死体検視鑑定書考

 (最新見直し2013.10.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「死体検視鑑定書考」をものしておく。

 2013.08.31日 れんだいこ拝



 「 三島由紀夫は暗殺されたのではないか?」を転載する。
 1970年11月25日、自衛隊の市ヶ谷駐屯地総監室で益田兼利陸将を人質に籠城した三島由紀夫は、楯の会選抜メンバーである森田必勝とともに割腹自殺を図ったとされている。三島由紀夫は本当に割腹自殺を図ったのだろうか。誤解を恐れずに言えば、二人は暗殺されたのではなかったかと疑っているのである。

 (「三島由紀夫割腹余話」(http://www.geocities.jp/kyoketu/6105.html)略)『三島は、これらの要求が入れられなければ総監を殺し、自分も切腹すると脅迫していた。』という部分は、言い換えれば、三島由紀夫の切腹は益田兼利陸将の死と引換であるということである。三島は大儀に従って自衛隊幕僚幹部を殺害し、その責任として切腹を持ち出している。つまり、三島由紀夫には切腹する条件があったわけだ。実際には、益田兼利陸将は怪我ひとつ負うことはなかった。三島由紀夫と森田必勝は何をもって割腹自殺したのだろうか。

 三島由紀夫は眼下の自衛隊員にクーデターを呼びかける檄文を巻き、正午きっかりに演説を始めた。注目するべきは、三島が要求したのは13時10分までは何が起こっても妨害しないこと、だということだ70分間の時間的余裕がある。演説の予定は30分。40分余っている。三島由紀夫は自衛隊員にクーデターを呼びかけること以外に、何かをしようとしていたはずだ。

 さて、三十分を予定していた演説であるが、報道ヘリの音や自衛隊員の野次に妨害され、三島由紀夫は7分で切り上げることになる。この直後に、三島由紀夫は総監室で割腹自殺を図り、古賀浩靖(荒地浩靖・生長の家の幹部)に介錯され首を刎ねられることになる。要求にあった13時10分まで、大分時間を残していた。三島由紀夫は、残された時間で”何かを成し遂げようとしたところで暗殺された”のではなかったか。

 例えば、それは、益田兼利陸将の殺害行為である。演説を早々に切り上げ、三島由紀夫は人質である益田兼利陸将を殺害する為に総監室に引き上げてきた。その時すでに見張り役の楯の会選抜メンバーと益田兼利陸将との間に取引があったのではないか。三島由紀夫の割腹自殺を目撃したのは、楯の会選抜メンバー四人(森田必勝を抜けば三人)と益田兼利陸将だけである。口裏を合わせれば、割腹自殺として処理されるだろう。

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三島の短刀による傷はへソの下四㌢ぐらいで、左から右へ十三㌢も真一文字に切っていた。深さは約五㌢。腸が傷口から外へ飛び出していた。日本刀での介錯による傷は、首のあたりに三か所、右肩に一か所あった。森田は腹に十㌢の浅い傷があったが、出血はほとんどなかった。首は一刀のもとに切られていた。略~ 検視に立会った東京大学医学部講師・内藤道興氏は、「三島氏の切腹の傷は深く文字通り真一文字、という状態で、森田の傷がかすり傷程度だったのに比べるとその意気込みのすさまじさがにじみでている」と話した。略~ 死因は頚部割創による離断。左右の頚動脈、静脈がきれいに切れており、切断の凶器は鋭利な刃器による、死後二十四時間。頚部は三回は切りかけており、七㌢、六㌢、四㌢、三㌢の切り口がある。右肩に、刀がはずれたと見られる十一・五㌢の切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はへソを中心に右へ五・五㌢、左へ八・五㌢の切創、深さ四㌢、左は小腸に達し、左から右へ真一文字。身長百六十三㌢、四十五歳だが三十歳代の発達した若々しい筋肉。 

森田必勝(船生助教授執刀)については、死因は頚部割創による切断離断、第三頚椎と第四頚椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部のキズは左から右に水平、ヘソの左七㌢に深さ四㌢のキズ、そこから右へ五・四㌢の浅い切創、ヘソの右五㌢に切創。右肩に〇・五㌢の小さなキズ。身長百六十七㌢。若いきれいな体をしていた。
---------------------抜粋

 三島由紀夫の検視によれば、切腹の傷はへその下4センチの位置で真一文字に13センチ、深さ5センチだったという。切腹の傷は腸がはみ出るほど深く割かれていたという。検死医は「意気込みの凄まじさ」という精神論で説明しているが、はたして自らを腸がはみ出るほどの深さに腹を切り裂くことが可能なのだろうか。さらに言えば、切腹は介錯を前提に考えれば、腹を切る行為はあくまでポーズであって、傷を付ける程度で良いのである。さらに、『右肩に、刀がはずれたと見られる十一・五㌢の切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ』という部分は、どうも後ろから襲撃された事を想定させるものである。森田必勝の検視結果も興味深い。頸部は一刀両断されているものの、腹部には複数の傷があった。介錯人がいるのに自分で何度も腹に刃を突き立てたのだろうか。

