角栄を取り巻いた人士たち

 更新日/2016.10.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 角栄は、実業界から政治家へと転身し、いつの間にか類稀なるリーダーとして孵化した。これを史上の人物に当てはめて見れば、戦国武将の豊臣秀吉像的成り上がりとアイディア、織田信長的果断と構想力、徳川家康的信義と組織力を兼ね備えた特筆級の大人物だったと思われる。その欠点を敢えて言えば、突出しすぎていたが故に角栄と伍して肩を組む戦友が少なすぎたことかと思われる。

 こうした特質をもつ角栄は、「情と利」、「抗して和す」の政治を貴重としつつ、持ち前の人間透視術と人心収攬(しゅうらん)能力で、有能の士をひたすら寄せていった。以下がその人士達である。

 太田龍・氏は、著書「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」の中で次のように記している。
 「角栄のもとには、大東亜戦争を戦った旧大日本帝国時代の様々な人材がブレーンとして集められ、1960年代に達成された経済力を母体として、対米(ユダヤ)従属のくびきを断ち切った新たな世界戦略に踏み出す気運が育ってきた。その角栄の外交政策の中軸は、日本(角栄)、韓国(朴正キ)、中国(周恩来)、サウジアラビア(ファイサル国王)の四国同盟ではなかったか」。
 「いつとはなしに、こうした“におい”にひかれて、角栄の周りに戦前・戦時中の国粋派、尊皇派、民族派、反米英派の生き残りの人脈が集まってきたのかも知れない」。
 「ここに仮説をたてうるとすれば、恐らく、戦時中の若手中堅官僚出身の自民党政治家グループに共通する、ある種の日本民族自立志向こそ、角栄が代表したのだ。角栄と大平の友情は、単なる個人的な友情ではなくて、実は、その底流に旧官僚層の対米(ユダヤ)従属を嫌う民族独立意識とろ、角栄の共鳴現象が存在したのではなかったか」。

 2006.3.13日再書き込み れんだいこ拝


【目白邸】
 政界では、派閥の領袖に対し私邸の地名が隠語になって使われている。吉田茂は大磯、池田隼人は信濃町、佐藤栄作は淡島、田中角栄は目白。この地は元々は角栄の故郷である二田村の旧領主・椎谷(しいや)藩堀屋敷跡だった。この目白の田中邸の敷地面積は2575坪(約8500u)、「目白御殿」と呼ばれた。角栄の死去後、60億円以上の相続税が発生し、現金納付困難の為、真紀子夫妻は敷地の一部を物納した為、その部分が目白台運動公園となっている。

【秘書】
 角栄には日本一といわれた「秘書軍団」がいた。最盛時、秘書は千人を超えていた。これを確認する。他の代議士事務所の秘書が比較的よく替わるのに対して、田中の秘書で途中で止めた人はあまりいない。
【1、刎頚の友】
入内島金一 ◎群馬県の出身で、角栄が上京し勤め始めた時の会社の先輩。終生の刎頚の友となった。

【2ー1、初期の秘書】
曳田照治 ◎最初期の有能秘書で、十年余勤めて、軍隊時代のマラリアが再発して病死した。
◎新潟県南魚沼郡塩沢町に生まれ、苦学して愛知の名古屋工大(現在の名大工学部)を卒業。応召。昭和21年、比島戦線より「復員後暫く家でブラブラしていたが、戦友の紹介でたまたま東京の田中土建工業に就職した。で、田中が初めて総選挙に出ることになり、足がかりの全く無かった魚沼地方の拠点づくりに獅子奮迅の働きをしたんだ。南北魚沼の票は、新潟3区全体の4分の1にあたる。のちに、魚沼は田中の『牙城』・『聖地』と云われたが、曳田あっての牙城、聖地だったといってよかったんです。まさに、『曳田なくして田中無し』だった」(越山会古老会員)と云われるほど有能な秘書であった。
◎越山会の査定方式、後に開花する日本列島改造論の原型はこの曳田秘書が下敷きしたとも云われている。恰幅の良い雄弁家であって、「以来、豪雪寒冷地域格差の解消に快刀乱麻を絶つがごとき活躍をなし、為に南北魚沼の公共施設は面目を一新し」と碑に刻まれたように「曳田と田中とどちらが代議士か分からない」と云われるほど陳情の根回し処理も凄腕だったといわれている。

