山本玄峰

 (最新見直し2007.7.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 山本玄峰老師は、戦前戦後に亘る政財界要人の心の師、影の指南役として史上に不朽の地位を占めている。特に、終戦勅語の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・・」の文句を授けた禅宗の高僧として知られている。戦後の「象徴天皇制」の生みの親とも云われており、全体としての活動軌跡は、「白隠禅師の再来、昭和最大の禅僧」と称されている。

 主としてネットの検索資料各種、「回想・山本玄峰」(先輩よりお貸しいただいた)を基にとりあえず書き付けて見た。読み直しながら推敲し再編集する予定です。

 2004.8.9日 れんだいこ拝


目次

山本玄峰の履歴(プロフィール)
山本玄峰老師の人となり
山本玄峰の思想遍歴
山本玄峰言行録
玄峰老師と井上日召の関わり考
玄峰老師と田中清玄の関わり考
玄峰老師の時局認識
玄峰老師と鈴木貫太郎の関わり考
象徴天皇制の生みの親たる玄峰老師の明察
玄峰老師と歴代首相との関わり考
インターネットサイト
参考文献
情報ストック


【山本玄峰(やまもとげんぽう)老師の履歴】(「山本玄峰老師年譜」)
 (1866−1961)
 1866(慶応2).1.28日、和歌山県熊野郷(東牟婁郡)四村、湯の峰温泉の芳野屋(現在のあづまや旅館)に生誕。捨て子だったのを渡瀬の岡本善蔵・とみえ夫妻に拾われ、岡本芳吉と命名される。

 長ずるに及び岡本家の家業を手伝い、百姓仕事、熊野本宮、新宮間を往復する筏(いかだ)流し等で青春時代を過ごした。

 16、17歳の頃、結婚して岡本家を相続する。
 1887(明治20)年、19歳〜20歳の時、眼病にかかり失明の危機に陥った。医者の手あまりとなり、四国霊場遍路廻り、日光、新潟、北陸と流浪の旅に出る。1889(明治22)年、24歳の時の四国遍路7回目の道中、33番霊場・土佐の雪蹊寺前で行き倒れになっていたところを山本太玄和尚に助けられる。その後和尚の感化を受け仏門に入る。以来、雲水生活に入り、各地を修行で回る。
 1890(明治23)年、25歳の時、雪蹊寺にて得度出家、玄峰の号を受ける。山本姓を継ぎ雪蹊寺住職となる。

 1891(明治24)年頃、雲水として再行脚に出向く。滋賀県(江州)の永源寺、神戸の祥福寺、28歳の時、岡山(伊山)の宝福寺。33歳の時、美濃の虎渓寺。いずれも厳しいことで有名な僧堂であったが約11年間修行する。

 1902(明治35)年、37歳の時、太玄和尚が御発病し、虎渓山から雪蹊寺へ戻り看病する。

 1903(明治36).6.28日、38歳の時、太玄和尚遷化。これに伴い、臨済宗妙心寺派の雪蹊寺を継ぐ。

 1908(明治41)年、43歳の時、雪蹊寺を太岳和尚に譲り、この年から8年間、京都男山の八幡の円福寺(開創以来千有余年を経た臨済宗妙心寺派の古刹こさつ)で修行。43歳の時から50歳頃まで貫主の松雪室見性宗般老師の鉗鎚を受け、輔佐し、多くの雲水を指導する。

 1914(大正3)年、48歳の時、遂に、宗般老師の印可を得て、その法を継ぐ(嗣法)。
 1915(大正4)年、50歳の時、三島・龍沢寺(白隠禅師の菩提寺)に入山。住職となり、当時廃寺寸前だった寺を復興させる。その後も住持、復旧に専念。

 その後、方広寺、犬山の*泉寺、原の松陰寺(白隠禅師の古道場)等々幾多の荒廃せる寺院を再建する。1919(大正9)年、55歳の時、龍沢寺の庫裡完成する。禅風を高揚し、「白隠禅師の再来」、「最後の禅僧」との評価を得るようになる。

