大正天皇の足跡履歴

 (最新見直し2015.07.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、大正天皇の足跡履歴を確認しておく。書籍として、原武史「大正天皇 (朝日選書)」(朝日選書、2000.11初版)、フレドリック・R. ディキンソンの「大正天皇―一躍五大洲を雄飛す 」((ミネルヴァ日本評伝選、200.9初版)その他を参照する。ネット文として、「大正天皇の御生涯」、「追悼録(91)」、「大正天皇のお話(1) 」、「大正天皇のお話(2) 」、「大正天皇のお話(3) 」その他を参照する。

 2007.11.1日 れんだいこ拝


【大正天皇の総履歴概要】
 1879(明治12).8.31日~1926(大正15).12.25日(48歳)。在位期間は1912.7.30日~1926.12.25日。

 1879(明治12).8.31日、東京青山御産所にて、明治天皇の第三皇子として生まれる。母親は側室の柳原愛子(なるこ)。幼名・明宮(はるのみや)、嘉仁(よしひと)親王と名付けられた。

 1889(明治22).11.3日、10歳の時、皇室典範の制定により皇太子となり、立太子礼を挙げる。(立太子、即ち皇太子となる)。

 1900(明治33).5.10日、公爵九条道孝の四女九条節子様(さだこ、貞明皇后)と御成婚。この年から地方巡啓として日本各地を訪問。息子に迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)、淳宮雍仁親王(後の秩父宮)、光宮宣仁親王(後の高松宮)、澄宮崇仁親王(後の三笠宮)。

 1912年(大正元).7.30日、32歳の時、明治天皇崩御により第123代目の天皇として即位、大正に改元。
即位の礼は昭憲皇太后死去のため当初の予定から1年延びて1915(大正4).11.10日に紫宸殿で執り行われた。

 幼少の時に大病を患ったことなどから病弱だったとされ、即位後も公務を控えることが多く、1921(同10).11.25日に皇太子(後の昭和天皇)が摂政に就任。その後静養を続けたが、1926(同15).12.25日、死去した。死因は肺炎に伴う心臓まひとされる。

【誕生】

 大正天皇は、1879(明治12).8.31日、明治天皇の第三皇子として東京青山御産所にて生誕する。父・明治(睦仁)天皇、母・柳原光愛の次女・権典侍(ごんてんじ)・柳原愛子(やなぎわらなるこ、1855~1943)。史上最初の東京生まれの天皇となる。

 幼称は明宮(はるのみや)、御名・嘉仁(よしひと)親王、追称・大正天皇となる。明治天皇と皇后・一条美子(はるこ)との間には皇子女がおらず、側室出生の親王・内親王は明宮嘉仁親王を含めて5人いたが、成人したのは明宮嘉仁親王だけとなり、やがて大正天皇として即位することになる。明治天皇と側室との間には15人の子供が生まれたが、次々に夭逝し、成人したのは明宮と4人の皇女だけだった。


【柳原愛子と柳原白蓮の関係】
 ちなみに柳原愛子は、歌人として知られる柳原白蓮(本名燁子、あきこ)の伯母に当たる。以下、「柳原白蓮考」に記す。

【「祭神論争」の影響】
 1880年をピークに「祭神論争」が展開されている。この論争は、国民教化の為の半公的な中央機関として、1875年に設立された神道事務局の祭神を廻って繰り広げられた。天津神系譜の伊勢派は、伊勢神宮を中心とする古事記の冒頭に登場する造化三神(あめのみなかぬし神、たかみむすび神、かみむすび神)及びあまてらす神のみを祀るべきとしていたのに対して、国津神系譜の出雲派は、出雲大社を伊勢神宮と同格で祀るべしとして、おおくにぬし命の合祀を主張した。

 この論争は、1881(明治14)年に勅裁という政治的方法で決着し、出雲派の主張が斥けられた。これにより、おおくにぬし命は、公式に「幽冥主宰神」としての権威資格を剥奪され、皇室守護の護国の神の地位へ引き下げられた。
(私論.私見) 「祭神論争」考
 日本政治史上最大の政変と思われる「国譲り」に端を発する「祭神論争」がこの時期に繰り広げられていることが興味深い。

 2007.11.1日 れんだいこ拝

【幼児時代】
 明宮(はるのみや)は生後まもなく大病を患い、其の後も百日咳や腸チフスなどにかかるなど生まれつき病弱な体質であった。このことが、後の大正天皇押し込めの遠因にされることになる。

 
12.6日、当時の皇室の風習に従い幼少期の明治天皇同様に中山忠能邸に里子に出される。6歳になるまで中山邸に預けられた。

出雲大社祭神による守護が祈願されている
 この間、明宮(はるのみや)の病弱身上を案じた美子皇后(昭憲皇太后)の意向で、健康を祈る為に、1883.10月に出雲大社の祭神・大国主命(おおくにぬしのみこと)の分霊と御守りを取り寄せ、中山邸内の神殿に安置させたと伝えられている。
(私論.私見) 「大国主命(おおくにぬしのみこと)の分霊取り寄せ」考
 このことは、大正天皇を取り巻く背後に国津神系の影響が認められる点で注目に値する。なお、「祭神論争」の政治的決着にも関わらず、次なる皇位継承者となる御子の精神的お守りに国つ神系の祭神を祀ったということになり、(関心の向きの者には)注目されるべきことであるように思われる。

 2007.11.1日 れんだいこ拝

【幼少時代及び学問の手ほどき為される】
 1885(明治18).3.23日、6歳のとき、中山邸から赤坂仮御所(青山御所)に移り、皇后・一条美子に手厚く育てられる。実母が柳原愛子であることを知るのは後年であるが、皇后・一条美子を母として育ったため生母が柳原愛子と言われてもなかなかそれを信じなかったと伝えられている。これにつき、「このような幼少期の特殊な環境は、後々にいたるまで明宮の健康と精神に少なからず影響を与えたと思われる」とするのは一面的であろう。「美子皇后に手厚く育てられた裏事情に、それほどまで可愛く且つ賢い、将来の天皇として見込みのある幼子であった」面も慮る必要があるのではなかろうか。

 1886(明治19).1月、7歳の時、青山
御所内に御学問所が設置され、博育官(教育係)に「読書(よみかき)入門」という日本で初めての教科書を編集した湯本武比古が選ばれる。以降暫くの間、湯本武比古氏の個人授業を受ける。湯本氏は皇室に仕えた初めての平民であった。湯本氏は、近代国家の君主にふさわしい教育のために歴代天皇が経験したことのないような教育方法や内容を取り入れた。即ち、・普段着を洋服にする。・庭園を散歩して植物や動物に関する質問をさせる。・官立幼稚園を参観させ授業態度を学ばせる。・陸海軍の施設、学校、工場の見学。・当時の欧州各国の王室における流行語だったフランス語などを学ばせる。

 この頃の明宮の御気性が次のように記されている。
 「児童の時分より制約や規則というものに縛られることを極端に嫌い、思ったことを何でも率直に発言する性格の御子。
 「目にし手に触れるものに対し頻りに『これは何、それは何ゆえ』と問う御子であった」。

 
1887(明治20)年、学習院初等学科に入学した。この時、侍従にせがんで軍隊の背嚢を背負って登校。この「軍隊の背嚢」がランドセルの原型となったという逸話が残されている。病気のため休学。以後、一時的に箱根や熱海に療養しながら健康回復につとめ、長ずるに及び次第に壮健となる。

 1887(明治20).7.26日、8歳の時、佐々木高行氏が明宮御養育主任となる。

 8.31日、8歳の誕生日の時に儲君となり、同時に皇后・一条美子の養子となる(儲君は皇后の実子とされる慣例があった)。

 東宮侍従の小笠原長育より礼法教育を受ける。


 9.19日、学習院予備科に編入学。1888(明治21).4.5日、9歳の時、陸軍中将・曽我祐準氏が御養育主任となる。5月~8月にかけて百日咳にかかり、学習院を休学した為進級できず。

【洋学医ベルツ採用される】
 1888(明治21).8.11日、9歳の時、東京帝国大学教授・ベルツが主治医に任命され、11月までに浅田宗伯をはじめとする漢方医全員が解任されている。以後、洋医が担当することになった。

【東宮御所時代】
 1889(明治22).2月、9歳の時、明宮は青山御所から赤坂離宮内の東宮御所、通称「花御殿」に移り住む。

【皇太子となる。東宮職が新設される】
 1889(明治22)年、10歳の時、11.3日、天長節の日、「古式に則らせ給ひ、いと荘厳に」立太子礼が執り行われ皇太子となる。同時に陸軍歩兵少尉に任命され、近衛歩兵第一連隊付になっている。
(これにより以降を「明宮嘉仁(はるのみやよしひと)皇太子又は単に皇太子」と記す)。同日、東宮職が新設され官制が定められている。東宮大夫(だいぶ)、東宮侍従長、東宮亮(すけ)、東宮武官、東宮侍従などの官職が置かれることになった。東宮侍従長には、中山忠能の孫の中山孝麿が任命された。

 翌日、初めての公式行事として、東京青山にあった近衛歩兵第一旅団及び近衛歩兵第一連隊を訪問し、入隊の儀を行っている。

 
「明治天皇記」は、この頃の明宮嘉仁皇太子を次のように記している。
 「ときに齢11歳、既に学習院に学び、文武諸官輔導の任に当たり、学業日に進む、聡明にして仁慈性に具わる、近時身体すこぶる健なり」()とある。この「聡明にして仁慈性に具わる、近時身体すこぶる健なり」。

 この記述はもっと注目されて良いと思われる。皇太子の体は次第に丈夫になり、13歳から14歳にかけての初等学科4年の時には、ついに無欠席で一年間を通している。「体質虚弱な腺病質な質で数度と無く病歴を持つが、無事成人した」ことを意味している。但し、12月に腸チフスにかかるとある。

