗まつりでの講演でも今度の講義でもそれまで「価値法則」の四文字は一度も発音されたことがない。これまた、私が前記の批判で明確にすべきだと教示しておいた論点である。

 「必要に応じた分配」への疑問

 A 「あふれ出る富」の問題
 不破は、今年六月の第七回中央委員会総会で綱領改定案を提案する報告のなかで、「未来社会」についての部分で次のように語った。
 なお、つけくわえて言えば、マルクスがのべた共産主義社会での分配論にも、単純には絶対化するわけにはゆかない問題点があるように、思います。
 マルクスは、共産主義社会の低い段階では、生産物の量に制限があるから、なんらかの分配の基準がいる、それには、「労働におうじて」の分配という方式がとられるのが普通だろう、しかし、この方式では、いろいろな実態的な不公平が避けられない、こういう調子で議論をすすめます。
 そこから、この不公平を乗り越えて、各人が必要なだけの生産物を自由に受け取れるようになるためには、「協同的富のすべての源泉」から、生産物が「いっそうあふれるほど湧き出るように」なることが必要だ、生産がそこまで豊かに発展することが、高度な共産主義社会にすすむ条件の一つになる、こういう議論が、二段階論の重要な柱の一つになっています。
 しかし、すべての源泉からあふれるほどに生産物が湧き出るから、「必要におうじた」分配が可能になる、ということは、人間の欲望の総計を超えるような生産の発展を想定し、そのことを、共産主義の高度な段階の条件にする、ということです。はたして、そのような段階がありうるか、人間社会のそういう方向での発展を想定することが、未来社会論なのだろうか、ここには、私たちが考えざるをえない問題があります。
 すでに、一九世紀に生きた人びとの日常生活と現代人の日常生活をくらべるなら、生活の必要な物資の総量の違いには、ケタ違いの格差があります。しかも、人間の欲望は、今後の社会的な発展、科学や技術の発展とともに、想像を超える急成長をとげることが予想されます。その時に、簡単に、人間の欲望を超えて「あふれるほど」の生産、あるいはありあまるほどの生産を、未来社会の条件として安易に想定することは、それ自体が、未来社会論に新しい矛盾を持ち込むことになりかねません。
 長い引用になったが見てのとおりきわめて慎重な言い回しではあるが、とにかくマルクスの未来社会論、なかんずく生産力の発展論について、大きな問題があると、不破は指摘した。不破は、一九九七年に連載を開始して、翌年から三年かけて刊行した全七巻の『レーニンと「資本論」』いらい、レーニンへの批判を強調しているが、マルクスに対してはほとんど批判を口にしたことがなかった。だが、今、ようやく不破はマルクス批判に踏み出したかのようである。
 ところで、三年前に「赤旗」で、「レーニンはどこで道を踏み誤ったのか」などと刺激的な大見出しで、不破が正月からけたたましくレーニンを批判したものだから、朝日新聞社の『アエラ』がびっくりして「不破氏の今どきレーニン批判」なる記事を書いたことがあった(二〇〇〇年一月三一日号)。取材を受けた私は、レーニンを厳しく批判する「この路線を徹底させるなら、マルクスについても、どこが間違っていたか評価しなければならなくなる。自分たちの過去の発言が、誤りだったと認める必要もある」とコメントした。このコメントの後ろで、不破は「科学の目から、マルクスが言ったことでも、今の時点で間違っていることは遠慮なく批判します」と答えた。
 答えたと言っても、もちろんこのやりとりは記事を書いた記者(森川愛彦)が構成したもので、直接の応答が成立したわけではないが、いわば間接的には対話したことになる。それから、いくら待ってもマルクスへの批判的言及は聞こえてこなかったのであるが、ついに、不破もマルクスへの批判を口にしたわけである。
 これだけのことであれば、わざわざ一文をものすることもないのであるが、ここで不破がようやく取り上げている問題については、私はすでに二四年前に、そこには大きな問題があることを明らかにしていた。私は「ソ連邦論の理論的前提と課題」と題する論文を、当時所属していた第四インターの機関紙「世界革命」に発表した(最初の著作である『スターリン主義批判の現段階』稲妻社、一九八〇年に収録)。
 われわれに問われているのは<人間と自然>のあり方なのだ……。ただ生産力が増大すれば万事解決するというわけではない。これまで、この点と関連させて問題とされてはいないようであるが、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』で周知のように、生産の四つの契機の一つに<欲望>をあげていた。となると、人間の「豊かさ」の充足は絶対にありえなりないことにはならないのか。生産の増大にともなって欲望もまた増大するからである。この点からも、核心的問題は生産の量でなく、質であるという視点を、われわれは改めて理解しなげればならないのでないだろうか。(一八六頁)。
 この一句を、私は『社会主義とは何か』(稲妻社、一九九〇年)でも引用した。
 さらに一九九四年に私は、「『労働に応じた分配』の陥穽」(『協議型社会主義の模索』に収録)で、この通説を根本的に批判した。さらに、社会主義経済計算論争をフォローするなかで、オーストリアのクルト・ロートシルトが「成長と生産および消費の不断の拡大とは、社会主義の究極目標ではない」(C・H・フェインステーン編『社会主義・資本主義と経済成長』筑摩書房、二一〇頁)と明らかにしていたことを知った。
 この問題は、マルクス主義の限界の急所をなしているのではないか。ともかく、不破がここまで気づいたことは大きな前進である。ここまで認識したのであれば、「綱領改定案」になお記されている「物質的生産力の新たな飛躍的な発展」も問い直す必要がある。
 マルクスの『ゴータ綱領批判』での「分配」問題の理解については、さらにもう一つの問題があるのだが、不破の関心はそこには向かないようである。不破は、生産関係こそ重要という方向にのみ話を展開しているが、そのことを前提したうえで、「分配」問題も独自に重要であることを認識しなければならない。一九二〇年にミーゼスが提起した「社会主義経済計算論争」はそのことを教えていたのである。この点は、この間、しつこく主張しているので、ここでは繰り返さない(村岡到編『原典・社会主義経済計算論争』ロゴス社)。
 さらにもう一つの問題は、不破が「協同的富」と訳している、富に付けられている形容句の意味という問題があるが、この点も前に論じたことがあるので、ここでは指摘だけに留める。
 このように、一度、マルクスにも問題はなかったのかと鋭角的に問題を立てることができれば、私たちははるかに遠くまで反省を深め、マルクス主義を超えてすすむことが、社会主義を目指すものにとっての焦眉の課題であることが理解できるであろう。

 B 「労働者階級の権力」を捨てた不破
 もう一つ、不破が今度の「綱領改定案」で新しく提起している重要な問題なので、「労働者階級の権力」問題についても触れておこう。「労働者階級の権力」は従来、マルクス主義の根本教義であり、共産党の綱領でも「社会主義」の核心として位置づけられていた。
 不破は、報告のなかでこの用語を捨てたことを明らかにしたが、そのことはマルクスとはどのように関係しているのであろうか。周知のように、「労働者階級の権力」を強調したのは、「プロレタリアート独裁の承認」こそがマルクス主義者の試金石だと主張したレーニンである。だが、マルクスにも類似の認識はなかったのであろうか。言うまでもなく『共産党宣言』には「労働者革命の第一歩は、プロレタリア階級を支配階級にまで高めることである」という有名な一句が書かれていた。レーニンは『国家と革命』でこのマルクスを引用したうえで「労働者階級の権力」を強調したのである。
 マルクスはまた、『フランスにおける階級闘争』では「ブルジョアジーの転覆! 労働者階級の独裁!」を「革命的スローガン」として肯定していた(岩波文庫、六三頁)。
 したがって、不破が「労働者階級の権力」を捨てたということは、『共産党宣言』いらいのマルクスとマルクス主義の根本的教義を放棄したことを意味するはずなのである。
 『共産党宣言』にはこんな一句もあった。「近代の国家権力は、全ブルジョア階級の共同事務を処理する委員会にすぎない」(国民文庫、二九頁)。また曰く「法律、道徳、宗教は、プロレタリアートにとっては、背後にブルジョアの利益を隠しもったブルジョア的偏見である」(四一頁)。これらのいわば階級的認識もその当否が根本的に問われている。このように考えたマルクスは、もっぱら経済分析にのみ傾斜して、法(律)の諸問題を真正面から考察することができなかったのではないか。そして、不破もまた三時間にも及ぶ「報告」のなかで一度も法や法律について触れようとはしなかったのである。
 私自身について言えば、二年前から<則法革命>を提起してきたが、「労働者階級の権力」に問題があったことについては、ようやく今春になって気づき反省し改めた(オルタ・フォーラムQ編『希望のオルタナティブ』所収の拙論)。

 「『ゴータ綱領批判』の読み方」について

 不破は、今年八月一八日、党本部で「『ゴータ綱領批判』の読み方」をテーマに学習会で講義した。『前衛』十月号に資料とも七七頁を使って報告されている。不破は何を明らかにしたのか、簡単に検討しよう。

 A 「協議した計画に従って」への着目
 この小論のバランスを欠くことになるリスクを承知のうえで、まずは次の文章を紹介したい。
 最後に、目先を変えるために、共同的生産手段で労働し〔「協議した計画に従って」――フランス語版での挿入〕自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体を考えてみよう。
 マルクスの古典に造詣の深い人なら、テーマが『ゴータ綱領批判』だというのに、なぜ『資本論』の引用から始まるのだ、といぶかしく思うだろう。不破がこの文章をこのような形で引用――もちろん冒頭からではない――したから、私はバランスを犠牲にしてもまず初めに重引したのである。なぜか。
 初めに断らなくてはいけないが、文中の〔 〕は私のものではなく、不破の筆である。実は、『資本論』フランス語版のこの一句については、私が一九九七年に「『計画経済』の設定は誤り」で光を当てたことがあった。私はこの一句にヒントを得て、従来の「計画経済」に代わる<協議経済>(=「協議した計画経済」)を創案した。周知のように、長いあいだ、マルクス主義陣営ではソ連邦でも日本でも『資本論』フランス語版は無視・軽視されていたのである。
 だが、不破は折角、「協議した計画に従って」を引用しながら、この一句の意味についてはまったく一言も説明しない。通常、引用文に引用者が挿入を加える場合は、後の論述でその意味を説明するのが常識である。何の説明もほどこさないのなら、わざわざ挿入する必要はない。しかも、不破は引用文中の「自覚的に」のほうは説明はしないが、くりかえし使っている。だが、実はフランス語版ではこの「自覚的に」は削除されている。マルクスは「自覚的に」を削除して、「協議した計画に従って」と書き加えたのである。だから、わざわざ「フランス語版での挿入」と書き加えるのであれば、そのフランス語版では削除されている「自覚的に」を使うのは不整合である。引用にさいして、「自覚的に」のところに〔フランス語版では削除〕と表示すべきである。
 いや、不破は、フランス語版では「自覚的に」が削除されていることを見落としている。「マルクスは、フランス語版で、一つの語句〔「協議した計画に従って」:村岡〕を追加した以外には、未来社会の分配方法についてのそこでの叙述になんの変更もくわえていません」と言い切っている。私は、ドイツ語版もフランス語版も読めないから、邦訳に頼るしかないが、江夏美千穂・上杉聰訳のフランス語版では、前記引用の冒頭の「目先を変えるために」も削除されている(法政大学出版局、五四頁)。ここは文意には関係ないから無視するとしても、本稿では引用を省いた数行先に書いてある「労働時間の社会的計画的配分は」が、フランス語版では「社会内での労働時間の配分が」と書き換えられている。「計画的」がなぜかは不明だが、落ちている。重箱の隅にこだわるつもりはないが、「なんの変更もくわえていません」と強く言われると、そうではないと一言する必要が生じる。それにしてもなぜ不破は「協議した計画に従って」をわざわざ書き加えたのであろうか。テーマが『資本論』研究であれば、言及しても不思議ではないが、まったく唐突としか言いようがない。そもそも『資本論』フランス語版はほとんど読まれていない。
 ついでながら、前記の拙稿でも指摘したように、林直道の『フランス語版資本論の研究』(大月書店)でも、この問題の一句については、まったく何の注意も払われていない。 まさか、不破が私の<協議経済>を宣伝するために書いたわけではないであろうが、この一句が『前衛』に登場したことは実に喜ばしいことである。

