死体検視鑑定書考 |
(最新見直し2013.10.07日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「死体検視鑑定書考」をものしておく。 2013.08.31日 れんだいこ拝 |
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「【コラム/中日新聞】三島由紀夫自決から40年、三島の死を冷静」。
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【三島最後のドキュメント考その12、事件後の様子と中曽根防衛庁長官のコメント考】 | ||
事件のその後の様子につき次のように記述されている。
何とも失礼なと云うべきか、どこまで事実なのか分からないが三島の最後を愚弄していると云うか唾棄する意図を込めた記述である。 中曽根防衛庁長官は、外人記者クラブの会合で「楯の会をどう思う」と聞かれて、「宝塚少女歌劇を思い出す」と答えて満場を爆笑させている。これも失礼な弁である。中曽根は、いつもかように変な役割で登場し「あらぬ言辞を吐く」のを常習としている。 事件直後に、現場の総監室には師の川端康成が駆けつけている。川端は、総監室で壮絶な最期を遂げた血まみれの三島の死体と首を確認している。 川端はその後、眠れないと周囲に漏らしたり、「ほら、三島君があそこにいる」と、三島の霊を見ているかのような言動をするようになる。 三島の死後、川端康成は会議や講演などはこなしていたが、健康がすぐれず、新しい文学作品を書かなくなった。 三島の自刃から約一年半後の昭和47年4月16日、川端はふらっと鎌倉の自宅を出てタクシーを拾い、仕事場の逗子マリーナ・マンション417号室へ向かう。 水割りを少し飲んだ後、川端はガス管をくわえガス自殺を遂げている。遺書はなかった。 三島と親しかった佐々淳行(当時警視庁警務部参事官)が訪れている。三島と親しかったが(三島が自決の年に、石原の政治姿勢を批判したことで)交流を絶った石原慎太郎(当時参議院議員)もひと足遅れて現場に駆けつけている。但し、現場検証した警察関係者から「川端先生が中へ入って見ていった」と聞かされ、川端が三島を見送ったならばと入室を辞退した。一条真也の「三島由紀夫と戦後」は次のように記している。
事件翌日の総監室の前には、誰がたむけたのか菊の花束がそっと置かれていたという。しかし、ものの1時間とたたぬうちに幹部の手によって片づけられた。また、事件後に、東京および近郊に在隊する陸上自衛隊内で行われたアンケート(無差別抽出1000名)によると、大部分の隊員が、「檄の考え方に共鳴する」という答であった。一部にではあるが「大いに共鳴した」という答もあり防衛庁をあわてさせたという。 |
【三島最後のドキュメント考その13、死体検視鑑定書】 | |
11月26日付け朝日新聞の報道によると、牛込署捜査本部は25日同夜、二人の遺体を同署で検視し、結果を次のように発表した。 三島の短刀による傷はへソの下4㎝ぐらいで、左から右へ13㎝も真一文字に切っていた。深さは約5㎝。腸が傷口から外へ飛び出していた。日本刀での介錯による傷は、首のあたりに3か所、右肩に1か所あった。森田は腹に10㎝の浅い傷があったが、出血はほとんどなかった。首は一刀のもとに切られていた。三島と森田は楯の会の制服の下には下着をつけず、二人ともさらしの新しい六尺ふんどしをつけていた。検視に立会った東京大学医学部講師・内藤道興氏は、「三島氏の切腹の傷は深く文字通り真一文字、という状態で、森田の傷がかすり傷程度だったのに比べるとその意気込みのすさまじさがにじみでている」と話している。 12月13日付け毎日新聞掲載の「解剖所見」を引用する。 三島由紀夫・十一月二十六日午前十一時二十分から午後一時二十五分、慶応大学病院法医学解剖室・斎藤教授の執刀。死因は頚部割創による離断。左右の頚動脈、静脈がきれいに切れており、切断の凶器は鋭利な刃器による、死後24時間。頚部は3回は切りかけており、7㎝、6㎝、4㎝、3㎝の切り口がある。右肩に、刀がはずれたと見られる11・5㎝の切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はへソを中心に右へ5・5㎝、左へ8・5㌢の切創、深さ4㌢、左は小腸に達し、左から右へ真一文字。