ロッキード事件の概要4(角栄保釈後)

 更新日/2018(平成30).6.19日

【1976(昭和51)年】

【「挙党協」の結成】

 8.19日、福田、大平、田中、椎名、船田、永田の6派閥からなる「挙党態勢確立協議会」(挙党協)が結成され、衆参両院議員393名の7割強が結集した。三木内閣の閣僚20名のうち15名が参加していた。三木首相は自民党内で孤立したが、メディアの支援を受け、辞任を拒否し続けた。


【「疑惑の灰色高官」のうち佐藤、橋本が逮捕される】
 「挙党協」が結成されたタイミングに合わせて、二階堂や橋本らの「灰色高官6名」が取沙汰され始めた。「挙党協」は、8.24日の両院議員総会に向けて、反三木攻勢が盛り上げようとしていた。

 8.20日、「疑惑の政府高官」の一人であった元運輸政務次官・佐藤孝行氏が200万円の受託収賄罪容疑で東京地検に逮捕され、東京拘置所へ入った。佐藤氏は中曽根派内で最も田中派に近く、総裁公選の時も親田中で活躍した経歴を持つ。

 8.21日、同じく元運輸大臣・橋本登美三郎が逮捕された。この時橋本は76歳。

 9.10日、東京地検が、橋本元運輸相、佐藤下運輸政務次官を受託収賄罪で起訴する。

【「稲葉法相の政治主義的はしゃぎ」考】
 8.23日、稲葉法相が、「灰色高官のトップは二階堂だ」とリークしている。田中派の指揮官として取りまとめに奔走している二階堂の失脚を狙った悪質な手法であった。この厳正であるべき法相の一連の政治主義的な動きがロッキード事件の胡散臭さ第21弾である。

【「船田中発言が批判される」】
 8.24日、衆参両院議員総会が開かれ、元衆院議長の船田中氏が「ロッキード事件の解明には政治的配慮を」と演説した。主旨は次のようなものであった。
 概要「ロッキード事件から7ヶ月たつが、ロッキードで明け暮れている国は、先進工業国にはどこにもない。事件解明の必要は認めるし、三木内閣がやったことには反対しないが、日本人は目先にとらわれ、大局を見失うことがある。今日の情勢は、まさにその通りだ。ワイマール憲法下のドイツの混乱に似たものが、日本に起きている」。
 「事件解明は、勿論今後も続ける。しかし、やり方は、よほど政治的考慮の下に進め、国民の納得する程度で結末をつける必要が有る。解明ばかり便々と続け『ロッキードが全部』という態度は、憂慮に堪えない」。

 この「船田中発言」は、三木陣営と野党、マスコミ世論の一斉にブーイングにより掻き消された。

【「マスコミ各社の灰色高官報道の御用性報道」】
 8.26日、朝刊各紙が、二階堂進、佐々木英世、福永一臣、加藤六月の4議員を、ロッキード資金を受け取った「灰色高官」として一面トップの大見出しで報道した。しかし、奇怪なことに又もやこれは誤報であった。この時点ではこれら4議員の取調べが為されていないことが今日明らかにされている。にも関わらず名前がデカデカとマスコミ報道されたことになる。つまり、マスコミの悪意あるミスリードとして銘記されねばならないが、一体全体マスコミの「不偏不党性」とはいかなるものなのであろうか。この経過も又、マスコミの中立性なるものが、ここ一番になると如何に政治主義的にかなぐり捨てられるのかを語って余りあるであろう。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第22弾である。

 ちなみに、二階堂氏は「天地神明に誓って事実無根」と反論している。
(私論.私見) 「疑惑の灰色高官騒動」について
 佐藤、橋本の逮捕は反三木攻勢の出鼻をくじくという政治的役割を担った。してみれば、「灰色高官」は極めて政治的な動きであったことになる。

【高瀬検事正の「誤報責任談話」】
 新聞各社は「誤報責任」を問われることになった。地検担当記者クラブと高瀬、豊島らと折衝が続き、紛糾した末、高瀬検事正の次のような「誤報責任談話」が発表された。
 「30ユニット領収証りの関係者については、近々事情聴取したいと考えている。なお、本日(26日)報道された4氏からは、これまでに事情聴取した事実はない。そうではあるが、本日の報道について、当庁関係者の発言内容がそのヒントになったとすれば、その表現などに若干適切を欠くものがあったとも考えられ、残念に思っている」。

【「中曽根幹事長の証人喚問」の動き】
 8.21日、佐藤氏の逮捕は、派閥の長である中曽根疑惑へと発展していった。朝日新聞が「コーチャン回想」を元に疑惑を報じた。中曽根は、「ロ社の為に工作した覚えは無い」と強く否定し、「コーチャンの目の前で児玉が中曽根に電話した云々というのは、児玉が私の名前を利用して一芝居打ったのではないか」と開き直った。

 8.26日、衆議院ロッキード問題に関する調査特別委員会で、社、共、公、民による田中前首相と中曽根幹事長の証人喚問動議が提出され、否決されている。

 9.3日、保釈後の角栄を訪問したNHK会長・小野吉郎が辞任。(9.21日、坂本朝一福会長が昇格就任)


 9.8日、クラッター、エリオットの嘱託尋問がロサンゼルス地裁で再開される。9.22日、クラッター氏から対日工作資金を記入した秘密帳簿が提出される。


 9.13日、米国多国籍企業小委で、グラマン社の売り込み工作が明るみに出る。


 9.15日、三木改造内閣が発足。自民党新三役は、内田恒雄幹事長、松野頼三総務会長、桜内義雄政調会長)の布陣。


 9.28日、児玉秘書の太刀川氏が保釈される。


 10.12日、宇都宮徳馬代議士が、ロ事件での自民党執行部の対応を不満として、議員辞職願を提出し離党する。


【「角栄の弁明と決意」】

 10.20日、角栄が、越山会の機関紙「月刊越山」紙上に、「私のとるべき道」と題した所信を発表。1・ロッキード社から政治献金は全く受けていない、2・ロッキード社とは、通産大臣当時の表敬訪問一回以外、一切接触も無い等々と述べており、逮捕容疑を全面的に否定している。

 この頃、角栄は佐藤昭に次のように言ったと伝えられている。

 「俺は絶対にこの汚名をそそいでやる。百年戦争になっても構わない」。

前殖産住宅前会長東郷が、中曽根と児玉の親密な関係を暴露する
 10.21日、前殖産住宅前会長東郷が、児玉の秘書太刀川に対する強要罪容疑事件の公判廷で、「赤坂の千代新で初めて児玉と会った時、自民党の中曽根康弘代議士も同席した」と述べ、中曽根幹事長と児玉の親密な関係を爆弾証言した。東郷と中曽根は旧制静岡高校、東大を通じての友人であり、その後も親交を続けていたが、この頃既に東郷は中曽根に裏切られ決別していた。

 中曽根は、ロ事件が勃発して以来、児玉との深い関係を否定し続けてきていたが、こたびの東郷発言が、その嘘を暴いた事になる。中曽根は、東郷証言に対して、「千代新で別の会合が有り、帰り際にちょっと顔を出したかもしれない」と弁明した。

【「鬼頭判事補事件」】
 この頃、「鬼頭判事補事件」が発生している。鬼頭判事補が、何を目的に画策したのか全貌が明らかにされていない。これは、ロッキード事件の胡散臭さ第23弾である。

 10.22日、読売新聞が、京都地裁の鬼頭史郎判事補が、8.4日、布施検事総長の名を騙って三木首相に電話をかけ、三木首相は気づかず応答し続け「中曽根幹事長逮捕に対する指揮権発動を要請する」という事件を引き起こし、、この時の会話の録音テープを報道関係者に公開するという珍妙な謀略事件をスクープした。一般解説では「ロッキード事件捜査に関する指揮権発動を求め、三木の事件への政治介入の言質を聞き出そうとした」とされているが、これでは何のことか分からない。会話の中身が公開されていないので真相が掴めない。

 鬼頭は、報道関係者に対し取材源秘匿という職業倫理を盾に自分の名前を出さないように要求したが、報道関係者は布施を名乗る人物の声が鬼頭に酷似していたため、検事総長を騙った鬼頭自身が電話した謀略事件であることを突き止め、取材源を秘匿にしたまま報道することは謀略事件に加担することになるとして、取材源が鬼頭であることを公開した上で謀略事件として報道した。報道によって鬼頭は謀略事件の主役として世間に晒されることになった。

 10.23日、最高裁事務総局が、鬼頭判事補から事情聴取。同判事補は、記者会見して「電話の主は別人」と主張。

 10.25日、最高裁裁判会議、ニセ電話事件の想起解明を確認。東京地検が、ニセ電話事件を「官名詐称」の軽犯罪法違反容疑で捜査開始。
 10.26日、参院ロッキード特別委が、鬼頭判事補の証人喚問を決定。

 10.27日、参院ロッキード特別委事務局が、東京都内のホテルで、同判事補に出頭要求書を手渡す。同判事補は、心身疲労を理由に出頭できないとの上申書を渡す。

 11.12日、鬼頭は参議院で証人喚問されるも、刑事訴追のおそれを理由として宣誓を拒絶する。

 1977.2.2日、鬼頭は、議院証言法違反で告発され裁判官弾劾裁判所(裁判長・荒船 清十郎)に訴追される。3.21日、不起訴処分となる。

 3.23日、、弾劾裁判所が、鬼頭本人が出席しないまま罷免判決を下す。これにより法曹資格を失う。鬼頭はこの事件で官職詐称の罪で起訴もされ、拘留29日の有罪判決を受ける。

