れんだいこの山鹿素行論

 (最新見直し2012.08.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、れんだいこの山鹿素行論を記す。

 2012.06.21日 れんだいこ拝


【れんだいこの山鹿素行論その1】
 れんだいこは、学生運動、政治運動の検証を経て、それらの失敗史には軍師の不在が関係していることを知った。かといって、日本史上の軍師を訪ねることもなかった。それがひょんな廻り道から山鹿素行と云う軍師に行きつくことになった。これを願ったり叶ったりと云う。その経過は次の通りである。

 れんだいこの「日本の心、日本精神論」の旅は、2012年5月頃、新渡戸稲造の武士道論から始まり、保田與重郎、岡潔へと進み、今ここに山鹿素行へと至った。直接には「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK133」の大塩氏の2012.7.24日付け投稿「『日本こそが中国だ』と叫んだ山鹿素行」により知った。「新連載 『日本こそが中国だ』と叫んだ山鹿素行 月刊日本編集長 坪内隆彦」が元のようである。道中、「日の丸、君が代、元号論」にも言及した。思うに、山鹿素行に辿り着く事により堅い岩盤にぶつかった気がする。この岩盤は障害と云う意味でなく、ここが発信地であり、ここに汲めども尽せぬ深い源泉があり、その鉱脈に遂に突き当たったと云う意味合いで使っている。 

 思うに、山鹿素行こそ「近代日本の心派」の開祖的重要人物なのではなかろうか。こういう史的地位にある山鹿素行が知られて居ないのはどうしたことだろう。恥ずかしながら、れんだいこも還暦3歳の今年初めて知ろうとするに至っており、殆ど知識がない。これは何を意味するのだろうか。山鹿素行の出版物、特に原著は全くと言って良いほど見られなくなってしまっていると云うことに原因があるのだが、れんだいこの知的好奇心をしても今の今まで関心を寄せ得なかったのは、よほど隠されている故ということになろう。

 思うに、現下の情報社会は思想、政治、事件等につき、知って有益なものは意図的故意に知らなくさせられており、逆にどうでも良いようなことは情報洪水下にある。「山鹿素行隠匿」は、こういう現象を端的に示しているのではなかろうか。山鹿素行が知られなくなったのは戦後来とみに顕著なことを思えば、これは明らかに大東亜戦争後の戦勝国による戦後的検閲の為せる技なのではなかろうか。 戦後直後のGHQによる言論統制、これに基づく焚書・発禁処分が行われた史実が巧妙に隠されているが、冷厳と認めるべきであろう。戦後直後から今日まで、かの時にGHQが敷いたレール上を走らされていることがもっと客観化されるべきであろう。

 これにより、戦前までは辛うじて命脈を保っていた「日本の心、日本精神論」派の考究が途絶えてしまっている。戦前は、マルクス主義文献が伏せ字にされたのは知られているが、戦後は、マルクス主義は研究が進む進まないは別として自由になった。ところが、「日本の心、日本精神論」派のそれは封殺されてしまった。これを考えれば、妙なことだが、支配者からすると体制転覆を唱えるマルクス主義はそれほど怖いものではなくて、むしろ真に怖いものは「日本の心、日本精神論」の方である、と云うことになるのではなかろうか。とはいえ、「日本の心、日本精神論」の探求が法的に禁止されている訳ではないので、市場原理により自然に赴くところ関心が払われなくなったと云うことでもあろうか。実際には、GHQ的言論統制思想規制が効き過ぎていると窺う。

 ところが、戦後来65年余、時代の思潮が変わり始めた。ここへ来て、れんだいこの胸に「日本の心、日本精神論」派への関心が湧いてきたぐらいであるから、当然他の者にも同様の現象が起る。これを思想の共時性と云う。こういう現象が現われるのは、転換期の時代そのものが要求しているのだろうと思う。そういう意味で、月刊日本の山鹿素行特集はまさにタイムリーである。れんだいこも、同誌と暫くお付き合いさせて貰おうと思う。「日本の心、日本精神論」は戦後教育システムの流れからは絶対に学べない。故に在野的に学ぶしかない。しかしながら、在野的に学ぶことはとても良い事のように思われる。遅ればせながら、れんだいこは今、「日本の心、日本精神論」派の研究を称揚していた大田龍の指摘が分かり始めた。

