別章【哲学的認識論としての唯物弁証法】 | |
れんだいこ試論・哲学的認識論としてのマルクス主義的唯物弁証法 |
(最新見直し2006.10.28日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここでは、マルクス主義の原理論としてその哲学を学ぶことにする。哲学一般は学の基礎であるから、直接的に指針を生み出すことはない。そういう非功利的理由によって、我が国では哲学も含めた原理論が軽視されがちである。しかし、れんだいこ観点からすれば、原理論こそいわば思考のレールであり、このレールの敷き方敷かれ方こそかなり重要なこととして位置づけている。有り体に言えば、レールの敷き方を間違うと行き着くところは虚妄であり、あるいはファナティックな破綻をもたらすことになる。マルクス主義の作法としては、建設的な論と実践の積み上げを目指すので、その第一歩に拘らざるを得ない。 さて、そういう観点を踏まえて、マルクス主義の論の始めあるいは基礎として、「独特の」認識論及びそれに基づく世界観に着目せざるを得ない。「独特の」と注釈をつけた理由は、マルクス主義もまた永らく「真理」とみなされてきたから、それが時代的限定性を持っている理論ないし思想であるということが観点とならなかった、という否定的教訓を明確にしたい為である。永らく「独特の」というような捉え方ができず、宗教的教説の真理観を否定しつつも新しい真理としてみなされ、そういうドグマに呪縛されてきた、ということを踏まえたい為である。 れんだいこは、今日の視点からマルクス主義を解読しようと思っているので敢えて、マルクス主義を「独特の認識論及びそれに基づく世界観である」と表現する。念のために云えば、マルクス主義が間違っているという意味ではない。「『当時の時代において』という限定の枠組みにおいて、最先端最深部の総合的な『科学的』認識であったと云う意味合いで捉える必要があるだろう」と云うことである。 このマルクス主義の「独特の認識論・世界観」は二つの手法の結合から成り立っている。一つは、「唯物論的認識と世界観」である。一つは、「弁証法的認識と世界観」である。これを「不即不離」、「不二」、「二つ一つ」的に結合させているところがマルクス主義の秀逸さであり、「唯物弁証法」とも「弁証法的唯物論」とも云われる。 ここがしっかりとおさえられないとマルクス主義学徒とは云えない。ここがマルクス主義者の生命線であるからして、この見地に立たない左派は非マルクス主義的左派であり、マルクス主義を実践する為に結成された共産党・労働党の党員と云えども、「唯物弁証法」に立脚しない者はマルクス主義者ではない、ということになる。 それでは、「唯物弁証法」とは如何なる認識法なのか、以下見ていくことにする。「社労党の社会主義入門」を下敷きにしながられんだいこ風に纏めてみることにする。主要テキストとして、エンゲルス著作「フォイエルバッハ論」、「空想より科学へ」その他を用いることにする。 |
(私論.私見)