【ロシア皇太子・ニコライの訪日巡遊の影響】
 1891年、ロシア皇太子のニコライ(1868~1918)が訪日し巡遊している。この時、有栖川宮が接判委員長として長崎に入港したニコライ一行を出迎えており、行動を共にし、一行が各地の人々や風俗に接して和合する姿を目の当たりにしている。この巡遊は不幸なことに大津事件で中止となったものの、有栖川宮にとって得がたい経験となった。有栖川宮は後に東宮職となるに及び、この時の経験が皇太子教育に生かされ、巡啓に生かされていくことになる。

【東宮武官長・奥保かたの薫陶】
 この頃、宮廷内に東宮職が設置され、その武官長として近衛歩兵第一旅団長の陸軍少将・奥保かた(やすかた)が就任している。奥は東宮大夫も兼ね、この現役バリバリの軍人が皇太子輔導の最高責任者となっていることが注目される。

 1892(明治25).7月、奥は皇太子の学業成績を明治天皇に次のように報告している。
 概要「24.6月より25.7月まで、殿下の学業成績は、読書、馬術は著しく進歩され、随って記憶力もまされ、但し、読書進歩の割には意味を解せらるること乏しい。算術は他に比較すれば困難なり」(「徳大寺実則日記」)。

 1892(明治25).12月、皇太子が陸軍歩兵中尉に昇進している。

【学習院初等科卒業、中等学科へ】
 1893(明治26).7月、14歳の時、学習院初等科卒業、中等学科へ。1894(明治27).8月、15歳の時、体調が芳しくない事もあって学習院中等学科中退。これ以降、皇太子は赤坂離宮に設けられた御学問所で個人講義を受ける身となる。東京帝国大学より本居豊頴や三島中洲を招聘、彼らを東宮侍講としたが、特に三島の教える漢学に強い関心を示し、のちに優れた漢詩をいくつかのこしている。一方、皇太子の事情を憂慮した政府は沼津や葉山に御用邸を建てて皇太子を滞在させ、健康維持をはかるようすすめている。

【日清戦争勃発、その影響】
 1894(明治27)年、日清戦争勃発。11.15日、広島大本営に行啓。東京日日新聞は次のような記事にしている。
 「皇太子は1894年11月15日の早朝にも関わらず、多くの人に見送られた」、「新橋駅付近には朝早くから庶民の群れに囲まれ、嘉仁皇太子へ向けての万歳が唱えられ、一時は大混乱となった」。

 1895(明治28、16歳).1月、陸軍歩兵大尉となる。3.17日、皇居、広島大本営に行啓。 8月腸チフス肋膜炎肺炎など、重体に陥る(11月に全快)。一時重体に陥る事態となったが医師ベルツらの助力もあって奇跡的に回復、無事全快に至った。この年、陸軍歩兵大尉に任命される。

【高等教育受ける】
 1895(明治28)、16歳の時、東宮職御用掛に、東京帝国大学文学部古典講習科講師・本居豊かい(とよかい、本居宣長のひ孫)が就任し、国学(和歌、作文、歴史、地理)。翌年、川田甕江の死去の後を受けて、東京帝国大学教授・三島中州(ちゅうしゅう)が同じく東宮職御用掛に任命され、漢学(漢詩、漢文)を担当し、皇太子の個人授業に当ることになった。

【出雲派の影響】
 1896(明治29、17歳).6.12日、皇太子は埼玉県大宮の氷川神社に参拝している。原氏の「大正天皇」には次のように記されている。
 「氷川神社の祭神は、明治維新とともにスサノオ一神に定められたが、実は皇太子の参拝の直前に、その子孫であるオオク二ヌシが合祀されていた。つまりこの参拝は、出雲まで行くことのできなかった皇太子が、守護神であるオオク二ヌシに対して、重態から脱して身体が回復したことを感謝する意味を持っていたのである。

 当時の埼玉県知事は千家尊福(たかとみ)であった。千家は出雲大社の国造家の出身で、祭神論争では出雲派のリーダーとして活躍した。そして本居もまた、千家と共に祭神論争ではオオク二ヌシの合祀を主張した一人であった。皇太子の氷川神社参拝の背景に、個人的にも親しかった千家と本居が関係していたことは恐らく間違いない」。

 参拝後は氷川公園(現在は大宮公園)を訪れ、地元の小学校生徒による兵式体操や、警察監獄署員による撃剣を見学された。

【避暑に日光に出向き始めている】
 1896(明治29)年、17歳の時、皇太子は、この年から1925(大正14)年まで毎年、避暑に日光に出向き始めている。慈雲寺の門の手前に大正天皇のお読みになった和歌の碑が遺されている。日光に滞在する際に使用された「田母沢御用邸」が近くにあったので近所の大谷川付近を散策をしながら読んだお歌である。 ちなみに、日光田母沢御用邸は1899年(明治32年)に、大正天皇(当時は皇太子)の避暑地して明治時代の銀行家の別荘をもとに、紀州徳川家江戸屋敷の一部を移転して作られた。 その後、増改築を重ねて現在のような田母沢御用邸の姿になったのは1921年(大正10年)頃である。 日光田母沢御用邸は1947年(昭和22年)に廃止されるまで三代にわたる大正天皇、昭和天皇そして現在の天皇陛下の皇太子時代というように、3代にわたる天皇・皇太子がご利用になられた。 現在、「田母沢御用邸記念公園」として利用できるように栃木県が3年かけて修復した。

 「健康を取り戻すためだったと思われるが、葉山、日光など御用邸周辺での外出が目立つ」と、明治学院大教授の原武史さん(日本政治思想史)は話す。


【貴族院の皇族議員になる】
 1897(明治30)年、18歳の時、皇太子が貴族院の皇族議員となった。成年式は、英照皇太后の喪中のため、翌年に延期された。

【明宮を廻る明治天皇と伊藤博文首相のやり取り】
 1898(明治31、19歳).2月、首相・伊藤博文が、天皇に対して全部で19か条からなる皇室改革意見書を提出している。その9か目に、次のように記されている。
 概要「ひそかにおもんみるに、皇太子殿下今すでに成年に達せらるるも、玉体御弱質にわたらせられ、加えるに御重患にかからせられ、一時は頗る危険の形勢に在らせられたるも、幸いにして近時ようやく御回復に赴かせらるるは億兆の仰慶するところ。然るに一時御大患の為自ら御学業等の進歩御遅延に渉らせらるるは当然のことなり。而して今日左右に侍するもの、傍観座視して之が為に憂慮するものなきが如きに至りては、まことに寒心に堪えざるところなり。伏して思うに東宮を擁護し奉る今日の急務は、一面において衛生上御健全を図り、一面においては学術に基づくところ、あるいは事実に現出するところの政治又は陸海軍事に御熟通あらせらるるようなるべく簡便なる方法により、漸次御養成あいなりたく、故に先に進言して勲臣の内より一人を簡抜して監督せしめらるる事に聖裁を賜わりしは、国家社稷の大幸とするところなり」。

 3月、明治天皇は、皇太子に概略「東宮職員の不才不能をあげつらい、全員更迭させよなどと軽々に口にすることの無きよう、発言を慎むよう」との沙汰書を伝えている。

【有栖川宮の後見を得る。「御健康第一、御学問第二」とする補導の方針を打ち出される】
 1898(明治31).19歳の時、11月、皇太子は陸軍歩兵少佐並びに海軍少佐になる。明治天皇の意向により、有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第4王子、有栖川宮威仁(たるひと)親王が東宮賓友となる。この有栖川宮威仁親王との出会いは、その後の皇太子にとって大変意義のあるものとなった。

 有栖川宮登用の背後事情は次の通り。この頃、皇太子教育を廻り、詰め込みを強制する東宮職と皇太子との間で確執もあった。これに憂慮した伊藤博文が東宮職以外に外部から皇太子の教育や健康管理など、総合的に監督させるための人員を置くことを提案、明治天皇も同意。元師陸軍大将の大山巌を東宮監督に、監督の補佐として伊藤他3名があたり、また東宮賓友として皇族の有栖川宮威仁親王が当たることになった。

 有栖川宮幟仁(たかひと)親王の履歴は次の通り。幼称は稠宮(さわのみや)。海軍兵学校卒。西南戦争をはじめ日清戦争、日露戦争に従軍。また明治天皇名代として外国の式典に参列した。後に海軍大将。52歳で死去。王子の栽仁王(たねひとおう)が早世した為、有栖川宮家は断絶した。
皇太子は有栖川宮に厚い信頼を寄せた。皇太子にとって17歳年上であったが有栖川宮を兄のごとく慕い、「頼りになる友人」的関係が築かれることになった。後に有栖川宮が継嗣のないまま危篤に陥った時には第三皇子・宣仁親王に高松宮の称号を与えることで有栖川宮の祭祀を継承させている。

 有栖川宮は、規律や格式を重んじる東宮職の反発を後目に皇太子の健康状態維持優先を主張し、「御健康第一、御学問第二に」の補導の方針を打ち出し、皇太子教育にあたることになった。

 1898(明治31).19歳のとき、11.30日、青山御所を東宮御所と定まり、12.4日、大隈重信邸に行啓。

【伏見宮禎子(さちこ)女王との結婚騒動、九条節子と御婚約】
 1898(明治31、19歳).8.31日、皇太子妃に内定の九条節子との婚約が正式に内定される。配偶者が節子に定まるまでには少し騒動が発生した。最初に候補に上がったのは伏見宮禎子(さちこ)女王で内定までしていた。しかし逆転劇が起こり、節子に決められたという経過が伝えられている。当然のことながら「皇族の婚嫁は同族または勅旨により特に認可せられたる華族に限る」との皇室典範の規定に拠って選ばれている。

 九条節子に白羽の矢を当てたのは、九条節子の父・九条道孝の実姉にして孝明天皇の女御にして明治天皇の正妻(嫡母)の九条夙子(くじょうあさこ、後の英照皇太后)で、節子姫が幼い時、招かれて姉と共に青山御所にあがり、伯母である英照皇太后に目をかけられて、皇孫明宮嘉仁皇太子の妃に目されたと云う。12.19日、皇太子妃に内定の九条節子参内。