 6月、鬼頭は、第111回参議院議員通常選挙に全国区から出馬したが落選。街頭演説の際、聴衆の一人から暴行を受けた。

 1979年、映画「白昼の死角」(監督村上透)に弁護士役で出演し話題を呼ぶ。

 1984年、鬼頭は、法曹資格回復裁判を弾劾裁判所に請求。1985年、鬼頭は、法曹資格を回復する。  複数の弁護士会に対して弁護士登録を申請したが、入会を拒絶される。(未だ登録されていない)鬼頭は、弁護士登録を認めなかった日本弁護士連合会(日弁連)の裁決を取り消すよう訴訟を起こす。


 2004.6月、鬼頭は、古屋弁護士会(後の愛知県弁護士会)に4回目の登録を申請したが、拒否された。審査請求を受けた日弁連は、「弁護士会の信用を害するおそれがある」と退けた。鬼頭は他にも日本弁理士会への登録申請を巡る記事でプライバシーを侵害されたとして、産経新聞社に400万円の損害賠償を求めた訴訟を起こしたが、1・2審とも敗訴した。

 2005.6.25日、1審の東京高裁判決で、房村精一裁判長は、「原告による刑事事件が、風化したとは認められない」と述べ、請求を棄却した。更に鬼頭に対し「政治問題への執着など、従来から指摘された思考や行動様式を保持しており、変化は認められない」とも判示した。鬼頭は同様の訴訟を3回起こし、いずれも敗訴している。


 「ウィキペディア鬼頭史郎の経歴」は次のように記している。

 名古屋市港区出身。愛知県立松蔭高等学校を経て法政大学法学部に進学し、在学中に草葉隆円厚生大臣の私設秘書から厚生省職員を務めた。1958年に卒業した後、1960年に法政大学大学院修士課程を修了。一旦厚生省を退職し名古屋市役所に入庁するも、慶應義塾大学大学院博士課程に進学。1964年に司法試験に合格して、1967年に名古屋地方裁判所判事補に任官。以降、東京・鹿児島・京都各地方裁判所を転任する。

 司法修習生時代から青年法律家協会を攻撃するなど保守的な言動が知られ、京都地裁在任中に宮本顕治(日本共産党書記長)の身分帳を網走刑務所で閲覧、コピーを自由民主党の有力派閥の許へ持ち込んたことが発覚。公務員職権濫用罪で起訴され有罪判決を受ける。裁判官弾劾裁判所の裁判でその追及が行われている最中の1976年8月4日に鬼頭史郎謀略電話事件を起こしたとされる。

(私論.私見) 「鬼頭判事補事件」について
 この事件も胡散臭い。だいたい、現役の司法職にある者が、「布施検事総長の名を騙って三木首相に電話をかけ続け、三木首相が長時間話しこんだ」という。しかも、角栄の時には逆指揮権を発動した三木政権が、窮地に陥った中曽根幹事長救済の為に指揮権発動するという件に関して話し込んでいたという。これはスキャンダルであろう。このスキャンダルがさほど追求されないまま有耶無耶にされたが、当時のマスコミ人の見識が疑われよう。

 10.31日、ロ事件を指揮した検察首脳の一人、最高検次長検事・高橋正八が定年退官した。
 11.2日、東京地検検事正・高瀬礼二が、福岡高検検事長に発令された。高瀬は、餞別の場で、記者に次の言葉を残している。「僕がね、捜査の始まった頃、終わるのはセミが鳴く頃かも知れない、といいましたね。あれは、来年のセミかも知れませんよ」。


【総選挙告示、田中角栄、橋本登美三郎、佐藤孝行が無所属で立候補する】
 11.2日、衆議院ロッキード事件問題特別委秘密会で、田中伊佐次委員長の指示を受けて、法務省掲示局長が「5名の灰色高官」の氏名を明らかにした。田中派の田中角栄100万円、元官房長官・二階堂進500万円、元運輸相・佐々木秀世300万円、自民党航空対策特別委員長・福永一臣300万円、元運輸政務次官・加藤睦月200万円。

 11.4日、「灰色高官」として名指しされた5名の弁明機会がもたれ、いずれも「事実無根」、「やましいところはない」と釈明した。二階堂は「三木首相の政治的意図」と反発、福永は「政治献金として届けてある。毒饅頭だった。我々5人は犠牲の羊」と反駁した。

【総選挙告示、田中角栄、橋本登美三郎、佐藤孝行が無所属で立候補する】
 11.15日、総選挙が公示された。田中角栄、橋本登美三郎、佐藤孝行は無所属で立候補した。

【「ロッキード選挙」】
 12.5日、第34回総選挙(いわゆるロッキード選挙・田中角栄逮捕後初の総選挙)が行われた。角栄人気は衰えず、16万8522票という高得票で当選している。田中派の議員達は、世論の集中砲火を浴び、苦戦を強いられた。結局4名減らした。自民党は前回比22議席減の249議席で結党以来初めて過半数を割った。

【「三木内閣退陣、福田内閣の誕生」】
 12.7日、遮二無二「三木降し」に抵抗してきた三木内閣も選挙大敗で命運尽き総辞職させられている。

 12.23日、福田(71歳)が総裁に指名され、12.24日、国会で選出され、福田内閣発足。衆院での首相指名選挙では、過半数ギリギリの256票しか獲得していない。

 翌1.20日、米大統領にカーターが就任している。

【1977(昭和52)年】

【「ロッキード公判」始まる】
 その経緯は、「ロッキード裁判の経過」に記す。

 1.21日、小佐野賢治・国際興業社主を偽証で起訴。児玉誉士夫を脱税、外為法違反で起訴。

【その①、丸紅ルート公判始まる】
 1977(昭和52).1.27日、ロッキード事件丸紅ルート初公判が始まった岡田光了裁判長の指揮の下で東京地裁7階の701号室(地裁では一番大きい法廷)と定まった。以降公判は毎週1回開かれ、回数にして191回、「公判三千日」を重ねていくことになる。この異例の裁判の長期化がこの後悪弊として先例となり、今日まで続いている。この異常な裁判の長期化が、ロッキード事件の胡散臭さ第24弾である。

 
主任検事・吉永祐介、被告席には裁判長席に近い順から田中・榎本・檜山・伊藤・大久保が並んだ。
検察側の冒頭陳述で幕を開けた。田中角栄は受託収賄罪及び外為法違反で、榎本敏夫は外為法違反で、檜山広・大久保利春・伊藤宏らは贈賄、外為法違反、議院証言法違反で起訴されていた。

 人定質問の後、田中前首相は次のように述べ、容疑を全面否認した。(「田中、榎本は5億円の受領を否認」)
 概要「外為法違反について、この事件について、私は何の関わりもありません。ロッキード社から、いかなる名目にせよ、現金5億円を受領したことはありません。受託収賄について、この事件についても、私は何の関わりもありません。このような犯罪の容疑を受けたことは全く心外でなりません」。
 概要「かりそめにも前総理が、このような罪名で逮捕、起訴されたことは空前絶後である。痛恨の極みであります。一国の総理が外国からカネを貰うことがあり得るか。この事実だけははっきりしておかないと、日本の総理大臣、ひいては日本国の権威に関わる」。
 「私の違法な行為が無かったことを裁判所の法廷を通じて証明することによって、新憲法における内閣総理大臣の名誉と権威を守り通さねばならない。それが新憲法下における民主主義的治政の常道であるし、私の公人としての責任であることの確信を抱くに至りました」。

 つまり、事実無根を主張し真っ向から闘っていくこと、徹底抗戦の姿勢を明確にして陳述した。

 小室直樹氏は、著作「田中角栄の遺言」において、「角栄裁判は、日本人における裁判観を、あますことなく露呈してくれた。その意味で、この上なく貴重である」と書いている。その趣旨は、戦後旧刑事訴訟法が書き改められ、近代的デモクラシー原理が取り入れられたにも関わらず、法の番人の世界の人心変わらず、相変わらず「お白洲裁き」の旧態依然が罷り通っているという告発である。小室氏の指摘する様を追っていきたい。

【マスコミ報道の煽り暴走】

 この間のマスコミ報道は、田中有罪色を濃くした客観性・公平性を欠くキャンペーン報道に終始した。かって、数々の冤罪事件を取り上げ、検察-判事連合の非を咎めてきたマスコミが、一転して「クロ側」に立って有罪認定を煽り続けたという不名誉な醜態を晒しつづけた。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第25弾である。こころなしか、この頃よりマスコミの冤罪事件に対する肩入れが弱くなってきており、今日までその後遺症を引きずり続けている。

 丁度この私のこの見解と反する立場から、陣内建著「田中角栄破れたり」がある。陣内建氏とはどういう人物であるのか、その後の動きが分からない。「田中角栄破れたり」を見ると病膏肓とでも云うべき論調であり、次のように述べている。

 「『戦後最大の疑獄事件』と呼ばれるに至ったこの裁判で、何がどこまで裁かれるのか、という疑問である。検察捜査から裁判の審理内容まで、全てが細かく報道されてきたかに見える。だが、その実、光の届かぬ暗部に『裁かれざる氷山』が潜んでいるのではないか。私の本能がそう警鐘を鳴らし続けて来た」。

 これでも足らぬもっと詮索せよとばかりの見解を表明している。こうなると漬ける薬が無いというべきだろう。

 政治評論家俵孝太郎氏は、週間サンケイの8.23日号で次のように述べている。
 「どのように犯情歴然たる凶悪犯でも、有罪判決が確定するまでは無罪の推定のもとに名誉や人権を尊重するのが近代法の原則であり、たとえ現行犯であっても黙秘したり法の認める範囲内でフルに身を守るための対抗手段を採らせるのが近代社会の常識なのに、それが全く守られていないことである。田中や丸紅、全日空関係者らの有罪を誰も信じて疑わず、早くも人格の根源に関わる攻撃を加え、世論が想定する筋書き通りの自白をしないからといって非難し、弁護権の行使をさえとやかくいう始末である」。

