別章【竹取物語考】

 (最新見直し2010.04.09日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこはこたび、竹取物語かぐや姫譚の読解に向かった。国語的な関心からではなく歴史物語の位置づけで読みとろうとしている。この観点が、既成市井の竹取物語考と違うところである。そうなると、いずれにせよその前に、竹取物語の原文を確定せねばならぬ。世間に知られているかぐや姫譚が正しいとは限らないからである。

 これが厄介なことであった。なぜなら、どうやら原文は漢文で、我々が教わった古文のそれは漢文の訳文のようである。その古文を現代文に書き換えねばならない。それは良いとしても、漢文と古文を比較すると、明らかに漢文の方のデキが良い。ということは、古文を現代文に書き換えるより、漢文を書き直した方がより適切と云うことになる。

 ここで厄介なことになる。漢文をそのまま現代文に訳せる者はそうは多くはいまい。そうなると、漢文と古文を睨めっこしながら現代文に書き直さねばならない。しかし、これも、れんだいこがいきなり訳すとなると大変なことである。そこでネット検索し、それらを参照しながら呻吟せねばならないことになる。

 気づいたことは「共産主義者宣言」の訳の時と同じである。既存の市井のものの訳が拙さすぎる。なぜこのようになるのかは分からない。「共産主義者宣言」の場合には、マルクス主義書発禁の次善策として意図的故意に悪訳にすることによりその価値を損なわせようとする動機が透けて見えてくる。この場合は首肯し難くとも納得できる。しかし、竹取物語かぐや姫譚の場合に、そういう必要があるのだろうか。そういう必要が認められないのに漢文が古文になり、古文が現代文になるに応じて、その値打ちを下げ、詰まらないものにさせている。その必要が分からない。この言に不審があれば各自で確かめて見れば良い。

 れんだいこは、ふと興味を覚え、竹取物語かぐや姫譚を正確に知ろうと思った。ところが、そういう事情で、既成市井本では我慢できなくなった。そこで急きょ、れんだいこ現代文竹取物語かぐや姫譚を書き起こした。これを公開しておく。この一週間で拵えたので未だ不十分、或いは部分的なところでの読解間違いもあろう。この指摘を受けながら順次そのつど書き直していくことにする。

 本来は、歴史物語の位置づけからの関心で取り組んでいるのだが副産物を得た。竹取物語かぐや姫譚が、日本歴史上古代の文学作品の傑作の一つであることが分かった。源氏物語に比して分量がそれほどでもなく、読み終えるのが容易である。そういう意味で必読本とせねばならないと云うことが分かった。日本史古代の情緒や云いまわしを知ることにもなり為になろう。且つかぐや姫に云い寄った六名のそれぞれの求婚の仕方の綾を知ることが我々の脳を鍛える格好のテキストになっている。ここが絶妙に面白い。

 思えば、日本人は今、国際金融資本の脳内ピーマン化政策により脳粗鬆の道に誘われつつある。マスコミがマスゴミと云われる所以である。公共電波を使って、日本人民大衆の愚民化の尖兵の役割を果たしている。れんだいこが思うのに、これを迎撃する格好本の一つとして、竹取物語かぐや姫譚に触れ、何度も読み直すことにより脳筋を鍛えるへきではなかろうか。

 今、私の連れ合いに読んで聞かせたところ、初めて知った。こんなに面白いものだったのですかと云っていた。これを多くの家庭でやって貰いたいと思う。今我々は、日本人が営々と気づいてきた読み書きそろばんの術の継承を断ち切られ、精神文化の面でも根なし草にされようとしている。これに抗する為にも、れんだいこ版竹取物語かぐや姫譚をここに公開する。

 (今できたばかりなので推敲が足りない。そのうちサイトアップすることにする。これを下敷きに、みんながみんなのかぐや姫譚を持てば良かろう)

 以来十日ばかり熱中し、とりあえず、これと思う出来栄えのものができた。恐らく川端康成その他諸氏のそれよりデキが良い筈である。様々な個所での従来の誤訳を訂正しておいた。分かる者には分かるだろう。惜しむらくは、これほどの出来栄えだと云うのにさほど注目されないことだろう。しかし、いずれは「れんだいこ訳竹取物語かぐや姫譚」が定番の位置に据わることになるだろう。なぜなら、食べ物と一緒で口が美味しいものに向かうように頭脳も又向かうから。

 2010.03.13日、2010.04.09日再編集 れんだいこ拝


関連サイト 邪馬台国の研究 日本神話考 上古代史研究

目次

原文(漢文)
原文(古文)
竹取物語れんだいこ現代文訳
れんだいこ解説
万葉集第十六巻 有由縁并雜歌
インターネットサイト
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(私論.私見)