 【2ー2、後の秘書&角栄邸の秘書】
氏名  在職期間、履歴・秘書活動の内容・評価
田中利男 ◎国会法による公設第一秘書。角栄の従兄弟に当る。
榎本敏夫 ◎党の政策担当兼「表金庫番」
◎東京・北区の質屋の息子として生まれ、大正大学文学部哲学科卒後、民主自由
党の職員になる。昭和36年日本電建に総務部長として入社し、40年に田中の秘
書となった。
山田泰司 ◎昭和32年7月、角栄が郵政大臣で初入閣時に曳田秘書の急死の後を継いで秘書官となった。
◎目白邸の大番頭で「江戸家老」的秘書。事業面の管理・事務を担当。
◎天理教信仰者田中金脈として名高くなった新星企業の代表取締役も勤めてい
る。東京文京区の畳職人の家に生まれて、中央大学法科を出た後、田中の妻ハナ
の父親と山田の父親が知り合いだったことから、ハナの父親が経営していた土建業
・坂本組に出入りし、その後ハナが田中と結婚、田中が田中土建工業を経営するに
及んで入社した。田中との付き合いの始まりである。
遠藤昭治 ◎東京・田中邸詰め秘書。新潟県出身で、早稲田大学卒業後、秘書となった。越山会
子弟の就職斡旋担当。
田中勇 ◎元秘書。
高鳥修 ◎元秘書。後に国会議員になる。
石井一 ◎元秘書。初選挙で落選し、浪人中を田中事務所職員として働いている。
鳩山邦夫 ◎元秘書。祖母薫が「ぜひ田中先生の下で」と申し出、東大法学部卒業後、田中事務所
に預けられた。
中村喜四郎 ◎元秘書。母親の登美元参院議員の口利きにより田中事務所に預けられた。

 【2ー2、後の秘書&砂防会館事務所の秘書】  
 金庫番佐藤女子を筆頭に、マスコミ上がりの早坂、麓らが支えていた。
氏名 在職期間、履歴・秘書活動の内容・評価
佐藤昭子 ◎柏崎市の出身。砂防会館の田中事務所の会計担当で、「奥の院金庫番」、「越山
会の女王」と云われた。
◎2010.3.11日、肺がんのため東京都港区内の病院で死去した(享年81歳)。葬
儀は12日、近親者のみで済ませた。喪主は長女敦子(あつこ)さん。 佐藤さんは約
2年前から肺がんを患っており、11日朝、容体が急変した。
早坂茂三 政治担当秘書兼広報担当スポークスマン。東京タイムスの記者をしていたのを
引っこ抜き、私設秘書にした。一時日本電建の子会社の「東京ニューハウス」の常務
へ転出していたが、戻ってきた。
麓(ふもと)邦明 ◎マスコミ担当。共同通信の記者をしていたのを引っこ抜き、私設秘書にした。きめ細かな資料集めが得意だった。

 履歴は、共同通信社政治部出身で、「旧海軍兵学校から東大を出た共同通信でもエリート記者だった」(増山榮太郎「角栄伝説」)。
古藤昇司 ◎田中邸内の山田と並ぶもう一人の選挙区担当秘書。
朝賀昭 ◎中央大学卒業後すぐに秘書になり23年間仕える。正式に秘書になったのは1966年。2013.12月、「角栄のお庭番 朝賀昭」を出版。
工藤節子 ◎国会法による第二秘書。
中村喜四郎

【3、官庁派遣秘書官、官僚引き抜き秘書】
 当時、首相になると、大蔵省、外務省、警察庁から一人ずつ秘書官が派遣された。角栄は、加えて新たに通産省から小長氏を抜擢し首相秘書官にした。大蔵省は吉本宏、外務省は木内信胤、警察庁は杉原正が派遣された。
小長啓一 通産大臣の時からの秘書官。通産官僚(後に次官)→アラビア石油社長。