 B 不破講義の大意
 さて、まっとうなスタイルにもどって、不破の今回の講義を検討しよう。まずは、講義の大意を確認する。
 不破は冒頭で、この講義の「主題」は「二つ」あると説明している。「第一は『ゴータ綱領批判』をどう読むべきか」で、「第二はこれまでの国際的な“定説”……がどのようにして生まれてきたか」にある。不破は「国際的に教科書的な“定説”となっていたとらえ方をくつがえす」と意気込んでいる。
 不破は「一 未来社会論とマルクス、エンゲルス」で、近年に不破が強調している「@科学のの目」なるものを強調し、マルクスは「未来社会の詳細な青写真を決してしませんでした」と繰り返し説いている。次に、「分配論でも原則的立場は同じ――『資本論』の場合」と項目を立てて、そこで、冒頭に引用した『資本論』第一部第一篇の商品論から引用して、それを解説する。さらに「一八九〇年にエンゲルス、未来社会の分配論を論じる」の項目で、エンゲルスが『ゴータ綱領批判』の「二段階発展論」を再説しなかったことを指摘する。
 次に「A『ゴータ綱領批判』の読み方」で、『ゴータ綱領批判』が書かれた背景を簡単に説明し、丹念に原文を「逐条的に読んで」解説する。その結論は、問題の「労働に応じた分配」と「必要に応じた分配」「への発展論は、この時点〔一八七五年〕での試論とみるのが適当ではないか」というものである。他にも国家論などにも触れている。
 「二 国際的な“定説”はどのようにして形成されたか」では、『ゴータ綱領批判』についての、「『国家と革命』でのレーニンの解釈に最大の出発点があ」るという「結論」から論述を始める。不破が「試論」と見るものをレーニンは「最高の到達点だと思いこん」だと強調する。そして、「分配論中心の共産主義論は、社会主義建設の路線をゆがめた」とレーニンを批判し、さらにスターリンが「ソ連社会美化の道具だてに」使ったと明らかにする。
 「三 未来社会論での今回の綱領改定案の意義」は、わずか二頁の確認にすぎない。
 この講義の他に「資料」として、『国家と革命』の第五章が全文とマルクスのバクーニン論が納められている。
 外形に関することではあるが、『前衛』に資料として、マルクスのバクーニン論はともかくとして、『国家と革命』の第五章が全文掲載されているのには呆れた。今や『前衛』の読者は、『国家と革命』も所持していないと予想・前提される時代になったのであろうか(販売にもマイナスではないか)。党幹部が参加者である学習会でも資料として配付されたとも紹介されている。そんなことに頁をさくのなら、この学習会での質疑を一つでも紹介したほうがよいだろうが、恐らく内容ある質疑はなかったのであろう。そして、外形は内実を反映することが多いのも「唯物論的現実」である。

 C いくつかの問題点
 次にこの講義をいかに評価すべきかについて、明らかにする。
 まず全体的には、大きな問題はなく、不破がここまで明らかにしたことはよいことであり、共通認識にすべきである。私がこのように書くのは、実はすでに私は一九九四年に「『労働に応じた分配』の陥穽」で、この問題についてマルクスの誤りを切開し、<生存権>に立脚する、新しい社会主義論を提示していたからである。
 不破の説明にさらに加えれば、「労働に応じた分配」がソ連邦の官僚の特権を正当化する理論的根拠とされたことのほうが重要である。この点については、伊藤誠が指摘している(『現代の社会主義』講談社学術文庫、九〇頁。『市場経済と社会主義』平凡社、七六頁)。私が前稿で明らかにしたように、ソ連邦では、当初の「平等賃金」体系を廃棄するテコとして、この定説がスターリンによって活用されたのである。どの著作だったか失念したが、父親の貧しさを訴えた少女にたいして、「労働に応じた分配」に因るのだと恫喝する官僚の話を読んだことがある。
 「分配問題」については、抽象的なレベルの問題もさることながら、これまた現実の経験の総括と教訓が必要なのである。この問題は、すでに私は「『労働に応じた分配』の陥穽」で論じているので、ここでは不破になぜ「社会主義経済計算論争」の検討を課題にしないのか、と注文するだけにする。
 この論点に関連して、不破は「主として人間の消費生活の側面から未来をとらえるという一面性」などと批判しているが、彼自身が『レーニンと「資本論」』第一巻では「消費の領域での巨大な変化」(@三二五頁)にだけ注意を向けていたではないか。さらに、なによりもこの講義でも依然として「生産力の躍進的な発展」を未来社会論の要点にしている。「生産力の躍進的な発展」の是非が根本から問われているのである。
 ところで、不破は『国家と革命』からの引用にさいして、「記帳」「計算」「手形割引」「在庫調べ」など多義的な意味をもつ「ウチョート」というロシア語をわざわざ「記帳」に「統一することにし」たと断っている。レーニンの社会主義論を無理矢理に「記帳と統制」論に絞り込みたいからであるが、結果として「経済計算」に意識が向かわないように作為したことにもなる。
 不破は、お得意の未来社会の「青写真」反対論をしつこく論じているが、今回は「詳細な青写真」と限定句を付けているのが特徴である。『レーニンと「資本論」』では「マルクスは社会主義の青写真を描いたことは一度もなかった」と、注にレーニンを引いて強調していた(B三六九頁)が、ここでは「詳細な」と限定している。項目は「青写真主義をいましめるいくつかの文章――マルクスの場合」「同――エンゲルスの場合」と立てられている。普通、「××主義」とは、その××を中心にしたり、それだけにこだわることを意味する。だから、行き過ぎだと注意され批判されることになる。雨になるなら傘の用意が必要だから、日和を見ることは悪いことではないが、ほんの少し雨の兆候があるだけでもハイキングは中止する日和見主義は非難されるようにである。だから、「青写真」の必要性を「青写真主義」にまで逸脱させるなら、それは批判されて当然である。そもそも「意識性」にこそ「人間の類的本質」を見るマルクス(『経済学・哲学草稿』)が、未来社会の青写真をまったく否定したり、不要なものと考えるはずはないのである。問題はその描き方にあるのである。
 こんな当然のことに紙数をさくのではなく、マルクスの時代から一五〇年も経って、ロシア革命をはじめとする少なくない経験のあとで、マルクスの「青写真」とその後の現実とを総括することこそが求められているのである。理念は現実との往復によって深化する、とユーゴスラビア研究者の岩田昌征が書いていた。
 『ゴータ綱領批判』について、不破は「内部的な忠告の書だった」と強調しているが、半分は正しいが半分は誤りである。「内部的な忠告」であったことは周知と言ってよいが、「書」と言えるものだったのか。不破も著作とまでは書いていないが、数人の幹部に回覧されただけの文書だった。それよりさらに重要なことは、この文書は、「ゴータ綱領草案」への批判だったという点である。マルクスのこの批判が活かされて、ゴータ大会で決定された「綱領」ではいくつも修正された。だから、本当なら、この決定された「ゴータ綱領」への批判も必要なはずであり、「ゴータ綱領」決定後に「草案」への批判がクローズアップされるのもおかしなことである。
 また、不破は、当時のドイツの党の事情については説明しているが、「労働全収益論」について、『労働全収益権史論』の著者アントン・メンガーについてさえ言及しない。少し視野を広げれば、生存権の歴史的意義と経過についても知ることができたはずである。 最後に、不破は綱領改定の意義を説いて講義を閉じるにあたって、「大胆に明らかにしています」などを見栄を切りながら、次の四点を挙げているが、その表記の仕方がいかにも不自然である。四点とは、略して紹介すると、資本主義時代の価値あるものの継承、国民の合意の必要性、生産手段の社会化、市場経済を通じて、であるが、各項目の頭には「――」が付けられているだけで、第一、第二でも、@Aでもない。前の二つと後の二つは次元が別であり、後者を普通に叙述すれば、「第一に生産手段の社会化、第二に市場経済を通じて……」となるほかない。なぜそうしないのか。綱領改定案での叙述がそのように整理されていないこと、さらに、分かりやすく説くには「第一に生産手段の社会化、第二に市場経済を通じて……」とすべきだと私が注意した(本書  頁)からであろう。ともかく、この重要な論点・問題をめぐって、不破はまだ思案中なのである。
 このように、今回の不破の講義は、従来の定説の検討に着手して、そこから脱却しつつあることについては大きくプラスに評価できるが、なお不徹底であることを免れていない。

 このように、私たちは、不破の講演など、最近の不破の新しい理論的探究について検討を加えてきたが、さらに不破に望みたいことがある。不破は近年、「科学の目」なるものを強調しているのであるが、そうであれば、研究対象と自分だけが存在しているかのごとき姿勢はやめたほうがよい。そのあいだに存在する既出の研究から学ぼうとしないのは、不破の一貫した非科学的思考である。さらに、ぜひとも「科学の目」に「党派的色めがね」を外すことを加えてほしいと切望する。
 そして、さらに一歩、だが決定的な一歩を進める必要がある。今や、マルクス主義を超えて社会主義を基礎づけることが課題なのである。もともと、「社会主義はある特定の世界観に結びつくものではない」(グスタフ・ラートブルフ『社会主義の文化理論』みすず書房、一三二頁)のである。