 元内閣法制局長官・林修三氏は、正論10月号に「ロッキード疑獄の法律的研究」を寄稿し、次のように述べている。
 「これは捜査当局の問題ではないが、マスコミが逮捕された人々をその時から急に呼び捨てにするのは人権尊重上どんなものであろうか。一方で裁判が確定するまでは、みだりに人を犯罪者扱いしてはならないということが云われていることとの関係は、どう考えるべきであろうか。起訴された場合はともかく、逮捕だけで人をクロ扱いするのは、少なくとも、マスコミの態度としては行き過ぎではなかろうか」。

全日空ルート公判始まる】
 1.31日、全日空ルートの初公判も始まる。

東京国税局の暴走】

 3月、東京国税局が、角栄がロッキード社から賄賂5億円を受け取ったと認定し、その雑所得に対し本税約3億7500万円、過少申告加算税約1800万円の更正処分。角栄所有の長野県軽井沢町の「南が丘別荘」と角栄系企業・長鉄工業名義の軽井沢町の「三笠別荘」に担保設定している。

 角栄は、小石川税務署に異議申し立て。金脈事件以来、水面下で衝突を始めていた田中VS東京国税局の闘いが、再度表面化した。

(私論.私見)


 6.2日、児玉誉士夫の審理開始。

【岡原昌男が最高裁長官に就任】
 1977.8.26日、弁護士出身の藤林益三長官の後を受けて、第8代最高裁判所長官に就任。

 岡原昌男の概要履歴は次の通り。

 
1909.4.1 日、岩手県水沢市(現:奥州市)生まれ。仙台二中から旧制第二高等学校に入学。同高も2年で、東京大学法学部英法科に入学。在学中に司法試験に合格。20歳で司法官試補。検事として函館、浜松、千葉に赴任。戦前の公安検事のエリートコースを突き進んだ。司法省刑事課長、人事課長、会計課長を歴任。1954年、法務省刑事局長から千葉地方検察庁検事正に左遷。その後、東京高等検察庁次席検事。1960年 京都地方検察庁検事正に異例の5年間在籍。その後は札幌高等検察庁検事長、福岡高等検察庁検事長、大阪高等検察庁検事長と地方畑を歩まされる。この人事の背景には、当時の検察内部を二分した派閥抗争(戦前の思想検察を代表する塩野閥の系譜につながる岸本義広派、刑事検察の小原閥の系譜を継ぐ馬場義続派)により、岸本派に繋がる岡原が冷や飯を食わされたことによる。検事としては大阪高検検事長として退官する。1970.10.20日、大阪高等検察庁検事長の時、最高裁判所長官の石田和外から最高裁判所判事就任依頼の電話を受ける。石田は最高裁判所人事課長のときに岡原が司法省人事課長であったころから旧知の間柄であった。1970.10.28日、最高裁判所判事に就任。この時、「私は検察の利益代表ではありません」と述べる。1977.8.26日、弁護士出身の藤林益三長官の後を受けて、第8代最高裁判所長官に就任する。1979.4.2日、退官。後任の最高裁判所長官は裁判官出身の服部高顯。長官としての任期は1年7か月とショートリリーフであったが、ロッキード事件の嘱託尋問調書をめぐり重要な役割を果たした。

 この時代、新左翼系裁判での弁護士の出廷拒否に対し、「弁護士の中には相当無茶なのがいて裁判所の努力にも限界がある。『弁護士抜き裁判』の法案が必要」、「弁護を受ける権利を逆手に取られては、いつまでも裁判が進まない。法廷で問題を起こす弁護士はバッサリやればいい」と発言し物議を醸している。尊属殺人罪(※1995年廃止)に対しては刑の選択の幅が狭く極端に重いとして違憲とした判例変更に同調。全逓東京中郵や東京都教組事件では判例をわずか数年で変更し、公務員の労働基本権の制約を再び正当化し、有罪とした全農林警職法事件判決で法廷意見に賛同。1票の最大格差が約5倍まで開いた1972年衆院選について「全体として違憲状態だが、事情判決により選挙を無効にはしない」との判決に対し「問題となった千葉1区のみが違憲で、選挙も無効」との反対意見。大阪空港騒音訴訟の上告審では、住民側の『夜間飛行差し止め』、『過去被害賠償』、『将来被害賠償』をほぼ全面的に認めた控訴審判決を見直すべく、いったん第一小法廷で控訴審追認の方向で結論が決まりかけていたものを長官権限で大法廷に回付。審理はそのまま服部次期長官に引き継がれた。また、すでに退官していた田中二郎氏の『最高裁2つの顔』論に対して「二つの顔があるわけがない。あったら精神分裂病だ。くやしまぎれに言っている。全農林警職法事件でも、私たちは十分に議論をつくしており、議論の積み重ねで多数意見を形成している。これが国民の常識と合致するかを探るのが私の仕事だ」と反論した。

 1979.4.29日、勲一等旭日大綬章受章。ロッキード事件第1審判決の際、田中角栄氏の有罪判決について、「判決確定までの無罪推定論は、一審判決の重みを理解しないもの」と述べ物議を醸した。1994.7.14日、逝去。

【1978(昭和53)年】

 6.21日、ロッキード裁判丸紅ルートで、元首相・田中角栄被告人の首相の犯罪を暴くとして立ち働いた東京地検特捜部副部長堀田力・氏が、法務省刑事局総務課長に栄転した。次のように紹介されている。


【大平内閣成立】
 1978.12.7日、大平内閣成立。

【「ダグラス・グラマン事件」発覚】(「ダグラス・グラマン事件」
 1978.12.25日、米国証券取引委員会(SEC)が、マクドネル・ダグラス社のF4EJ(ファントム戦闘機)売り込みに関わる対日不正支払いを告発し、ダグラス社が、戦闘機の売り込みに70年に1万5千ドルを日本政府当局者に支払ったと表明した。当時の古井法相は、「底の深さ、幅の広がりにおいてロッキード事件を超える」と明言している。

 これに関連して、1957(昭和32)年、国防会議決定の第1次防衛力整備計画により日本政府は、旧式化した自衛隊の主力戦闘機F186Fにかわる超音速戦闘機300機の機種選定に関して、当初米・ロッキードF104を圧倒的最有力候補としていた。だが、岸内閣成立後の58年4月、米・グラマンF11ー1Fの採用に急展開した。その裏面でグラマン社が納入1機につき1,000万円(総額30億円)のリベートが岸内閣の総選挙費用と総裁選対策費として支払われたのではないかという事件を中心とする一連の航空機売り込み疑惑も発覚した。
【「ダグラス・グラマン事件」その後の流れ】

 1979.1.9日、トーマス・P・チータム米グラマン社前副社長が、同社の早期警戒機(E2C)対日売り込みに関連して、疑惑の政治家名を明らかにして、岸、福田、松野、中曽根の4名を挙げた。捜査当局がダグラス・グラマン疑惑の解明に動くことになった。第二次ロッキード事件として大騒ぎとなった。

 1.9日、東京地検特捜部はこのダグラス・グラマン両社の航空機売りこみにからむ疑惑について法務省に米側資料の入手を要請、捜査を開始した。捜査の中心は、両社の販売代理店である日商岩井であったが、2月1日、グラマン疑惑の重要人物であり、東京地検に召還されていた日商岩井島田三敬(みつたか)常務が東京・赤坂のビルから飛び降り自殺し、捜査は難航する。 

 1.30日、通常国会再開。冒頭からダグラス・グラマン疑惑で荒れた。衆院ロッキード問題調査特別委員会が「航空機輸入調査特別委員会」と改称された。特別委員会は、ダグラス・グラマン疑惑はもちろん、民間機、航空機の売り込みにかかわる、すべての疑惑を調査することになった。野党は、岸・松野らの証人喚問を要求したが拒否した。日商岩井の植田三男社長、海部八郎副社長らが喚問となった。

2.9日から国会(衆院予算委員会)で疑惑解明の集中審議を開始、防衛庁に強力な影響力を持つ岸信介元首相と太いパイプで結ばれた日商岩井の植田三男社長・海部(かいふ)八郎副社長らと松野頼三元防衛庁長官を証人喚問した。

参院予算委で航空機疑惑集中審議最中の4月2日には海部が外為法違反容疑で特捜部に逮捕されるが、この時、伊藤栄樹法務省刑事局長(1925年2月名古屋市の生まれ。学徒出陣で海軍に入隊。戦後の司法修習生の1期生で、1949年に検事任官。東京地検特捜部検事、法務省人事課長、東京地検次席検事、法務省刑事局長、事務次官、東京高検検事長などを経て、1985年12月に検事総長に就任。1988年3月24日、病気のため任期を約2年残して退官した)は、「捜査の要諦(ようてい=肝心なところ)はすべからく、小さな悪をすくい取るだけでなく、巨悪を取り逃がさないことにある。もし、犯罪が上部にあれば徹底的に糾明し、これを逃さず、剔抉(てっけつ=あばき出すこと)しなければならない」と述べ、政界中枢への波及を示唆した(「巨悪を逃さず」はこの年の流行語なる)。

4.16日、検察側の総指揮官であった検事総長が定年で神谷尚男から辻辰三郎に交代した。神谷は「サヨナラ記者会見」で「検察の捜査力はまだまだ頼むに足る。私は事件途中で去るが、背後に検察の意気込みを感じながらやめるのはうれしい」との言葉を残した。