【選挙区長岡の越後交通内事務所の秘書】
氏名 在職期間  履歴・秘書活動の内容・評価
本間幸一 ◎新潟の地元担当の「国家老」的秘書。戦後第一回の総選挙から、田中角栄地元秘書。「国家老」と呼ばれる。越後交通取締役。月刊「越山」の編集。
◎佐藤昭子と同じく柏崎市の出身。地元の柏崎商業学校を卒業し、東北電力の前身である北陸水力電気会社に就職し、その後新潟鉄工に勤務。新潟鉄工時代に労働組合運動に精を出す左翼闘士となった。知人(佐藤昭子の夫となったばかりの頃)の紹介から角栄の最初の選挙を手伝い、以降田中土建工業の社員になる。
◎田中にマイナスになることは絶対しない、逆に、プラスになると思ったことは、仮に本人がなんといっても実行し、田中とであって引退までの44年間を黒子に徹して粉骨砕身した。

 2011.5.30日、新潟の地元の筆頭秘書で国家老と呼ばれた本間幸一氏が鬱血性心不全のため死去(享年88歳)。


【4、書生】
桜井新  早稲田大学理工学部在学中から、書生として務めていた。やがて、南魚沼郡の六日町で土建業を経営、一方で県会議員となり、「越山会」の青年部長としても活躍。昭和55年の衆参同日選挙で、田中と同じ選挙区の新潟3区から立候補して話題を呼んだ。
小谷(兄)  角栄のいとこの子。日大経済学部
小谷(弟)  日大経済学部
樺沢  角栄の縁戚に当る。
城谷  新潟県の柏崎高校出身で、明治大学政経学部。
片岡憲男

【5、官僚】
 「角栄は、システムとしても思考形態としても日本人の骨がらみになっている官僚主義と官僚制度を相手に、あるときは彼らを敵に回し、あるときは逆手にとり、またあるときには彼らを丸ごと味方につけ、驚くべき多くの政治的業績をあげた」(新野哲也「だれが角栄を殺したのか」83P)。
井上孝 議員立法時代 建設官僚
高橋国一郎 建設事務次官
下河辺淳 議員立法時代 経済企画庁(後に次長)→国土事務次官、国土審議会会長
小野吉郎 郵政大臣時代 郵政事務次官
西村尚治 郵政官僚
長田裕二 郵政官僚
山下元利 大蔵省主税局
林義郎
大村襄治
両角良彦 通産次官
小長啓一 通産官僚(後に次官)→アラビア石油社長
後藤田正晴 警察官僚、後副総理
秦野章 警察官僚

【6、弁護士】
原長栄

弁護士。新潟地検の検事の時に田中と知り合い、田中が通産大臣の時に検事を辞めて越山会の会長になった。ロッキード事件の時に弁護団長を引き受け、弁護団を選定した。


【7―1、政治家その1】
 「田中派の流れ、『七日会」に記す。

 その殆どが党人派である。これを確認するのに、元帥/木村武雄。仲介役/西村英一、橋本登美三郎。腹心組/二階堂進、小沢辰男、久野忠治。政策面/愛知揆一、木村俊夫。花形スカウト組/江崎真澄、小坂徳三郎。官僚抜擢組/後藤田正晴。後継プリンス/山下元利。将来の後継者/小沢一郎が傑出している。