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マルクスの未来社会論と分配問題――『前衛』の不破論文批判

 「綱領改定案と日本共産党の歴史的転換」(下)ですでに、『前衛』10月特大号に掲載された不破哲三氏の講義「『ゴータ綱領批判』の読み方――マルクス、エンゲルスの未来社会論」に若干言及し、その問題点を部分的に明らかにしたが、ここではこの講義を正面から検討する。ただし、国家論との関連でレーニンの『ゴータ綱領批判』解釈を取り上げた部分については、すでに先の論文でかなり詳しく論じたので、基本的にここでは、未来社会論と分配論をめぐるマルクス、エンゲルスの立場に関する不破氏の解釈のみを取り上げよう。
 なお、マルクス、エンゲルス、レーニンの古典からの引用はすべて、この『前衛』論文とその巻末資料に挙げられているものを用いることにする。なぜなら、基本的に不破氏と同じ材料を用いて不破氏の議論に反駁したいからである。したがって、訳文はあまりよい出来栄えではないが、それには目をつぶっていただきたい(なお頁数のみを上げたものはすべて、『前衛』10月号からのもの)。

もくじ

  1. 『資本論』の「慎重さ」と『ゴータ綱領批判』の「断定」
  2. エンゲルスの分配論
  3. 分配論を中心にした未来社会論?
  4. 未来社会と自由論をめぐるマルクスとエンゲルスの相違
  5. 未来社会論と党綱領問題

1、『資本論』の「慎重さ」と『ゴータ綱領批判』の「断定」

 不破氏はまず、例によってマルクス、エンゲルスの「科学の目」について語り、両者が未来社会の青写真を描き出すことを厳格に戒めていたという話をしたあと、不破氏は、それは分配問題でも同じであったとして、『資本論』第1部第1篇の商品論(物神崇拝論)の一節を出す。最も重要な部分のみを再掲しよう。

 「この分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに照応する生産者たちの歴史的発展程度とに応じて、変化するであろう。もっぱら商品生産と対比するだけのために、各生産者の生活手段の分け前は、彼の労働時間によって規定されるものと前提しよう」(26頁)。

 さて、不破氏は以上の引用部分にもとづいて次のように述べている。

 「こうして問題を整理したのち、マルクスは、第5段落から、未来社会の分配の問題に入るのですが、その論じ方は、『ゴータ綱領批判』とくらべて見ると、たいへん慎重です。
 マルクスはまず、分配の仕方は、『社会的生産有機体そのものの特殊な種類』によって、また『生産者たちの歴史的発展程度』に応じて変化する、ことを強調します。『ゴータ綱領批判』の場合には、共産主義社会の低い段階ではこうなる、高い段階ではこう変わると、かなり断定的なのですが、マルクスは、『資本論』では、同じ共産主義社会でも多様であり、歴史的にも変化する、ということを、第一の命題として押し出しています。
 つづいて、マルクスは、労働時間に応じての分配という一つの具体的方法をとりあげます。この分配方法そのものは、『ゴータ綱領批判』で、共産主義社会の低い段階の分配方式として説明するものと、基本的には同じなのですが、位置づけは大きく違っています。
 『ゴータ綱領批判』では、低い段階での分配方式は当然こうなるという断定調なのですが、『資本論』では、そうではありません。ここでは、こういう分配方法を『前提』するが、それは、『もっぱら商品生産と対比するだけのために』前提するのでみって、この段階ではこうなるという断定ではないのだ、ということを、わざわざ断っています。
 つまり、マルクスは、『資本論』では、『ゴータ綱領批判』での最初の段階の説明と同じように、『労働に応じた分配』の方式を問題にしてはいるのですが、これは、あくまで議論をすすめる上での仮定であって、これとは違う方式になる場合も当然ある、もともと分配方式というものは、社会の歴史的性格によっても違ってくるし、生産者たちの発展段階によっても変化するものだ、こういうことを繰り返し説明するわけです。分配方式については、それだけ慎重なのです」(27頁)。

 このように不破氏は、繰り返し『資本論』での記述の「慎重さ」を繰り返し、『ゴータ綱領批判』における「断定」との違いを強調する。あたかも、この「違い」に何か深い意味が隠されているかのようである。しかし、マルクスが分配の仕方を変化させる因子として「社会的生産有機体そのものの特殊な種類」だけでなく、「これに照応する生産者たちの歴史的発展程度」を挙げたとき、彼が念頭においていたのは、資本主義社会や共産主義社会といった社会構成体の違いによって生じる変化だけでなく、共産主義社会の内部でも「生産者たちの歴史的発展程度」の違いによって生じる分配方式の変化であろう。つまりは、共産主義の低い段階と高い段階における分配様式の違いである。ただ、そのことを正面から論じるような文脈ではなかったので、そのことを匂わせるだけにして、「労働に応じた分配」についてのみ、まさに商品生産社会と対比するために持ち出したのである。
 したがって、未来社会の分配方式をめぐって『資本論』と『ゴータ綱領批判』とのあいだに何らの矛盾もないばかりか、両者は深く一致しているとみなすべきである。
 さらに不破氏は、『ゴータ綱領批判』が書かれた時期が、『資本論』の第二版やフランス語版にすぐ続く時期であったのに、この部分の『資本論』の記述にほとんど変化がなかったことを指摘しつつ、次のように述べている。

 
 「マルクスは、『ゴータ綱領批判』では未来社会の分配論をあれだけ展開したのに、そもそもの原論にあたる『資本論』では、最初からの慎重な叙述を、最後まで変更しようとしなかったのです」(28頁)。

 またしても何かこの事実に深い意味があるかのように書かれているが、結局、だから何なのか、ということは言われていない。また、「そもそもの原論にあたる『資本論』では」と言うが、『資本論』は別に共産主義社会論の原論でもなんでもない。それはただ資本主義社会の運動法則を明らかにすることを目的としたものであり、未来社会論を本格的に論じるものではない。『資本論』の本源的蓄積論の最後の部分(有名な「収奪者が収奪される」や「個人的所有の再建」について書かれた部分)でも、わずかに未来社会についても論じているが、その記述もきわめて簡単である。あくまでも『資本論』は資本主義社会の運動法則を明らかにしたものなのだから、当然である。「そもそもの原論である」などと言うことによって、読者をミスリーディングしてはならない。


2、エンゲルスの分配論

 次に不破氏は、エンゲルスが1890年にコンラート・シュミットに宛てた手紙を引用している。それをここで全文再掲しておこう。

 「『フォルクス・トリビューネ』でも、未来社会における生産物の分配について、それが労働量に従っておこなわれるのか、それとも別の方法でおこなわれるのかについて、討論がおこなわれました。人々は、一種の観念論的な公正談議にたいして、問題をきわめて『唯物論的に』とらえはしました。しかし奇妙なことに、分配方法は本質的にはやはり、分配されるべきものがどれだけあるかにかかっていること、そしてこの分量はやはりおそらく生産と社会的組織との進歩につれて変化するであろうし、したがっておそらく分配方法も変化するであろう、ということには、だれひとり気づかなかったのです。そして参加者のだれにも、『社会主義社会』は不断の変化と進歩をたどるものとしてではなく、不動の、それきり変わらないもの、したがってまた、それきり変わらない分配方法をもつべきものと思われているのです。だが、分別をもってやれることは、ただ、(1)はじめに採用する分配方法を発見しようと試みること、(2)それ以後の発展のたどる一般的傾向を見いだそうとつとめること、だけです。しかし私は、討論全体をつうじて、この点にふれたことばをひとつも見つけません」(28〜29頁)。

 不破氏は、この引用文の後半部分に注目し、次のように述べる。

 「問題は、この手紙の後半にあります。
 すなわち、『社会主義社会』とそこでの分配方法についての、論争者たちの固定的な形而上学的議論にたいして、エンゲルスが対置しているもの――『分別をもってやれること』としてエンゲルスが提起している二つの提案の内容です。
 エンゲルスは、まず第一に、『はじめに採用する分配方法を発見しようと試みること』をあげています。
 そこから、疑問が出てきます。『ゴータ綱領批判』が、未来社会の分配方武の問題についてのマルクス、エンゲルスの到達点だとしたら、エンゲルスはなぜ、『ゴータ綱領批判』で、共産主義社会の低い段階における分配方式だと規定された『労働に応じての分配』の原則を説明しないで、『はじめに採用する分配方法を発見しようと試みる』といったあいまいで不確定な提案をおこなったのだろうか。
 エンゲルスは、第二に、『それ以後の発展のたどる一般的傾向を見いだそうとつとめること』を提案します。ここでも疑問が出てきます。
 『ゴータ綱領批判』が到達点だとしたら、分配方法の発展方向は、『労働に応じて』から『必要に応じて』への移行・発展にある、ということを、なぜはっきりと説明しないのか。なぜ、ここでも答えが不確定な状態にとどまっているかのような回答をするのか」。(29〜30頁)。

 しかしながら、エンゲルスの文章を読めば分かるように、その主たる論点はやはり『ゴータ綱領批判』での議論と矛盾していない。すなわち、分配方式は社会主義社会の内部でも同一ではなく、それは変化発展するものであること、しかも、「分配方法は本質的にはやはり、分配されるべきものがどれだけあるかにかかっていること」、そして「この分量はやはりおそらく生産と社会的組織との進歩につれて変化するであろうし、したがっておそらく分配方法も変化するであろう、ということ」、また、はじめに採用する分配方式が存在し、それ以後にたどる発展の「一般的傾向」が存在するということ、である。これは明らかに、そうははっきり言っていないが、社会主義社会においては最初に「労働に応じた分配」があり、次に「分配されるべきもの」の量の変化に応じて「必要に応じた分配」へと発展する「一般的傾向」が存在するということを念頭においての発言であることを示唆している。もしそうでないとしたら、どうして、「ゴータ綱領批判」と同じく、分配されるもののの量によって分配方法が変わる、などとエンゲルスは言ったのか、まったく説明がつかない。
 不破氏は、エンゲルスが「労働に応じた分配」にも「必要に応じた分配」にもはっきり言及していないことをしきりに問題にしている。だが、『ゴータ綱領批判』はあくまでもマルクス個人の見解である。マルクスとエンゲルスは多くの点で意見が一致していたとはいえ、両者はあくまでも別人格であり、マルクスが言ったことを絶対の真理としてエンゲルスがただちに信奉しなければならない理由はない。エンゲルスとしては、マルクスの分配論にそれなりの感銘を受け、説得力を感じただろうが、自分の意見として完全に採用したのではなかった(この点については後で再論する)。それゆえ、未来社会の分配様式について論じたとき、エンゲルスは、マルクスの分配論と矛盾しない言い方で、しかし明確な回答をぼかして議論したのである。
 したがって、不破氏が、別の箇所で出している「エンゲルスは、1895年に死ぬまでの20年間のあいだに、未来社会を論じる機会が無数にありながら、なぜ『ゴータ綱領批判』での分配論や二段階発展論に触れることを、いっさいしなかったのか」(31頁)という問いの答えも明らかであろう。エンゲルスは、マルクスの分配論を最後まで自分の意見として採用するにいたらなかった、あるいは十分にその意義を理解することができなかったので、マルクスの分配論を展開しなかった(あるいはできなかった)のである。ただそれだけのことである。
 不破氏は、いつでもどこでもマルクスとエンゲルスを一体にして考えすぎであり、それが多くの誤解や誤りの源泉になっている。すでにわれわれは、「綱領改定案と日本共産党の歴史的転換(下)」で国家の死滅をめぐってマルクスとエンゲルスに違いがあったことを指摘し、そのことを不破氏が理解していないことを明らかにしておいたが、ここでも不破氏のこの無意識の思い込みが悪影響を及ぼしている。
 なお、マルクスに関しても不破氏は、「ゴータ綱領批判」の執筆から死ぬまでの8年間になぜこの分配論を再論しなかったのかと問うているが、その理由は第一に、そうする機会が二度と訪れなかったからである。「ゴータ綱領批判」で十分に自分の言いたいことを言い尽くしたのだから、それ以上とくに何かを言う必要はなかったのであろう。第二に、当時にあっては共産主義を主として分配の側から定義する傾向がなお強力であり、生産関係の問題を前面に押し出すことこそが主要な課題だったからである。

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マルクスの未来社会論と分配問題――『前衛』の不破論文批判

3、分配論を中心にした未来社会論?