 1920(大正10)年、56歳の時、円福寺の宗般老師御発病、京都八幡へ行き看病する。東京の小石川白山の竜雲院白山道場に、正道会を初めて開く。

 1922(大正12)年、58歳の時、太洋丸に搭乗、外遊の途に就く。米国では大統領ハーディングに会見。イギリス、ドイツに巡遊。ドイツで関東大震災の報を聞き帰朝。

 1924(大正14).10月、60歳の時、インドに外遊、仏跡を巡拝する。
 昭和の初めから東京で正修会という月例の接心会を開き、政財界に多くの帰依者を生んだ。
 1928(昭和3).9月、63歳の時、犬山瑞泉寺に晋山入寺。

 1930(昭和3)、1931(昭和6)年頃、腹部に腫れ物ができ苦しむ。急遽、麻酔無しの荒手術で一命取り留める。

 1933(昭和8)年、68歳の時、名古屋の覚王山日泰寺の住職として赴任、1年間過ごす。

 1934(昭和9).8月、69歳の時、飯山の生受庵住職を兼務。
 5.15事件の裁判では井上日召の特別弁護人をつとめた。1934(昭和9).9.15日、法廷で次のように述べたと云われている。
 「日召の犯した動機は、心から日本の将来を思うてやったということである。仏教にも一殺多生ということがある。一つを殺して多くを生かすということだ。もちろん、殺人は法の禁ずるところであるが、日召の意図したところは、もっと大きく、日本を救うという精神から出ているもので、ただの殺人ではない」(「回想・山本玄峰」19P)。
 「法は大海の如く、ようやく入れば、いよいよ深い。日召が真の仕事をするのは、これからと思う。万一、死刑となって死し、その肉体は虚空に尽きても、その願は尽きぬ。日本全体有色人を生かすも殺すも、日本精神一つである。これを知らぬ者は一人もないはずだ。最後に、胸に迫って、これ以上は申し上げられぬが、鏡と鏡、仏と仏との心にかえって、何卒、お裁きお願いします」

 ということを滔々と弁じられた。その結果かどうか、日召は死刑を免れている。9.15日付け朝日新聞の見出しは、「井上日召の魂の父、今日法廷に立つ。わしだけが判る、あれの心境 玄峰老師きのう入京」とある。
 1936(昭和11).7月、71歳の時、満州に出向き、新京に妙心寺別院を開創し、海外布教に乗り出す。

 1939(昭和14)年頃、満州から戻る。
 史上、血盟団事件の黒幕であった井上日召、戦前武装共産党のリーダー田中清玄の二人を帰依させ、二人は終生師と慕い、薫陶を受けることになった。田中清玄の転向経緯は、「獄中転向時の経緯、山本玄峰老師との関り」に記した。かくて、「転向」した田中清玄は、1941(昭和16).4.29日、11年10ヶ月の刑期を終えて小菅刑務所を出獄。5.1日、清玄は老師の下を訪ね、6月より修行の身となる。

 1941(昭和16).10月、76歳の時、龍沢寺僧堂開単。この年、太平洋戦争始まる。
 老師の名声は全国に広まり、老師の導きを受けに政財界の大物たちが馳せ参じることになった。終戦時の首相を務めることになった鈴木貫太郎や戦後の首相・吉田茂、池田勇人など後に日本の政治の中枢を担う人士が老師の助言を求め来山した。
 「無条件降伏」で連合国に負けることを最善の策とする観点を確立し、田中清玄を秘書として時局に対応していくことになる。
 戦争中、竜沢寺は、疎開者の為に開放した。
 1945(昭和20).4月、大東亜戦争末期、鈴木貫太郎と会談する。この時、次のような敗戦時の処理案を授けたと云われている。
 「日本は一刻も早く、戦争を止めなければならぬ。今となっては、負けて勝たねばなりません」。
 「今日この大任を引き受け得る人は貴下を措いて他には有りません。貴下のような清廉潔白な人には政治は向かないでしょうが、今こそ身命を擲(なげう)って最後のご奉公をしてください」。

