貞明皇后考

 (最新見直し2007.10.31日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、大正天皇の皇后貞明について考察しておく。「ウィキペディア貞明皇后」、「萬晩報、薩長因縁の昭和平成史(4)」その他を参照する。

 貞明皇后(ていめいこうごう、旧名:九條 節子(くじょう さだこ)。1884年6月25日 - 1951年昭和26年)5月17日)は、大正天皇皇后お印


【履歴】

 1884(明治17).6.25日、旧摂家、公爵の九条道孝(くじょうみちたか)の四女として誕生。母は側室の中川局(野間幾子)。本名は九条節子(さだこ)。 道孝の姉は孝明天皇の女御・英照皇太后である。よって節子姫の伯母にあたられる。

 九条節子(さだこ)は生後間もなくから5歳の学齢までの間、府下高円寺(現杉並区)の豪農・大河原家の家に里子に出され養育された。この時代の皇族や華族の間では、我が子を里子に出して、自然の中で逞しく育てるという風潮があり、また一方で赤子を他家で養育してもらうと丈夫になるという迷信もあったことによる。

 農家裸足で野山を駆け巡り、”九条の黒姫様”と呼ばれるほど逞しく育った。彼女が健康であることは、病弱な大正天皇の后となる大きな決め手にもなったようである。明治天皇の皇后の昭憲皇太后をして、「なんてお転婆なんでしょう」といわしめた程である。

 1889(明治22)年、赤坂福吉町の九条家に戻り、1890(明治23)年9月、華族女学校(後の女子学習院)に入学する。11年生の時の休み時間、九条節子が突然、オッペケペー節を唄いだして級友たちを驚かせている。オッペケペー節は、「オッペケペ オッペケペッポ ペッポッポー」という庶民の間で流行っていた歌で大河原家で覚えた歌であった。 上流階級の令嬢である同級生たちはあっけにとられて九条節子を眺めたと云う。「子供の頃からどこか人の意表を突くような行動に出られるところが節子姫にはおありになった」とのことである。1898(明治31)年、華族女学校小学部(現学習院初等部)を卒業。中学部と進む。1899(明治32)年、優秀な成績で卒業された。この年の夏に明宮嘉仁親王の妃に選ばれることになる。

 これは、孝明天皇の女御にして明治天皇の嫡母(※実母ではない)の九条夙子(くじょうあさこ)即ち、父は九条尚忠、母は賀茂神社氏人・南大路長尹の娘・菅山で九条道孝の実姉。よって九条節子の伯母にあたる英照皇太后のご意向であったらしく、節子姫が幼い時、招かれて姉と共に青山御所にあがり、伯母である英照皇太后に目をかけられて、皇孫明宮の妃に目されたようである。

 1900(明治33).2.11日 、15歳で、5歳年上の皇太子明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王と婚約。同年5.10日、宮中の賢所に於いて神前で挙式。御成婚祝の新居として赤坂離宮(現・迎賓館)が建造される。 成婚当時は教育係の万里小路幸子という老女官に宮中での礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したが、後年にはそれが自分の素養に大きく役立ったと感謝している。昭憲皇太后も節子妃を実の娘の様に愛されたという。

 大正天皇によく尽くし、夫婦仲は至って良好で、慣例を打ち破って夫の身辺の世話を自ら見た。これにより嘉仁皇太子は一人の側室も置かれなかった。また、ご結婚の翌年(明治34年)には、第1皇子/迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(後の昭和天皇)を出産、その1年後の明治35年には第2皇子/淳宮雍仁(あつのみややすひと)親王(後の秩父宮)、それから4年後の明治38年には第3皇子/光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王(後の高松宮)、大正になってから第4皇子/澄宮崇仁(すみのみやたかひと)親王(三笠宮)と云う4人の男の子に恵まれた。その都度、慶事として報道された。

