実践論証論理学の意義について

 (最新見直し2006.11.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 国際交流時代を迎えて、異文化の人々とのコミュニ ケーションの機会は増すことあれどその逆は無い。その際、 そのコミュニケーションを誤解のないものにするために、自己主張と聞き分けの双方向の能力を高めねばならない。そうなるといきおい論理学を学んでおくに越したことは無い。すなわち、論理的な思考・表現能力が必要となるという訳である。

 現代論理学を学ぶ必要性は単にそのことだけではない。今日ほどマスコミ情報に溢れている時代は無いし今後ともこの傾向は増幅されると思われるが、そうなると現代の支配者階級は、このマスコミ情報を意図的に操作することによってマインドコントロールを仕掛け、世論を操ろうとする。逆も真なりで、反政府運動側もイデオロギー闘争を仕掛けるようになる。

 今ここに論理的検証能力の弱い無辜の民がいたとするなら、たちまちのうちに両勢力の餌食になりあるいは判断停止のふちに追い込まれるであろう。それを拒否しようとするなら、一人一人の民が弁論術を逞しゅうする以外に方法は無い。ここに現代論理学を学ぶ必要性がある。但し、既成の論理学は重大な瑕疵を見せており、れんだいこの採るものではない。そこで、れんだいこが実践論理学と銘打って世に打ち出すことにする。

 日本人は伝統的に論理音痴であり、その代わりに腹芸を発達させてきた。この二つ、論理と腹芸は二律背反関係にあるようである。その為か、腹芸を発達させた日本人は、「曖昧糊塗、大岡裁き、玉虫色」を好み、「決め付け、断定、明言」を嫌う。「和合を尊び、嘘の効用、損して得取れ、白黒決めぬが淳風美俗、妙味が大事」と心得る。しかし、それはそれとしてこれらの態度には欠点もあることが認識されていなくてはならない。「半端、臭いものに蓋、唯々諾々、笑って誤魔かす、無責任体系」等々の弊害はここから発生している。してみれば、論理と腹芸は同床異夢の間柄であるように思われる。ここでは、その弊害のほうに対して着目し、日本人の論理能力の向上を企図する。

 人は、脳髄の発達により、第一次本能的な感覚的機能を衰えさせたが、替わりに体験・観察→認識→判断→推論→企画(青写真)→実践→検証→その繰り返しによる認識の螺旋(らせん)的発展という頭脳機能を高めた。まさに脳髄活動もまた弁証法的になっており、これに即することが自然の成り行きであろう。これを仮に言語コミュニケーション能力と云うとすれば、いわばこれが人間たる所以のものを証する第二次本能と云えるかも知れない。

 体験・観察から始まり検証に至る過程は、認識及び判断と実践の不断の交叉である。その意図するところは、認識の精度が次第に高まり、実践の的を次第に正確に射ることにある。野球で例えれば、ピッチャーがストライクゾーンに習熟し自在に球を投げ込むことができる如くである。剣士が打撃部位を正確に打つことができるが如くである。この効果を求める気持ちなくしては意味を持たない。

 そういう意味で、人は、論理学を学ぶ者も学ばない者も皆経験的に利用している。それを学問的に別途考察して理論化するかしないかだけの違いである。ところが、学者に理論化された論理学が実践経験と合致しないものであったとしたら、意味を為すであろうか。有害ではなかろうか。れんだいこは、論理学を極力実践適用できるように改竄を試みようと思う。れんだいこが、「実践論理学」と銘打つ所以がここにある。

 従来の論理学の欠陥は、実践の意義を組み込んでいないところに認められる。実践は、論理学上の必須要素であり、この導入なくしては全てが形式に出してしまう。或る人曰く、「理念像(S=Socialist concept)→法制体系化(I=Institutionalization)→運用・操作(O=Operation)→現実分析(A=Analysis)→理念像(S)というS→I→O→A→Sの循環図式」(「社会主義とは何だったのか 岩田昌征さんに聞く上」)としているが、唯物弁証法公理に従えば当たり前のことといえよう。