 この会談より一週間後、鈴木が首相に就任。玄峰は、鈴木の使者に「どうか忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて、国家の再建に尽くして頂きたい」と伝えている。終戦の勅語にある「時運の赴くところ堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を平かんと欲す」」の文句は、玄峰老師のこの時のアドバイスによるものと思われる。
 戦後も、幣原喜重郎首相に象徴天皇制の案を授けたと云われる。これについては、戦後天皇制=「天皇象徴制」の位置付けについてに記す。
 中国、インド、アメリカ、欧州、アフリカなどに布教。
 1947(昭和22)年、82歳の時、臨済宗大本山妙心寺管長に推挙され晋山。
 1948(昭和23)年、83歳の時、田中清玄の計らいで、老師、苫米地義三夫妻、当時の日銀法皇・一万田尚登、辞任直後の泉山三六と席を設けている。7.19日、山岡鉄舟居士の鉄舟忌を盛大に執り行う。花園大学の改革に鞅掌。

 1951(昭和26)年、86歳の時、龍沢寺を宋淵和尚に譲り住職を辞任。1957(昭和32)年、92歳の時、高知の雪蹊寺に霊宝殿を建立。

 1954(昭和29)年、89歳の時、円福寺に入山。一年くらい住職を務める。

 1960(昭和35).6.15日、95歳の時、「無門関提唱」上梓。全生庵にて静養、狭心症発作。四国八十八ヶ所の巡拝。

 1961(昭和36).1.16日、全生庵より三島伯日荘に移る。6.2日夜中危篤状態に陥る。
 1961(昭和36).6.3日、96歳で逝去。葬儀の際に、当時の大平官房長官が駆けつけ、渡米中の池田首相の弔辞を代読している。

【山本玄峰老師の人となり】
 玄峰老師を評して「天地と我と同根、万物と我と同一体を地で行く人であった」と云われている。れんだいこが評すれば、「その性磊落であり、事を能く為し、洞察鋭く、一朝有事至らば天下を背負う気概で人を感化せしめ、時局を救った有徳の人」であられた。禅を組み、公案を解き、心を鍛えた修行の賜物としてか叡智に富み、人徳も厚く、加えて豪放磊落な人柄は多くの人々をひきつけ、強い影響を与えた、と伝えられている。

 無類の酒好きであり、90を越えても(彼は96歳まで生きた)晩酌に3合から4合の酒を欠かしたことがなかった。このことを面白おかしく、「わしは生まれて、すぐ道端に捨てられ気絶しているのを、岡本の養父が拾って行き、酒を吹きかけると蘇生したのだから、酒は命の恩人じゃ」と云い為している。

 玄峰老師の愛用句は、「性根玉(しょうねったま)を磨け、陰徳を積め」であった。北条時頼の和歌「心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな」を引用した。


 師匠の太玄和尚、養父母の墓、伊勢神宮、この三箇所だけは少なくとも年に一度は必ずお参りしていた。

【時局認識】
 戦前、軍部の独創に対して批判的であった。次の言葉が残されている。
 「軍は気違いじゃ。気違いが走る時は、普通人も走る。日本の軍という気違いが、刃物を持って振り回している」。
 「金や物はいくらあっても結構だから、無駄使いをせぬように大切にせねばならぬ。『君子財を愛す、是を使う道あり』と云って、その使い方が悪いと金や物を殺し、自分をも殺すことになる。大東亜戦争でもそうであり、十分な兵力や物資を持っておって、もし先方から攻めてくれば、いつでも受けて立つぞという心構えと準備をしておって、それを使わないように上手に外交をして行かねばならぬ。それをかぐ兵力や物資を使いたがるから、間違いが起こり、自分を殺すことになるのである。人生は全てこの通りである」。