【有栖川宮が正式に東宮補導になり東宮を監督する全権を委任される
 1899(明治32、20歳).5月、天皇の大命により東宮監督・伺候が廃止され、大山、伊藤、松方、土方は東宮補導顧問となる。有栖川宮威仁(たけひと)親王が東宮賓友となってより1年後、正式に東宮補導になり東宮を監督する全権を委任される。

【御成婚】
 1900(明治33)年、20歳の時、2.11日 、嘉仁皇太子は「日嗣ぎの御子」として公爵九条道孝の4女・九条節子(さだこ、後の貞明皇后、当時15歳)と婚約する。節子妃につきより詳しくは「貞明皇后考」で確認するが、要するにこちらも出雲系の出自であるところに意味がある。F.R.ディキンソン著「一躍五洲を雄飛す 大正天皇」は次のように記している。
 「婚約は1900年2月11日に発表されたが、これは憲法が発布されたのと同じ日で、近代日本にとって最も神聖的な祭日、紀元節であった」。

 同年5.10日、皇祖天照大御神の御霊代の御神鏡が座す宮中・賢所(かしこところ)で、4月に交付された皇室婚嫁令に従い、皇太子は束帯、皇太子妃は十二単衣姿で、宮中の賢所大前で玉串を捧げるという神前結婚式が厳かに執り行われた。留意すべきは、それまでは式は神前では行われず、式後に賢所に御参拝になるのが宮中の慣わしだったようである。「賢所の大前において、ご婚儀を行はせたまふ御事は、国初以来こたびを以て初めて」とあるので、この時、明治天皇を取り巻く当時の宮中の英断で賢所での神前結婚式に踏み切っていることになる。これが神前結婚式の走りとのことである。 

 儀式後、嘉仁皇太子は陸軍少佐の正装、節子皇太子妃はドイツ式正装マンド・ド・クールを身に付け、明治天皇や皇后と対面式を行った後、婚約者は午前11時頃から四頭立ての馬車に乗り、宮城から桜田門-三宅坂-麹町四谷-紀伊国坂-堀端-田町通りや青山通りを騎兵や皇室関係者に同行され、1時間半ほど皇居周辺をパレードしている。東宮御所を零時半ごろに着いた皇太子と皇太子妃は、皇室関係者と正餐をとる。3時30分頃、皇太子は正装に立太子礼の際に授与された大勲位菊花大綬章や婚礼とともに受けた大勲位菊花章頸飾を付け、皇太子妃はフランス式正装ローブ・デコルテーに新しく授与された勲一等賓冠章を佩びて、再び宮殿に向かった。宮殿内の鳳凰の間で皇族、顕官や各国公使と公使館員、同夫妻の祝賀を受けた後、最後は豪華な饗宴――各国公使等を含む2200人程の饗宴者と会食しながら、宮内省楽部と近衛師団の軍楽隊の演奏を楽しんだ。(「風俗画報」、1900年6月15日/10~11頁)。

 皇居周辺や銀座等の繁華街に国旗や提灯、電飾と飾門が多く設けられ、陸海軍によって祝いの皇礼砲が響き、後に市の後援により、日比谷公園ほか3ヶ所に花火が打ち上げられた。婚礼を見るために鉄道を使って上京した人は10万人を超え、大勢の群集がパレードの沿道に整然と並び、日の丸の小旗を打ち振って歓迎した。1890年から日本に住み着いていたイギリス国籍の作家、ラフカディオ・ハーン(日本名/小泉八雲)とその家族もこの中にいた(工藤美代子「国母の気品―貞明皇后の生涯」8~13頁)。ある報道によれば、「その数幾十萬人なりけん、踏まるるあり、押さるるあり、泣くあり叫ぶあり、実に筆紙にも尽き人出なりき」という場面もあったとのことである。

 祝辞を送った人は15万人を超えた。その後、国内至る所で記念植樹や記念碑が建てられている。青森県ではソメイヨシノを記念植樹している。後に桜の名所となる弘前公園も、皇太子の結婚記念で桜を植樹したのが始まりと云われている。後に皇太子は全国各地を巡啓することになるが、その過程でも桜が多く植えられている。今日の日本のシンボルとしての桜のイメージはこの頃が発端で、大正天皇との関係が深い。3500万枚も発行された記念切手が貼ってあった郵便物も多く出回った。要するに日本中が祝賀ムードに酔いしれる国挙げての大祝典が成功裏に挙行されたことになる。これがその後の皇太子御成婚行事の先例となり今日に続いている。

 当時の人々は概ね皇太子の結婚を祝福しているようで、正岡子規は「東宮御婚儀をことほぎまつる歌」を詠み新聞「日本」に掲載されている。皇太子の主治医ドイツ人のエルヴィン・フォン・ベルツ氏は、「素晴らしい。どの店にも、何か祝意を表するものが飾られている」と喜んでいる。


 この時、幸徳秋水も無署名ながら「万朝報」に「皇太子殿下の大礼を賀し奉る」という文章を載せている。これは如何なる幸徳秋水の政治眼力か。思うに、幸徳秋水は、日本の皇室制度を西欧的君主制の抑圧のものではない日本固有の尊守すべき制度であるとして歴史的に解明せんとする姿勢にあったのではなかろうか。俗流マルクス主義の機械的適用によって天皇制を西欧的君主制のラインの下でのみ捉え、その打倒を生硬に唱えれば唱えるほど革命的とする理論に対するアンチの姿勢を保持していたのではなかろうか。とすれば、この天皇制論は一聴に値するのではなかろうか。この高徳を葬った大逆事件も胡散臭い。大杉栄を葬った関東大震災も胡散臭い。何やら格別優秀な者を狙い撃ちしている観がある。

【最初の巡啓/明治33.5.23日から10日間/三重、奈良、京都方面
 5.23日-6.2日、10日間、皇太子ご夫妻は、伊勢神宮・神武天皇陵などに結婚奉告のため三重、奈良、京都を10日間初巡啓している。伊勢神宮、神武天皇陵、京都・泉湧寺等を参拝後に、京都帝国大学や第三高等学校を訪問し、学生の授業や運動を見学している。

 他にも、京都帝大付属病院に立ち寄り、外科病棟にいた14歳と22歳の患者に近寄って症状を尋ねいたわりの言葉をかけ、周りのものにも気安く話し掛け、「患者は絶えず感涙に咽びた」なる肉声が新聞に報じられたりしている。。明治天皇の行幸・巡幸では全くありえなかったことで、驚きを持って迎えられている。


 この巡啓を企画推進したのは、東宮補導・有栖川宮であった。「少数の東宮職関係者と相対するだけの狭く堅苦しい空間から皇太子を解き放ち、一般の人々が暮らしている世間に触れさせる」との考えに基づいていた。原氏は、有栖川宮が皇太子の巡啓を思いついた背景として、1891年にロシア皇太子のニコライ(1868~1918)が、日本巡遊した時の経験に拠るとして以下の如くに推測している。この時有栖川宮は接判委員長として長崎に入港したニコライ一行を出迎えており、行動を共にし、一行が各地の人々や風俗に接して和合する姿を目の当たりにしている。この巡遊は不幸なことに大津事件で中止となったものの、有栖川宮にとって得がたい経験となった。この時の教訓を皇太子の巡啓に生かそうとしていた節がある。

 もう一つ、皇太子の巡啓は、間天皇をアピールした戦後の昭和天皇の巡幸の先取りとなったという点でも意義が高い。なお、明治30年代より明治天皇の健康が優れなくなり、巡幸が控えめに成ったのと対照的に皇太子の巡啓が盛んとなっているという時代の流れも見ておかねばならない。
これらの巡啓を通じて、各地のインフラ整備が進んだことも銘記されるへきであろう。

【御新婚生活の様子、女官制度のしきたりを排す
 伊勢神宮と京都御所などに巡啓し、東京へ帰られたお二人は、赤坂の東宮御所で新生活を始められた。皇太子夫妻の新婚生活は順調に始まった。特徴的なことは、節子妃は伝統的な女官制度のしきたりを打ち破り、妃自身が皇太子の身の回りの世話を行った。このことが皇太子の健康にプラスの効果をもたらした。ちなみに、一夫一妻制は大正天皇を嚆矢とする。

 F.R.ディキンソン著「一躍五洲を雄飛す 大正天皇」によれば、三浦「大正天皇」は次のように記している。
 「皇室に於いては、古来の御慣習に依らせられて、御腹の変わらせられた皇子皇女をおはしますを例としたが、大正天皇の御代になって初めてその跡を絶たれた」(三浦「大正天皇」5頁)。

 同じくF.R.ディキンソン著「一躍五洲を雄飛す 大正天皇」によれば、本多「大正天皇を偲びまつりて」は次のように記している。
 概要「大名でもその奥には婦人が沢山居って、お家騒動といふことが大名などには沢山起こった例があります。(しかし、嘉仁の時から宮中の様子が一変し、)大正の御代ほど宮中の美しく治まったことはまことに少ない。(よく治まったからこそ、)只今の皇太后陛下のお腹にお四人も立派な皇太子さまが出来された。(これは)実に日本の二千五百年の間に初めての現象であります」(本多「大正天皇を偲びまつりて」43~44頁)。

 原氏は次のように述べている。
 「結婚は、いうまでもなく誰にとっても、人生の大事な通過儀礼である。けれども皇太子の場合、そうした一般的な意味以上に、九条節子との結婚が生涯を変える節目となった。あれだけ病気を繰り返していた皇太子の健康が、結婚を機に明らかに回復に向っていくからである」。

 つまり、嘉仁皇太子は、結婚後一気に健康回復していく様子を見せており、これを確認する事は、後の「病弱を理由とする大正天皇押し込め騒動」が虚構の演出であったことを明白にする点で貴重である。

【嘉仁皇太子の巡啓史】 
 先の新婚巡啓が円滑に取り運んだことに気をよくしてか、明治天皇の了承を得て地方巡啓が本格化する。次第にぶりがつき、仕舞いには引く手あまたとなり、日本列島中を沖縄を除いて縦横無尽の巡啓となる。 嘉仁皇太子は結婚を機に地方巡啓し始める。都合十数度に及び、沖縄を除く日本列島を隈なく足繁く訪問している。以下、その概略を確認しておく。これの詳細は「大正天皇の足跡履歴」に記す。