 不言しておけば、「日本の心派」を訪ねるのは、戦前の皇国史観をリバイバルさせることではない。皇国史観は、「日本の心、日本精神論」の奇形種でしかない。皇国史観が依拠した天皇制をも恭順化させたところのもっと古くからの「日本の心、日本精神論」を探らねばならない。ここに真の日本の伝統と歴史の連続性がある。これが損なわようとしている故に危機だとして再建するものでなくてはならない。これに気づけば良い。気づいた以上は知らねばならない。これが、れんだいこの山鹿素行論の解である。山鹿素行の著作の原文にはこれから接することになるが、恐らく期待に違わないであろう。ここに山鹿素行の真価の所以がある。

 そのように断定できる理由に、山鹿素行が、17歳の時より、忌部神道の廣田坦斎、高野山按察使院光宥らに和学、歌学、神道など様々な学問を学ぶ。両部神道の秘伝を伝授されていると云う履歴による。ここで踏まえるべきは、早くも17歳のこの時期に、山鹿素行が日本神道の奥義を授けられたことにある。「日本神道の奥義」とは要するに、大和王朝的天皇制以前に既に形成されていた日本的統治の仕組み、その精神、その理念の体得を云う。山鹿素行論の要諦は、このことをつとに指摘していたことに認められるべきであろう。その「日本の心、日本精神論」にこそ耳を傾けるべきであろう。そういう期待が湧く。この期待に山鹿素行がどこまで応えてくれるのかくれないのか、これが、れんだいこの山鹿素行論の旅となる。

 2012.7.26日 れんだいこ拝

【れんだいこの山鹿素行論その2】
 れんだいこの山鹿素行論は、その1で、「山鹿素行こそ近代日本の心派の開祖的重要人物」と位置付けたが、その2では若干修正する。どう修正するのかと云うと、近代日本の心派としての山鹿素行の地位は、近代日本の心派として右派のそれであり、後の皇国史観の源基を為していると判じたい。よって、近代日本の心派として左派のそれを求めるれんだいこは少々評価点を低くせざるを得ない。但し、江戸初期のかの時点で、近代日本の心派の観点を打ち出したことの功績が多いので、右派的な欠点を認めつつも功の方を称揚したいと思う。これが、れんだいこの山鹿素行論その2の結論となる。

 これを説明するのに、山鹿素行をして近代日本の心派として登場せしめた触媒の働きに注目を要すると思う。これは、「山鹿素行の履歴考」で確認できるが、「1638(寛永15)年、17歳の時、忌部神道の嫡流・廣田坦斎、18歳の時には両部習合神道の高野山按察使院光宥らに和学、歌学、神道など様々な学問を学ぶ。両部神道の秘伝を伝授される。ちなみに、忌部神道の廣田坦斎とは、天孫降臨の際に天児屋根命とともに功労のあった忌部太玉命の後裔であり、忌部流の伝「神代巻神亀抄」、「朱注の神代巻」、「忌部流三種大祓」等の著書があり、忌部流根本宗源神道を提唱していたた国学者であった。その廣田坦斎から神道の奥義を残らず授けられた」にヒントがあるように思われる。この時、山鹿素行は、忌部神道の嫡流・廣田坦斎、両部習合神道の高野山按察使院光宥らに和学、歌学、神道など様々な学問を学び、両部神道の秘伝を伝授されている。ここで学んだ「日本の心」が、その後の山鹿素行の学問の型を決定づけているように思われる。

