反デューリング論




(私論.私見)


(あくまで参考)

デューリング哲学について

 哲学を、「世界と人生とに関する意識の最高形態の展開、あらゆる知識と意欲との諸原理を包括するもの、あらゆる存在に通ずる諸々の根本形式の探求」としていた。

 哲学と科学との関係を、「哲学の諸原理は、諸科学を最後的に完成するものであって、諸科学が自然と人間生活とを説明するところの統一的な体系となる為に必要なもの」であるとし、「哲学の絶対優位による先天主義的位置付け」をしていた。

 哲学の研究対象として、自然と人間世界に分類し、順次1・一般的な世界図式論、2・自然の諸原理に関する学問、3・人間に関する学問へと発展させるべきとしていた。

 特徴として次のような構図になっていた。
1、まずもって、自然と人間界とに適用されるべき原則、従って自然と人間とがそれに則るべき原則、原理を思考のうちから導き出していた。つまり、現実の世界をあらかじめ完成された思想から、即ち世界の出来上がる前からどこかに永遠の昔から存立している図式なり、範疇から構成しようとしていた、とされている。これはヘーゲル的な観念的手法であり、その論理から一歩も出ていないとされている。
2、そのようにして打ち立てられた諸原理を、自然界に次に人間界に適用するからして非常によく一致するという目的論的手法であった。これは一種の循環話法である、とされている。


 エンゲルスの反デューリング論の骨子

1、思考並びに意識に関する観念論的理解に関して

 「意識」、「思考」を何か既に先天的に与えられているもの、即ちそもそもの初めから存在し、自然と対立しているものとして理解するから、自然から汲み取るということができない。実際には、 「意識」、「思考」は、労働と言葉の刺激を受け、脳髄そして脳髄の直接の道具である感覚器官が発達し、その果実として生み出され、発達していき、更に労働と言語とに反作用を及ぼすという交互作用の関係にあると理解すべきではないか、これが「意識」、「思考」に関する科学的態度であろう。

2、終局的な決定的真理としての原理に関して


 「人類発展のある時点において自然的、精神的並びに歴史的な世界連関について、そのような最後的に完結した体系が出来上がるとしたら、それによって、人間の認識の目は完結してしまうことになるであろうし、又社会がこの体系と一致して組織される瞬間から、将来の歴史の進展は断ち切れることになるであろう。-だが、これは馬鹿げたことであり、全くの背理である。そこで人間は、一方では、世界体系の総体的連関をあますところなく認識(客観的真理)しようとしていながら、他方では、人間そのものの本性上並びに世界体系の本性上、こうした課題を完全に解決することは出来ない。【客観的真理の相対性】という矛盾の前に立たされることになる。けれども、この矛盾は、世界と人間という二つの要素の本性のうちに含まれているという、ただそれだけのものではなくて、それは又、あらゆる知的進歩の梃子ともなるものである。そして、この矛盾は、日々に不断に人類の無限な進歩的発展を通じて解決されていく。事実、世界体系の思想的模写は皆それぞれ客観的には歴史的状態によって、主観的にはその創始者の肉体的、精神的状態によって、制限を受けるのであって、それを免れることは出来ない」 

3、数学に典型的な先天的とされる真理学問観に関して

 存在の根本形相と同様に、純粋数学も全部先天的に即ち外界が我々に提供してくれる経験を用いないでも頭脳の中から作り上げることができるという考え方に関して、「他のあらゆる科学と同様に、数学も人間の必要から発生した。即ち、土地や容器の体積の測量から、時間の計算や力学から発生したのである。ところが、思考のあらゆる領域においてそうなのだが、ある一定の発展段階に達すると、現実世界から抽象された法則が、現実世界から引き離されて、何か独立的なものとして即ち世界がそれに則るべき外来の法則として、現実世界に対立させられる。社会や国家に関して、こうしたことが行われたように。それと少しも変わらず、純粋数学も後になってから世界に適用されるという形になる。ところが、実は、それは、他ならぬ子の世界から取り出されたもので、単に諸々の構成形式の一部分であるに過ぎない-専ら、それだからこそ総じて適用ということも出来る訳である」。