 酒鬼薔薇聖斗事件では、被害者の頭部が友が丘中学校の校門に置かれている。両目は繰り抜かれ、口は耳元まで割かれ、まぶたにバツ印。ハロウィンのかぼちゃのごとく、異常な細工が施された頭部は三島由紀夫と同じように公衆にさらされた。三島由紀夫は組織に見せしめとして暗殺されたのではないか。後に語り継がれることになる壮絶な割腹は、偽装工作されたものではなかったか。三島由紀夫の暗殺を割腹自殺に偽装するのは簡単である。そう考えると、酒鬼薔薇聖斗が頭部を校門に晒した理由も見えてくる。日本国民に見せしめられた三島由紀夫の生首を想起させ、脅威な存在や思想の芽を摘むためである。
 「自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白」(山本 舜勝 (著)、講談社、 2001/06 初版)が出版されている。内容は題名の見かけ倒しで「三島由紀夫を殺した真実」の部分が触れられていない。これは差し替えられたのか著者が自粛したのかのどちらかであろう。考えようによれば、題名そのものに値打ちがあるのかも知れない。

【コラム/中日新聞】三島由紀夫自決から40年、三島の死を冷静」。
 「作家の三島由紀夫が自決した直後、現場になった陸上自衛隊東部方面総監部の総監室に入った警視庁の元鑑識課員に話を聞いたことがある。割腹した後、 切り落とされた三島の後頭部には何カ所もの傷があり、切り口はずたずただったという。じゅうたんにも何カ所も切り傷の跡があった。介錯人が切り落とそうとしたけど、うまくできなかったんだなと語ったのが印象に残っている」。

【三島最後のドキュメント考その12、事件後の様子と中曽根防衛庁長官のコメント考
 事件のその後の様子につき次のように記述されている。

 「血生臭い事件は終わった。 十分後には、三島、森田の自決の報が広場に伝わってきた。自衛隊員たちは三々五々散っていった。広場に近いバレーコートでは、運動着の隊員たちのバレーボールが始まった。三島の死をきいてから二十分後には、もういつもの日のようにスポーツをはじめた。自衛隊にとってこの騒動はあまりたいしたことではなかった、ただ煩わしいだけだった」。

 
 何とも失礼なと云うべきか、どこまで事実なのか分からないが三島の最後を愚弄していると云うか唾棄する意図を込めた記述である。

 中曽根防衛庁長官は、外人記者クラブの会合で「楯の会をどう思う」と聞かれて、「宝塚少女歌劇を思い出す」と答えて満場を爆笑させている。これも失礼な弁である。中曽根は、いつもかように変な役割で登場し「あらぬ言辞を吐く」のを常習としている。

 事件直後に、現場の総監室には師の川端康成が駆けつけている。川端は、総監室で壮絶な最期を遂げた血まみれの三島の死体と首を確認している。 川端はその後、眠れないと周囲に漏らしたり、「ほら、三島君があそこにいる」と、三島の霊を見ているかのような言動をするようになる。 三島の死後、川端康成は会議や講演などはこなしていたが、健康がすぐれず、新しい文学作品を書かなくなった。 三島の自刃から約一年半後の昭和47年4月16日、川端はふらっと鎌倉の自宅を出てタクシーを拾い、仕事場の逗子マリーナ・マンション417号室へ向かう。 水割りを少し飲んだ後、川端はガス管をくわえガス自殺を遂げている。遺書はなかった。

 三島と親しかった佐々淳行(当時警視庁警務部参事官)が訪れている。三島と親しかったが(三島が自決の年に、石原の政治姿勢を批判したことで)交流を絶った石原慎太郎(当時参議院議員)もひと足遅れて現場に駆けつけている。但し、現場検証した警察関係者から「川端先生が中へ入って見ていった」と聞かされ、川端が三島を見送ったならばと入室を辞退した。一条真也の「三島由紀夫と戦後」は次のように記している。
 「石原氏は、1970年11月25日、すなわち三島自決の日、東京紀尾井町のホテルニューオータニで仕事をしていたそうです。すると、秘書から『大変です。大事が起こっています』と電話が入り、石原氏は市ヶ谷の現場に駆けつけます。現場には、川端康成がどこかのホテルか何かで仕事をしていたのか先に来ていたそうです。警察に『石原さんですか。まだ検証は済んでいませんが、現場をご覧になりますか』と訊かれましたが、先に川端康成が現場に入ったと知り、石原氏は断ったそうです。石原氏はその日の夕刊で三島が割腹しただけでなく、首をはねさせていたことも知っていました。石原氏は、転がっている三島の首を見たら、きっと何かを感じて取り返しがつかなくなる予感がしたというのです。実際、三島の首を見た川端康成は精神に異変をきたしました。石原氏は述べます。『川端さんは明らかに、胴体から離れた三島さんの首を見て何か感じとったんだろう。川端さんも、ある意味では怖いものを書いてもいたけど。あんな耽美的な人が、自分の美的な世界とは異なる、まったく異形なものを見たわけでしょう』。もともと川端康成は睡眠不足でノイローゼ気味だったそうですが、事件の後、人と話しているときに『あ、三島君が来た』などと言っていたりしたそうです。それから、まもなくノーベル賞作家・川端康成は自殺したわけです」。