 ところが3週間後の検察首脳会議は突如、「政治家の刑事責任追及は、時効、職務権限のカベにはばまれ断念する」ことを確認し、5月15日には、海部ら日商岩井関係者2人を起訴しただけで「捜査終結」宣言が行われた。

結局、同社から総額5億円を受け取った松野元防衛庁長官(79年7月に議員辞職。10月の総選挙でも落選)が“灰色高官”として浮上しただけで、捜査中に明らかになったダグラス社と元首相のかかわりが示唆する内容が記されていた「海部メモ」に名前の出た岸信介元首相については、検察側の事情聴取もなく、また証人喚問すらなされず、捜査は79年5月に未解明のままで打ち切られた(刑事訴追を受けた政治家はゼロ)。


【1979(昭和54)年】

【1980(昭和55)年】

【伊藤宏が、第91回公判廷で角栄に5億円授受を主張】

 1980(昭和55)年1.30日、丸紅元専務伊藤宏が、第91回公判廷で角栄に5億円授受したと主張。今日、この時の伊藤氏の陳述の真実性が精査されねばならないだろう。


【田中弁護団の方針齟齬する】

 この当時、裁判をどういう方針で進めるかで、田中と弁護団の意見は噛み合わなかった。弁護団は、「金をもらったことは認めて、総理大臣の職務権限で争ったらどうか」の方針を掲げようとしていた。これに対して、田中は、5億円の授受を認めることは論外という立場を主張しぬいた。当人は身に覚えが無いということと、「俺が普通のものならまだいい。しかし、日本国の総理大臣が外国の企業から金を受け取っていたとなれば、これは国の恥じだ。後世まで歴史を汚すことになる。だから、難としても冤罪は晴らさなければいけない。日本国総理大臣の尊厳のためにも、俺は闘わなければならないんだ」。この田中の思いが弁護団になかなか伝わらなかった観がある。


【鈴木内閣成立】
 1980.7.17日、鈴木内閣成立。

【総合雑誌「現代の眼」11月号の奇怪】
 10月頃、総合雑誌「現代の眼」11月号で、「有罪か無罪か田中角栄の陰謀」という別冊特集が出されている。「文化人・知識人の100人に聞く」というアンケート記事が掲載され、ロッキード事件の第一審係争中であるにも関わらず、不用意な作為的キャンペーンが張られている。

 この時の有罪派、無罪派、態度保留派は次の通り。
有罪派 青地・秋山清・五十嵐良雄・猪瀬直樹・黒田良一・藤井治夫等々。
態度保留派 金達寿・田中小実昌・松本健一
無罪派 柳田邦夫・松浦総三・松田政男・平田武靖・戸川猪佐武・池田信一・岩崎武・高野孟・竹中労・須藤久。
(私論.私見)「この時の有罪派、無罪派、態度保留派」について
 「現代の眼(11月号)」の企画は貴重と思料する。政治家、評論家、学者の眼力が問われており、れんだいこには、有罪派=時局迎合派、態度保留派=日和見派、無罪派=一言居士のように見受けられる。仮に、近未来にロッキード事件の虚飾が剥げ角栄の無罪が判明したとしたら、有罪派の連中はどう弁明するのだろう。

【1981(昭和56)年】

【田原総一朗氏の田中角栄インタビュー】
 1981(昭和56)年2月号「文芸春秋」で、田原総一朗氏が田中角栄とのインタビュー記事を掲載している。角栄が首相を辞任して以来、6年2ヶ月ぶりの沈黙を破った肉声を伝えている。

【榎本秘書の妻の「ハチのひと刺し」発言」】
 1981(昭和56).4.8日、丸紅ルート第126回公判が開かれ、弁護人側が「榎本アリバイ」による反証開始。これに対して、10.28日、丸紅ルート第146回公判で、検察側は、榎本被告の前夫人榎本美恵子を検察側証人として出廷させ、「ハチのひと刺し」発言で物議を呼んだ。

榎本美恵子氏は、概要「ロッキード事件発覚直後の1976.2.10日過ぎ、田中邸からの帰りの車の中で、榎本は私にカネを受け取ったことを認めた」、その為、2.16日に首相秘書官当時の日程表などを逮捕に備えて自ら償却したことを証言し、この証言が田中側の反証の流れを覆す大きな役割を果たした。

 榎本夫人は、その日の夜の記者会見で、「ハチは一度刺したら死ぬと云われておりますが、同じ気持ちです」と語った。11.4日、記者会見し、「妥協の無い女ということで社会の片隅に追いやられる覚悟でいましたが、皆様の暖かいご支援をいただいております」と述べている。

 11.5日、児玉ルート東京地裁判決、小佐野賢治に懲役1年(控訴)。


【1982(昭和57)年】

【「全日空ルート一審判決」】
 1982(昭和57).1.26日、全日空ルート東京地裁一審判決。若狭氏他全日空幹部全員に有罪判決(若狭得冶/懲役3年・執行猶予5年(控訴)、渡辺尚次/懲役1年2か月・執行猶予3年(有罪確定))。

 6.8日、全日空ルート東京地裁判決。橋本登美三郎、佐藤孝行にも有罪判決(橋本登美三郎/懲役2年6か月・執行猶予3年・追徴金500万(控訴)、佐藤孝行/懲役2年・執行猶予3年・追徴金200万円(控訴))。

 1982.10.6日、毎日新聞が、田中新金脈を報道。


【ポスト鈴木談義】
 鈴木善幸が総理の座を降りた後の角栄と早坂秘書の「ポスト鈴木談義」が遺されている。これを確認しておく。(「田中角栄という生き方」134p)
早坂 次は河本敏夫を推すんですか。
角栄 いや。推さない。
早坂 三木の仲間だからですか。
角栄 いや違う。まだ知られていないが、河本の経営する三光汽船は倒産する。自分の会社を潰す男には日本の経営は任せられない。
 その通り、後に三光汽船は倒産することになる。
早坂 では中曽根ですか。中曽根はどうでせう。
角栄 なぜだ。
早坂 中曽根は夜中に何をするか分からない、と昔、河野一郎から聞いたことがあります。信用できないと。
 その話を聞いた角栄は笑顔になったが、急に怖い表情に変わった。

【中曽根内閣成立】

 1982.11.25日、自民党総裁選挙が行われ、田中派の支援を取り付けた中曽根が圧勝。1982.11.27日、中曽根内閣成立。この時、マスコミは「田中曽根内閣」と揶揄している。


【1983(昭和58)年】

【中川一郎氏が不審死】
 1983.1.9日、自民党総裁選挙に敗れた中川一郎氏が札幌のホテルで首吊り不審死している。自殺と報道された。

【野党が角栄に対し議員辞職勧告決議】
 1.26日、全野党が、ロッキード事件裁判における田中角栄被告に対する論告求刑を契機として、共同で議員辞職勧告決議を提出した。

 2.25日、衆議員議院運営委員会に参考人として自民党推薦の松本正雄弁護士(元最高裁判所判事)、野党推薦の星野安三郎(立正大学教授、憲法専攻)が呼ばれ意見を述べている。松本氏は、議員辞職勧告決議に反対する立場から論告、求刑段階での犯罪人扱いに疑問を述べた。星野氏は、議員辞職勧告決議に賛成する立場から政治的道義的責任を追及する者であるから問題ないとした。

【検察の論告求刑為される】
 1983(昭和58).8.26日、検察官が論告求刑を行った。田中に対して懲役5年・5億円追徴、榎本に対して懲役1年であった。

【「労組の御用提灯」の奇怪さ】
 その当夜、総評は組合員を動員して検察応援・論告支持・田中有罪のちょうちん行列を都心で行い、目白の田中邸前で気勢を挙げている。野党第一党社会党委員長が自ら「田中角栄御用だ」とアジっている。かくて、角栄批判の為なら本来なら有り得ようの無い「御用」などというお上権力丸出しの字句を使って恥じない総評組合員の痴態が繰り広げられた。マスコミも又この御用提灯デモを当然の如く報道し、只の一社も愚劣と報じていない。「これが進歩的なマスコミの編集局の内幕である」(岩崎定夢「角さんの功績、真の実力この魅力」。

 
わが国の政治史上右翼から全野党、左翼まで、裁判所と検察が意思一致させ、これにマスコミが「田中有罪」を更に煽りに煽るという奇妙な構図の第一ページが刻まれた。労組の御用ちょうちん行列も常識的には考えようが無いが、事実として進行した。過去労組は御用されたことはあっても、したことはない。その労組がこの当時御用ちょうちんを振り回している奇怪さがここにある。誰が入れ知恵したかが精査されねばならない。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第26弾である。

【狂気の角栄包囲網】
 この当時、角栄は、「カラスの鳴かない日はあっても、田中の悪口が書かれない日はない」という日々が続いていくことになった。「俺は今、おろしガネでおろされているような毎日だ」と述べている。

 こうした雰囲気に対して、井上正治氏は、著書「田中角栄は無罪である」で次のように述べている。
 「検察官は言うまでも無いが、こうした法務行政の最高の担当者、そして裁判官まで、あらゆる司法官僚が一体となってマスコミの煽りだした嵐の中に巻き込まれて、田中事件に立ち向かってきている。こういうときに、司法の将来を憂えなくてはならないと考えるのは、ただ私の過ぎた思い入れからだけだろうか」(66P)
 「仮に、田中が金権政治家の象徴であり、その権力をほしいままにして、キングメーカーとして現在厳然と政界に君臨していようが、それ以上に、狂わんばかりのマスコミの激しい煽動に、不幸にして冷静にそれと一線を画すことができなくなり、その嵐に巻き込まれてしまったかとさえ案じられる『司法権力』、その現実を目の前にした時には、今こそまじめに、マスコミ裁判に抗して田中問題を考えてみようとすることは、む歴史の進展に反するものではないと確信している。けだし、そこに黒い『権力』というものを見るからである。田中角栄は無罪であるという結論を持った場合には、なおさらのことである」(68P)。

