田中角栄の妻及び愛人との絆考

 更新日/2018(平成30).6.19日

 (れんだいこのショートメッセージ) 
 ここで、角栄の妻及び愛人との絆について考察しておく。

 2012.10.03日 れんだいこ拝


れんだいこのカンテラ時評bP068 投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年10月 3日
 田中角栄の妻及び愛人との絆考

 一般に、人を評するには、当人が言っていることよりも為していることに注目すべきだろう。しかもそれを凡そ10年ごとのスパンで長期に亘って追跡すれば、自ずとその人の人となりが浮き彫りになって来る。人の言説は平素の饒舌で測るものではない。ここ一番のいざ鎌倉の肝腎の時の言動で捉えるべきである。現代人は、昔の人が持ち合わせていたこういう秤(はかり)を忘れて、平素の無責任な饒舌で善人悪人、敵味方、能力を測ると云う貧困な知性を披歴している。

 れんだいこも含めて或る人を測るには、昔の人の秤で天秤にかけた方が賢明であるように思われる。その上で、貫目を測る為の表ワザ、裏ワザを使うべきである。表ワザとは、対象とする人の本業としての仕事ぶり、その際の能力を観察することである。裏ワザとは、対象とする人の血筋(血統)、妻子関係、愛人関係を観察することである。付録ワザとして気質、人格、学歴、趣味、読書、性癖の傾向等を観察することである。

 以上を前置きとして、ここで、田中角栄の妻及び愛人との絆について考察してみる。興味深い田中角栄の人となりが判明するからである。思いつくままに記すので、正確には今後書き直したり付け加えたりすることにする。只今はスケッチとして書き遺しておく。

 角栄は、1942(昭和17) 年3月3日、24歳の時、家主の娘・坂本はな(八十子、以下「ハナ」と記す)と結婚している。ハナは当時31歳で、角栄より8歳年上であった。且つ離婚歴があり9歳になる女の子を連れ子として云わば出戻りしていた。角栄は、ハナのつつましやかな挙動と、内に秘められた芯の強さに惚れ結婚することになる。このハナが糟糠の妻となる。

 興味深いことは、結婚時、次のような「三つの誓い」をさせられたと伝えられていることである。それは、「一つ、出て行けと云わぬこと。二つ、足蹴にしないこと。三つ、将来、角栄が二重橋を渡るときは彼女を同伴すること。その三つを守ってくださるなら、それ以外のことについては、どんなつらいことにも耐えてついていきます」。この約束が角栄夫婦の契りとなった。

 何気なく見落としてしまうが、「三つの誓い」の中に、「将来、私が二重橋を渡るときは彼女を同伴すること」とあるのをどう理解すべきだろうか。当時、角栄は、飯田橋2丁目にあった建築業者坂本氏の家の一部を借り受け、田中建築事務所を開設して半年足らずの頃である。いくら新進気鋭の建築家として頭角を現しつつあったとしても、その角栄が将来「二重橋を渡る」などと発想すること自体、ハナ以外には誰も予想し得なかったであろう。

 これを逆に云えば、ハナは、8歳年下の角栄に何を認めていたのだろうか。どこにそのような片鱗があったのだろうか。女性の直感が恐ろしいにしても、24歳の建築家の駆け出しを「将来、二重橋を渡る人」と見染めたハナの予知能力は異能過ぎよう。この予知能力が当るのだから歴史は面白過ぎる。

 角栄夫婦の間には、この年の11月、長男・正法が誕生している。1944(昭和19)年、角栄26歳の時、長女真紀子が誕生している。こうして1男1女を授かったが、長男・正法は1947(昭和22)年、5歳で死亡している。この時、角栄は次のように述懐している。

 「その時に俺はしみじみと考えたんだ。妹の時にしろ、長男の時にしろ、後に残った自分が、いつも十分なことをしてやれなかったという悔いを感じた。生きているうちに家族にも、友人にもできるだけのことをしてやりたいという気持ちが一層強くなった。人の為になるように生きたいと思った」(戸川猪佐武「君は田中角栄になれるか」)。

 後に、幹事長時代の年少当選組の小沢一郎を見て正法を彷彿とさせ、以降、手塩にかけて育てたのは有名な話である。他にも当選組はあまたいたが、角栄は小沢一郎に何を見染めたのだろうか。こういうところも興味深い。