 皇子4人がすべて皇后の子であったのは稀有というべきであり、一夫一妻制の確立に大いに貢献した。また皇子4人を産んだことで、宮中での地位は絶大なものがあった。大正天皇と一緒にたばこを嗜好していた。特筆すべきことは、大正天皇とともに側室制度を排して、天皇家の一夫多妻制を打ち切り、新しい皇室の姿を作っていったことである。反面、保守派の面もあり、宮中のしきたりに厳格で、皇太子妃の良子(ながこ)に対しても厳しかったといわれる。

 1912(明治45).7.30日、明治天皇が崩御。大正天皇の即位に伴い皇后となる。

 1915(大正4).11.10日、3年後、京都御所にて即位の礼が行なわれたが、貞明皇后は第四子を懐妊中のため欠席した。。天皇が即位後初めて行う新嘗〈にいなめ〉祭、その年の新穀を天皇が天照大神〈あまてらすおおみかみ〉および天神地祇に供え、自らも食する、1代一度の大祭である大嘗祭〈だうじょうさい〉と一連の儀式を合わせ大礼〈たいれい〉又は大典〈たいてん〉という)を挙行した。

 昭憲皇太后の後継者として皇室や神道のしきたりや伝統を大切にした一方で、野口幽香、後閑菊野など近代女子教育の研究家を相談相手に宮中に招いた。

 また、大正天皇が病に陥った後は、天皇に代わり皇室を取り仕切り、元老や重臣たちと渡り合った。1922(大正11)年、英国のエドワード王太子の訪日時、摂政裕仁親王とともにもてなしている。1923(大正12)年、 関東大震災の際には被災者を慰問している。  

 1924(昭和13)年、貞明皇后は、病状の悪化する大正天皇嘉仁に寄り添いつつ8回にわたって東京帝国大学教授・筧克彦の進講を受け、その時の内容は後に「神ながらの道」としてまとめられた。筧はドイツ留学時にキリスト教と出会い、日本人の精神的救済のために日本におけるルターの役割を務めようとしたが、帰国後、日本独自の伝統や文化とキリスト教との相克に悩み、古神道に行き着いた。寛容性の根源に古神道を据え、日本人こそが世界精神の担い手であるとして、外教を自在に取り込んで古神道に接木しながら、西洋諸国全般に逆輸出すべきだとも説いた。この筧の教えから貞明皇后は独自の宗教観を持ってキリスト教に接することになる。

 1926(大正15).12.25日、貞明皇后の手厚い看護も空しく、療養中の大正天皇が崩御。摂政の皇太子・裕仁親王の即位により皇太后となる(42歳)。天皇の死後、貞明皇后は日課の如く、午前中の大部分を大正天皇の遺影を安置した部屋で過ごし、「生ける人に仕えるよう」な有様だったという。また、孫にあたる昭和天皇の皇子女・三笠宮の子女を可愛がったと言う。

 1930(昭和5)年、赤坂離宮御苑内の大宮御所(太皇太后または皇太后の御所〈住居〉)に移った。皇太后としては救癩(きゅうらい=ハンセン病患者を救うこと)事業などを援助する一方、養蚕(ようさん=蚕を飼い育て、繭をとること)や灯台守(灯台の番をする人)への理解が深く、援助もよく行った。

 1931(昭和6)、貞明皇后の下賜金をもとに「癩予防協会」が設立された。彼女の誕生日の前後が「癩予防デー」となった。なお現在は「ハンセン病を正しく理解する週間」と改称されている。彼女の経済支援により生活が救済された患者もいる一方、「予防」のための強制隔離が正当化された面も否めない。また、このような活動が彼女の真意には関わらず「皇恩」、「仁慈」として、その後政治利用されてしまった側面もある。

 
戦中、関屋衣子は貞明皇后を訪れる。衣子が「今のままでは日本が負ける」と言うと貞明皇后は「はじめから負けると思っていた」と語り、「もう台湾も朝鮮も思い切らねばならない。昔の日本の領土のみになるだろうが、勝ち負けよりも、全世界の人が平和な世界に生きていくことを願っており、日本としては皇室の残ることが即ち日本の基です」と力強く述べたという。