 田原総一朗氏は「日本の政治」(講談社)の中で次のように記している。

 「田中政治は角栄が首相に就任して以来、30年も、この国を完全に仕切り、生き続けているわけだ。あらためて、田中派出身の主な実力者たちを並べると、二階堂進、竹下登、金丸信、梶山静六、小沢一朗、羽田孜、渡部恒三、奥田敬和、橋本龍太郎、小渕恵三、野中公務、青木幹雄、綿貫民輔など、興味深いことに旧帝大卒、官僚経験者は一人もいない。田中角栄は、文字通り旧帝大卒が牛耳っていた田中以前の政治構造を叩きつぶしたことがわかる」。
新潟県 小沢辰男 新潟1区の衆院議員
渡辺紘三 新潟2区の衆院議員
高島修 新潟3.4区の衆院議員
系列県議
古参員 西村英一
橋本登美三郎
早稲田大学政経学部。雄弁会。朝日新聞社入社。南京に日本軍が入場した際、記者15人ほどを引き連れて一番乗りした(南京事件については、疑問視している証言をしている)。茨城1区の衆院議員。第一次池田勇人内閣の建設大臣として初入閣。「佐藤派五奉行」の一翼を占め内閣官房長官、建設大臣、運輸大臣、自民党総務会長を歴任する。角福戦争では田中角栄を擁立し、田中内閣で自民党幹事長に就任。二階堂進と交代する。 1976年8月21日、ロッキード事件丸紅ルートで運輸大臣在任中に500万円を受け取ったとされ東京地検特捜部に受託収賄容疑で逮捕される。判決を受けて控訴。平成元年(1989年)1月19日、死去(享年88歳)。
木村武雄 元建設相木村元帥と言われた。
二階堂進 木曜クラブ会長、副総裁
久野忠治
植木庚子郎
愛知揆一
足立篤郎
原田憲
亀岡高夫
前田正雄
獅子身中の虫組 金丸信
竹下登
橋本龍太郎
小渕恵三
転籍組 江崎真澄 木曜クラブ副会長
田村元
小坂徳三郎
官僚転進組 後藤田正晴
山下元利 東大法学部卒後、大蔵省入り。鳩山首相の秘書官を勤めていた。角栄の大蔵大臣時代に、山下は主税局税制第一課長で面識となった。後に、西部の堤康次郎の後継者として滋賀県から出馬し、昭和42.1月に当選。田中派に躊躇無く入った。
林義郎
大村襄治

【7―2、政治家その2、44年当選組の角栄チルドレン】
 1969.12.27日、第32回衆院総選挙(師走選挙、佐藤首相、田中角栄幹事長)。沖縄返還の信を問う選挙となった。田中幹事長の采配で自民党が303議席(自民党288、無所属12)(←272)の大勝。これは、原敬政友会以来の絶対多数であった。社会党は44議席失い90議席(←134)に転落、公明党47名、民社党31名、共産党14名、無所属16名。田中角栄は10期目当選、13万3042票。

 この時、羽田孜・小沢一郎・梶山静六・奥田敬和・高島修・佐藤恵・石井一、斎藤滋与史、小坂徳三郎、綿貫民輔、中山利生、佐藤守義、林義郎、稲村利幸、野中英二、有馬元治らが初当選している。渡部恒三は追加公認。これらの新人組が当然の如く田中入りして「44年組」と云われる軍団になった。浜田幸一もこの時の当選組み。森喜郎もこの時の初当選で追加公認されたが、福田派に入っている。佐藤派は59名と膨張し、参院の46名を加えると、史上空前の105名となった。

 佐藤派は、福田−保利ラインと田中−川島コンビとに分かれつつあった。

 「70年安保・沖縄闘争」を目前にした69年の総選挙で、社会党は前回(67年)の140議席から一挙に50議席を失う惨敗を喫し、以降、70年代から80年代前半を通じて110議席前後の低迷を続けることになった。社会党は組合の機関決定による締め付けで総評系労組を自己の世襲領地とみなしてきたが、社会党の衰退は総評の似非急進的な組合運動が同盟・JCのブルジョア的労働運動に敗北し、後退していく過程と軌を一にしていた(社労党「日本社会主義運動史」)。

羽田孜 後首相
小沢一郎
梶山静六
渡部恒三 福島2区。父は福島県の県会議員。早稲田の雄弁会に所属し、26歳で県会議員。
奥田敬和
高島修
佐藤恵
石井一
綿貫民輔
斎藤滋与史
中山利生
佐藤守義
稲村利幸
野中英二
有馬元治
浜田幸一

【7―3、政治家その3、】

【8、財界・政商】
理研の創業者。
政商 五島慶太 東急の創業者。
小佐野賢治 刎頚の友。
田中清玄
財界 中山素平 日本興業銀行相談役。「財界の鞍馬天狗」の異名を持つ。
今里広記 日本精工会長。資源外交に同行する。
藤井丙午
市村清 リコー・三愛グループ創業者
岡田 三越
西武
江戸英雄 三井不動産相談役
 当時の財界四天王−小林中・アラビア石油会長、永野重雄・日本商工会議所会頭、桜田武、水野成夫。このうち、永野は角栄を評価し、桜田は嫌った風がある。稲山嘉寛・新日鉄会長。