 つづけて不破氏は、『ゴータ綱領批判』そのものの検討に移る。まず、『ゴータ綱領批判』が書かれた背景について詳しく紹介し、それが、ラサール派の誤った分配論を綱領の中に持ち込むことに対する反論として書かれたものであることを強調する。この点に関してはわれわれも異論はない。そのうえで、不破氏は、「分配問題を主軸にして未来社会の発展を描き出す」ことの誤りを述べ、その点については、『ゴータ綱領批判』におけるマルクスの注意書きで明らかだとしている。その注意書きにはなかんずく、次のように書かれている。

 「俗流社会主義はブルジョア経済学者から……、分配を生産様式から独立したものとして考察し、また取り扱い、したがって社会主義を、主として分配を中心にするものとして叙述することをうけついだ。真の関係がとっくに明らかにされているあとで、なぜふたたび逆戻りするのか」(43頁)。

 不破氏は、この注意書きにもとづいて、次のように述べている。

 「マルクスのこの注意書きを、いま読みなおすと、『ゴータ綱領批判』から、分配中心の未来社会論を組み立てる傾向が、将来現われるかもしれないことを予想して、そんなことは絶対してはならないよ、と釘をさした警告のようにも読めます」(44頁)。

 問題は、『ゴータ綱領批判』の該当部分がそのような「分配中心の未来社会論」であるのかどうか、したがってそれに依拠したレーニンや現行綱領などの立場が「分配中心の未来社会論」であるのかどうか、であろう。
 マルクスは言うまでもなく、レーニンも現行綱領も、「労働に応じた分配」が起こる前に、社会主義革命と資本主義的生産様式の廃棄という根本的な生産関係の変革が生じなければならないことを熟知していたのだから、そもそもブルジョア経済学や俗流社会主義並みの「分配を中心とした未来社会論」であるはずもないのである。もしレーニンや現行綱領が、そうした生産関係の変革と無関係に、「労働に応じた分配」の導入について語っていたとしたら、それは「分配中心の未来社会論」であろうが、言うまでもなく、そんなことはない。そもそも、社会主義革命の実現なしに資本主義社会の中で「労働に応じた分配」を導入すれば平等や公正が実現すると主張した者が、スターリンを含めて世界の共産主義運動の諸潮流の中にいたのかどうか、そんなばかげた意見が「定説」であるのかどうか、不破氏はきちんと語るべきだろう。
 もちろん、そんな者は誰もいない。したがって、「共産主義の二段階」説のうちに「分配中心の未来社会論」を見ようとし、それに対するマルクスの警告を持ち出して「釘を刺して」も、それはまったく的外れの忠告なのである。
 同じことは「労働に応じた分配」から「必要に応じた分配」への移行に関しても言える。マルクスは『ゴータ綱領批判』で、この分配様式の変化には生産面および社会全体でのさまざまな変化が必要であることをきちんと語っている。1「分業の下への諸個人の奴隷的な従属がなくなること」、2「精神的労働と肉体的労働との対立がなくなること」、3「労働が生きるための手段だけでなく、労働そのものが第一の欲求になること」、4「諸個人の全面的な発達にともなって彼らの生産諸力も増大し、協同的富のすべての源泉がいっそうあふれるほどに湧き出るようになること」、である(39頁)。こうした生産部面での変化を語ったのちに分配方式の変化を語っているのだから、明らかにマルクスのこの二段階説は「分配中心の未来社会論」ではない。
 ではレーニンはどうか。レーニンは、『国家と革命』の中で『ゴータ綱領批判』の該当部分をまるごと引用した上で、とりわけ、「精神的労働と肉体的労働との対立がなくなる」という基準に注目し、この対立こそ「現代の社会的不平等の最も重要な源泉の一つ」としている。さらに、「分業と手を切り、精神的労働と肉体的労働の対立を廃絶し、労働を『第一の生命欲求』に転化する」という条件を繰り返している(82頁)。したがって、レーニンが、生産面および社会全体の決定的な変化を無視して分配様式の変化を語っていないことは明らかである。レーニンの未来社会論も「分配中心の未来社会論」ではない。 次に、現行綱領はどうか。まず61年綱領を見てみよう。そこでは次のように書かれている。

 「共産主義のたかい段階では、生産カのすばらしい発展と社会生活のあたらしい内容がうちたてられるとともに、人間の知的労働と肉体労働の差別が消えさるだけでなく、『各人は能力におうじてはたらき、必要におうじて生産物をうけとる』ことができるだろう」。

 このように、61年綱領は、「必要に応じた分配」について、共産主義の高い段階のさまざまな要件の一つとしてのみ挙げており、それ以外の要件はすべて『ゴータ綱領批判』にのっとって生産面および社会全体での変化である。61年綱領もまた「分配中心の未来社会論」でないことは明らかである。
 現行綱領では次のようになっている。

 「共産主義社会の高い段階では、生産力のすばらしい発展と社会生活の新しい内容がうちたてられ、社会は、『能力におうじてはたらき、必要におうじてうけとる』状態に到達する」。

 違いは、61年綱領にあった「人間の知的労働と肉体労働の差別が消えさる」という要件が削除されていることである。これは、第20回党大会でなされた変更であり、この点について不破氏は当時、この差別の撤廃は「共産主義社会の高い段階までまたないでも、低い段階、すなわち社会主義社会の段階でも解決できる課題に変化しつつある」からだと説明している(『前衛臨時増刊 日本共産党第20回大会特集号』、124頁)。この判断の是非はおいておくとして、いずれにせよ、現行綱領も、生産面および社会全体の変化と無関係に分配様式の変化について論じたものではない。
 不破氏は、こうした事実を完全に無視して、分配法則の変化を指標の一つとしてあげていることそれ自体を、「分配中心の未来社会論」であると歪めるているのである。


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マルクスの未来社会論と分配問題――『前衛』の不破論文批判

4、未来社会と自由論をめぐるマルクスとエンゲルスの相違

 次に不破氏は、分配を中心として未来社会を捉えることにはもっと大きな危険があり、それは「人類史における共産主義社会の位置づけを、極端にきりちぢめてしまう」ことだと述べている。

 「この議論によると、共産主義社会の高度な発展とは、『労働に応じて』の原則から『必要に応じて』の原則への発展だと、よく言われます。『必要に応じて』とは、言い換えれば、人間が、自分が欲するだけの生産物をいつでも自由に手に入れるようになることです。これが、理想社会の目標だとしたら、あまりにも寂しすぎる、わびしい話ではないででしょうか」。

 このように述べて、不破氏は、マルクス、エンゲルスの未来社会論がいかに壮大でロマンに満ちているかを、マルクスとエンゲルスからの引用によって説明する。ここで、不破氏は、未来社会の「自由論」をめぐって、実はマルクスとエンゲルスのあいだに深刻な違いがあることをまったく理解していない。両者とも同じ自由論を唱えていたという無意識の前提に立って、両者からの引用をしている。そして、この両者の違いは、分配論をめぐる両者の違いとも結びついていた。そして、「生産手段の社会化」を未来社会論の永続的中心におく不破氏の考え方は実は、エンゲルスにもとづくものであって、マルクスにもとづくものではないのである。
 不破氏がおこなっているマルクスの最初の引用は、『経済学批判』序言からのもので、「ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。……この社会構成体をもって人類社会の前史は、終わりを告げる」という文章である。しかしこれは、不破氏も述べているように、未来社会に直接触れているものではないので、ここでも検討を割愛しておこう。
 次に不破氏が引用しているのは、エンゲルスの『自然の弁証法』と『反デューリング論』からの次のような引用である。

 『自然の弁証法』……「物の生産と分配とを計画的に行なう社会的生産の意識的な組織ができてはじめて、人間は、社会的関係においても残りの動物世界から抜け出すことができるのであって、それは、生産一般のおかげでこれが人問に特有な関係においてなしとげられたのと同様である。歴史の発展によって、このような組織は日々ますます避けられないものになり、しかも日々ますます可能にもなっている。このような組織から一つの新しい歴史時代が始まり、そこでは人間自身が、また人間とともにその活動の全部門が、とりわけ自然科学も、従来のものをすべてはるかに凌駕する一大躍進をとげることになるであろう」(『前衛』10月特大号、44〜45頁)。
 『反デューリング論』……「これによって、はじめて人間は、或る意味で、決定的に動物界から分かれ、動物的な生存諸条件から抜けだして、本当に人間的な生存諸条件のなかへ足を踏み入れる。
 いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生存諸条件の全範囲が、いま人間の支配と統制とに服する。人間は、いまでは、自分自身の社会的結合の主人となるので、また、そうなることによって、はじめて自然の意識的な本当の主人となる。……このときから、人間は、はじめて十分に意識して自分の歴史を自分でつくるようになる。このときから、人間が作用させる社会的諸原因は、はじめてだいたいのところ自分が欲したとおりの結果をもたらすようになり、また、その度合いもますます高まっていく。これは、必然の国から自由の国への人類の飛躍である」(45頁)。