 1951(昭和26).5.17日、狭心症のため崩御。享年66歳。皇太子妃時代に腸チフスに罹った以外は特に大病に罹らず健康であり、この日も勤労奉仕団への会釈(挨拶)を行なう予定で、その準備をしている時に発作が起こり、急死した。

 同年6.8日、貞明皇后と追号(諡号)された。追号の「貞明」は、『易経』にある「日月の道は貞(ただ)しくして明らかなり」の一文を出典とする。

陵墓は東京都八王子市の多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)で、大正天皇と並んで葬られた(歴代皇后の内で初めて関東に陵が営まれた)が、それは、日本国憲法下の皇室典範に基づいて葬られた最初の皇族を意味した。


【家系】

 孝明天皇の女御である英照皇太后は伯母にあたる。姉・範子山階宮菊麿王の妃。同母姉・籌子は西本願寺門主・大谷光瑞の妻。 異母弟・九条良致の妻は歌人として著名な九条武子である。


【家族】
 大正天皇との間には4男の皇子をもうけた。1901年、迪宮裕仁親王(みちのみやひろひと、 第124代昭和天皇、1902年、淳宮雍仁親王(あつのみややすひと、 秩父宮)、1905年、光宮宣仁親王(てるのみやのぶひと、高松宮)、1915年、澄宮崇仁親王(すみのみやたかひと、三笠宮)。

【人となり、逸話】
 生涯に渡って数多くの和歌を残す一方、夫・大正天皇の影響からか漢詩にも取り組んだ。 ここで筧が日本人の生命観の真髄に迫ると評価した貞明皇后の御歌を記しておこう。

 八百万の神のたゝへし一笑ひ世のよろこびのもとにてあるらし
  • 西川泰彦 『貞明皇后その御歌と御詩の世界―貞明皇后御集―拝読』 錦正社 2007年 を参照


【皇子とその妃達との関係】

 姑として香淳皇后には厳しかった。それは皇族久邇宮家の嫡出の王女(身位は女王)であった香淳皇后に対する家柄への妬み(貞明皇后は五摂家九条家の出身ではあるものの、嫡出ではなく庶子である)と周囲の人間から考えられていた。しかし、香淳皇后は皇族出身のいわばお姫様で、性格がかなりおっとりしており、逞しく育った貞明皇后とは、根本的に価値観の不一致があった。また香淳皇后の実家久邇宮家は外戚であることをかさに身勝手な振る舞いが多く、それが貞明皇后の不興を買う一因にもなったようである。貞明皇后から香淳皇后に注意は女官長を通じて行なわれていたが、貞明皇后に仕える竹屋津根子皇太后宮女官長、香淳皇后に仕える竹屋志計子女官長は姉妹であり、互いに言いにくかったと回想している。

 また、彼女たちに仕える女官長や女官が実際にその衝突を目撃したのは、大正天皇崩御の数ヶ月前、療養先である葉山御用邸に昭和天皇と香淳皇后がお見舞いに行った際、香淳皇后が姑である貞明皇后の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、『相変わらず、不細工なことだね』と言われ何も言い返せずただ黙っているしかなかったそうである。頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、二人は嫁姑として全くうまくいってないと知らしめる結果になってしまった。

 一方で弟宮の嫁達、秩父宮、高松宮、三笠宮の妃たちとは御所での食事や茶会を度々招いて、かわいがったそうである。特に次男・秩父宮の妃であった勢津子、女子学習院在学中に貞明皇后に見込まれ、結婚に至るいきさつには貞明皇后の強い推挙があったといわれる。そこには明治維新時の旧会津藩に対する誤解を解きたいとの極めて聡明な貞明皇后のお心遣いが感じられる。お気に入りであったらしく、お互い親交が深く、毎年3月3日の桃の節句の折には勢津子が実家から輿入れした際持ち込んだ雛人形を宮邸に飾って、貞明皇后に見てもらうのが恒例行事であったそうである。勢津子はそのことを『お子様4人全員が親王様であったので、毎年お楽しみにされているのでしょう』と語っている。(自身の著書『銀のボンボニエール』より)