 この間、コミュニケーション手段としての言語活動をより良くなすために約束事が決められ、歴史の風雪に揉まれるうちに次第にセオリー化され論理学を生み出すことになった。交通信号、手旗信号、あるいはその種の取り決めが為され、これを総称して仮に言語活動の約束事とする。人は特に論理学を学ばなくても普通にその手法で判断していっているのであるが、学として学ぶことにより一層の上達が為されるとならば、これを学ばぬ手は無かろう。

 ところが、この約束事が非常に小難しくされ、却って分かりにくくされているきらいがある。そこで、れんだいこはまずれんだいこ自身が分かるように翻訳してみたい。囲碁・将棋を嗜む者にはピンとくるであろうが、囲碁には定石というものがある。上達の為には定石は習って忘れろが一番ではあるが、やはり知らぬよりは知っておいた方が良いであろう。そういう捉え方で整理してみたい。

 本稿の考察はまったくのオリジナルであるから内容は他のものと大きく違っている。れんだいこ自身が分かる範囲で(ということは責任は負えないという意味でもある)実践に役立つようにまとめている。そういう観点から「実践論証論理学」と命名した。「実践論証論理学」では、思考(思惟)活動全体を広義な意味では「推論(推理)」と呼ぶが、狭義に見るとそれぞれ認識論、判断論、類推論、論証論、論法論、検証論に分かれるように思われるのでこの順に見ていくことにする。


 論理学の有益性について次のような面白話もあるようである。ゲーテの「ファウス」の中で、学生が「これから学問を始めるにあたって、何から勉強したらよいか」と相談する場面がある。博士の弁は、端的に「まず最初に論理学の講義を聞きなさい」であった。つまり、論理学は正しい思考の訓練をなす故に古来より学問研究の基礎学といわれてきた。多くの用例を通して正しい思考法則を学んでいくことが重要であるということであろう。「料理に対する切れ味の良い包丁」で例えられる場合もある。 

 2005.3.19日再編集、2006.11.26日再編集 れんだいこ拝

【論証考】
 論理学の要諦に論証如何問題がある。何事も云うのは勝手であるが、論証を要する。論証不要のまま手前勝手な持説を振り回されると傍迷惑である。最新の傍迷惑は、手前の所論が論証できないご都合理論だという理由で、相手の持論をも同一視して批判を浴びせる傾向である。天に唾する行為であるが、相手を己の低みに何とかして巻き込もうとする意図のように思われる。

 そういう者は次のことに気づかなければならない。論証できない理論を持つことは勝手である。或る時のひらめきとか着想は元々非論証的にふともたらされるからである。しかし、それらも次第に論証すべく精励されねばならず、やがて理論として結実せねばならない。これが義務要件とされる。論証抜きの着想を長年にわたってひけらかされると、得意になって言えば言うほど終いには聞きたくなくなるものである。

 ここで云う論証は、論理学上耐え得るような証明である必要は無い。歴史には主因や真実は隠されるとしたものだから、論証を求めすぎると却って言及しにくくされてしまう。従って、多くの事例紹介と、それら事例を結ぶ糸の流れを解析できれば、それも論証とすべしだろう。あるいは、「シオンの議定書」のように、記載されている内容と歴史の歩みが合致しておれば、同書の価値を認めるべきだろう。証言が真っ二つに割れて肯定派と否定派の見解が並立するような場合には、真偽定めを要するだろう。

 これらの場合、既成論理学では殆ど役に立たない。形式論理学と云われる所以である。実践論証論理学は、これら諸問題をも解けるような法理を発見し、それらの定式を使って実践に役立ててみたいという狙いがある。れんだいこの実践論証論理学にはそういう抱負がある。しかし、この道は未開の原野であり、これからが大変だ。

 2006.11.26日 れんだいこ拝




(私論.私見)