 田中系は中山素平、今里広記の資源派。他には土光敏夫・東芝会長、平岩外四らが高く評価していた。西武鉄道グループの総裁・堤義明は可愛がられた方であり、堤も評価していた。

 石坂泰三、桜田武、植村甲午郎、木川田一隆(東電社長→会長、経済同友会代表幹事)らは嫌った風がある。
新興企業

【藤井丙午と田中角栄先生の思い出】
 仮題「藤井孝男の国を動かした人々、一期一会、藤井丙午と田中角栄先生の思い出」を転載しておく。
2006年4月・7月 〜国を動かした人々〜  広報誌すくらむより 
 故田中角栄元総理と私の父故藤井丙午は本当に親しい間柄でありました。「財界の政治部長」と呼ばれた父と田中角栄先生の関係がいつから生じたのか、今となっては知るよしもありませんが、生前父が「多くの政治家とつきあいはあるが、尊敬できる人物は2〜3人しかいない」と言っていた中のお一人でありました。
 
 昭和49年に父は、当時総理であった田中先生から強く進められ、参議院選挙に岐阜地方区から出馬し政界に入りました。私は昭和52年にサラリーマンをやめ父の秘書になり政治の世界に入ってきたのでありますが、当時、父が田中先生にお会いする席によく陪席させていただきましたが、田中先生はざっくばらんな楽しい方で、また様々なことを知悉しておられ実に勉強になりました。

 残念なことに父は2度目の当選の半年後に病に倒れ他界いたしましたが、通夜の席にこられた田中先生は他の会葬者が帰られた後もじっと霊前に頭を垂れておられました。父の葬儀の後、参議院議員の補欠選挙をどうするかという問題に直面し、自民党岐阜県連も含め大いに揉めたわけでありますが、このとき私は目白の田中邸に呼ばれまして、「藤井君、自民党の岐阜県連が推薦してきたものを公認とするんだよ。大変厳しい状況だけれども、君はお父さんのために一所懸命尽くしてきて県会議員も地元の皆さんも君に好感を持っている。一人でも多くの皆さん方に君の気持ちを伝えてこい。そうしたらきっとよい結果が出るだろう」と励ましを受けました。紆余曲折の後、最終的に私が公認候補となって初陣を飾ることができましたが、思えば田中先生の陰に陽にのお支えがあったことは間違いありません。

 補選に当選後、最初にぶつかったのはどこの派閥に所属するかという問題でありました。私自身は、いささかの迷いもなく田中角栄先生の門をたたいたのですが、当時、田中先生はロッキード事件で刑事被告人となっていました。最近になって田中角栄無罪論もでてきていますが、そのときは金権腐敗の象徴のように言われ、私の後援者の中にも「田中派に入るのは好ましくない」雰囲気がありました。

 そこで一計を案じ、「地元の皆さんは、マスコミで報じられる田中先生の姿しか知らない。直接会えば、田中先生の人柄や、父藤井丙午との因縁もきっとわかってもらえる」と思い、バス数台をチャーターして私の後援会幹部を目白の田中邸に案内しました。田中先生は多忙を極める毎日でありましたが、当日、田中先生は背広に下駄といういつものいでたちで私たちを出迎え、そして中庭でミカン箱のようなもので作られた演台に立ち、「や〜、よう来たな」とあの名調子で私の後援者に向かって蕩々と、亡き父藤井丙午との思い出話に始まり、岐阜県の抱える課題や、政治の問題、そして私に対する期待感というものを1時間近くにわたって力強く語っていただきました。特に岐阜県に関することは、よくぞそこまで知っていると思うほど、緻密で詳細なお話で、皆一様に度肝を抜かれたといった様子で、田中先生の家を辞し、バスに乗ったとたん、帰りの道のりは皆が田中先生の話題で持ちきりになり、「いや、驚いた」「田中先生はすばらしい方だ」「藤井さんが田中派に入ろうという理由がよくわかった」と口々にご賛同を頂き、ほっとすると同時に、私自身田中先生の懐の深さ、政治家としてのスケールの大きさというものを改めて痛感したことを思い出します。