  
1度目の巡啓/三重、奈良、京都方面/明治33.5.23日から10日間
  2度目の巡啓/北九州一円方面/明治33.10.4日から50日間
  3度目の巡啓/北関東、信越方面/明治35.5.20日から18日間
  4度目の巡啓/和歌山、瀬戸内海方面/明治36.10.6日から24日間
  5度目の巡啓/鳥取、島根方面/明治40.5月から*日間
  6度目の巡啓/韓国、南九州、高知方面/明治40.10.10日から35日間
  7度目の巡啓/山口、徳島方面/明治41.4月から15日間
  8度目の巡啓/東北方面/明治41.9月から約1ヶ月間
  9度目の巡啓/岐阜、北陸方面/明治42.9月から約1ヶ月間
 10度目の巡啓/三重、愛知方面/明治43.9月から約*日間
 11度目の巡啓/北海道方面/明治44.8月から約1ヶ月間
 12度目の巡啓/山梨方面/明治45.3.27日から約*日間
 13度目の巡啓/滋賀、三重方面/明治45.4.22日から約*日間

 結局、皇太子時代の12年間に主要な行啓を12回行っている。ほぼ1、2年に1回のペースで、しかも1、2ヶ月に及ぶ長期のものもあった。この他軍事行啓や国技館行啓、早稲田大学行啓等の特定行啓をこなしている。体調を崩して寝込むことはなかった。これらの嘉仁皇太子の巡啓史そのものが大正天皇病弱論を打ち破るであろう。それは、嘉仁皇太子の歌人能力そのものが大正天皇粗脳論を打ち破るのと同じである。それにしても誰が何の魂胆で悪罵し続けているのだろう。

 
皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、のちに語られる「大正天皇像」とは大きく異なる「気さく」で「人間味あふれる」、「時にしっかりとした」人物像を原敬日記に記している。

【2度目の巡啓/北九州一円方面/明治33.10.4日から50日間】 
 1900(明治33).10.4日-12.3日、約50日間。北九州一円を廻る二度目の行啓に出向いている。10.4日、東京・新橋を大垣行きの普通列車で出発、九州巡啓に旅立つ。東京・新橋を大垣行きの普通列車で出発。地理・歴史学習のための「微行」という趣旨であった。10.14日、門司に上陸し北九州巡啓。小倉、八幡の官営製鉄所、熊本、大牟田、三池炭鉱、佐賀、佐世保、長崎、福岡などで、歩兵連隊や演習などを見学し、学校をご覧になられている。市内を人力車で回られている。舞子で体調を崩し、岡山、香川、愛媛は中止され、12.3日、還幸している。50日間のハードスケジュールだったが、嘉仁皇太子は壮健に日程を消化している。この時の旅行は「西順日記」と題する日記に記録されているが、「しっかりした文体」との評を得ている。

 皇太子巡啓の特徴的なことは、概要「大掛かりな奏送迎は不要、過度の歓迎を控えるよう、通御の道筋も通行の妨げにならない限り通常の通行を制止するに及ばない」と通達していたことにある。且つ、巡啓日程が容易に変更され、滞在が延びたところもあれば予定変更で立ち寄らなかったところもあるという按配であった。軍服と平服を適宜取り替えつつ巡啓が続き、軍隊司令部、名所旧跡の他に八幡官営製鉄所や三池炭鉱、三菱造船所等々殖産興業的産業施設への立ち寄りが為されているのもユニークであった。「思ったことをすぐに行動に移したり口にしたがる」、「万事に開放的な性格」が伝わっている。

 傑作は、10.22日の熊本での生徒の寒中水泳を見て、寒中水泳の意図が分からなかったと見え、「彼らはさぞ寒かるべし」と漏らしたことにより、途中で中止されている。10.28日の福岡の香椎宮(かしいぐう)境内での松茸狩の際に、知事との間に次のような「松茸(まったけ)問答」をしている。知事「松茸狩に御供仕る」。 皇太子「その松茸は植え置きしものにあらざるか」。 知事「恐れながら御試験下させ給わりたし」。皇太子「松茸の試験か」。 こう語った後「微カに笑わせ給う」と書かれている。あまりに取れるので「殊更に植えしにはあらずや」とヤラセを見抜き、関係者を慌てさせている。原氏は、「大正天皇実録に、これほど生き生きした記述があっただろうか。皇太子の微笑が見えてくるようだ」と語っている。その日の夕方、武術試合を見て興に入り、自分もしてみたいと木刀を借り、供の者相手に数回木刀を振り回した。しかし、これらは奇行と解すより「愛すべき稚戯」ではなかろうか。福岡の筥崎宮(はこざきぐう)では、質問がなかなか尽きず、「問ハセラルル処アリ、遂ニ御予定ヲ遅ラスコト約五十分ニ及ブ」とある。

【第一皇子・迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(後の昭和天皇)誕生】
 結婚後翌年、迪宮(みちのみや)裕仁(ひろひと)が誕生、続いてやす仁(秩父宮)、宣仁(のぶひと)(高松宮)をもうけている。これを少し詳しく見ると次のようになる。
 1901(明治34、22歳).4.29日、第1皇子迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(後の昭和天皇)が誕生。明治天皇の第一皇孫となった。

 裕仁は宮中の古くからのしきたりより里子にだされることになった。白羽の矢が立ったのは、枢密顧問官の川村純義だった。川村は旧薩摩藩の出身の参議、海軍卿、宮中顧問官などを歴任し、高潔な人格として世に知られ、明治天皇の信頼も厚かった。里親が民間から選ばれるのは異例であったが、教育上の配慮として英断されたものと思われる。里親に軍人が選ばれたのも、将来の大元帥としての教育的配慮であったものと思われる。「お前の孫だと思って、万事遠慮なく育てて欲しい」との皇太子嘉仁の言葉が賜れている。


 こうして、裕仁は生後70日目(明治34年)で海軍大将川村純義伯爵へ預けられて養育された(明治37年秋まで)。川村大将は次のような養育方針を立てられた。1、心身の健康を第一とすること。2、天性を曲げぬこと。3、ものに恐れず、人を尊ぶ性格を養うこと。4、難事に耐える習慣をつけること。5、わがまま気ままのくせをつけないこと(甘露寺受長著「天皇さま」より)。

 1901年9月18日、「御乗馬ニテ近傍御逍遥(しょうよう)ノコト度アリ」との記述がある。


【ベルツの日記によるこの頃の皇太子の様子】
 1901(明治34)、22歳の時、ベルツの日記は次のように記している。
 (9.15日)「東宮はご機嫌よく、お丈夫らしい様子である。以前よりも、確かに元気で、生き生きとしておられる」。
 (10.4日)「もともと東宮は、幼時のご病気以来落ち着いて一つのことに専念するのを好まれない性質なのだが、近頃は旅行好きの形をとって現れてきた。特に東京を嫌われるのであるが、実のところ、次代の天皇が一年のうち少しの期間ぐらいは首都で過されるのは、何と云っても当然の話と思う」。

 皇太子の巡幸は万事首尾よく進み、さらに大掛かりなものが企図とされていくことになった。巡啓中は学事が停滞することもあって東宮職は反対したが、東宮輔導・有栖川宮威仁親王が、歴史・地理の実地見学という大義名分を押し立てて明治天皇の承認を受け、実現していくことになった。嘉仁親王は、皇太子時代の12年間に主要な行啓を9回行っている。ほぼ、1、2年に1回のペースで、しかも1、2ヶ月に及ぶ長期のものもあった。この他軍事行啓もこなしている。が、体調を崩して寝込むことはなかった。

【有栖川宮が東宮内の権限拡大】
 11.29日、有栖川宮威仁親王が、海軍軍令部出仕兼海軍将官会議議員の要職を解かれ、東宮補導専任となっている。同時に、東宮大夫の中山孝麿が更迭され、後任に宮内省内事課長・有栖川宮別当・斎藤桃太郎が就任している。これは、有栖川宮の権限拡大の動きと読める。

 有栖川宮は、自邸に大山巌、土方久元両東宮顧問、田中光顕宮内大臣、斎藤桃太郎東宮大夫らを集めて、定期的に補導顧問会議を開くようになる。

【第ニ皇子・淳宮やす仁(あつのみややすひと)親王(後の秩父宮)誕生】
 1902(明治35)年6.25日、皇太子明宮嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)の第ニ皇子として、淳宮(あつのみや)やす仁(やすひと)親王(後の秩父宮)が誕生。秩父宮も川村の元で養育されることになった。

 迪宮(みちのみや)裕仁(ひろひと)、淳宮(あつのみや)やす仁(やすひと)親王兄弟の様子が次のように記されている。
 「兄弟は順調に育っていく。兄に比べて、弟のほうが性格的に活発だったらしい。川村の躾は厳しかった。裕仁がわがままな子に育たないよう、例えば食べ物の好き嫌いなど絶対に許さなかった」とある。

【3度目の巡啓/北関東・信越方面/明治35.5.20日から18日間】

 1902(明治35、23歳).4月頃、約2ヶ月に渉る信越北関東大巡啓を企画。5.1日、有栖川宮は、東京の自邸に各知事を集め、全部で20カ条からなる訓示を与えている。注目すべきは、概要「行啓先各地において、平常の有様を御目撃ならせたき御趣意なれば、御趣意に背かざるよう、地方官にて厚く注意これありたき事」としていることであろう。「天皇行幸に準じた準備や規制を撤廃し、皇太子が自然に振舞うことのできる素地を作り出そう」として心を砕いてい入る様が見て取れる。これにより、天皇行幸に準じた規制が極力撤廃され、特別仕立てのお召し列車ではなく、一般の人々が乗る普通列車を利用して移動する区間が多くなった。