 この観点が田中清玄にも通じており、清玄の次のような言葉がある。
 「この程度の人間が日本を動かしているのかと、情けなや」。

 これは弟子入りした元日本共産党書記長田中清玄が、玄峰老人の秘書となって「麹町番町のご隠居=小森雄介」を訪ねた時に、時局絡みの話になった際、小森老人が「よかった、よかった、大勝利だ。これでアメリカは滅びる。日本の天下だ」とはしゃいでいたのに対して述懐した田中清玄の言葉である。当時、この小森老人の広いお屋敷にシナ浪人や満州浪人がたむろしており、軍人、政府役人も多数出入りしていた。

終戦時の対応認識
 大東亜戦争の帰趨を見抜き、民族滅亡の危機を憂い、一刻も早い終戦を指針させた。1945(昭和20).4月、大東亜戦争末期、鈴木貫太郎と会談する。この時、この時、次のような敗戦時の処理案を授けたと云われている。
 「日本は一刻も早く、戦争を止めなければならぬ。今となっては、負けて勝たねばなりません」。
 「今日この大任を引き受け得る人は貴下を措いて他には有りません。貴下のような清廉潔白な人には政治は向かないでしょうが、今こそ身命を擲(なげう)って最後のご奉公をしてください」。

 次のようにも発言している。
 「日本は大関じゃから、大関は勝つもきれい、負けるもきれい。日本はきれいに、無条件に負けることじゃ。勝負に拘っては大怪我をする。これは命を賭けた人間が5人いれば出来る。お前、出来るか。今『本土決戦じゃ、聖戦完遂じゃ』といって騒いでおるが、そんな我慢や我執にとらわれておつたら、日本は国体を損ない、国家はつぶれ、国民は流浪の民になるぞ」。
 「力で立つ者は力で滅びる。金で立つ者は金で滅びる。徳で立つ者は永遠じゃ。一国の総理になる人は、世の中の善い面も、悪い面も知り尽くした人でなければ勤まらぬから、あなたのように素直な、正直な人には向かないが、こういう非常時こそ、金も名誉も要らぬ尽忠無私の人が居るのです」。

 この会談より一週間後、鈴木が首相に就任。玄峰は、鈴木の使者に「どうか忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて、国家の再建に尽くして頂きたい」と伝えている。終戦の勅語にある「時運の赴くところ堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を平かんと欲す」」の文句は、玄峰老師のこの時のアドバイスによるものと思われる。

【「象徴天皇制」の生みの親】
 玄峰老師は、政局の大節目に偉大な知恵を授けている。そのことが、「回想−山本玄峰」所収の楢橋渡「老師と新憲法秘話」の末尾で次のように述べられている。
 「そこで、法制局長官などを缶詰にして、全部総仕上げして、突如として、あの草案を発表した。だから、奇しくも日本の天皇制が、歴史というか、憲法その他から抹殺されなかったということは、マッカーサーの聡明さにもよる。けれども、そういう一つの大きな直観的な働きかけらよって、天皇を救った、といっては語弊があるが、やはり、山本玄峰老師の示唆が大きな意味を持っている。玄峰法師という方は、そういう一つの歴史的なことをやっているのである」。
 「終戦の時の総理だった鈴木貫太郎さんにも、老師は、『大関は大関らしい負け方をしろ、忍び難きを忍べ』と云われた。それが終戦の詔勅のお言葉になったのだそうである。そうとすれば、終戦と憲法、日本の国体の危機のときに、あの老師は不思議な存在で、今日の日本のある陰の力になっている。つまり、大道を践んではずさずというところがある。だから、天地を貫いた一つの法則を見破っていた偉大な人だと思っている」。