【朝日新聞の事前報道の奇怪さ】
 奇怪なことに、裁判所の判決に一日先行して朝日新聞の10.11日付け朝刊は「田中有罪の記事を載せている」との由である。同記事内容を知りたいが手元にない。いずれにせよ、同社は、続行中の裁判について、言論界の嗜みを破って、裁判所の判決以前に、「自前の事前判決」を発表したことになる。

 田中事件の本質とロッキード事件の真相は、次のように批判している。けだし正論であろう。
 「新聞に代表されるマスコミがいかに権力化しようとも、マスコミの役割は情報の伝達であって、裁判所の代理機関ではない。そのマスコミが裁判所の決定に先立って判決の断定を行うなどは言語道断であり、社会良俗に反逆する行為である」。
 「正真正銘、田中元首相の有罪は確定した訳ではなく、上級審における無罪の確率は充分高い。田中所懐もいうごとく、六年半におよぶマスコミの田中いじめは壮絶を極めた。とくに朝日新聞の田中報道は、調査報道の手段を駆使して田中いじめを敢行し、社会悪のすべてを田中元首相に転嫁してやまなかった。調査報道の行き着くところは、報道される者への私刑である。二十世紀の現代マスコミが自身の中にもつ魔女的サディズムを駆って特定人物を私刑にかけるあり様は、結果 において自身ががマゾヒズムに堕ちることを意味している」。

【第一審判決で、有罪実刑判決下される】
 10.12日、最初の公判から6年後、東京地裁のロッキード事件丸紅ルート第一審有罪実刑判決が下された。主文と要旨のみ下され、要旨文中にはところどころ「略」とされていた。且つ正文は添付されていなかった。

 田中元首相は、検察側の主張どおりに受託収賄罪などで「懲役4年、追徴金5億円」の実刑判決、榎本も有罪「懲役1年 執行猶予3年」とされた。
贈賄側は丸紅社長の檜山広が懲役2年6ヶ月、伊藤宏専務が懲役2年、大久保利春専務が懲役2年・執行猶予4年。田中、榎本、檜山、伊藤、大久保の全員が控訴した。田中は直ちに保釈の手続きをとった。

 岡田光了(みつのり)裁判長の判決文は次のように述べている。
 「総理大臣の職務権限の公正さに対する国民の信頼を甚だしく失墜させ、社会に及ぼした病理的影響の大きさははかりしれない。我が国航空行政を直接、間接に利権化し、最高の非難をまさに直接蒙らなければならない。しかしこの事件が丸紅側からの申し出で発生、田中は国政で数々の業績を挙げた事実は否定できない」、概要「よって、検察側の懲役5年の求刑を斥け、4年を妥当とする」。

 官邸の弁はこうであった。中曽根首相「行政府の長として裁判所の判決について意見を述べることは差し控えたい」。後藤田官房長官「裁判は厳正厳粛に受け止めなければならない」。
 新聞各紙はこぞって、「暴かれた政治家の虚構」などと何面も使って報じ、いわゆる有識者の見解も載せられ、例外なく求刑の軽さに憤る論調であった。

【元最高裁長官藤林益三、岡原昌男氏のコメント】
 この一審有罪判決直後の15日、毎日新聞は、「藤林益三氏の政治浄化の提言」と題したインタビュー記事を載せている(聞き手は白根邦男社会部長)。続いて同21日、朝日新聞が、元最高裁長官にして最高裁不起訴宣明書に関わった藤林益三、岡原昌男氏のコメントを載せ、概要「一審の重みを知れ。居座りは司法軽視。逆転有罪は有り得まい。国会に自浄作用を求める。元最高裁長官が『田中』批判」と見出しに大書している。

 
両名は、次のように発言していた。
 概要「逆転無罪は100%有り得ない。一審有罪判決は重みのあるもので、二審以降の判決は事実審ではなく、一審を審査するために有るのであって、一審が有罪と出た以上、三審の確定判決までは無罪の推定でいくべきだというのは誤りである」。

 元OBによる変調な論旨による露骨なオーバーコミットメントであった。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第27弾である。ちなみに、上智大学の渡部昇一氏が手厳しく批判している。
(私論.私見) 「元最高裁長官藤林益三、岡原昌男氏のコメント」について
 秦野法務大臣は、月刊誌「文芸春秋」12月号に寄稿し、角栄の人権擁護の観点から国連の人権宣言の趣旨を援用して、「第一審判決の際の藤林、岡原コメント」を批判した。これに対し、藤林、岡原両氏は、秦野発言に対し「法律のシロウトの云うこと」と反論した。思うに、「第一審判決の際の藤林、岡原コメント」は徹底的に批判されねばならない。しかし、当時のマスコミからの批判は出されなかった。

 
秦野章・氏は「何が権力か」の中で次のように記している。
 「司法権の独立は尊いものだ。しかし、この独立というのは厳しい問題である。そのメンバーに自立の精神を厳しく要求する。それだけに裁判官は自重、自戒しなければならない。それなのに、まだ進行中の公判に関して、元最高裁長官だった人が、もう有罪は確定したようなものだなどと軽々しく言う神経が、私にはどうしても理解できない。これから控訴審でその事件を担当しようとする後輩裁判官の手足を縛るようなものだ。自主とか自立などに伴うべき厳しさが少しも感じられないのである」。

 正論だろう。れんだいこは「司法人の自己否定の極致発言」と評する。

 なお、同年12.2日号の朝日ジャーナルで、元札幌高裁長官の横川俊雄氏は次のように述べている。
 「(一審判決が出ただけで)岡原氏が概要『逆転無罪となるケースはほとんどなく、岡田判決は、審理を十分に尽くしており、請託、5億円授受の事実認定、職務権限についての解釈も完璧・覆ることは法律家の誰が見ても100%有り得まい』と言っているのは、元最高裁長官という肩書きから見て、明らかに行き過ぎである」。

 2005.7.2日、2006.3.19日再編集 れんだいこ拝

角栄の激怒

 角栄は目白の自宅に帰り、家の子郎党70人を前に、次のように語って、判決に激怒した様子を伝えている。

 「一審判決は、私にとって残念な結果だが、この事実は厳粛に受け止めている。私は真実の探求を願っており、これらは控訴審で主張し、判断を求めていく」。
 「風雪十年と云うが、私はそういう意味では7年だ。私は自信を持って今日の判決を聞いていた。本当だ。しかし、デタラメな判決だ。そんなに簡単なことではないんだ。あんなこと(判決)をやれば国会議員は全部、有罪だ」。

 「判決では、嘱託尋問で聞いたコーチャンの証言ばかりが取り上げられている。こんな馬鹿なことがあったら、誰もがみんな犯人にされてしまう。最高裁が嘱託尋問などという間違ったものを認め、法曹界を曲がった方向に持っていってしまったんだ」。

 「皆には迷惑をかけて済まなかった。しかしこれは間違いなく仕掛けられた罠だ。裁判の手続きや検察の言い分は、この国では筋の通らぬことばかりだ。だからこれからの裁判では必ず勝つ。推論で人に罪を被せるようなことは絶対に許さん」(石原慎太郎「天才」155P)。
 「この裁判には日本国総理大臣の尊厳もかかっている。冤罪を晴らせなかったら、俺は死んでも死にきれない。誰がなんといってもよい。百年戦争になっても俺は闘う」と述べている(佐藤昭子伝)。

 この日の夕刻、田中の秘書である早坂茂三が「今後とも不退転の決意で闘い抜く」とする「田中所感」を読み上げた。

 概要「本日の東京地裁判決は極めて遺憾である。違法な行為がなかったことを裁判所の法廷を通じて、証明することが厳粛な国民の信託を受けている者としての義務である。私は無罪の主張を貫く為に直ちに控訴した。遠からず、上級審で身の潔白が証明されることを確信している。私は総理大臣の職にあったものとして、その名誉と権威を守り抜くために、今後とも不退転の決意で闘い抜く。私は生ある限り、国民の支持と理解のある限り、国会議員としての職務遂行に、この後も微力を尽くしたい。私は根拠のない憶測や無責任な評論によって真実の主張を阻もうとする風潮を憂える。わが国の民主主義を護り、再び政治の暗黒を招かないためにも、一歩も引くことなく前進を続けるつもりである」。

 角栄は、三木・中曽根らの党内からの辞職勧告を拒否した。しかし、その後の流れは、両名控訴→東京高裁'87年7月29日控訴棄却→上告→1993.12.17日、田中死亡により公訴棄却となる。


【中曽根首相が田中宛親書を差し出し、議員辞職を要求する】
 当夜、中曽根首相の田中宛親書が上和田義彦秘書官を通じて佐藤昭子まで届けられている。議員辞職を要望する内容であった。これに対して、佐藤昭子は次のように答えている。
 「この手紙は田中に見せません。だって田中は、ありもしない事件、不当な裁判と命がけで戦って無実を勝ち取ろうとしています。不当な裁判で無茶苦茶な判決が出たからといって、はいそうですかと引き下がる必要は全くないではないですか」。

【マスコミ各社の有罪喧騒協奏曲考】
 10.12日、ロッキード事件の丸紅ルートで受託収賄罪などに問われた元内閣総理大臣の田中角栄の第一審判決公判のこの日、NHKや民放各局は午前中に同公判の報道特別番組を放送。田中に実刑判決が言い渡された後、午後の民放各局ワイドショーは田中公判関連の話題を中心にした内容となり、夕方から夜にかけても定時ニュースの放送時間拡大や報道特別番組などを編成した。前代未聞の「総理の犯罪」に判決が言い渡された日の、夕方以降の各局の対応は次の通り。