 不破氏はこれらの「気宇壮大」で「壮大さとロマンをもった共産主義社会」の「未来像」と比べて、「必要に応じて」を最大の旗印とした分配論的な未来像は「あまりにも貧弱」であるとし、「前者では、未来社会が人類社会のかぎりない躍進の新時代としてとらえられているのにたいし、後者は、主として人間の消費生活の側面から未来をとらえるという一面性を、まぬがれえません」(45頁)と述べている。このような判断は、後で述べるようにまったく的外れで、いかに不破氏がマルクスの思想を理解していないかを如実に示すものであるが、ここでは、とりあえず、エンゲルスの主張を確認しておこう。
 エンゲルスは、『自然の弁証法』では、人間が「動物世界から抜け出す」ことの内容として「物の生産と分配とを計画的に行なう社会的生産の意識的な組織ができ」ることを挙げており、また『反デューリング論』では、「自由の国」の内容として、「人間をとりまく生存諸条件の全範囲が、いま人間の支配と統制とに服する」こと、人間が「自分自身の社会的結合の主人となる」ことを挙げている。どちらも言っている内容はほぼ同じであり、基本的に、生産手段の社会化をてこにして、計画的な生産を行ない、自然や物質的生産を人間の統制と意識のもとに服させることが、「動物世界から抜け出す」ことであり、「必然の国から自由の国への人類の飛躍」の内容であるとされている。この点をしっかり確認しておこう。
 さて次に、不破氏によるマルクスからの引用に移ろう。不破氏は、『資本論』第3部の三位一体定式を論じた部分から次の文章を引用する。

 「自由の王国は、事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところで、はじめて始まる。したがってそれは、当然に、本来の物質的生産の領域の彼岸にある。未開人が、自分の諸欲求を満たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないように、文明人もそうしなければならず、しかも、すべての社会諸形態において、ありうべきすべての生産諸様式のもとで、彼〔人〕は、そうした格闘をしなければならない。彼の発達とともに、諸欲求が拡大するため、自然的必然性のこの王国が拡大する。しかし同時に、この諸欲求を満たす生産諸力も拡大する。この領域における自由は、ただ、社会化された人間、結合された生産者たちが、自分たちと自然との物質代謝によって――盲目的な支配力としてのそれによって――支配されるのではなく、この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおくこと、すなわち、最小の力の支出で、みずからの人間性にもっともふさわしい、もっとも適合した諸条件のもとでこの物質代謝を行なうこと、この点にだけありうる。しかしそれでも、これはまだ依然として必然性の王国である。この王国の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の王国が――といっても、それはただ、自己の基礎としての右の必然性の王国の上にめみ開花しうるのであるが――始まる。労働日の短縮が根本条件である」(46頁、強調は本稿筆者)。

 この文章をよく読めばわかるように、「自由の王国」に関して、エンゲルスとマルクスではまったく違う意見が表明されている。エンゲルスにあっては、計画的な生産をおこなって物質的生産を人間の統制と意識に服させることが「自由の国への飛躍」であるとされていたのが、マルクスにあっては「社会化された人間、結合された[連合した]生産者たちが、……この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおくこと」はまだ「依然として必然性の王国」にとどまっており、「自由の王国」は、もっとその先にあるのだ、としている。この違いは誰の目にも明らかだと思われるが、不破氏は自分で引用しておきながら、この違いにまったく気づいていないようだ。
 マルクスが言うところの「社会化された人間、結合された[連合した]生産者たちが、……この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおくこと」は、共産主義社会の低い段階に相当する。この段階では、たしかに、生産(「自然との物質代謝」)を連合した生産者たちの共同の管理においているという点では、一定の自由を獲得しているが、しかしそれはまだ物質的生産の必要性に縛られ、人は生きるために労働をするという水準にある。「労働日の短縮が根本的条件である」というここでの記述と『ゴータ綱領批判』での記述を思い起こせば、この先にあるものとは、明らかに、労働そのものが第一の欲求になり、協同的富のすべての源泉がいっそうあふれるほどに湧き出るようになるという共産主義の高い段階であろう。なぜなら、生産力の高度な発展なしには「労働日の短縮」は不可能だからである。
 そしてこの段階ではもはや、高い生産力を前提にして、労働は生きるためにやむを得ずおこなわれる労苦ではなくなり、人は、自分たちが生きていくために必要なものを必要に応じて入手することができるようになる。もはや人は、いっさい生活の心配をすることなく、自分の人生を自由に生きることができるようになる。これこそ「物質的生産の領域の彼岸」にある「自由」である。
 以上のことから明らなように、エンゲルスの自由論が基本的に「生産手段の社会化」による生産の計画的運営という段階(共産主義の低い段階)にとどまっているのに対し、マルクスの自由論は、その段階を超えて、労働そのものが「第一の欲求」となり、「必要に応じた分配」がなされる段階(共産主義の高い段階)にまで進んでいる。結局、エンゲルスが「共産主義の低い段階」での自由論にとどまったのは、彼が『ゴータ綱領批判』におけるマルクスの二段階論の意味を十分に理解していなかったからであると考えられる。また、彼独特の自然科学的な社会観も関係していると見るべきだろう。人類が自然科学にもとづいて自然界にアプローチし、こうして自然を支配するのと同じアナロジーで、今度は生産手段の社会化と計画経済にもとづいて社会に科学的にアプローチし、社会を管理するというのが、エンゲルスの基本的な発想なのである。
 不破氏はエンゲルスのこうした見方を受け継いでおり、それゆえ、「生産手段の社会化」が資本主義社会から社会主義社会への変革の中心とみなされるだけでなく、共産主義社会の発展過程全体を支配する中心軸だとみなしているのである。不破氏にあっては、このような観点は基本的にずっと以前からのものであったが、「定説」にしたがって共産主義の二段階説も形式的には維持されていた。しかし、不破氏は、この自然科学的社会観にもとづいて自分の認識を首尾一貫させるにいたり、マルクス主義世界の「定説」である「共産主義の二段階」説に宣戦布告し、それを公然と放棄するにいたったのである。
 ただ不破氏は、この問題でマルクスとエンゲルスが異なった意見を持っていた可能性にまったく考えが及ばなかったので、『ゴータ綱領批判』でのマルクスのきわめてはっきりとした見解の前に当惑し、エンゲルスがこの問題で何も確定的なことを述べていないことを持ち出すことで、この『ゴータ綱領批判』を相対化し、最終的に「この時点での試論」(48頁)にすぎないとして片づけることにしたのである。
 ところで不破氏は、この文脈の中で、「必要に応じた分配」原則について次のように述べている。

 「分配論的な未来社会論が、発達した共産主義社会の目標としているのは、『能力に応じてはたらき、必要に応じてうけとる』でした。『能力に応じてはたらく』も、これは物質的生産――『必然性の王国』に属する話です。『必要に応じてうけとる』も、生産物の分配と消費の問題であって、やはり『必然性の王国』に属する話です。これが、マルクスの共産主義社会論だと思い込んだら、未来社会の真の値打ちが発揮される舞台――『真の自由の王国』が、未来社会論から消しさられてしまうことになるではありませんか」(47頁)。

 まったくマルクスの思想を理解していない発言である。「能力に応じてはたらく」が「物質的生産――『必然性の王国』に属する話」だというが、不破氏の想定する「自由の王国」では、誰も働かなくていい社会が実現しているとでも言うのだろうか。まさか! 物質的生産は常になされなければならない。社会全体として労働の必要性そのものは消えない。しかし、生産力の高度の発展によって、直接的な物質的生産に必要な時間が大きく短縮されることで自由時間が増えるとともに、個々人がおこなう労働は、その個人が生きていくために社会的・経済的に強制される労働ではなくなり、それ自身が自由の行為となる。なぜなら、「必要に応じた分配」がなされるからである。現代社会において人が労働(賃労働)をするのは、そうしないとすぐ明日のおまんまの問題が生じるからである。それは自由の行為ではなく、あくまでも強制された労働である。「労働に応じた分配」の社会でも、同じような制限が残る。だが「必要に応じた分配」の行なわれている社会では、この糊口問題は基本的に生じない。人は自由の行為として労働をする。それは、現在でも人がボランティアや社会活動などに喜びを感じているのと共通しているが、未来社会ではすべての労働がこのような自発的性格を持つようになるということである。
 不破氏は、「必要に応じた分配」さえも「生産物の分配と消費の問題」だから「『必然性の王国』に属する話だ」と断言しているところから見て、どうやら彼は、「自由の王国」が物質的生産とまったく無関係なところで成立するものであると考えているようである。しかし、そのような王国を支える膨大な物質的手段はいったいどこから生じるのか? まさか天から降ってくるとでも? あるいは、永遠の動力で動く完全自動機械がいっさいの必要物を自然界から作り出してくれると想像しているのだろうか?
 マルクスが言う「自由の王国」が実現する物質的基盤こそ、『ゴータ綱領批判』で彼が列挙した「共産主義の高い段階」の諸条件、すなわち、分業への隷属の廃棄、精神的労働と肉体労働との対立がなくなること、労働そのものが第一の欲求となること、協同的富があらゆる源泉からあふれ出ることであり、そしてそれらの条件に規定されて「必要に応じた分配」がなされることなのである。このような物質的・経済的諸条件があってはじめて、「自由の王国」が成立するのである。


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マルクスの未来社会論と分配問題――『前衛』の不破論文批判

5、未来社会論と党綱領問題

 次に、未来社会論と綱領問題に関する不破氏の考察を検討しよう。不破氏は、『ゴータ綱領批判』でマルクスが要求したのはラサール流の分配論を書き込むなということであって、自分の分配論を書き込めということではなかったことを示すものとして、マルクスが起草した1880年のフランス労働党の綱領前文と、エンゲルスによる1891年のエルフルト綱領批判を取り上げている。まずフランスの労働党綱領の前文を取り上げよう。
 この前文は次のようになっている。

 「生産階級の解放は、性や人種の差別なしに、すべての人間の解放であること、
 生産者は生産手段を所有する場合にはじめて、自由でありうること、
 生産手段が生産者に所属することのできる形態は、次の二つしかないこと、
 1、個人的形態――この形態は普遍的な現象であったことは一度もなく、また工業の進歩によってますます排除されつつある、
 2、集団的形態――この形態の物質的および知的な諸要素は、資本主義社会そのものの発展によってつくりだされてゆく、
 以上のことを考慮し、また
 このような集団的取得は、独立の政党に組織された生産階級――すなわちプロレタリアート――の革命的行動からのみ、もっぱら生まれうること、
 このような組織の達成をめざして、普通選挙権をもふくめて、プロレタリアートの自由になるあらゆる手段で努力しなければならないこと、このことによって、普通選挙権は、これまでのような欺隔の用具ではなくなって、解放の用具に転化すること、
 以上のことを考慮して、
 フランスの社会主義的労働者は、経済の部面ではすべての生産手段を集団に返還させることを目標として努力する一方、組織化および闘争の手段として、次の最小限綱領をもって選挙に参加することを決定した」(52頁)。