 5.20日、18日間に渉る信越北関東巡啓。上野から出発。群馬県高崎市に到着。高崎では人力車に乗ると自分で「車夫に命じて意のまま進ませた」ので、周囲は大狼狽したことが伝えられている。信濃毎日新聞は、県民向けに次のような記事を書いている。「願わくば、殿下ご滞在あらせらるるなかはもちろん、お道筋の人々も、あらかじめ、なん時いずこよりおなり遊ばすやもはかりがたしとこころえ、謹慎もって狼狽不敬の失態に陥らざるよう注意ありたきもの」。

 碓氷(うすい)峠の熊の平で汽車を降りて、アプト式軌道を見て長野に入り、善光寺、城山公園、川中島古戦場跡などを見学。松代・妻女山登山。5.25日、村松・歩兵第30連隊見学、五泉の染色講習所、新津の熊沢油田見学。5.26日、新潟に入り、新潟師範学校、小学校、高等女学校、物産陳列舘などを訪問。5.27日、長岡・宝田油田株式会社見学。5.28日、柏崎・日本石油株式会社熊沢油田、上杉謙信の春日山城見学。5.29日、高田中学校、高田織物会社、突如の岩の原ブドウ園などを見学。6.2日、桐生富岡・三井製糸場を見学。6.3日、桐生・織物学校、織物工場、物産陳列舘、伊香保などを見て回った。

 関東・信越を18日間で回ったが、東北行きはハシカの流行と皇太子の体調不良で中止となった。この行啓の際、皇太子は相変わらず活発で自主的な行動に出ることが多く、特徴的なことは、明治天皇の場合に見受けられた「生の肉声をみだりに伝えるのは不敬である」という考え方は微塵も無く、「皇室と人民との接近」場面が増えたことである。多弁であり、よく質問し、話し掛けた。「面白い」、「国益だなぁ」、「至極便利なものだな」などを良く発している。皇太子は「平常の有様をお目撃なりたきご趣意」を実現しながらの旅行であった。

 自由闊達でその会話の端々には判断力と知性のあることを示されている。一例として挙げれば、岩の原ブドウ園を突然訪問した際に、川上善兵衛に「ブドウ酒はアメリカにもあるか」、「如何にして醸造するや」、「日本人が己れ一箇の資力にしてこれだけの事業を成せしは感心の至り成り」。高田中学校で、「英語の教授は不完全と思うがいかがか」と質疑し、知事が「洋人を雇い置きますれば完全致しまするなれど」と答えたのに対し、すかさず「それなら雇えばよいではないか」なる遣り取りが伝えられており、「能く御下問遊ばす皇太子」を髣髴とさせている。

 この時、各地で意表の行動を為され、その分自由に振舞う姿があった。新潟滞在の際には、深夜供の者が寝静まったのをみはらかってそっと抜け出し、付近の白山公園散歩に出ている。警備の者が必死になって捜索し、ようやく見つけて近寄ると、皇太子は平然と「なにこっそり出たのだから心配には及ばぬ」と話されている。こうしたことが何回かあるも、知事や警部長の責任問題は発生させていない。


【有栖川宮威仁親王が意見書提出し、東宮輔導を辞任】
 1903(明治36、24歳).2.2日、有栖川宮が参内して明治天皇に会い、次のような東宮補導廃止の意見を述べている。
 「皇太子の御近状を拝するに、御学問も進み、御自学の御精神も養成せられしのみならず、御性向上の御欠点も矯正せられ、御病勢は漸次減退して、誠に慶すべき御状態に在り。この際、断然補導を廃止し、独立心の御養成を図るを以って、最も急務なりと信ず。況や、内外人をして、なお補導を要するが如く観察せしむる事は、帝室の為に好ましからざるにおいてをや。各顧問も既にこれに同意したれば、謹んでここに聖断を仰ぐ」。

 有栖川宮はこの間心身ともに疲れきっており、5.26日、大坂で開かれていた第5回内国勧業博覧会見学に皇太子と同伴したのを最後に休養に入る。
 
 1903(明治36、24歳).6.22日に、皇太子から厚く信頼されていた有栖川宮威仁親王が、東宮輔導を辞任している。後任として斎藤桃太郎が取り仕切るようになり、有栖川宮は静養のため伊香保、次いで葉山に長期滞在する。
(私論.私見) 「有栖川宮の東宮職辞任考」

 非常に開明的な指導を為してきた有栖川宮に対する陰に陽に圧力が加わり、遂に辞任をもって小正義を貫いた構図が見えてくるように思われる。


【4度目の巡啓/和歌山、瀬戸内海方面/明治36.10.6日から24日間】
 1903(明治36)10.6日、皇太子24歳の時、和歌山紀淡海峡、瀬戸内海方面に向かい、10.10日、香川の高松に到着。10.13日、琴平・金刀比羅宮。10.14日、愛媛・松山、(広島糸崎)、10.17日、岡山・後楽園、10.18日、第六高等学校で行われた各学校連合運動会を見学。この時、生徒は整列し、皇太子の面前で君が代を二度にわたり斉唱している。和気閑谷学校。10.19日、津山。24日間かけて回った。

 特徴的なことは、 有栖川宮時代の自由さが失われたことであり、天皇行幸に準じた規制が再び敷かれるようになる。予定コースが外れないようにスケジュールが厳格になり、鉄道は全行程にわたって特別仕立ての御召列車となり、ホームでは入場者が厳しく制限された。沿線や沿道での最敬礼の仕方も細かく定められるようになった。但し、皇太子の気さくな発言は相変わらず続いている。

 旅行の天皇! 大正天皇で次の逸話が紹介されている。松山の城山では知事や旅団長に「かの山は何というぞ」、「かの地はいかなる歴史を有するぞ」、「余が通行せしはいずれぞ」、「この山の眺望はすこぶる余が意にかなえり。今回の行啓、余は未だこれほどの景色に接せず」、道後温泉では「この菓子はこの地の名物なりや」等々の御言葉が伝えられている。「率直にして探究心の厚い性格」が披瀝されている。

【日露戦争】
 1904(明治37、25歳)に日露戦争が勃発。天皇だけでなく皇太子にも軍事的役割が期待されるようになる。11.3日、皇太子は天皇とともに天長節観兵式に初めて参加している。

【第三皇子・光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王(後の高松宮)誕生】
 1905(明治38、26歳)年1.3日、皇太子明宮嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)の第三皇子として、光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王(後の高松宮)が誕生。

【皇太子の子煩悩振り】
 迪宮裕仁も淳宮やす仁も川村純義邸に里子にだされたが、その河村は1904(明治38).8月に病死する。裕仁、3歳3ヶ月の時だった。川村の子息・鉄太郎は「自分には力がないから」と重責に耐えかねる旨を告げ、養育の継続を断わった。そこで兄弟は川村家を去り、暫く沼津の御用邸で過ごした後、翌年東宮御所に帰ることになった。東宮御所の一画に、皇孫御殿が新築され、ここに住まうことになった。皇孫御養育掛を拝命したのは、宮中顧問官・東宮侍従長の木戸孝正侯爵であった。木戸孝允(たかよし・前明桂小五郎)を養祖父とする信任厚い臣官であった。この皇孫御殿に移ってきてからは両親が近かったので、その情愛に接することができるようになった。11月からは光宮も皇孫御所に移られ、5兄弟3人が共に養育されることになった。

 皇太子は子煩悩で、3人の子供達と和気藹々の団欒を楽しんでいる。ベルツは日記は、次のように記している。
 概要「今では東宮一家は、日本の歴史の上で皇太子としては未曾有のことだが、西洋の意味で云う本当の幸福な家庭生活、すなわち親子一緒の生活を営むようになった」。
 1905.3.31日には「皇子たちに対する東宮の、父親としての満悦振りには胸を打たれる」と記している。

 9.26日、丸尾錦作、裕仁親王・擁仁親王の御養育係となる。
 嘉仁皇太子は水曜と土曜、家族と夕食を共にした。三笠宮はまだ生まれていなかったが「三皇孫殿下」は東宮御所と同じ敷地の皇孫御殿に住み、父の大正天皇と鬼ごっこ、相撲、将棋などに興じて成長した。皇太子は、妃のピアノに合わせて歌うこともあった。従来の宮中の慣習からは考えられない家族生活である。子供達はもっと両親の側にいたかったらしく、高松宮が「身内で一番好きなのは、おたた様のところ」と泣いたとする逸話が遺されている。巡啓先でも我が子達に土産を買い、同じ年頃の子供に話しかけている。これがお人柄であった。

 竹田恒泰の「第232回 大正天皇」を一部転載しておく。
 「大正天皇は昭和天皇の父君でいらっしゃいます。ところが、時代が近いわりに大正天皇の御事績はあまり知られていないのが現状です。大正天皇は明治天皇とは全く正反対の御性格であらせられたようです。明治天皇は政務に打ち込まれるあまり、家族との会話はほとんどなく、一家との写真も残されていません。明治天皇の孫にあたる秩父宮(ちちぶのみや)は、年に三回ほど拝謁(はいえつ)の機会があるも、一度も祖父の肉声は聞いたことがないと回想していらっしゃいます。

 それに対して、大正天皇は家族との時間を大切になさいました。皇太子時代には子供たちと食事・鬼ごっこ・将棋・映画鑑賞などをされる機会が多く、そのほか家族との逸話が多く伝えられ、子供たちの手をお引きになる写真も残されています。言葉数少ない厳格な明治天皇と違い、大正天皇は親しみやすい天皇であらせられたように思います。

 また、明治天皇の巡幸(じゅんこう)では、少数の者しか会話を交わすことができず、その会話ですら天皇からの御下問は稀だったといいます。対して大正天皇は、身分に関わりなく積極的にお声をおかけになりました。皇太子時代の京都帝国大学付属病院への行啓(ぎょうけい)(皇太子殿下がお出かけになること)では、二人の患者に直接お声をおかけになり、病状などについてお尋ねになったことや、また福岡県知事との会談でタバコを差し出されたという逸話があります。当時これは衝撃的なことでした。皇太子時代には全国規模の巡啓が行われたため「顔の見えない天皇」に対して、「顔の見える皇太子」として国民に親しまれたのです」。