 事件翌日の総監室の前には、誰がたむけたのか菊の花束がそっと置かれていたという。しかし、ものの1時間とたたぬうちに幹部の手によって片づけられた。また、事件後に、東京および近郊に在隊する陸上自衛隊内で行われたアンケート(無差別抽出1000名)によると、大部分の隊員が、「檄の考え方に共鳴する」という答であった。一部にではあるが「大いに共鳴した」という答もあり防衛庁をあわてさせたという。

【三島最後のドキュメント考その13、死体検視鑑定書】
 11月26日付け朝日新聞の報道によると、牛込署捜査本部は25日同夜、二人の遺体を同署で検視し、結果を次のように発表した。

 三島の短刀による傷はへソの下4㎝ぐらいで、左から右へ13㎝も真一文字に切っていた。深さは約5㎝。腸が傷口から外へ飛び出していた。日本刀での介錯による傷は、首のあたりに3か所、右肩に1か所あった。森田は腹に10㎝の浅い傷があったが、出血はほとんどなかった。首は一刀のもとに切られていた。三島と森田は楯の会の制服の下には下着をつけず、二人ともさらしの新しい六尺ふんどしをつけていた。検視に立会った東京大学医学部講師・内藤道興氏は、「三島氏の切腹の傷は深く文字通り真一文字、という状態で、森田の傷がかすり傷程度だったのに比べるとその意気込みのすさまじさがにじみでている」と話している。

 12月13日付け毎日新聞掲載の「解剖所見」を引用する。

 三島由紀夫・十一月二十六日午前十一時二十分から午後一時二十五分、慶応大学病院法医学解剖室・斎藤教授の執刀。死因は頚部割創による離断。左右の頚動脈、静脈がきれいに切れており、切断の凶器は鋭利な刃器による、死後24時間。頚部は3回は切りかけており、7㎝、6㎝、4㎝、3㎝の切り口がある。右肩に、刀がはずれたと見られる11・5㎝の切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はへソを中心に右へ5・5㎝、左へ8・5㌢の切創、深さ4㌢、左は小腸に達し、左から右へ真一文字。三島は臍下4㎝ほどの場所に刀を突き立て、左から右に向かって真一文字に約14㎝、深さ約4㎝にわたって切り裂いたため、腸が傷口から外に飛び出していた。また、舌を噛み切ろうとしていた形跡が認められる。介錯に使われた日本刀・関孫六は、介錯の衝撃で真中より先がS字型に曲がっていた。また、刀身が抜けないように目釘の両端を潰してあるのを、関孫六の贈り主である渋谷の大盛堂書店社長・舩坂弘が牛込警察署で確認している。「身長百六十三㌢、四十五歳だが三十歳代の発達した若々しい筋肉」が確認されている。

 森田必勝(船生助教授執刀)については、死因は頚部割創による切断離断、第三頚椎と第四頚椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部のキズは左から右に水平、ヘソの左7㎝に深さ4㎝のキズ、そこから右へ5・4㎝の浅い切創、ヘソの右5㎝に切創。右肩に0・5㎝の小さなキズ。身長167㎝。若いきれいな体をしていた。

 三島と森田の検死解剖は慶応大学医学部解剖学教室が行なった。珍しいということで、当時、慶應大医学部学生に公開された。三島は臍下を左から右へ13cm切り裂いていて腸が飛び出していた。三島は舌も噛み切っており、検死解剖にあたった教授は 三島の壮絶な気概をを感じるとコメントを残している。両氏の遺体は一時、警察の車庫内に安置されたが 車庫前に警察官達自らが献花台を設置した。警察官が加害者の遺体に献花台を設けるのは珍しいこと。全共闘のリーダーが献花に訪れたのは有名な話し。このリーダーはその後、自死された。