 NHK総合「ニュースセンター9時」は放送時間を1時間繰り上げ、「ニュースセンター特集」(20:00〜22:00)として田中公判関連のニュースを中心に伝えた。このため、21時40分からの銀河テレビ小説「青春前後不覚」は20分繰り下げて22時から放送された。
 日本テレビ系は「NNN JUST NEWS」を1時間繰り上げて、「JUST NEWSスペシャル・総理の犯罪に断!田中被告徹底追跡」を放送。また「11PM」枠で「11PM報道スペシャル どうなる田中権力・判決その衝撃と波紋」が放送された。
 TBS系は「JNNニュースコープ」の放送時間を18時からの2時間枠に拡大して「ニュースコープスペシャル特集・田中判決」が放送された。
 フジテレビ系は、23時から「FNN報道特別番組 どうなる田中支配!衝撃ドキュメント&激突討論」が放送された。
 テレビ朝日系は「ANNニュースレーダー」の放送時間を1時間繰上げ、「ロッキード特集・田中元首相に判決」が放送され、23時に「報道スペシャル・田中角栄実刑4年の衝撃波」が放送された。
 「毎日ニュース」然り。

(私論.私見) マスコミ各社のマスコミ各社の有罪喧騒協奏曲考

 マスコミ各社が田中角栄の第一審判決公判を「放送時間を1時間繰り上げ」大きく報じたことは良い。良くないのは、各社一斉に角栄有罪判決礼賛報道に終始していたことである。「毎日ニュース」では、前首相・田中角栄は既に「田中」と呼び捨てで犯罪人扱いされていた。こういうのは報道の自由とは云わない。見えてくるのは操作されたマスコミの生態である。ただの一社でも良い、贈収賄を頑強に否定する角栄の側からの問題点指摘が欲しいところであった。このことを指摘する評論氏がいないのは寂しい限りである。

【第一審有罪実刑判決考】

 「田中事件の本質とロッキード事件の真相」は次のように語っている。

 「法律の定めるところにより、東京地方裁判所は、ロッキード事件丸紅ルートの公判を、52.1.27日に開始した。検察が裁判所に提出した資料は、前掲した(警視庁を排除した独創―れんだいこ注)捜査によって得たもので、外部の闖入を一切拒否して作りあげた資料だった。ロッキード事件捜査に関し検察側が取った頑なな姿勢は、関係者にとっていまでも深い謎である。

 検察のこのような姿勢は、後日、ロッキード事件のアメリカFBI謀略説、日中親密化を恐れるソ連国家保安委員会KGBの謀略説、果 ては経済で世界を企むユダヤ資本の謀略説まで取沙汰される原因となった。外国の謀略説はどこまでが真で、どこが偽であるか確かめる手だてはないが、ロッキード事件についてその背後に『巨大な力』があったことは否定できない。

 初公判開始から七年、実に百九十回の公判を重ねて、百九十一回目の判決の日となった。10・12判決は、衆知の通り被告全員有罪の宣告だった。総理の犯罪を裁くとして喧伝されたこの日の判決は、裁判史上消し去ることのできない汚点を残した。判決の法律的解釈は措くとして、判決の意味するところは、正に中世の魔女裁判を思わせるもので、そこには法律の公正性、司法の独立性を窮わせる要因は一点たりとも認められない。

 この判決がいかに欺瞞に満ちたものであったかを証すものとして、判決後に記者会見した検事総長の言葉から読み取ることができる。検察側の勝利宣言であった当日の発言は、検察捜査、公判維持全般 が、『国民の強い支持と支援によって行なわれた』に貫かれていた。この言葉は根底において間違っている。少くとも法治国家の法運用は、法律に従わなければならない。わが国の法体系は三権分立で、司法に対する立法、行政の介入は許されていない。検察の立場および裁判も、この法体系から見れば完全に独立した性格をもち、いかなる勢力、権力とも関係してはならない筈のものである。しかるに、検事総長の発言は、明確に第三勢力、すなわち『国民』が関与したことを明らかにしている。

 では検事総長に問いたい。若し、国民一般が無関心が、反対かの場合、貴方は捜査、公判維持をどのようにしてやるのか、と。戦後多くの冤罪事件が法廷史を汚した。ある事件で被告人が裁かれた場合、この裁判が世間の注目を浴びず、また関心を呼ぶものでなかったから波は有罪と断定された。しかし再審裁判は、世間の注目するところとなり、『国民が彼を支持』したから無罪にしたとでも弁解するであろうか。司法の活動は、警察、検察、裁判の全過程で完全に独立したものでなければならない。 捜査、公判が公正であればあるほど、国民の支持も支援も必要としない。裁判の目的は「真実の発見と公正な審理」に尽きる。

 当初から検察による不当な捜査と、不公平な公判運用に振り回されたロッキード事件は、裁判においても同じ扱いを受け、参考人の証言、証拠品の採否についても、検察側の圧倒的優位 のうちに進められた。この不公平な公判運用は、金銭授受に関する証言と証拠物件真贋の鑑定、さらにアメリカから届けられた「嘱託尋問調書」の証拠採用決定に見ることができる。

 二・三の法律的解釈は、次章に譲るとして、10・12有罪判決は、起訴時点の疑惑をそのまま受け継いだ形で進められ、ロッキード事件そのものがもつ多くの疑問、疑惑を一切解明しないまま判決にいたっている。判決直後、法相の経験がある古井喜実氏は、『この裁判は間違っている』と明言し、検察の偏見と独断による公判維持を批難した。検察のいう国民の支持は、同時に、検察の独断とファッショを示す言葉である。果 してこの判決に全面的な支持を与えたのは、全国民であっただろうか。検察の不可思議な捜査、裁判所の検察寄り公判運営に疑問をもち、その結果として判決に疑念を抱いた者は、検察のいう『国民』の中に含まれていないのだろうか。

 ロッキード事件の10・12判決の背景には、いろいろな力が働いていることは前にも述べた。それが故に、ロッキード事件判決はあのような道理に反したものとなり、『無茶苦茶判決』と批判されるに至ったといえる。国民支持による国民寄りの『判決』は、人民裁判の道理である。検察総長の発言、司法関係者の発言、少なくとも、ロッキード事件裁判が人民裁判であったことを裏付けている。

 民主主義の原点は、国民が『主』であることにある。だが、いくら主であっても、法律という厳粛な世界に、国民が世論という武器を携えて土足のまま入り込むことは許されない。判決後に発表された田中『所感』は、この判決は『政治』暗黒を招く』と述べている。田中元首相に限らず、10・12判決をそのまま鵜呑みにすることは、政治はもちろんのこと、社会全般 が暗黒化するかも知れない危険を大いにはらんでいる、10・12判決は、法のありかたを改めて国民に問いかける判決であった」。


【第一審有罪実刑判決の正文不在事件】
 俵孝太郎氏の「田中裁判ーもう一つの視点」は、「田中判決と奇怪な官僚の常識」(1984.4.5.6月号「時評」)で、この時の判決文に正文、正本が付されていなかった非を告発している。それによれば、主文で「懲役4年、追徴金5億円」判決が下され、判決理由は付されたものの、その判決の正文、正本が発表されたのは判決後百数十日以上経過した翌年の1984.2.23日であった。

 正文は、660ページ、56万字の長大文になっていたが、文章が確定していたなら長くて1週間以内にワープロ文書化でき、20日以内に印刷製本できるはずであるが、遅れた理由には「判決が先、論拠が後」という逆立ちがあったのではないかと推定される。

 俵氏は、元首相を裁く判決がこういう杜撰のままにされたことに対して、次のように批判している。
 概要「これ自体、常識に照らしても法の精神に照らしても不見識極まることである。ロッキード事件について云えば、全日空ルートも、児玉・小佐野ルートも、判決の正文の出来上がったのは、判決公判の4,5ヶ月後であったと云う。だから、丸紅ルートも『判決文無しの判決』でいいというのが判検事の言い分だろうが、他で常識外れのことをやっているからここでも常識を外れていいというのは通らない。こういう大事件であれば、初めから一点の手落ちも手抜きも無い、完璧な遣り方をとるべきであり、最初にボタンを掛け間違えている以上、最後のボタンまでいい加減で良いということには、ならないのである」。
 「こうした田中判決をめぐる奇怪な事実が、マスコミには容易に伝えられなかった。私自身は1月初めにことのいきさつを知り、問題だと感じ、かつ講演などでとりあげてきた。会場での反応は、すべて、びっくりした、奇怪だ、というものだった。当然の事で、マスコミに広くとりあげる必要があろうと思ったが、そのうち文芸春秋3月号で、秦野前法相が、このことをとりあげた。朝日新聞やサンケイ新聞が、秦野氏が奇怪なこと、不思議なこととしてとりあげた角度とは別に、判検事の『常識』に沿った、判決正文の作成遅れを弁護するかのような記事を載せたのは、その後である。

 そのこと自体おかしいのに、新聞として、普通の生活者なら誰でも奇怪に思うことを奇怪と思わず、当局の代弁者として、あたかも、文芸春秋誌上の秦野前法相の呈した疑問、批判に対して弁明するような記事を載せているのは、全くおかしい。当局と新聞との癒着の例が他に無い訳ではないが、裁判という公権力の行使の典型のようなものについて、常識に立つ視点を忘れ、非常識の極みである官僚的しきたりを擁護するというのは、困ったことというほかない。その困ったことが山のように行われているのが、『田中裁判』の報道である」。