 もとへ。角栄は、生涯この「三つの誓い」を守る。但し、気づくことがある。普通の夫婦がする如くの「浮気はしない」なる誓いがないことである。これもハナの凄いところであろう。ハナは、男の浮気については別の物差しを持っていたようである。事実、「三つの誓い」の中に浮気禁止項目がないこともあってか、角栄はこの方面でも約束を守る。それはあたかも男の甲斐性としていた感がある。ちなみに、ハナの連れ子の子育てについても角栄は十分な配慮を見せ隔てなく育て上げている。これについての詳細は略すが、この親ワザもできそうでできないのが世の常であることを考える時、立派と評すべきだろう。

 角栄はその後、ひょんな機縁から政界入りする。建築家としての業績は順風満帆であり、以降暫くの間、二足のわらじを履くことになる。但し、次第に政界で頭角を現し始め、政治家稼業に一本化することになる。党の要職履歴は次の通りである。

 1957年、39歳の時、岸内閣で郵政大臣に就任、戦後最年少大臣となる。1958年、40歳、自民党党紀委員、党新潟県連会長に就任。1959年、41歳、自民党副幹事長に就任。1961年、43歳、池田内閣で自民党政調会長に就任、初の党三役入りする。1962年、44歳、大蔵大臣就任。この時大平が外務大臣となり田中−大平コンビが誕生している。1963年、45歳、大蔵大臣留任。1964年、46歳、佐藤内閣で大蔵大臣留任。1965年、47歳、自民党幹事長(1期目)に就任。1966年、48歳、幹事長留任(2期目)。但し一連の政界黒い霧事件で川島副総裁と共に幹事長を引責辞任する。1967年、49歳、自民党都市政策調査会長に就任。1968年、50歳、自民党米価調査会会長に就任。日本列島改造論の原型である「都市政策大綱」を発表。自民党幹事長に再度就任(3期目)。1970年、52歳、自民党幹事長に留任(4期目)。自民党代表選で佐藤首相が4選され自民党幹事長に留任(5期目)。1971年、53歳、参院選敗北の責任を取り幹事長辞任。通産大臣に就任。1972年、54歳、田中派旗揚げ(衆院40名、参院41名)。「日本列島改造論」を発表。第64代内閣総理大臣に就任。1974年、56歳、2年余886日間の政権の座から降りる。

 この間、角栄は、二人の愛人を囲っている。一人は元神楽坂芸者の辻和子、もう一人は越山会の女王と評された佐藤昭子である。辻和子は、「熱情ー田中角栄をとりこにした芸者」(講談社、2004年)、佐藤昭子は「私の田中角栄日記」(新潮社、1994年)、「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」(経済界、2005年)を著している。それぞれに何人の子がいるかと云う下世話な話しはさておき、注目すべきは、この二人の女性が、著書の題名からも窺えるように終生、田中角栄を支持し抜いて生を全うしたことである。

 この角栄を取り巻いたハナ、辻和子、佐藤昭子の3人は、角栄の権勢絶頂期に奢り昂ぶる訳でもなく、角栄の失意期に手のひらを返す訳でもなく、終生、角栄との絆を大事にした。ロッキード事件以降の角栄バッシングの喧騒下、ハナは妻であるからともかく辻和子、佐藤昭子には相当の圧力が掛かり悪意の利益誘導があったと推定できる。

 しかし見よ。この貴婦人は貴婦人たる誇りをも秘めてやんわりと峻拒し、返す刀で角栄との絆を大事に添い遂げた。こういう場合、この貴婦人が偉いのか、そもそもそういう女性を見染めていた角栄が偉いのか。恐らく双方が偉くて成り立つドラマであろう。くどくど述べないが世の社会事象とは一味違う絆を見る思いがするのは、れんだいこだけだろうか。

 2012.10.3日 れんだいこ拝

 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/

【佐藤昭子の角栄評】
 「田中は自分を頼って来る者に対しては面と向かってダメと言えない。いつも私に向かって愚痴をこぼす。『それなら自分で言えばいいじゃないの』と何回言ったことか。その性格的な弱さが、命取りだったと今にして思う」。(「決定版 私の田中角栄日記」)

【ハナの角栄との絆考】
 2019.5.4日、「執着しない田中角榮が唯一大事にしたモノ」を転載しておく。
 田中角榮元首相は、物を所有することに一切こだわらなかった。だが娘の田中眞紀子氏によれば、唯一、腕時計だけは大切にしていたという。なぜなのか。5月4日の誕生日にちなんで、「角さん」と親しまれた角榮氏のエピソードを紹介しよう――。