 「木庵先生の独り言」の「大正天皇と皇子たちとの触れ合い」を転載しておく。
 「皇太子(大正天皇)は明治天皇のような厳格な気風はなく、家庭的な人間性をもっていた。皇太子はしばしばぶらりと皇孫御殿を訪れた。そして三人の皇子と共に鬼ごっこをし、御殿のなかを走り回ったりした。ときには三人の皇子の就寝時間を見はからってやってきた。三人の皇子は、布団にはいってもいつまでも皇太子に話しかけるのを止めようとしなかった。そのために皇太子のほうが、皇子たちが寝るまえに自らの御殿にかえっていくことの方が多かった。三人の皇子が侍従におんぶをねだっていることがあった。そこに皇太子がやってきた。『こんどは吾輩がおぶってやろう。なかなかいい運動になる』といって三人を交互におぶったりもした。『皆が、東宮様に代る代るおぶっていただいてね、すると東宮様は御自身の御殿から廊下をくるっとお回りになって、妃殿下の方まで一人ずつおぶってくださったのです。こんどは僕だ、こんどは僕だっていってね、皆一人ずつおぶっていただいたのでございますよ』と、足立たかは語っている。

 皇太子は、この当時まだ30歳になっていなかった。宮中内部での政務、軍務ともすべて明治天皇が仕切っていて、皇太子が出る幕があまりなかった。自由な時間が十分にあった皇太子は皇子たちとの時間を楽しんだようである。また皇太子は明治天皇とはちがって、自由闊達な性格をお持ちのようであった。皇太子が沼津の御用邸に行っているとき、明治末期に流行しはじめた自転車を好み、侍従や侍従武官をまいて、内舎人(うどねり)ひとりだけを連れて沼津市内を走り回ったことがあった。時代の空気に敏感な方であったのだ。

 このような皇太子の言動に伊藤博文や山県有朋は、『もう少し強いお方でなければ・・』と不満を漏らすことがあったという。皇太子の人間的な振る舞いに当時の指導者は快く思っていなかったようである。しかし、東京帝大医学部で教鞭をとる傍ら宮中の侍医の役をつとめていたアーウイン・フォン・ベルツは、皇太子の人間性を高く評価していた。ふたりの間には友情にも似た感情がかよい合い、皇太子はベルツのもとに使者を送り、しばしば皇子たちの診察を依頼している。ベルツもまた皇太子のこの申し出に快く応じた、そして沼津にでかけては、三人の息子たちの健康診断に当たっている。

 ベルツは自らの日記に次のように書いている(明治38年3月31日の頃)。『東宮から、再び息子たちを見てほしいとのこと、但し病気のためではなく。息子たちはしんから丈夫である。息子たちに対する東宮の、父親としての満悦ぶりには胸を打たれた。先ず最初、先日拝見したばかりの、一番末の皇子を見舞う。誕生後80日としては立派な体格、見事は発育で、お母さん似だ。上の二人の皇子は現在、ほぼ4歳と2歳半になるが、まことに可愛らしい。行儀のよい、優しくて快活な坊やである。長男の皇子は穏やかな音声と静かな挙止とで、非常に可愛らしく優しいところがある。次男の皇子は一そうお母さん似で、すこぶる活溌で元気だ。どちらも洋式のセーラー服に短ズボンである』。

 ふたりの皇子は、ベルツの目を引くために揺り木馬に乗って見せたり、ボート遊びなどをして見せる。釣り遊びなどもする。ベルツは、ふたりが釣った魚をビクに入れる動作が堂に入っているのに感心しながら、『お魚はどこにありますか』と尋ねてみる。すると淳宮はいたずらっぽい笑顔を見せて、『ここにお魚がいっぱいあるのが見えないの』と魚になどらえている木の葉を示して見せたりするのであった。ベルツは、二人の皇子の遊ぶ光景を『まったく可愛い』となんども書き、皇太子にとって、ベルツはもうひとつの顔をもっていた。というのは、ベルツは皇太子が節子妃と結婚するにあたって、どのようにして健康管理に努めればいいのかを教えただけでなく、節子妃の健康診断や家系調査を行って、節子妃が決して不妊体質ではなく、むしろ健康児を生める体質であることを明治天皇や皇太子に報告していたからである。そして事実はそのとおりになったのである。のちにベルツが南ドイツの故郷に戻って没したとき(大正二年)。すでに天皇(大正)の地位にあった皇太子は遺族にあてて長文の弔電を送って慰めている」。

【本格的な軍事行啓】
 1905(明治38)年、26歳の時、5.5日、皇太子殿下が靖国神社の臨時大祭に参列。

 11月、皇太子が陸海軍少将に進級。天皇と皇太子が相次いで戦勝報告の為に伊勢神宮を参拝している。この時、文部省は、「天皇陛下伊勢神宮へ行幸の際における奉送迎の学校生徒の敬礼の仕方」なる3か条を定めている。これは、学生生徒の敬礼の仕方に関するはじめての統一的な規定であった。

 1906(明治39)年、27歳の時、5.4日、皇太子殿下が靖国神社の臨時大祭に参列。10月、名古屋を訪れ、愛知・三重・岐阜三県で行われた陸軍大学校参謀旅行演習を見学。これは、皇太子にとってはじめての本格的な軍事行啓となった。11.2日、横浜根岸競馬場に行啓。3日、稔彦王に東久邇宮の称号を授ける。12.28日、東宮御所竣成。

【5度目の巡啓/鳥取、島根方面/明治40.5月から*日間】
 日露戦争後は天皇の名代としての公式なスケジュールとなる。この頃から、巡啓に地方視察の意味が付与されるようになり、軍事演習見学が必ず加わるようになる。

 1907(明治40)年、28歳の時、5.4日、皇太子殿下、皇太子妃殿下(後の貞明皇后)が靖国神社の臨時大祭に参列。5度目の巡啓として、5~6月、鳥取、島根方面を行啓した。天皇の名代としての初の公式地方旅行となった。京都、大阪、福知山、天の橋立、舞鶴から軍艦鹿島で境港、米子、鳥取、おり返して安来、途中、学校で3泊、濱田から軍艦鹿島で隠岐へ、舞鶴に上陸、帰路につく。詳細は割愛し主だったところを追うと、5.27日、出雲大社参拝。6.4日、隠岐島は予定外であったが皇太子の強い意向で突然立ち寄っている。後醍醐天皇の行宮の跡を見て回られている。

 ネット検索で次の文がヒットする。
 「その昔、大正天皇が皇太子時代に隠岐にいらっしゃた際に古原田という家から隠岐馬という大変に希少な馬を皇太子(大正天皇)に送られたそうです。そのお礼に明治天皇から別の馬が送られ、隠岐の島を闊歩したとのことです。その馬の名は起漲号(きちょうごう)。当時、起漲号が島にやってきたときは島は大いに沸き立ち、菊のご紋をつけた外套をまとったその馬は輝きに満ちていたと云われます。その起漲号に使用させるために特別に京都の職人に作らせたのが『この鞍』。『外套』は今でも当館のロビーに展示させていただいています」(「6/5は島で最大のお祭り」)。

 この時の皇太子の様子として、概要「皇太子は御召列車に乗っても、名所旧跡等につきその由来を御諮問あり、先から先へとお尋ねとなるより時としては知事が拝答に困らしめるも少なからず」とある。相変わらず多弁、質問多発。

 特徴的なことは、このたびの巡啓から明治天皇の「御真影」に相当する皇太子の「御写真」が下賜されるようになる。同時に、各地で奉迎行事が大々的に行われている。なお、皇太子の訪問にあわせて鉄道が開業し、電気の点灯、電話、舗装道路など社会資本の整備が進んでいくことになった。「この旅行から、歓迎行事の出し物に大掛かりな郷土芸能を見せることも恒例となった」(「旅行の天皇! 大正天皇」)とある。


 6.13日、昭憲皇太后陛下、皇太子殿下(大正天皇)、皇太子妃(貞明皇后)、他に皇族方:有栖川宮威仁親王殿下御開催の能楽 が靖国神社で催される。

【伊藤博文が皇太子の韓国行啓を強く求める】
 1907(明治40)年.8月、伊藤博文が帰国し、天皇に面会して皇太子の韓国行啓を強く求めている。当時の日韓関係は次の通り。1894(明治27)年、日清戦争勃発。翌年、下関条約締結。1897(明治30).10月、李氏朝鮮第26代国王・高宗(コジョン)(1852~1919、在位1897~1907)が大日本帝国、帝政ロシアに対抗するため初代皇帝に即位し、国号を朝鮮国(李氏朝鮮は通称)から大韓帝国と改める。1904(明治37)年、日露戦争。1905年、第二次日韓協約締結。これにより大韓帝国の外交権はほぼ日本に接収されることとなり、事実上の保護国とされている。12月、ソウルに日本政府の出先機関である統監府が置かれ伊藤博文が初代統監に就任する。1907.7月、高宗(コジョン)皇帝が、オランダのハーグで開かれていた万国平和会議に日韓協約の無効を訴える密使を送ろうとして事前に発覚し強制的に譲位させられた。直ちに第三次日韓協約が結ばれ、統監府の権限が一層強められ韓国軍隊の解散が命じられた。高宗に代わって二代皇帝・純宗(スンジュン)(1874~1926、在位1907~1910)が即位したが伊藤に従順であった。

 伊藤は、純宗即位を機に、日韓親善を図ろうとし、7.20日、李氏朝鮮第26代国王・初代大韓帝国皇帝高宗の第7男子にして皇太子となった李垠(イ・ウン)(1897.10.20日~1970.5.1日、享年73歳)の日本留学を思い立ち、引き換えに皇太子の韓国行啓を発案した。明治天皇は当初、韓国内の反日義兵運動による治安悪化を理由に難色を示したが、伊藤が説得に努めた結果、既に東宮輔導を辞任していたものの皇太子が全幅の信頼を置いていた有栖川宮の同伴を条件に承諾を与えた。