 つまり、玄峰老師は、「象徴天皇制の産みの親」ということになるが、これについては「
戦後天皇制=「天皇象徴制」の位置付けについて」で言及する。圧巻は次の下りである。

 主戦後の新憲法作りの過程で、楢橋渡氏が長岡温泉に滞在中の老師に助言を求めてやってきた。この時、老師は次のように述べられている。
 「わしは、天皇が下手に政治や政権に興味を持ったら、内部の抗争が絶えないと思う。何故かというと、天皇の詔勅を受けているんだからというて、天皇の権力を担ぎ廻って、派閥の抗争を始めるだろう。だから、天皇が一切の政治から超然として、空に輝く太陽の如くしておられ、今度は、その天皇の大御心を受けて、身を慎み、真善美の政治を実現するということになれば、天皇が居られても、もっと立派な民主主義国が出現するのではないか。天皇は空に輝く象徴みたいなものだ」。

【玄峰老師の名言その一、文句系】
 「人間の心は意馬心猿といって、ちょっと油断をすると、心が馬や猿のように飛んで廻るから、何時も自分で自分の心を引き締めておらねばならぬ」。
 「一番業の深い、最悪の生物は人間じゃ」。
 「木は気を養うものだ」。
 「人とたばこの良し悪しは、煙になりて 後にこそ知れ」。
 「臨済の一喝、ある時は人を殺し、ある時は人を活かす」。
 「僧堂にはいろいろな人がくるが、まともな人間は余人に任せる。わしは世間から、あばれもの、やくざもののように見られている連中を世話する」。
 「法に親切、人に親接、ご自身に辛切」(松原泰道氏の評伝)。
 「隠徳を積め」。「人間は若いときに陰徳を積んでおかないと、歳を取ってから苦労するから、常に陰徳を積むことを考えよ」。
 「学問はいくらでもせい。しかし学問を鼻にかけちゃいかんせ、坊主で何より肝腎なのは、道心じゃ。これに学問があれば鬼に金棒さ」。
 「わしの部屋は乗り合い舟じゃ。村の婆さんも来れば、乞食も来る。大臣も来れば、共産党までやって来る。皆同じ乗合舟のお客様じゃ」。
 「棚からボタ餅の堕ちてくるのを待つように、天命は俟つものではない。天命には従うものだ」。
 「お前は、まだ解らぬのか!わしは、世のため、人のためにと念じて修行したことは一度も無い。みんな自分のためにやっているのや」(田中清玄に放った言葉)。
 「いや、あんたは座禅組まんでもええわ。あんたは、ええ新聞つくりなはれ。それが、あんたの座禅やで」(老師が進藤次郎氏へ述べた言葉)。
 「足の裏と肛門をきれいにしておくのが、健康の秘訣じゃ」。

【玄峰老師の名言その二、講話系
 「正法興るとき国栄え、正法廃るとき国滅ぶ。よろしく正法を守り仏法を興すべし」、「正法の行われる家は繁栄し、正法の栄える家は隆盛になる。ひたすら正法の久住に勤めよ」。
 「性根玉を磨くのが修行じゃ。人間の性根玉は元来、清浄であるけれども、永らくの宿業によって性根玉が曇っておる。それで元のきれいな性根玉に磨き出してゆかねばならぬのじゃ」。

 「性根玉が磨かれると、どうなるかといえば、自然に物事の道理が解ってくる。『天下の理に従う者は天下を保ち、天下の理を恣(ほしいまま)にする者は天下を失う』ということがあるが、物事の道理が解ってくるとろ、一切の物が語法神となって自分を守ってくれる。又何を行っても自然に成功し、成就するようになる。人生において一番大切なことは、この、なにゆえかは知らぬが、何事も自然に成就することである。そうなるには、性根玉を磨かねばならぬのじゃ」。