 ※本稿は、田中眞紀子『角さんとじゃじゃ馬』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

 ■アメリカ留学する娘に“お守り”の腕時計

 「人の一生は誰にとっても一度しかない。その人生をいかに充実して生きるかは、ひとえに時間の使い方にかかっている」。これが父の口癖であった。時を大切にするとは、とりもなおさず、時間を気にする習慣を身に付けることであり、そのためには時計自体が正確に時を刻むことが、肝心である。以下に記すのは、現代のようにデジタル時計が発達していなかった、一九六〇年代の出来事である。

 私が十代でアメリカへ留学すると決まった時、父は銀座四丁目にある天賞堂という時計専門店へ連れて行って腕時計を買ってくれた。“時を大切にしなさい。時は二度と戻ってはこないからね”という言葉を添えて。店内には掛け時計やきらびやかな品が数多く並んでいたが、父は迷うことなく婦人用腕時計の並ぶショーケースへつかつかと歩み寄って、すぐに品選びを始めた。私が長方形の文字盤を中心に品選びをしていると察した父は“女なんだから丸型にしなさい。女は丸型であるに限る”と妙チクリンなことを言った。ただでさえ反抗心に燃えていた十代の私は、“四角がダメなら三角はどう? ”と聞いたところ、「そんなものは当店にはございません! 」と店員に無下に断られてしまった。父は、“ほらごらん”と言わんばかりに苦笑いをし、丸型で極めて見やすい文字盤の付いた腕時計を購入してくれた。これは一人で海外へ旅立つ娘に対する父からの“お守り”であったらしい。

 ■宝物の時計を探してみるも……

 先だって、ある新聞社の企画で“私の宝物”というタイトルの取材を受けた。私には宝物と呼べるようなものはなく、あえて言えば家族や友人、知人たちとの“思い出”が宝物ですと答えたところ、編集者は何か一生の思い出に残るような品物なら一つくらいあるでしょうと誘い水をかけてくださった。そこで先述の腕時計を探してみたのだが、どこかへしまい込んで見当たらない。また、父が少壮国会議員として、初の欧州視察に出かけた際の母と私へのお土産も、上等な腕時計であった。秘書や事務員へも、それなりのものを持ち帰ってきた。母はその時計を終生大切にしていたが、気まぐれな私はその時の腕時計も行方不明にしてしまった。そもそも、「父のニックネームは“角さん”なのになんで時計だけは“丸さん”なんだ」といつも心中不満タラタラであった。私の胸中を察した時計たちが自らどこかへ身を隠してしまったのかもしれない。

 ところがよくよく考えてみた結果、父と母が臨終の時にはめていた腕時計のことをふと思い出した。

 ■「角さん」が使っていたリューズ式腕時計

 まず父の遺品の腕時計は、もちろん丸型で細い金の縁取りがあり、文字盤も簡潔で見やすく、黒いベルトが付いている。今どきは、決して見かけることのないリューズ(ネジ)式の腕時計で、スイスのPATEK PHILIPPE社製である。国会での本会議や委員会、そして海外での仕事の時も常に身に付けてチラチラと目をやっては、時間の確認をしていた愛用品である。夜、床に入る前には必ずリューズをしっかりと巻いてから身近に置いて休んでいた。リューズ式時計は、日に一回は必ずネジを巻かないと、止まってしまう。このことが基本であった。従って、電池式時計に比べると、数分の誤差が出ることは仕方のないことであった。ある時、私は父の男性用腕時計を自分で使ってみようと思いついた。そこで、都内の有名時計店でベルトを少々派手なものに交換し、機械の修理と分解掃除をお願いすることにした。ところがいずれの店も、このタイプの時計は古すぎて対応不能とのことであった。

 ■刻印のイニシャルは次の世代に引き継がれるように

 そこで私は迷うことなくジュネーブの本社へ直接送付して、修理の依頼をした。時計に限らず、靴やバッグ、帽子に至るまで欧州の超一流と言われる老舗は、数十年あるいはそれ以上も、自社の製品については誇りをもってメンテナンスをしてくれている。自社製品の部品や型をちゃんと保管していて、いつでも古い顧客の要望に対応してくれることは、良い品を末永く大切にするという文化の表れである。日本の大量生産、大量消費そして大量廃棄の対極にあるこうした企業の姿勢は大いに評価したい。約半年後に父の腕時計は立派に修繕されてジュネーブから送り返されてきた。