 1971(昭和46)年4月19日及び6月20日の第2回と第6回の公判記録によると、右肩の傷は初太刀の失敗であった。おそらく最初三島は後へのけぞったものと思われる。森田は三島が前へ倒れるものとばかり思って打ち下ろしたとき、意外にも逆に頚部が眼の前に上がってきたため手許が狂い、右肩を叩きつける恰好になったのであろう。そのため前へ俯伏せに倒れた三島が額を床につけて前屈みに悶え動くので首の位置が定まらず、森田はそのまま三島の首に斬りつけたか、それとも三島の身体を抱き起して急いで斬らねばならなかったかはわからないが、いずれにしても介錯人には最悪の状態でさらに二太刀(斎藤教授の「解剖所見」によると三太刀か?)斬りつけ、結局は森田に代った古賀がもう一太刀ふるわねばならなかったのは、致し方なかったと思われる。最後はあるいは「押し斬り」に斬ったかもしれない。現場写真で三島の倒れていた部分の血溜りが、ほぼ九十度のひらきで二方向に見えている。森田は三太刀(ないし四太刀)も斬りつけている。森田自身は腹の皮を薄く切って一太刀で自分の首を刎ねさせている。切腹の作法に近い。


 
「関の孫六」について三島の両親の平岡梓・氏が次のような「妙な」証言を遺している。
 「介錯に使われた刀は、ご存知のように関の孫六でした。書店の御主人の舩坂弘さんから寄贈されたものです。 そのため、舩坂さんは警察に呼ばれたわけですが、そのときもう一度実物を見せてもらったところ、奇妙なことに柄のところが金槌でめちゃくちゃにつぶされていて、二度と抜けないようになっていたそうです。 これはいったい、何のためなのか警察でも見当がつかなかったようです。ところが、その後の調べで、倅の周到な処置であることが判りました。というのは、こういうことです。倅は死ぬのは自分一人で足りる、決して道づれは許されない、ましてや森田必勝君には意中の人がいるのを察し、彼の死の申し出を頑強に拒否し続けて来た。 しかし、森田君はどうしても承知せず、結局、あんなお気の毒な結果になってしまったのです。 そして、森田君の希望により倅の介錯は彼にたのむ手筈になったものの、かねてから介錯のやり方を研究していた倅の眼から見ると、森田君の剣道の技倆はおぼつかないと見てとったのでしょう。かんじんのとき、万一にも柄が抜けることのないよう、ああした処置をして彼に手渡したのだそうです。まことに用意周到をきわめたものです。 自分自身が割腹に使用したのは、かねて用意の鎧通しでした。公威は幼少のころから日本古来のしきたり、行事というようなものがとても好きで、またこれらを大事にいたしました。 母の躾けのせいもありましたろうが、神社の前などに参りますと、どんな小さな祠でも何びとの指図も受けず、自らすすんで必ず丁寧に参拝し、お辞儀をしないで通りすぎるというようなことはありませんでした。これは子供の時代ばかりでなく、ずっと大人になってからも続きました」。

 「もう一度実物を見せてもらったところ、奇妙なことに柄のところが金槌でめちゃくちゃにつぶされていて、二度と抜けないようになっていたそうです」と「かんじんのとき、万一にも柄が抜けることのないよう、ああした処置をして彼に手渡したのだそうです」の意味が繋がらないが、最初の言に意味があると考える。これは間接的に三島と森田の介錯に使われた刀が別の刀であることを示唆していることになりはすまいか。
 「三島由紀夫の遺体を検視した結果」が次のように記している。
 「『閉じ込められなかったエロス』は、署名論文として、三島事件のすぐ直後に書かれた。そのきっかけは、新聞社で記者から『三島氏の解剖結果が出て、直腸から精液が発見された。おそらく、スキャンダル好きの週刊誌は、それを取り上げるだろう』という話を聞いたことだった。私は、おそらく、週刊誌が、この事実から、低俗な興味本位の誌面をつくるに違いないと思った」。

 これに掲示板がついており、三島ホモ論を競り合って語り合っている。れんだいこは、これを三島ホモ論と受け取らずに儀式殺人された可能性を窺う。

(私論.私見)

 「三島の死体検視鑑定書」の全文を知りたい。然るべきところにはあるのか、公開されている通りの簡略なものなのかを知りたい。これにより、腹の切り口が三島の手によるものなのか、アリバイ工作的に他者によって切られているのかを、れんだいこ推理で確認したい。これにより「腸が傷口から外に飛び出ていた」理由を推定したい。三島の憤怒の腹切りなのか他殺的な外からの腹切りによるものなのか推理したい。「自決ではなく処刑&儀式殺人」の線を疑うれんだいこには全文を確認してから判断したい。現在発表されているものは、この疑惑に答えるようなものでないところに「工作」を嗅ぎ取っている。

 2013.9.27日 れんだいこ拝





(私論.私見)