 この前文は非常に有名なものであるが、不破氏はこの引用文を踏まえて次のように述べている。

 「読めばすぐ分かるように、マルクスは、『生産手段の社会化』を、党綱領の中心にすえました。そこには、生産手段の社会化がどんな分配方式を生み出すかについての示唆もなければ、未来社会の発展段階の予想もありません。ここには、この段階で、マルクスが、未来社会論にかかわって、社会主義政党の綱領に何を求めていたかが、はっきり現われています」(52〜53頁)。

 フランス労働党の綱領前文に未来社会の分配論がないのは、いわば当たり前である。これは、マルクスが自分の分配論を放棄したとか、どうでもよいとみなしていたことを示唆するものではまったくない。労働党は、基本的に社会主義的変革を遂行する党として存在していたのであって、その基本点である「生産手段の社会化」が綱領の中心になるのは当然である。共産主義社会が発展していけば、おそらくは労働党のような政党自体が存在しなくなるのであって、労働党の綱領にそのような共産主義の高い段階の話が出てこないのは、しごく当然なのである。
 ただし、当面する社会主義革命のみを目標とする労働党ではなく、共産主義の高い段階までをも展望する共産主義政党の綱領はまた話が違ってくる。おそらくは、共産主義の高い段階にいたるまでに、共産党そのものも存在しなくなるだろうが、そのような社会を綱領で展望すること自体は否定されるものではないし、「共産主義」政党ならばむしろ、その名前の由来である「共産主義の高い段階」にまで言及することは、ある意味で必然的なのである。
 次に不破氏はエンゲルスのエルフルト綱領批判を取り上げる。ここでも未来社会の分配論について何も述べられていないことを不破氏は確認し、自分の説を繰り返し補強する。しかしすでに述べたように、エンゲルスはそもそも、マルクスの「共産主義の二段階」説自体を完全には共有していなかったのだから、その話がまったく出てこないのもやはり当たり前なのである。
 以上で、未来社会論と分配論に関するマルクスとエンゲルスの考えを分析した不破氏の理論の検討は終わりである。不破氏が、「定説」を機械的に反復するのではなく、自分の頭で考え独自に検討しようと努力したこと自体は、もちろん評価されてしかるべきだろう。しかしながら、問題は、その検討結果が結局は誤りであったこと、さらに深刻なことに、その個人的考えを個人の見解にとどめずに、一足飛びに綱領の改定にまで貫徹させようとしていることである。せめて、不破氏は、綱領改定案にこの自分の個人的考えをいきなり押し込むのではなく、『前衛』で自分の見解を公表し、それをめぐって研究者を交えた公開討論をするべきであったろう。もしそうしていたら、その問題提起はそれなりに積極的な意味を持っただろう。誤った理論でも正しい認識の発展の一契機になりうるからである。
 しかし、彼がそうした手続きをいっさい踏まず、いきなり綱領改定案に自分の個人的思いつきを強引に持ち込んだことは、不破氏の個人的意見=党の意見となるというわが党の根本的な体質をはっきりと物語っている。

2003.10.18〜19 (S・T編集部員)


週刊『前進』(1948号5面1)

 本多延嘉書記長

1934年2月6日、東京に生まれる。54年早稲田大学入学。早稲田大学新聞編集長。日共早大細胞を指導。56年ハンガリー革命の衝撃を受けスターリン主義の問題を根本的にとらえ返す。トロツキー教条主義との闘いをつうじて(革共同第一次、第二次分裂)、59年革共同全国委員会を創設。以降、革共同書記長。63年黒田一派の卑劣な分裂・逃亡と闘う。69年4月27日、4・28沖縄闘争を前に破防法40条で逮捕、2年間の獄中闘争。二重対峙・対カクマル戦争を最先頭で指導しているさなかの75年3月14日、反革命カクマルの卑劣な憎むべき襲撃を受け暗殺される。享年41歳。

週刊『前進』(1948号8面1)

 マルクス主義を学ぶ

 「基本文献シリーズ」に取り組んで

 労働者党の綱領的全内容を提起

 党学校でマルクス主義の基本学習文献を学ぶ同志たちが、各文献の中心課題に取り組み、レポートした。これを今後月一回のペースで紹介する。今回は『ゴータ綱領批判』の一回目です。(編集局)

 第1節 反スターリン主義・革命的共産主義における『ゴータ綱領批判』の意義

 課題1 反スターリン主義・革命的共産主義運動にとって『ゴータ綱領批判』はきわめて重要な意味を持っています。それはどういう内容でしょうか。
 スターリンはロシア革命を世界革命から切断し、「一国でも社会主義は可能だ」として反労働者的・反人民的な国内建設を進め、ロシア革命と国際共産主義運動を反革命的に変質させた。その事実を隠蔽(いんぺい)し、理論的に粉飾するために『ゴータ綱領批判』の将来社会論を歪曲して使った。反スターリン主義・革命的共産主義運動は、その創成期において『ゴータ綱領批判』を武器にソ連は社会主義社会ではないことを論証し、自らの運動の綱領的立脚点を形成していった。
 だが、『ゴータ綱領批判』を将来社会論としてだけ読むのは狭い読み方だ。
 マルクスは『ゴータ綱領批判』をつうじて、一八七〇年代のヨーロッパ―ドイツ階級闘争が直面した問題に向き合い、『共産党宣言』で提起した階級的原則を貫く「国際的な労働者階級の指導部の形成」と「パリ・コミューンを革命的に引き継ぎ、のりこえる階級闘争の推進」という観点から、労働者党の綱領的全内容を提起した。これをくみ取り、現代的に復権することが問われているのだ。
 一八七〇年代のドイツ階級闘争は、ビスマルクの弾圧と対決しつつパリ・コミューンが指し示した道を突き進むことのできる階級的な力を本格的に形成する歴史的課題に直面していた。
 だが、アイゼナッハ派はラサール派との合同において、マルクスが提起した批判を真剣に取り扱わず、ラサール派に屈服した「ゴータ綱領」を採択した。一八九〇年にビスマルク体制が崩壊し、党が合法化されると、ドイツ社民党は合法主義、日和見主義を満開させていった。一八九一年のエルフルト綱領も、ゴータ綱領の問題性を根本では受け継いだ。ベルンシュタインとカウツキーの「修正主義」論争は、その問題性、すなわち「国家への日和見主義」と資本主義の帝国主義段階への推転についての無理解というの土俵の上でのものであった。そのため第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)の中でドイツ社民党は祖国防衛戦争に賛成・協力する社会排外主義にまで行き着いた。
 レーニンは、ドイツ社民党によって踏みにじられたマルクスの『共産党宣言』の原則、プロレタリア階級闘争論、国家・革命論を復権させようとした。レーニンは、『帝国主義論』で帝国主義段階という歴史的現実の認識をはっきりさせるとともに、『ゴータ綱領批判』を全面的に受け止めて、その中身を実際に貫徹するために『国家と革命』を書いた。そして四月テーゼ、「ドイツ革命―世界革命の実現のためのロシア革命」の立場を貫いてロシア革命を勝利に導いた。
 しかしスターリンは、ロシア革命―世界革命を貫徹することの困難の前に屈服して、「一国社会主義論」をもってレーニンの闘いを根本から裏切った。スターリンは、ロシア革命をドイツ革命―世界革命と一体のものとして推進する立場を放棄したのだ。
 ソ連スターリン主義の崩壊という今日の地点に立って、マルクス主義を復権するためには、スターリン主義によって裏切られたレーニンの未完の事業=〈第二インターナショナル的腐敗を全世界的に打ち破る闘い〉、すなわち〈『共産党宣言』の階級的原則を労働者階級の大運動として実現し、帝国主義国におけるプロレタリア革命に勝利し、世界革命への展望を開く事業〉をわれわれが引き継がなければならない。その観点から『ゴータ綱領批判』の綱領的全内容をわがものとして今日的に復権することがきわめて重要になっている。(志村行雄)

 第2節 過渡期についての積極的とらえ方と機械的三段階移行説の問題点

 課題2 資本主義から共産主義への過渡期について、機械的な三段階移行説の問題点と過渡期の本質についての積極的とらえ方を述べて下さい。
 「過渡期社会」というと過渡期の躍動性のようなものが失われてしまう。「過渡期社会建設」というよりも「過渡期建設」と言った方が、マルクスのいわんとしたことのニュアンスをより正しく表現できる。
 歴史的には、レーニンを歪曲したスターリン主義が「過渡期社会、社会主義社会、共産主義社会」というように機械的に三段階区分をしてきた。その一方で、スターリンが過渡期を乱暴に「終了」させたことに対するアンチとして、過渡期は延々と続くものだと考える傾向が反スターリン主義の側にも生じた。その極端化としてカクマル・黒田は、過渡期には過渡期社会の法則があると称して、過渡期社会「段階」の設定にまで陥っている。
 これらのとらえ方は正しくない。すでに一九六六年の革共同第三回大会で「過渡期社会建設におけるプロレタリアートの闘いは、プロレタリア独裁権力をてこにしつつ、与えられた限りの諸条件を駆使して、一刻も早く、社会主義社会へと前進する前提を成熟させることである」と提起している。また『共産主義者』五七号(一九八三年)の野島三郎論文「『国家と革命』をいかに学ぶか」でも、「この時期は、資本主義の徹底的打倒、共産主義(第一段階)への可及的すみやかな前進の時としてあり、それ自身長期の一時代をなすもののようには原理的には措定されえない」と規定している。
 『ゴータ綱領批判』で論じられている内容は、『資本論』的世界の原理的転倒である。マルクスは、『資本論』において資本制社会の経済学的解明を成し遂げ、その地平の上に『ゴータ綱領批判』で、資本主義の中で形成された諸条件を材料にして共産主義(「生まれ出たばかりの共産主義」)に直ちに向かえることを科学的に打ち出しえた。世界革命による資本主義の打倒・転覆→共産主義(第一段階)への急速な移行として問題を立てている。過渡期(政治的にはプロレタリア独裁の時期)はこの「→」の部分にあたり、プロレタリア独裁の任務を速やかに達成し、国家の死滅を経て共産主義に移行するものとされている。
 こうした論を踏まえるならば、「過渡期社会」を一段階として考え、何百年も続くかのように考えることは、マルクス共産主義論の無理解に基づくものであり、資本主義の永遠化である。(西野弘)
 社会主義をすでに達成したと強弁して反労働者的なソ連建設を進めたスターリン。これに反発して提起された「延々と続く過渡期社会論」。この両方とも過渡期についての間違った考え方である。
 マルクスは、資本主義社会=最後の階級社会の労働者階級による革命的転覆によって、現にある材料を組み替えていくことで共産主義社会の具体的第一歩が歩み出されると言っている。この「共産主義社会の第一段階」はそれ自身の中に「より高度の段階」を準備していく現実的バネがある。
 この立場に立たないものは、「しょせん共産主義革命は夢」というブルジョア的な立場か、スターリン主義の社会主義ならざる「一国社会主義」の立場か、あるいは「過渡期社会の法則」なるもののデッチあげに熱中する黒田カクマルか、いずれにしても「共産主義の現実性」を否定するものである。
 マルクスは『ゴータ綱領批判』における共産主義論を「現実には適用できない本質論」などというものとして提起しているのではない。ブルジョア独裁を粉砕し、プロレタリア独裁を樹立した労働者階級が、世界革命への国際的な階級闘争を進めながら、国内的な社会建設において、生産手段の社会的共有(最初はプロレタリア的国有化)のもとでの社会的生産の全体の計画的な運営、社会的総労働の意識的配分への前進に直ちに取りかかっていくものとして展開している。過渡期における革命的な転化の基準や方向が「共産主義(第一段階)」として与えられるのである。
 すなわち、労働者国家を世界革命の砦(とりで)、全世界の労働者と被抑圧民族の解放の砦として残存帝国主義と対決しつつ、「共産主義(第一段階)」を準則として可能な限りの過渡期建設を推し進めること、そうした過渡期の勝利的前進をとおして、社会の主人公としての労働者階級が世界革命の達成の道程の中で「共産主義(第一段階)」の実現に入っていくことは、まったく現実的だということが提起されているのである。(福島栄一)