 しかして、その山鹿素行の学問の型とは、底流に日本神道の極意を置くことに特徴が認められるが、その日本神道が忌部神道、両部習合神道的なものであったと云うことである。こうなると、日本神道に於ける忌部神道、両部習合神道の位置づけをせねばならない。れんだいこがこれを為すに、忌部神道、両部習合神道とはまさに日本神道内の右派的なものであり、山鹿素行がそれをそのまま受け継いでいるところに限界も又宿していると言わざるをえない。願うらくは、山鹿素行が、日本神道に更なる探究心を奮起させ、忌部神道、両部習合神道よりも更に深奥の日本神道の解明に向かわれたら、どのような展開になっていたのだろうかと思わざるを得ない。但し、何事も時代の制約の中で捉えねばならず、山鹿素行にこれを期待するのは酷と云うべきかも知れない。してみれば、忌部神道、両部習合神道的日本神道ではあったが、日本神道の価値を称揚せしめた学問的営為を以て称賛すべきが道理かも知れない。

 これにつき、文学博士・紀平正美編纂「配所残筆」(文部省教学局、昭和15年7月2日初版)の後書きで、次のように記している。
 「素行が赤穂にあるや謹厳その身を処した。而してそれの外に表われたのが敬神崇祖と云う日常の行事であったのである。彼は毎月1日と14日、及び父の命日たる22日、ないし時々の御祭事を怠らない。彼の崇神する神は、伊勢と元の氏神たる諏訪と、大峰の三社であり、時には稲荷神をも加えて居る。而してこの祭祀の行事は彼が年をとるに従うていよいよ厳粛に行うたのである。彼は自ら考えた呪文があるが、尤も晩年には常にそれを唱えることは神を穢す所以なりと為し、日を定めて唱えることにした。これが祭事の純なるものである」。

 これによれば、山鹿素行は、「伊勢と元の氏神たる諏訪と、大峰の三社、時に稲荷神」を祀る神道を編み出していたことになる。これは意味深である。伊勢は伊勢神道の象徴である。しかして諏訪神と大峰は出雲神道系のものである。この時点において、山鹿素行は伊勢神道と出雲神道の双方に敬神を深くしていたことが判明する。

 素行の時代、今日の如く古史古伝が開示されていない。故に記紀神話記述をもって日本の国体論を唱えるしか術がなかった。その状況下で、素行が伊勢神道と出雲神道の双方に敬神を深くしていたことは卓越過ぎる卓見であるように思われる。しかし、山鹿素行学の継承者達は、素行のこの観点には至らず、記紀神話記述をもって日本の国体論を唱える皇国史観しか生み出さなかった。これが時代の限界であり、あながち責められるべきとは思われないが、過ちては正すべきであろう。この意味から云えば、今日の情報量を以て日本国体論を更に深化させること、少なくとも山鹿素行の垣間見た国体論の地平にまで立ち戻るべきであり、その限界をも突き破るべきである。これが山鹿素行論から導き出される課題にならねばならないとも思う。これを為し得るとしたら、世に資格者がそれほど居る訳ではない。れんだいこはその数少ない一人であると思う。生ある限り、山鹿素行式国体論の続編編集に挑みたいと思う。

 勘略であるが、ひとまず以上を、れんだいこの山鹿素行論その2としておく。  

 2012.8.6日 れんだいこ拝

【れんだいこの山鹿素行論その3】
 「れんだいこの山鹿素行論その1」、「れんだいこの山鹿素行論その2」で「山鹿素行こそ近代日本の心派の開祖的重要人物」であることを確認したが、ここで山鹿素行学の内容及びその継承の流れを検証しておこうと思う。ここでは要点だけを記しておく。確認すべきは、兵法論、武士道論、儒教研究上の古学論、水戸学への先鞭的地位、その後の国学の先鞭的地位、幕末維新のイデオロギーへの先鞭的地位であろう。そのそれぞれに枢要の地位を得ているところに山鹿素行の凄さがある。これを思えば、近代日本学研究上の要の地位に位置していることが分かろう。

 以下、それぞれの要点を確認しておく。本格的にやるには最低限、山鹿素行の著作に目を通しておかねばならないであろう。れんだいこにはそれができる暇も能もないので、簡単なスケッチに留めることにする。