三島は臍下4㎝ほどの場所に刀を突き立て、左から右に向かって真一文字に約14㎝、深さ約4㎝にわたって切り裂いたため、腸が傷口から外に飛び出していた。また、舌を噛み切ろうとしていた形跡が認められる。介錯に使われた日本刀・関孫六は、介錯の衝撃で真中より先がS字型に曲がっていた。また、刀身が抜けないように目釘の両端を潰してあるのを、関孫六の贈り主である渋谷の大盛堂書店社長・舩坂弘が牛込警察署で確認している。「身長百六十三㌢、四十五歳だが三十歳代の発達した若々しい筋肉」が確認されている。 森田必勝(船生助教授執刀)については、死因は頚部割創による切断離断、第三頚椎と第四頚椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部のキズは左から右に水平、ヘソの左7㎝に深さ4㎝のキズ、そこから右へ5・4㎝の浅い切創、ヘソの右5㎝に切創。右肩に0・5㎝の小さなキズ。身長167㎝。若いきれいな体をしていた。 三島と森田の検死解剖は慶応大学医学部解剖学教室が行なった。珍しいということで、当時、慶應大医学部学生に公開された。三島は臍下を左から右へ13cm切り裂いていて腸が飛び出していた。三島は舌も噛み切っており、検死解剖にあたった教授は 三島の壮絶な気概をを感じるとコメントを残している。両氏の遺体は一時、警察の車庫内に安置されたが 車庫前に警察官達自らが献花台を設置した。警察官が加害者の遺体に献花台を設けるのは珍しいこと。全共闘のリーダーが献花に訪れたのは有名な話し。このリーダーはその後、自死された。 1971(昭和46)年4月19日及び6月20日の第2回と第6回の公判記録によると、右肩の傷は初太刀の失敗であった。おそらく最初三島は後へのけぞったものと思われる。森田は三島が前へ倒れるものとばかり思って打ち下ろしたとき、意外にも逆に頚部が眼の前に上がってきたため手許が狂い、右肩を叩きつける恰好になったのであろう。そのため前へ俯伏せに倒れた三島が額を床につけて前屈みに悶え動くので首の位置が定まらず、森田はそのまま三島の首に斬りつけたか、それとも三島の身体を抱き起して急いで斬らねばならなかったかはわからないが、いずれにしても介錯人には最悪の状態でさらに二太刀(斎藤教授の「解剖所見」によると三太刀か?)斬りつけ、結局は森田に代った古賀がもう一太刀ふるわねばならなかったのは、致し方なかったと思われる。最後はあるいは「押し斬り」に斬ったかもしれない。現場写真で三島の倒れていた部分の血溜りが、ほぼ九十度のひらきで二方向に見えている。森田は三太刀(ないし四太刀)も斬りつけている。森田自身は腹の皮を薄く切って一太刀で自分の首を刎ねさせている。切腹の作法に近い。 「関の孫六」について三島の両親の平岡梓・氏が次のような「妙な」証言を遺している。
「もう一度実物を見せてもらったところ、奇妙なことに柄のところが金槌でめちゃくちゃにつぶされていて、二度と抜けないようになっていたそうです」と「かんじんのとき、万一にも柄が抜けることのないよう、ああした処置をして彼に手渡したのだそうです」の意味が繋がらないが、最初の言に意味があると考える。これは間接的に三島と森田の介錯に使われた刀が別の刀であることを示唆していることになりはすまいか。 |
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「三島由紀夫の遺体を検視した結果」が次のように記している。
これに掲示板がついており、三島ホモ論を競り合って語り合っている。れんだいこは、これを三島ホモ論と受け取らずに儀式殺人された可能性を窺う。 |
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「三島の死体検視鑑定書」の全文を知りたい。然るべきところにはあるのか、公開されている通りの簡略なものなのかを知りたい。これにより、腹の切り口が三島の手によるものなのか、アリバイ工作的に他者によって切られているのかを、れんだいこ推理で確認したい。これにより「腸が傷口から外に飛び出ていた」理由を推定したい。三島の憤怒の腹切りなのか他殺的な外からの腹切りによるものなのか推理したい。「自決ではなく処刑&儀式殺人」の線を疑うれんだいこには全文を確認してから判断したい。現在発表されているものは、この疑惑に答えるようなものでないところに「工作」を嗅ぎ取っている。 2013.9.27日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)