 その際、時計の裏面に刻印の注文もしておいた。花文字で“K to M”と父と私のイニシャルを刻印してもらったのである。そしてその際に、花文字は裏面の中央ではなく、あえて可能な限り上のほうに刻むようにと注文した。PATEK PHILIPPE社は何故かと問うてきたので、将来、この刻印の下に“M to ○”と加えることで、この時計が次の世代へも大切に引き継がれることを願っていると理由を説明したところ、先方は大層喜んで、きれいな花文字を刻んでくださった。この父の温もりが残る腕時計にはブルーの洒落た新しいベルトを取り付けて、今も時折愛用している。実は、“丸型時計もなかなかいいもんじゃわい”と内心悦に入っている。

 ■所有することにこだわらなかった

 父という人は物の所有には一切こだわらない人であった。信じ難いような実話であるが、我が家の応接間に来られた客人が、壁に掛けてある絵画や骨董品の類に感心してじっと眺めていたり、あるいは口を極めて褒めちぎったりすると「これは君にあげましょう」と言って、母や私に作品の入っていた箱をお蔵から出してくるようにと命じたことが幾度となくあった。母が慌てて、「あれは作家の先生ご本人から頂戴した貴重な品ですよ。本当にいいんですか! 」と小声でささやいても、「いいからすぐにケースを持ってきなさい」と言ってきかない。私がぐちゃぐちゃ言うと、「早くしなさい! 」と客人の前で叱られたことも一度や二度ではない。こうした時には、“いえいえ、お気持ちだけで結構です”とか、“こちらのお宅で拝見させていただいただけで十分です……”と言って、まずは辞退するものと思っていたのだが、そんな人はほとんど皆無であった。

 ■娘の友人男性にも自分の時計をプレゼント

 またある時は、以前から私が好ましく思っていた男性が、大学四年生の時に拙宅へ遊びに見えた。そんな時に父が突然帰って来て、偶然父も彼と話をする機会があった。突然の父の登場に彼はビックリ仰天しつつも就職先が決まったばかりですと緊張した面持ちで、自己紹介を兼ねて話をした。すると、父は即座に「そうか、それはおめでとう! それではこの腕時計を私からの就職祝いとして君にあげよう」と言って、腕にはめていた時計を彼の目の前に差し出した。あまりに唐突な出来事に彼は驚愕し、「結構です。結構です」と後ずさりせんばかりであったが、父は「いいから持っていきなさい。君の新しい人生のスタートだ。就職祝いだ! 」と言い残して、サッサと奥の部屋へ行ってしまった。

 彼はまだ父の体温の残っているその腕時計をテーブルの上に置いたまま、動転した様子でじっと眺めていたが、父と入れ替わりに入ってきた母が、「主人の気持ちですから、受け取ってくださっていいんですよ」と笑顔を浮かべながら言葉を添えた。彼はその言葉にハッと我にかえったような表情をして、深々と頭を下げて大事そうに受け取ってくださった。“ハハーン、我が両親も彼のことを悪からず思ってくれていたんだな”と直感した。今や時も過ぎてお互いに何人かの孫もいる。そんな彼に偶然出会う機会があったのだが、さすがに時計のことは咄嗟に言い出せなかった。あの時の時計の運命や如何に……と思うこともある。

 ■父が大切にしていた、時と生命の鼓動

 母の遺品の腕時計は、当時、俗称で“南京虫”と呼ばれていた超小型で華奢な米国Waltham社(当時)製の品であった。小さなメレダイヤが控えめにちりばめられた直径一・五センチほどのプラチナ製で、落下防止に細い鎖がリング状に付いている。終生和服姿で通した母であったが、おめかしをしてから、最後にあの時計をして外出する姿を、私はいつも心密かに自慢に思っていた。その母も自宅の床で、父の後を追うようにして静かに眠るように旅立ってしまった。母の臨終の時には、その細い腕にはあの時計がしっかりとはめられていた。超小型のこの南京虫時計は、アクセサリーならいざ知らず、ド近眼の私には全く実用性がない。今は、慎ましやかに微笑む着物姿の母の遺影の傍で、二度と時を刻むこともなく眠っている。“チクタクチクタク”という時計の音は、心臓の鼓動に似ている。

 「時を大切にしなさい」
 「生命を大切にしなさい」
 「時は二度と戻ってはこないからね」

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 田中眞紀子(たなか・まきこ)
 元外務大臣
 1944年生まれ。早稲田大学商学部卒。93年衆院選で初当選。94年村山内閣で科学技術庁長官として初入閣。2001年小泉内閣で女性初の外務大臣。著書は『父と私』(B&Tブックス)。





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