【6度目の巡啓/韓国、南九州、高知方面/明治40.10.10日から35日間】

 1907(明治40)年、27歳の時、10.10日から11.14日までの間に韓国へ行啓。韓国訪問は、韓国統監・伊藤博文の強い要請によって実現したもので日韓親和の名目で行われた。嘉仁皇太子の初の外遊となる。桂太郎陸軍大将、東郷平八郎海軍大将、有栖川宮、宮内次官の花房義質らが随行し、軍艦「香取」に乗艦、10.13日、広島宇品港を出港。10.16日、韓国仁川に上陸。仁川では伊藤、純宗、李垠らが出迎え、お召し列車で京城の南大門(現在のソウル)に到着した。当時、発行されていた日本語新聞「朝鮮新報」が、嘉仁皇太子が陸軍少佐の軍服姿で起立し、脱いだ帽子をテーブルの上に置いた肖像写真を二段抜きで掲載している。これが新聞紙上に皇太子写真が掲載された初事例となる。以降、韓国での掲載が先例となって日本国内でも皇太子の肖像写真が公開されるようになった。

 皇太子は17日-19日までソウルに滞在した。10.19日、皇太子が昌徳宮内の秘苑を訪れ、韓国皇帝(高宗に代わって即位した純宗)皇太子李垠(イ・ウン)、10歳、と会見している。皇太子が有栖川宮のカメラを李垠に見せ、レンズを日本関係者らに向けながら、「ここより覗き見られよ。彼ら皆な逆さまになりて並べるが見ゆるに」と声を掛け、笑みながら李垠にカメラを覗かせている。二人は忽ち兄弟のように打ち解け、4日間の滞在中、韓国皇太子・李垠(イ・ウン)が終始接伴するという良好な関係をつくった。その後も交流が続いていくことになった。10.20日、南大門からお召し列車で仁川に向かい軍艦香取に乗船。10.21日、慶尚南道の鎮海湾に寄港し湾内を巡覧し行啓を終了している。

 嘉仁皇太子の皇室外交としての韓国巡啓につき、F.R.ディキンソン著「一躍五洲を雄飛す 大正天皇」の「東宮韓皇と御対顔」か次のように評している。「この日本皇室が史上初めて負った責任を嘉仁が輝かしく果たした」。

 この後、帰路、10.20日、南九州・佐世保に上陸、長崎、鹿児島、宮崎、大分。大分から高知の須崎に上陸して高知へ、再び須崎から横浜へ。35日ぶりの帰京。11.9日より高知へ足を伸ばし視察している。


韓国皇太子・李垠(イ・ウン)が日本に留学】
 1907年、12月、11歳の李垠(イ・ウン)が伊藤博文公に伴われ来日、鳥居坂御用邸(麻布六本木)で生活し始める。これを伊藤博文らが扶育する。皇太子は韓国語の学習を始めている。武田勝蔵の回想によれば、嘉仁皇太子は、翻訳官に対して、「度々韓太子に会ふから少し朝鮮語を稽古して見たいが何か本はあるまいか、あれば侍従まで届けて貰い度い」と漏らしたほか、李垠に会うたびに「けふの話しの文句を朝鮮朝鮮語のハングル文字で書いて、それに発音を附けて訳文と共に差し出すように」と翻訳官に命じていたことが伝えられている。また、李垠と一緒にビリヤードをしたり、誕生日のお祝いを贈ったりしている。明治天皇や昭憲皇太后は文具や書棚、玩具などを贈っている。明治天皇は活動写真機やクリケット用具なども与えられたとのことである。北白川宮成久、久邇宮鳩彦、久邇宮稔彦らが日本語学習を援助し、鴨猟にも同行し、皇室の一員として育てられた。これより窺がうべきは、大正天皇を始めとする当時の宮中が、韓国皇太子に対し属国属民視する横柄な態度を執らず後々まで続く親交を結んだことであろう。特に大正天皇は彼の父親になろうとしたようにも思える慈愛を見せている。大正天皇の人柄が伝わる逸話である。

 李垠(イ・ウン)の以後の履歴は次の通り。
1908(明治41)年 1月、学習院入学。
1910(明治43)年 日韓併合によって大韓帝国が消滅したことに伴い、王世子となった。
1911(明治44)年 9月、陸軍中央幼年学校予科入学。
1913(大正2)年 9月、陸軍中央幼年学校本科入学。
1915(大正4)年 6月、士官候補生。近衛歩兵第2連隊附。
1917(大正6)年 5.25日、陸軍士官学校卒業(第29期)。12.25日、歩兵少尉に任官。
1920(大正9)年 4月、梨本宮守正(もりまさ)王第一女王/梨本宮方子(なしもとのみやまさこ)女王と婚姻する。歩兵中尉に進級。
1923(大正12)年 7月、歩兵大尉に進級。11.29日、陸軍大学校卒業(35期)。近衛歩兵第2連隊中隊長。
1924(大正13)年 12月、参謀本部附。
1926(大正15)年 4月、李王(李家当主の地位)を継承し、李王垠となる。7月、 参謀本部員兼朝鮮軍司令部附。(以下、略)

【裕仁(ひろひと)親王が学習院入学、陸軍大将・乃木希典の薫陶受ける】
 1908(明治41).4.11日、みちの宮(裕仁)は学習院に初等科に入学する。院長は陸軍大将・乃木希典であった。乃木は明治40年1月から学習院院長になっており、明治天皇の「近々孫たち3人(大正天皇のお子さんたち)が学習院で学ぶことになる。その訓育をたくするには乃木が最適と考える」という強い要請で引き受けていた。その期待に応えるべく、皇孫の教育に意を尽くした。4年後、乃木は天皇の後を追って殉死するが、彼の人格的な薫陶が裕仁に与えた影響は軽視できない。後年、裕仁は、自分が尊敬する第一の人物として乃木の名をあげていることからしても推定できる。

 1909(明治42).4月、淳宮(秩父宮)も学習院に初等科に入学する。三年後の44年には光宮(高松宮)も入学してくる。こうして3兄弟が揃って皇孫御所から歩いて四谷尾張町の学習院初等科に通学された。

 乃木大将が重視した教育方針は「実践躬行」であった。初等科の生徒たちに行った訓辞には次のようなものがある。1、口を結べ、口を開いているような人間は心にもしまりがない。2、けして贅沢するな。贅沢ほど人を馬鹿にするものはない。3、寒いときは暑いと思い、暑いときは寒いと思え。4、恥を知れ。道にはずれたことをして恥を知らない者は禽獣に劣る(渡辺淳一著「静寂の声」―乃木希典夫妻の生涯より)。

【巡啓相次ぐ】
 巡啓はその後も続く。7度目の巡啓/山口、徳島方面/明治41.4月から15日間。7度目の巡啓として、1908(明治41)4月に15日間で山口、徳島を巡啓している。

 8度目の巡啓/東北方面/明治41.9月から約1ヶ月間。8度目の巡啓として、1908(明治41).9月-10月/約1ヶ月間9~10月で東北各地を巡啓。この時の様子として、次のような逸話がある。
 「丁度その折も折、明治四十一年の秋 東宮殿下(大正天皇)が奥羽史蹟御調査のため東北地方に行啓中であられたが 藤波侍従の配慮もあり御召列車が盛岡から仙台に赴かれる途中、駅でない松島村根廻新潜穴の下流橋上に一分間停車されることになった。殿下は御陪乗の寺田知事に対し『天下の大工事であるから 中途挫折等の事なく竣工せしめよ』とのお言葉を賜ったのである」(鎌田三之助翁顕彰碑)。

 東宮殿下(大正天皇)のこのお言葉によって、あわや難工事すぎて挫折かと思われた工事が見放されることなく遂行されることになった。次のように記されている。
 「元禄以来 幾度か企図して未だ果さなかった干拓工事が鎌田氏の熱誠あふれる努力により遂に貫徹したのである 殊にこの大工事は政府の補助金に頼らず 勧業銀行からの貸付金九十万円によって自力で成就したものである (組合費と新干拓地の収入で償還した) 明治四十三年十二月二十六日の通水式には知事をはじめ一千人が参列し 元禄穴川の通水以来二百十二年目の感動に満場しばし声なく 感激の涙をおさえるのであった」。

 この「1分間停車」は、干拓指導者の人々の宮内庁関係への陳情作戦が功を奏したものであろう。こういう形で政治が機能していたそういう時代の逸話として貴重であるように思われる。

 1909(明治42)年、9度目の巡啓として9月から約1ヶ月かけて岐阜、北陸を巡啓。

【伊藤博文暗殺される】
 1909(明治42)年、10.26日、伊藤博文が、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、朝鮮民族主義活動家の安重根に暗殺された(享年69歳)。暗殺の報道は暗号電報を受けた五十嵐秀助電信技師が、全文を受ける前に金子堅太郎に電話した。彼は直ちに大磯の別荘に急ぎ梅子夫人に見舞いの言葉を述べたが、夫人は涙一つ落とさなかった。「伊藤は予てから自分は畳の上では満足な死にかたはできぬ、敷居をまたいだときから、是が永久の別れになると思ってくれ」といっていたという。

 この時伊藤は「3発あたった。相手は誰だ」と叫んだという。安はロシア官憲にその場で捕縛された。伊藤は絶命までの約30分間に側近らと幾つか会話を交わしたが、死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる。また、伊藤の孫にあたる伊藤満洲雄の話によれば「俺は駄目だ。誰か他にやられたか?」と聞き、森槐南も傷ついたと知って「森もやられたか…」と言ったのが伊藤の最後の言葉だったという。暗殺に関しては、安重根単独説のほかにも、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある。