 女官制度の廃止など宮廷改革を進めた長子の昭和天皇に反発し、自身の大宮御所では旧態依然とした宮廷制度を維持した。とはいえ決して天皇との関係は悪くなく、皇居内で見かけた鳥の名前について子供染みた我の張り合いをしたというほほえましいエピソードもある。また第二次大戦時においては、戦況の悪化の中でも疎開を拒む母を気遣ったことが、天皇が最後まで東京を離れなかった一因ともされる。

 しかし皇后の愛情は、次男の秩父宮に傾きがちであったと囁かれる。彼女と宮の誕生日は同じであり、そのことから皇后は強い縁を感じていたとも言われる。上記の勢津子妃との婚姻に関しても、かつての朝敵松平容保の孫でなおかつ平民という彼女を強く推したのは貞明皇后で、彼女の意向が大きく働いた結果であったと言われる(河原敏明)。


Re::れんだいこのカンテラ時評476 れんだいこ 2008/10/13
 【サンケイ正論、鳥居氏の「宮中祭祀廃止論への疑問」考】

 産経新聞は、読売と争って御用記事を書くことで知られているが、ほんの時々為になる記事を書く。2008.10.13日付けの正論の鳥居民・氏の「宮中祭祀廃止論への疑問」が面白い。これを確認しておく。

 明治学院大学の原武史氏の言説が槍玉に挙げられている。原氏と云えば大正天皇論で英明なる大正天皇の実像を伝えたことで評価されているが、今度は昭和天皇論にも向かったらしい。れんだいこはまだ読んでいない。そこで、大正天皇の皇后・貞明皇太后に言及しており、その所説に対し、鳥居氏が異論を唱えているという形になっている。

 窺うところ、原氏は、今日の宮中祭祀の基礎は貞明皇太后が作ったものに過ぎず、古来不易として護るほどのものではないと述べているらしい。その他、貞明皇太后の頑迷保守ぶりを記述しているらしい。これに対し、鳥居氏は、貞明皇太后の有能性に言及し、真実の貞明皇太后実像を伝えんとしている。

 れんだいこには、ここまではどうでも良いようなことにも思えるが、以下の記述が素晴らしい。原氏の所説か鳥居氏のそれか判明でないが、貞明皇太后は何と大東亜戦争の聖戦遂行と幕引きの両方に深く関与していたという。昭和20.2月の近衛文麿から東条英機の7名の「重臣上奏」の仕掛け人が貞明皇太后であった。その後の3.2日の昭和天皇と皇族の懇親会の仕掛け人も貞明皇太后であった。事態は進展せず、4ヵ月後、昭和天皇と貞明皇太后の直接会談となった。この時、昭和天皇は、ショックの余り立ち上がることができなかった。どういう内容の遣り取りが行われ、昭和天皇と貞明皇太后がどういう主張をしたのかまでは分からないが、この対談の結果として戦争終結に道が開かれた、と云う。

 原氏の所説と鳥居氏のそれとの違いまでは判明しにくいが、れんだいこは、戦争終結の裏舞台としての皇室事情が窺えたことが存外の収穫となった。原氏が実際にどのように述べているのか、鳥居氏の指摘が傾聴に値するものなのか、調べてみたいと思った。

 何より我々が関心を持つべきは、大東亜戦争の歴史的事情、推移、終結経緯である。これについて諸氏が研究している割には未ださっぱり分からない面が余りにも多い。特に、終結経緯は謎だらけである。予定より早まったのか、それは正解だったのか、徹底抗戦していたらどうなっていたのか、別の選択肢が有り得たのか等々につき未だ説得的な議論にお目にかかっていない。

 そういうことを考えさせるに値するのが産経新聞の2008.10.13日付けの正論の鳥居民・氏の「宮中祭祀廃止論への疑問」であった。新聞ジャーナルのらしき歴史発掘であったように思われる。かくコメントしておく。
 
 2008.10.13日 れんだいこ拝

先代:
昭憲皇太后(美子)
日本の皇后
1912 - 1926
次代:
香淳皇后(良子)




(私論.私見)