【第一審有罪実刑判決後の流れ】

【田中派内に動揺走る】
 一審判決を廻って、田中派内は割れた。「オヤジ問題ありだ」、「俺達何のために頑張っていたのか分からなくなった」と不信感を露に肩を落とすグループが大勢を占めた。

田中の議員辞職勧告決議案が出され紛糾する。共産党が異常にハッスルする
 一審判決後、国会は田中の議員辞職勧告決議案を廻って紛糾した。特に共産党の追撃が尋常でなく、後のダグラス・グラマン事件の際の追及と比較して見ても際立って激しいものとなった。ここにも「闇」がある、と私は窺う。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第28弾である。

判例事報の「ロッキード裁判の法的問題点」連載が打ち切られる奇怪さ
 判例事報で、中央大学法学部の橋本公亘名誉教授が、「ロッキード裁判の法的問題点」と題して連載をはじめたが、5回連載したところで打ち切っている。これを考究させない隠然とした圧力があったことが予想される。この闇も深い。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第29弾である。

【マスコミの角栄議員辞職キャンペーン】

 この頃、マスメディアはこぞって角栄の議員辞職を求めた。福田や三木元首相も「田中が辞職しないと自民党政権が維持できない」と主張した。


【「中曽根―角栄会談」が取り持たれ、中曽根首相が角栄の議員辞職を要求する】

 10.26日、中曽根首相、後藤田官房長官、藤波孝生官房副長官、二階堂進幹事長、細田吉蔵総務会長、田中六助政調会長など政府・与党の首脳が集まり、角栄の進退問題を協議。翌27日にも続行されるが結論が出ず、中曽根首相自身が角栄と直接会って話し合い、現状打開するのが至当ということになった。

 10.28日、ホテルオークラの902号室で、田中角栄、中曾根首相会談が行われ、中曽根は何とかして角栄の議員辞職を引き出そうと試みた。だが角栄は「私は無罪だ。この屈辱を何とか晴らしたい」と司法と戦う決意を示し、結局「自戒自重」の談話を発表することになった。公式には次のようにコメント発表されている。中曽根「田中君は現在極めて困難な状況に直面しており、かって総理・総裁としての職にあった田中君及びご家族の心中を思うと惻隠の情を禁じえない。今日、懇談において、一人の友人として出来得る限りの助言を行ったものです」。田中「時局重大の折から、私も自重自戒、国民各位の期待に応えるべく全力を尽して参ります」。

 11.1日中曽根は自民党総務懇談会で、「10.28会談」を報告し、「進退は自分で決めることだ。返事は聞く必要ない。『よく考えてくれよ』と善処を要望した」と報告している。


【秦野法相の元検事総長発言批判】

 11月中旬、秦野法相が月刊「文芸春秋」12月号に寄稿し、元検事総長発言を次のように批判している。

 「元検事総長が56年3月の退菅の時に、『国民の支持があつたからあそこまでこれた』と、記者会見で発言した。私は法務省内部で怒ったんだ。検察、裁判が世論によるなら、それは人民裁判じゃないか。(中略)ああいうことをぬけぬけと云うのは非常な危険性がある。それはもう検察と世論が一本になったら、これはおっかないですよ」。

【第37回衆議院議員総選挙

 11.28日、野党が中曽根内閣不信任案を提出。中曽根首相は直ちに衆議院を解散し、いわゆる「ロッキード選挙」に突入した。

 12.18日、第37回衆議院議員総選挙。自民党過半数の256議席割れで惨敗。280→250議席を割りこみ、追加公認9名を加えてやっと過半数を押さえた。

 新潟3区では田中の得票数は22万761票、前回の13万8558票の6割増し。新潟3区の総投票数の得票率46.6%、2位の村山達雄氏の4万8千票の5倍という前代未聞の得票数を獲得した。ほぼ二人に一人が田中と書いたことになる。現職の総理であった72.12月の総選挙での18万2681票をも上回った。この時作家の野坂昭如が立候補していたが、2万8045票で次点で落選している。「敗北宣言する気は全くありません。子供に招来を託す。そして必ず田中さんを倒します」と語っている。


【1984(昭和59)年】

【元最高裁長官・岡原昌男の政治主義的発言】
 1984.1.20日、元最高裁長官・岡原昌男氏が、日本長老会での講演で次のように述べている。
 「被告人で実刑判決を受けた者が、国会議員として依然残るということが道義上あり得てよいのか、という全国民の意思でこれを律しなければいけません」。
(私論.私見) 「元最高裁長官・岡原昌男の政治主義的発言」について
 れんだいこが評するまでも無く、識見の疑われる政治主義的発言が過ぎるであろう。岡原が何者か、調査を要する。

 1.25日、児玉誉士夫死亡につき公訴棄却。


渡部昇一教授自由法曹団の重鎮・石島弁護士、井上正治教授の第一審判決批判

 4月、文芸春秋社発行の「諸君!」5月号が、石島泰弁護士の48ページにわたる長大談話記事を掲載した。同誌は、既に2回にわたって渡部昇一氏が「角栄裁判は違憲合法だ」と論ずるなど、第一審の岡田判決批判の論陣を張っていた。渡部氏は、「法律のシロウトが何を云うか」式の逆批判していた藤林元最高裁長官に公開質問状を突きつけていた。しかし、藤林元最高裁長官はこれに応じなかった。この状況下に於いて、刑事弁護人としての第一人者にして自由法曹団の重鎮として定評のある石島弁護士が登場してきたことになる。石島氏は、第一審判決全文の公表を踏まえて、満を持してその論旨の全面的批判に踏み切った。「諸君!」6月号は、九州大学の元法学部長・井上正治氏が参戦した。しかし、「諸君!」7月号で立花隆の反論が為されると共に相殺されていった。


 4.27日、児玉ルート東京高裁判決で、小佐野賢治に懲役10か月・執行猶予3年(上告)。


【日本共産党(行動派)の「ロッキード裁判と田中角栄問題に関する我々の一考察!」】
 俵孝太郎氏が、「アカハタが批判した角栄裁判」(1984.11月号文芸春秋)に寄稿し、日本共産党(行動派)中央委員会書記局署名の9.20日付アカハタ再建62号の「ロッキード裁判と田中角栄問題に関する我々の一考察!」を論評している。アカハタは次のように述べている。
 「我が党は、左翼弁護士三氏の田中弁護団参加を是認し、田中裁判の過程で明らかになった各種の法律違反を徹底的に追求し、暴露し、権力裁判の本質を追及する方向での弁護活動を希望し、支援する」。
 「法律違反ー嘱託尋問調書の採用と免責処分、この完全な憲法違反と刑事訴訟法違反を容認放置すれば、これは必ず階級闘争の分野に拡大採用され、階級支配の有力な武器になることは確実である」。
 「仮に政治的色分けや犯罪の種類によって弁護活動が左右されるということが前例になれば、それはやがて『極左分子』弁護無用論へ、はては共産主義者は弁護の必要なしという暴論へ拡大し、これも又階級支配の有力な武器になるのである」。
 概要「素朴な感情論で行動する人々はその主観とは別に、客観的には自民党内の政治闘争の一方に加担していることに気づかねばならない。ブルジョア内部の争いに我々が巻き込まれ、福田赳夫・検察庁・最高裁の側について歩調をそろえることは誤りである」。

 11.1日、第2次中曽根改造内閣発足。首相・中曽根康弘、副総裁・二階堂進、幹事長・金丸信(田中派)、総務会長・宮澤喜一鈴木)、政調会長・藤尾正行(福田)、大蔵大臣に竹下、外務大臣に安倍が留任。


 11.25日、政治評論家の俵孝太郎うじが、「田中裁判ーもう一つの視点」を出版した。しかし、ロッキード事件糾弾派の波に消され、特段の影響力を持たなかった。


 12.3日、ロッキード事件全日空ルートの控訴審第1回公判が東京高裁刑事5部で開かれた。橋本登美三郎元運輸大臣(一審は懲役2.6ヶ月、執行猶予3年、追徴金500万円の有罪判決)は、一審と同様に請託、金銭授受の容疑全て否定した。佐藤孝行元運輸政務次官(一審は懲役2年、執行猶予3年、追徴金300万円の有罪判決)は、請託と「賄賂性の認識」の関係につき、「仮に受け取ったとしても政治献金かご祝儀としか思えなかった」と抗弁し、無罪を主張した。


【1985(昭和60)年】

【「創政会」発足】
 1985.2.7日、竹下を担ぐ「創政会」発足。

【角栄の最後の言葉「愚者は語る、賢者は聞く」】
 1985(昭和60)年2.26日、田中派内の閣僚経験者を集めた懇親会の席上、宴も終わり近くなった頃、角栄がすっくと立ち上がり、次のように述べた。
 「諸君、『愚者は語る、賢者は聞く』だ。俺は今日から賢者になる。何でも言いに来てくれ」。