 昭和60年2月7日、小沢一郎先生や渡部恒三先生等が中心となって故竹下登先生を次の総理にしようという勉強会「創世会」を旗揚げし、私も参議院から参加いたしました。そのときに「藤井孝男、おまえはお世話になった田中角栄先生を裏切るのか」という厳しい声もありましたが、私は裏切るとかいうのではなく将来の総理候補として竹下先生を支えていこうということで参加いたしました。当時田中派のお家騒動と言われましたが、その折田中角栄先生の事務所から「おやじが参議院の若手に会いたい」と言っているという話が来ました。われわれは「怒られるのかな」と躊躇もしましたが、結局私と竹山裕先生、それから引退された松岡満寿男先生の3人が2月27日の朝8時に目白の田中邸をお尋ねいたしました。ちょっと待たされまして8時半頃応接でお会いいたしましたが、田中先生はすこし顔色が悪いなという印象がありました。そして番茶かウーロン茶が入ったコップを片手に、たばこをスパスパと吸いながら、いつもの口調で若手の政治家はいかにあるべきか、その心構えなどを蕩々と語られました。われわれは怒られるんじゃないかという不安の中でお伺いしたわけですが、逆に励まされるような話を1時間半ぐらい、次のお客さんは東京都の副知事さんだったと記憶しますが、秘書の方が時間ですというまでお話をうかがって、しかも次の方が待っているのに玄関まで見送っていただき「若手ががんばらなきゃいかんぞ」と励まされ、恐縮しながら田中邸を後にしました。

 そしてその日の午後でした。田中先生が脳梗塞で倒れられたのは。聞くところによれば、最後に会った国会議員が私たちだったということです。非常にショックでした。われわれがストレスを与えてしまったのではという思いに苛まれました。幸い一命は取り留められましたが、その後一度もお目にかかることなく田中先生は平成10年12月16日に他界されました。

 田中先生は政治家として、厳しくも温かいその人柄、決断力と行動力は卓越したものがありました。田中先生に対する評価は様々なものがございますが、歴史の中で必ずやその功績が正しく評価されるときが来ることを信じてやみません。

【田中シンパ財界人】

 新総合政策研究会会員

中山一郎 日本軽金属相談役
渥美健夫 鹿島建設社長
石田正美 出光興産会長
稲井好広 三菱金属社長
尾本信平 三井金属鉱業社長
菊地庄次郎 日本郵船社長
北裏喜一郎 野村證券社長
久保富夫 三菱自工社長
田口連三 石川島播磨重工会長
中山善郎 大協石油社長
永山時雄 昭和石油社長
西村恒三郎 住友重工社長
長谷部照正 日興リサーチ社長
馬場崎哲 三菱電機取締役
藤田一暁 フジタ工業社長
安居喜造 東レ会長
山形栄治 新日鉄取締役

【田中反目財界人】

【9、マスコミ】

 戸川猪佐武 長年読売新聞政治部記者。「小説吉田学校」で、政界万華鏡の史的世界を描いた。

 松崎稔 元共同通信社専務理事 「田中が成し遂げた日中国交正常化は、冷戦下日米中の二等辺三角形を作り上げ、アジアに平和と安定をもたらした。他に比べようがない平和への貢献である。政治家・田中角栄は必ず見直される時が来る」。

【10、芸能人】

 美空ひばりと誼を得て、昭和43年12.11−12日、新潟県長岡市の厚生会館で「美空ひばりショー」を開催している。「ひばりさんなら、当然ここは数百万円は覚悟のところ、ところが、当時まだお元気だったひばりさんのお母さんがキッパリとおっしやられたんですね。『一銭もいりません。但し、弟に30万か50万もやってください。おカネを使う子ですから』と。結局、ひばりさん自身はノーギャラで出てくださった」(本間幸一秘書)。


【11、カメラマン】

 山本こう一
 1943年、香川県生まれ。日大芸術学部卒。報道写真家として1983.初頭から1985.2月、角栄が倒れるまでの3年間密着。1985.1月、写真集「田中角栄全記録」(集栄社)から出版。





(私論.私見)