 第3節 エルフルト綱領草案へのエンゲルスの批判の核心点はどこにあるか

 課題3 エルフルト綱領草案へのエンゲルスの批判の核心はどこにありますか。
 エンゲルスは一八九一年、エルフルト綱領をその作成過程において批判したが、その際マルクスの『ゴータ綱領批判』をドイツ社民党指導部の反対を押しきってあえて公開した。つまり『エルフルト綱領批判』と『ゴータ綱領批判』には内容的一体性がある。またエンゲルスの晩年の『フランスの内乱』一八九一年版序文、『フランスの階級闘争』一八九五年版序文と併せて検討していく必要がある。
 エルフルト綱領は、エンゲルスの批判を文言の上ではある程度採り上げ、ラサール的なにおいを一掃し、いちおう「階級闘争史観」の上に立っていた。しかし、労働者階級が将来勝利するのは自然必然的で、いつかは勝つだろうと言っているにすぎず、日和見主義と合法主義に染め上げられていた。カウツキー自身、基本的に議会をつうじた権力への道という思想を持っており、特にラサールにもつうじるドイツ的俗物根性の核心、「国家に対する崇拝」を脱しえていなかった。
 エンゲルスは、当時ビスマルクが失脚し社会主義者取締法が廃止された局面で、党指導部がこれからは合法主義でやっていけるという日和見主義を満開させていること、また「今日の社会は社会主義へと成長・移行していく」という自己欺瞞(ぎまん)で党と労働者階級をごまかし、プロレタリアートの独裁という問題の核心を踏みにじろうとしていることへの痛烈な批判を投げつけている。エンゲルスは「プロレタリアートの独裁」という言葉を聞いて恐怖するドイツ社民党指導部に対して「パリ・コミューンを見たまえ。あれがプロレタリアートの独裁だったのだ」(『フランスの内乱』一八九一年版序文)とさえ言っている。
 ただ『エルフルト綱領批判』そのものには非常に微妙な言い方もある。それはドイツ社民党が日和見主義といっても、弾圧に耐えて組織と運動を発展させ、すでに大勢力になっていたという歴史的現実があったからである。このことを踏まえながら、エンゲルスは最大限、革命的な内容を与える立場で批判している。
 エンゲルスの提起の核心は、@当時のドイツの国家の官僚的な権力機構は強大で凶暴であるA労働者階級が独自の勢力に成長してきたBだがそれは革命の「平和的成長・移行」が可能になったことを示すものではないC逆に国家権力の反動との全面的な激突が避けられないから、それに実践的に準備せよ――ということだった。
 これを裏切ったドイツ社民党は、第一次大戦の勃発の中で「ロシアのツァーリ反動からのドイツ国家の防衛」の名のもとに社会排外主義に転落したのである。(原田信明)

マルクス主義を学ぶ

 「基本文献シリーズ」に取り組んで

 マルクス『ゴータ綱領批判』(その2)

 一九四八号に続き、党学校でマルクス主義の基本文献学習シリーズを学ぶ同志たちのレポートを紹介します。テーマは、マルクスが『ゴータ綱領批判』で展開した共産主義社会論に関するものです。(編集局)
 