【角栄、脳梗塞で倒れる】
 1985(昭和60)年2.27日、脳梗塞で倒れる。角栄の政界引退を伝えた日刊ゲンダイ紙は、見出しに「ざまをみろ」と書いた。

【1986(昭和61)年】

 5.14日、東京高裁が、佐藤孝行に対し、控訴棄却(上告取り下げ有罪確定)。


 5.16日、東京高裁が、橋本登美三郎に対し、控訴棄却(上告)。


 5.28日、東京高裁が、若狭得治に対し、控訴棄却(上告)。

 11.12日、小佐野賢治、死亡につき公訴棄却。

【1987(昭和62)年】

【第二審判決で、控訴棄却を言い渡される】

 1987(昭和62)年7.29日、丸紅ルートの東京高裁(裁判長・内藤文夫、陪席裁判官・前田一昭、本吉邦夫等)は、第二審判決で一審判決を支持し控訴棄却を言い渡した。事実認定、法律論もほぼ全面的に一審の判決の判断を踏襲していた。
 角栄は罪名「受託収賄、外為法違反」で「懲役4年、追徴金5億円」が追認された。
 元秘書官の榎本は罪名「外為法違反」で「懲役1年、執行猶予3年」。
 元丸紅社長・桧山は罪名「贈賄、偽証、外為法違反」で「懲役2年」。
 元丸紅専務・伊藤は罪名「贈賄、偽証、外為法違反」で「懲役2年」(一審は「懲役2年、執行猶予4年」)。上告せず有罪確定。
 元丸紅専務・大久保は罪名「贈賄、偽証、外為法違反」で「懲役2年、執行猶予4年」が追認された。


 伊藤以外の被告人(田中、榎本、桧山)が即刻、最高裁に即時上告した。

 判決の要旨は次の通り。嘱託尋問の是非については次のように述べている。

 「米国の裁判所に対し、国際司法共助に基づく証人尋問の嘱託をした手続きは適法である。検察官も公訴権行使の一態様として証人らに対し不起訴確約をした措置に違法はなく、右不起訴確約に基づき、自己負罪拒否特権を消滅させ、証言を強制して獲得された嘱託証人尋問証書は違法に収集された証拠に当らない。本件嘱託証人尋問証書が刑訴法321条1項3号書面に該当するとしてこれに証拠能力を認めた点に違法はない。二、本件贈収賄、外為法違反、議院証言法違反の各罪の成立を認めた原判決の事実認定に誤りはない。

 首相の職務権限認定については次のように述べている。

 運輸大臣は職務行為として定期航空運送会社事業者に対し、特定機種の航空機を選定購入するよう勘案する行政指導をなすことができる。内閣総理大臣は、内閣法6条所定の指揮監督権限の行使として昭和45年11月20日の閣議了解等に基づき運輸大臣に対し右行政指導をするよう指揮する職務権限を有する」。

 受託収賄罪認定については次のように述べている。
 「ロッキードL1011型機(トライスター)の全日空売り込みに不安を抱いていた丸紅の桧山、大久保、伊藤は47年8月、ロッキード社のコーチャン副会長(当時)と相談のうえ当時首相だった田中に対して全日空への同機売り込みについて協力を頼み、その報酬として5億円を贈与することを決めた。その上で、桧山は同月23日、東京・目白台の田中邸を訪問、田中に全日空がトライスターを選定、購入するよう運輸大臣を指揮するか、直接全日空に働きかけて欲しいと請託。その報酬としてロ社からの5億円を支払うことを約束し、田中は『よしゃ、よしゃ』とこれを承諾した。全日空がトライスター購入を決定した後の48年8月から49年3月までの間、伊藤がクラッタ―・ロ社銅鏡事務所代表(当時)から4回に分けて5億円を受け取り、田中の秘書榎本に渡した」(「人間・田中角栄に別れを告げに集まった人々」)。

 1987.11.6日、竹下内閣成立。


 1989.6.2日、宇野内閣成立。


 1989.8.9日、海部内閣成立。


 1990(平成2)年、2.13日、橋本登美三郎、死亡につき公訴棄却。


 1991(平成3).11.5日、宮沢内閣成立。


 12.17日、大久保利春、死亡につき公訴棄却。


 1992(平成4).9.18日、最高裁、若狭得治に対し上告棄却(有罪確定)。


 12月、竹下派(経世会)分裂。


 1993(平成5).3.6日、東京地検特捜部が、金丸を脱税の疑いで逮捕。


 1993.6.23日、自民党分裂、小沢一郎ら新生党を結成。


 1993.7月、総選挙に真紀子が新潟3区から立候補、見事なトップ当選を飾る。


 1993.8.9日、細川内閣成立。


【角栄逝去】

 1993(平成5).12.16日、角栄は、別件逮捕劇から17年、有罪か無罪かロッキード最高裁判決の日を見ることなく上告審に係属中のまま逝去した(享年**歳)。


【角栄葬儀】
 12.25日、青山葬儀所で、自民党・田中家合同の葬儀が行われ、5千名が参列、冥福を祈った。

 12.25日、田中家と自民党の合同葬が東京・南青山の青山葬儀場で真言宗の仏教方式で執り行われた。弔問の人々の群れは葬儀場の外でも数100メートル続く。葬儀委員長は河野自民党総裁。参列者は約5000人。新潟3区の支持団体「越山会」が、福島からは田中直紀後援会が、それぞれ貸し切りバスで乗り付けた。福田、中曽根、鈴木、宇野など歴代首相や、二階堂自民党元副総裁、鈴木東京都知事、田中派を割ってから目白の田中邸には入れなかった竹下元首相らも、葬儀に顔を見せた。土井、原田の衆参両院議長、村山社会党委員長ら与党の委員長、連立政権の現職閣僚のほとんど、それに相撲の北の海親方、デザイナーの森英恵なども参列した。数日前に沖縄の新政党結成式で「衆議院は常住戦場」と、政治改革が実現できなければ議院解散もと発言、その後静養を宣言した小沢新政党幹事は夫人を代理出席させた。

 弔辞は次の通り。

細川首相  「先生の政治家としての歩みには様々な評価があります。しかし、私は先生のような人間味あふれる政治家に薫陶を受けたことに深い感謝の念を禁じ得ません。全力で改革を推進することが先生のご遺志にこたえる道と確信し、決意を新たにします」。
河野総裁  「先生は金脈問題を追及され、ロッキード事件に絡む疑惑で逮捕されて以後、一転して苦難の道を余儀なくされました。指導者は国民から絶えず批判にさらされる宿命にあり、国民はさらに田中政治の持つ意味を吟味していくだろう」。
土井衆議院議長  「君は憲政の確立に尽力し、日中国交正常化の功績は偉大だった」。

 この日に先だつ私邸での密葬には300名、出身地の新潟県西山町の西山中学校体育館で行われた町葬にも1千名を超える人々が集まった。長女の田中真紀子は次のように挨拶した。

 「父は雷に迎えられて、帰ってまいりました。新幹線でわたしのひざの上に乗って来るとは思いませんでした。コメをひと粒でも粗末にするな。労働に対する感謝の念。そう父から教えられました。それが田中角栄の人間哲学です。それを育んだのは、西山町の風と水と光と大地です。父は故郷の土へ帰ってきました。雪も白、コメも白。父の魂はこの白によって清められ、こんど生まれ変わってくるときは、品質改良されて違った稲になるかなーと思います」。

 田中金脈を追及し続けた評論家の立花隆氏は次のように評している。
 「政治家・田中の功罪ということになれば、郷土の人にとっては功の方が大きかっただろうが、日本全体にとっては、かなり罪の方が大きかったと思う。日本の政治腐敗は田中時代にどうしようもなくひどくなった。地元には、公共事業をたくさんひっぱってきてくれるサンタクロースみたいな人にしかみえなかったろう。よその地域の人には地元政治家・田中の素顔がなかなか見えなかったように、地元の人には、悪い側面を含む田中の全体像がなかなか見えていかなかったのだろうと思う」。

【最高裁、本人死亡により「控訴棄却」を決定し、裁判終結】
 最高裁は、本人死亡により「控訴棄却」を決定し、裁判終結。つまり、確定判決はないまま公訴棄却となった。

最高裁が、榎本と桧山に上告棄却を言い渡す

 1995(平成7)年2.22日、最高裁は、榎本と桧山に上告棄却を言い渡す(平成7.2.22大法廷判決/昭和62年(あ)第1351号)。これにより有罪確定。

 奇妙なことに、この判決は、それまでさんざん証拠にしてきた事件当時のロッキード社コーチャン社長に対する嘱託尋問に関して、証拠能力を否定していた。ということは、「嘱託尋問問題」は角栄を葬るために援用された特殊法理論であったということを、角栄死去後初めて最高裁が認めたということになる。最高裁が一度認めたものを否定するということは重大な事態であり、本来であれば、このことだけで角栄有罪判決は破棄されるに値する。ところが、角栄に対しては「嘱託尋問手法が否定されてもなお有罪」という果実だけ残されることとなった。法とは、かくも政治主義的なものであることがここに判明する。これまで「嘱託尋問問題」に問題なしとしてきた学会・マスコミがこれに口を閉ざすことが許されないにもかかわらず、この検討が為された形跡がない。

 参考までに、刑事裁判での「毒樹の果実」理論について触れておく。これを角栄のロッキード裁判に当てはめると、「嘱託尋問調書という違法な手続きについて捜査が進められて、榎本や伊藤の調書が取られている。それは毒樹になった果実のようなもので、全て汚染されているから、証拠としては排除しなければならない筈である」ということになる。


 この時の判決は、こうして「嘱託尋問」の有効性を否認したことから、「嘱託尋問」から発生する受託収賄罪によって角栄を裁くことができず、代わりに援用されたのが「内閣総理大臣の(過剰)職務権限」論であった。ところが、この論も又杜撰な様が露呈している。判決文には、判決書に名を連ねた12名の判事全員が、単独あるいは連名の補足意見をつけているという異例になっている。つまり、職務権限論での統一的な考えが為されないままの「為にする法理論」を又もや駆使していることが明らかにされていることになる。これが我が国の最高の法規判断機関の実体であることを銘記しておく必要があろう。「ロッキード事件の際の上からの法破り」が以降の司法の権威を失墜させ、奈落方向に拍車をかけたのは疑いない史実である。





(私論.私見)