 具体的に挙げると、当時伊藤に随行した室田義文首席随行員がおよそ30年後に話した舞台の真相によると、彼の肉に埋まっていた弾丸が安重根のブローニング7連発拳銃用のものではなくフランス騎馬隊カービン銃用であり、また弾丸があけた穴の向きが下向きであることがおかしく、安重根からならば上向きになるはずであり、彼への命中弾は駅の上の食堂あたりからではなかろうか、ということである。しかし室田は事件当時は混乱していたためか、安重根の裁判では「数発爆竹の如き音を聞きたるも狙撃者ありしことを気付かず、少時して洋服を着たる一人男が、露国軍隊の間より身を出して、拳銃を以て自分の方に向ひ発射するを認め、初めて狙撃者あることを知り(中略)、狙撃当時の模様は是以外に知らず」、このように証言した。

 また別の例では、暗殺現場を間近で目撃したココツェフ蔵相が当日直ちに駐日大使に宛てて電報を次のように打っている。「... 陰謀は明らかに組織的なものだった。昨晩、蔡家溝駅で我が警察はブローニング銃を持った3人の疑わしい朝鮮人たちをすでに逮捕していたという ...」(В.Н. Коковцов - Н.А.Малевский-Малевичу 13 октября 1909 г. // АВПРИ, Ф. 150, Оп. 493, Д. 171, Л. 175)。

 安重根は暗殺後直ちに捕縛され、共犯者の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もまたロシア官憲に拘禁された。日本政府は安らを関東都督府地方法院に移し、明治43年(1910年)2月14日、安を死刑に、禹を懲役2年に、曹および劉を懲役1年6か月に処する判決が下された。

 韓国では、2009年10月26日を「安重根が国権剥奪の元凶・伊藤博文をハルビンで狙撃した義挙から100周年に当たる」と位置付け、これに合わせ新しい記念館をソウル南山にある現在の記念館付近に建設することを計画している。

 11.4日、日比谷公園で国葬が営まれた。埋葬は東京都品川区西大井六丁目の伊藤家墓所。霊廟として、山口県熊毛郡大和町束荷(現光市束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社があったが、昭和34年(1959年)に近隣の束荷神社境内に遷座した。記念公園には生家(復元)や銅像、伊藤公記念館、伊藤公資料館などがあり、桜に混じって韓国国花ムクゲが植えられている。平成18年(2006年)5月、山口県はこの公園に隣接した山林に、森林づくり県民税で「伊藤公の森」を整備して光市に引き渡した。後に日本銀行券C千円券(1963年11月1日 - 1984年11月1日発行)の肖像として採用された。


【】
 1909.11月、陸海軍中将に昇進するとともに参謀本部付きとなる。毎年4月に全国各地で行われる参謀本部参謀旅行演習の見学が半ば義務付けられる。10月、「実録」が韓国皇太子と数回の交流があったと記している。

 1910(明治43).1.9日、31歳の時、国技館に行啓、相撲を御覧。5月、毎週火・金曜日に参謀本部へ通う生活が始まる。皇太子はこの時軍事研究を講学されるが、「陸海軍の御用掛等が進講する軍事上のこと等は、恐れながら豪も御会得あらせらるるの実を見る事を得ざる」(東宮武官・千坂智次郎)。 10度目の巡啓/明治43.9月から約*日間/三重、愛知方面。この頃、軍事行啓相次ぐ、ともある。

 1911(明治44)年、32歳の時、8月から約1ヶ月間。11度目の巡啓/北海道方面。約1ヶ月かけて北海道を回っている。「行啓通」の巻(1994. 8.№2) 」によれば、皇太子が「中島遊園地」(現公園)から南14条通りを西に進まれ、父親であった明治天皇と同じように屯田兵の作業振りと、「お声がかりの柏」を視察している。そもそもは、明治天皇が明治14年に北海道へ「行幸」になり、札幌「豊平館」にお泊りのうえ、「石山通」を南下されて、屯田兵の作業振りを視察した。その際、当時の「山鼻小学校」の南側に聳えている巨木を指さして「あれは何か?」と、ご下問になった。(質問された)側の者が「柏の大木でございます」と答えた、それ以来、この柏は「お声がかりの柏」と称されるよえになった。更に大正11年には時の皇太子(昭和天皇)が、同じ道筋を「行啓」し、3代にわたる「行幸・啓」にちなんで南14条通りは「行啓通」と銘名され、沿道住民の昭和初期からの努力もあって、電車通から東屯田通の間はにぎやかな商店街となって現在に及んでいる。

【この頃の原敬との秘話し】
 1911(明治44).9.17日、皇太子が北海道行啓から帰ると、原敬が東宮御所を訪問している。北海道行啓の最中の8.25日に第二次桂太郎内閣が総辞職して、8.30日に第二次西園寺内閣が組閣され、原は内務大臣に返り咲いている。原は、日記に次のように記している。
 概要「殿下例の如く椅子に寄るを許され、且つタバコなど賜りて御物語あり。如何なる方針なるやとの御尋ねに付き、つぶさに言上したり。それより種々の御物語ありて退出したり。今日に始まらぬことながら殿下は毎度懇切に閣員等を遇せらるるは恐懼のほかなし。又当秋の大演習には赴くかとの御尋ねにつきその心得なる旨申し上げ、且つ殿下にも行啓あるやに御尋ね申し上げたるにその御含みらしきもこのことは秘し置きくれよと繰り返し御話しありたり」。
(私論.私見) 皇太子の「秘し置きくれよ」発言考
 原氏は著書「大正天皇」の中で、「皇太子は、気心の知れた原に思わず本音を漏らしてしまい、あわてて何度も『このことは秘し置きくれよ』と念を押したように思われる」と解しているが、この時皇太子の漏らした本音とは何であったのだろう。ここが肝心である。れんだいこが思うに、陸軍大演習を廻って論じているが、その際に強烈な軍部批判並びに当時の軍事化を強めつつある社会風潮に対して困惑の思いを吐露していたのではなかったか。

【この頃の旧友との秘話】
 1911(明治44).10月、戦艦「富士」に坐乗し、豊後水道南方海面での第1第2艦隊の演習を視察。

 1911(明治44).11月、先帝陵参拝と第4・第16師団対抗演習を目的とする京都、大坂、兵庫巡啓に出向いている。この時、11.20日突如学習院時代の旧友・桜井忠胤(ただたね)邸を訪れ、恐懼する桜井に「今度は軍人となって来たのだから恐縮だの恐れ多いだのは止めにしてくれ。そう慇懃では困る」と云い、昔語りしている。その後、「桜井、演習は9時からだからその間又遊びに来た」と再度来訪し、邸内を勝手に歩きながら、「桜井、今日は恐コウだなどは一切止せよ。お前は学校に居る時、俺と鬼ごっこの相手ではないか。今はここに住んで何をしているか。大層色が黒くなったではないか。子供は幾人あるか」などと語った挙句、「どうも騒がしたなァ。桜井、又来るよ」と言い残して立ち去っている。この時、時計の針は既に9時を廻ろうとしており完全に演習に遅刻している。 

 「人間味あふれる大正天皇」の本稿に関係するくだりを転載しておく。
 「明治44年11月、大正天皇がまだ皇太子であった頃に、兵庫県武庫川に演習見学に行ったときのこと。いつものようにお付きの者がたくさん付いてまわって日程をこなしていたのだが、不意に学習院時代の旧友、桜井忠胤の家を訪れた。予定にはないことだったが、どうせ兵庫県まで行くなら友達の家を訪れたいと前々からお考えであったのだろう。びっくりしたのは桜井で、突然訪れた皇太子にひれ伏し、「今回は恐れ多き光栄を賜り誠に恐縮に存じ奉る」と言うのが精一杯だった。それはそうだろう。皇太子がいらっしゃるというのに何のお出迎え、おもてなしの準備もできていなかったのだ。しかしそれが大正天皇の狙いだった。自分のために豪勢な準備をされた上で会うのではなく、自然体な形で会いたかったのだ。だからこそ、秘密裏にしていたのだ。「今度は軍人となって来たのだから恐縮だの恐れ多いだのは止めにして呉れ、そう慇懃では困る」。「桜井、今日は恐慌だなどは一切よせよ、お前は学校に居る時、俺と鬼ごっこの相手ではないか、今は此処に住んで何をしているか、どうも騒がしたなア桜井、又来るよ」。そう言って、旧友の家を後にした。窮屈な「業務日程」の中での、ほんの一瞬の楽しい時間であった。こうしたエピソードから窺えるのは、人間的な、あまりにも人間味あふれる天皇像である。」。
(私論.私見) 「旧友桜井邸訪問秘話考」
 この逸話は、皇太子が軍事演習参観を嫌っていたことを証左しているように思われる。

【巡啓相次ぐ】
 1912(明治45).3.27日、33歳の時、1.1日、南京に中華民国臨時政府樹立。孫文が臨時大総統に就任し建国を宣言。2.12日、清朝の宣統帝(愛親覚羅溥儀)が退位し清朝滅亡する。

 12度目の巡啓/山梨方面/1912(明治45).3.27日から約*日間。

 4.14日、
豪華客船「タイタニック」が氷山に激突して翌日沈没。助かった日本人乗客を一方的に批判する動きが起こる。

 13度目の巡啓/滋賀、三重方面/明治45.4.22日から約*日間 。4.22日より滋賀県と三重県を舞台に参謀本部参謀旅行演習の見学に出かけている。この時、演習の合間に蕎麦屋に入ったところを、地元新聞に報ぜられている。5.8日、東宮御所に参上した原敬に対し、皇太子は、「行啓に際し新聞紙に種々のことを登載されて困る」旨漏らしている。

 5.17日、早稲田大学に行啓。「皇太子早稲田大学行啓。市島準備主査として万端係り成功裡に終え大隈重信邸にて晩餐の饗を受ける」(「市島謙吉(春城)年譜(稿)」)、「是日、皇太子殿下、大隈重信邸並に当大学に行啓あり、栄一、大学基金管理委員長として、大隈邸に於て拝謁す」(「渋沢栄一詳細年譜」)。

 これらの巡啓を通して、事前に計画していた日程の変更を求めてみたり、率先して旅先の人々と気さくに交わったりする等、周囲に印象深い様々な逸話を残していったものの、皇太子の体調は病弱だった頃とは別人の如く丈夫になったという。





(私論.私見)