 1、兵法論

 2、武士道論

 「武士道や士道が語られる時代の危うさ」その他を参照する。

 山鹿素行の武士道論を、その特徴を踏まえて士道論とするのが通例のようである。「林羅山や山鹿素行らが作り上げた徳川の武士道を、特に士道と呼ぶ」とのことのようである。山鹿素行が自ら士道論としているのかどうか分からない。それはそれとして、山鹿素行の士道論の歴史的意義をどこに求めるべきであろうか。れんだいこに言わせれば、徳川幕藩体制が安定期に入りつつあった頃の、戦国下克上的な荒々しい時代の「弓矢取る身の習」から転じて「治者階級の一員としての奉公の道」が要求され始めた時代に生み出された新武士道論であったと推理する。してみれば、武士道論は「武」としての兵法論と「士」としての武人論の二様によって成り立っており、後者の「士」としての武人論を士道論と云う構図が判明する。山鹿素行の武士道論に於いて、大範疇が武士道論、小範疇として武の兵法論、士の士道論に識別されることになったと云うことではなかろうか。

 素行の士道論は、兵法論を除いた後に残る軍人の社会的任務、心構え、教養、生活規範、処世術等を説いており、いわば「精神論的武士道」と云えよう。これをどう説いたのかが素行の士道論と云うことになる。かく位置づけたい。この士道について、丸山真男は、「武士階級の存在理由の根拠づけ」(講義録第五冊p221)と定義している。まずまずの位置づけであろう。特徴として、鍋島武士の山本常朝の語録を主とする葉隠の「武士道と云は死ぬ事と見付けたり」とは一味違う「卓爾として独立」する「大丈夫の気象」に支えられる自負的士道論であったと思われる。これについては今後言及する。

 興味深いことは、山鹿素行の士道論は、自らが率先垂範することにより、自身をも縛り続けたと云う側面であろう。自伝的「配所残月」が語っているが、山鹿素行をして左遷の身に於ける処世法を示している。これを論ずれば、素行は、兵法論、士道論に続いて学問上の成果として儒教の真髄論たる「聖教要録」を著し、時の朱子学的読みとり方を批判した。これが為に罪を得て赤穂に流されることになった。この時、素行は、学問の徒として、士道的従順の徒として自らを拘束した様子が分かる。果たしてそれは、素行自身に対しても功罪半ばではなかろうか。革命哲学「造反有理」に対する考察がないように思われる点が惜しいものにしている。

 3、儒教研究上の古学論

 4、水戸学への先鞭的地位

 5、その後の国学の先鞭的地位

 6、幕末維新のイデオロギーへの先鞭的地位

 2012.8.11日 れんだいこ拝

【れんだいこの山鹿素行論その4】
 山鹿素行論の最後として、「由井正雪の乱」との関わり如何、素行と正雪の立ち位置如何、その能力特質考をしておく。由井正雪については「由井正雪の乱」で確認するとして、この両者を比較検討することは実に興味深いように思われる。但し、由井正雪については余りにも情報が少ないので公正な比較はできない。その点は理解いただくとして、れんだいこが見た山鹿素行の秀逸さと限界の両面から考察したい。

 両者の大きな違いは、山鹿素行が当時にしては異例ともいえる余りにも多くの著作を残していることであろう。且つ更に興味深いことは、処世法としての素行は秩序従順的と云う意味で保守的である。正雪が天下の大名から浪人に至るまで幅広い交流を見せたのに対し、素行の交流域は大名等の上層名士に限定しており、正雪に比べれば狭い。但し、著述に表われた思想としては極めて鋭意な通俗学問批判、ひいては幕政批判、体制批判に繫がるものを蔵している。現象的実践的には、由井正雪は乱を起こし反逆の徒となったが、素行の場合は理論的実践とでも云える領域で反逆の徒となっており、両者は同時代人であり、且つ相睦むことはなかったが、何か奇しくな機縁で結ばれていたような気がしてならない。歴史の不思議な面であるように思う。





(私論.私見)