 「性根玉は磨くだけではいけない。性根玉を自覚し、悟らねばならない。本当に自分の性根玉が解ると、いつでも風呂から上がりたてのような、饅頭の蒸したてのような、ぽかぽかした楽しい気持ちがするものだ」。
 「お坊さんは障子の糊のようなものだ」。「どんな立派な障子でも、糊が無かったならば、障子の桟(さん)と紙が離れて障子の役目をしない。しかし外から見ると、糊は有るか無いか分からない。お坊さんは、この糊のように、人の知らないところで人と人とが仲良くし、一切の物事が円満に成り立って行く様に働いてゆかねばならないのだ」。

 「いくら目が見えても、障子一枚向こうは見えない。いくら耳が聞こえても、一丁先の声は聞こえない。目や耳が悪くても、心の眼が開けたならば、世界中を見渡し、天地の声を聞くことができる。葬式や法事をする坊さんにはなれなくても、心の眼が開ければ、人天の大導師になることができる。これは誰にでもできることだ。お前でもやればできる」(太玄和尚が後の玄峰に諭した言葉)
 「『君子、財を愛す。これを集むるに道あり。これを散ずるに道あり』。道理に従わない金の稼ぎ方と使い方は、許されないということですが、財を愛するということの本当の意味は、財物、つまり資源もエネルギーも無駄遣いはしないということですよ。今そのことが本当に分かっている財界人が、一体何人いるでしょうか」(田中清玄「自伝」の言葉。玄峰の薫陶によるものと思われる)。
 「時世には流れと勢いというものがある。これに逆らってみたところでどうにもならん。人が東に走る時には、共に東に走り、西に向かう時には、共に西に向かわねばならんが、泥棒と巡査のようなもので、同じ方向に走っていても、心掛けはそれぞれ違っていなければならん。それと同様に、同じことをしていても、心の置き場所が違わねばならぬ」。
 「人間は早く出世することを考えてはならん。若いときにはなるべく人の下で働き、人を助け、人の為に働かなければならん。40歳以前に人の長上に立ってはいけない。40歳以前に出世すると、60、70になって凋落してしまう。『年年に咲くや吉野の山桜 木を割りて見よ花のありかを』という歌があるが、これは人生には根肥(ねごえ、寒中の葉も草も無い時に木の根にやっておく肥料)が大切ということだ。花も葉も無い寒中に、木の根に肥料をやっておくように、人生には何よりも根肥えが大切なのじゃ。人間は40よりも50、50よりも60と、歳を取るに従って人に慕われ、人の役に立つ人間になり、むしろ喜んで人に惜しまれ、人を教えてゆくような人間にならなければならん。それが為には出世を急がず、徳と知恵と力を養っておくことじゃ」。
 「人間は手足を大切にせねばならぬ。炊事や風呂の世話をしてくれる人が旅館の手足じゃ。この人たちが一番大切な人じゃ。『車の功を云うときは輪は与らず』と云って、車で一番大切なものは輪であるのに、人は輪の有り難味を忘れがちである。輪を大切にすることを、よく考えねばならぬ」。

【玄峰老師の名言その三、辞世句系
 「人が死んだ時、挨拶をするのに、故人は草葉の陰で喜んでおりますとか、地下で安らかに眠っておりますなどという人があるが、人間は死んで身体は地下に行ったり、灰になったりするけれども、この心は地下にも行かねば、草葉の陰にもゆかぬ。天地宇宙に満ち満ちて、生き通しに生きておるのじゃ」。
 「わしの浮世狂言も、そろそろ幕にせんならん」、「旅へ出るから、支度をせい」(これが老師の辞世の句となった)。

【玄峰老師伝記】
再来 山本玄峰伝 帯金充利 大法輪閣 平成14年
「回想・山本玄峰」 玉置弁吉 春秋社
 愛と不抜の精神をもって禅定を極め、世に多くの感化を与えた老師の面影を、編者ら13氏のみずみずしい回想によって浮き彫りした好著、山田無文老師の序文を付す。




(私論.私見)