 (4) 労働はすべての富と文化の源泉である」はどこが間違っているのか
 課題4 ゴータ綱領草案冒頭の「労働はすべての富と文化の源泉である」で始まる第一パラグラフはどこに問題があるのでしょうか。マルクスの批判内容を述べて下さい。
 ■最初の部分、「労働はすべての富とすべての文化の源泉である」について。マルクスはこの草案の提起に対して、無条件にはそうは言えない、必要な前提を欠いているならば間違いだと言っている。
 人間の労働は、それ自身ひとつの自然力でもある人間労働力と自然素材が結合することによって成り立つ。人間の労働力はそれ自体として発現するというものではない。自然素材(天然または加工されたもの)としてある労働手段や労働対象と結合することによって、労働力は労働として発現できるのである。
 だから、富は人間の労働と自然素材、つまり人間と自然の両方から成り立っているのである。すなわち生産物(=富)は労働の結果として変形された自然素材である。したがって、労働だけがすべての富の源泉なのではない。
 マルクスは「人間が、あらゆる労働手段と労働対象との第一の源泉である自然にたいして、はじめから所有者としてふるまい、この自然を自分に属するものとしてとりあつかう場合にのみ、人間の労働は使用価値の源泉となり、したがって富の源泉ともなる」と言っている。
 資本主義社会においては、ブルジョアジーが生産手段=労働手段と労働対象のすべてを、したがってある意味で全自然を独占的に支配している。他方で、労働者は労働力しか持っていない。労働者が自然と結合して労働するためには自然を独占している支配階級に労働力を売らなければならない。ブルジョアジーは、全自然を支配しているとしても、それを意味あるものにする労働力を持たない(自分では労働しない)ため、それだけでは何も生み出せない。したがって、彼らにとって労働または労働力(商品として買ってきたもの)は神秘的な創造力、あらゆる富と文化の源泉として現れる。このブルジョアジーの発想とこの草案の思想は同根なのだ。
 次に「そして有益な労働は、ただ社会において、また社会をつうじてのみ可能である」について。これは「ただ社会においてのみ、無益で公共に害をもたらすような労働さえも、成り立つ」と言い換えられるほど無内容である。マルクスは「社会」「労働」をこんな一般的な形でとらえるのであれば「ルソーの全部を書き写した方がずっといい」と批判している。
 さらに「労働の全収益は、平等な権利にしたがって、社会の全構成員に属する」についていえば、このように抽象的に「社会」を規定すれば、ブルジョアジーもまた「社会の構成員」であることになるから、「平等な権利にしたがって」「全収益」からの分け前を受け取れるということになる。つまり資本家たちの労働者への搾取を認めることになってしまう。
 確かに個々ばらばらの労働は富も文化も作り出さない。労働は社会的労働として「富と文化」の源泉となってきた。しかしこの「富と文化」は、社会が「階級社会」であるかぎり、他人の労働を搾取する支配階級の富と文化でしかない。これを暴かないところで「平等」などと言っても、それは労働の奴隷化を永遠化するものであり、社会主義とはおよそ無縁である。
 マルクスは、草案の任務は「ついに現在の資本主義社会の中で、このような歴史的災厄を打ち破る能力を労働者に与え、また打ち破らざるをえないようにする物質的その他の諸条件がどのように生み出されてきたかを示す」ことであると言い切っている。(大池孝)
 ■まず第一の文章について、マルクスは、これは必要な前提が欠けるならば間違いだと言っています。
 人間の労働は、ひとつの自然力としての人間の労働力プラス自然素材のかみ合わせとして成立します。人間の労働は自然を相手にした対象的活動です。だから、労働力はその力を自然にかみ合わせることによってのみ発現されます。富は人間の労働力と自然素材によって成り立っています。富とは人間によって加工された自然なのです。したがって労働そのものが富と文化の源泉ではないのです。労働を自然から切り離してとらえるのはナンセンスなのです。
 今日、土地などを含めた自然はブルジョアジーの独占的所有物になっています。したがって労働者階級は自分の肉体以外には何も持っていない、労働能力だけしか持っていないわけです。しかも働きたいと思っても、労働者は資本家たちの許可なしには働けない状態になっているのです。だが他方で、ブルジョアジーが持っていないものは労働力であって、労働者の労働がないと何ものも生み出せません。だから彼らは労働を富と文化の唯一の源泉ととらえるのです。この思想とラサールの考えは同じ根を持っているとマルクスは批判しているのです。
 次に第二の文章について、マルクスはまず、「社会においてのみ有害な労働も可能」と正反対に言い換えてもおかしくないくらいに無内容だと言っています。草案が「社会」「労働」という言葉をまったくあいまいにとらえていることを指摘しているのです。
 草案は「社会」が階級社会でしかないことを表現していないために、「自分で労働していないものは他人の労働によって生活している」ことをまったく表現できていません。これなしにただただ「労働は社会においてのみ可能だから、労働の全収益は、平等な権利にしたがって、社会の全構成員に属する」と言っているために、ブルジョアジーにも「全収益」から取る権利があることになってしまうわけです。これは、ブルジョアジーが「社会」全体の名で労働者から剰余価値を「利潤」と称して取り上げる権利を主張する時の論理と同じです。これでは社会主義を目指す政党の綱領としては問題にならないのです。(松山二郎)
 (5) 共産主義社会の「控除」の問題はどういう意味を持っているのか
 課題5 共産主義社会の「控除」の問題について内容の骨子をまとめ、それがどういう意味を持っているのかを述べて下さい。
 ■綱領草案における「労働収益」の「公正な分配」論には資本主義社会を批判する内容がまったくない。マルクスは、草案の「公正な分配」論がブルジョア的な観念そのものであることを明らかにしている。そして、さらに踏み込んで共産主義社会における「分配」の問題を検討している。
 マルクスは、草案の考え方では個人的消費手段についての分配が意識されているだけだが、共産主義社会ではその分配の前にいくつかの「控除」という問題があることを指摘している。
 すなわち、まず第一に社会的総生産物(「労働収益」を社会的総生産物と考える)から経済上の必要(とりわけ生産、再生産の領域における)として、
 一、生産手段の消耗部分を更新するための補填(ほてん)分
 二、生産の拡張のための追加分
 三、事故や自然災害に備える予備元本、保険元本
――が控除されるとしている。これらはみな、「手持ちの諸手段と諸力」に応じて、またどのような内容と規模で再生産を行うかという社会(労働者=生産者が主人公になった社会)的意思決定に基づいて、生産にかかわる経済上の必要によって一定の質と量の生産物として準備される。もはやそれは資本が決定するとか、抽象的な「公正さ」の概念に基づいて決定されるようなものではない。
 ここからさらに次のものが控除されるとして、
 四、直接には生産に属さない一般管理費
 五、学校や医療設備などさまざまな必要を共同で満たすために充てられる部分
 六、労働能力を持たない者などのための元本
――を挙げる。四は、今日の社会の戦争費用、人民支配のための国家行政費、資本家の搾取部分や資本主義的競争による多大な無駄や浪費の一掃によって、将来の社会では大幅に圧縮される。五は、逆に大幅に増やされ、新社会の発展につれてますます大きくなる。六は今日、福祉と呼ばれるような部分で、やはり社会の発展につれて大きくなる。
 以上の六つが社会的総生産物から控除され、残った部分が個人的消費手段として、「労働に応じて」分配されることになる。しかし、差し引かれた部分も、結局は社会の構成員である労働者=生産者にすべて直接間接に役立つものとして戻ってくる。
 以上のように「控除」の部分を明らかにすることによって「労働の全収益」がそのまま「分配」されるわけではないことがはっきりさせられる。そして「労働の全収益」の「公正な分配」という考え方自体が、個人がどれだけ受け取るかということしか問題にしておらず、資本主義社会において賃金(労働者の「分け前」として現れる)のみを問題にする点から一歩も進んでいないことが突き出されている。
 生産手段が社会的共有に転化した後の社会(共産主義社会)においては労働者=生産者は、資本のもとで自分の個人的消費(賃金)だけを問題にしていたような関係にあるのではなく、社会を運営する主体として、社会的総生産の全体、再生産の全体にかかわり、責任をとることが必要になり、またそれが可能となる。そうした社会関係の転換(賃労働の廃止)という条件の中で、社会の主人公として「控除」の問題を考えることが不可欠な問題となってくる。(佐伯啓子)
 (6) 共産主義社会の「分配」と今日の社会における「分配」との違いは何か
 課題6 共産主義社会における労働に応じた個人的消費手段の分配は、今日の社会の個人的分配とどこが違うのでしょうか。またマルクスが「制約」としているのはどういうことでしょうか。
 ■今日の社会での個人的「分配」は、労働力以外に売るべき商品を持たない労働者にとっては、資本家のもとで一定時間労働することで賃金を受け取る形になっている。労働者は受け取った賃金で資本家から生活手段を買う。労働者が必要労働時間を超えて生産した剰余価値が資本家には利潤、土地所有者には地代、資本所有者には利子という形で「分配」される。つまり、生産は全部労働者が行うのに、労働者にはぎりぎりの生活費しか与えられず、後の分は資本家たちが「山分け」している。これが今日の社会の「分配」である。
 これに対して、生まれ出たばかりの共産主義社会では、個人が社会に与えた労働量が各人への消費手段の分配の基準となる。これこれの労働を給付したという証明書を持って、共同元本の控除を行った上で、行った労働量に応じて消費手段を引き出す。この場合、総労働が社会的に掌握されているので、各生産物の生産にどれだけの労働を配分=配置すればよいかは完全に明らかである。それを基礎に各人が社会に与えた個人的労働量と各人の受け取る消費手段の量の対応関係が形成される。
 これは「商品等価物の交換の場合と同じ原則」であるが、商品交換ではない。個人が社会との間で行う「交換」である。生産手段と生産物は社会的共同所有だから、交換ではなく、社会的総生産物のうちの「自分の分け前を引き出す」という方がむしろ正確だ。したがって内容も形式も価値法則とは全然違う。そして、このような労働に応じた分配を問題にすること自体、労働力の商品化に媒介されていないこと、生産手段の私的所有者がいないこと、すなわち労働者が社会的生産の主人公になっていることによって可能となっているのである。
 しかし、消費手段の分配に関して、受け取る「権利」の基準が問題になっているという「制約」はある。生産者が消費手段を受け取る権利は「彼が給付した労働に比例しており」、したがって受け取る消費手段の量も違う。しかし権利としては、労働の「長さまたは強度」という「等しい尺度で測られる」という点で平等なのであって、その限りでその権利はブルジョア的「平等」の権利の名残をとどめている。だから階級的区別はもはやないが、内容あるいは結果から言えば、不平等を解決してはいない。例えば、肉体的または精神的な力は人によって違う。ある労働者は結婚しているとか、子どもが多いなどの事情もある。
 だが、このような「不平等な権利」は階級の区分から生じるものではない。またそれ自体資本主義的関係の一表現である労働力の質的区別による分配の違いはなくなる。その意味で労働量を基準として分配が行われることは階級関係の廃止の現実的な第一歩なのだ。
 このような平等な尺度のもとでの「不平等」という不都合を避けるためには、権利が問題となる関係そのものを止揚しなければならない。しかし、「権利は、社会の経済的構造とそれによって規定される社会の文化的発展の水準よりも、けっして高くはなれない」。したがって「このような不都合は、……生まれ出たばかりの共産主義社会の第一段階では避けられない」のである。(永野健一)
 (7) 共産主義社会の高度な段階の指標、「必然性の国」と「自由の国」の関連
 課題7 「共産主義社会のより高度な段階」の指標についてと『資本論』第三巻の「必然性の国」と「自由の国」の関連について、述べて下さい。
 ■資本主義から生まれ出たばかりの共産主義は、まだ権利の基準が問題になっているかぎりで、いまだブルジョア的な名残を残している。だが、生まれ出たばかりの共産主義は、協同組合的生産に踏み込むことによって、すでに「分業への従属」「精神労働と肉体労働の対立」を廃止しつつあるのであり、より高次の社会発展の段階を生み出す「力」を内包したものとしてある。
 この中から、もはや労働時間の給付量が個人的消費手段の分配の基準であるような関係が完全に踏み越えられるような段階(「能力に応じて、必要に応じて」)が生み出されてくる。そこでは解放された社会的関係の中で、真の「労働の解放」として、労働がそれ自身「第一の生命欲求」となることがひとつの決定的変化である。
 ところで、共産主義社会では当然にも「本来の物質的生産の領域における自由」が実現されている。それは、労働力の最小の消費によって、物質的生産の領域、自然との物質代謝の領域を共同的に統制すること、しかもそれを「自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとで」行うということである。けれども、この物質的生産の領域それ自体は「必然性の国」でしかない。
 マルクスは、この「必然性の国」を基礎としてその上に花開くのが「自由の国」であり、それを可能にする根本条件は「労働日の短縮」であると言っている。労働日の決定的短縮(マルクスは『資本論』では「剰余労働の消滅」についても論じているが、ここでは省略)という物質的な基礎の上に、「諸個人の全面的な発展」に伴って各人の「自由な精神的・社会的活動」における発展が花開くであろうということである。「必然性の国」と「自由の国」の関係は、時間的な発展の関係ではなく、いわば土台と上部構造のような関係である。
 つまり、共産主義はけっして、物質的生産の計画的実現や生産の無政府性の止揚ということに切り縮めて理解されてはならない。共産主義とは、何よりも物資的生産の高い発展の上に人間の活動全体の限りない自由な発展をつくりだそうとするものなのである。マルクスの共産主義=人間解放の核心にはこのことがある。それを示唆しているのが「労働日の短縮」を前提とする「自由の国」論である。(森中俊郎)
 課題8 マルクスは、ラサールの賃金論のどこに問題があると批判していますか。
 ■ラサールの「鉄の賃金法則」は、「平均賃金は、常に一国民において生存の保持と繁殖に通常必要とされる生計費まで引き下げられる」というものだ。これはマルサスの人口論を論拠にしている。労働者の人口は生産力を超えて増えるので、労働者の貧困は労働者の人口の過剰のゆえであり、貧困は自然の法則だというものだ。労働者には子どもを産むのを抑止させるべきだと説教している(マルサスは僧侶)。
 これに対してマルクスは「賃金は、外見どおりの、労働の価値または価格ではなく、労働力の価値または価格の仮装した姿にすぎない」「賃金労働者は、ある時間を資本家のためにただ働きをしなければ、自分自身の生活のために働くことも許されない、つまり生きることも許されない」ということを暴き、「また、資本主義的な生産制度全体の中心問題が、労働日の延長、生産性の発展、あるいは労働力の緊張度の強化などによって、この無償労働を延長することにあるということ。したがって、賃金労働制度というものは、ひとつの奴隷制度であるということ。しかも、この奴隷制度は、労働者への支払いの増減にかかわらず、労働の社会的生産力が発展するにつれてその分だけますます厳しくなる奴隷制度であるということ」をはっきりさせている。
 ラサールにあっては、ブルジョアと同じく賃金を「労働の価格」として見て、賃金を労働の「分け前」と理解しており、社会全体の生産物の中で労働者に分け与えられる量は決まっているという。だから賃金は一定だという。
 しかしマルクスは、賃金の低さだけを問題にするのではなく、問題の核心が労働者は資本家に無償労働を提供する以外に働くことができないこと、賃金制度がこの関係を覆い隠していることを鋭く突き出している。このような資本と賃労働の関係、すなわち階級関係の上に立った生産のあり方をこそ問題の中心に据えるべきなのだ。
 その上でマルクスは、賃金は増減するものであると言っている。賃金の本質は労働力の価格であり、現実には資本の蓄積運動の中で動く。資本は剰余価値の搾取を自己目的として追求するため、労働者が闘わなければ労働力の価値は引き下げられる。また好不況によって上下する。ラサールの考え方は間違っているばかりではなく、労働者の闘いにとって有害だ。
 マルクスは、草案は、人間としての解放を求めて奴隷制廃止に立ち上がった奴隷の隊列の中で、旧式の考えにとらわれた一人の奴隷が、奴隷制がいけないのは奴隷の食費が一定の水準を超えないからだ(もう少し食えるなら奴隷制でもよい)と主張しているようなものだと酷評している。そしてマルクスは、一八六七年に『資本論』が出てから何年もたつのに、ラサールのような立場を党の綱領として認めるとは自分への「暗殺攻撃」に等しいと批判している。(小島静夫)

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夢・共産主義−1、第四章
検証 コミンテルンの功罪

第二節 理論、組織・運動論で対立
社会民主主義とレーニン・ボルシェビズム

そしてナチス・ヒトラーの台頭
 ドイツの社会民主党はマルクス主義政党でした。レーニンは、17年革命の「成功」を背景として、この社会民主党と「敵対」する党として共産党を創設させるきっかけをつくりました。







(私論.私見)