381−4 【論証】論理学

 類推論の次に為さねばならぬことは論証論である。一般に次のように解説されている。論証(demonstratio)とは、近代では次の「トピカ(topica)」と併せて方法論ないし統整論などとして扱われるようになった部分である。 「トピカ」とは、アリストテレス「分析論後書」に由来する部分で、議論ないし推論の進め方に関する諸規則、ないし立論の根拠となる観点を整理している。「トピカ」が西欧に知られる前には、ボエティウスのトピカ論、定義論、分類論などが、推理論に続いて扱われていた名残りもとどめている。

 また、中世では、前件から後件を導出する帰結(consequentia)のあり方に関する規則を扱う部分とされたこともある。12世紀後半以降西欧の論理学に取り入れられ、本来は探求の方法を扱うものであったが、知識を結果する推論を扱う部分とされるなどし、問題となる命題の真偽を確定するための根拠を提供することとしての論証の諸様態が論じられる部分となり、演繹法と帰納法などが取り上げられる部分につながっていると思われる。


【「論証可能なもの、すべきものと、不能なもの、すべきでないものの識別」の重要性について】
 但し、実践論理学では、内容に随って論証の態度が変わるということを確認する。つまり、「論証すべきもの、せねばならないもの、論証可能なもの、すべきでないもの、論証になじまないもの、不向きなもの、論証不能なものの識別」を要する、ということを確認しておきたいと思う。

 どういう意味かというと、認識―判断―類推と歩を進めて論証の段階に至るが、その際二傾向あるということが確認されねばならないように思われる。つまり、対象によって、論証により白黒決着すべきなものそれに馴染むものと、すべきでないもの馴染まないものがあるということである。案外と見落とされがちであるが、この識別は大事ではないかと思われる。

 なぜこのことを特別に強調するかと言うと、往々にして我々は、白黒決着すべきなものを曖昧にさせ、逆に馴染まないものを一生懸命論証しようとする逆作法に染まっているからである。以下、具体的事例でもってこれを検討する。


【例題1・真相は藪の中論】
 芥川竜之介の「藪の中」で見事に表現されているが、同じ事件を三人が三様に述べている。「真相は藪の中」という訳である。これは、永遠に「藪の中」にならざるを得ない判断留保型「藪の中」と、積極的に解明していかねばならない判決型「藪の中」の両面に分かれる。それぞれに応じた対応が必要であろう。「真相は藪の中論」は「論証可能と不能にまたがる全域的な論証論理学の第一歩的認識」として有効である。

【例題2・店内に猫飼う良し悪し論】
 飲食店に猫(動物)を飼うのが是か非か。これを一般論で述べることは無謀だが、特殊この店で飼うことが是か非かということでは充分に論議できるしせねばならない。この場合、飼う飼わないの間に折衷は成り立たない。いずれかに結論すべきだろう。「店内に猫飼う良し悪し論」は、「論証せねばならないものの例え話」として有効である。

【例題3・ミソクソ識別論】
 ミソとクソとは似ているが違う。この識別を曖昧にせず論証していくのを「ミソクソ識別論」と云う。「ミソクソ識別論」は、「論証すべきものの例え話」として有効である。

【例題4・地球儀正面何処論】
 地球儀をどの位置から見るべきか。百万言費やしても答えは出てきそうに無い。日本人は日本を正面に据えて見るだろう。イギリス人もまた然りであろう。アメリカ人もまた然りであろう。この場合、日本人、イギリス人、アメリカ人の三者が正面論争してみても滑稽だろう。しかし、これに似た例で喧喧諤諤しているような場合が多い。これをナンセンスとして斥けるのも論証論理学の要諦である。「地球儀正面何処理論」は「論証に馴染まないものの例え話」として有効である。

【例題5・】




(私論.私見)